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(注1) 90年代の初めのころは、やはり緊張した。90年代中盤以降になってくると、だいぶ雰囲気も変わってくる。日本からはノービザで訪れることが出来るようになって、観光客も増えたからだろうか? (注2) 残念ながらエンゼル号は廃止されてしまった。廃止された時期については、ネット上にいろんな情報が飛び交っているようだが、一番確からしいのが、2000年8月廃止、という情報。 http://www.pusannavi.com/area/matuo_3.html |
02釜山の旅行会社 とりあえず釜山に一泊しようと、親父を説得し、安宿街に向かうべくさらに「チュンアンドン駅」の方に歩いていった。地下鉄の走っている通り「中央路」の地下道に降りる。駅の構内にコインロッカーのあるのを確認し、再び地上に出る。この先が安宿街になるのだが、ふと前を見てみると、旅行代理店があるのに気が付いた。近づいてみるとアシアナと大韓航空のタイムテーブルを置いているようだ。 「どちらの方に行かれるんですか?」 |
釜山の街並み |
何だかとても簡単に切符を買えてしまうようだ。店の外でぶらぶらしていた親父を呼びに戻って切符が買えることを告げると、今日、木浦に向かおうと言うことになった。お金は親父が出すからぜひにということだ。 「空港に行くシャトルバスはありますか?」 ほんの1時間ほど前に計画していた予定は、あっさりと変更になってしまった。こういう行き当たりばったり旅行、何だかたまらなくいい感じだ。
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(注3) 冷静になって考えれば、21世紀に入っても予約文化の定着しない韓国では、当日の航空券購入などは、日常茶飯事なのだ。 「当日になっても、飛行場に行けばなんとかなる」と大半の韓国人が考えているわけで、当然、それにこたえられる態勢にあるということになる。ましては、この当時(1996年)は、当たり前だったはずだ。それから、この時まで韓国の旅行会社をあまり利用したことがなかったので、状況が分からなかったのだが、基本的に日本と同じで各種チケットを発行することが出来る。 |
03ナンポドン(南浦洞)・チャガルチ市場からキメ空港(金海空港)へ モッポ(木浦)行きの切符を確保した僕と親父の2人は、飛行機の時間まで少しあるので、市内で時間を潰すことにした。とりあえず地下鉄でナンポドン(南浦洞)まで行き、そこからチャガルチ市場までぶらぶらと歩いていく。チャガルチとは、海沿いにある海産物市場のことで、釜山の観光名所となっている。そして南浦洞の繁華街で早めの昼飯をとることにする。 昼食を済ませてソラボルホテルの前まで移動し、空港へのシャトルバスを待つ。すると雨がポツポツと降ってきた。心配していた天気だが、どうやら下り坂らしい。傘を持ってこなかったなぁなどと思っているとバスがやってきた。木浦の天気はどうなのだろうか? |
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04キメ空港(金海空港)へ到着 空港に着き、早速チェックインをする。お昼を少しゆっくりとってしまったので、ギリギリになってしまった。釜山発木浦行・・・14:00発で14:55着だ。本当にあっというまである。チェックインを済ました後、急いで目的のゲートに向かう。案内のモニターテレビで便名を確認し、待合い所に座った。何とか間にあったようだ。 おお!なんてこったい! あわてて大韓航空のカウンターに行くとおじさんに、 「あのー・・・・どうすりゃ、いいんでしょう?」 「おーい、アシアナー。おまえんとこクァンジュ(光州)行きがあったよなー。席あるかー?」 これは困った。クァンジュ(光州)まで行くしかないか・・・・・。とりあえず一旦外に出ないといけないとのことで、先ほどの道を逆流し金属探知器の横を抜けさせてもらって外に出た。大韓航空のカウンターにいくと、払い戻しの客が並んでいた。とりあえず払い戻しをする。どうやら悪天候のためにフライトがキャンセルになったようだ。 そうと決まれば、ぽっかりと待ち時間が出来てしまった。暇なので絵ハガキでも書くとしよう。と思って探したが見つからない。第一、郵便局もない。案内で聞いてみると国際線ターミナルにあるらしい。循環バスで移動し、絵ハガキを購入する。何人かに書いて出した。
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05クァンジュ(光州)へ・・・再び国内線ターミナルに戻り待つこと数時間、やっとクァンジュ(光州)行きの飛行機に乗ることが出来た。飛行機は激しく揺れながらアッという間にクァンジュ(光州)に着いてしまった。(注4) 中国本土では、シートベルトが壊れた飛行機に乗ったりとか、機内に蝿がブンブン飛び回っていたりとか、そういう経験は何度かあるけど、それとはまた違った意味で恐かった。 さてクァンジュ(光州)に着いては見たものの、右も左も分からない。案内所にでも行って、情報を仕入れるとするか。 案内所で市内への行き方と、どのあたりに旅館(ヨグアン)街があるのか聞いてみる。やはり市内で一番の繁華街である道庁あたりかバスターミナル周辺ということだった。とりあえずバスターミナルに行ってみよう。明日、午前中に木浦に行きたいし、ターミナルの近くにいる方が便利だろう。
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(注4) 今まで乗った飛行機の中で、最も揺れた。また今後も、この揺れを上回るフライトは出てこないかもしれない。これだけ悪天候だったら、普通欠航するはずだ。というか、木浦便が欠航で、光州行きが飛んだのが、いまだに謎なのだ。 (注5) この当時、金大中(キム・デジュン)氏は、野党の親玉であって、このあとに大統領(1998年〜2003年)になってしまうなんて、考えも及ばなかった。びっくり。世の中分からないものである。そのあと、韓国人で初のノーベル賞受賞者にもなってしまったのは、記憶に新しいところ。 金大中 (Wikipedia) 光州事件 (Wikipedia) |
06バスターミナル周辺で宿探し 光州のバスターミナルは巨大なものだった。さすが道庁所在地だけのことはある。中に入ってみると、国内各地へ行くバス乗り場がずら〜っと並んでいた。木浦行きを探してみる。どうやらかなり頻繁に出ているようだ。切符もずらずらっと並んだ自動券売機で買える。時間的にも早朝から動いているようだ。 ターミナル前の広い道を歩いていると、「○○○ジャン」と書かれている文字が目についた。どうもこれが宿らしい。「ジャン」とは「荘」のハングル読みだ。ソウルや釜山の場合はちゃんと「○○ヨグアン」(○○旅館)と書いてあるのだが、地方によってクセがあるらしい。「ヨグアン」(旅館)より1ランク上の宿泊施設を韓国では「ジャンヨグアン」(荘旅館)というので、「○○○荘」という感じで表記しているのだろう。因みにアパートではないので、お間違えのなきよう。 「・・・・こりゃ、どう見てもラブホテルだな」 韓国の場合、日本のように「その方面にだけに特化した」ラブホテルというものは基本的に存在しない。カップルも泊まるし、旅行者も泊まる。混在しているのが当たり前なのだ。連れ込み宿のレベルからまだ脱していないのである。しかしこういうのを見ると、日本のような分化・特化が既に始まっているのかも知れない。 数年前、韓国の中央部にある「テジョン」(大田)という街の繁華街のど真ん中にあった「ヨグアン」(旅館)に泊まったことがある。僕の他にも旅行者らしい人たちが見えたし、静かそうでなので決めたのだけど、夜になって様相が一変。実はネオンがギラギラの盛り場のど真ん中だったのだ。昼間の雰囲気からは全く想像できない。 今までの経験からして、繁華街の中の「ヨグアン」は連れ込み度が高く、ターミナルなどのまわりにある「ヨグアン」は連れ込み度が低い様な気がする。でもこれはあくまで「割合」であって、明確に分かれているわけではない。(くどい!) しかし、それも今年までの話なのかも知れない。そんな予感がするのだ。光州のバスターミナル周辺も良く見たらこの手の旅館がひしめき合っている地帯があったのだ。しかも垂れ幕を見ると「祝!開館」などと書いている。工事中の建物もちらほら見えるし、更地もある。今まさに進行中なのだ。 *ケンチャナヨ・・・「大丈夫」とか「気にしない」とかいう意味。 さてそのラブホテル街を眺めていると、垂れ幕を下げていたヨグアン(旅館)からおばちゃんが出てきた。大きなバックを背負った典型的旅行者姿の我々親子を見つけると、 ヨグアン(旅館)の従業員である若い兄ちゃんに従って階段を上り、部屋に向かう。廊下の雰囲気はマンションのようだ。まさにラブホテル。部屋の中も凄いのかと思ったが、想像と違い普通のオンドル部屋だった。家具も普通のヨグアン(旅館)と大差ない。タンスと化粧台があるだけだ。でも新築だけあってなかなか奇麗だ。風呂を見てみると、これまた普通のヨグアンと大差ないつくりだが、やはり奇麗に作っている。日本のホテルと比べるとまだまだなんだけど、お洒落にしようという意気込みは伝わってくる。値段を聞いてみると2万ウォンちょっとだったので、ここに泊まることにした。
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(注6) この旅行記の時代、つまり1996年には、まだ後の時代に登場するいわゆる「モテル」は存在しなかった。ちょうど、モテルが出来上がりつつある時代と言えよう。このときの記述を見てみると、ラブホテル特化型(日本のラブホテルに似たタイプ)の宿泊施設が初めて登場してきたのが分かる。歴史的に見ても、貴重な報告ではないかと思う。 この当時は、まだ「ジャンヨグアン」(荘旅館)という名前であり、モテルとは表記されていなかったのが分かる。このあと、ジャンヨグアンと区別するために「モテル」(モーテル)という語が生まれて来たのであろう。 韓国の宿泊施設の変遷、解説等は、当HPのQ&Aを参照されたい。 韓国旅行に関するFAQ ↑このページの「旅館の選び方を教えてください」の項 |
07クァンジュ(光州)市内へ 宿も決まったことだし飯でも食いに出かけることにする。バスターミナルに戻れば食堂くらいはあるだろうが、それじゃぁ味気ない。明日の朝、モッポ(木浦)に発つことを考えると、クァンジュ(光州)観光は今日しか出来ないのだ。せめて繁華街くらいは行ってみたい。 外に出ると日はとっぷりと暮れていた。やはりと言ってはなんだが、あたりは、かなり暗かった。バスターミナル横に大きなデパートらしきものはあるが、電灯・ネオンその他、やはり大阪やソウルとは雰囲気が違う。 その停留所を見てみると「トチョン」と書いている路線がいくつか見つかった。「道庁」のことだ。いくつか走っているらしい。番号を覚えて待っていると、お目当てのバスが走ってきた。ダッシュでそのバスに駆け寄る。 さてバスは果てしない漆黒の海の中を疾走し続ける。なんといっても初めての街なので、どこを走っているのかさっぱり分からないのだ。ホントに道庁に向かっているのやろか? 少し不安になる。しかし少なくともバスのアナウンスは「道庁」とは言ってない。通過するのであればまだだろう。かなり走ってから「次は道庁前です」というアナウンスがあり、あわてて降りる。しかしそこは・・・・・予想に反して・・・・なんとまばゆいばかりの繁華街のど真ん中だったのだ!!! 前回「光州事件のクァンジュ(光州)なので、とても暗い街をイメージしていた」と書いたと思う。実際に、空港からバスターミナルまでは、このイメージにかなり近かった。しかしこの道庁周辺の繁華街の賑やかなことと言ったらどうだ!まるでソウルのミョンドン(明洞)にでもいるようだ。なんという華やかで明るい街なんだ!あまりにも想像と違っていたので、くらくらとしてしまった。 さてくらくらする頭を抱えながら、街をぶらぶらしてみる。街頭カセット売りは好調だし、ブティックからなにから・・・・本当にこれはミョンドン(明洞)だ。「明洞」とはソウルで一番の繁華街と思ってくれればいい。この界隈はそれに匹敵する規模と雰囲気を持っている。しかも全体的に建物が新しい。これはすごい。街を歩いている若いやつらも実に屈託がなく、明るく、お洒落で、未だに光州事件のイメージを引きずっている自分が恥ずかしくなった。もちろん韓民族のことだから、心の奥底には間違いなく「ハン」(恨)として光州事件が残っているはずである。しかし表面的にではあるにせよ、このように明るい街にしていった光州市民に拍手を送りたい気持ちだった。 さて街歩きもいいけど、腹が減っては戦は出来ぬ。とりあえず飯屋を探す。何件か見つかったが、そのうち「マンドゥ」の店があったので、そこに入った。 飯も食い終わり、カセットテープなども購入し、満足したので宿に帰ることにした。こちらへ来たのと同じバスでターミナルに戻る。しかし行きとコースが違っていて、危うく乗り過ごすところだった。
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(注7) 光州広域市 1986年11月1日に釜山、大邱、仁川に続いて韓国で4番目の直轄市となった同地域の中心的なところ。1995年に光州直轄市から光州広域市に変わった。2004年時点で、人口140万人を超えている。 韓国語のサイト http://www.gwangju.go.kr/gjcity/main.jsp 全羅南道庁 1996年当時、この光州広域市にあった全羅南道庁は、2005年11月11日に務安郡(ムアングン)に移転した。(地図) 新庁舎の沿革等については、このページを参照(韓国語) |
08宿の電気が!!! さて食い物をぶら下げて宿に戻ってくる。しかし宿を見て、あっと息をのんでしまった。 1.もごもご言う の三重苦で何を言っているのかさっぱりわからなかった。(注8) もちろん英語も日本語も通じない。なんだかんだ話して、かろうじて分かったのが、 1.今停電している ということだった。 「なぁ、ロウソクもらうように言ってくれよ」 そのうち宿の人がロウソクを持って現れた。やはりあるのとないのとではずいぶん違う。親父に続いて僕が風呂に入ると、突然電気がついた。外から「わーーーっ」という歓声が上がる。しかし、直後にまた停電。僕が風呂から上がる頃になって、やっと完全復旧した。 電気もついたことだし、さ、寝よ寝よ。(第2話 了) |
(注8) この頃は、まだ韓国語を始めて間が無いので、今と比べるとかなり語学力に差があった。それなのに初めて全羅道地域に入ったものだから、さっぱり分からなかったのだ。全羅道方言は、同じ韓国人でもソウル標準語地域の人であれば、理解することが出来ないくらいかけ離れているらしい。 私も、韓国語が上達するにしたがって、慶尚道(釜山、大邱、慶州など)地域の方言にはある程度慣れてきたのだが、全羅道地域には、あまり行く機会も無いので、いまだに慣れない。 しかし、旅館のおばちゃんも、外国人である我々には、それなりに標準語でしゃべってくれていたはずで、だからこそ最低限の情報は伝わってきたのではないだろうか。これが、全くの方言でしゃべられていたら、本当に何を言っていたのか分からなかっただろう。 (注9) ロウソクは、「チョ」という。なお、「酢」のことも「チョ」なのだが、紛らわしいので「シクチョ」(食酢)というのが一般的。 ちなみに韓国で刺身などに、よくつけて食べる「辛子酢味噌」のことを「チョジャン」というが、この「チョ」が「酢」という意味なのだ。 |
第1話
1996.4.28 |
下関から釜山へ |
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第2話
1996.4.29 |
釜山上陸、釜山の旅行会社、 ナンポドン(南浦洞)・チャガルチ市場からキメ空港(金海空港)へ、キメ空港(金海空港) 、クァンジュ(光州)へ・・・、バスターミナル周辺で宿探し、クァンジュ(光州)市内へ、宿の電気が!!! |
>>第3話
1996.4.30 |
さあ、モッポ(木浦)へ、モッポ(木浦)駅、ヨグアン(旅館)探し、モッポ(木浦)駅周辺へ、旅客船ターミナルから繁華街へ、カン・スジ(姜修智)、市場へ |
第4話
1996.5.1 |
朝食をとって、ユダルサン(儒達山)に登る、ユダルサン(儒達山)の山頂へ、山を下りて「トンドンチュ」と「パジョン」に舌鼓、下界へ・・・、国立海洋遺物展示館、木浦市郷土文化館 |
第5話
1996.5.2 |
モッポ(木浦)からヨス(麗水)へ、コソッポス(高速バス)、ヨス(麗水)市内へ、またまた宿探し、ヨス(麗水)市内観光へ、実物大のコブクソン(亀甲船)、恐怖のポンチャック船!!!?、市場へ・・・、「マンドゥクッ」と「パン屋」 |
第6話
1996.5.3〜4 |
チンナムグァン(鎮南館)、釜山へ・・・、釜山到着、チュングアンドン(中央洞)でまたまた安宿さがし、夜の釜山タワーへ、日本へ戻らなきゃ、またまた「フォシンチョン」(虚心庁)へ・・・、帰国 |