親父と行く韓国南海岸の旅(1/6) 【韓国南海岸旅行記】

1996年4月28日(日) 関釜フェリー編 第1話



01下関から釜山へ

 下関にあるフェリーターミナルは相変わらずの混雑振りを見せていた。ターミナルというのはいつもそうしたモノなのだが、やはりこれは、これからの旅への期待感が渦巻いているからに違いない。
 今日、私はここ下関からフェリーで釜山へ渡るのである。関釜フェリー・・・果たして、この船に乗るのは今回で何回目になるのかと自問自答してみる。多分6回目くらいだろうか。これが多いのか少ないのかは判断の分かれるところかもしれないが、私の中ではかなり馴染んできた感があった。そして、客室の等級はいつもの「2B」。いわゆる「雑魚寝のマス席」だ。まことに、「いつも」である。しかし、今回の旅はここまでずらずらと続いた「いつも」とは決定的に違っていたモノが一つだけあった。
  「親父」と一緒だったのだ。

 親父は韓半島の南西の端にあるモッポ(木浦)の生まれである。
 戦前、祖父がまず日本から韓半島に渡ったところから歴史が始まる。祖父は丁稚奉公から始め商売を覚え、たたき上げでついにはモッポ(木浦)で商店を構えるまでになった。そして、現地の日本人と結婚し、私の親父が生まれたのだ。祖父は米国から輸入した物資を大陸(主に北京)で売りさばいていたそうだ。しかし日米の対立が深刻になるにつれ米国の経済封鎖が始まり、米国からの物資が入らなくなってしまった。それに戦争の匂いを感じた祖父が日本本土への引き上げを決意する。親父が小学校(当時国民学校)2年生の時だったそうだ。
  それから財産はほとんど置き去りにして、汽車で釜山へ移動、そして小さな日本行きの船に乗った。当時の船は今の「関釜フェリー」のような大きなものではなかったので、ほとんどの人の気分が悪くなったとか。そして、その後すぐに太平洋戦争が始まったのは、みなさんもご存じの通 りだ。

 今回の旅の主目的はそのモッポ(木浦)を訪ねること。実に55年振りの訪問となるのだ。そしてついでと言ってはなんだけど、ヨス(麗水)などの南海岸の観光地を回ってみるつもりだった。勉強していた韓国語 も試してみたいし、プサン(釜山)とヨス(麗水)を結んで走っている噂の水中翼船「エンゼル号」にも乗ってみたい。そしてモッポの先には「チンド」(珍島)という島があって、そこでは年に数回「モーゼの奇跡」といわれる海割れ現象が見られるらしい。海が割れて歩いて島まで行けるという。ちょうどGWのあたりにあるそうなのだが・・・・行けるのだろうか?













02フェリーに乗り込む

 下関のターミナルで親父と落ち合い、夕食&朝食を確保するため駅前の専門店街であるシーモールに行く。そこで食料とフィルムなどを購入、ターミナルに戻る。
 さすがにゴールデンウィークだけあって、人が多い。僕ら親子と同じようなバックパッカーがたくさん船を待っていた。しかし「かつぎ屋のおばちゃん」が少ないのが気にかかった。今までこんなに少ないのは初めてだ。それにいつも必ず出会ってしまう仕切屋の大柄なおばちゃんが今回は見つからない。この船に乗っていないだけなのか、それとも引退したのか?(注1)

 「かつぎ屋」という商売がもう曲がり角に来ているのだろうか? その辺が気になるところだ。いずれにしても、僕が初めてこの船に乗った4〜5年前(1991年頃)とは状況が変わってきているのだろう。(注2)

 因みに「かつぎ屋」とは船で行ったり来たりしながら「電気釜」とか「ラジカセ」その他の電気製品や果物などを相手国に持ち込み、売りさばく商売のことだ。

  さて、時間となって船に乗り込む。予想以上に人が多い。観光客が多いのだ。韓国旅行も一般的になったのだろうか?家族連れなんかもちらほらと見える。随分雰囲気が変わったものだ。

 出遅れてしまったこともあって、2階のマス席は既にいい場所を取られた後だった。仕方なく下の席に移る。今日の船は日本籍の「関釜」の方だったので、1階の席は少し狭い。でもあまり人がいなかったので、ゆったりとしたスペースを確保できた。

 因みに下関とプサン(釜山)を結ぶ「関釜フェリー」には2隻の船が就航しており、日本籍のが「関釜」、韓国籍のが「釜関」と呼ばれている。基本的には同じ構造なのだが、やはり微妙に違うのだ。食堂の雰囲気が違う。メニューはもちろん違う。1階のマス席の構造も少し違う。それに、乗組員が違う。(^^; (注3)

 全体的に見て僕は韓国籍の「釜関」の方が好きだ。日本籍の「関釜」には日本食しかないが、「釜関」の方は日本食、韓国食の両方がある。また「釜関」はウォンと円の両方が使えるし、内装も綺麗なのだ。それに1階席も広い。オマケに食堂の女店員が韓国人というのが何とも言えない。ぶつぶつ言いながら働いているけど、最近そのぶつぶつ言っている話の内容が分かるようになってきて、よけい楽しい。

 マス席でくつろいでいると、親父が缶ビールを買ってきた。
「すごい安かってなぁ」といいながら、勧めてきた。気を使っているのだろう。なにしろこういう当てのない海外旅行は初めてからだ。恐らく僕がいないと釜山のフェリーターミナルから一歩も動けないはずだ。ま、ここは一つ、ありがたくいただくことにする。さて、これから旅は長い。今日のところは眠る事にした。 (第1話 了)

(注1)釜関フェリーの性格が変わってきたのは、今思えばこの頃だったのかなと思う。それまでは、観光客の姿はほとんど無く、かつぎやのおばちゃんや商売人、それに故郷に帰る韓国人で占められていた。日本人が乗るのは、あまり無かった。韓流の「ハ」の字も無い時代。韓国に行くのはよっぽどの物好きだったのだ。


(注2)私が韓国に始めて行ったのは、1991年である。今回と同じように釜関フェリーで玄界灘を渡った。
まだ、韓国入国には事前のビザ取得が必要な時代で、大阪・難波にある韓国領事館にビザの申請に行ったものである。しかし、今考えると、なんであんなに苦労して韓国に行ったのか思い出せない。たぶん、一番安い海外旅行だったからじゃないかと思う。


(注3)「関釜」「釜関」は1996年当時の船名で、すでに両船とも引退している。現在は、日本籍の船が「はまゆう」(1998年8月28日就航)で、韓国籍の船が「ソンヒ」(星希:2002年5月22日就航)である。それぞれの雰囲気は、やはり「関釜」「釜関」の時代から引き継がれている気がする。
関釜フェリー
http://www.kampuferry.co.jp/
釜関フェリー
http://pukwan.co.kr/pukwan/index.html

 

第1話
1996.4.28
下関から釜山へ
第2話
1996.4.29
釜山上陸、釜山の旅行会社、 ナンポドン(南浦洞)・チャガルチ市場からキメ空港(金海空港)へ、キメ空港(金海空港) 、クァンジュ(光州)へ・・・、バスターミナル周辺で宿探し、クァンジュ(光州)市内へ、宿の電気が!!!
第3話
1996.4.30
さあ、モッポ(木浦)へ、モッポ(木浦)駅、ヨグアン(旅館)探し、モッポ(木浦)駅周辺へ、旅客船ターミナルから繁華街へ、カン・スジ(姜修智)、市場へ
第4話
1996.5.1
朝食をとって、ユダルサン(儒達山)に登る、ユダルサン(儒達山)の山頂へ、山を下りて「トンドンチュ」と「パジョン」に舌鼓、下界へ・・・、国立海洋遺物展示館、木浦市郷土文化館
第5話
1996.5.2
モッポ(木浦)からヨス(麗水)へ、コソッポス(高速バス)、ヨス(麗水)市内へ、またまた宿探し、ヨス(麗水)市内観光へ、実物大のコブクソン(亀甲船)、恐怖のポンチャック船!!!?、市場へ・・・、「マンドゥクッ」と「パン屋」
第6話
1996.5.3〜4
チンナムグァン(鎮南館)、釜山へ・・・、釜山到着、チュングアンドン(中央洞)でまたまた安宿さがし、夜の釜山タワーへ、日本へ戻らなきゃ、またまた「フォシンチョン」(虚心庁)へ・・・、帰国