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ランナウェイウェディング・シンガーベイブ/都会へ行く
ワイルドシングスメリーに首ったけスネーク・アイズ
ファミリー・ゲーム/双子の天使ユー・ガット・メールパッチ・アダムス/トゥルー・ストーリー

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ランナウェイ

フランクリン(クリス・タッカー)はガソリンスタンドで働きながら、
地元住民を相手にスポーツ観戦やコンサートの水増しチケットを売りさばいているケチな詐欺師。
そんなフランクリンを、落ち目のTVレポーター、ジェームズ(チャーリー・シーン)が
犯罪をテーマに取材にやってくる。
しかしジェームズの目前でフランクリンは警察に逮捕、連行されしまい、
まともな取材が出来なかったジェームズは、とうとうクビを言い渡されてしまう。
刑務所に護送される車中、フランクリンが同じ手錠でつながれた相手は
ダイヤモンド密輸犯のヴィラード(ジェラルド・イズミエル)であった。
ヴィラードは、刑務所に向かう途中で大胆な脱走計画を企てていた。
計画通り、護送車はヴィラードの手下によって突然襲われ、警官や他の囚人たちは次々と射殺されてしまう。
ヴィラードと同じ手錠につながれていたフランクリンはかろうじて命拾いし、
そのまま彼と一緒に無理矢理ヘリに乗せられた。
一方警察はフランクリンとヴィラードを警官殺しと脱走の共犯者と睨んで指名手配し、
思わぬ濡れ衣を掛けられたフランクリンは、ジェームズに助けを求める。

『ラッシュアワー』の監督ブレット・ラトナーとクリス・タッカーのコンビで贈る、
スーパーアクション・ムービー。
とにかく、爆破しまくり、撃ちまくり、そこまでやるか?といった感じ。
丸腰で逃げる犯人をピストルを撃ちながら追いかける警官がいたり、
スタジアムにバズーカ砲を撃ちこんだり、もう滅茶苦茶です。
ストーリー的には全く面白くなかった『ラッシュアワー』よりは凝った展開で、
巻きこまれ型のストーリーは面白いと思いましたが、
ラストには意外性はなく、期待以上でも以下でもありませんでした。
どの作品を見ても、みんな同じ演技をしているクリス・タッカーに
完全に主役を奪われてしまったチャーリー・シーンが少し気の毒な感じがしました。
レベル3

クリス・タッカーは、これからもずっとあの芸風で行くのつもりなのでしょうか。

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ウェディング・シンガー

1985年、アメリカ郊外の町リッジフィールド。
ロビー(アダム・サンドラー)は、ウェディングパーティのステージに立つ“ウェディング・シンガー”。
名声や大金とは無縁だが、ロビーには持ち前の明るさとノリのいい歌、そしてユーモラスなトークで、
ウェディングパーティを華やかに盛り上げる才能があった。
ロビーは結婚パーティ会場で新人ウェイトレスのジュリア・サリバン(ドリュー・バリモア)と知り合い、
お互いにもうすぐ結婚する身だと知った二人は、たちまち意気投合した。
しかしロビーの結婚式の日、花嫁のリンダ(アンジェラ・フェザーストーン)は姿を見せなかった。
彼は花嫁に逃げられたのだ。
あまりのショックにロビーは抜け殻同然となり、その後に立ったウェディングパーティのステージでも、
ヤケを起こしてパーティをブチ壊してしまう始末だった。
そんなロビーがようやく落ち着きを取り戻した頃、
ジュリアから3ヶ月後に迫った式の準備を手伝って欲しいと頼まれる。
彼女の婚約者グレン(マシュー・グレイブ)は、ウォール街で働くリッチな証券マンで
多忙を理由に準備はジュリアにまかせっきりだったのだ。
ふたりで式の準備を始めたロビーとジュリアは、行動を共にするうち、
だんだん惹かれあっていることに気づく。
そんなある日、ロビーはグレンが浮気性のとんだ食わせ物だという事を知り・・・・。

1から10まで予想通りに展開する、ほのぼのタッチのラブ・ストーリー。
“アメリカで公開した時、大好きな人と観ると幸せになれるという噂があったことをご存知ですか?”と
宣伝で謳われている通り、カップルで観るには最適の映画かもしれません。
80年代の洋楽には当時私もハマっていたので、ボーイ・ジョージやマイケル・ジャクソンを
小バカにしているようなネタは面白かったし、懐かしい音楽も嬉しかったです。
でも残念ながら、私は主人公のロビーがどうしても好きになれず、
この作品にそれほど入り込むことが出来ませんでした。
その第一の理由は、主演のアダム・サンドラーが生理的に苦手なタイプであること。
・・・・というか、あの髪型が嫌い。(ごく個人的な好みの理由なので・・・・スミマセン)
だけど、映画の内容如何によっては、外観的好みなど忘れさせてくれるものです。
確かにロビーは徹底的にいい奴だし、私は“いい奴”が大好き。
それでも、私がロビーを好きになれなかった最大の理由は、彼の結婚式のシーンにありました。
花嫁に逃げられたと知ったロビーが、控え室の鏡を壊すシーンです。
感情の行き場がなくなった時、物を破壊することしか出来ないような人は私は嫌いです。
彼がいくら“いい奴”でも、その裏側にはそんな凶暴な人格が潜んでいるかと思うと
ゾッとしてしまうのです。
そのため、ロビーのことは少し冷めた目でしか見ることが出来ず、
彼とジュリアの恋を心から応援することは出来なかったのでした。
レベル3・・・・と言いたいところですが、
大好きだった80'sミュージックの効果と、ドリュー・バリモアの笑顔に+0.5で、
レベル3.5

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ベイブ/都会へ行く

牧羊犬コンテストで優勝したベイブと農夫ホゲット(ジェームズ・クロムウェル)。
牧羊豚として、世界中に知れ渡ったベイブとホゲットの元には、イベントの出演依頼が殺到してたが、
今まで通りの静かな生活を望むホゲットは、そんな誘いに見向きもしなかった。
ところがある日、井戸を修理中のホゲットがその中に転落してしまい、大怪我をする。
収入が途絶えた農場は、銀行に差し押さえられてしまった。
ホゲットの妻エズメ(マグダ・ズバンスキー)は、ベイブをイベントに出演させて
その出演料で借金を返済する決心をし、ベイブを都会に連れて行く。
ところが、空港でトラブルに巻き込まれたベイブとエズメはイベントに間に合わず、
その街に足止めを食らうことになる。
泊まる場所を探そうにも、都会にはブタが一緒に泊まれるホテルなどはなく、
ようやく探しあてたところは動物だらけの怪しいホテルだった。

アカデミー賞他、数々の映画賞を受賞した『ベイブ』の2作目。
物語は前作が終わった直後から始まります。
田舎のほのぼのとした雰囲気だった前作に対して、今回は舞台が都会になっただけあり、
当然ですが、かなり騒がしくなっています。
しかしそれだけが理由ではなく、今回の作品では前作とはかなり違うニュアンスのものを感じました。
まず、人間の出番が相当多くなっていること。
それは単に“都会”だからではなく、面白可笑しい人間を数々登場させ、
その人間の言動だけで笑いを取ろうとしているところが多分にあるのです。
特にエズメおばさんの絡みで笑わせようとしている部分が目立ち、
後半はドタバタのコメディと化していました。
結果、前作で数々の映画賞を受賞するほどまでに評価された部分は、
この2作目では全く影を潜めてしまったように思います。
そういう作品だと思って観ればそれなりに面白いでしょうが、
前作が好きだった人には不満が残るかもしれません。
レベル3

面白いと思ったのは、おサルの言動だけだったような気が・・・・。

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ワイルドシングス

真夏のフロリダ州エバーグレーズのブルー・ベイ。
富豪たちが優雅な暮らしを送るこの町で事件は起きた。
豪邸に母親サンドラ(テレサ・ラッセル)と二人で暮らす女子高生ケリー(デニス・リチャーズ)が、
進路指導教諭サム(マット・ディロン)からレイプされたと打ち明けたのだ。
サンドラは激怒し警察に訴え出るが、サムは取調べに対し、身に覚えがないと言う。
刑事レイ(ケビン・ベーコン)は、ケリーの供述が狂言であると睨むが、
同じ高校に通う不良少女スージー(ネーブ・キャンベル)もサムからレイプされたと告白し、
結果サムは逮捕され、教師を解雇されてしまう。
しかし、法廷で証言台に立ったスージーは意外な発言をし、裁判は思わぬ展開を見せる。

“数え切れないどんでん返しに、あなたはついてこられるか?”
これは配給会社のキャッチコピーです。
“数え切れない”ほどではありませんでしたが、しつこいくらいのどんでん返しの連続でした。
しかし、頭の中でどんでん返しがあると分かって観ているため、
次に何が起こるのかがある程度予想出来てしまうし、
こちらも構えて観ているため、何が起ころうが特に驚きも沸かないのです。
何の情報も入れずに観ていれば、それなりにどんでん返しに驚くことが出来たのかもしれません。
(あるいは、そのしつこさに激怒していたかもしれませんが)
オチは予想外だったので、それで救われたようなものですが、
ただよく考えてみれば、あのオチを持ってくるために、途中のしつこいどんでん返しが
本当に全て必要であったかどうかは疑問です。
映画のストーリーより私が衝撃を受けたのは、ケビン・ベーコンのシャワーあがりのシーンです。
いつも不自然にボカしてある、あの部分がボカしてなくて、しっかり見えてしまいました。
こんなにたくさんの映画を観ている私にとって、初めての出来事です。
『ブギーナイツ』では、あんなに重要なシーンで、なおかつ作り物であったにも関わらずボカしてあったのに・・・・。
不意打ちをくらった私は凍り付き、我に帰るのに数十秒かかりました。
レベル3

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メリーに首ったけ

1985年、サエない高校生テッド(ベン・スティラー)は、
みんなの憧れの的メリー(キャメロン・ディアス)に高校のプロム・パーティーに誘われる。
イジメから守ってやった知的障害のある少年ウォーレン(W・アール・ブラウン)が、メリーの弟だったからだ。
だがプロム当日、トイレの窓から偶然メリーの着替えを見てしまったテッドは
慌てて上げたジッパーに大事なモノを挟んでしまい、
絶叫の果てに警察や救急車まで駆けつける騒ぎを起こしてしまった。
そして、メリーとはそれきり会えぬまま、卒業の日を迎えてしまった哀れなテッドだった。
それから13年。
小説家志望で出版社に勤めるテッドは、今もメリーのことが忘れられないでいた。
友人ドム(クリス・エリオット)は、今はマイアミに住んでいるメリーを捜し出すようにテッドに勧め、
探偵としてヒーリー(マット・ディロン)という男を紹介する。
早速マイアミに飛んで、メリーを探し出したヒーリーだったが、あろうことかメリーに一目惚れ、
テッドに大嘘を報告してメリーを諦めさせ、自分が彼女に取り入ろうとしていた。
しかし、ふとしたことでヒーリーの嘘に気づいたテッドは、ドムと一緒にマイアミに向かい、
ついにメリーと再会を果たす。
ところが彼女を狙っていたのはヒーリーだけではなかった。
メリー友人の建築家タッカー(リー・エバンス)やメリーの元婚約者ブレッド(ブレット・ファーブル)、
はたまた謎の過去を持つドムまで加わり、5人のイカれた男たちがメリーの争奪戦を繰り広げる。

『Mr.ダマー』のファレリー兄弟が贈る、ドタバタお下劣コメディ。
『Mr.ダマー』の下品さには閉口してしまい、少しも笑えなかった私ですが、
この『メリーに首ったけ』には「いや〜ん」と言いながら笑ってしまいました。
この作品には、主にふたりの障害者とひとりの皮膚病患者が登場します。
コメディ作品に無意味に障害者を登場させ、それで笑いをとろうとするのは感心しませんが、
この作品では、彼らが障害者であることにはちゃんとしたストーリー上の理由があります。
余談になりますが、先日初めてアメリカに行って感じたことは、
身障者に対する理解の深さと対応の進み方、そして身障者自身の意識の違いでした。
(『まるこのフロリダ旅行記・準備版』参照)
これだけ進んだ考えを持ったアメリカでウケた作品のこと、
ここで描かれている身障者描写はギリギリでセーフであったのだと、私は解釈しました。
ところで、下ネタ満載のこの作品が特に女性にウケているのは、
主演のキャメロン・ディアスが嫌味なくお下劣ネタに参加しているからではないでしょうか。
もともと女性だって下ネタが嫌いではないはずなのに、普段はかわいコぶってるだけなんです。
だけど、超キュートなキャメロン・ディアスがサラリとそれをやっているものだから、
一緒になって笑ってもいいような気分になってしまうんですよね。
キャスティングの勝利と言ってもいいでしょう。
マット・ディロンのいかにも胡散臭い口ヒゲと、エロ笑いもいいですね〜。
レベル4

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スネーク・アイズ

アトランティック・シティでのボクシングの世界タイトル・マッチ。
スタジアムを埋め尽くした14,000人の観客の中に、刑事リック(ニコラス・ケイジ)がいた。
リックは正義感などのかけらも無い悪徳刑事。
刑事という立場を利用してはゴロツキから金を巻き上げ、この試合の勝敗の賭けにつぎ込んでいる。
そんなリックが、スタジアムで旧友のケビン(ゲイリー・シニーズ)と再会した。
ケビンは試合の観戦に来た国防長官の護衛の最高責任者としてやって来たのだったが、
そんな再会の喜びも束の間、試合中に事件は起こる。
ケビンがスタジアムに居た不審な赤毛の女に尋問するために席を外し、
チャンピォンのタイラーが相手のボクサーにノックアウトされた瞬間、国防長官が暗殺されたのだ。
パニック状態のスタジアムを封鎖し、14,000人の容疑者から犯人を探すべく捜査を始めるリックとケビン。
やがて、リックはこのボクシングの試合が“やらせ”であることに気づき、
すべての偶然が仕組まれたことであることを知る。

ニコラス刑事、濃すぎです。
『フェイス/オフ』でキレたテロリスト“キャスター”を演じた時も相当濃かったですが、
今回のリック役も、それに負けずとも劣らない濃い演技と、徹底的に趣味の悪い服装。
またまた女性ファンを減らしてしまいそうな予感がします。
・・・と余談はさておき、監督ブライアン・デ・パルマの演出力は大したもので、
ストーリーにぐんぐんと惹きつけられて行きました。
話題になっているオープニングの13分間の長回しの撮影をはじめ、
時間を交錯させたり、カメラをひとりの人物の視点に置き換えて撮影するなど、
前半、映像面での見所も多分にあり、後半の展開を充分に期待させます。
ところが、案外あっさりとその陰謀の全貌がはっきりしてしまい、そこからが面白くありません。
胡散臭い人間が、案の定事件の首謀者だったりして意外性も全く無いし、
その陰謀の内容も使い古されたようなもので、今ひとつ説得力に欠けています。
つまり、サスペンスとして楽しめるのは前半だけ。
それも、ブライアン・デ・パルマの映像テクニックによるもので、
元を返せばストーリーは最初から面白くないものでした。
ただ、この映画にはラストシーンに秘密が隠されているようです。
エンドクレジットが全て出終わった後に、スクリーンに映し出される“赤く光る物体”。
配給会社いわく、それが何か分からなければ、観ている方の負けなんだとか。
私は目を皿のようにして観ていましたが、それが何なのか分かりませんでした。負けです(笑)。
それが何なのか分かれば、それなりに面白い作品なのかもしれません。
レベル3

“赤く光る物体”が何か分かった人、メールで教えて下さい。

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ファミリー・ゲーム/双子の天使

カリフォルニアでぶどう園を経営している父親(デニス・クエイド)と暮らしている活発な娘ハリー(リンゼイ・ローアン)。
ロンドンで有名なデザイナーの母親(ナターシャ・リチャードソン)と暮らしているお嬢様アニー(リンゼイ・ローアン/二役)。
もうすぐ12歳になるふたりの少女が、偶然同じサマーキャンプに参加した。
性格は全く違うが容姿はそっくりなふたりに周りのみんなは驚き、本人たちはライバル意識をむき出しにする。
ところがある日、互いの誕生日が同じであることを知ったふたりは、
自分たちが物ごころつかぬうちに離婚した両親に、ひとりづつ引き取られた双子であることに気づく。
写真でしか見たことがない母に想いを馳せるハリー、そして父に会いたいと願うアニー。
そこで、ふたりはキャンプが終わったら入れ替わってそれぞれの家に帰り、
父そして母と束の間の時を過ごすことを思いつく。
それは、数日後に自分が本人ではないことを告白し、
自分たちを交換するために11年ぶりに両親を引き合わせようという企みも兼ねていた。
離婚後、互いに恋人も作らず再婚もしていない両親のこと、
ハリーとアニーは、もしかしたらそれをきっかけにふたりのヨリが戻るかもしれないと考えた。
8週間のキャンプ生活の中で、相手になり切るためにお互いの生活を叩き込んだハリーとアニーは、
キャンプが終わりとともに、入れ替わってそれぞれの家へと帰って行った。
両親は、久しぶりに会った娘がどこか変なことを気にするが、別人だとは気づく由もない。
しかし、娘の留守中に父親は恋人を作ってしまっていた。
彼は若くて美しいその恋人に夢中で、2週間後には結婚したいと言う。
ハリーに扮したアニーは焦り、ふたりの仲を引き裂こうと奔走するが・・・・。

『双子のロッテ』をモチーフに61年にディズニーが製作した映画『罠にかかったパパとママ』を、
同じくディズニーが最新の技術でもってリメイクした作品。
ファミリー向けのほのぼのとした作品ですが、なかなか面白かったです。
一人の少女がCGで同じ画面に双子として登場しているのに全く違和感はなく、
リンゼイ・ローアンの演技力と監督ナンシー・マイヤーズの演出力で
性格と育ちの違うふたりの少女のふたりを映し出しているのは見事。
入れ替わったあとも、“ハリーのふりをしているアニー”と“アニーのふりをしているハリー”というのが
観ている側には、はっきり分かるというのは凄いことです。
また、アメリカ英語を話すハリーと、イギリス英語を話すアニーの発音の違いまでも、
彼女はきっちり使い分けており、演技力が確かな彼女が主役だったからこそ、
この作品は、とても完成度が高いものになったように思います。
ファミリー向けコメディというジャンルでは、127分という少々長めの作品ですが、
主役の少女の演技力と、周りの大人たちのコミカルな演技で退屈することはありません。
アニーの家の執事とおじいちゃん、ハリーの家のお手伝いさんと父親の恋人など、
みんなそれぞれにキャラが立っています。
それに面白いのは、二人が別人であることに最初に気づくのが両親ではなく、他の人間であるということ。
これは自分のことに精一杯の両親が、いかに自分たちの娘をよく見ていないかということと同時に、
周りの人間の彼女たちに対する愛情の深さの象徴でしょう。
そんな周りの人間と彼女たちとのやりとりにホロリとさせられるシーンもありました。
父親の恋人が、実は財産狙いであったという下心の持ち主であることは、いかにもディズニーの悪役風。
そんな“敵”を、アニーとハリーが手を組んで撃退する様子は、お決まりですが楽しめます。
レベル4.5

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ユー・ガット・メール

亡くなった母親が残してくれた、小さな児童書の専門店を経営するキャスリーン(メグ・ライアン)。
そんな彼女の目下の楽しみは“Shopgirl”というハンドルネームを使い、
“NY152”というハンドルネームの、顔も知らない男性とEメールのやりとりすることだった。
同棲中の恋人フランク(グレッグ・ギニア)に隠れて“NY152”とのメール交換を続ける彼女は、
最近ではフランクよりも“NY152”と気が合い、心を惹かれている。
ところが、一方で彼女の経営する書店は重大な危機に瀕していた。
ほんの数ブロックしか離れていない場所に、ディスカウントが売りの大型書店チェーン
『フォックス・ブックス』がオープンすることになったのだ。
『フォックス・ブックス』の責任者はオーナーの御曹司、ジョー・フォックス(トム・ハンクス)。
そして、彼こそが“Shopgirl”ことキャスリーンとメール交換をしている“NY152”だったのだ。
しかし2人ともそんなことは知る由もなく、仕事上ではライバル同士となったキャスリーンとジョーは、
会う度に口喧嘩を繰り返した。
やがて『フォックス・ブックス』の出現で、倒産の危機に追い込まれたキャスリーンは、
Eメールで“NY152”に仕事の悩みを打ち明ける。

ここのサイトに来て下さる方は、当たり前ですがインターネットユーザーです。
そして、ほとんどの方がEメールも経験していらっしゃると思いますし、
ネット上で知り合った見ず知らずの人とメール交換したり、
チャットで会話したりしたりした経験がある方も多くいらっしゃることでしょう。
これはそんな世界をよく知っている私たちだからこそ、より楽しめる作品だと言えます。
世界中に張り巡らされたネットワークの中で、たまたま知り合ったメールフレンドが、
実は目の前に居る人だったなんていう偶然は、どう考えても出来過ぎのお話。
それに、森田芳光監督の『(ハル)』でもそうでしたが、
相手が互いに年齢もバッチリの美男美女だなんていうことも滅多にあることではないでしょう。
でも、頭からそれを否定してしまえば、この作品は楽しむことは出来ません。
いつもいがみ合っている二人が、実は惹かれあっているメールフレンドで、
お互いがそれを知った時・・・・というのは、全く予想通りの展開。
でもこの作品の面白さは、片方がそれを知った時に、自分の正体を明かさぬまま、
いがみ合っている相手との関係を修復しようと奔走するところにあります。
何でもないラブコメディですが、観終わった時、ホッと出来る作品でした。
レベル4

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パッチ・アダムス/トゥルー・ストーリー

1969年、人生の道を失ったハンター・アダムス(ロビン・ウィリアムス)は、
自殺未遂の果てに精神病院に任意入院した。
そこで同室になったリスの幻影に怯える患者の不安を、自らの手で取り除くことが出来た彼は、
これこそ自分のやるべき仕事だということに気づき、精神科医の道に人生の光を見出す。
ハンターは自分に“パッチ=治す”というニックネームをつけ、すぐに病院を自主退院した。
2年後、パッチはヴァージニア大学の医学部に入学するが、理論第一主義の学部長のやり方に納得せず、
学部長の目を盗んでは病院に潜入、3年生に混じって臨床に立ち会ったり、患者と触れ合ったりしていた。
パッチは“笑いこそが鎮痛効果をもたらし免疫性も高める”という自らの理論に基づき、
小児病棟に通って子供たちを笑わせ、患者や看護婦の人気者になっていく。
そんなパッチの行動が気に入らない学部長は彼を放校処分にするが、
パッチに一目置いていた学長は放校処分を撤回、彼に臨床を許可する。
一方、病院で過ごす時間が長くなるにつれ、パッチは病院や医療制度の理不尽さに心を悩ませるようになった。
“笑いで人を癒す無料の病院を作りたい”というパッチの夢は膨らみ、
それに賛同した仲間の学生たちと一緒に、パッチは丘の上に診療所を開く。

大学を卒業後12年間、町医者として15万人を超える患者を無料で診療に当たった
実在の精神科医パッチ・アダムスの実話に基づいたお話。
“気の持ちよう”が人間の体に変化をもたらすと言ったパッチ・アダムスの説は、
モルヒネ効果のあるエンドルフィンという生体内物質を流出させるという事実が立証されていて、
現在、医療上では常識となっているそうです。
ユニークな治療法に挑むパッチ・アダムスを演じるロビン・ウィリアムスは、まさにハマリ役。
子煩悩な父親を演じた『ガープの世界』のガープを思い出しました。
実話に基づいているため、どんなドラマティックな出来事にも過剰な演出はされておらず、
あくまでパッチ・アダムスの主観で、彼が経験した出来事を忠実に再現したという作りになっています。
感動の中心はストーリー展開ではなく、パッチ・アダムスという医者の存在そのものなのです。
私が一番感動したのは、小児病棟の子供たちにまつわるエピソードでした。
それは映画のストーリーのことではなく、ガン治療を受けている本物の病気の子供たちを出演させ、
“映画に出られる”という喜びで、その子供たちの気持ちを高揚させたということ。
それこそがパッチ・アダムスが目指している治療法なのだ、ということです。
子供たちは本当に嬉しそうな表情で、映画に参加していました。
私は“フィクション”ではなく、そんな“ドキュメンタリー”の部分に感動し、泣いてしまいました。
ただ気になったのは、感動を強要させるような大げさな音楽が、やたら流れ続けていたこと。
感動する場所では、あんな喧しい音楽なしでも感動出来るもの。
私にはかえって邪魔で、逆効果に感じました。
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