親父と行く韓国南海岸の旅(6/6) 【韓国南海岸旅行記】

1996年5月 3日(木)~4日(金) 釜山・帰国編 第6話(最終回)



1996年5月3日(木)

01チンナムグァン(鎮南館)

 ヨス(麗水)のモボムヨグアンで朝を迎えた。昨日、日本語を勉強中の女子学生がいたパン屋で買ったパンをむしゃむしゃ食べながら、今日の予定などを考えてみる。とりあえず絶対今日中にしなければならないことは、釜山に移動して宿を確保することだけだ。あとは特にない。釜山には昼過ぎか夕方ぐらいに着けばいいから、少しヨス(麗水)で観光でもしていくか。時間がかからず見に行けるものは・・・・と。「チンナムグァン」(鎮南館)というのが近くにあるので、そこに寄っていくことにしよう。チンナムグァンとはあのイスンシン将軍が豊臣秀吉の軍勢を迎え撃つために指揮をとった本営の跡地だ。今は何かの建物が建っているらしい。とにかく韓国の南海岸一帯は、イスンシン将軍がらみの遺跡がやたら多いのだ。
 早速、チェックアウトをしてチンナムグァンに向かう。僕ら親子を誘い入れた宿の主人は外出しているようだった。なかなか味のあるオヤジだったんだが、挨拶できなくて残念だ。

 チンナムグァンはヨグアン(旅館)からすぐのところにあった。5分も歩いていないのではないだろうか? 大きな通 りから少し入ったところにあって、人だかりがしているのですぐに分かった。
 すでに団体客が来ているようだ。しかも子供達。例によって課外授業なんだろうか?
 入り口で切符を買い、石の階段を登っていくと大きな門が見えてくる。それをくぐると、これまた大きな建物があった。どうもこれらしい。しかし、ただ大きな建物があるだけだった。それもかなりせまい敷地にだ。「で?」という感じだけど、地元の名所なんだろうな。ソウルにある宮殿を見慣れた向きには「え?これだけ?」と感じるだろう。時間が余れば訪れてもいいかもという程度だ。ただ高台にあるので景色はよい。

 景色を堪能してから階段を下り、大通りの方へと歩いていく。市内バスに乗って市外バスターミナルにまで行くのだ。二人で荷物を抱えながら歩いていると、通りの向こうをヨグアン(旅館)の主人がこちらに向かってトコトコ歩いて来るではないか。親父が「よぉー!」と声をかけると、そのヨグアンの主人も手をあげて応えた。

「あの宿屋のオヤジ、最初はどうかと思ったけどなかなか愛想いいオヤジじゃないか」

うちの親父も気に入ったらしい。





韓国 麗水 鎮南館
鎮南館への階段


階段を登り、門をくぐって振り返る

02釜山へ戻る

 大通りに出てみると市内バスはたくさん走っていた。でもどれがバスターミナル行きかよく分からない。バスの運ちゃんに片っ端から聞いてみて、なんとか乗ることができた。
 ターミナルに行ってみると、あと十数分でバスが出るようだった。もともと釜山行きのバスはたくさん出ているようだが、運も良かったみたいだ。しかも数本に一台しかない「優等バス」だ。親父も疲れているようなので、これはありがたい。通常の高速バス(市外バスなども含む)は席が4列なのだが、優等バスは3列でかなりゆったりとしている。しかも値段的にはそれほど変わらないのだ。早速チケットを購入する。
 待つ間もなくバスが登場し、乗り込む。座席も広くて足置きもある。これはいいバスだ。親父もすっかり気に入ったようだ。

 定刻となり、バスはしずしずと出発した。ヨス(麗水)からプサン(釜山)までは基本的に高速道路を通っていくので速い。今日は渋滞もなく、かなりスムーズに流れているようだ。親父は車窓に目を投じ、列車などを見つけては写真を撮っていた。前にも書いたとおり、祖父の一家は日本に引き上げるため、モッポ(木浦)から釜山まで列車で移動したのだ。線路に関しては50年前と基本的に変わっていないはずなので、その思いをかみしめているのだろう。

「・・・今度来るときは電車がいいなぁ、お兄ちゃん」

それもいいなと思う。


麗水市
麗水市外バスターミナル(総合バスターミナル?)の情報については、以下のURL
http://yeosu.go.kr/site/Home/tour/come_by/come07/
これによると、2007年現在で、麗水-釜山間の高速バスは、1日14便出ており、うち10本が優等、3本が一般、1本が深夜優等(22時30分発)である。なお、このサイトはFireFoxでは動作しないようで、IEで見てほしい。

03釜山到着

 高速バスは渋滞することもなく釜山のターミナルへと到着した。難度もお世話になっているターミナルだ。久しぶりだ。最初に来たときはターミナルからフェリー乗り場や繁華街のある市街地まで出ていく方法が分からなくて、結局タクシーに乗ってしまった。あのころは「ヨグアン」(旅館)ぐらいしかハングルが読めなかったもんなぁ。苦労したなぁとか思ってしまう。しかし今は釜山市内の位置関係も把握しているし、バスに乗るのも問題ない。国鉄釜山駅、チュンガンドン(中央洞)、ナンポドン(南浦洞)の方角に行くやつなら、どれに乗っても問題ないだろう。

 バスを待っていると、おあつらえ向きなのが来たので乗り込む。因みに釜山のような大都市の場合、バスターミナルと市街地の間がかなり離れている場合が多い。釜山もバスで30分以上かかってしまう。慣れないと「本当に市内に向かっているのだろうか?」と不安になってしまうのだ。

 バスは順調に進んでいたが、やはり市内に向かうにつれ渋滞がひどくなってきた。特に、ソミョン(西面)の手前あたりでぴたっと停まってしまった。どうやら地下鉄工事の影響らしい。これは下手し たら1時間ぐらいかかるかも知れないなぁと覚悟を決めるほかはなかった。(注1)

 ソミョン(西面)とは釜山でも指折りの繁華街だ。ナンポドン(南浦洞)やククチェシジャン(国際市場)が港の近くにあって、どちらかというと観光客やジジババ、アダルト系なのに対して、ソミョン(西面)は若者の街だ。おしゃれな店も多いらしい。しかしそれにしても車と人が多い。バスはのろのろと進み、やっと抜けることができた。ふと窓から外を眺めてみると、見覚えのない大きな建物が目を引いた。

「ソミョン(西面)にあんな大きな建物ってあったっけ?」

記憶の糸をたぐってみても、それらしいものは思い浮かばなかった。あれはいったい何なんだろう?来る度に変わっていくなぁ、と思う。(後に「ロッテデパート」であることが判明)


(注1) 1996年当時、ちょうど地下鉄工事が盛んに行われていた時期である。現在では西面(ソミョン)駅でちょうど1号線と2号線が交差しているが、当時はまだ2号線の工事を行っていたのだ。したがって、今では地下鉄で比較的容易に行ける「広安里」や「海雲台」方面にもバスで行く必要があった。そのため、渋滞を常に覚悟する必要があったのだ。今ではそんな心配もない。時代は変わったなぁと釜山を訪れるたびに感じてしまう。
しかし、西面が繁華街であるのは昔からで、今でもおいしいものを食べさせてくれる店がたくさんあるようだ。ただ、他の地域(例えば釜山大前)など、繁華街は各地にかなり広がっているように思う。

04中央洞でまたまた安宿探し

 バスはまもなく釜山駅の前を通過する。警察署の前まで来たのでとりあえずバスを降りた。ちょうどチュングアンドン(中央洞)地域の入り口に当たる。釜山の安宿街は中央洞からナンポドン(南浦洞)にかけての繁華街の中にあるのだ。とりあえず常宿にしている「ソウルジャンヨグアン」(ソウル荘旅館)に向かおう。

 「ソウルジャンヨグアン」(ソウル荘旅館)はフェリー乗り場から真っ直ぐ地下鉄の通りの方に向かって歩き、地下鉄のある大通りをくぐったすぐ先にある。おばちゃんは日本語がしゃべれるし、地下鉄の駅にもフェリーターミナルにも近く、またコンビニが近くにあり、旅行会社も近くにあり、飯屋街にも近く部屋もきれいだ。繁華街の中にあるにしては静かだし、これ以上の宿はない。

 しかし宿に行ってみると「満室」とのことだった。

「ま、ま、満室?!」

 実は数限りなく韓国を訪れているけど、満室で断られたことは今まで一度もなかった。近くで大きな祭りがあるならいざ知らず、こういう事態は予想だにしていなかった。日本人が、いわゆる「地球の歩き方情報」に従って押し掛けているのだろうか?困ったものだ。

 仕方ないので、適当に探すことにする。ヨグアンの文字があると部屋を見せてもらったりするが、どうもピンとこない。おまけにかなり高いのだ。ソウルよりも高いんじゃないかと思うくらいだ。実に良くない傾向だ。

 本来なら納得するまで探すんだけど、親父が疲れているようだったし1泊だけだし、適当なところに入ることにした。

 「ソウルジャンヨグアン」(ソウル荘旅館)から少し山手に行くと長い階段があるのをご存じだろうか? 階段の上にもヨインスク(旅人宿)などがあるんだけど、その階段横のヨグアンに泊まることにした。クムファヨグアンというところだ。

 ヨグアンの主人は片言の日本語をしゃべるようだった。こちらが韓国語が分かると知るや、韓国語に切り替わる。「何で韓国語がしゃべれるんだ?」と興味津々のようだった。しかしこのヨグアンは確かに安いのだが、はっきり言って狭いし汚いし、全くお勧めできない。でも1泊だけだしね。

 部屋に入ると布団が一つだけだった。ま、これはいつものことだ。案内してくれたおじさん(韓国語しか通じない)に、もう一枚布団を持ってくるようにお願いする。すると、なんと1枚で2人寝ろというのだ! おいおい。韓国人ならそうするんだろうけど、日本人はそういう習慣はないのだ。さんざん文句を言ったら納得したようなそぶりをしたので待っていると、なんと上布団だけを持ってきやがんの!

 あーのーなー。日本人が多く訪れるこの釜山でこういう人がいるとは驚きだ。確かに韓国人は女同士、男同士が一つの布団で寝る習慣がある。(むしろ友達同士が別々に寝るのはよそよそしく感じるらしい)でも日本人は別々で寝るのが普通だ。そういう基本的なことが分かっていないなんて、いったいどういうことなんだ?

 最終的に「帰る!」と言って部屋を出ようとすると渋々持ってくることになった。布団部屋に行って、自分で持ってきた。全く、教育がなってないなぁ。旅館を営むんだったら、こういう日韓の文化の違いは認識しておいてもらわないと困る。

 しばらくして飯を食いに外に出ようと廊下に出ると、さっきのおじさんが別の日本人2人組と全く同じ理由でもめていた。日本人は「どうしよう!」と言いながら「地球の歩き方」をパラパラめくっている。「だから日本人は布団がいるんだ!」ともう一回言ってやると、持ってくることになったようだ。ほんとに・・・。

 因みにあの日本人、僕を「どこの国の人」だと思たやろなぁ?





釜山の安宿街
1996年当時の安宿街

05夜の釜山タワーへ

 あたりはすっかり暗くなっていた。飯を食べに外に出たわけだが、ついでに「ヨンドゥサンコンウォン」(龍頭山公園)にある「プサンタワー」に登ってみようと思う。「ヨンドゥサンコンウォン」(龍頭山公園)はちょうど僕ら親子が泊まっているチュンガンドン(中央洞)の隣の地区ナンポドン(南浦洞)の小高い丘の上にある。そこにプサンタワーが建っているのだ。ナンポドン(南浦洞)はプサンで一番にぎやかな地区で、繁華街がその「ヨンドゥサンコンウォン」を取り囲むように発達している。泊まっているヨグアン(旅館)からも十分歩いていける距離だ。

釜山タワー プサンタワーには昼間に一度登ったことがあるけど、夜に登るのは初めてだ。夜景もなかなかのものに違いない。

 ナンポドン地区に着くと、飲食店街のネオンがやたらと眩しい。日本料理屋の看板なども目立つ。「おでん」などの屋台も出ている。その通りを抜けていくと右手に大きな石の階段が見えてくる。ここが公園の入り口だ。

 階段はまるで闇の中に吸い込まれていくように上に向かって伸びていた。そこを登っていくと丘の上の広場に出る。ここが公園だ。そこから広場の奥の方に歩みを進めていくと、暗闇の中にイスンシン将軍の巨大な像がぼうっと浮かび上がってくる。基本的にはモッポ(木浦)のユダルサンコンウォン(儒達山公園)の像と同じなのだが、こちらの方が大きいように思えた。

 親父はここでも何枚か写真を撮り、タワーへと向かった。タワーはイスンシン将軍像のすぐ後ろにある。見上げるような高さだ。マッチ棒かろうそくのような形で、色は白。通天閣や東京タワーのような鉄骨構造ではなく、コンクリートの棒だ。

 入り口で切符を買い、中へとはいる。夜もちゃんと営業しているようだ。親父が何かごそごそとしているので見てみると、カメラを取り出していた。

「写真とっても大丈夫なんか?」
「基本的に禁止されているんだけどね」
「ダメなんだろうか・・・」

親父はとても残念そうだった。じいさんに見せたいんだろうなぁ。

 まもなくエレベーターがやってきて乗り込む。客は僕ら親子だけだった。エレベーターにはちゃんとエレベータガールがいて、操作をしてくれる。
「なぁなぁ、写真とってもいいか聞いてみてよ」
あまりしつこく親父が聞くので、ダメもとで聞いてみた。

「タウォエソ サジヌルチゴドデヨ?」
「ケンチャナヨ」
「えっ?」
「ケンチャナヨ」
「サジヌル チゴド ケンチャンタゴヨ?」
「ネー」
「ありゃー、大丈夫だって」

 いつから方針が変わったのか分からないけど、大丈夫みたいだった。法律その他は変わってないのかも知れないけど、あまりうるさく言わないんだろう。それにしてもエレベーターのお姉さんに言われたんだから、これはお墨付きをもらったようなもんだ。展望台に着くと親父はここぞとばかりにカメラ、ビデオを駆使して撮影していた。これもじいさんに見せるのが目的なのだ。 展望台はほとんど客がいなかったのでかなり自由に動き回ることができた。

 夜景の方はというと、香港のビクトリアピークや神戸の六甲山などに比べると、やはり値段が何桁か違う感じがしたけど、それなりに楽しめるものだった。一番明るいのはナンポドン(南浦洞)の光復路だ。残念ながらソミョン(西面)などは見えない。ごく限られた地域しか見えないのは残念だ。これはプサンがソウルなどとは違い、ほとんど平地がなく山に張り付くように成り立っているからだと思われる。市内全体が見渡せるロケーションではないのだ。

 しばらく景色を堪能して、再びエレベーターで下っていく。出口付近に土産物屋があるのは万国共通らしい。しかし土産物屋は大方がすでに店じまいをしており、残った店も片づけ始めていた。あわてて残った店に飛びつく。僕は特に買いたいものもなかったけど、親父はしきりに物色している。僕も「WorldCup KOREA」と書いてあるTシャツでもあれば買おうと思ったけど、残念ながらなかった。親父は釜山の写真集と、タルチュム(仮面をつけて行われる韓国の伝統的な舞踊演劇)の仮面のレプリカを買っていた。「魔除けらしいよ」などとはしゃいでいる。基本的には飾りだと思うんだけど、どうなんだろう?

 店員のおばさんに「これはタルチュムの面でしょう」と言うと、かなりびっくりした顔をしていた。そういう売りこみ方しているのかも知れない。もう金も払ったみたいだし、親父も喜んでいるようなので深く追求せずにそのまま引き上げることにした。

 良く考えたら、いわゆる免税店というか、日本人が集まりそうなおみやげ物店はこれが初めてだったのかも知れない。ちょっと反省。


釜山タワー 夜景
タワーから見た夜景

1996年5月 4日(金)

06日本へ戻らなきゃ

 釜山で韓国での最後の朝を迎える。今日の晩にはフェリーで日本に帰るのだ。長いようでもあり、短いようでもあった。親父と二人で旅行するのも初めてだし、家族と海外旅行するのも初めてだった。とりあえず旅慣れた韓国を選んだのは正解だったなぁと思う。最初はどうなるか心配だったけど、案ずるより生むが易であった。

 連載を始めてから、いろんな方々より「父親と二人で旅行する」のがとても興味深いという指摘を受けてきた。確かに珍しいものらしい。どういう心情なのかという点に興味があるようだ。恐らく読者の中で、僕と同じように父親と二人で旅をした経験を持つ人は少ないと思う。特に大人になってからはなおさらだ。「母娘」という組み合わせは比較的あるようだが、「父息子」は概して少ないようだ。子供の頃は家族で旅行することが多いし、一人立ちしてからは友達同士のつき合いになる。そのうち息子の方に家族ができてしまい、次の世代へシフトしてしまうのだ。それにお互い独立心が強いという点もあげられるだろう。

 そもそも今回の旅行にしても、親父がモッポ(木浦)生まれでなければ一緒に旅行しようとは思わなかっただろう。僕の普段の旅のスタイルでは親父には体力的に厳しいだろうし、友達と行く方が気が楽でもある。しかし今回に限っていえば、親父と二人でなければならなかった。いや、じいさん・親父・俺の三人でも良かった。そういう旅だったのだ。それにしても、僕がたまたま韓国語を勉強していたから今回のように旅することもできたわけで、何だか不思議な因縁を感じている。自分としては特に意識していなかったのだが、やはり血というものがあるのかも知れない。

 今回の旅行に関しては、親父はひどく僕に従順だった。僕が事実上のガイドだったというのが大きいのだが、とても不思議な感じだ。「老いては子に従い」とでもいうのだろうか? 不思議な感覚というのは他にもあって、今回の旅の性格からも分かると思うのだが、親父の子供の頃の体験をリアルタイムならぬリアルプレイス(そんな言葉はないだろうけど)で聞くことができたのがそれだ。モッポ(木浦)の街は変わったといえば変わったのだが、区画や道など、案外基本的な部分は変わっていなかった。もちろん山や島の位置も・・・。まさにタイムカプセルの中に投げ込まれた感覚だ。それを当事者と追体験するのだ。

 そのほかで感じたことといえば、「親父としての親父」はよく分かっていたつもりだったのだが、「一人の人間として生きてきた歴史」について、案外知らなかったことに気が付いたのがあげられるだろう。モッポ(木浦)での体験はもちろん、そこから戦火を逃れるために釜山へ汽車で移動したこと、そこから小さな船でおびえながら日本に帰り着いたこと、神戸の岡本に家を構えて住んでいたこと、空襲の度に裏山に逃げ込んだこと、不発弾や戦闘機の破片を集めていたこと、絵の具工場が爆撃されたのを知って絵の具やパレットをパクリに行ったこと等々、それこそきりがない。

 今回、移動時間やヨグアン(旅館)などでかなりの時間、話をする機会があり、そしてそういう雰囲気があったことが大きい。普段あまり語られることのない話題でもあり、少し目を開かされたかもしれない。といっても小学生時代までの話で、まだまだ知らない話も多いと思う。いろいろ聞いておかないといけないことはまだまだありそうだ。

 さて話を元に戻そう。今日の行動だが、まずはあまり居心地の良くないヨグアン(旅館)をさっさとチェックアウト?することから始めた。


07またまた「ホシムチョン」(虚心庁)へ・・・

 地下鉄チュンガンドン駅まで行き、コインロッカーに荷物をぶち込む。さて身軽になった。僕は韓国版健康ランドの「ホシムチョン」(虚心庁)にでも行こうと思い親父を誘ってみたが、親父はキムチなどの買い物がしたいというので別行動をとることにした。ソミョン(西面)のロッテデパートの地下がキムチ売場になっているのは確認済みなので、そこに行くように地図を渡しておく。地下鉄に乗ればいけるので、親父の自由行動に任せることにした。僕のあとをくっついてばかりでは、面白くなくなってきたようだ。

 しかし何で韓国まで来て「健康ランド」?と、お思いの貴兄には、僕の当初のやりたいものリストを思い出してもらわなければならない。そう、アカスリだ。別に風呂屋でもいいんだけど、それはもう経験済みだし、違う雰囲気のところでやってもらいたかったのだ。でも観光地化してるかも知れないなぁ、とも思う。

 「ホシムチョン」(虚心庁)が日本の健康ランドと違うとすれば、「温泉」であることが第一だろう。そう、フォシンチョンは釜山郊外の「トンネオンチョン」(東莱温泉)の中にあるのだ。あと、その裏山の「クムガンコンウォン」(金剛公園)のロープウェーにも乗ってみたい。とりあえず地下鉄オンチョンジャン駅(温泉場駅)まで行くことにする。

 韓国の温泉利用健康ランド「ホシムチョン」(虚心庁)は地下鉄オンチョンジャン駅(温泉場駅)から歩いて数分のところにあるスーパーマーケットや飲食街など兼ね備えた巨大総合レジャー施設だ。その最上階に浴場施設の入り口がある。内部の様子は「定本 ディープコリア」にも詳しく出ているが、プールのような大きさの噴水付き大浴場を中心にして、打たせ湯、檜風呂、薬草風呂、サウナ、ジャングル風呂などが贅沢に配置されている。もちろんアカスリもある。昼寝もできる。日本でも滅多にお目にかからないほど大規模な総合浴場施設なのだ。

 天井が高いのも特徴で、2~3階ぶち抜いたような高さがある。一番高くなっている部分にガラス張りのドームが設置されていて、外の光を内部に取り入れる工夫もされている。そこに、ふるちんのおっさんやガキどもが集うという案配だ。

 地下鉄を降りると雨が降っていた。傘を持ってくるのを忘れたので、走ってフォシンチョンに向かう。着いてみるとすでに中は多くの人で賑わっていた。買い物客などもたくさん来ているのだ。1階の受付で入浴チケットを買い、上階へ上がる。入浴システムは日本のサウナや健康ランドと同じだ。靴を受付に預け、引き替えにロッカーキーを渡される。ロッカーで着替えて準備OKというわけだ。ガウンもあるのでそのまま別の階の飲食街や散髪屋に行くこともできる。(韓国の場合はマッサージ付き:ここのはエッチ関係はないと思う)

 早速着替えて風呂場へ直行する。軽く体を洗って湯船につかるととても幸せな気分になった。他の風呂にも、はしご風呂してみる。しばらくぼーっとしてみるのには最適な場所だ。ただ檜風呂だけはいつも高温で入りにくい。

 階段を上って2階に上がるとサウナやアカスリのコーナーがある。ちょうどだれもやっていないようなので、アカスリおじさんに声をかけてみた。

「あのー、アカスリしたいんですが・・・」

おじさんはちらっとこちらを見ると値踏みするように僕を眺め、そしてキーを渡すように言った。キーを渡すと台の上に寝るよう指示される。キーナンバーをチェックし、何かプラスチックのひものような物をキーに結わえ付けていた。これがついていると出口でチェックされ、追加料金を払うんだろう。

 寝ころんで待っていると、おもむろにこちらに向き直りごしごしとやり始めた。裏面、正面、側面ともに確実に仕事を進め、時々思いだしたかのように水をぶっかけてくれる。見る見るうちに垢が落とされていく。大したものだ。
 おじさんは仕事を終えると僕に終わったことを告げ、何だかよく分からないけど、一人の世界に入って行った。ううむ、職人だ。

 アカスリも終わったことだし、フォシンチョンを後にする。
 クムガンコンウォン(金剛公園)をぶらぶらしてから待ち合わせ場所にしていたフェリーターミナルに戻ると、親父はすでに来ていた。雨が少しひどくなってきたこともあって、早めに戻ってきたようだ。ロッテデパートで買ったキムチなどを大事に抱えていた。





釜山 虚心庁
ホシムチョン全景

「ホシムチョン」(虚心庁)
http://cityscape.empas.com/csdb/info/play/park/1770/

トンネ温泉(東莱温泉/東来/東萊/東來)とは?
トンネ温泉は、三国時代(百済、新羅、高句麗)から湧出しているという歴史のある温泉で、朝鮮時代(1691年)の記録によると、「5~6人が入ることの出来る石で出来た浴槽があり、穴から出てくる温泉が余りに熱くて手足を浸すことが出来ない」と書かれており、小規模で温度の高い温泉が湧いていたことが分かる。
特に温泉を管理する温泉職を置いて、温泉を行き交うお風呂客のために温泉院を設置して役馬まで置いたと言う。このように規模は小さいながらも国が直接管理したことが見て取れる。しかし本格的な開発されたのは、1898年に日本の資本が温泉旅館を作ったころからで、1915年に電車が入って来たことから急速に発展したようである。
温泉水はアルカリ性食塩水で、水温が摂氏55度程度だったのだが、今は温度が徐々に低くなっている模様。

08帰国

 雨が降ってはいたが、船は定刻通り出航するようだ。いよいよ最後となってしまった。ターミナル内では多くの人が列を作って船を待っていた。しかし例年に比べて船を待つ人が多いような気がする。調べてみると、ビートル(ジェットホイル)については、ゴールデンウィークに限って数本の臨時便が出ているとのことだ。だたしフェリーについては従来通り1日1便しかない。
 定刻になり船に乗り込む。2等客室に直行し、場所を確保した。

 今回の旅については、思ったより成果があったと思う。特にガイドブックなどではあまり取り上げられない地域への旅で、情報が少なかった割にはいろいろ見て回ることができた。親父も韓国の良さと、旅のし易さについて認識が高まったようだ。しかし新たな課題もたくさん生まれた。特に木浦については、もう一度行って、よく調べてみたいという気になっている。片田舎の小さな港ではあるが、何か心をとらえるのだ。

 また韓国へは何度も来るだろう。木浦へももう一度来ることがあるだろう。その時までに、語学を含めて自分自身がもっと成長しておかなければならないと心に誓う。そしてまたこんな風に親父と一緒に旅が出来たらいいなと思う。そして、もしも子供が出来るようなことがあるとしたら、同じように連れていってあげたいなとも思った。かつてじいさんがたどった道を再びたどりながら。

おしまい


 

第1話
1996.4.28
下関から釜山へ
第2話
1996.4.29
釜山上陸、釜山の旅行会社、 ナンポドン(南浦洞)・チャガルチ市場からキメ空港(金海空港)へ、キメ空港(金海空港) 、クァンジュ(光州)へ・・・、バスターミナル周辺で宿探し、クァンジュ(光州)市内へ、宿の電気が!!!
第3話
1996.4.30
さあ、モッポ(木浦)へ、モッポ(木浦)駅、ヨグアン(旅館)探し、モッポ(木浦)駅周辺へ、旅客船ターミナルから繁華街へ、カン・スジ(姜修智)、市場へ
第4話
1996.5.1
朝食をとって、ユダルサン(儒達山)に登る、ユダルサン(儒達山)の山頂へ、山を下りて「トンドンチュ」と「パジョン」に舌鼓、下界へ・・・、国立海洋遺物展示館、木浦市郷土文化館
第5話
1996.5.2
モッポ(木浦)からヨス(麗水)へ、コソッポス(高速バス)、ヨス(麗水)市内へ、またまた宿探し、ヨス(麗水)市内観光へ、実物大のコブクソン(亀甲船)、恐怖のポンチャック船!!!?、市場へ・・・、「マンドゥクッ」と「パン屋」
第6話
1996.5.3~4
チンナムグァン(鎮南館)、釜山へ・・・、釜山到着、チュングアンドン(中央洞)でまたまた安宿さがし、夜の釜タワーへ、日本へ戻らなきゃ、またまた「フォシンチョン」(虚心庁)へ・・・、帰国