親父と行く韓国南海岸の旅(3/6) 【韓国南海岸旅行記】

1996年4月30日(火) 木浦編 第3話



01さあ、モッポ(木浦)へ


 さあ、今日はモッポ(木浦)へ行く日だ。早起きしてクァンジュ(光州)バスターミナルへ向かう。天気は曇ってはいたが、何とかもちそうな気配だ。自販機で切符を買い、モッポ行きのブースに行くと、ちょうど出発するところだった。朝早いせいか、座席は3分の1くらいしか埋まっていなかった。バスは茶色いシートの典型的チッケンポス(直行バス)だった。

 クァンジュ(光州)からモッポ(木浦)までは1時間30分程度の距離だ。ただし高速道路は走っていない。(注1) 一般道のみを使用してバスは走っていく。しかし、思ったより道はよかった。もっと田舎の細い道を想像していたのだが、そうでもないようだった。うつらうつらと居眠りをしているうちにモッポ(木浦)のバスターミナルに到着した。

 モッポ(木浦)のバスターミナルはクァンジュなどと比べるとずいぶんこじんまりとしていた。ちょっと古い建物で、なかなかいい味を出している。クァンジュ(光州)はターミナル内の表示・案内その他行き先などにアルファベットが併記されていたのだが、ここではすべてハングルのみだった。
 ところでモッポ(木浦)については全くと言っていいほど情報がなかった。例の「地球の歩き方」もモッポ(木浦)に関する記載は少ない。だいたい今いるバスターミナルが街のどのあたりにあるのかさえ定かではないのだ。バスターミナルの案内所で市内に行くバスを聞いてみると、1番ということだった。こりゃまた単純な。もしかしてバスの路線が少ないのだろうか?(後にそんなことはないことが判明)

 バスターミナルの建物を出て前にある大きな通りを少し歩くと、その1番バスの乗り場がある。バス停では大勢の地元の人たちがバスを待っていた。しかしなんだかじろじろ見られているような気がする。よそ者と分かってしまったのだろうか?僕の風貌は香港人に間違えられる、いわゆる南方系の顔なので韓国にはあまりないのかも知れない。親父も似たようなもんだし。かなわんなーと思っていたらバスがやってきたのでわらわらと乗り込む。バスは混んでいたのだが、後ろの方にずれていくと不意に一人の若い女の子が席を立って親父に譲った。さすが礼節の国。年寄りを大事にするのだ。こう言うところは日本も見習うべきなんだろう。











(注1) 韓国道路公社のHPを確認したところ、2007年現在でも、開通していないようである。距離的にも近いので、必要ないのかもしれない。ちなみに、道路地図を見てみると、ムアン(務安)とクァンジュ(光州)間の高速道路は建設中のようである。
http://www.ex.co.kr/index_main.html



韓国 木浦バスターミナル
木浦バスターミナル

02国鉄木浦(モッポ)駅

 しかし、モッポ(木浦)のバスターミナルから国鉄の駅前まではかなりあるらしく、なかなか着かない。でこぼこ道をスピードを上げて走るバス。かなり待ちくたびれたところで左手に見えたので、あわてて降りる。うーむ、これが噂のモッポ(木浦)駅かぁ。早速、駅の中に入ったり写真を撮ったりする。親父の話によるとこのモッポ(木浦)駅、建物自体は新しくなっているようだが、位置的には戦前のままらしい。ここからの道、配置などだんだん思い出してきたとのことだ。親父の記憶と地図をあわせてみるとぴったり一致した。

 親父はビデオを持ってきていたので、ここぞとばかりに撮りまくっていた。親父には「人には絶対向けないように。市場なんかでむやみに撮らないように」など注意しておいたのだが、トラブルにならなければいいと思う。実は一生懸命撮っているのには訳がある。親父の親父(つまり僕の祖父)にモッポ(木浦)の様子を見せたいらしいのだ。今年91歳になるのだが、まだまだ元気でがんばっている。前に書いたとおり、祖父は若い頃朝鮮半島にわたり、青春時代を過ごし、結婚し、ここモッポ(木浦)で新婚生活を始めたのだ。そういう目でこの街を眺めてみると、奇妙な感慨がわき起こってくる。孫の僕がこの地を踏みしめるのも、また何かの因縁なのかも知れない。(その後、祖父は92歳で亡くなりました)


韓国 木浦駅
木浦駅(1996年 旅行記当時)
KTXの開業により、現在は大幅に改装された。

03ヨグアン(旅館)を探す

 まずはヨグアン(旅館)を探さなくてはいけない。駅裏か、繁華街の中か。ま、その辺のどこかでいいだろう。まわりを見回してみるとヨグアン(旅館)の文字がいくつか見える。そのうち大きめのヨグアン(旅館)があったので試しに入ってみることにした。
 入り口を入るとおばちゃんが数人座っていた。値段などを聞いてみるとそこそこだったので(いくらだったか忘れた)、部屋を見せてもらうことにする。階段を上がって行くと、ちょうど別のおばちゃんが掃除をしているところだった。思ったより広い部屋だったし、風呂もまぁまぁ。それにモギョクタン(沐浴湯)が併設されているみたいだし、ここに決めることにした。角の広めの部屋を指定する。

 しかしおばちゃんは「ここはダメだ」と言って隣の部屋を勧めるのだ。何で?(^^;それにしてもおばちゃんの言葉は聞き取りにくい。「訛りここにきわまれり」といった感じだ。よくよく聞いてみると、まだ風呂の掃除が終わってないからだった。別に、そんなんかまへんよ。ケンチャナヨで荷物を置いて、宿は決定された。

 少し休んでから街に出ていくことにする。因みにこのヨグアンの名前はなんていうんだろう?と思って調べてみると、「トリムヨグアン」であった。なんとあの悪名高い「地*の迷い方」に紹介されているではないか! しっ、しまった。別のにすればよかった。と思っても、既に金を払ってしまったし、動くのはもっとめんどくさいので、ここに居座ることにする。

 この「トリムヨグアン」は駅からすぐの位置にあって確かに便利だ。そういう意味では「地球の迷い*」に紹介されても不思議ではないのか。


韓国 木浦の旅館(トリムヨグアン)
トリムヨグアンの部屋
エアコン、鏡台、テレビなどを完備!!

04木浦(モッポ)駅周辺へ

 とにかく駅を起点に歩き回ることにした。頼りは親父の記憶である。親父の生まれた家は、駅から南に下っていく大きい通りを進んだ先にあるらしい。確かにこの道だといいながら歩いて行く。少し坂道を上ると道が斜めになって先に家の密集している地帯が見えてくる。
 この南に向かっている道から斜めに入っていくと、やたらとさしみ屋がたくさん並んでいる地帯に出る。この辺りも、親父は記憶に残っているらしい。因みにこの辺の店は、看板にハングルで「サ・シ・ミ」と書いているようだ。
 一般的には「さしみ」という言い方もまだまだ通用するみたいだけど、ここまで堂々と表記するとはねぇ。大したもんだ。しかしこの後、旅行した南海岸地域ではかなり一般的に「サシミ」と表記されていた。日本語ではあるけど、かなり認知されているのだろう。「うどん」とか「おでん」とか日本語が韓国語に残っている例はいくつもあるようだけど、聞いたところによると意識して無くそうとしているらしい。「たくあん」も昔はそのまま通用していた様だけど、今は「タンムジ」になっているみたいだし。でもこれはもう別の食品かも知れない。

 さて、何だかんだいいながら、うろうろとしてしまっている親子である。

 親父と駅周辺をしばらく一緒に歩いていたけれど、別行動を取ることにした。この界隈は比較的土地勘もあるみたいだから、親父独りでも大丈夫だろう。一人で自由に歩きたがってるように感じたし、2人で旅をしているとこういう単独行動の時間を適当にとるのが重要だ。たとえ親子でも、四六時中一緒に行動していると、それなりにわがままも出てくる。適当にブレークを入れるのだ。夕方に旅館の部屋に集合することにして別 れた。

 さて、親父と別れてからまず海岸線に向かって歩き出した。それにしても日差しがまぶしい。すっかり夏の様相になってきたようだ。雨が降るのかと心配していたのが嘘のようだ。因みに駅から海岸までは歩いてすぐの距離にある。そして海岸には有名な「たこの躍り食い」などを食わせる「さしみ屋」が並んでいるはずだ。
 海岸に向かって歩いていくと町工場のような一帯があって、それを抜けると岸壁に出る。すると海沿いに、堤防の上に店をかまえたかのようにずらっと「さしみ屋」が並んでいるのが見えてきた。それもびっしり。右も左も視線が届く範囲はすべて「さしみ屋」だ。それだけに呼び込みの声も激しい。店のおばちゃんたちは僕の姿を見つけると、まるで急に電気のスイッチが入ったように声を上げて呼び込み始めた。「なるほど、これがかの有名なさしみ屋なのだな」妙に感心してしまった。
 しかし元より店には入る気がない。それらの声を聞きながらずんずんと海岸沿いに歩いていった。地図によれば、この道の先に「旅客船ターミナル」があるようなのだ。

 さてこの「旅客船ターミナル」だが、このモッポ(木浦)周辺に制定されている「多島海国立公園」の各島々に向かう船の出発点として知られている。有名な行き先の一つに「ホンド」(紅島)がある。韓国でも有数の美しい島で、絶海の孤島でもあり奇岩の島として知られている。ぜひ一度そのあこがれの島「ホンド」(紅島)を訪れてみたいとかねてから思っていたのだ。
 韓国人の友人に聞いても「あの島は美しい」と言う返事が返ってくる。しかし面白いことに友人5〜6人に聞いてみたけど、実際に行ったことがある人はいなかった。「母親が行ったことがある」という人はいた。韓国人は、あまり旅行しないのか? あるいは韓国人にとっても辺境の地なのかも知れない。韓国人も滅多に行けない所に行こうなんて考える、俺っていったい・・・・?




木浦の町並み 裏路地
木浦駅周辺の道

木浦市庁
http://www.mokpo.go.kr/ (韓国語)
http://mokpo.go.kr:8088/japanese/ (日本語)

木浦市
木浦市は韓国に西海岸に面しており、北は務安郡、そして海南郡や霊巌郡などにも面している人口26万人の港町。
「木浦」という名称は「高麗史」で初めて登場、以後、朝鮮時代の世宗21年(1439年)には「木浦萬戸」が設置され、1897年10月1日、木浦港は第一開港時代を迎える。日本が植民地支配していた時代には1910年には「木浦府」と呼ばれていた。
総面積は約47.23平方キロ。別府市と姉妹都市である。

紅島
多島海海上国立公園で一番美しい島といわれるところで、夜明けに中国本土でニワトリの鳴き声が聞こえたと言うくらい、西海の遠いところに位置している。島全体が天然記念物第 170号に指定されたくらい、島自体が美しくて多くの人々に知られている。紅島が美しい島として有名になった理由は、島自体が珪岩(けいがん)でできており、遠くから見ると島全体が赤く見えて、特に日の入り頃は島と海が一面赤く染まるのである。紅島という名前もここに由来する。

05旅客船ターミナルから繁華街へ

 しばらく歩いていくと、目的の「旅客船ターミナル」が見えてきた。観光客っぽい人たちが大勢たむろしていた。雰囲気は典型的な地方ターミナル。
 とりあえずジュースでも買い、休むことにした。ターミナルは大きな吹き抜けになっていて、正面に大きな時刻表と電光掲示板がいくつか並んでいた。よく見ると、かなりいろんな所に行けるようだ。主な行き先は、先ほど書いた「ホンド」(紅島)と「チェジュド」(済州島)のようだ。「チェジュド」(済州島)にはカーフェリーも出ている。かつては新婚さん御用達だったようだが、今でもそうなのだろうか?

 ベンチでくつろいでいると、突然おばさんに韓国語で話しかけられた。以前、「統一*会」の勧誘に閉口したことがあったので、困ったなーと思っていたけど、どうやらある島のバンガローの宣伝のようだった。しばらく聞いていると、その島の特徴だとかバンガローの設備だとか盛んに宣伝している。行けるわけもないので、丁寧にお断りした。さて、じっくり休憩もしたことだし「旅客船ターミナル」を後にする。

 では、次は街の繁華街を歩いてみることにしよう。小さい街なので、繁華街はすぐに見つかった。宿泊している「トリムヨグアン」(トリム旅館)の裏手の界隈一帯だ。しかし、CDショップ、本屋、ブティックなど、一通りそろってはいるが、やはりクァンジュ(光州)に比べるといかにも田舎の街である。しかしこういう雰囲気は親しみやすくていいのだ。本屋もそこそこの大きさのがあったので、中に入ってみた。とりあえず、チョンナム(全羅南道)のガイドブックを探す・・・・・が見あたらない。ここモッポ(木浦)は言わずと知れたチョンナムの端っこだ。自分の地域のガイドブックがないのか・・・というより、ガイドブックのたぐいが極端に少ない。そういうもんなのかも知れない。仕方ないので絵本などを見たりしていると、ふとある「もの」が目に留まった。絵はがきなのだが、タイトルが「アルンダウン ウリ トクド」(美しい我々の独島)となっている。独島=日本名:竹島、日本との領有権でもめているあの島の絵はがきが売られていたのだ。しかも「ウリ」(我々の)ときている。う〜ん、これはマニアものかも知れない。迷わず購入することにした。横には「ウルルンド ワ トクド」(鬱陵島と独島)というのもあった。これも購入する。

 この絵はがきは、その後もいくつかの都市の本屋で見かけたので、それなりに流通しているようである。しかしついでに付け加えておくが、韓国では基本的に絵はがきの入手が困難だ。観光地に行ってもなかなか手に入らない。手に入ったとしても大抵1種類しかない。プサン(釜山)の金海空港では、国際線の売店にしか売っていなかったことは、すでに書いたと思う。この点について韓国人の友人に聞いてみたことがあるのだが、どうも韓国では旅行先で絵はがきを購入する習慣があまりないようなのだ。絵はがき好きな日本人と対照的である。香港などでは街中で普通に絵はがきが買えるので、欧米人など日本人以外の人々もそれなりに好きなように思えるのだが、どうなのだろう? 因みにこんなに絵はがきにこだわっているのは、親父が「自分の生まれた地」であるモッポ(木浦)の絵はがきを欲しがっているからだ。しかし、今のところ見かけない。恐らく街中で入手するのはほとんど不可能だと僕は思っている。ただでさえ入手困難なのに、モッポ(木浦)は韓国の中でもマイナーな土地なのだ。


韓国 木浦旅客船ターミナル
旅客船ターミナル

06カン・スジ(姜修智)

 さて、街をぶらぶらしていたが約束の時間になったので宿に戻る。宿の受付にはさっきのおばさんではなくて、おじさんが座っていた。しばらくしゃべっていたらだんだん日本語が混じってきたので、よく聞いてみると実は日本語がしゃべれるのだった。これも昔の占領時代(日帝時代)の遺産だ。実に流暢にしゃべる。
 キーを受け取って部屋に戻る。当然親父はまだ帰ってきていない。テレビでも見ようとチャンネルをガチャガチャと回してみる。すると何かクイズ番組をやっていた。よく見てみると、見覚えのある人が出演している。

「もしかしてカン・スジ(姜修智)?」

 なんとカン・スジが嬉々としてクイズに答えているのだ。これはお得かも知れない。思わずテレビに向かってシャッターを押したのは言うまでもない。
 因みにカン・スジは韓国の工藤静香的雰囲気の女性アイドル(?)である。余談だが(余談が多すぎるかも)、僕はカン・スジ大好きでCDをたくさん持っているのだけど、韓国人が彼女のことをどう思っているのか気になって、何人かに聞いてみたことがある。すると多かったのが「過去の人」という意見だ。実際、雑誌を見ても「復活した人」という感じで取り上げられていたりして、「低迷していた」というイメージがあるようだ。またアメリカからの帰国子女ということや、スキャンダルに巻き込まれたりしていたので、
「いわゆる伝統的な韓国人女性の価値観からは少し外れている(行動をしている)」
と感じている人もいた。なかなか興味深いのだ。話は少しずれるかも知れないけど、韓国で(演歌を抜きにして)女性ソロ歌手が少ないのは、案外 歌手という職業自体がそういう価値観からずれているからかも知れない。女性ボーカルとして成功している、「ルーラ」などが、男性とセットになっているのも、こういう理由からなのだろうか。とにかく「韓国的」ってキーワードが様々な場面で出て来るんですよね。いろいろ意見はあると思うけど、そういうことをあれこれ考えるのは実に楽しいことだ。
 しかし「そんなにカン・スジがいいのですか?」と聞かれて困った。そんなに嫌いなの?と逆に聞きたいくらいだよ。

 さて、しばらくテレビを見ていると、約束よりかなり遅れて親父が戻ってきた。なんとモッポ(木浦)を見下ろす位置にあり、モッポ(木浦)の象徴ともいえるユダルサン(儒達山)に登ってきたらしいのだ。なんという。それは明日登る予定だったのだ。その話をすると、明日もう一度登ろうと言うことになった。どうもビデオ撮影がうまくいかなかったらしい。




カン・スジ(姜修智)
1971年5月20日生まれ。韓国の女性歌手。ソウル特別市出身で、小学生から学生時代までをニューヨークで過ごしたいわゆる帰国子女。1990年にデビューし、90年代の韓国を代表する女性歌手である。1995年に日本に進出したが、本来、歌手として来たはずなのに、実際はバラエティの出演が多く、結局、売れたと言えるまでには行かなかった。
日本でのデビュー当時、京都円山公園でのイベントに出てきたのを、私は見に行ったことがあるが、かなり悲惨な状況だった。他のアジア出身の歌手と一緒に一曲ずつ歌ったのだが、客の反応はほとんどなくて、(我々は大騒ぎだったが・・・)、トリに出てきた鈴木雅之でかなり盛り上がった。カンスジは完全に前座だったのである。悲しい。


姜修智
カン・スジ(姜修智)

07市場へ向かう

 さて、飯を食べに街に出かけることにした。ヨグアン(旅館)のおじさんに美味しい店を紹介してもらい、たらふく食うことが出来た。因みにその店は戦前に日本人が建てたと思われるくらいの古い建物だった。当然のごとく店のおばちゃん達はモッポ(木浦)に生まれ育っていて、昔の話をたくさん聞くことが出来た。
 親父より年上の人はいなかったので、戦前や戦後すぐの話は聞けなかったけど、(親父ですら小学校低学年)、昔あった病院がどうなったのかとか、昔の女学校がいまでも女子高校として使われているとか、昔親父が通った幼稚園(!)が、今はお寺になっているとか、そういう話が聞けた。親父がモッポ(木浦)出身だと分かると、本当にいろいろ教えてくれたのだ。しかしおばちゃん達が集まってきて、口々にしゃべるのだけど、僕もそんなに韓国語を流暢にしゃべれるわけでもないので、少し悔しい思いがした。もっとしゃべれるようになりたいと思った。

 ところで、ヨグアン(旅館)のおじさんは親父と年代がそう離れていないように感じたので、もしかしたら同じ時期に小学校に通っていたかも知れない。そんな気がしたので、親父に話してみた。日本語がしゃべれることもあって、後で、親父が直接聞いてみたらしいが、残念ながらクァンジュ(光州)の方の出身だということだった。

「あなたの息子は韓国語をしゃべるが、奥さんは韓国人か?」

とその時、聞かれたそうだ。やはり韓国人(含む在日韓国人)か、韓国人の血が流れている人(片方の親が韓国人とか、韓国人であったけど日本やアメリカにに帰化した人・その子孫など)が韓国語をしゃべるのであって、純粋の日本人が韓国語をしゃべるのは概念としてないらしい。僕もたいてい「キョッポですか?」と聞かれる。韓国人は韓国人の血が流れていないと、韓国語をしゃべれないと思いこんでいるのでは?と言う人もいるけど、真相は藪の中だ。 (第3話 了)

 

第1話
1996.4.28
下関から釜山へ
第2話
1996.4.29
釜山上陸、釜山の旅行会社、 ナンポドン(南浦洞)・チャガルチ市場からキメ空港(金海空港)へ、キメ空港(金海空港) 、クァンジュ(光州)へ・・・、バスターミナル周辺で宿探し、クァンジュ(光州)市内へ、宿の電気が!!!
第3話
1996.4.30
さあ、モッポ(木浦)へ、モッポ(木浦)駅、ヨグアン(旅館)探し、モッポ(木浦)駅周辺へ、旅客船ターミナルから繁華街へ、カン・スジ(姜修智)、市場へ
>>第4話
1996.5.1
朝食をとって、ユダルサン(儒達山)に登る、ユダルサン(儒達山)の山頂へ、山を下りて「トンドンチュ」と「パジョン」に舌鼓、下界へ・・・、国立海洋遺物展示館、木浦市郷土文化館
第5話
1996.5.2
モッポ(木浦)からヨス(麗水)へ、コソッポス(高速バス)、ヨス(麗水)市内へ、またまた宿探し、ヨス(麗水)市内観光へ、実物大のコブクソン(亀甲船)、恐怖のポンチャック船!!!?、市場へ・・・、「マンドゥクッ」と「パン屋」
第6話
1996.5.3〜4
チンナムグァン(鎮南館)、釜山へ・・・、釜山到着、チュングアンドン(中央洞)でまたまた安宿さがし、夜の釜タワーへ、日本へ戻らなきゃ、またまた「フォシンチョン」(虚心庁)へ・・・、帰国