安土 イントロ of Historical Sight of Christianity

「信長には、そこが伴天連たちに便利であり適した場所であると思われたので、ただちにそれを与えることに決めた。オルガンティーノ師は、聖霊の祝日にその土地を深い喜びのうちに受理し、・・・きわめて気品のある豪華な(修道院)を建築さることを一同で決定し、キリシタン全員ができるだけこの事業を手助けすることを約束した。」 ルイス・フロイス「日本史」

戦国時代、宣教師たちの夢の結実

 1580(天正八)年の春、安土城下町の周囲に広がる湖岸の一部が埋め立てられて、織田信長よりイエズス会宣教師オルガンチーノに与えられた。信長は建築のために200クルザードの費用(1クルザードは当時の畳1枚分の価値らしい)と、様々な援助を与え、さらに安土城と同一の瓦の使用を許可した。こうしてその地に一階が茶室を備えた座敷、二階が宣教師たちの寝室と広間、三階が神学校という木造瓦葺三階建のセミナリオ(初等学校)が建築された。後に長崎西坂で殉教したパウロ三木(二十六聖人として列聖)、同地での元和大殉教において火刑とされたアントニオ三箇、また同じく西坂で穴吊刑にされたニコラオ福永などがここで学んだ。
 また巡察師ヴァリニャーノらは信長に招かれ、安土城で謁見している。信長は宣教師たちを庇護した。

 1582(天正十)年の本能寺の変に際してセミナリオは安土城、および城下町と同様掠奪された後、灰燼と帰した。宣教師、セミナリオ生徒は逃れ、後に大阪・高槻にセミナリオが再建されることとなる。

 現在は安土セミナリオの所在を明示するものは残っていないが、地名(大臼=ダイウス=神)と安土城と同一の瓦の出土の伝承をもとに安土「セミナリヨ址」が緑地として整備されており、敷地内にパウロ三木を顕彰する碑が建てられている。



<引用・参考文献>
高木一雄(2005)「関西のキリシタン殉教地をゆく」聖母の騎士社
松田・川崎訳「完訳 フロイス 日本史」中公文庫
関谷他(2008)「ペトロ岐部と187殉教者」ドン・ボスコ社

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