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スパニッシュ・プリズナー /
キャメロット・ガーデンの少女 /
ポーリー
デッドマンズ・カーブ /
8月のクリスマス /
もういちど逢いたくて/星月童話
ファイアーライト /
グッバイ・モロッコ /
ロリータ /
ヴァージン・フライト
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スパニッシュ・プリズナー
画期的な市場予測ソフト“プロセス”のプレゼンのために、
カリブ海のエステフェ島を訪れたプログラマーのジョー(キャンベル・スコット)は、
そこで富豪のジミー・デル(スティーブ・マーチン)と出会い意気投合する。
ジョーのプレゼンは自社の有力役員に好感触を得ることが出来るが、
ボスのクライン(ベン・ギャザラ)は、ジョーの功績を認めつつも、
成功報酬の話を先送りにし、彼の不安を募らせた。
ニューヨークの職場へ戻ろうとするジョーに、ジミーは一つの小包を託し、
ホテル住まいの妹へ届けてほしいと頼む。
快く引き受けたジョーだったが、飛行機内で秘書のスーザン(レベッカ・ピジョン)から
小包の中身に懸念を抱かれ、不安になった彼は、それを思わず開封してしまう。
ひとりの男が罠にかけられ、ハマっていくというミステリー。
このような作品は、誰が彼をハメているのかという犯人探しに一生懸命になり、
どうしても構えて観てしまいがちなので、逆に何の情報も入れずに観ていれば、
また違った楽しみ方が出来たのかもしれません。
ミステリーと言えど、この作品の特徴は、とにかく彼を取り巻く全ての人物が胡散臭いこと。
みんな何か含みを持った怪しい演技で主人公と絡むので、
誰が彼を騙しているのか逆に全く分からなくなってしまうのです。
また、このミステリーの謎を解く鍵になりそうな小物を、
いちいちアップで映し出すという手法が、この作品の特徴。
下手に犯人探しをするのではなく、お人よしで世間ずれしていない主人公が
ものの見事に騙されて行く様を観るのが、この作品の楽しみ方だと言えます。
タイトルの『スパニッシュ・プリズナー』とは、4世紀以上の伝統を持つ古典的な詐欺の手口のこと。
ネタバレになってしまうので、ここではあえてその内容は控えておきましょう。
それなりに面白かったですが、あとには何も残りません。
テレビドラマでも充分な内容でした。
レベル3
また変な日本人が出てくるし・・・・。
キャメロット・ガーデンの少女
ケンタッキー州の裕福な人々が暮らすルイズヴィルの郊外“キャメロット・ガーデン”に、
10歳の少女デヴォン(ミーシャ・バートン)の家族が引っ起してきた。
見掛けだけの美しさを好むキャメロット・ガーデンの住人たちになじめず、
うわべだけの幸せな家庭を演じようとする両親に反発するデヴォンは、孤独と空想の世界を愛し、
森の中に住んで人を食い殺す“バビヤガ”という名の魔女の存在を信じていた。
ある日、“キャメロット・ガーデン”の外に出てはいけないという両親のいいつけを破り、
壁を抜け出して静寂に包まれた深い森へ進入したデヴォンは、
そこで“バビヤガ”の棲み家のようなトレーラーハウスを発見する。
こっそり忍び込み“バビヤガ”の正体をつきとめようとしたデヴォンだったが、
そこに帰って来たのは、22歳の青年トレント(サム・ロックウェル)だった。
“キャメロット・ガーデン”の住人を相手に芝刈りの仕事をしているトレントは、
警備員や、若い男たちが自分に対して快く思っていないことを感じ取っていた。
デヴォンが原因で住民たちとトラブルを起こしたくない彼は、すぐに彼女を返そうとするが、
彼に自分と同じニオイを感じたデヴォンは、執拗に彼の周りを徘徊するようになる。
やがてトレントも、そんな彼女のペースに巻込まれ、ふたりは仲良くなるが・・・。
オープニング、デヴォンがクッキーを作るシーン。
少女をかたどったクッキーの真ん中に、レーズンを埋め込むデヴォン。
そこにたまたま1匹の蝿がとまり、それをレーズン代わりに押しこむ・・・・
そのシーンだけで、私はこの作品に凄いものを感じました。
彼女がどんな少女なのかが集約されているのです。
そして、物語が進むにつれて、彼女の背景が徐々に明らかになって行きます。
心臓病で身体の中に機械を埋め込まれ、身体に大きな傷あとを持つデヴォンは、
それが心の傷にもなっているのです。
しかし、両親はそんな娘の心の傷を癒すことをしようとはせず、外観ばかりを気にします。
そればかりか、見せかけだけの理想の家庭を築くことに一生懸命になっている彼らの姿は、
見ていて寒気がするほどでした。
デヴォンが歪んでいるのではなく、彼女を育てている両親が歪んでいるのであり、
彼女が住んでいるキャメロット・ガーデンという町自体が歪んでいるのです。
両親に対する感情と同じように、キャメロット・ガーデンにもなじめないデヴォンが、
両親から止められているにも関わらず、自らの意思でその外へと出て行こうとする気持ちも分かるし、
キャメロット・ガーデンの外で自分と同じニオイのする青年トレントと出会い、
友達になりたいと願うのも、すごく自然なことのように感じました。
彼の前では、とても素直なデヴォンでいられるのです。
両親の前では仮面をかぶっていても、トレントだけには本当の自分を見せることが出来るのです。
トレントもまた、キャメロット・ガーデンの住人たちからは疎外された存在。
彼が芝刈り機で作業をしながら、そこに何が落ちていてもお構いなしに踏みつけていくという様は、
彼のキャメロット・ガーデンの住人に対する気持ちを、鋭く描写した部分でした。
後半の彼の衝撃的な行動は、それまで心の中に隠しておいた住人たちに対する憎悪が、
一気に爆発してしまったのでしょう。
共に心と身体に傷を負った、10歳のデウォンと22歳のトレントの友情の物語。
ロリータものとはちょっと違うと思います。
ラストシーンの捉え方は色々あると思いますが、私はデヴォンのイメージの世界だと解釈しました。
レベル4
ポーリー
オウムのポーリーは、生まれてすぐにマリー(ハリー・ケイト・エンゼンバーグ)という少女に飼われた。
彼女のことが大好きだったポーリーは、うまく言葉が話せないマリーのことを心配し、
人間の言葉をマスターして、彼女の言葉の先生になる。
しかし、オウムとばかり仲良くし、オウムが人間の言葉を話すなどと言い出す娘を心配した両親は、
ポーリーを別の人間に引渡し、マリーと引き離してしまう。
それから、様々な人間の手を渡りながら、とうとう質屋に置かれてしまったポーリー。
そこで親切な未亡人アイヴィ(ジーナ・ローランズ)が引き取られたポーリーは、
彼女にマリーのところに連れていってもらうように頼んだ。
ところがようやく見つけたマリーの家は、すでに引っ越したあと。
それでもポーリーはいつかマリーに再会出来ると信じ、マリー探しの旅に出る。
人間の言葉を理解し、しゃべることの出来るオウムのポーリーが、
様々な人間たちと触れ合いながら旅を続けていく物語。
ポーリーと出会う人間の中には、『グロリア』のジーナ・ローランズも出演しています。
チラシには“ジーナ・ローランズ主演”と書かれていましたが、それは嘘で、彼女は脇役です。
ポーリーの立場的に説明すると、、動物と会話出来る人間のお話『ドクター・ドリトル』の逆バージョンのようなもの。
人間と会話する訳ではありませんが、動物を主役にした“愛と勇気と冒険の物語”ということでは、
『ベイブ』に近いものがあるかもしれません。
ジャンル分けすれば、お子様向けファンタジー映画になるでしょう。
下手をすれば子供だましの動物ものに成り下がってしまいそうな不安もありましたが、
これは大人の私が観ても充分に楽しめる作品でした。
動物研究所の地下室に置き去りにされている1羽の人間不信のオウム“ポーリー”を、
ロシア人清掃員が発見し、お互いに孤独な心を理解し合うことで、
ポーリーがそこにやってくるまでの経緯を思い出ばなし風に語り始めるといった導入部。
また、その清掃員との交流が、ちゃんとラストシーンで意味のあるものになっているという構成が面白いです。
一番初めの飼い主であるマリーをひとときも忘れることが出来ないポーリーのいじらしさも良いし、
彼がマリーと別れてから出会う人間たちも、魅力的な人あり曲者ありで退屈しません。
ギャグのセンスもなかなかのものですし、泣かせの部分もきっちりと見せてくれます。
ドリームワークスが『ジュラシック・パーク』のスタッフを使って、
本物そっくりのオウムをアニマトロニクスで作りだし、その作りものオウムのシーンと
アニマルトレーナーに訓練された本物のオウムとのシーンとを織り交ぜて構成されているそうなのですが、
どこまでが本物でどこまでが作りものなのか、全く分からないほど見事な技術でした。
ドリームワークスの作品は、『アンツ』にしろ『プリンス・オブ・エジプト』にしろ、
アニメーション技術を見せることばかりが先行してしまって、
肝心のストーリーが全く面白くなく不満だらけでしたが、
この『ポーリー』に限っては、技術よりもストーリーの面白さが先に立っていて満足出来ました。
せっかく素晴らしい技術を持った組織なので、その技術を誇示するだけの作品を作るのではなく、
その技術でもって楽しめる作品をたくさん作ってもらえることを望みます。
レベル4
日本語吹き替え版も公開して、もっと多くの子供たちに見せてあげれば良かったのに。
出来が良かっただけに、あまりにもひっそりと公開されたことが残念でなりません。
デッドマンズ・カーブ
アメリカの多くの大学で採用されているという“デッドマンズ・カーブ”という制度。
それは、ルームメイトが自殺した場合、同室の学生の精神的ショックを考慮して、
その学期の成績は無条件でオールAにするという成績優遇制度だ。
奨学生のクリス(マイケル・ヴァンタン)は、真面目な勤労学生だが、
最近の成績では希望するハーバードの大学院に行けそうにない。
そんな彼が、同じく大学院志望の軟派なルーム・メイト、ティム(マシュー・リラード)に
ある作戦を持ちかけられる。
それは、もう一人のルームメイトのランド(ランダル・ベイティンコフ)を、
自殺に見せかけて殺すことだった。
彼が死ねば、クリスもティムも“デッドマンズ・カーブ”が適用され、
オールAがもらえて大学院に進学出来るのだ。
ランドは彼女のナタリー(タマラ・クレイグ・トーマス)に妊娠を打ち明けられ、
動揺して酒を飲み過ぎて崖から飛び降りた・・・という筋書きで、ティムらに殺される。
しかし、ランドの死にショックを受けたナタリーまでもが自殺してしまい・・・・。
こういう作品は、何も情報を入れずに観た方が楽しめるのかもしれません。
ちょっとだけ情報を入れて観てしまった私は、最初から構えて観てしまっていたため、
純粋にこの作品を楽しむことが出来ませんでした。
だから、これからこの作品を観ようと思っている方のために、
あえてその部分には触れるのはやめましょう。
しかし、この“デッドマンズ・カーブ”という制度は、
本当にアメリカの大学に実在するものなのでしょうか。
自分がのし上がっていくために、他人を殺そうとする心理などは、
私には到底理解出来るものではありません。
この作品では、ルームメイトを殺した人間たちが何も悪びれておらず、
平気な顔をしてその後の生活していることが、すでにドラマとしてのリアリティを欠いています。
作り方いかんによっては、もっと面白くなりそうな題材なのに、残念でした。
レベル2
8月のクリスマス
ソウルの片隅で小さな写真館を経営しているジョンウォン(ハン・ソッキュ)。
様々な客がやってくる彼の店に、ある日、交通課に勤務する若い婦人警官タリム(シム・ウナ)が、
駐車違反の写真の現像を頼みにやって来る。
わがままなタリムの注文に、ジョンウォンは嫌な顔ひとつせず、丁寧に応対する。
そんな彼の人柄に惹かれたのか、タリムは彼の店に毎日のように顔を見せるようになり、
ジョンウォンも可愛くてきらきらと輝いている彼女に惹かれていく。
しかし、この恋が叶わないことは、誰よりも彼が一番良く知っていた。
彼の身体は不治の病に侵され、死が間近に迫っていたのだ。
彼は、彼女には自分の病気を隠し、残された日々を精一杯生きて行こうとする。
私の映画生活の中で、初めて観た韓国映画です。
韓国映画と言えば、香港映画に似た騒がしげなものを想像していましたが、
とても静かで柔らかい雰囲気が、どちらかというと日本映画に似ている気がしました。
主人公は、過去の恋愛を引きずったまま、誰とも結婚出来ない写真屋さん。
不治の病で自分の命が残り幾ばくもないことを知っている彼は、
残りの人生を“笑顔”で過ごそうと努力します。
あんな人が近くに居たら、私でもきっと惹かれてしまうだろうなと思えるほど、温厚で優しい男性。
そして、彼の病気を知らないまま、ひとりの女性が彼に惹かれていきます。
お互いに好きだという気持ちはあるのに、それを口にしたりはしません。
彼は自分が病気であるから。そして、彼女はちょっとした意地っ張りな性格からでしょうか。
でも、互いに通じ合っているものを感じているのです。
雨の日にひとつの傘に入ったり、夜道でそっと腕を組むふたりの心の揺れが画面を通じて私に伝わり、
ドキドキとしてしまいました。
ストーリーうんぬんというよりは、淡々とした日常を映した中の
それぞれの気持ちを読み取って感じる作品だと言えるでしょう。
家族と一緒に写真を撮りに来たおばあさんが、あとでひとりきりで撮り直しにやってくるシーン、
ビデオの操作が覚えられない父親に、主人公が一生懸命説明するシーンなど、
言葉には出さない気持ちの表現が秀逸でした。
ただ、それだけにラストシーンでの彼女の気持ちが読み取れなかったのが残念で仕方ありません。
良い作品だとは思いますが、私にはラストシーンで消化不良の感じが残ってしまったので、
レベル3.5
『8月のクリスマス』というタイトルの意味が理解出来ないのも、ちょっと気持ち悪い。
もういちど逢いたくて/星月童話
香港のホテルのマネージャーを務める達也(レスリー・チャン)と婚約中の瞳(常盤貴子)。
しかし、香港での結婚生活を目前に、ふたりが乗った車が事故を起こし、
達也は死亡。瞳だけが生き残る。
達也への気持ちを忘れられないまま、数か月後、香港をひとり訪ねた瞳は、
達也の勤めていたホテルのロビーで、彼にそっくりな男を見る。
その男は、香港警察の麻薬捜査官・家寶(レスリー・チャン/2役)。
ホテルの一室で香港マフィアと接触中だったのだ。
そんなことを知らない瞳は、死んだ恋人にあまりにも似ている男の後を必死で追いかける。
初めは瞳を拒絶していたが、次第に瞳に惹かれ始める家寶。
しかし瞳は、自分が惹かれているのが家寶なのか、それとも達也の面影を求めているだけなのか
分からなくなっていた。
テレビドラマの女王、常盤貴子と、香港の映画スター、レスリー・チャン共演のラブストーリー。
テレビドラマでは枠にはまらず、色んな役柄に果敢に挑戦しているトキワちゃんが、
初主演の映画でどれだけの頑張りをみせてくれるか、結構期待してたんですけど・・・・・。
冒頭の、常盤貴子扮する瞳と友人の会話のシーンのアップ多用のカット割りで、
私はすでに引いてしまいました。
何か、安っぽいテレビドラマを観ているようなのです。
バックの音楽もやたら大袈裟だし、スローモーションシーンの多用にもげんなり。
途中で堂々と割り込んでくる森高千里の挿入歌に至っては、「勘弁してよ」といった印象。
これじゃ、ただのアイドル映画じゃないですか。
ストーリー構成にも不満だらけでした。
初めは常盤貴子演じる瞳の視点で語られているのに、
それが途中からレスリー・チャン演じる家寶の視点に変わります。
『恋は嵐のように』のように、スター2人を同時に主役にした作品の作り方の難しさなのでしょうか。
しかし、これでは観ている側は、ラストシーンに向けての感情移入のしようがありません。
私的には、お互いに過去の恋愛で傷みを抱えたもの同士という
瞳と家寶の単なるラブストーリーだと考えれば、
家寶が警察内で抱えるトラブル、裏切りなどを含めたアクションシーンは全く不要にも感じました。
つまり、瞳の視点から語ろうとすれば、家寶が警察官でなければならない理由は全くなく、
家寶の視点から語ろうとすれば、瞳が日本人である理由は全くないということです。
常盤貴子とレスリー・チャンを対等に扱おうとしたために、
どっちつかずの中途半端なストーリーになってしまっているのです。
レベル2
それに、観ていて切に感じたのは、常盤貴子はやっぱり映画向きじゃないってこと。
レスリー・チャンや、ミシェル・ヨーが持つ、映画スターの風格に押され、
その演技もテレビドラマ女優から抜け出ていない感じでした。
単に監督の演出力不足のせいでしょうか。
ファイアーライト
1837年、ロンドン。
22歳のエリザベス(ソフィ・マルソー)は、父の借金の返済のため、
見ず知らずの男性子供を産んで報酬受け取る“代理母契約”を結んだ。
相手の男性は貴族のチャールズ(スティーブン・ディレイン)。
エリザベスは身分も名前も明かさない彼と、ノルマンディのホテルで3晩を共にしたあと、
二度と会うことのない見知らぬ同士として別れた。
9ヶ月後、エリザベスは女の子を出産するが、契約通り、赤ん坊はすぐに取り上げられてしまう。
しかし、その日から片時も娘のことを忘れられなくなったエリザベスは、
7年後、ついにその所在を突き止め、その家に娘の家庭教師として姿を現した。
驚いたチャールズは、すぐに彼女を追い返そうとするが、
結局1ヶ月間だけ彼女を家に留めることにする。
ルイザと名づけられたエリザベスの娘は、実の母親に捨てられたというヒガミを持ち、
父親チャールズの過保護も手伝って、ワガママいっぱいな娘として成長していた。
そんなルイザには、今まで何人もの家庭教師が音を上げて去って行ったのだった。
エリザベスは、ルイザに自分の正体を明かすことなく、
ひとりの家庭教師として、彼女の閉ざされた心を開いていこうとする。
エリザベスが代理母契約を結び、見知らぬ男性とSEXする冒頭のシーンから
私はもう涙ぐんでいました。
お金のために、女として一番大事なものを捨てなければいけないつらさが伝わり、
見ていてやりきれない気持ちになってきたのです。
そしてその結果授かった子供を、顔を見ることも抱くことも許されないまま、
出産と同時に取り上げられてしまうのです。
女だからこそ分かるのかもしれません。
そこまでで充分なまでに私はエリザベスに感情移入し、すでに号泣モードに入っていました。
だから、見たことのない、名前すらも知らない実の娘に思いを募らせ、
契約違反を承知でついには探し出してしまおうとする、母親の気持ちも納得出来ます。
そんなエリザベスが、ようやく探し出した娘ルイザと再会する喜び、
自分が本当の母親だということを言えないつらさ、娘が本当の母親に馳せる切ない想い、
エリザベスとチャールズの許されない恋愛感情など、
気持ちの表現がとても上手い作品だったと思います。
そして、手が付けられないくらいにワガママに育ってしまったルイザを
エリザベスが本当の母親だからこそ与えられる厳しさと優しさで更生させていく様は、
とても見ごたえがあり、感動させられました。
また、エリザベスが、自分のしたことを娘に対しても他の人に対しても恥じることなく、
常に誇り高く凛とした態度を取っていることに好感を持つことが出来、
彼女の意思の強さ、精神的な強さは、私にはとても魅力的に映りました。
この作品は、ソフィ・マルソーが実際に出産を経験してから
3ヶ月後に撮影開始に入ったとのこと。
それだけに彼女の“母の顔”“母の気持ち”の表現の上手さも納得出来ます。
昔のアイドル女優ソフィ・マルソーも30歳を過ぎてから、
とても演技の幅の広い、いい女優になったと思います。
レベル4
特に女性の人にはお勧めの作品です。
グッバイ・モロッコ
1972年。
25歳のジュリア(ケイト・ウィンスレット)は二人の娘を違れて、ロンドンからモロッコへとやって来た。
彼女の8歳のビー(ベラ・リザ)と6歳になるルーシー(キャリー・ムーラン)の父親は有名な詩人。
彼の本妻ではないジュリアは、愛人生活に疲れ、自分探しのためにこの地へとやってきたのだった。
友人から聞いたイスラム神秘主義に惹かれたジュリアは、
その一派が拠点とするアルジェリアに行く日を心待ちにしていた。
大道芸をして稼いでいる若者ビラル(サイード・タグマウイ)との出会いと愛、
灼熱の地でのヒッチハイク、娘との衝突、娘の病気などを経験しながら、
ジュリアは本当に大切なものが何か気づいて行く。
『タイタニック』でスーパーヒットを飛ばしたケイト・ウィンスレットが、
『タイタニック』のあとに選んだ作品がこの『グッバイ・モロッコ』なのだそうです。
もともと、ハリウッドの娯楽大作よりイギリスの文芸的な作品に勢力的に参加していたケイトのこと。
このあまりにも地味な作品の選択も、ある意味納得出来ますし、
いくら大ヒットを飛ばしたからといってハリウッドに留まらず、
自分の戻るべき場所に戻って行ったという彼女の姿勢は、とても好感が持てました。
この作品では、灼熱の地で日焼けしたケイトが、奔放なシングルマザーの役を体当たりで演じています。
しかし、そんなケイトの頑張りだけが浮き立ち、作品の出来としてはいまひとつ。
ジュリアがなぜ、自分探しの旅にモロッコという土地を選んだのかがはっきり分からないので、
どうしても彼女に感情移入出来ないのです。
異文化、異宗教に惹かれる気持ちを映画として表現するのは難しいことなのかもしれませんが、
この作品では、それが全てだと言って過言でないため、理解出来ないと乗れないのだと思います。
レベル2
ロリータ
13歳の少年ハンバートは、1つ年下の少女アナベルと激しい恋に落ちた。
しかし彼女を病気で失ってしまい、そのショックから彼は大人になってもなお、
アナベルの面影に囚われ続けた。
ハンバートの心はアナベルの死がトラウマとなり、少年から成長を止めてしまったのだった。
すでに中年になり、仏文学者となっていたハンバート(ジェレミー・アイアンズ)は、
教授の職を得てニュー・イングランドの小さな田舎町へとやってくる。
そして、彼はたまたま下宿先に選んだ未亡人シャーロット(メラニー・グリフィス)の家で、
彼女の12歳になる娘、ロリータ(ドミニク・スウェイン)の姿に釘付けになってしまう。
シャーロットとロリータと共に、同じ屋根の下で暮らし始めたハンバート。
シャーロットは洗練されたハンバートに夢中になるが、
ハンバートには少女ロリータの姿しか目に入らなかった。
ロリータこそがハンバートの夢であり、アナベルの再来だったのだ。
早熟なロリータは、そんなハンバートの気持ちをもて遊ぶかのように、
彼に思わせぶりな態度を示し、気持ちを惑わせる。
小悪魔のようなロリータに、ハンバートは少年のような心で恋して行く。
やがてハンバートは、この家に留まるためにシャーロットの求婚を承諾し、ロリータの義父となるが、
シャーロットはふとしたことでハンバートがロリータに恋をしていることを知ってしまう。
いい大人が少女に対して異常な執着心を持ったり、恋心を持ったりすることを
“ロリコン(=ロリータ・コンプレックス)”と言うのはご存知でしょう。
この言葉は1955年にパリで出版された『ロリータ』という小説が元になっているのだそうです。
その小説を1962年にキューブリックが映画化。
そして今回の『ロリータ』は、そのリメイクだそうです。
人道を外れていると言われ、世間から認めてもらえないからこそ切なさがつのる恋はあると思います。
例えば結婚している人を好きになってしまったり、同性を好きになってしまったり・・・・。
そして、自分の子供ほどの年齢の娘に純粋に恋してしまった男の話を描いたこの『ロリータ』も、
そんな切なさを秘めた作品だと思っていました。
しかし、この作品の切なさは実は全く別のところにあったのでした。
少年時代のトラウマのために、いつまでも死んだ12歳の恋人の面影を追いかけるハンバート。
この作品は、全てハンバートの主観で語られています。
彼の気持ちを観客に充分に納得させられなければ、この作品は失敗です。
観る側がハンバートに感情移入出来なければ、この作品は少女を追い掛け回す、
ただの変態オヤジの物語に成り下がってしまうのです。
しかし監督エイドリアン・ラインの演出は、私をすんなりとハンバートの視点へと運んでくれ、
彼が小悪魔的な魅力を持ったロリータにひと目で惹かれてしまう気持ちも、
とてもストレートに受け入れることが出来ました。
ハンバートに気持ちがあるのを知ってか知らずか、思わせぶりな態度で彼を誘惑するロリータ。
ハンバートは一途にロリータに自分の全てを注ぎこんでしまうのに、
気まぐれなロリータは何を考えているのか全く分からない。相手の気持ちがつかめない。
ハンバートは一見、一方的に与えつづけることで満足しているしているように感じさせてはいるものの、
実は与えてもらうことも心から望んでいる。
自分だけを真っ直ぐに見つめて欲しいと願っている。
しかし、それを素直に態度にすることが出来ない。
縛りつけようとすると、彼女は逃げて行ってしまうから。
彼女が好きだからこそ、手放す勇気が持てず、苛立ちながらもつい相手に媚びてしまう。
私は、その気持ちが切なくて切なくてたまりませんでした。
たまたまロリータがとても歳の離れた娘であっただけで、歳の差は問題ではありません。
この作品では、ハンバートとロリータは、ただのひとりの男とただのひとりの女だったのです。
人をとても好きになると、誰もが相手の気持ちが分からなくて不安になったりします。
そんな気持ちがとてもよく伝わってくるから、私は悲しく切なくなってしまったのでした。
救いようのないストーリー上のオチは、個人的にはあまり好きではありません。
ただ悲しく切ないだけの作品になってしまったのが、とても残念でした。
レベル3.5
ラストの説明くさいキャプションは、全く不要だと思いました。
原作のエンディングをどうしても説明したければ、映像で説明するべきでしょう。
ヴァージン・フライト
保護観察処分の代わりに120時間の社会奉仕活動をすることになった
リチャード(ケネス・ブラナー)は、
MND(運動ニューロン疾患)という難病のために車椅子生活を送る
ジェーン(ヘレナ・ボナム・カーター)の相手をすることになった。
無理難題を吹っかけてくるわがままなジェーンにリチャードは手を妬くが、
ジェーンは、これまで出会ったボランティアとはまったく違う
リチャードに心を開きはじめていた。
一方、何をやっても上手く行かないリチャードは、廃材を集めて飛行機を作り始める。
「空を飛ぶことが出来れば、何かが変わるに違いない」という
おかしな強迫観念めいたものに突き動かされ、彼は飛行機づくりに熱中するのだった。
そんな中、18歳で発病する前にヴァージンを失わなかったことをひどく後悔していたジェーンに、
リチャードはロスト・ヴァージンを体験するのを手伝って欲しいと頼みこまれる。
難病ものにしては明るいテイストだったので期待はしていたのですが、
この作品にはどうしても乗りきれませんでした。
これは、ロスト・ヴァージンを夢見る難病の娘の話ではなく、
空を飛ぶことを夢見ているリチャードのお話なのだと思うのですが、
彼がそう思うようになったバックグラウンドが、あまりにもはっきりしないのです。
つまり、彼がなぜ空を飛びたいと思い、飛行機を作ることに熱中するのか、
それが伝わってこないので、感情移入出来ないのです。
そんな彼が難病の娘と知り合い、彼女から多大な影響を受けて、
彼自身が変化していく様を描いた作品なのでしょうが、
言わんとしていることが伝わって来ません。
身体が不自由な女と、心が不自由な男が、寄り添って空を飛ぶ・・・・
というこの作品のメインテーマに惹かれていただけに、残念でした。
レベル2