親父と行く韓国南海岸の旅(2/6) 【韓国南海岸旅行記】

1996年4月29日(月) 釜山・光州編 第2話



01釜山上陸

 いつの間にか、船はプサン(釜山)沖に停泊していた。いくらフェリーとはいえ下関−プサン間は近いので夜中には着いてしまうのだ。そして税関待ちのため、沖合いに停泊して時間調整をするのである。それにしても、今回はいつになくぐっすり眠ってしまった。ふと横を見てみると、親父が抜け出していた。

 しばらくぼーっとしていたら、親父がカメラを下げて戻ってきた。写真を撮っていたのだろうか?因みに釜山港は軍事的理由などから港湾施設の撮影は禁止されている。最近はあまりうるさいことは言わないようだが、禁止されていることにかわりはない。(注1)

 目が覚めてしまったので、下関で仕入れておいた朝飯を食べる。でもまだ少し時間があるので、とりあえず今日からの予定などを検討することにした。僕としては今日は、ここプサン(釜山)に泊まって、明日エンゼル号(水中翼船)でヨス(麗水)へ行きたいと考えていた。もしエンゼル号がダメならバスで行けばいいのだ。(注2)

 ヨス(麗水)はプサン(釜山)とモッポ(木浦)の中間だし、韓国南海岸のハイライトでもある。ぜひ訪れてみたい街だ。
 しかし親父にしてみれば、今回の旅の目的である生まれ故郷のモッポ(木浦)に、とにかく早く行きたいようだ。う〜む、どうしたものか。しかも自ら持ってきた『地球の*き方』を見ながら、「お兄ちゃん(親父は僕のことをそう呼ぶ)、釜山から飛行機が出ているんじゃないか? ちょっと調べてみてくれよ」などと言い出す始末だ。

 確かに飛行機を使うという手はある。でも実はまだ韓国の国内線には乗ったことが無かった。安いらしいが、なんか僕の旅の流儀からすると、違うような気がして少し考え込んでしまった。水中翼船のエンゼル号は帰りに乗ればいいか・・・・。とりあえず飛行機があるかどうか調べてみよう。

 時間になり、船は港の中へゆっくりと入っていく。僕には見慣れた光景なのだが、親父にとっては、とても珍しかったようだ。きょろきょろしている。やがて釜山のランドマークである『釜山タワー』が見えてくる。さらに船は進み、岸壁へと接岸する。さあ上陸だ。しかし天気は曇り。雨が降りそうな気配もある。でも今のところは何とかもちそうだ。そう願いたい。

 イミグレは思ったほど混んでいなかったようで、案外すっと抜けることが出来た。親父が早速、円をウォン(韓国の通貨)に換える。僕は前回の残りがあったが、少し換えておくことにした。さあ、韓国だ! フェリー埠頭からまっすぐ歩いて「チュンアンドン」(中央洞)に向かう。そこには地下鉄の駅があるのだが、途中に「アシアナ航空」のオフィスがあるのだ。それからその地下鉄の駅の先には、いわゆる「安宿街」が広がっている。
 まずアシアナ航空のオフィスに寄る。朝早いというのに、もうアガシ達が来ていた。国内線のタイムテーブルをもらって調べてみる。クァンジュ(光州)行きは1日1便あるけど、木浦行きはなかった。ということは、木浦行きは大韓航空ということになるのだろうか?いや、あるのかどうかも怪しい。



(注1) 90年代の初めのころは、やはり緊張した。90年代中盤以降になってくると、だいぶ雰囲気も変わってくる。日本からはノービザで訪れることが出来るようになって、観光客も増えたからだろうか?



(注2) 残念ながらエンゼル号は廃止されてしまった。廃止された時期については、ネット上にいろんな情報が飛び交っているようだが、一番確からしいのが、2000年8月廃止、という情報。
http://www.pusannavi.com/area/matuo_3.html

02釜山の旅行会社

 とりあえず釜山に一泊しようと、親父を説得し、安宿街に向かうべくさらに「チュンアンドン駅」の方に歩いていった。地下鉄の走っている通り「中央路」の地下道に降りる。駅の構内にコインロッカーのあるのを確認し、再び地上に出る。この先が安宿街になるのだが、ふと前を見てみると、旅行代理店があるのに気が付いた。近づいてみるとアシアナと大韓航空のタイムテーブルを置いているようだ。
 ドアーを開けて中に入ると、女性従業員がずら〜っと並んでいた。タイムテーブルをもらって確認する。どうやら大韓航空が1日1便、釜山−木浦間を飛ばしているようだ。すると店の女性が声をかけてきた。

「どちらの方に行かれるんですか?」
「・・・えっ? 木浦ですが」
「木浦ですか・・・木浦でしたら2時に大韓航空が1便ありますが」
カタカタカタ
「そうですか」
「いつ行かれますか?」
「いつ?・・・えっと、明日に・・・」
「何人ですか?」
「2人です」

既におねぇちゃんは端末をたたき始めていた。
「大丈夫ですよ」
「えっ、乗れます?」
「ええ」
「じゃぁ、今日はどうですか? 2時なら乗れますか?」
カタカタカタカタカタカタカタカタ
「大丈夫です」
「えっ!? そうなんですか? ちょっと待ってね」


韓国 釜山・南浦洞
釜山の街並み

 何だかとても簡単に切符を買えてしまうようだ。店の外でぶらぶらしていた親父を呼びに戻って切符が買えることを告げると、今日、木浦に向かおうと言うことになった。お金は親父が出すからぜひにということだ。
 現金を払い、切符を受け取る。日本と同じとはいえ、簡単すぎて拍子抜けした。こんなもんなのだろうか? (注3)

「空港に行くシャトルバスはありますか?」
「・・・釜山駅と・・・ソラボルホテルの前から出ていますが、ご存じですか?」
「ええ、わかります」
「・・・・・・韓国語お上手ですね」
「えっ? いえ・・・」

 ほんの1時間ほど前に計画していた予定は、あっさりと変更になってしまった。こういう行き当たりばったり旅行、何だかたまらなくいい感じだ。






(注3) 冷静になって考えれば、21世紀に入っても予約文化の定着しない韓国では、当日の航空券購入などは、日常茶飯事なのだ。
「当日になっても、飛行場に行けばなんとかなる」と大半の韓国人が考えているわけで、当然、それにこたえられる態勢にあるということになる。ましては、この当時(1996年)は、当たり前だったはずだ。それから、この時まで韓国の旅行会社をあまり利用したことがなかったので、状況が分からなかったのだが、基本的に日本と同じで各種チケットを発行することが出来る。

03ナンポドン(南浦洞)・チャガルチ市場からキメ空港(金海空港)へ

 モッポ(木浦)行きの切符を確保した僕と親父の2人は、飛行機の時間まで少しあるので、市内で時間を潰すことにした。とりあえず地下鉄でナンポドン(南浦洞)まで行き、そこからチャガルチ市場までぶらぶらと歩いていく。チャガルチとは、海沿いにある海産物市場のことで、釜山の観光名所となっている。そして南浦洞の繁華街で早めの昼飯をとることにする。
 しかし、親父は韓国に来たというのに「胃が悪いから辛いものは食べられん」などと言いだしたのだ。韓国に来て辛いもんがダメっちゅーことは、ほとんど何にも食えんということだぞ。(もちろん辛くないのもあるけど)どないせーっちゅーねん。しょうがないので何とか洋食屋を探した。韓国に行ったことがある人は分かると思うけど、韓国国内に洋食屋は、極端に少ない。もちろん中国にもタイにも、少ないのは変わりないのだが、なまじ日本と街の雰囲気が似ているだけに「ほとんどない」と気が付いたときの衝撃は大きい。

 昼食を済ませてソラボルホテルの前まで移動し、空港へのシャトルバスを待つ。すると雨がポツポツと降ってきた。心配していた天気だが、どうやら下り坂らしい。傘を持ってこなかったなぁなどと思っているとバスがやってきた。木浦の天気はどうなのだろうか?
 バスは一旦 国鉄釜山駅に寄り、キメ空港(金海空港)へと向かった。釜山市内からキメ空港までは少し距離がある。釜山直轄市の西の端を滔々と流れる「ナクトンガン」(洛東江)を渡ると、キメ空港が見えてくるだ。今日は雨のせいもあってナクトンガンはいつになく大量の水を押し流していた。

釜山 チャガルチ前の道路

釜山 南浦洞

04キメ空港(金海空港)へ到着

 空港に着き、早速チェックインをする。お昼を少しゆっくりとってしまったので、ギリギリになってしまった。釜山発木浦行・・・14:00発で14:55着だ。本当にあっというまである。チェックインを済ました後、急いで目的のゲートに向かう。案内のモニターテレビで便名を確認し、待合い所に座った。何とか間にあったようだ。
 しかし、しばらく待っていたがなかなか飛行機が来ない。間もなく搭乗の時間だ。おかしいなーと思い、ふと案内モニターを見て目が点になってしまった。なんと!表示がキャンセルに変わっているではないか! 案内アナウンスを聞き逃したのか?

 おお!なんてこったい! あわてて大韓航空のカウンターに行くとおじさんに、
「あぁ、この便はキャンセルだよ」
とあっさり言われてしまった。

「あのー・・・・どうすりゃ、いいんでしょう?」
と聞くと、おじさんは隣のアシアナ航空のおねーちゃんに大声で、

「おーい、アシアナー。おまえんとこクァンジュ(光州)行きがあったよなー。席あるかー?」
「・・・・・ええっと・・・・ありますが・・・」
カタカタカタカタ
 とおねーちゃん。おじさんすかさず、
「クァンジュ行きのやつがあるから・・・それに乗ってクァンジュまで行ったらどうだ?」
「・・・・そうですねぇ」

 これは困った。クァンジュ(光州)まで行くしかないか・・・・・。とりあえず一旦外に出ないといけないとのことで、先ほどの道を逆流し金属探知器の横を抜けさせてもらって外に出た。大韓航空のカウンターにいくと、払い戻しの客が並んでいた。とりあえず払い戻しをする。どうやら悪天候のためにフライトがキャンセルになったようだ。
 アシアナ航空のクァンジュ(光州)行きは16:40発、17:20着だった。一旦、釜山市内に戻って釜山泊とするか。それともクァンジュ(光州)まで飛行機で行ってしまうか。因みに今からバスでの移動は時間的に厳しい。なにしろ釜山からモッポ(木浦)まで6時間30分もかかってしまうからだ。今から釜山郊外にある高速バスターミナルに行って最速で行けたとしても夜中になってしまう。これはもはや現実的ではない。
 とりあえず親父と相談してみることにした。すると親父曰く「とにかく早く行きたい」とのことだった。 この一言で今後の予定が決定。クァンジュ(光州) まで飛行機で行くことにした。しかし、クァンジュ(光州)とモッポ(木浦)は、バスで1時間20分ほどの距離だ。悪天候のための欠航ならば、クァンジュ(光州)行きがキャンセルになることも十分あり得る話である。ま、しかし、その時はその時で運命と思ってあきらめるしかない。おとなしく釜山市内に戻るとしよう。
 しかし、少し気になるのは、クァンジュ(光州)着が夕方になってしまうことだ。宿探しに問題はないだろうか?釜山やソウルなら勝手知ったる街でもあるし、常宿もある。初めての街なので少し心配だ。ま、でも韓国だし、何とかなるだろう。

 そうと決まれば、ぽっかりと待ち時間が出来てしまった。暇なので絵ハガキでも書くとしよう。と思って探したが見つからない。第一、郵便局もない。案内で聞いてみると国際線ターミナルにあるらしい。循環バスで移動し、絵ハガキを購入する。何人かに書いて出した。


韓国 金海空港

05クァンジュ(光州)へ・・・

 再び国内線ターミナルに戻り待つこと数時間、やっとクァンジュ(光州)行きの飛行機に乗ることが出来た。飛行機は激しく揺れながらアッという間にクァンジュ(光州)に着いてしまった。(注4)

 中国本土では、シートベルトが壊れた飛行機に乗ったりとか、機内に蝿がブンブン飛び回っていたりとか、そういう経験は何度かあるけど、それとはまた違った意味で恐かった。
「多分こんな田舎路線に乗っている日本人って、僕らだけだろうなぁ」
とかいろんなことを考えたりして。

 さてクァンジュ(光州)に着いては見たものの、右も左も分からない。案内所にでも行って、情報を仕入れるとするか。
 ところでクァンジュ(光州)というと、すぐ思い出されるのは「光州事件」だ。
 光州事件とは1980年5月18日〜26日にかけてチョルラナムド(全羅南道)の道庁所在地である光州市で起こった大規模な反政府争乱のことで、デモ隊と戒厳軍が衝突し、市街戦を展開した。犠牲者は政府発表で193名というから、実際はもっと多かったのかも知れない。もちろん、当時の(今も?)反政府の代表格であるキムデジュン(金大中)氏のお膝下である。そう言った訳で、何だかとても暗いイメージを抱いていたのだ。(注5)

 案内所で市内への行き方と、どのあたりに旅館(ヨグアン)街があるのか聞いてみる。やはり市内で一番の繁華街である道庁あたりかバスターミナル周辺ということだった。とりあえずバスターミナルに行ってみよう。明日、午前中に木浦に行きたいし、ターミナルの近くにいる方が便利だろう。
 早速、教えてもらったバスに乗り込み市内に向かう。しかしクァンジュ(光州)は初めてなので、バスターミナルがどういう形の建物なのかさっぱり見当がつかない。多分バスがたくさん停まっているから、見れば分かるだろうけど・・・。
 我々を乗せたバスは混雑していたにも関わらずスピードを上げて走り出した。
 しばらく注意して見回していると、バスがたくさん並んでいるのが見えてきた。大きな建物には「バスターミナル」(もちろんハングル)と書いてある。おお!!これだこれだ。あわててバスを降りる。






(注4) 今まで乗った飛行機の中で、最も揺れた。また今後も、この揺れを上回るフライトは出てこないかもしれない。これだけ悪天候だったら、普通欠航するはずだ。というか、木浦便が欠航で、光州行きが飛んだのが、いまだに謎なのだ。



(注5) この当時、金大中(キム・デジュン)氏は、野党の親玉であって、このあとに大統領(1998年〜2003年)になってしまうなんて、考えも及ばなかった。びっくり。世の中分からないものである。そのあと、韓国人で初のノーベル賞受賞者にもなってしまったのは、記憶に新しいところ。
 金大中 (Wikipedia)
 光州事件 (Wikipedia)

06バスターミナル周辺で宿探し

 光州のバスターミナルは巨大なものだった。さすが道庁所在地だけのことはある。中に入ってみると、国内各地へ行くバス乗り場がずら〜っと並んでいた。木浦行きを探してみる。どうやらかなり頻繁に出ているようだ。切符もずらずらっと並んだ自動券売機で買える。時間的にも早朝から動いているようだ。
 バス関係はこれで良し。日も暮れてきたことだし、宿を探すとしよう。と思ってまわりを見回してみたけど「ヨグアン」(旅館)の文字が見えない。どういうことだ? おかしい・・・案内所のおねーちゃんに騙されたのか? 仕方ないのでバスターミナルのまわりを回ってみることにした。

 ターミナル前の広い道を歩いていると、「○○○ジャン」と書かれている文字が目についた。どうもこれが宿らしい。「ジャン」とは「荘」のハングル読みだ。ソウルや釜山の場合はちゃんと「○○ヨグアン」(○○旅館)と書いてあるのだが、地方によってクセがあるらしい。「ヨグアン」(旅館)より1ランク上の宿泊施設を韓国では「ジャンヨグアン」(荘旅館)というので、「○○○荘」という感じで表記しているのだろう。因みにアパートではないので、お間違えのなきよう。
 さてその広い通りを渡り、お目当ての宿に近づいてみる。やはり「ヨグアン」であった。しかし様子がおかしい。「ヨグアン」(旅館)のくせにやたら奇麗な上に、金色の紙と赤いリボンを巻いた植木を玄関に並べている。電飾もある。 車を置くスペースまである。・・・・これらを見て、さすがに親父も気がついたようだ。

「・・・・こりゃ、どう見てもラブホテルだな」

 韓国の場合、日本のように「その方面にだけに特化した」ラブホテルというものは基本的に存在しない。カップルも泊まるし、旅行者も泊まる。混在しているのが当たり前なのだ。連れ込み宿のレベルからまだ脱していないのである。しかしこういうのを見ると、日本のような分化・特化が既に始まっているのかも知れない。
 実に興味深い。 (注6)

 数年前、韓国の中央部にある「テジョン」(大田)という街の繁華街のど真ん中にあった「ヨグアン」(旅館)に泊まったことがある。僕の他にも旅行者らしい人たちが見えたし、静かそうでなので決めたのだけど、夜になって様相が一変。実はネオンがギラギラの盛り場のど真ん中だったのだ。昼間の雰囲気からは全く想像できない。
「かなわんなー」と思いながらもなんとか床についたのだが、寝てしばらくしてから大声で喋りながら廊下を歩いてくる人の声で起こされてしまった。
「ホントにかなわんなー」と思っていたが、その人達は間もなく隣の部屋に入る。
「やれやれ静かになったわい」と思って再び寝はじめると、今度は女の人の大きな
「アノ声」が響いてきてまたまた眠れなくなってしまった・・・・・なーんてことがあった。

 今までの経験からして、繁華街の中の「ヨグアン」は連れ込み度が高く、ターミナルなどのまわりにある「ヨグアン」は連れ込み度が低い様な気がする。でもこれはあくまで「割合」であって、明確に分かれているわけではない。(くどい!)

 しかし、それも今年までの話なのかも知れない。そんな予感がするのだ。光州のバスターミナル周辺も良く見たらこの手の旅館がひしめき合っている地帯があったのだ。しかも垂れ幕を見ると「祝!開館」などと書いている。工事中の建物もちらほら見えるし、更地もある。今まさに進行中なのだ。
 恐らく、来年の今頃はこの一角が「大ラブホテル地帯」となるのだろう。日本の場合、ラブホテルといえば高速道路インターチェンジ付近と相場が決まっているが、韓国の場合はそれが高速バスターミナル周辺になるのだ。
 なんだか韓国のエッチビジネスの転換期を見たようで、痛快なのだ。
 でも韓国のことなので、相変わらず男同士の旅行者でも「そのホテル」に泊まろうとするし、また実際問題なく泊まれるんだろうな。
 ま、その辺の感覚が「ケンチャナヨ精神」でとてもよろしいのだ。

*ケンチャナヨ・・・「大丈夫」とか「気にしない」とかいう意味。
          「マイペンライ」「メイグァンシ」と同じか!

 さてそのラブホテル街を眺めていると、垂れ幕を下げていたヨグアン(旅館)からおばちゃんが出てきた。大きなバックを背負った典型的旅行者姿の我々親子を見つけると、
「泊まり? さあ入って入って」
と声をかけてきた。
「ラブホテルだしなー」と思ったが、もう日も暮れてきたし、安くてきれいなら泊まってもいいなと思い、とりあえず部屋を見せてもらうことにした。

 ヨグアン(旅館)の従業員である若い兄ちゃんに従って階段を上り、部屋に向かう。廊下の雰囲気はマンションのようだ。まさにラブホテル。部屋の中も凄いのかと思ったが、想像と違い普通のオンドル部屋だった。家具も普通のヨグアン(旅館)と大差ない。タンスと化粧台があるだけだ。でも新築だけあってなかなか奇麗だ。風呂を見てみると、これまた普通のヨグアンと大差ないつくりだが、やはり奇麗に作っている。日本のホテルと比べるとまだまだなんだけど、お洒落にしようという意気込みは伝わってくる。値段を聞いてみると2万ウォンちょっとだったので、ここに泊まることにした。











(注6) この旅行記の時代、つまり1996年には、まだ後の時代に登場するいわゆる「モテル」は存在しなかった。ちょうど、モテルが出来上がりつつある時代と言えよう。このときの記述を見てみると、ラブホテル特化型(日本のラブホテルに似たタイプ)の宿泊施設が初めて登場してきたのが分かる。歴史的に見ても、貴重な報告ではないかと思う。
この当時は、まだ「ジャンヨグアン」(荘旅館)という名前であり、モテルとは表記されていなかったのが分かる。このあと、ジャンヨグアンと区別するために「モテル」(モーテル)という語が生まれて来たのであろう。
韓国の宿泊施設の変遷、解説等は、当HPのQ&Aを参照されたい。
 韓国旅行に関するFAQ
 ↑このページの「旅館の選び方を教えてください」の項

07クァンジュ(光州)市内へ

 宿も決まったことだし飯でも食いに出かけることにする。バスターミナルに戻れば食堂くらいはあるだろうが、それじゃぁ味気ない。明日の朝、モッポ(木浦)に発つことを考えると、クァンジュ(光州)観光は今日しか出来ないのだ。せめて繁華街くらいは行ってみたい。
 クァンジュ(光州)一番の繁華街といえば、全羅南道庁(チョルラナムドチョン)の周辺らしい。やはりそこを目指して行かねば。(注7)

 外に出ると日はとっぷりと暮れていた。やはりと言ってはなんだが、あたりは、かなり暗かった。バスターミナル横に大きなデパートらしきものはあるが、電灯・ネオンその他、やはり大阪やソウルとは雰囲気が違う。
 さて、とりあえず先ほどのターミナルまで行く。市内行きのバス停が、このバスターミナル前の大きな通りにあるからだ。因みにバスターミナル内で発着するのは都市間を結ぶ長距離バス(高速バスなど)だけである。
 バス停の案内を見てみると、かなりたくさんのバスが走っているようだ。さすがクァンジュ(光州)は都会だ。よく見ると、行き先と主な停留所が書いてある。ただし全部ハングル文字。ハングルを読めない旅行者には辛いところだ。外国人の旅行者が少ないからか?

 その停留所を見てみると「トチョン」と書いている路線がいくつか見つかった。「道庁」のことだ。いくつか走っているらしい。番号を覚えて待っていると、お目当てのバスが走ってきた。ダッシュでそのバスに駆け寄る。
 ・・・あ、しまった!
 親父に韓国のバスの乗り方を教えておくの忘れていた。
 親父はいきなり出遅れていた。しかし、どうにかこうにか乗ることが出来た。・・・危なかった。韓国のバスはご存じの通りバス停「周辺」にしか停まらない。いや、正確には「バス停周辺で徐行する」かもしれない。乗り込むためには、そのバスめがけて突進し、乗る意志を見せなければならないのだ。このあたりは、中国本土とか台湾にも共通したことが言えるのかも知れない。しかし、これらの中でも韓国のバスは1・2を争うくらい過激だ。慣れていない親父はひどく驚いたようだった。ま、これで分かっただろうけど。

 さてバスは果てしない漆黒の海の中を疾走し続ける。なんといっても初めての街なので、どこを走っているのかさっぱり分からないのだ。ホントに道庁に向かっているのやろか? 少し不安になる。しかし少なくともバスのアナウンスは「道庁」とは言ってない。通過するのであればまだだろう。かなり走ってから「次は道庁前です」というアナウンスがあり、あわてて降りる。しかしそこは・・・・・予想に反して・・・・なんとまばゆいばかりの繁華街のど真ん中だったのだ!!!

 前回「光州事件のクァンジュ(光州)なので、とても暗い街をイメージしていた」と書いたと思う。実際に、空港からバスターミナルまでは、このイメージにかなり近かった。しかしこの道庁周辺の繁華街の賑やかなことと言ったらどうだ!まるでソウルのミョンドン(明洞)にでもいるようだ。なんという華やかで明るい街なんだ!あまりにも想像と違っていたので、くらくらとしてしまった。
 僕のイメージしていた「置き忘れたられた地域・全羅南道」はどこに行ってしまったのだ。これは認識を改めないといけない。

 さてくらくらする頭を抱えながら、街をぶらぶらしてみる。街頭カセット売りは好調だし、ブティックからなにから・・・・本当にこれはミョンドン(明洞)だ。「明洞」とはソウルで一番の繁華街と思ってくれればいい。この界隈はそれに匹敵する規模と雰囲気を持っている。しかも全体的に建物が新しい。これはすごい。街を歩いている若いやつらも実に屈託がなく、明るく、お洒落で、未だに光州事件のイメージを引きずっている自分が恥ずかしくなった。もちろん韓民族のことだから、心の奥底には間違いなく「ハン」(恨)として光州事件が残っているはずである。しかし表面的にではあるにせよ、このように明るい街にしていった光州市民に拍手を送りたい気持ちだった。

 さて街歩きもいいけど、腹が減っては戦は出来ぬ。とりあえず飯屋を探す。何件か見つかったが、そのうち「マンドゥ」の店があったので、そこに入った。
 「マンドゥ」とは「饅頭」のことだ。といってもあんこが入ったものではなくてどちらかというと「ギョーザ」に近い。小ぶりの肉まん、パオズとかそういうものだ。これは一般的に辛くないので、胃の悪い・辛いのダメな親父には最適だ。僕はネンミョン(冷麺)でも食べるとしよう。
 親父には「マンドゥクッ」という「マンドゥスープ」を注文させる。なかなかの美味だったようだ。

 飯も食い終わり、カセットテープなども購入し、満足したので宿に帰ることにした。こちらへ来たのと同じバスでターミナルに戻る。しかし行きとコースが違っていて、危うく乗り過ごすところだった。
 一旦、バスターミナルに戻り、明日の朝食用にパンと牛乳などを仕入れる。ついでに新聞なども購入しておこう。やはり気になるのが明日の天気だ。雨は大丈夫なのだろうか?パンなどを買っていると親父が何かごそごそとしている。見るとアイスクリームを買っていた。
「お兄ちゃんも食うか? 2本買っとこうか?」
と言って、さっさと2本買ってしまった。しょうがないなー、全く。







(注7)
光州広域市

1986年11月1日に釜山、大邱、仁川に続いて韓国で4番目の直轄市となった同地域の中心的なところ。1995年に光州直轄市から光州広域市に変わった。2004年時点で、人口140万人を超えている。
韓国語のサイト
http://www.gwangju.go.kr/gjcity/main.jsp



全羅南道庁
1996年当時、この光州広域市にあった全羅南道庁は、2005年11月11日に務安郡(ムアングン)に移転した。(地図
新庁舎の沿革等については、このページを参照(韓国語)

08宿の電気が!!!

 さて食い物をぶら下げて宿に戻ってくる。しかし宿を見て、あっと息をのんでしまった。
「で、電気が消えている!」
 なんと宿の電気が全部消えているのだ。おいおい、どうなっているんだ? まだそんなに遅くないし、客が帰っていないのに・・・まさか鍵がかかっているんじゃないだろうなぁ。
 近づいてみると、何人もの人が旅館街の通りに出てきて、わいわい騒いでいた。よく見ると、僕ら親子の宿泊している旅館以外の宿も電気が消えていた。停電?
 宿の入り口は開いており、中を覗いてみると中も真っ暗であった。どうやらこの界隈一帯が停電らしい。宿の受付におばあさんが座っていたので説明を求めると、いろいろ言って来たが、

1.もごもご言う
2.方言がきつい
3.自分の語学力が低い

の三重苦で何を言っているのかさっぱりわからなかった。(注8) もちろん英語も日本語も通じない。なんだかんだ話して、かろうじて分かったのが、

1.今停電している
2.修理を頼んでいる最中である
3.修理が終わるまで、外で時間でもつぶしてくれないだろうか?

ということだった。
 時間をつぶすって言ってもなぁ。もう今日は疲れたし、休みたいのだ。昨日は船中泊だったしね。
 とりあえず真っ暗な中を階段を上り、部屋に向かう。本当に真っ暗だ。

「なぁ、ロウソクもらうように言ってくれよ」
と親父が言い出した。
「ロウソク?(ロウソクって韓国語でなんて言うだったっけ?)どうせ寝るだけなんだし、別にええやん、これで」(注9)
 実は僕は台風が来たときのように、このハプニングを密かに楽しんでいたのだった。しかし親父はそうでもないみたいだった。とにかくライターの火だけが唯一の頼りだ。つけている一瞬の内に着替えなどを済ませる。続いて真っ暗闇の中でアイスクリームを食べると、風呂のお湯が出るかどうかを確認したりする。出るのが分かると親父はさっさと入りだした。

 そのうち宿の人がロウソクを持って現れた。やはりあるのとないのとではずいぶん違う。親父に続いて僕が風呂に入ると、突然電気がついた。外から「わーーーっ」という歓声が上がる。しかし、直後にまた停電。僕が風呂から上がる頃になって、やっと完全復旧した。

 電気もついたことだし、さ、寝よ寝よ。(第2話 了)
















(注8) この頃は、まだ韓国語を始めて間が無いので、今と比べるとかなり語学力に差があった。それなのに初めて全羅道地域に入ったものだから、さっぱり分からなかったのだ。全羅道方言は、同じ韓国人でもソウル標準語地域の人であれば、理解することが出来ないくらいかけ離れているらしい。 私も、韓国語が上達するにしたがって、慶尚道(釜山、大邱、慶州など)地域の方言にはある程度慣れてきたのだが、全羅道地域には、あまり行く機会も無いので、いまだに慣れない。
しかし、旅館のおばちゃんも、外国人である我々には、それなりに標準語でしゃべってくれていたはずで、だからこそ最低限の情報は伝わってきたのではないだろうか。これが、全くの方言でしゃべられていたら、本当に何を言っていたのか分からなかっただろう。


(注9) ロウソクは、「チョ」という。なお、「酢」のことも「チョ」なのだが、紛らわしいので「シクチョ」(食酢)というのが一般的。
ちなみに韓国で刺身などに、よくつけて食べる「辛子酢味噌」のことを「チョジャン」というが、この「チョ」が「酢」という意味なのだ。

 

第1話
1996.4.28
下関から釜山へ
第2話
1996.4.29
釜山上陸、釜山の旅行会社、 ナンポドン(南浦洞)・チャガルチ市場からキメ空港(金海空港)へ、キメ空港(金海空港) 、クァンジュ(光州)へ・・・、バスターミナル周辺で宿探し、クァンジュ(光州)市内へ、宿の電気が!!!
>>第3話
1996.4.30
さあ、モッポ(木浦)へ、モッポ(木浦)駅、ヨグアン(旅館)探し、モッポ(木浦)駅周辺へ、旅客船ターミナルから繁華街へ、カン・スジ(姜修智)、市場へ
第4話
1996.5.1
朝食をとって、ユダルサン(儒達山)に登る、ユダルサン(儒達山)の山頂へ、山を下りて「トンドンチュ」と「パジョン」に舌鼓、下界へ・・・、国立海洋遺物展示館、木浦市郷土文化館
第5話
1996.5.2
モッポ(木浦)からヨス(麗水)へ、コソッポス(高速バス)、ヨス(麗水)市内へ、またまた宿探し、ヨス(麗水)市内観光へ、実物大のコブクソン(亀甲船)、恐怖のポンチャック船!!!?、市場へ・・・、「マンドゥクッ」と「パン屋」
第6話
1996.5.3〜4
チンナムグァン(鎮南館)、釜山へ・・・、釜山到着、チュングアンドン(中央洞)でまたまた安宿さがし、夜の釜山タワーへ、日本へ戻らなきゃ、またまた「フォシンチョン」(虚心庁)へ・・・、帰国