小石川 イントロ of Historical Sight of Christianity

 東京の住宅街のただ中に、かつて切支丹を尋問し、幽閉した牢屋敷があった。そしてその名残として残る「切支丹坂」の名前を手がかりに歴史をたずね歩く。

江戸時代、禁教令下の収容尋問施設

 1638(寛永十五)年、島原の乱が鎮圧された後にはキリシタン弾圧がいっそう進められた。その中心人物の一人が大目付であり宗門改役を兼務することになった井上筑後守政重であった。彼は転びキリシタンのようでキリスト教にも知識があり、キリシタンを改宗することを第一とした。
 その井上に与えられた小日向の下屋敷がいわゆる「切支丹屋敷」である。伝馬町牢屋敷で信仰を捨てたキリシタンや神父たちは井上の下屋敷に幽閉され、一応は身辺に必要なものをあてがわれて生き延びた。しかし後にこの屋敷がキリシタン収容施設(山屋敷)とされていった。

IMGP1666.JPG

 18世紀に入り新井白石とイタリア人宣教師ジョアン・バプチスタ・シドッチの対話が行われた(これにより「西洋紀聞」「采覧異言」が記された)後、シドッチが幽閉され、埋葬されたのもこの場所である。それ以降は宣教師の入国もなく、切支丹屋敷の存在理由もなくなり、1792(寛政四)年には廃された。

IMGP1677.JPG

 またこの切支丹屋敷に隣接した坂が「切支丹坂」と呼ばれたが、伝承に混乱があり、いくつかの坂に切支丹坂の名が残る。おそらく切支丹屋敷に上っていく坂がそうだったのであろう。またその坂に茗荷谷をはさんで接続する「庚申坂」にも切支丹坂の呼称が当てられたことがあった。

 現在は住宅地で当時を偲ぶものは何一つないが、近隣に東京都によって切支丹屋敷の記念碑が建てられている。


<引用・参考文献>
高木一雄(2002)「江戸キリシタン山屋敷」聖母の騎士社

ページの先頭へ