親父と行く韓国南海岸の旅(5/6) 【韓国南海岸旅行記】1996年5月 2日(木) 麗水ポンチャック編 第5話
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01木浦(モッポ)から麗水(ヨス)へさて、今日は木浦(モッポ)から麗水(ヨス)へ移動する日だ。短い間だったが充実した木浦(モッポ)滞在だった。しかしやり残したことも多かった。生家のはっきりした場所が分からなかったことや、タコのおどり食いを食い損ねたことなど。それに紅島(ホンド)に行くという新たな目標が加わってしまった。次回来るときは果たして親父と一緒かどうか分からないけど、ぜひ紅島(ホンド)まで行ってみたい。モッポ(木浦)についても、もっと図書館や資料館などを訪ね歩いて詳しく調べてみたいと思っている。本来なら祖父を連れてくるべきなのだろうが、何しろ90歳を越える高齢なので、望むべくもない50年の歳月は重いのだ。 朝、宿を後にした僕ら親子は、駅前のバス停から市内バスに乗って市外バスターミナルを目指した。行きに乗った「1番」バスである。バスは滞りなく進み、ターミナルへと着いた。しかし親父は前日の疲れがまだ残っているようで、かなりつらそうだった。歳も歳だし、僕と同じペースで旅するのは少しつらいのかも知れない。今日はとりあえずバス移動なので、少しは休めるだろう。 |
麗水市とは? 麗水(ヨス)市は、大韓民国全羅南道東部にある市。面積498平方キロ。人口306,961人(2004) 三国時代(新羅、百済、高句麗)には百済の領土で、源村県·突山県地域であった。新羅が統一した後、757年(景徳王16年)に源村県は海邑県に、突山県は廬山県に変えられ、昇平郡:順水(スンチョン)に属した。940年(高麗 太祖23年) 海邑県を麗水県に、廬山県は再び突山県に戻った。朝鮮時代に入り、1396年(太祖5年) 県が廃止されて順水部に編入された。日本が朝鮮出兵を行っていたときである1593年(先祖 26年)、三道水軍統制営が設置され、李舜臣将軍の水軍活動の中心地となった。 その後、1949年に麗水邑が市に昇格となり、この他の地域を麗川郡と改称。1986年に麗川支所が麗川市に昇格して分離独立し、1998年 4月麗水市·麗川郡·麗川市が統合されて麗水市となった。 |
02コソッポス(高速バス)モッポ(木浦)-ヨス(麗水)間は、高速道路のたぐいが全くない。しかも細い道が多い。しかし、クァンジュ(光州)との間と同じで、高規格道路?の建設が進んでいた。数年後にはかなり便利になることだろう。遅ればせながらもこのチョルラナムド(全羅南道)地域の開発が進んでいるのだ。 バスは田舎の細い道を走っていく。途中全く街らしいものが見えない道を走り、山間の集落?と思えるような所を経由してバスは進んでいく。それにしてもよく分からないのが、低い山がつながって、周囲になんにもないと思える盆地の一集落にバスは止まり、客が降りていくのである。そして観光客っぽい人もうろうろしている。これはいったい何が起こっているのか?どう見てもその地方にいる農民?以外は用事がなさそうに思える集落なのに・・・。しかし後でよく聞いてみると、山登りの客だったようである。 このモッポ(木浦)-ヨス(麗水)間は登山・ハイキングの名所が随所にあるらしい。ソウル地域は別として、韓国はまだまだ日本に比べて自然がたくさん残っている。また国民的に山登りが好きらしいので、シーズンでもあるし多くの人が訪れているのだろう。 この街は比較的大きな街だ。鉄道も走っている。ここからはナムォン(南原)やチリサン(智異山)も近い。今回は通過だが一度じっくり来てみたいところである。バスから見ただけだけど、川沿いに大きな市が立っていて活気に溢れていた。 ほどなくしてヨスシ(麗水市)に入り、バスターミナルに着く。ヨス(麗水)のバスターミナルはモッポ(木浦)と同じで、とてもこじんまりとしていた。小さな建物一つしかないのだ。田舎ならではである。
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高速バスに乗り込む人たち |
03ヨス(麗水)市内へ さてここから市内に向かって行かなければならない。とりあえずターミナル前の大きな通りに出てみる。バス停があってかなり頻繁にバスが走っていた。さて、どのバスに乗ったものやら。 ううむ、困った。これは誰かに聞いてみるしかない。そう思ってバス停にいた若い女の子に聞いてみることにした。 「あのー、すいません。どのバスがフェリーターミナルへ行きますか?」 女の子は、かなり驚いたようだった。ふちどり唇をしている典型的な韓国女性だ。 「ペリトミノリエヨ」(フェリーターミナルです) よく考えてみたら、ヨス(麗水)からはフェリーが出ていないのだった。正式名称は「旅客船ターミナル」である。どうりで通じないわけだ。 「では、どの番号のバスが旅客船ターミナルに行くんでしょう?」 そう聞くと、女の子はしばらく考えた後、私についてきてくださいと言いながら、一緒にバスに乗ってくれたのだ。どうやら彼女の行きたかった方向とは違うとのことだが、ターミナル前まで案内してくれるらしい。しかも僕らがもたもたしているうちに「ポスピョ」(バスの回数券)もさっと出してしまった。 申し訳ないなーと思いながら、彼女&僕ら親子は市内に向かい、バスを降りた。思ったよりかなり近かった。それ程大きい街でもないようだ。彼女についててくてく歩いていくと、目の前にちょっと古ぼけたコンクリートの建物が見えてきた。 女の子とはそこで別れることにした。バス代やお礼も込めてお金でもと思ったけど、きっぱり断って去っていってしまった。ああ、なんていい子なんだ。
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04またまた宿探し さて宿を確保する前にやっておかなければならないことがある。エンゼル号(水中翼船)の出発時刻の確認と席の確保だ。シーズンでもあり、確保は難しいだろう。ダメもとで聞いてみるしかない。 では、宿の確保といこう。恐らくこのターミナル周辺にあるだろう。そう思って繁華街の方に向かって歩いていくと、さしみ屋がたくさん並んでいる地帯に出る。その付近にいくつかヨグアン(旅館)が見つかった。僕の今までの経験からすると、夜うるさい可能性が高い。しかし、場所的には繁華街の中で抜群のロケーションだ。あんまり歩き回るのも何だしなー、と思っているとヨグアンからオヤジが出てきて僕ら親子に手招きするのだ。 「泊まりかい? さあ、入って入って!」 クァンジュ(光州)の時と同じで、誘われるままに中に入る。良さそうならここに決めてもいい。中に入ると工事の音が響いていた。改装中なのだろうか?オヤジに値段を確かめ(いくらだったか忘れた。2万ウォン強だったと思う)、部屋をいくつか見せてもらうことにした。因みに日本語は全く通じない。試しいてないので分からないけど、英語も多分ダメだろう。
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05ヨス(麗水)市内観光へさて宿も決まったことだし、ヨス(麗水)市内の観光に出かけることにしよう。ヨス(麗水)は地図を見れば分かるとおり海辺の街なので、美しい島々が目玉となっている。しかし、その他に特別有名な建物があるというわけでもない。 どこに行こうか迷ったが「コブクソン」(亀甲船)の実物大模型が展示されているらしいので、それを見に行くことにする。「コブクソン」(亀甲船)とはご存じの通り、豊臣秀吉の朝鮮侵略に対抗して朝鮮軍が使用した軍船だ。モッポ(木浦)のユダルサン(儒達山)公園にもあった「イスンシン将軍」(李舜臣将軍)が考案したといわれている。頑丈な船体の上部に鉄でできた「イガイガ付きの」天井をかぶせ、カプセルのようにして敵の侵入を防ぐ工夫がされている。その天井が亀の甲羅のように見えるところから、「コブクソン」(亀甲船)と呼ばれているようである。当時は大砲を撃ちながらも、船に乗り移って白兵戦をしていたようだから、この亀の甲羅は大変な発明なのだ。しかし、沈みだしたら乗務員は逃げられないと思う。 その船のある場所は、僕ら親子がいるヨス(麗水)中心部からは少し距離がある。ヨス(麗水)港の入り口にある島「突山島」(トルサンド)に係留されているのだ。その島へは大きな橋「トルサンッデキョ」(突山大橋)が架けられていて、橋からの眺めがとてもいいらしい。(地球の歩き方情報) ぶらぶら歩いて行けば景色も眺められるし、良さそうだ。しかし心配なのは親父の体調だ。聞いてみると、だいぶ良くなったとのこと。歩いて行くことにした。 モボムジャンヨグアン(模範荘旅館)から再び海岸に沿ってヨケクソントミノル(旅客船ターミナル)の方に戻り、さらに海岸に沿って歩いて行くと大きな橋が見えてきた。あれが「トルサンッデキョ」(突山大橋)だ。その橋めがけてまっすぐ歩いて行くと、だんだん道が狭くなり、まるっきり裏通りになってきた。道が細くて、車が一台通るのがやっとという感じなのだ。ううむ、このまま、あの橋まで行けるのだろうか? 構わずに歩いて行くと、心なしか住民の視線が感じられる。僕ら親子は明らかにエイリアンなのだ。さらに歩いて行くと工場(船の修理工場:ドック?)のようなところに出てきて、道がなくなってしまった。ちょうど橋の真下だ。これは困った。どうしようかと思ってその工場の中に入っていくと海岸に出る道があり、岸壁沿いに歩いて行くと上に登る道があった。そこを登っていくとなんとか橋の入り口に出ることができた。 橋のたもとには2階建ての展望台があったので、とりあえず登ってみる。なかなかいい眺めだ。そこで写真を何枚か撮る。 橋の下をのぞいて見ると、まるで川のように海水が流れていた。島のせいで海が狭められており、浅瀬にもなっているのだろう。ほとんど谷川のようだった。干満の差も激しいのかも知れない。しばらくぼーっと眺めていると、船が必死になって航行しているのが見えた。潮の流れと逆向きに走ろうとすると大変だ。さらに眺めていると、なんだか観光船のような変な船が走っているのが見えた。遊覧船でもあるのだろうか?その船の先を追っていくと、岸壁に繋がれた「コブクソン」(亀甲船)が確認できた。結構遠い。(^^;
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突山大橋をわたるバス 麗水港の全景 |
06実物大のコブクソン(亀甲船)気を取り直して橋を渡りきり、下の海岸の方へ下りていく。すると観光バスが数十台停まっている駐車場に出た。この先が「コブクソン」(亀甲船)だ。 「コブクソン」(亀甲船)の乗り場までは、海産物などを売る土産物屋、ポンチャックなどを売る屋台のカセット屋、さしみなどを食わせる食堂などが並んでいた。そしてその中に大きく「ユランソン」(遊覧船)とかいた小屋があった。なるほど島巡りの遊覧船が出ているらしい。島巡りの案内絵地図もある。時間もあるし、後で乗ってみようと思う。その時は、あとでその船に乗ることによって、とんでもない事態になるなんて予想もしていなかったのだが・・・・。 まずは「コブクソン」(亀甲船)に乗らないといけない。乗り場に行くと、子供やおばちゃん達で鈴なりになっていた。切符を買い浮き桟橋に向かう。浮き桟橋から金属製のタラップを上がり中に入ると、やはりこちらも子供でいっぱいだった。みんな手にメモを持っており、なにやら必死で書き写している。韓国では見慣れた光景だ。 船の中は、船というより小屋の中にいるようで薄暗かった。オールで漕いで進んでいたらしく、ガレー船のように漕ぎ手用のスペースが確保されている。そして大砲が並び、この船が戦艦であったことを我々に見せつけてくれるのだ。天井は木でできており、亀の甲羅に当たる鉄の部分は上に貼っているだけのようだ。 船の中央部には2階に上がる階段があるのだが、観光客は立入禁止になっていた。2階に上がるとその屋根のてっぺんにあいた小さな穴から外を眺めることができる。今は人形が外をにらみつけていた。 「コブクソン」(亀甲船)にはさらに地下室(船倉)があって、観光客も下りていけるようになっていた。船倉には兵士の寝室や武器庫、食料庫、医務室などがある。人形がたくさん置かれていて、当時の生活ぶりを再現していた。しかし本当に狭いスペースしかない。昔はこんなに狭い空間に何人もが何ヶ月も頑張ったのだろう。今では考えられない劣悪な環境だ。昔の人たちの苦労が忍ばれる。
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亀甲船の前で記念撮影 亀甲船に入り込むタラップ よく見ると、屋根の右の端の方に人形が 顔を出しているのが見える |
07恐怖のポンチャック船!!!? さて、お次はどうしよう。さしみ屋にでも入って飯でも食うか・・・。迷いながら歩いているとさっきの遊覧船乗り場の前に来た。そうだ、遊覧船に乗らないといけなかった。と思ってみてみると、切符売り場のおねぇちゃんがなにやら騒いでいる。どうやら、あと数分で船が出るらしい。コースを聞いてみると約1時間の短い方のコースだ。1時間もあれば十分だ。それ以上乗っていても時間がもったいないだけだ。「パルリパルリ」という声にせかされるように切符を2人分買い、船乗り場へ走る。船はかなり小さめの遊覧船だった。2~30人も乗れば満員になる。すでにほとんどの人が乗り込んでいて、僕ら親子が最後だった。 「しっ、しまった!」 と思ったがもう遅かった。あわてて乗ったのは失敗だった。 さらに驚いたことに、その小部屋には大型スピーカーが取り付けられていて、まさにポンチャックで踊り狂うため(だけ?)に作られているといった案配だ。この団体客は恐らく先ほど停まっていた観光バスから来たのだろう。バスの中ではポンチャックを歌うことはできても踊ることは難しい。それこそ、たまりにたまったパワーが、今、解放されたばかりなのだ! 桟橋のオヤジは容赦なくドアを閉め、我々親子はあわれポンチャック集団に囚われのみとなってしまったのだ。逃げ場は・・・・・ない。 海に出るや、音量など気にすることもなくひたすら踊り、歌い、踊り、歌い、次々と繰り出される歌を、それこそ唸りのように合唱していく。
まさに「韓国パワーここに極まれり」といった体をなしていた。この人達、もしかして1時間中歌い踊り続けるのだろうか? いや、間違いなくそのはずだ。そのために船に乗っているのだから。 「あの島は何という島かね?」 そんなこと、俺達が知るわけねーだろ! と思ったけど、 「よく分からないんですー」 と適当に答えておいた。するとおばちゃんが、 「あんた! こんなところで何してるの!」 とそのおじさんを引っ張っていってしまった。おじさんはこちらを訴えるような目で見ていたけど、諦めてまた夢遊病者のように踊りの輪の中に入っていった。 もうすぐ1時間になろうとしていた。船は明らかに桟橋に向かって全速力で走り始めていた。もうすぐ終わりだと思ったのか、踊りのパワーは最後の一滴を絞る取るかのように「悲壮さ」までも身にまといながら、さらにエスカレート白熱スパークし、ポンチャック船は桟橋に着いたのだった。
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ポンチャック船乗り場 これがそのポンチャック船だ! |
08市場へ・・・
遊覧船を下りた僕たち親子は、宿の方へ戻ることにした。まだポンチャックディスコが頭の中を駆け巡っていた。 結局何も買わず、宿に戻る。隣の部屋の工事はすでに終わっていた。親父が、疲れたから夕食までの間少し休憩したいと言い出したので、一人で街を散策してみることにした。 ついでに風呂屋があったら、アカスリでもしてもらうことにしよう。そう思ってタオルを片手に部屋を出た。階段を下りていくと、フロントに例の宿のオヤジ(主人)がいたので、モギョクタン(沐浴湯)の場所を聞いてみる。すると「うちには修理したばっかりのきれいな風呂が付いているのに何で風呂屋に行くんだ!」と言い出した。ごもっともである。アカスリがしたいんだと言って、教えてもらった。 ヨス(麗水)の街はモッポ(木浦)よりもさらにこじんまりとした港町だ。湾に沿って大きな道があり、その両側が繁華街となっている。すぐ山が迫っているので、そのベルト地帯以外は特に何もなさそうだ。小一時間もあれば十分歩いて回れる範囲だ。 宿で少し休憩した後、夕食を食べに親父と一緒に再び宿を出た。あたりはもう薄暗くなっていた。
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09「マンドゥクッ」と「パン屋」
親父は相変わらず胃の調子がおかしいらしい。あっさりしたものということで、またまた「マンドゥクッ」(餃子スープ?)を食べることにした。僕は「ネンミョン」(冷麺)にした。適当な店に入り注文する。割ときれいな店でおばちゃん達がばたばたと働いていた。そのうち僕たち親子が日本人だと分かったようで、しかも韓国語が分かるらしいと気が付くと、いろいろ話しかけてきた。珍しいんだろうな、と思う。日本人と分かってビビられて、韓国語をしゃべると分かって2度ビビられる。今回の旅は、これの繰り返しだ。 飯を食った後、夜の街をぶらついてみた。しばらく屋台などを冷やかして宿の方に戻る。途中にパン屋さんがあったので明日の朝食を仕入れておくことにした。 「どれにしよっかなー」などと迷っていると、 と、案の定ビビられてしまった。しかし彼女がモッポ(木浦)の薬屋の女の子や他の人々と違うのは、 「ニホンノカタデスカ?」 と日本語をしゃべってきたことだ。話を聞いてみると、学校で日本語を勉強しているらしい。義務教育の中に取り入れられているわけやね。話に聞いてはいたが、あらためて驚いてしまう。しかもこんな(ヨス(麗水)に失礼かな?)田舎の街で! 「コノパンハ・・・・」 女の子はくるりと向き直ると、別のパンを指しながら 「エー・・・・コノパンハ・・・・」 といった調子。彼女にとっては忘れられない体験になったかな?(^^; そしてそれは僕にとっても同じだ。もう一度この街に来ることがあったら、このパン屋さんにも来てみよう。 さぁ、明日は釜山へ移動するのだ。明日釜山に一泊して、下関行きの船に乗る。
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第1話
1996.4.28 |
下関から釜山へ |
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第2話
1996.4.29 |
釜山上陸、釜山の旅行会社、 ナンポドン(南浦洞)・チャガルチ市場からキメ空港(金海空港)へ、キメ空港(金海空港) 、クァンジュ(光州)へ・・・、バスターミナル周辺で宿探し、クァンジュ(光州)市内へ、宿の電気が!!! |
第3話
1996.4.30 |
さあ、モッポ(木浦)へ、モッポ(木浦)駅、ヨグアン(旅館)探し、モッポ(木浦)駅周辺へ、旅客船ターミナルから繁華街へ、カン・スジ(姜修智)、市場へ |
第4話
1996.5.1 |
朝食をとって、ユダルサン(儒達山)に登る、ユダルサン(儒達山)の山頂へ、山を下りて「トンドンチュ」と「パジョン」に舌鼓、下界へ・・・、国立海洋遺物展示館、木浦市郷土文化館 |
第5話
1996.5.2 |
モッポ(木浦)からヨス(麗水)へ、コソッポス(高速バス)、ヨス(麗水)市内へ、またまた宿探し、ヨス(麗水)市内観光へ、実物大のコブクソン(亀甲船)、恐怖のポンチャック船!!!?、市場へ・・・、「マンドゥクッ」と「パン屋」 |
>>第6話
1996.5.3~4 |
チンナムグァン(鎮南館)、釜山へ・・・、釜山到着、チュングアンドン(中央洞)でまたまた安宿さがし、夜の釜タワーへ、日本へ戻らなきゃ、またまた「フォシンチョン」(虚心庁)へ・・・、帰国 |