「勝ったのは民主主義だ!」

 

政権を奪還したイタリア中道左派連合の苦闘の歴史

 

労働運動研究所 柴山健太郎

 

 (注)、これは、2006年4月9、10日に行われたイタリア総選挙結果に関する労働運動研究所柴山健太郎理事長の論考である。『進歩と改革・2006年6月号、bU54』に掲載された。このHPに、全文を転載することについては、柴山氏の了解をいただいてある。イタリア・ドイツ・フランスの左翼・中道左派の動向や選挙結果データは、日本にとっても大きな示唆を含む。

 

 〔目次〕

   1、裏目に出たベルルスコーニの新選挙法

   2、イタリア総選挙結果、2006年4月9、10日 〔第1表・下院、2表・上院〕

   3、「オリーブの木」の再編成から「ユニオン」結成まで

   4、「『持てる者』と『持たざる者』へのイタリアの分裂をなくそう」

   5、「ユニオン」政策綱領の要旨

   6、柴山健太郎略歴

 

 〔関連ファイル〕     健一MENUに戻る

     柴山健太郎『ドイツ連邦議会選挙における左翼党躍進の政治的背景』

     『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約

     『フランス共産党の党改革の動向と党勢力』「進歩のための統一協定」運動

     『コミンテルン型共産主義運動の現状』

     アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』

     福田玲三『史上初めて対案提出』フランス共産党32回大会

     福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』

     HP『労働運動研究所』 『労働運動研究』復刊の内容紹介

 

 1、裏目に出たベルルスコーニの新選挙法

 

 4月9、10日に行われたイタリア総選挙は、プロデイ元首相の率いる中道左派連合「ユニオン」(Unione)が、大接戦の末にベルルスコーニ首相の率いる中道右派連合「自由の家」(Casa della Liberta)を破り、5年ぶりに政権を奪還した。4月12日付けの日刊紙『レプブリカ』は2面の大見出しで「勝ったのは誰か:勝者は民主主義だ」というプロデイの言葉と、3面では渋面のベルルスコーニ首相の顔と「私を隅に追いやらせれない」という談話を掲げ、勝者と敗者の明暗を際立たせた。

 

 総選挙前の世論調査では「ユニオン」は「自由の家」を常に3〜5%リードしてきたが、終盤戦になってベルルスコーニ首相は傘下のテレビのネットワークをフルに駆使して反共宣伝と固定資産税の廃止などの減税公約をばらまき猛然と追い上げ、上下両院選挙ともに空前の大接戦になった。下院(定数630)の選挙結果は、「ユニオン」の得票率の49.8%に対して、「自由の家」が49.7%とわずか0.1%の僅差だった(第1、2表)。それが議席数で、「ユニオン」が348議席、「自由の家」が281議席と大差がついた原因は、皮肉にも昨年10月のベルルスコーニ首相が中道右派連合の劣勢をはね返すために強引に成立させた新選挙法だった。

 

 従来の選挙法は日本と同じく小選挙区・比例代表並立制度だった。これは戦後の比例代表制による小党分立が、キリスト教民主党主体の連立政権の長期的支配と腐敗を許したことへの反省に基づき、国民投票を行って制定されたものである。これは上院(定数315)、下院(定数630)とも75%を小選挙区で、残り25%を比例代表制で選出する仕組みだった。つまり小選挙区制主体の制度で、下院は2票制で1票は選挙区の候補者に、他の1票は比例代表制で提出名簿に基づき政党または政党連合に投票するが、上院は1票制で選挙区の候補者にのみ投票し、比例代表は小選挙区の得票結果に基づき各政党に配分されることになっていた。

 

 ところがベルルスコーニ首相は、このような小選挙区主体の選挙制度では中道右派連合に不利だと判断して、昨年10月に突如として上下両院とも完全比例代表制に代える法案を国会に上程した。この暴挙に、中道左派連合は、プロデイ元首相を先頭にして「国民投票を経て制定された現行制度を党派的利害で改正するのは民主主義の精神の侵害だ」と猛反対したが、中道右派連合は十分に審議もせずに上下両院で強行可決させてしまった。

 

 この新選挙法では、下院(定数630 議席、うち海外選挙区12)は、拘束名簿式で全国1選挙区で選出され、比較多数をとった政党連合に議席定数の55%の最低340議席が与えられ、少数派連合には278議席が割り当てられることになった。上院(定数315議席、うち海外選挙区6議席。終身議員を除く)は州1選挙区(20選挙区)で、州ごとに比較多数の得票数を得た政党または政党連合が55%の議席を獲得する仕組みになった。

 

 ベルルスコーニ首相は、「ユニオン」には得票率が2%前後の小政党が多いので、この新選挙法によって完全比例代表制に移行すれば、小選挙区制よりも候補者の統一や政党連合の代表選出が困難になり、中道右派連合には有利と判断して新選挙法の制定を強行したのだが、この新選挙法が完全に裏目に出たのである。

 

 下院選挙では、「ユニオン」の得票率は49.8%で「自由の家」の得票率49.7%をわずか0.1%しか上回らないのに、最も得票数の多かった政党連合が総議席の55%を獲得するという新選挙法により、「ユニオン」が348議席(うち海外選挙区7)を獲得したのに対し、「自由の家」は281議席(うち海外選挙区4)になり、少数派に転落したのである。上院選挙でも、イタリア本土では「ユニオン」の得票率は48.94%、154議席で、「自由の家」の50.19 %、155議席を下回ったが、海外選挙区(定数6)で「ユニオン」が4議席を獲得したのに対し「自由の家」はわずか1議席しか獲得できなかった。そのため「ユニオン」が得票率49.2%、158議席、「自由の家」が得票率49.9%、156議席になり、上院も「ユニオン」の逆転勝利となったのである。

 

 元来この在外選挙区制度も、ベルルスコーニ首相が「在外イタリア人は保守支持者が多い」として野党の反対を押しきって制定したものだった。だがこれも全くの思惑はずれになった。こうして有権者350万人の在外選挙区では4選挙区が設けられた。それは欧州(上院定数2、下院定数6)、南米(同2、同3)、北中米(同1、同2)、アジア・アフリカ・、オセアニア、南極(同1、同1)などである。

 

 ところが、ふたを開けてみると、ベルルスコーニ首相の思惑ははずれ、在外選挙区の投票率は約42%で、上院選挙では「ユニオン」は全4選挙区で1議席づつ獲得したのに対して、「自由の家」は欧州の1議席しか獲得できず、「ユニオン」の逆転勝利の決め手となった。怒り狂ったベルルスコーニ首相は「選挙で大規模な不正があった」として疑問票の再点検を求め、「ユニオン」の勝利を認めるのを拒否した。だがイタリアの最高裁判所は4月19日、疑問票の再点検を終了した結果、下院の最終的な得票数を発表し、中道左派連合「ユニオン」の得票数が1900万2598票、中道右派連合「自由の家」が1897万7843票と確認し、2万4755票の差で「ユニオン」の勝利を確定した。

 

 

 2、イタリア総選挙結果2006年4月9、10日 〔第1、2表〕

 

〔第1表〕 下院議員選挙結果

[中道左派連合−ユニオン(Unione)]

政党・政党連合名

得票率

議席数

備考

オリーブ(Univo)

31.3

220

左翼民主(DS)、マルゲリータ(Mrgerita)、イタリア社会民主主義者(SDI)、ヨーロッパ共和党

共産主義再建党(Rif.Communista)

5.8

41

共産党の左翼民主党への転換に反対し分裂し結成された党

拳の中のバラ(Rosa nel Pugno)

2.6

18

急進党+民主社会党(カトリック教会の影響力排除を主張)

イタリア共産主義者(PDCI)

2.3

15

共産主義再建党のブロデイ政権からの離脱に反対したグループ

デイ・ピエトロ-価値あるイタリア

(Di Pietro−Italialavori)

2.3

16

90年代の政界汚職摘発の立役者のデイ・ピエトロ元検事とイタリア共産党の左翼民主党への転換させた時の書記長オッケツトが創立

緑の党(Verdi)

2.1

15

環境保護政党

欧州民主連合(UDEUR)

1.4

10

旧キリスト教民主党中道派

その他

2.0

4

 

在外イタリア人

 

7

得票数459、454

合計

49.8

348

 

 (参考) 2001年得票総数19、001、6854票。同議席数259議席

 (注)la Repubblica 2006年4月12日号より柴山が作成。以下の表も同じ。

 

[中道右派連合−自由の家(Casa delle Liberta)]

政党・政党連合名

得票率

議席数

備考

フオルツア・イタリア(FI) (Forza Italia)

23.7

137

ベルルスコーニ首相の創立した党

国民同盟(AN)(Alleanza Nazionale)

12.3

71

保守党に変身した旧フアシスト党

キリスト教民主同盟(UDC)

6.8

39

旧キリスト教民主党右派

北部同盟(Lega Nord)

4.6

26

北部の豊かな州を代表し、税金の南部への投入や中央の官僚主義に反対し地方分権や移民労働者排撃を主張

新社会党(DC−Nuovo PSI)

0.7

4

旧社会党クラクシ派、クラクシ元首相を糾弾した共産党やデイ・ピエトロに反発し中道右派に参加

その他

1.6

0

 

在外イタリア人

 

4

得票数 369、952

合計

49.7

281

 

 (参考) 2001年得票数18、976、460票。議席数355議席

 

〔第2表〕 上院議員選挙結果

[中道左派連合−ユニオン(Unione)]

政党・政党連合名

得票率

議席数

備考

左翼民主(DS)

17.2

62

旧イタリア共産党から社会民主政党に転換、社会主義インターに加入

マルゲリータ

10.5

39

旧キリスト教民主党左派+プロデイ派

共産主義再建党

7.2

27

 

イタリア共産主義者・緑の党(PDCIVerdi)

4.1

11

統一リスト

デイ・ピエトロ

2.8

4

 

拳の中のバラ(Rosa nel Pugno)

2.4

0

 

欧州民主連合(UDEUR)

1.4

3

 

その他

3.6

8

 

在外イタリア人

 

4

得票数426、544票

合計

49.2

158

 

 (参考) 2001年得票数17、141、937票。同議席数137議席

 

[中道右派連合−自由の家(Casa delle Liberta)]

政党・政党連合名

得票率

議席数

備考

フオルツア・イタリア(FI)

23.6

78

 

国民同盟(AN)

12.2

41

 

キリスト教民主同盟(RNP)

6.6

21

 

北部同盟(Lega Nord)

4.4

13

 

その他

3.1

2

 

在外イタリア人

 

1

得票数332、999票

合計

49.9

156

 

 (参考) 2001年得票数17、359、754票。議席数176議席

 

 

 3、「オリーブの木」の再編成から「ユニオン」結成まで

 

 だが今回の「ユニオン」の勝利は、単なる「敵失」の結果として中道左派に転がり込んできたものではない。これには2003年夏以降、プロデイ元首相(当時欧州委員長)を先頭にした、左翼民主(DS)(旧イタリア共産党)の中道左派連合の再建のための、粘り強い努力があったことを見逃してはならない。以下、この過程を簡単に振り返ってみよう。

 

 03年夏のプロデイ氏の「04年の欧州議会選挙に『オリーブの木』は統一リストで臨もう」という提案、それを受けた左翼民主ら4党による「オリーブ・欧州のための統一行動−FED」の結成と「統一リスト」 による欧州議会選挙への参加、04年10月の中道左派の9政党による政権獲得のための戦略会議の開催、05年4月の州議会選挙での中道左派「ユニオン」の圧勝、10月の「ユニオン」の首相候補者の予備選挙でのプロデイ氏の圧勝、06年2月の「ユニオン」の政策綱領の決定を経て今回の総選挙の勝利に至る、3年に及ぶイタリア民主主義・社会主義勢力の苦闘があったのである。

 

 上述のように、中道左派連合の再建の動きが始動し始めた契機は、03年夏のプロデイ提案だが、この提案に賛成したのは、当時の「オリーブの木」の参加政党では、左翼民主(DS)、イタリア社会民主主義者(SDI)、マルゲリータ(Margerita)と、旧共和党から離れたヨーロッパ共和党など4党だけで、その他の政党は賛成しなかった。そのためこの4党だけで04年6月の欧州議会選挙では「オリーブ・ヨーロッパのための統一行動−FED」という統一リストで欧州議会選挙への取り組み、31.1%の得票率で25議席を獲得した。

 

 欧州議会選挙後の04年6月29日、統一リストの提唱者のプロデイ氏と、統一リストに参加した4党の党首、書記長その他の幹部が集まり、今後4党が政党連合の形態をとり、各党代表による執行部で統一行動をとること、欧州議会でも統一リストの議員25人はそれぞれのグループに所属しながらも常に連絡を取り合えるシステムを考えることなどが話し合われた。

 

 その話し合いに基づき、05年3月、「オリーブ・ヨーロッパのための統一行動−FED」に参加する4党の党首、書記長にプロデイ氏も参加してFED 基本規約に署名し、FEDが正式に発足した。それに基づき、プロデイ氏を委員長とする新しい「オリーブ」には、参加4 党のリーダーで構成される15人の指導部と60人からなる評議員で構成される全国評議会が設けられ、外交、欧州外交、憲法問題に関する権限をFEDに委譲する「制限主権」を認め、それらの政策は評議会の過半数で決定されることになった。

 

 一方、中道左派全体では、04年の欧州議会選挙の得票率は45.5%で、中道右派の45.4%を0.1%上回ったばかりでなく、1999年の欧州議会選挙の42.2%、01年の国政選挙の43.9%から票を伸ばした。こうした成果を踏まえて、プロデイ氏は、自らの欧州委員長の任期(04年10月31日)切れを目前にして、10月11日に中道左派政党の代表を集めて政権獲得にむけての戦略会議を開いた。この会議に参加した政党は、左翼民主(DS)、マルゲリータ(Margerita) 、イタリア社会民主主義者(SDI)、ヨーロッパ共和党、デイ・ピエトロ(Die Pietro)、緑の党(Verdi)、イタリア共産主義者(PDCI)、共産主義再建党(Rif.Commmunista)、欧州民主連合(UDEURの9政党だった。

 

 この会議では、今後の中道左派連合の運命を決する4つの重要な決定が行われた。その第一は、05年4月に14州で行われる州知事、州議会選挙で中道左派の全党が「民主大連合(GAD)」の名のもとに統一候補を立てて闘うこととである。第二は、プロデイ氏のリーダーとしての地位を確固たるものにするためにGADの首相候補の予備選挙を行うことである。第三は、1996年に誕生した「オリーブの木」の第一次プロデイ政権が、共産主義再建党の政策協定なしの選挙協力と閣外協力によって成立したため、同党の途中離脱によって崩壊し、ベルルスコーニ政権を成立させた苦い教訓に基づく政策協定の締結だった。今回はこの轍を繰り返さぬために共産主義再建党は初めから中道左派連合の戦略会議に参加し、政策立案に参画し、政策協定を締結することが確認された。

 

 第四は、イラク戦争に関する決定だった。会議は、現在の派兵がイラク占領軍であるので撤兵し、国際会議を開き、国連の平和維持軍として改めて派遣することが決定された。最後に、05年12月には全党によるコンベンションを開き、総選挙に備える態勢を確立することが決定された。

 

 会議後の05年3月に、共産主義再建党はこの決定を実践するために党大会を開き、「中道左派による政権獲得をめざし政府に参加する」という運動方針を賛成60%で可決し、良心にかかわる問題以外は、議員団の多数決に基づき全員一致で投票することを決定した。共産主義再建党が党大会で正式に中道左派連合への参加を決めたことにより、プロデイ氏はこれまで9党からなる中道左派連合を「民主大連合」(GAD))と呼んでいたのを「ユニオン」と改称し、ロゴは平和のシンボルである虹を9党に見立て、その下にオリーブ色でL'UNIONE(ルニオーネ)と書くことを提案し決定された。

 

 05年4月の州議会選挙は、中道左派は20州中13州で行われた選挙で11州を獲得し、その後のバジリカータ州選挙でも勝利を収め、「ユニオン」の圧勝に終った。これによりこれまで14州の政府は左派6州、右派が8州だったのが、今回の圧勝で左派12州、右派2州と「ユニオン」が絶対的な優位を占めた。特に人口の多いローマを州都とするラツイオ州、北部工業地帯のトリノを州都とするピエモンテ州、ジェノバを州都とするリグリア州の政権を奪還し、得票数も「ユニオン」は中道右派連合を250万票も上回った。

 

 他方、「オリーブ・FED 」では、5月にマルゲリータ全国代表者会議で次の総選挙の比例区で「オリーブ」の統一リストではなく独自のシンボルマークで闘うことを決定し、一時プロデイ氏との関係が険悪化したが、左翼民主の仲介で和解し、マルゲリータは上院選挙では独自のリストで闘うが下院選挙では「統一リスト」で闘うことになった。さらにプロデイ氏を中道左派のリーダーとして認め、「ユニオン」の首相候補の予備選挙ではプロデイ氏を支持することを表明することで合意が成立し、マルゲリータもFEDも分裂の危機を脱する一幕があった。

 

 6月20日、中道左派を形成する9党のリーダーが一堂に会し、(1)10月8、9日に予備選挙を行うこと、(2)12月には9党で政権の政策作成会議を開くこと、(3)政権をとった場合はプロデイ氏は5年間の任期を全うすることなどを決めた。

 

 中道左派の予備選挙は、05年10月16日にイタリア全土9731カ所、国外157 カ所、投票者は実施前の予想では100 万人に達すれば大成功とされていたのが、予想をはるかに上回る431万1149人に達した。また居住権を持つ外国人でも、滞在許可証と身分証明書を提示して登録し、投票時に最低1ユーロ(140円)をカンパすれば投票できることが決められ、4万7000人が参加した。

 

 予備選挙の結果は、予想通り左翼民主、マルゲリータ、社会民主主義者、ヨーロッパ共和党の推したプロデイ氏が他を大きく引き離し74.1%を獲得して圧勝した。次いで共産主義再建党のベルテイノッテイ氏が14.7%で第2位、中道の欧州民主連合(UDEUR)のマステッラ党首が4.6%で第3位、デイ・ピエトロ氏が3.3%で第4 位、緑の党のペコラーロ・エスニオア氏が2.2%で第5位などとなった。これによってプロデイ氏の「ユニオン」代表としての地位が確立した。この予備選挙には全国の有権者の1割近い人たちが投票所に足を運び、中道左派躍進にはずみをつけた。ここでも新選挙法によるベルルスコーニ首相の「ユニオン」の内紛挑発の策謀は、中道左派連合の民主主義の実践によって見事な失敗に終わった。

 

 ベルルスコーニ首相の策動に加えて、中道左派連合内部では、「体外受精」の国民投票、首相候補の予備選挙の方式、「オリーブ」内部の「改良主義政党」結成をめぐる左翼民主(DS)、社会民主主義者(SDI) 対マルゲリータの路線の対立など、幾度か分裂の危機に見舞われた。だがその都度、分裂の危機を克服できたのは、左翼民主を中心とする左翼のイニシアチブによる徹底した民主的な話し合いと、共同の実践に基づく合意の獲得だった。「勝者は民主主義だ」というプロデイの言葉には、ここに到達するまでのイタリアの民主主義・社会主義勢力の苦闘の実感がこめられているといえよう。

 

 

 4、「『持てる者』と『持たざる者』へのイタリアの分裂をなくそう」

 

 今回の総選挙で、中道左派連合がベルルスコーニ首相の率いる中道右派連合との大接戦を制することができたもう最大の原因は、ベルルスコーニ政権のなりふり構わぬ「政治の私物化」や相次ぐ汚職事件の発生に対する国民の強い反発だった。

 

 「政治の私物化」の代表的なものは、相続税・贈与税の廃止、企業の粉飾決算の非刑罰化、首相在任中の刑事責任免責を規定した「免責特権法」、個人によるテレビ・新聞などの所有規制の緩和、公判開始中も時効を適用する「時効法」の制定などがそれである。汚職事件では、最近のオランダの銀行による伊アントンベネタ銀行の買収に関連する前中央銀行総裁によるインサイダー取引疑惑、ベルルスコーニ首相のメデイア関連企業の脱税疑惑裁判におけるイギリス人弁護士への偽証依頼疑惑、昨年4月のローマの県知事選挙におけるストラーチェ保健相(国民同盟)の政敵スパイ事件の発覚による辞任などスキャンダルが相次いでいた。選挙戦で「レガリタ(法の支配)の確立」が高く叫ばれたのはそのためだった。

 

 さらに選挙戦のなかで重大な争点として浮上したのは貧困化の問題だった。イタリア通貨がユーロに切り替わったのは、01年5月にベルルスコーニ政権が発足して約半年後だったが、以来4年間に物価はほぼ倍になった。ところが賃金上昇は平均8%に過ぎず、勤労大衆の貧困化が急速に進んだ。イタリア銀行の報告によると、家庭の債務総計はベルルスコーニ政権の発足時の01年から05年末までの4年間に2500億ユーロ(約35兆円)から3850億ユーロ(約53兆9000億円)と54%も増大する一方、貯金ゼロの家庭は38%から51%へ、全世帯の51.4%と全世帯の半数を超えた。

 

 イラク派兵問題も大きく取り上げられた。ベルルスコーニ政権は7割を超す反対世論に背を向けて、ブッシュ大統領の「大規模戦闘の終了」宣言後に3500人の軍隊をイラクに派遣した。ところが05年3月、米軍兵士によるイタリア人記者の銃撃事件後、イラク派兵の撤退を求める世論の高まりに押され昨年9月から段階的撤退を開始し、本年1月にはマルテイノ国防相が年末までの完全撤退することを示唆したが、それも「米英の合意があれば」という条件付きで、ベルルスコーニ政権の対米追従外交と反EU的態度は際立っている。

 

 総選挙終盤戦に入った本年2月、ドイツ保守派長老のコール本首相はプロデイ元首相の招きで会談したが、彼は欧州人民党の仲間であるベルルスコーニ首相にではなく、プロデイ首相にエールを送り、「ローマでは誰が政権についても、イタリアは言葉ではなく、事実において確固として欧州支持の立場に立っていた。今日では、このイタリアの声が欠けている」と痛烈にベルルスコーニ政権批判を行った。ここでも欧州政界からも不信を浴びているベルルスコーニ政権の立場が象徴的に示されている。

 

 06年2月11日、「ユニオン」代表のプロデイ氏は、ローマでの政策協定の締結と発表の会議で改めてベルルスコーニ政権の実績を厳しく批判して次のように述べた。

 「右派政権の5年間に、イタリアは持てる者と持たざる者、ずうずうしく富んだ者と貧しくなった者、系統的に税を逃れながら優遇された者と最後の1ユーロまで税を払った者、政府の行動によって存分に力づけられた者と政府から見捨てられた者に分裂した。われわれは、この分裂を一掃したい」

 

 それでは最後に「ユニオン」の政策綱領の要旨(この資料は、「しんぶん赤旗」06年4月14、15日号より引用)を紹介して本稿を終わりたい。

 

 5、「ユニオン」政策綱領の要旨 [国内部分]

 

 [労働、権利、経済成長]

 

 「労働と福祉」は、われわれの経済社会政策の価値の中心軸である。その出発点は、経済発展と社会発展、権利と成長、競争力と正義の間に質の良いサイクルをつくりだすことにある。われわれは、自由という考え方を個人の権利としてだけでなく社会的責務ととしてとらえる。個人の権利ならびに労働の権利と、社会的権利の不可分の結びつきを取り戻すことができるし、そうしなければならない。

 

 われわれにとって平等とは、「基本的な能力の平等」であり、連帯とは、とりわけ、男性と女性、そして各人の社会に対する責任である。われわれは、能力、すなわち、個人が「人間となる」自由を制限するあらゆるメカニズムに強く対抗することを、公共政策における最優先の責任であると考える。

 

 [完全(雇用)で質の良い労働]

 

 経済は危機的状況にあり、雇用の増加はとりわけ南部において中断し、雇用の不安定化が進んでいる。[右派]政府は、雇用の安定化、貸付支援策の手段を縮小したり取り消したりしてきた。こうした支援策の放棄は、労働者の置かれた条件を悪化させ、不安定さを増大させてきた。

 

 われわれにとって、雇用の通常の形態というのは、[雇用]期間に定めのない労働]である。だれもが人生の設計をたて、安心して働くことができなければならない。柔軟な労働[パートやアルバイト、派遣・季節労働など雇用期間に定めのある労働]は、安定した労働よりも安い値段で扱われてはならない。だれもが人生の設計をたて、安心して働くことができねばならない。また期限の定めのある雇用契約は、[企業が]必要とする客観的な根拠が明らかにされねばならず、企業の雇用総数の一定の枠を超えてはならない。

 

 [市民の権利の新しいネット、個人と家族]

 

 わが国において、比較的多数の市民や世帯が、ますます深刻で経済的に困難な状態へと向かっている。イタリアは、発達した諸国のなかで、可処分所得の不平等率がもっとも高い国である。人口の19%が相対的貧困ライン以下で生活している。貧困や低所得は、特に子供に打撃を与え、とりわけ若い母親のより広い層に社会的経済的後退の危険を生み出す。ここ数年、低所得層や不安定な人々への適切な支援、社会サービスや住宅の提供、失業手当て、社会経済政策が欠如していた。

 「ユニオン」は、こうした状況を変えることを約束する。

 

 [外交部分]

 

 イタリア国民の生まれつき持っている平和に対する志向と憲法第11条(国際紛争を解決する手段としての戦争放棄)を、安全保障問題でイタリアが遂行する選択の中心点にすえる。

 

 決定の共有と共通の規則の作成と解釈される多国間主義を選択する。紛争を予防し、「憎しみの水たまり」を干し上がらせることを促進しながら、国際的レベルで平等と正義という目標を積極的に追求する平和の予防策を選択する。紛争に対処し、法と諸権利に基づく国際秩序をつくる要として、国際的合法性を選択する

 

 [国連システムのなかのイタリア]

 

 多極世界への貢献として、国連、イタリアが所属している国際機関を強化することは、欧州統一の構想とともに、最優先の国益である。イタリア共和国は生まれつき平和への志向を強く持っている。それは友好国と同盟国、とりわけイタリアが加わっている国際機関と同盟にイタリアが提供してきた資源である。イタリアは、自らの歴史に基礎を置くとともに、顕著な規模で、イタリアが持っているいくつかの限度、不面目なページにも基礎を置いている。国際紛争の解決手段としての戦争拒否、集団的安全保障という代案の選択は、まさにこの歴史の産物である。

 

 核の野望を実現したばかりの国、あるいは実現しようと望んでいる国々にいっそう効果的な圧力をかけるため、核兵器保有大国が軍縮の具体的措置を再開することを求めなければならない。

 

 [イラク]

 

 イラク戦争と占領は、重大な誤りであったと考える。それは何も解決しなかったばかりか、安全保障の問題を複雑化させた。テロリズムはイラクの内部に、同国国境の内外で、行うテロ活動のための新しい基盤と新しい口実を獲得した。国際的合法性を破る形で始められた戦争は 、国連を弱体化させ、戦争の多国間主義的な統治という原則を弱める効果を与えた。紛争を一致して解決し、国連の権威を取り戻してその役割を強化する手段としての多国間主義の価値を確認するために、イラク国民と国際社会に対し、非継続性の明確なシグナルを送らなければならない。

 

 多国間主義の原則にそい、現在の軍事関与を乗り越え、国際的当局(国連)の関与を実現する明白な路線転換を伴う、イラク危機の管理の国際化が必要だと考える。もし選挙に勝利するならば、われわれは直ちに、技術的に必要とされる時間のうちにイタリア軍を完全撤退させることを国会に提案する。

 

 [新しい国防政策]

 

 次の会期でわれわれが作業しようと考えている根本問題は、(1)欧州防衛ならびに欧州連合と米国の協力、(2)新しい現代的な防衛システムの再構成、(3)人的資源を中心に据えること−である。欧州防衛は、国の有効な安全保障政策と信頼できる国際環境に不可欠なものである。世界の一極的な仕組みから発生する諸問題に対応するために、常に大西洋同盟との関係の中にありつつも、深く変容しつつある自立した欧州防衛にねらいを定めて向かっていかなければならない。

 

 イタリアが米国の誠実な同盟国であるだけでなく、欧州統合政策の主人公として確固として欧州に結合しているという戦略的な位置を提案しなければならない。「ユニオン」は、欧州においての協力の枠組みの中で、軍事費の削減を可能にする政策を支援することを約束する。

 

 

 6、柴山健太郎略歴

 

 1927年、東京生まれ。1952年、東京大学文学部独文科中退。1969年、労働運動研究所創立に参加。現在、同常任理事。

 著書『お菓子の経済学』(三一書房、1959年)、『鹿島大開発』〔御茶の水書房、1976年〕、『欧州統合と新生ドイツの政治再編』(社会評論社)。

 編著『グローバル経済とIT革命』(同、2000年)、共著『農民運動の基本問題』(三一書房、1960年)、『日本農民運動史』(東洋経済新報社、1961年)、『牛乳の経済学』(法政大学出版局、1962年)、『90年代の社会民主主義』(日本評論社、1960年)、『20世紀社会主義の意味を問う』(御茶の水書房、1998年)ほか。

 

以上  健一MENUに戻る

 〔関連ファイル〕

     柴山健太郎『ドイツ連邦議会選挙における左翼党躍進の政治的背景』

     『イタリア左翼民主党の規約を読む』添付・左翼民主党規約

     『フランス共産党の党改革の動向と党勢力』「進歩のための統一協定」運動

     『コミンテルン型共産主義運動の現状』

     アルチュセール『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』

     福田玲三『史上初めて対案提出』フランス共産党32回大会

     福田玲三『民主集中制の放棄とフランス共産党』

     HP『労働運動研究所』 『労働運動研究』復刊の内容紹介