石堂清倫著『20世紀の意味』

におけるグラムシ

 

(宮地作成)

 

 (注)、〔目次〕「3、日本史へのグラムシ概念の適用」全文だけが、『象、第41号』(2001年秋、代表水田洋)に掲載されました。また、その「3」を簡潔にした文が、『東京グラムシ会会報「未来都市」第20号』(2001年10月、石堂清倫氏追悼特集号)に載りました。

 

 〔目次〕

     はじめに

   1、ロシア革命観と「機動戦・陣地戦」

   2、西ヨーロッパにおける「永続革命」から「市民的ヘゲモニー」への転換

   3、日本史へのグラムシ概念の適用 「受動的革命」「機動戦・陣地戦」

 

 (関連ファイル)          健一MENUに戻る

    中野徹三『遠くから来て、さらに遠くへ』《追悼論文》

      −石堂清倫氏の九七年の歩みを考える−

    有田芳生 『私家版・現代の肖像 石堂清倫』

    宮地幸子 『道連れ−石堂清倫氏のこと』『蔵書を売る』

    加藤哲郎 『石堂清倫著「20世紀の意味」書評』

    東京グラムシ会 グラムシ思想案内、グラムシ研究、リンク集

       『日本のグラムシ研究者列伝−石堂清倫』

        石堂氏の略歴、主要著作リスト、功績の要点

    東京グラムシ会会員、田之畑高広HP グラムシ案内、研究

 

    石堂論文・手紙 掲載ファイル

 

 はじめに

 

 石堂氏は、2001年9月1日、老衰のため、97歳で亡くなりました。本書は「遺著」となりました。謹んでご冥福をお祈りします。

 本書は、5章からなり、2001年、平凡社から出版されました。97歳の渾身を込めた一冊で、貴重な分析、証言に満ちた評論集です。20世紀は、戦争と革命の世紀といわれます。石堂氏はその生き証人であり、長く革命運動にたずさわり、満鉄調査部で、日本軍部ファシズムとその中国侵略の実態を体験しました。戦前のコミンテルン日本支部(=戦前の日本共産党)活動に参加し、逮捕され、5年間の獄中体験をしました。獄中で、ロシア語、中国語をマスターし、戦後はイタリア語も身につけました。そして、「マルクス・エンゲルス全集」「レーニン全集」翻訳者の一人だけでなく、ロイ・メドヴェージェフによるスターリン批判の名著「共産主義とは何か」や、イタリアの革命家・思想家グラムシ「獄中ノート」の翻訳、紹介においても先駆的業績を挙げています。以下は、その全体、または各章の書評ではなく、全章に共通して流れているグラムシ解釈、グラムシ概念の日本への適用というテーマに限定した考察です。グラムシの「引用文」「解釈」は、すべて本書で、石堂氏が書いているものです。

 

 本文に入る前に、Antonio Gramsci アントニオ・グラムシ(1891−1937)の経歴を紹介します。政治家・政治思想家で、イタリア・サルデーニャに生まれ。第一次世界大戦後の労働運動・社会主義運動の高揚の中で、近代的労働者と接し、実践運動に関わります。1922−23年に共産党を代表してモスクワに滞在し、戦術大転換を模索中のコミンテルンの論議に接し、ソヴェトとは異なったヨーロッパとイタリアの革命を考えるようになりました。帰国後、党書記長としてファシズム体制と闘い、26年逮捕・投獄され、37年自由の身となるが、そこなわれた健康は回復せずまもなく死去。残された29冊の「獄中ノート」と「手紙」は今日、世界中で読まれています。

 

 

 1、ロシア革命観と「機動戦・陣地戦」

 

 石堂氏の解釈によれば、グラムシは、ロシア革命の位置づけとして、フランス革命からスターリニズムまでの革命史を、「機動戦・陣地戦」概念により、4段階に分けて把握しています。ただし、4段階という分類の仕方は、グラムシや石堂氏が直接言っているのではなく、私(宮地)の読後感による分類です。この概念は、政治闘争・革命運動の世界史的性格を規定するものです。「機動戦」「運動戦」「永続革命」という言葉は、ある程度単純な政治運動・武装蜂起による権力奪取革命などの正面攻撃過程、ゼネスト・バリケードなどの街頭行動戦術を意味します。それにたいして、「陣地戦」は、生産と政治、文化などの全社会体系、塹壕体系を総体的に変革し、長期にわたり「市民的ヘゲモニー」を打ちたてていく経済・政治・文化過程を総合した運動です。グラムシは、ロシア革命、その条件とイタリア・西ヨーロッパの革命、その条件との対比を追及するなかで、この概念を導き出しました。。

 

 第1段階 1789年から1871年パリ・コミューンまでの「機動戦」時期

 

 グラムシは『1789年から1870年までのヨーロッパでは、フランス革命で機動戦がたたかわれた』(邦訳『獄中ノート』1992年、P.132)(石堂P.29)としました。石堂氏はそれを受けて、次のように書いています。『グラムシにこんな意見があります。1921年までレーニンが信じていた永続革命は、フランス革命から始まって、マルクスたちが「共産党宣言」を書いた1948年革命で頂点に達した。そしてそのサイクルは、1871年のパリ・コミューンで閉じている。』(P.92)

 

 第2段階 1917年ロシア革命から1920年までの「時代錯誤的な機動戦」時期

 

 「機動戦」時期が過ぎて、それ以降は、新しい運動=ヘゲモニー運動に移るべきで、武力によって権力を獲得し、権力によって社会主義を建設できるという考えは誤りである――とする点で、グラムシと石堂氏の見解は一致しています。

 グラムシによれば、『ロシアの1905革命は、永続革命方式がすでに無効であることの一つの証明である』(P.33)とも規定しています。したがって、1905年革命、1917年革命は、「陣地戦」に移るべきを、すでに時代錯誤的になった「機動戦」「運動戦」型としてたたかわれたのでした。ゼネストや市街戦などの正面攻撃に帰着する「機動戦」は、『今や、敗北の原因でしかない』時代に入っているのに、その方式で1917年革命がたたかわれたいうロシア革命観です。

 

 第3段階 1921年、レーニンによるロシア革命の誤り承認と「陣地戦」移行期

 

 グラムシは次のように述べています。『イリイッチ[レーニン]は、17年に東方[ロシア]に適用して勝利した機動戦から、西方でただ一つ可能であった陣地戦への変更が必要なことを理解していたように思われる……ただイリイッチは、かれのこの定式を深める時間がなかった』(『獄中ノート』P.193)(石堂P.28)

 

 石堂氏は、1921年の転換内容を2つあげています。第一は、『従来の「戦時共産主義」の方針を改めて、農民から農作物を取り上げるのではなしに、一定の食糧税として納入させ、余剰の農作物は自由市場で販売することを許すという、市場の存立を前提とする「新経済政策」をとったことです』(P.26)。その原因は、農民が、ボリシェヴィズムに反抗しだし、21年3月にクロンシュタットの水兵の暴動が突発したからです。水兵は農村出身です。農民が武器に訴えてボリシェヴィキ政権に反対する。ソヴィエト権力は労働者階級と農民の同盟に依拠していたのに、その同盟が根底からくつがえされる恐れが生じたのですから、農民政策を改め、同盟を維持しなければならなくなり、ここに「新経済政策」が生まれたことになります。

 

 第二、『もう一つの問題は国際政策の転換です。1921年3月のドイツ革命の失敗が原因です。この革命は、ドイツ共産党が社会民主党との十分な協力なしにくわだてた武装蜂起ですが、これが惨敗しました。レーニンは、『ドイツの三月は「愚行」であった。「われわれの唯一の戦術は、より強く、だからより賢明に、より思慮ぶかく、より日和見主義的になることだ」(邦訳、レーニン全集第三六巻)』としました(P.)145。これまで社会民主主義は日和見主義だと罵ってきたのはレーニンの指導するコミンテルンである。いまや戦術を転換して、深く「大衆のなかへ」入ってゆき、社会民主主義者を含めた統一戦線をつくらねばならなかったのです』。

 その原因について、石堂氏は次の分析をしています。『市民社会のなかでおのずから生れ出るはずの事柄まで、少数の前衛が正面攻撃の方式でたたかいとらなければならない。そこには無理がある。その無理は「プロレタリアート独裁」の力ではもはや解決できない。レーニンがそのことに気付いたのは1921年です。クロンシュタットの暴動があって、それまでボリシェヴィキ革命を支持してきた農民が、ボリシェヴィキに叛旗をひるがえす。労働者と農民の同盟は崩れてしまった。それは、レーニンにとって一大衝撃でした』(P.90)。

 

 石堂氏は、『現にグラムシは、この年を世界的な「運動戦」から「陣地戦」方式への転換点と考えている』(P.135)としています。

 

 第4段階 スターリニズムとそのコミンテルン運動における「機動戦」への逆転換時期

 

 石堂氏は、この段階を「受動的革命」(=「復古−革命」)としました。『レーニンが亡くなると数年のうちに、レーニンの政策は元の「戦時共産主義」の方針に逆戻りし、「新経済政策」も廃止になりました。そういうことで、その後のロシア革命は、グラムシが言う意味での受動的革命の段階に陥って、社会主義的な積極的な前進は、もはや見えなくなります』(P.31)。そして、あのやり方は、まさに「機動戦方式」そのものであると、グラムシは見たとしています。

 

 

 石堂氏は、このようにして、1789年、1848年革命、1871年パリコミューンからスターリン時代までの世界の革命運動史を、グラムシの「機動戦・陣地戦」「ヘゲモニー」「永続革命」と「受動的革命」の概念を分析道具として、19・20世紀の世界史時期区分を、本書全体で提起しました。このような「世界革命運動史観」は、今までに見られない斬新なものと言えます。ただ、この4段階区分は、私(宮地)がグラムシ、石堂著書を自己流に解釈したものです。私は、5章中の1章から4章までを、その都度、石堂氏の了解をえて、私のHPに転載しました。今回、本書出版により、それらを通読してみて、石堂氏がいかにグラムシ思想、その概念を使いこなして、世界と日本を分析しているのかを改めて痛感しました。

 

 

 ただ、私(宮地)は、グラムシの「1921年情勢評価やネップ評価」内容にたいして、基本的な異論を持っています。私の「ネップ」評価は、以下です。「ネップ」は、あくまで、レーニンの『一時的戦術的後退・退却』作戦である。レーニンは、それによって「戦略的転換」などしていない。レーニンがその戦術的効果を認める発言をしたとしても、彼はマルクス「青写真」の「市場経済廃絶」路線を放棄していない。1922年3月の第11回大会でも、彼は「ネップ」を『退却』と明確に規定する発言をしている。それは、「ネップ」と同時平行的に行なわれた1920、21年の農民「反乱」、労働者ストライキ、クロンシュタット・ソヴェト反乱にたいする武力鎮圧、その指導者“皆殺し”作戦の遂行によって、証明されている。しかも、1922年、500万人もの飢饉死亡者が出ているときに、「聖職者全員銃殺」指令を出し、聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害をしている。かつ、知識人に「反ソヴェト」レッテルを貼り、数万人を国外追放・国内流刑にしている、という事実に基づく異論です。これらの事実は、1991年ソ連崩壊後に、明らかになったデータです。獄中にいて、ソ連崩壊後に公表された「レーニン秘密資料」を知らない、『獄中ノート』当時のグラムシが、上記判断をしたのは、当然ともいえます。

 

 私の「レーニン評価」「ネップ評価」内容は、次の3つのファイルで書きました。それは、()「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚実()聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理(3)「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』とレーニンの党派性 です。

 

 

 2、西ヨーロッパにおける「永続革命」から「市民的ヘゲモニー」路線への転換

 

 〔小目次〕

   1、コミンテルンの体系・戦略批判としての『獄中ノート』

   2、「分子運動」概念の重要性と「陣地戦」への移行

   3、「サバルタン」(=従属的集団)概念と「ヘゲモニーグループ」

 

 グラムシは、マルクスを研究しながら、ロシア革命を、上記4段階の観点で考察し、ロシアの条件と異なる西ヨーロッパでの運動のあり方を『獄中ノート』に記しました。石堂氏は、そこから多数のグラムシ概念を取り上げていますが、ここでは2、3の問題だけを検討します。

 

 1、コミンテルンの体系・戦略批判としての『獄中ノート』

 

 コミンテルンの戦略は、西ヨーロッパすべての国の革命運動に直接・間接の多大な影響を与えました。『獄中ノート』の読みかたとして、石堂氏は次のようにのべています。

 『私が時々グラムシを持ち出すのは、グラムシの「獄中ノート」の大半は、ソヴィエト共産主義に対する理論および政策上の批判だったと思うからです。ブハーリンを批判したということは、コミンテルンの公式イデオロギーとして批判したということであり、細かい言及をみても、だいたい、スターリンおよびスターリン陣営にたいする批判と解釈したほうがいい問題がたくさんあります。そういう意味で私は、グラムシ理論はコミンテルン方式にたいする根本的批判の書として受け取ってよろしいと思います。ロシア革命は、本来のプロレタリア革命として展開されたのではなくて、非常に不十分なかたちで状況に恵まれて革命は成功できたけれども、本来の社会主義革命としての成果を上げるには至らなかったのです』(P.29)。

 

 石堂氏および日本の左翼がグラムシを知ったのは、戦後でした。それ以来、なかでも、石堂氏は、グラムシの翻訳・出版、紹介や、グラムシ概念の適用において、一貫して先駆的役割を果してきました。石堂氏の『獄中ノート』の読みかたは、日本のマルクス主義者として、グラムシ理解がどう深化していったかを示しています。『しかし、グラムシの「獄中ノート」をすぐに共産主義運動と結びつけることは困難でした。ただ、私はコミンテルンの運動を少し知っていましたから、そうした観点で「獄中ノート」を読んでみると、コミンテルンの理論と実践を支えている「マルクス・レーニン主義」体系にたいする全面的批判をグラムシが考えていることに気づきました』(P.97)。

 『レーニン死後の共産主義運動の内部的な自己批判として読んだ方がわかりよいんです』という指摘は、今後のグラムシ研究の一つのあり方としての示唆に富んでいます。

 

 2、「分子運動」概念の重要性と「陣地戦」への移行

 

 石堂氏は、第1、4章で、「分子運動」という概念の重要性、「永続革命」・「運動戦」方式から「市民的ヘゲモニー」・「陣地戦」方式への移行を論じています。その付記で、グラムシのロシア革命観を「分子運動」概念によって説明しています。『グラムシの「分子運動」的変化や毛細管現象について一言しておきます。グラムシにとって、第一次世界大戦後のロシア革命(1917年)は一種の「滄桑の変」の側面があった。それについて一つの説明を試み、分子運動のメタファーをもちだしたのである。1914〜18年の間に無数の出来事が起こっている。人々はそれに注意しなかったが、目に見えない微細な運動が数年のあいだに堆積して大きな塊になっていく、その大きな塊の上に、ある日突如として大変動が起こつたようなものです』(P.73)。

 「滄桑(そうそう)の変」という言葉について、広辞苑は次のように説明しています。「桑田変じて滄海となるような大変化。世の変遷のはげしいことにいう」。

 『ロシアの理論家たちは、事後に予見が実現されたような歴史を描いているが、そこにはこの「分子運動」の精細な復元があった』(P.74)というのが、グラムシの考えではないか、と石堂氏は見ています。

 

 1870年とそれ以降の資本主義をどう見るのかという問題があります。レーニン、コミンテルンとグラムシとの観点の違いを、石堂氏は指摘しています。レーニンが分析対象にした帝国主義は、主としてドイツで発展した形態で、アメリカに始まり、ヨーロッパで拡大した「フォーディズム」ではありませんでした。

 『グラムシは、どのような社会構成体も、その内部でまだ生産力が発展してゆく余地をもっているかぎり消滅しないであろうというマルクスの提言(『経済学批判・序言』の命題の言いかえ)にもとづいて、社会がまだその段階にあるのに、資本主義の急激な没落を前提とするコミンテルンの戦略に批判的であった。1848年型の「永続革命」方式と異なったヘゲモニー運動を重視し、その基盤における妥協と改良の表現としての「分子運動」、小さな波の重要性を説いたのである』(P.132)。

 

 『レーニンの1870年は、資本主義終観の視角から眺めた印象がある。これに反して、グラムシの1870年は、フランス革命に始まり、1848年で頂点に達し、パリ・コミューンでサイクルを閉じる「永続革命」の終末点であるとともに、新しい発展の起点である。1870年から1914年の第一次世界戦争勃発までのこの経過は、「いろいろの問題、いろいろの重要性と意義」を帯び、議会制、産業組織、民主主義、自由主義の発展を意味し、その間「分子的に積もってきたいくたの問題」がまさしく大塊となり、それまでの経過の全般的構造を改変した。そこには市民的ヘゲモニーをめざす新しい歴史的全体が登場している (Q−15§〈59〉「イタリア・リソルジメント」)。おなじことのくり返しであるが、次のようにも述べている。「1980年以後の時期になると、これらすべての要素が変化し、『永続革命』の48年定式は、政治学では「市民的ヘゲモニー」の定式にねりあげられ、のりこえられた。運動戦はますます陣地戦になっている (Q13§〈7〉「集団人または社会的順応主義の問題」)」』(P.149)。

 

 グラムシが考察し、創造したこれらの概念は、レーニン理論、コミンテルン戦略、マルクス・レーニン主義体系に存在していませんでした。また、戦後、初めて、グラムシ思想が日本に入ってきても、石堂氏のように受け止める左翼は、まったく少数でした。この観点は、西ヨーロッパだけでなく、まさに現代日本に適用されうるものといえます。

 

 3、「サバルタン」(=従属的集団)概念と「ヘゲモニーグループ」

 

 石堂氏は、本書全体を通じて、支配階級のヘゲモニーにたいする「対抗ヘゲモニー」を論じています。その主体になるものとして、グラムシの「サバルタン」概念への注目を呼びかけ、さらに、「グローバリゼーション」「アソシエーションのグローバル化」のテーマとその展望を示しました。

 

 『最近、サバルタン研究が盛んになりました。私は、グラムシにとってのサバルタン問題というのは、単に社会学的な独立した理論分野として考えるよりも、支配被支配のなかで、被支配的なグループがいかにしてヘゲモニーグループに昇っていくか、という問題としてとらえるべきではないかと思います。だから、いままでの階級運動とは違ったかたちで、革命的な集団が形成されていく上での期待される展望として、グラムシはサバルタン問題を考えたのかもしれません』(P.98)

 

 『彼の解放理論は、従属的な諸集団が形成するもろもろのアソシエーションを内的に結びつける過程を追求しました。彼はアソシエーションが連合化されるのは一定の倫理的なー原理と考えています』(P.69)

 『このグローバリゼーションは、同時に、資本主義固有の矛盾もまたグローバル化しています。支配階級がグローバル化していると同様に、被支配階級もまたグローバル化する可能性があるのですから、アソシエーションのグローバル化の機会が生じます』(P.71)

 

 「サバルタン」概念は、従来のマルクス・レーニン主義体系による「ブルジョアジーとプロレタリアートととの階級闘争」にすべてを還元して、単純化する「プロレタリアート優位主義」や、他の闘争の位置づけを軽視する「階級闘争還元主義」を克服するものです。そして、多様な従属的集団(サバルタン)とそのアソシエーションを形成し、支配階級にたいする「従属階級のヘゲモニー」を創出していく上で、今後きわめて重要な概念になると思います。

 

 片桐薫編『グラムシ・セレクション』(平凡社、2001年)に、この概念の「注解」と「原典抜粋」が載っています。片桐氏の「サバルタン・注解」の一部を転記します。『彼が「従属集団(サバルタン)」について熟考するのは獄中においてである。「プロレタリアートによる権力の獲得」という政治「神話」を超えて考えることの必要性を考えるようになった彼は、「ノート」3で初めて「従属者」という表現をもちい、支配階級との対比における従属階級の歴史についてのいくつかの論稿を書き、その後も、いくつかの「ノート」の各所で、さまざまな角度からこの間題を論じた。しかも彼は、「従属者」もしくは「従属階級」といった表現だけで論じているとは限らず、「労働者」「民衆」等々の表現で、広い意味での「従属論」を展開していった。彼は概念規定から出発し、それにそって理論展開するような思想家ではなかったのである。彼の従属論のポイントは、従属階級を従属状態に宿命づけられたものとしてではなく、そこから脱出するために、同階級の知識人をいかに形成するかというヘゲモニーの問題と結びつけたところにあった』(P.241)。

 

 石堂氏は、帝国主義・植民地下の「従属階級によるヘゲモニー創出」の一例として、ガンディーの教訓を分析しています。そこから、日本の今後の課題についても、現代グローバリゼーションにおけるアメリカのヘゲモニーにたいして、どのように日本、アジアでの「対抗ヘゲモニー」(counter hegemony)を創出するかを、グラムシの諸概念で提案しています。

 『今後の日本の社会運動は、そういったもろもろの諸集団を新しいアソシエーションに編成する課題に当面しています。このアソシエーションが国境を越えて拡がってゆくのですが、それを確実にするために、わが日本の排他的な国民性を改革することが重い条件になります。国民的規模での「知的道徳的改革」なしにはアソシエーションを成立させる原理をつくりあげることはできないからです』(P.72)

 

 『アメリカの対日優位はもちろん武力にもあるが、それだけではない。今日の世界では武力の果たす歴史的意義は減退しつつある。彼の優位にはわれわれよりも深い社会的・経済的・文化的「革命」を経過しているところもある。それならば日本は社会的・経済的・文化的な対抗ヘゲモニーを実現すべきである。それに成功しなければわれわれはなお「受動革命」に沈潜していなければならない。これが一つの歴史的課題である。だがそれと同時に、われわれはアジアの諸国、いわゆる日本にとっての周辺国にたいして、ヘゲモニーを行使するべきではないであろう。もし日本がアジア、とくに東アジア諸国と同質の関係を結ぶことができるならば、そのときアメリカにたいする対抗ヘゲモニーは成就するであろう』(P.160)。

 

 

 3、日本史へのグラムシ概念の適用 「受動的革命」「機動戦・陣地戦」

 

 〔小目次〕

   1、「復古−革命」(=「受動的革命」)としての明治維新、「軍部の運動」

   2、「機動戦」でたたかわれた日本のコミンテルン運動

   3、『大量転向』『党消滅』原因としての「機動戦・陣地戦」

 

 「旅をする思想」というテーマがあります。水田洋氏は、『思想の国際転位−比較思想史的研究』(名古屋大学出版会、2000年)において、アダム・スミス、J・S・ミルの思想が初めて日本に導入されたときに、日本の歴史的状況によって、受け入れられたものと無視された部分など、その転位の様相を多面的に分析しています。片桐薫編『グラムシ・セレクション』に吉見俊哉解説「カルチュラル・スタディーズとグラムシの対話をめぐって」があります。吉見氏は、イギリス研究者たちの研究方法を分析しています。彼らは、イギリスの文化研究において、その歴史的状況のなかで、どう“グラムシの「創造」”をしたのか、即ち、グラムシが提供した諸概念をイギリスの直面する状況を解明する方法として、どう利用したかを明らかにしています。

 

 石堂氏は、本書全体において、戦前の日本の歴史的状況、革命運動の問題点を抉り出す上でも、グラムシの「受動的革命」「機動戦・陣地戦」概念を、その“分析道具”として利用しています。 以下3点で、石堂氏による、日本史解明における“グラムシの「創造」”を検討します。

 

 1、「復古−革命」(=「受動的革命」)としての明治維新、「軍部の運動」

 

 「受動的革命」とは、もともとイタリアの特殊現象と考えられていました。グラムシは、これをより一般的に、フランスの王政復古にも、ファシズム運動にも適用しうる概念に拡大しました。そこから、石堂氏は、そのヴァリアントとして、()スターリン時代の上からの革命過程、()日本では、自由民権運動が国権主義に吸収されていった過程を、「受動的革命」として位置づけました。さらに第5章で、直接的には明記していませんが、私の判断では、(3)「軍部の運動」も、()に連続した日本型ファシズム=「復古−革命」として、石堂氏はとらえています。

 

 「受動的革命」という用語は、『獄中ノート』のもっとも複雑な概念の一つです。片桐編『グラムシ・セレクション』の「受動的革命・注解」の一部を転記します。『彼は、「受動的革命」の概念の歴史的類推によってファシズム分析にまで広げる。つまりファシズムをブルジョワジーによるたんなる防衛的反動でも、また資本主義的停滞と危機に対応するものでもなく、「復古・革命」として、「現代の政治的・歴史的運動」の一つとしてとらえていった』(P.55)。

 

 日本における「復古−革命」を、石堂氏は、次のように説明し、グラムシの「受動的革命」概念を拡大適用しています。

 『明治維新は、一方では徳川幕藩体制を倒した点で「革命」でしたが、中国人の場合は違い、その方向は「復古」でした。旧来の国民的特性として知られている「尚古」と「排他」の基本精神は規定的な力をもちつづけました。明治の「復古−革命」新政権は、根本では復古=保守の原則を守り、他方では、士族出身の行政者、技術者の官僚集団を形成し、こうして「封建的・官僚的外被」のもとで、一挙の変革ではなしに小刻みの改革・近代化に成功し、先進資本主義国に近づきました。福沢諭吉らの文明開化の促進は、脱亜入欧の形をとりました。今なお封建遺制に拘束されて近代化におくれたアジア諸国を自らに従属させ、これを支配することによって、ヨーロッパ的水準に到達したいという方針です。日清戦争、朝鮮併合が近代化の軍事的性格をよくしめしています。日露戦争は、まがう方のない帝国主義日本の宣言でもありました』(P.62、63)。

 

 第5章の内容は、軍部に関する鋭い研究で、満鉄調査部にいた石堂氏の経歴、体験とあいまって、貴重な証言に満ちています。日本帝国主義の特殊性の深い分析によって、この内容全体が、コミンテルンの1927年テーゼ、32年テーゼ批判、戦前の日本共産党の運動批判となっています。軍部は、満州侵略のための大カンパニアとして演説会を全国的に展開しました。「満蒙の確保」に向けて、軍部は総力をあげて、直接に国民を動員しようとしました。聴衆は、1866カ所、165万人に達していたのです。このカンパニア内容と動員データは、石堂氏が初めて明らかにしました。それにたいして、コミンテルンと日本支部は、注意を向けず、なんの対策も打ち出しませんでした。それどころか、その軍部ファシスト・クーデタの危険にたいする闘争よりも天皇制打倒闘争に向かわせるという重大な誤りを犯したのです。しかも、その天皇制廃止方針・闘争を「機動戦」でたたかうという二重の誤りにより、党が消滅したのです。その点から、この第5章は、戦前の日本史、および、コミンテルン日本支部運動における歴史の空白を解き明かす貴重な研究になっています。石堂氏が、このテーマを研究し、「書き下ろし」で執筆した時期は、まさに96、97歳のときでした。これこそ、『97歳渾身の一章』といえます。

 

 2、「機動戦」でたたかわれた日本のコミンテルン運動

 

 石堂氏は、ロシア革命、コミンテルン運動に「機動戦・陣地戦」概念を適用して、4段階のなかで位置づけました。それとともに、その概念をコミンテルン日本支部運動にも適用し、“グラムシの「創造」”をしています。1920、30年代の日本の革命運動も、当時の歴史的状況において、「陣地戦」であるべきを、「機動戦」でたたかったことによって崩壊したとする見解です。

 

 戦前日本において問題となるのは、「天皇制打倒」スローガン、および廃止戦術です。その根底にある天皇制の規定問題です。コミンテルンは“鉄の規律”の下で、日本支部にたいし、天皇制はツァーリズムと同じ「絶対主義」であるとの規定を押し付けました。そして、最初からその廃止戦術を強調しました。

 『この当時の国民精神としては、天皇崇拝は強固なものであり、これにどのように共産主義者は対応できたのか、おそらく明確な見通しをもつものはなかったのではないでしょうか。共産主義者のあいだでも、具体的に考えるものはなかったでしょう。コミンテルンにしても大差はなく、せいぜい彼らの知っているツァーリズムとの類推によって、これを絶対主義であると規定するだけで日本における反天皇制活動の困難性はあまり深く考えていなかったのではないかと思われます』(P.37)。

 

 『コミンテルンの方針自体が前時代的な機動戦方式に依拠するため、日本の君主制を適切にとらえにくいところにあると思われます。君主制は、形態では封建性あるいは非ブルジョア性の産物にみえるが、その内実では半ばブルジョア化した日本近代に適合していたと考えることもできます。この場合、ツァーリズムとの類推は適切ではありません。日本型の陣地戦としての君主制が考えられるとすれば、コミンテルンによって理解されていた廃止戦術でなしに、「復古・革命の弁証法」によって成立した天皇制規定が登場します。それがどのように出現しうるかを論じた人も少なく、「コミンテルン−日共方式」にたいするオルタナティヴを検討すべきでした。そして、このオルタナティヴを積極的に提示できないところに転向現象が影をおとしたとも考えてよいのです』(P.38)。

 

 『それは天皇制の規定がコミンテルンによって与えられ、それを無謬の真理として、というよりは天孫降臨の神話のよう出発点として受け取っていたために、その教条解釈が歴史過程の分析を不可能にしたのである。私はそのとき満鉄査部以来の知友、横川次郎の遺著『我走過的崎嘔的小路』の一節をひいた。彼は端的に、崩壊した戦前共産党の根本的錯誤の根元がモスクワにあったというのである。

 その第一は、コミンテルンが日本の党にソ連邦防衛を主要任務として与えたこと。それは一言すれば、ソ連共産党の民族的利己主義を暴露するものでしかない。

 第二に、32年テーゼが、ファシスト・クーデタの危険にたいする闘争よりも天皇制闘争に向かわせ、さらに日本の社会民主主義を「社会ファシズム」と誤って規定して事実上統一戦線を否定したこと。

 第三に、テーゼが天皇制の歴史的生成とその発展の条件、さらには日本人民のあいだにある天皇信仰の現実を捨象して、ロシア・ツァーリズムとの外面的類推にもとづき「絶対主義」と断定したこと。それは「厳重な錯誤」である。最後に、

 第四に、テーゼが「もっとも近い将来に偉大な革命的な諸事件が起こりうる」と主観的に妄想して、日本共産党を左翼冒険主義の泥沼におとしいれ、客観的には軍部ファシズムの「把権」(権力奪取)を助けたことだという』(P.110)。

 

 ()この「絶対主義的天皇制」というロシア・ツァーリズム類推規定とその押し付けが根本的誤りであり、かつ、()それを掲げること自体が即座に治安維持法違反となり、逮捕されることになる「天皇制廃止」運動を誤った、デモ行進などの「機動戦」方式でたたかい、(3)その上に、社会民主主義を「社会ファシズム」と誤って規定して、事実上、軍部ファシズムとの闘争を軽視し、統一戦線を否定するだけでなく、むしろ共産党側が分裂させ、戦争反対の国民からも完全に遊離したのでした。その路線・方針に参加し、動員された日本支部党員2300人は、どうなったのでしょうか、どうすべきだったのでしょうか。戦前のコミンテルン日本支部党員数が、2300人だったという推計を、私(宮地)は、『「転向」の新しい見方考え方』で分析しました。

 

 3、『大量転向』『党消滅』原因としての「機動戦・陣地戦」

 

 他の章にもこの分析がありますが、第3章『「転向」再論−中野重治の場合』でもっとも鋭いコミンテルン批判、日本共産党批判として「転向」問題が位置づけられています。世界的にも、「機動戦」はもはや誤りという段階になっていました。日本でも、『復古』だが『革命』の天皇制、軍部ファシズムにたいして、本来は、もっと柔軟な対応、即ち、“国民の天皇崇拝が強固な社会体系=「塹壕体系」に入り込んで、腰を据えてたたかう”という「陣地戦」で取り組むべきでした。しかし、実際には、コミンテルンの誤った「機動戦」戦略=街頭行動戦術が行なわれました。その時代錯誤的な革命運動・方針にたいする日本共産党指導部の反発により、指導部から真っ先に「転向」が発生し、それが一般党員の「大量転向」を惹起したとする見方です。引用が長くなりますが、基本観点の2カ所を載せます。

 

 『一般に転向とは、政治運動における屈折、妥協、投降などよく見られる現象であり、いつでも運動者の節操が問われる問題です。日本共産党の場合、昭和初期に大量の転向者を出したのは、このような一般的傾向とは異なる意義があったのです。

 昭和の転向は節操や耐久力など道徳的欠陥のある下部党員から生じたのではなく、もっとも能力のある志操堅固のはずの最高指導部から発生したのです。まれにみる激しい弾圧のもとでも、下部の党員はなお闘う意志をもっているのに、それまで無条件に信頼されていた指導部が権力の前に降伏し、なお闘志を擁する党員を背後から攻撃したことになるのです。方途を失ったこれらの大衆的党員は、止むなく刑の軽減をはかるために上部の降伏宣言を支持したのでした。

 転向がこのように薄志弱行の部分ではなく、思想的にも組織的にももっとも強靭で、多年国家権力との闘争で鍛錬された部分から生じた以上、転向の最大の原因は、党指導部と上部機関であるコミンテルンとの原理的対立に求める外はありません。コミンテルンが課した戦略にたいする共産党の反発がなければ、あの大転向は生じなかったでしょう。端的にこの対立は、天皇制と戦争の問題をめぐつて爆発しています。

 

 党は創立の当初から君主制廃止を至上の命題としていました。少なくとも表向きには、この命題に反対するものはありませんでした。しかし、それを国民大衆のあいだで実行に移す段になると、動揺があり逡巡があり、回避が生じています。それを行動に移すにあたり、国民の支持が得られないことが、これらの消極意見のよりどころでした。国民のつよい支持があれば、いかなる弾圧にも抗し、一貫して戦うことができたかもしれませんが、国民から孤立して、前衛集団だけで事を起こす自信がなかったことが、転向における最大の動機となったと思われます』(P.34〜36)。

 

 『最大の問題は共産党の活動方針そのものに伏在していた。秘教的な組織形態とならんで、党の戦略なり戦術なりが、無上の権威をもって君臨していた。それが現実の運動におけるながい経験をつうじて点検されたことがなく、現実の階級関係のなかで適用の可能性があるか否かも問われたことがない。何回かの全党員の根こそぎ検挙をつうじてわかったことは、共産党の考えが、一般国民にたいしてまったく浸透性をもたず、国民の支持を受けるに至っていないことである。犠牲は累加するが、国民は無関心である。

 

 正面攻撃が困難であるなら、迂回作戦を考えるのが普通である。目標に的中させるためには射撃時に銃口を下げなければならないことがある。このような常識的対応なしに、コミンテルンも共産党指導部も、必敗の戦術を漫然と5年も10年もくり返すだけであった。党員は片っぱしから逮捕されたが、目標には一歩も近づくことができない。逆に攻撃部隊の兵員は減少するばかりである。国民は、いまやその息子や娘を共産主義運動にさし出すことを拒否していたのである。

 共産党は1927年テーゼから35年の党消滅にいたるまで、同一の自殺戦術をくり返した。党員は逮捕された瞬間に党から見捨てられる。コミンテルンにたいしては忠誠を尽したつもりであろうが、党は消滅した。

 

 そこで共産主義運動は個々の共産主義者の判断によって遂行される外はなくなった。ただ、党は現実には組織を形式上維持するのがなしうる唯一のことであって、拡大し、深化する侵略戦争にたいする反対運動を国民のあいだに組織する力はなかった。したがって機関紙を配布する以上の力は、個々の党員にもなかった。その党員が逮捕されると、ほとんどすべてのものが、党活動をやめることを誓う外に選択はなかった。それは不可能事を不可能と言っただけである。ところがそれは「変節」であり「降伏」であると当局によって宣伝された。「転向」とは共産主義者の志気をくじくため、当局が案出した官庁用語である。代替策をもたない共産主義者は、この宣伝に対抗する力をもたなかった。それが「転向」なのである。転向者が責められるべきだとすれば、自殺戦術を放棄したことについてではない。彼は代替戦術をとらなかったことにたいして責任があった。つまり、事は個人の心性にかかわる道徳の問題ではなく、反体制の、とくに反戦の連帯行動を可能にする道を示さなかった政治の問題であった』(P.106〜108)。

 

 

 私(宮地)は、『「転向」の新しい見方考え方』で「非転向・転向者」数のデータを書きました。(1)「警察・予審黙秘、非転向」は、宮本顕治だけで、1/2300というまったくの“特殊例”です。()「警察・予審陳述、非転向」は数十人で、敗戦後出獄したのは9人でした。(3)他に「拷問死、獄中病死」が数十人います。(4)戦後の党中央委員会再建は、「非転向」者だけで作られ、1945年第4回大会の中央委員・同候補14人、1946年第5回大会の中央委員・同候補40人でした。宮本氏を除くと、これら『非転向だが、警察・予審陳述』党員は、39/2300人で、約2%でした。()コミンテルン日本支部の97〜98%が、『警察・予審陳述をし、転向』をしました。

 

 このようなコミンテルン日本支部党活動と党組織とは何だったのでしょうか。フランス、イタリアなどコミンテルン各国支部でこのような雪崩的『転向現象』はどこにもありません。戦前のコミンテルン型共産主義運動において、これほど大規模で、一挙に発生した“思想転換現象”“革命組織離脱現象”は、日本でしか見られない、まったく特殊なケースです。国際比較論としてだけでなく、1930年代日本における社会思想史上の重大思想事件の一つとしてもさらに考察を深めるべき研究テーマです。

 

 日本共産党は、『日本共産党の七十年』(1994年)で、初めて「コミンテルンと日本支部の誤り」を“一部だけ”認めました。しかし、石堂氏が本書全体で抉り出した誤りの基本点を、依然として『正しかった』とし、「転向」を『変節、裏切り』としています。現在の日本共産党が描く戦前史は、宮本「非転向者」史観であり、それは、石堂氏の上記史観と根本的に対立するものとなっています。明治維新、天皇制、日本軍部ファシズムの性格規定、および、反体制の日本共産党史とその「消滅」原因などを正確に認識していく作業は、さらに追及されるべき課題です。その国民的作業において、“グラムシ概念を日本史に創造的適用”した石堂著書は、重要な一視点を提示する画期的な文献となるものです。

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 (石堂論文・手紙 掲載ファイル)

    ()、最初の4つは、『20世紀の意味』(平凡社)第1〜4章の内容です。

    『20世紀の意味』 「永続革命」から「市民的ヘゲモニー」へ

    『20世紀を生きる』 特別インタビュー 著書は「評論」形式に変更

    『転向再論−中野重治の場合』

    『ヘゲモニー思想と変革への道』 「世界」1998年4月号

 

    『コミンフォルム批判・再考』 スターリン、中国との関係

    『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』 手紙3通と書評

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』 石堂インタビュー、挨拶

 

 (関連ファイル)

    中野徹三『遠くから来て、さらに遠くへ』《追悼論文》

      −石堂清倫氏の九七年の歩みを考える−

    有田芳生 『私家版・現代の肖像 石堂清倫』

    宮地幸子 『道連れ−石堂清倫氏のこと』『蔵書を売る』

    加藤哲郎 『石堂清倫著「20世紀の意味」書評』

    東京グラムシ会 グラムシ思想案内、グラムシ研究、リンク集

       『日本のグラムシ研究者列伝−石堂清倫』

        石堂氏の略歴、主要著作リスト、功績の要点

    東京グラムシ会会員、田之畑高広HP グラムシ案内、研究