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ペイバックマイティ・ジョーラウンダーズ
シン・レッド・ライングッドナイト・ムーン
沈黙の陰謀バグズライフエバー・アフター

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ペイバック

しがない三流強盗のポーター(メル・ギブソン)は、相棒のヴァル(グレッグ・ヘンリー)と
妻リン(デポラ・カラ・アンガー)の3人で、チャイニーズ・マフィアの裏金を強奪するという大仕事を決行した。
奪った金は13万ドル。ポーターの取り分は7万ドルだった。
ポーターはそれで満足だったが、“組織”に多額の借金があったヴァルはリンを丸めこんでポーターを銃殺し、
13万ドル全てを奪って逃走してしまう。
しかし、ポーターは瀕死の重傷を負いながらも生きていた。
仲間に裏切られ、妻をも奪われて、心に深い傷を負っていたポーターは、
やがて身体の傷を癒やして、ヴァルに奪われた自分の取り分の7万ドルを取り戻すために街へと帰ってくる。

私はもともとハード・ボイルド系の作品はあまり得意ではありません。
だから、この作品にはそれほどの期待をしていなかったのですが、これが思いのほか面白かったのです。
盗んだ金が思いの他少なかったため、共犯者に裏切られてそれを一人占めされていまうというストーリーは、
ロバート・カーライルの『フェイス』にも似ているところがあります。
『フェイス』は5人の強盗仲間のうち、誰が裏切って金を盗んで行ったのか、
というミステリー仕立てになっていましたが、
この『ペイバック』は、仲間に裏切られた男が相手に「金返せ」と徹底的に付きまとう物語。
仲間の裏切りによって、瀕死の重傷を負ったにも関わらず、
盗んだ金の13万ドルのうち、自分の取り分である7万ドル(約800万円)だけにこだわって、
自分を裏切った相手に食らいついていくのが、この作品の面白さです。
男の意地とプライドで、危険な場所まで乗りこんで行くポーターがすごく魅力的であり、
また彼の頭の良さが痛快です。
チャイニーズ系のSMの女王の登場など、ユーモアのセンスもなかなか。
オススメです。
レベル4

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マイティ・ジョー

アフリカの小さな村で、少女ジルはジャングルのゴリラたちを観察する
動物学者の母親ルースと平和に暮らしていた。
しかしある夜、森に密猟者が侵入し、ルースと一匹の母ゴリラは彼らに銃殺されてしまう。
ジルと子ゴリラ・ジョーは、共に母親を失ってしまったのだった。
それから12年。
ジル(シャーリーズ・セロン)と体長4メートル以上もあるゴリラに成長したジョーは
姉弟のように育っていた。
ジャングルで偶然ジョーを見掛けた動物学者グレッグ(ビル・パクストン)は、
密猟者に追われるジョーが平和に暮らすためには、
カリフォルニアの動物保護区域に移すべきだとジルに主張する。
ジルは悩んだ末、ジョーをアメリカに移す決意をした。
ところが密猟者の魔の手は、どこまでもジョーを追い掛けてくるのだった。

ディズニーが贈る、心優しき巨大ゴリラと若い女性の友情の物語。
素直に観れば“愛と感動の物語”でしょうし、配給側もそれをうたい文句にしているのですが、
何かちょっと違うのです。
稀少動物を守ろうとする人間と、それを悪用しようと追いかける人間のバトルを描いた点では
世紀のオバカ映画『北京原人』にも似ていますし、
人間が巨大化した動物を相手に絡むのは、『アナコンダ』にも似ています。
コメディテイストを少しでも交えてくれれば、それなりに楽しむことは出来たと思いますが、
巨大ゴリラと人間が“かくれんぼ”を大マジメにやっているのを見た私は、興ざめしてしまいました。
怪我をして体がボロボロになっているはずの人が平気で岩をよじ上ったり、
大破した車からようやく抜け出した人が、直後に走り回ったりと、演出も脚本も粗が目立ちます。
並んで遊園地の観覧車に乗ったはずの少年が、なぜかひとりだけ頂上に取り残されていたり、
火の海パニックだった場所が、別の問題が発生した瞬間、すっかり火が消えていたりと、
『ポストマン』並みのご都合主義も見逃せません。
それでも、ストーリーが面白ければある程度救われたのかもしれませんが、
徹底的に“お約束の展開”に沿ったお話で、面白みも何もありません。
“つくりもの動物”の出来の良さは認めますが、単なる“子供だまし”の映画だったように感じました。
レベル2

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ラウンダーズ

ニューヨークの法律学校に通うマイク(マット・デイモン)は、学費をポーカーゲームで稼いでいる。
彼は相手の心理を鋭く読み取ることで手の内を探って勝つ、天才“ラウンダー(=勝負師)”だった。
ある日、彼は3万ドルの全財産を賭けたロシアンマフィアのKGB(ジョン・マルコビッチ)との
差しの勝負で負け、それをきっかけにポーカーゲームから足を洗った。
ギャンブルをやめ、地道なバイトをしながら弁護士になる勉強を始めたマイク。
彼のギャンブルを良く思っていなかった恋人のジョー(グレチェン・モル)との仲も順調だった。
しかし、刑務所に入っていたイカサマ師の旧友ワーム(エドワード・ノートン)の出所をきっかけに、
マイクは再びポーカーの世界に足を踏み入れて行く。

私は自分自身がギャンブルをしないためか、
ギャンブルに夢中になる主人公の気持ちがあまりよく分かりません。
ポーカーゲームのルールや、賭け事の基本的なルールをある程度知っていれば、
それなりに楽しめたかもしれませんが、
それすらも知らない私は、あまりこの作品に乗れませんでした。
マイクがポーカーゲームを巡り、友人のワームと恋人のジョーの間で苦境に立たされるシーンも、
ワームとの関係の深さが今ひとつ掴みきれなかったためか、マイクの気持ちがよく分からなかったし、
どちらかと言えば、簡単に裏切られてしまった彼女の方に同情してしまいました。
マット・デイモンは、新人弁護士を演じた『レインメーカー』に引き続き、
今回も法律を勉強する学生の役。
役柄が似ているせいかどうかは分かりませんが、
彼の演技はどの作品を観てもみな同じに見えてしまうのは私だけでしょうか。
マイクの友人役のワームを演じたエドワード・ノートンは、
可愛い系の顔をしているのに、きっちりとワルの役を演じきっていました。
アカデミー賞に二度のノミネートをされたというのも納得出来る演技派で、
マット・デイモンは完全に食われてしまった感じ。
怪しいロシアンマフィアのジョン・マルコビッチもいいし、
マイクの恋人役のグレチェン・モルもすごく可愛い人でした。
主役よりも、脇役の活躍が目立った作品でもありました。
レベル2.5

ギャンブルはやっぱり男の美学?
私には理解出来ない・・・・。

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シン・レッド・ライン

1942年、第二次世界大戦中のソロモン諸島。
日本軍がガダルカナル島に飛行場を建設していると知ったアメリカ軍は、
そこを占拠すべく、島へと上陸した。
美しい自然が溢れる南洋の孤島ガダルカナルを、トール中佐(ニック・ノルティ)の指揮の下、
丘陵地帯に構える日本軍のトーチカに向かい兵士たちは突き進む。
日本軍の激しい銃撃の中、多くの兵士の命を犠牲にしながら、彼らはようやく丘を奪う事に成功した。

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“第二次世界大戦中の兵士たちのドラマ”と言えば、公開の時期も似通っていたことから、
スピルバーグの『プライベート・ライアン』との比較は否めないところでしょう。
誰でもが知っているヒットメーカーのスピルバーグに対し、
『シン・レッド・ライン』のテレンス・マリック監督は、過去に2作品しか発表しておらず、
しかも前作『天国の日々』という作品から、すでに20年が経っているそうです。
しかし、20年前のその2作品の素晴らしさにより“伝説の監督”と呼ばれ、
その監督が新作を撮るということで、多くの有名俳優たちが名乗りをあげたとのこと。
私はテレンス・マリックという名前すらも知らなかったし、作品も観たことはありません。
でも、戦争映画の傑作とまで言われた『プライベート・ライアン』の向こうを張って、
“伝説の監督”がどんな作品を見せてくれるのか、それだけで期待が高まりました。

確かに『プライベート・ライアン』は凄い映画だと思います。
でも、私にとっては生々しい戦争シーンを延々と見せられただけの、苦痛な映画でした。
彼らが何故命を張ってライアン二等兵を探さなければならないのかが全く理解出来ず、
しかし、その“理不尽さ”が“戦争そのものの理不尽さ”なのだと無理矢理解釈していました。
“戦争映画”というものは“反戦”のメッセージの象徴です。
過去にあった愚かな歴史を再現し、二度とこのようなことを繰り返さないために
作っているものだと私は解釈しています。
『プライベート・ライアン』は凄まじい映像でもって、それを伝えてくれました。
しかし私が一番見たかったのは、そこに居た兵士たちの心の中です。
彼らがどんな気持ちで人を殺すのか、彼らは“戦争”をどう考えているのか。
それによって戦争の愚かさを伝えてくれることを期待していた私にとって、
“戦争映画”としての出来はともかくとして、この作品にドラマとしての満足は得られませんでした。
2度3度と繰り返して観れば、きっともっと兵士たちの心の中に踏み込んでいけるのかもしれませんが、
私は延々と続くあの悲惨な戦闘シーンは、もう二度と観たくありません。
『シン・レッド・ライン』は、私が『プライベート・ライアン』でもの足りないと感じていた部分を
きちっと見せてくれた作品でした。

私が一番印象的だったのは、ウィット二等兵のエピソードです。
無許可離隊を繰り返していたウィット二等兵が、冒頭で逃げ込んだ南洋の島で
自分を見て怖がっている子供の母親と交わした会話。
「僕のことが怖いのかな」「私も怖いわ」「なぜ?」「あなたが兵士だから」
でも、その時のウィットは自分自身が“怖い人間”でないことを知っていました。
戦争に疑問を感じ、戦うことを拒否して、彼は何度も無許可離隊を繰り返していたのです。
しかし、隊に引き戻され、一通りの戦い経験してその島を再び訪れた時の彼は違っていました。
手を差し伸べた子供に恐怖の表情を向けられた時、
彼は自分が以前の自分とは違う人間になっていることを思い知らされます。
いくら自分が望んだことではないとはいえ、彼は人間を殺してしまいました。
そのために、同じ景色を見ても、同じ気持ちになることは出来ず、
もう二度と以前の自分に戻ることは出来ないということに気づくのです。
これこそが、テレンス・マリックが描いた戦争の不条理さなのだと私は感じました。
そして、このシーンだけを取っても、私の中で『シン・レッド・ライン』は
『プライベート・ライアン』を抜いたのでした。

主人公たちが戦う相手が日本兵だということもあり、その描き方にも賛否両論があると思います。
しかし、私自身はそれに特に不快感は覚えませんでした。
アメリカ兵が日本兵と戦いを始めた頃は、常に日本兵は姿を見せないままか、
あるいは遠くではっきりした姿は見せていませんでした。
アメリカ兵たちは、そんな“得体の知れない敵”と戦っていたのです。
しかし、日本軍のトーチカを攻め落としたアメリカ兵が見たものは、ただの人間でした。
私は、アメリカ兵は日本兵を捕らえて丘を奪ったことを喜んでいるというよりも、
“得体の知れない敵”がちっぽけな人間であることにショックを受けているように感じました。
これまで観て来たさまざまな作品の中で描かれていた日本人は、
たいてい“日系何世”という“まがいもの日本人俳優”が演じる、
カタコトの日本語を喋る奇妙な日本人でした。
日本人に対する文化的な誤解も多かったと思います。
しかしこの作品で出てきた日本兵は、エンドロールを見る限り、純粋な日本人俳優が演じていました。
もちろん、アメリカサイドの視点から見た日本兵なので、
ある程度奇妙な人間に描かれているのは仕方ないことだと思います。
でも、それについて“誤解”しているという部分は特に感じられませんでしたし、
むしろ、初めて“誤解”のない日本人を描いた作品に出会えたという気持ちになりました。

ただ、私もこの作品に全く不満を持っていないわけではありません。
セリフの多くを兵士たちの心のつぶやきで綴った作品なのですが、
みんな同じ服装でヘルメットをかぶっているために、誰が誰だか分からなくなってしまったのです。
その辺りをもう少し分かりやすく描いて欲しかったと思いますし、
チョイ役のジョン・トラボルタとジョージ・クルーニーは完全に浮いていました。
いくら、俳優側からの売りこみだとはいえ、このふたりの起用は失敗だったと思います。

私は今までに『プライベート・ライアン』以外に兵士たちのドラマを描いた戦争映画を
観たことがありません。
その理由は、単純に“戦争映画が嫌い”だったからです。
だから、この作品を『プライベート・ライアン』以外の戦争映画と比較することは出来ません。
でも、この作品を観て、もっと色んな戦争映画を観たいと思うようになりましたし、
テレンス・マリックの他の2作もぜひ観てみたいと思ったのでした。
レベル5

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グッドナイト・ムーン

イザベル(ジュリア・ロバーツ)はニューヨークで活躍する売れっ子のカメラマン。
一年前から交際している弁護士のルーク(エド・ハリス)と同居を始めたばかりだが、
彼の3年前に別れた妻ジャッキー(スーザン・サランドン)との間の二人の子供が、彼女を悩ませていた。
7歳のベン(リーアム・エイケン)はいたずらばかりしてイザベルをてこずらせ、
12歳のアンナ(ジェナ・マローン)は両親の離婚に納得がいかず、イザベルを嫌っているのだ。
母親としては非のうちどころのないジャッキーと違い、子育ての経験もない上に仕事を抱えたイザベルだが、
彼女はルークの信頼を裏切るまいと奮闘し、子供たちと何とかいい関係を作ろうと努力していた。
だが、そんな彼女の努力も空しく失敗の連続、子供たちもジャッキーばかりになつき、
イザベルとジャッキーの関係も悪くなる一方。
しかし、そんなジャッキーには誰にも言えない秘密があり、ひとりで苦しんでいた。
そして、その秘密をイザベルが共有した時、彼女は次第に家族の一員として受け入れられていく。

『ミセス・ダウト』のクリス・コロンバス監督が、離婚という現代問題に付随する子育ての問題と
家族の絆を描く感動作。
ゴールデン・グローブ賞にノミネートされたスーザン・サランドンの目をひんむいた演技は
私から見れば、ちょっとオーバーな気がしましたが、
ジュリア・ロバーツのキャリアウーマンぶりはなかなかのもので、
彼女の最近の作品の中では最高の演技を見せてくれていると思いました。
そんなに前夫の恋人が気に入らないなら、ジャッキーは自分で子供を引き取って育てればいいのに、
と思って観ていたのですが、彼女にはそれが出来ない理由がありました。
子供を引き取りたいのに引き取ることが出来ないジャッキーの苦しみ、
慣れない子供たちの世話と、仕事との間に板ばさみになるイザベルの悩み、
そして、父親の恋人を認めたくない娘の苛立ちという、3人の女性の気持ちがぶつかり合いが
この作品を見ごたえのあるものにしています。
しかし、父親であるルークが弁護士という忙しい職業を理由にして、
子供の世話をイザベルとジャッキーに任せきりなのは変だと思いました。
ジャッキーも子育てのために編集者のキャリアを捨てて、専業主婦になったという設定ですし、
イザベルも「子供を迎えに行くなら、仕事はクビだ」と言い渡されます。
「それなら、いいわ」と、あっさり仕事を辞めてしまうイザベルも何だか。
仕事より、家族との絆を大事だと考えるのはおかしいとは思いませんが、
それを女性だけの問題として捉えているのには不満が残りました。
やはりアメリカでも子育ては女性の仕事であり、
女性がキャリアのある仕事をしたければ、子供を持つべきではないという考えなのでしょうか。
キャリアを持つ仕事を望む女性が増え、少子化が深刻な問題となっている日本では、
最近では“子育てをしない男性を父親とは呼ばない”という過激なコピーのCMが話題になっていますが、
今の日本でこのような作品を作ったら、大問題にされてしまいそうです。
ラストでは感動はしましたし、とてもいい作品だとは思いますが、
別の意味で考えさせられた作品でもありました。
レベル4

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沈黙の陰謀

アメリカ北西部モンタナの田舎町で、ネオナチ組織が立てこもり事件を起こした。
FBIに包囲されたまま数十日が過ぎ、限界を感じたリーダーのフロイドは、
自らにワクチンを接種したあと、軍から盗んだ細菌兵器を密かにバラまいて降伏する。
ウィルスが蔓延した町では原因不明の死者が続出、
救護に携わった医師マクラレン(スティーブン・セガール)は細菌兵器が原因だと気づき、
即座に町の人々にワクチン接種を行った。
しかし、ウィルスは突然変異を起こし、そのワクチンは既に効果を失っていたのだった。

モンタナの自然をこよなく愛するセガールが、
環境保護のメッセージを折りこんで真面目に製作した作品らしいのですが、
ケビン・コスナー主演の『ポストマン』系の底抜け映画になってしまいました。
観る前からそういう情報は得ていたので、私自身は別の意味で楽しめましたが、
真面目に観ていたら激怒していたかもしれません。
『ポストマン』同様、ストーリー上都合が良い状況設定ばかりで、つっこみがいのある作品です。
なぜネオナチ組織は、あんな田舎町に立てこもらなきゃいけなかったのでしょうか。
草原の真ん中にぽつんと一軒建っている家に、人質も取らずに立てこもることに
どんな意味があったのか全く分かりません。
どうせ立てこもるなら、もっと都会でやった方が効果的なのに。
でも、ダメなのです。
“モンタナの自然”がバックに無いと、ストーリーが行き詰まってしまうからです。
マクラレンが自分の娘にワクチン接種をする時にも、不思議なセリフがありました。
「少し血を採るだけだ」
なぜ、ワクチン接種で血を採らなきゃいけないのでしょうか。
答えは、娘から採血しなきゃ、ストーリーが行き詰まってしまうからです。
人間がバタバタ死んでいるのに、馬には全く感染していなかったり、
フロイドが、なぜかマクラレンの娘が“長い黒髪の女の子”であることを知っていたり、
マクラレンの助手アンが、乗り込んだ細菌兵器の研究所に
ティータイム用の“お茶”の準備までして行ったりと、腑に落ちない点は数知れず。
患者から診察費を受け取らないマクラレンがどうやって生計を立てていたのだろうかとか、
ネオナチ組織がモンタナに細菌兵器をバラまいて田舎町の人間を皆殺しにし、
自分たちだけがワクチンを接種して生き延びようとしたことにどんな意味があったのだろうかなんて、
あれこれ推測するだけ無駄ですね。
レベル設定不能

さすが不死身のセガール。相手が細菌兵器でも太刀打ち出来ませんでした。

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バグズライフ

秋、アリたちは冬を前に食料を集めている。
しかし、それは自分たちのためのものではなく、彼らが“貢ぎ物”としてバッタたちに差し出しているものだった。
発明好きの働きアリのフリックは、収穫の効率を上げようと自分が作った食糧刈り取り機で作業をするが、
それが逆に混乱を招き、みんなが集めた食糧を全て川に落としてしまう。
そんなところに食糧を奪いに来たバッタたちがやってきたから大変。
食糧がないことを知るとバッタたちは激怒し、
冬が来る前にもう一度食糧を集めなければ、アリの国を破壊すると脅した。
冬が来るまであとわずかなのに、アリたちは自分たちの食糧すらも確保出来てはいない。
危機に立たされたフリックは、都会へ行ってバッタを追い払ってくれる強い“助っ人”を探すことを提案、
たった1匹で未知の都会へと旅立って行った。
都会でフリックは強そうな虫たちの集団と出会い、アリの国へ一緒に行ってくれるようにと誘う。
しかし実は彼らはただのサーカス団の虫たちだったのだ。
サーカス団の虫たちは、それを余興の誘いと勘違いしてフリックについてアリの国へと向かい、
一方、そんなことを知るすべも無いアリたちは、これでバッタたちに勝てると大喜びする。

ディズニーが『トイ・ストーリー』のスタッフを再結集して製作したCGアニメーション。
同じアリンコネタの『アンツ』で、ドリームワークスに一歩先を越されてしまいましたが、
やはりディズニーが製作しただけあり、『アンツ』より幾分“お子様向け”という印象。
全米で公開された時は、後出しのこの『バグズライフ』の方が興行成績が良かったようです。
現在のCGの技術が凄いことは、『アンツ』で実証済ですが、
この作品を観て、その凄さに私は単純に感動してしまいました。
しかし、この作品の見所はCGだけにとどまってはいません。
CGの技術進歩だけが嫌味のように目立ち、作品自体を楽しむことが出来なかった『アンツ』に比べて、
この作品は技術よりもストーリーやキャラクターを重視した作品に仕上がっています。
基本的には子供向けに作られていますが、
大人にしか分からないような細かいギャグやブラックなユーモアがちりばめられているのもGOOD。
特に、カマキリのマニーの瞑想シーンや、裁判シーンのヅラ(彼らはイギリス在住?)、
「涙を誘うために1匹殺しました」というセリフがツボにきました。
ストーリーは正義は勝ち、悪は負けるというお決まりの展開であるにしろ、
その運び方がとても上手く、大人の私が充分にわくわくさせられるものでした。
それに何と言っても、キャラクターがすごく可愛い!
愛敬のあるキャラクターデザインに加え、それぞれが個性的で魅力的な性格の持ち主です。
悪役のバッタでさえ、実はマヌケで可愛かったりするところも良いです。
悪役バッタの親分“ホッパー”は、ケビン・スペイシーがその声を担当しています。
声優陣もオールスターキャストだった『アンツ』に比べ、
こちらの作品はケビン以外にはスターらしき名前は見当たりませんが(それとも私が知らないだけか?)、
ケビンひとりだけを悪役として起用したことは、一番効果的だったように思います。
レベル5

観終わったあとに、爽快な気分になれる作品でした。
エンドクレジットと共に流されるオマケ映像のギャグセンスも大好きです。

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エバー・アフター

父の再婚相手ロドミラ・ド・ゲント男爵婦人(アンジェリカ・ヒューストン)と
彼女が連れてきた二人の娘マルガリートとジャクリーヌと共に暮らすダニエル(ドリュー・バリモア)。
しかし父が急死した後、ダニエルはロドミラにメイドとしてこき使われていたのだった。
ある日、畑で働いていたダニエルは父の馬を盗もうとした若者にリンゴを投げつけて落馬させるが、
それはフランスの王子・ヘンリー(ダグレイ・スコット)だった。
彼はスペイン王女との政略結婚に反発して城を飛び出してきたのだ。
王子はダニエルに口止め料としてお金を渡してその馬に乗っていってしまう。
ダニエルは手に入れたそのお金で、ロドミラに売り飛ばされた使用人を買い戻そうと、
貴族を装って城へと向かい、そこで王子と再会をする。
王子はダニエルのことを自分にリンゴを投げつけた娘とは気づかず、彼女の意思の強さに惹かれて行った。
一方、マルガリートを王子の花嫁にさせたいロドミラは、あの手この手で王子に接近する。

グリム童話の『シンデレラ』を新解釈で描いた作品。
この作品には“魔法の力”は出てこず、主人公は自らの力で幸せを勝ち取ろうとします。
主人公のダニエルは童話の中の気弱なシンデレラとは違い、
気に入らないことがあると相手が王子でさえ食ってかかるのです。
でも、彼女は単に気が強いだけではなく、しっかりとした自分の考え方を持った女性。
世の男性方は、こういう女性をどう思われるか分かりませんが、私の目にはとても魅力的に映りました。
ダニエルを演じるドリュー・バリモアも、
『ウェディング・シンガー』とはまた一味違った魅力を見せてくれています。
私自身がそんなダニエルに魅力を感じているので、
ヘンリー王子もまた、彼女のそんな部分に惹かれて行くのはとてもよく分かります。
でも、ひとつ分からなかったのは、ダニエルがどうしてヘンリー王子に惹かれたのか。
確かにドラマ上では“いい奴”をアピールしている部分もありますが、
そのシーンにはダニエルは登場していないし、彼女は王子のことを“嫌な奴”だと思っていたはず。
王子がダニエルの言葉にほだされて奴隷の開放をしたからでしょうか。
それだけでは、何だか説得力に欠けるような気がします。
肝心な部分の説明が不足しているために、ダニエルも“ヘンリー”というひとりの人間よりも
“王子”という存在に恋したような印象を受けてしまったのが残念でした。
それでも異姉妹の妹の方をダニエルの味方に付けるなどのアイデアは面白かったですし、
山賊に襲われた王子すら助けてしまう、ダニエルの『ムーラン』級の雄姿は痛快でした。
『シンデレラ』の新解釈とすれば、そこそこ面白い作品と言えるのではないでしょうか。
レベル3.5

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