■本の評価は、☆☆☆☆☆満点
☆☆が水準作
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9月30日(火) 『イヴの総て』
・超時空低速タイム・スリップが続いているが、やっと9月分が終わった。(10/21)
・『イヴの総て』('50・米) 監督ジョゼフ・L・マンキーウィッツ/出演アン・バクスター/ベティ・デイビス/ジョージ・サンダース/マリリン・モンロー
女優に憧れる娘イヴが演劇界の大女優を踏み台にしてスターの座につくまでを描いたアカデミー賞受賞作。一種の悪女物で、純朴な田舎娘と思われたイヴが次第に本性を剥き出しにしていく過程がじっくり描かれていてかなり恐い。女優とその恋人の演出家、その友人の脚本家夫婦4人の関係を食い破っていき、最後に狂言廻し役と思われていた批評家が立ちはだかって、キラー対キラーの対決の図式になる構成も秀逸。オチは恐怖物の王道で、この映画は一種のホラーなのだと思わせる。虚飾に満ちた大女優役のベティ・デイビスが結末に近づくにつれ可愛い女に見えてくるのもよろしい。
9月29日(月) 『モンキー・ビジネス』
・27日、28日と元同僚の通夜・告別式に出る。49歳、肝臓癌。9月の頭に入院して、癌が発覚して1月足らずでの死。今年の春、自殺した同僚のことを思って悔しくて一晩酒を飲んだ、といっていたのに。霊柩車が出るときに、親戚と思われる叔母さんが故人の名を叫んでいた。人生あまりに無常。
・『モンキー・ビジネス』('52・米)
監督ハワード・ホークス/出演ケーリー・グラント/ジンジャー・ロジャース/マリリン・モンロー
研究所のチンパンジーが作り出した若返りの薬を飲んだ科学者とその妻が巻き起こす大騒動。同じ監督、同じ脚本(ベン・ヘクト)の傑作スクリューボール・コメディ『ヒズ・ガール・フライデイ』ほど、ドライヴ感がないのは、ジンジャー・ロジャースがあまりホークス的美女ではないせいか。ケーリー・グラントが赤ちゃんになったと取り違えられてからの展開が笑わせる。若きコメディエンヌ、モンローの輝きが光る。
9月28日(日) 『華麗なる大泥棒』
・山風エッセイ等リスト、インタビュー等リスト更新。
・『フィルム・ノワールの光と影』(エスクァイアマガジンジャパン)という本を眺めていたら、ゴダール『メイド・イン・USA』の主人公が、どこか女々しい作家ダヴィッド・グッディス(デイヴッド・グーディスのフランス風の発音)であるということが書かれていた。悪党パーカーを主人公にしたリチャード・スタークの小説の映画化の主人公が、なぜにデイヴッド・グーディス!?これも、フランスでの人気の反映ということだろうか。というわけで、グーディスの古い翻訳を読んでみる。
・『華麗なる大泥棒』 デビッド・グーティス('74('53)/角川文庫) ☆☆☆★
ジャン・ポール・ベルモント主演の同題映画(監督アンリ・ヴェルヌイユ)がカバー。映画の方は、ギリシァを舞台に、4人の泥棒チームと悪徳警官の宝石争奪戦を描いた娯楽アクションらしいのだが、小説の方は、原題Burgler(夜盗)どおり、ちっとも「華麗」ではない。襲撃や撃ち合いもあるものの、全編モノトーンで覆われた、アクション小説というより主人公の心理に主眼を置いた地味な犯罪小説である。
ハービンをボスとする4人の泥棒チームは、11万ドル相当のエメラルドを盗み出すのに成功。だが、チームに犯罪向きではない若い娘グラッデンがいることを巡ってメンバーの争いが絶えない。グラッデンは、孤児だったハービンを拾って泥棒稼業を仕込んだ恩人の遺児であり、彼女を放り出すことはできない。ハービンはグラッデンにしばらく休暇を与えることにしてアトランティック・シティに送り出すが、ふとしたことから知り合った金持ちの女デラと恋に落ち、仲間に別れを宣言する。つかの間続いた甘い生活のうちに、エメラルドを狙った悪徳警官の陰謀が潜んでいることを知ったハービンは、仲間のところに舞い戻るが・・・。
『狼は天使の匂い』でも感じたが、この作家の小説では転調が鮮やかにやって来る。この小説でいえば、デラとの出逢いのシーン。タフな男に、唐突に強烈な恋愛感情が舞い降りる。幾つかの転調を重ねて、予測のつかないような形でストーリーは進行するが、アトランティック・シティに舞台が移ってからは、この小説がデラとグラッデン二人の女に板挟みになった男の物語であることが顕になる。その意味では、グラッデンに対するハービンの無意識の感情を解体してしまう、デラとハービンの息詰まる会話のシーンが本書の白眉かもしれない。
ラスト、泳いで逃げ出すという絶望的な逃避行には詩が漂う。グラッデンのかぶった帽子がオレンジ色であることに気づくとき、冒頭の会話が甦ってきて、余韻はより深いものになる。
9月27日(土) 『あすなひろし作品選集3』
・26日、飲み会の3軒目。酔っ払った会話の中で、同僚に、「いやー、パラサイト・関さん、お子さん誕生良かったですね」と言われ、眼の玉が飛び出る。眼の玉が飛び出て、鉄人28号の正太郎君のように首が上へ飛ぶ。
君、わしのサイト見てるんかい。当然、こんなサイトやっているなんて職場では明かしていないので、衝撃が走った。なんでも、人の名前を検索してみるのが癖で、同じ課になってから本名で検索したらひっかかってきたとのこと。「ストラングル」のリングネームにする前に、ほんの一時期だけ本名を使っていたことがあって、その名残が残っているところがあるからなあ。
「去年の蟹屋に行った話、面白かったです」って、あんたも当事者じゃ。しかし、1年以上もウォッチされていたなんて、くわばらくわばら。O氏、まだここを見ていたら、このことは内緒にしていておくれ。この頃は、まだ「予定」だったけど、関も、一面識もない人に祝ってもらって良かったね(10/18記)。
・あすなひろし追悼公式サイト編『あすなひろし作品選集3』届く。順調に3册でましたね。今後も続刊予定ということで楽しみ。今回は、「青年漫画(1)」収録作は、「初恋 白い恋人」「ジョージ・ワシントンを撃った男」の2作。前者は、全編に流れるブルースが耳を離れない、ノワールそのものといってもいいような秀作。生真面目な両親に溺愛されていた少年は家を出、プロの犯罪者の導きで殺人稼業に足を踏み入れる。少女と4年も暮らしているが、彼女は、少年の強盗殺人の被害者の娘であり、現場を目撃したショックで彼女はあらゆる感情を失っている。日々の暮らしに空虚を覚え、殺し屋稼業から足を洗おうとした矢先、少女は自分を取り戻すが・・。時の移ろいの冷酷さをブルージーににうたいあげている。後者は、なんと西部劇。これが日本人の書いたコミックかと思うような緻密なタッチな絵。ドラマも、すみずみまで計算が行き届いた完璧な一品。エッセイはバロン吉元。
みなもと太郎の解説は、同時代を生きた実作者ならでは。テクニック解説もさることながら、たった数頁しか出てこない殺人者と少年の奇妙(ビザール)な関係を「24年組」の少女漫画作家が見抜いて作品の糧としていったという仮説は、壮大な感じすらする。
セット購入おまけとして、複製原画のブレゼントあり。額装か。
9月26日(金) 『セリ・ノワール』
・セリ・ノワールついでに。
「セリ・ノワール」('79) 仏
監督 アラン・コルノー 出演 パトリック・ド・ヴェール マリー・トランティニャン)
以前、マーヴさんに掲示板で教えてもらったトンプスン『死ぬほどいい女』の映画化。ゴダール『メイド・イン・USA』(原作はリチャード・スターク『悪党パーカー/死者の遺産』・未見)というのもそうだが、御大層なタイトルをつけるものだ。レジナルド・ヒル原作本を日本で映画化して『ポケミス』とタイトルをつけるようなものか(違う)。原作にかなり忠実なつくりだが、結末の破天荒の展開はない。ある少女に出逢ったことから破滅の淵を歩み始める主人公を演ずるパトリック・ド・ヴェールの演技が強烈な印象を残す。恰好悪いハゲに、なかなかの美貌という外見のミスマッチもそうだが、小悪党の中の狂気・孤独・絶望・純情が絡み合った複雑な感情を表出する演技からは、ヒリヒリするような感覚が伝わってくる。原作では、主人公が自らをモデルに小説を書いている部分を饒舌な一人芝居に置き換えた感じ。屋外はいつも曇天。曇天模様の中の破滅を描いて、小体ながら、味わいのあるい一作。
9月25日(木) ドゥールズのセリノワール論(承前)
・「彷書月刊」10月号の「昭和出版街」は、昭和30年代前半貸本小説出版に携わった方のインタビュー。26歳の若者が、配本2000部足らずの部数の出版に携わり、それでも市場調査をきっちりやって、成功の足がかりを掴むまでがヴィヴィッドに伝わってくる。題名が大切、ニーズのある隙間を狙え(当時はユーモア小説、柔道小説)は今でも参考になるかも。次号も楽しみ。
・「アンダーグラウンドブックカフェ出品目録」なる目録が送られてくる。貴族だけが鑑賞できたという地下プロレスのような雰囲気が漂うネーミングの古書市だが、ミステリ系はやっぱりアンダーグラウンド価格とはいかないようで−。
・(承前)というわけで、わずか8Pしかない本文をうまく要約できないのは悲しいが、何度も出てくる「過失の(驚くべき)埋め合わせ」「偽なるものの(最も高い)潜勢力」等の基本タームが理解できないのだから、やむを得ない。
セリ・ノワールが時代に即した表現を獲得しているがゆえに新しい、というのはお世辞にも冴えているとはいえないし、イギリスー帰納、フランス−演繹というのも、多少面白味はあるものの英米作家になじんでいる身にとっては眉に唾をつけたくなる。むしろ、60年代になっても、ルルーをこんなに持ち上げているところに、フランス中華思想が窺えるといってはいいすぎか。
欧米的なミステリ観と特に異質なものを感じさせるのは、ヒトラーやフランコといったファシズムの影や政治・警察といった権力の似姿をセリ・ノワールに見出しているところだ。
「恐怖」をキーワードにしたボワロー&ナルスジャックの『推理小説論』(64)を引っ張り出して「現代推理小説」の項みると、その間の事情は納得させられるような気がした。
「戦争が来た。それは永久に続くように思われた」「一つの大陸全体が屠殺場と化し、うず高く積まれた死体はもはや排泄物に等しく、その悪夢のような光景ももはや不快ではなく、苦悶さえも静まってしまう」「苦悶、暴力、殺戮、これこそがまさに現代のキーワードである」
国土が戦場だったフランスで、英米と異なるミステリ受容が生まれたとしても、それは当然のことだったかもしれない。
9月24日(水) ポケ娘に捧げる一冊
・いやー、めでたい。ポケミス50周年フェアのさなか、関つぁんにポケ娘誕生。しかし、名前がポワロの台詞にちなんだって、それでいいのか。奥さんはどうやって説得したのだろう。某ミステリ作家から、お祝いメールも届いたし、この娘、早くも将来が楽しみ。「パラサイト・関」一時アップ忘れになり、すみませんでした。
ポケ娘の将来を占うため、ポケミスから1冊探す。「黒衣の花嫁」「飾り窓の女」「孤独な娘」。おいおい。「悪魔のような女」「用心深い浮気女」「わらう後家」「怒りっぽい女」「モルグの女」「女豹」「女虎」「あばずれ」「男好き」「ちゃっかり女」。縁起でもないタイトルが並んでいる。「女は魔物」だ。せいぜい、「ハワイの気まぐれ娘」「可愛い悪魔」「美人コンテストの女王」がかろうじて救われるくらいか。ということで、消去法で、この1冊しかない。「時の娘」。真実は時の娘。
・論創社というところより、『平林初之輔探偵小説選T』(2500円+税)。ひ、ひらばやし−、は、はつのすけ−。しかもTというところが凄い。背表紙は、ちょっと国書の探偵小説全集第3期を思わせる。あんまり刷り部数が見込めそうもないのに、この装幀、価格は立派。続刊予定も凄い。松本泰、川上眉山、橋本五郎、押川春浪、山下利三郎、久山秀子・・。決して予告全部は出ないような気もするが、応援したい叢書だ。と、今回はこれにて。(10/14記)
9月23日(火) ドゥールズのセリノワール論(続)
・ところで、この小論、肝心の内容がよく判らないのだ。
書き出しで既に嫌な予感がする。
「セリー・ノワールはある重要な出来事を祝う、その第一○○○号である」
き、機械翻訳という言葉が頭をよぎる。どうやら、セリノワール叢書1000冊(あるいは通し番号1000?)に寄せた文章らしい、ということは判るが。1行飛ばして、
「文学は意識に似たものであって、つねに遅れをとっている」
難しい語はないのに、意味がつかめない。「意識」がなぜ常に遅れをとっている?文学が社会的現実に即した表現を見い出すには、時間がかかる。それは、現実の姿をきちんとした姿で認識するような社会意識の形成に時間がかかるようにように、(あるいは、個人の知覚を意識というところまで浮上させるにはタイムラグがあるように)ということか。んー。とまあ、全編こんな調子で、まだらに点在するなんとかわかる部分を伝って歩いて、要約すると、こんなところか。
この文学の遅れを取り戻したのが、セリ・ノワールの役割である。かつての探偵小説では、真理は、哲学的なやり方で、天才的な探偵が見い出すものであった。そこには、フランス派(デカルト)の演繹主義−ガボリオやガストン・ルルーと−イギリス派(ホッブス)の帰納主義−コナン・ドイル−とがあった。関心が犯罪者の側に移るときであっても、犯人は探偵に劣らず異常であり、ルールタビィーユとシェリ−ビビは、それぞれが他方の分身であった。彼らは同じ運命、真理の探求を生き、その探求とはエディプスのそれである。
セリ・ノワールとともに文字どおりの探偵小説は死んだ。セリ・ノワールの斬新さとは、探偵の活動が真理の探求とはなんの関係もないことを我々に教えたということである。警察の研究室はもはや科学には似つかわしくなく、そこでは情報提供者の電話、憲兵隊の報告、拷問が幅をきかせる。真実の探求は捜査のエレメントではない。警察に見つからない殺人者は、過失によって仲間に殺されるかもしれないし、警察は仲間を犠牲にするかもしれない。そこにあるのは、ある復元・均衡のプロセスであり、ギリシア悲劇に現れるものと同質のものだ。刑事と犯人の関係は、密告−買収−拷問の共犯関係に変わってしまった。
セリ・ノワールは、我々を政治と犯罪、ギャングや殺人等の社会的現実を小説に移しかえ、政治権力、経済力、警察及び犯罪活動の結びつきの中に、グロテスクなものとぞっとするもの、恐ろしいものと道化の統一を探求するが、これらはシェイクスピアやアストゥリアスら偉大な作家の方法を踏襲したものである。セリ・ノワールは、探偵的夢想を変容させたが、一方で、我々から憤りの力を奪ってしまった。憤りは現実的なものから、あるいは傑作から生じるのだが、セリ・ノワールはフォークナー、スタインベック、コールドウェルら偉大な作家の模作にみえる。
良き文学のためには新しきレアリスムだけでは不十分である。セリ・ノワールは多産の害を被ったが、一つの傾向を保存し、周期的に美しい書物群のなかに固有の表現を見出した。現実的なものの中にそれ固有のパロディーを見出し、パロディが一つの方向を示すこれらの美しい書物群として前回書いた本が顕彰される−
もう一回。
9月22日(月) ドゥールズのセリノワール論
・『溝の中の月』の原題、検索かけると、吉野仁氏のサイトで、すぐに出てきた。デヴィット・グーディス/The
Moon in the Gutter 1953。『狼は天使の匂い』の前作なのか。しかし、このサイトの「クライム・ノヴェル作家事典」は、凄いなあ。
・8月に出たジル・ドゥールズ『無人島 1953-1968』(河出書房新社)というの評論集に、「セリノワールの哲学」(1966)なるセリ・ノワール小論が載っている。かつてニューアカブームなるものがあったときに、御多分に漏れず、その端っこ(の端っこ)を囓ったつもりになっていた者としては、なんとなく懐かしい名前である。「マルクス経済学・フロイトの精神分析を批判的に乗り超え、文化総体の革新を目指すポスト・モダンの思想』などという惹句に惹きつけられて、ドゥールズ/ガタリの分厚い『アンチ・オイディプス』を入手。1頁目に「これは、太陽肛門なのだ」とか出てきて、後は読まずに、放り出したりしたんだよなあ。
この小論は、セリ・ノワール叢書の1000冊目発刊に事寄せて、書いたものらしい。
ドゥールズのお薦め作として出てくるのは、チェイス『蘭はない』、『ミス・シャムウェイは運命を投げ捨てる』、ウィリアムズ『どん百姓のファンタジア』、ハイムズの黒人小説等。
蘭はない、と断言されても困る。仏訳題を直接和訳するから、こういうことになるので、ここは、『ミス・ブランデイッシの蘭』(原題 No
Orchids for Miss Blandish)と訳して欲しいところ。
ウィリアムズとは、どこのウィリアムズさん、と思っていたのだが、前記「クライム・ノヴェル作家事典」を見て、疑問が氷解した。『土曜を逃げろ』(トリュフォー監督『日曜日が待ち遠しい』の原作)のチャールズ・ウィリアムズか。
それにしても、『どん百姓のファンタジア』とは、一体どんな小説だ。
これも、前記事典によれば、仏で映画化されているFantasia Chez les Ploucsのことらしい。原題は、"The
Diamond Bikini"。こういったのも注釈が欲しいところ。
タイトルの怪訳をもってなるローベール・ドゥールズ(こちらもドゥールズだ)『世界ミステリー百科』でウィリアムズの項に当たると、『田舎っぺどもの大騒ぎ』とあった。(映画はお粗末だが、小説は素晴らしいとも))やはり、『どん百姓のファンタジア』のインパクトには負けるな。
セリノワール1000巻を祝い、再刊が相次いだらしいのだが、文末でドゥールズも復刊希望を出している。この辺、ポケミスのファン心理とも共通するところで微笑ましい。
復刊希望作は、50番ジェイムズ・ガン『優しい女』という小説で、ドゥールズは、素晴らしい本と断言している。フランス人のペンネームの可能性であることも匂わしつつ、叢書でただ一つの小説しかでなかったジェイムズ・ガンとは誰なのか、と疑問も呈している。ジェイムズ・E・ガンなら米のSF作家だが・・。
ジェイムズ・ガンとは誰なのか、とこちらも、また気になる事項が増えるのである。
9月21日(日) 山田風太郎妖異小説コレクション発刊/『溝の中の月』
・掲示板でアーネストさんがお知らせくださったが、山田風太郎妖異小説コレクション『地獄太夫』が発刊された。忍法帖、明治物以外の時代小説を集大成しようという企画の第1弾で、本書は初期短編17編を収める。日下三蔵氏の解説によれば、とりあえず、4冊刊行し、好調なら2期、3期と続くようなので、なんとか好調に推移して欲しいものである。解説中書誌の参考としたものとして、拙サイトの名前が出てきたのは、あわわ。
『地獄太夫』をレジへ持っていくと、購入を迷っていたような客が続けて、同じ本をレジへ。呼び水効果?こんなの初めてだ。(10/6記)
・ポケミス映画座を何冊か読んだ影響か、無性に映画が見たくなって、近所のビデオ屋から数本借りる。ビデオ借りるなんて何年ぶりだろう。新旧問わず、5本7泊1000円というレンタル価格の下落ぶりにも驚く。聞くところによると、一本50円なんてのもあるらしい。これで商売になるのかな。
『溝の中の月』('82・仏)
監督ジャン・ジャック・ベネックス/出演ジェラール・ドパルデュー/ナスターシャ・キンスキー デヴィッド・グーディス原作とポケミスの解説で知って借りてみた。『ディーバ』と『ベティ・ブルー』に挟まれた作品。どっちも面白い作品だったが、この作はストーリーやドラマの面白さを拒否するような映画。妹を乱暴して死に追いやった犯人を探す青年、という物語の外枠は一応あるものの、港湾労働者である青年と謎めいたブルジョワジーの娘の恋愛が、独特の映像感覚で、スタィリッシュに、優美に綴られる。とってつけたような結末で映画は唐突に終わるが、とても原作どおりとは思えない。芳紀22歳、ナスターシャ・キンスキーの美しさはガチ。
9月20日(土) 『捕虜収容所の死』
・深堀骨『アノチャ・ズルチャ』(ハヤカワSFシリーズコレクション)購入。HMM出身。本当の異能の作品集出版を喜びたし。
・『捕虜収容所の死』 マイケル・ギルバート(03.5('52)/創元推理文庫)☆☆☆☆
登場人物表に溢れるばかりの人数におののくが、懸念することはなかった。
二次大戦末期、イタリア北部の英国人捕虜収容場で起こった殺人。しかも、現場は、脱走用に掘ったトンネル内で不可能犯罪の様相も呈している。果たして、誰がどうやって殺したのか。連合軍のイタリアへの進軍が迫り、状況が刻々と変化する中、トンネルを用いた大脱走は成功するのか。
イタリアにおける捕虜収容、脱走は、作者の実体験であるらしく、これだけ特異な環境を舞台に、ミステリを書けば成功は約束されているようなものだが、実際、この作品は成功作以上のものになっている。捕虜収容所といっても、高等教育を受けている将校専用の収容所であるせいか、同胞意識が強く、所内には最高指令官や脱走委員会が存在し、指揮命令が行き届いているには、驚かされる。捕虜達の一部はラグビーや演劇にうち興じたりで、妙にのどかな感じなのも、実体験に基づくものならでは、か。知られざる収容所の内実に触れるうちに、物語は、捕虜側の捜査と脱走計画が絡み合いながら、サスペンスフルに進んでいく。『スモールボーン氏〜』もそうだったが、短いシークエンスを積み重ねていく多元描写は、進行していく事件の全貌を多角的に明らかにするとともに、すぐ眼の前にある真相隠す巧みな煙幕になっている。事件最後の一章、謎解き物としては迂路のようだが、苛酷な戦争の断面、真相の切なさを語るためにどうしても必要な一章だったかもしれない。迫真性をもった舞台、精彩に富んだ人物、創意に富んだプロット、どれをとっても一級品の出来映え。
9月19日(金) 『らせん階段』
・『らせん階段』 エセル・リナ・ホワイト('33(03.9)/ポケミス) ☆☆☆
これまで長編の翻訳がなかったにもかわらず、1月の『バルカン超特急』に続いての翻訳は快挙。46年のロバート・シオドマク監督で、アメリカで映画化され、その後3度もリメイクされているという。荒涼とした田園地帯にそびえ立つ「サミット館」。近隣では、若い女が連続して殺害されており、館の新米メイド、ヘレンは、忍び寄る殺人鬼の影に怯えるが、ある嵐の夜、決定的な恐怖に館は包まれる…。
主人公ヘレンは、単にゴシック小説流の逃げまどう姫君でもないが、40〜50年代風の不安神経症にさらされるヒロインでもない。無論、戦う女でもない。ごく普通の好奇心の強い、結婚に憧れる娘にすぎない。この辺の性格設定がサスペンス小説としては、過渡期的な作としての印象を与える。屋敷の構成員である住人の性格も然りで、その奇矯な性格や行動は、雰囲気も盛り上げるというよりは、なにやらユーモラスな感さえ漂わせる。良くも悪くも、この辺の大らかさが、時代の産物という感を強くする。舞台をほぼ一晩に限定しつつ、各章の終わりごとに小サプライズを用意して、緊張を持続させる力量はさすがだが、ヒロインを事件に遭遇させるために、ページごとにヘレンは心変わりすることなり、行動も一貫せず、読者は次第にじれったくなってくる(じっとしていればいいのに…)。だが、本書の真面目は、屋敷の中でヘレンが頼る人間が一人ずつ欠けていくという、かなり意識的に用いられた作劇法にあると思う。頼るべき人は「そして誰もいなくなった」。そして、その背後には、状況を機械のように動かす冷徹な犯人の悪意が潜んでいる。サスペンスに持ち込まれた「操り」テーマとい
うだけでも、本書は注目に価する。犯人の動機もちょっと凄い。
9月18日 二つの「密告」
・訳あって島田一男を読み直しているという、やよいさんから密告がありました。タイトルは『炎の地図』。バーの経営者が留守の時に発生する謎の火災。その原因を調査する保険会社の調査員が主人公。山村美紗もびっくりの物理トリックが使われいるとのこと。
・ようっぴさんからも密告。
仁木悦子「虹の立つ村」(密室状態の室内からの発火現象) 同「小さい矢」(ドアは閉まっており、窓は開いているが、その窓はアパートの高い階のものという設定/密室物といえるか微妙ですが、とあり)
出たばかりの『エロティック・ミステリー傑作選』(光文社文庫)からは、島久平「怪物」、千葉淳平「静かなる復讐」。解説では楠田匡介「湯紋」も密室モノとされているが、個人的には密室モノとは読まなかったとのこと。
同書の川田弥一郎解説では、この本を買ったら「遅くとも、一週間以内に、さっさと全部の短編を読んでしまいましょう。それ以上過ぎると、つん読になってしまいます。」と、耳にイタい忠告がされていることにもかんがみ、とりあえず「怪物」「静かなる復讐」「湯紋」と、渡島太郎「走る“密室”で」だけ読んでみた。
「怪物」は、玄関を監視されている住宅からの消失を扱った伝法探偵物。「静かなる復讐」は、意外な展開をみせる奇妙な復讐譚。あえて密室物にする必要なんかないのに、律儀に密室を構成する作家の性に痺れる。ウイットに富んだ結末もグッド。「湯紋」は、遠隔トリックが使われているが不可能物とは、とらず。「走る“密室”で」は、素人っぽい作ではあるが、バスの中の不可能状況の殺人を扱っていて、謎の提示は面白い。
お二方ありがとうございました。
●リスト追加(久しぶり/既におかしくなっている総数は改めて整理)
島久平「怪物」、千葉淳平「静かなる復讐」、渡島太郎「走る“密室”で」その他は、仮収蔵庫へ。
9月17日(金) カレーライスの起源
・最近何回ともなく足を運んでいたのだが、やっと、旭屋でポケミス復刊フェアに遭遇。『美の秘密』『死の序曲』『名探偵登場4』『悪魔とベン・フランクリン』『パリの狼男』をいそいそと購入。復刊本では、カバー裏に、例えば『パリの狼男』では、「猟奇の嵐が花の都を吹き抜ける』といった惹句(これはインバクトあり)が付いており、粗筋も帯までの部分にとどまっている。これは、これまでの復刊もそうだったかしらん。元版もっている人は、俺のほうが粗筋が長いとか、自慢できそう。(10月1日記)
・先頃、北海道新聞のコラムで、作家の佐々木譲氏が日本のカレーライスの起源について、新説を披露していた。記事を切り抜いておこうと思いつつそのままになっていて、内容は、うろ覚えなのだが、日本で初めてカレーライスを日常的に食べていたのは箱館戦争で五稜郭に立てこもっていた榎本武揚ではないか、というもの。
日本カレーライスの起源には、これまで、横須賀海軍カレーや、クラーク博士が持ち込んだとか諸説あるらしいのだが、新説の根拠として、○榎本武揚が海外渡航した際にカレーを食したのは間違いない、○渡航の際雇い入れた船員にはインド人が多くその食文化の洗礼を受けているはず、○当時の函館周辺では、玉葱やじゃがいも等カレーに欠かせない野菜が生産されていた等を挙げており、函館の人はカレーの故郷であることを誇ってよい、というように結んでいた、と思う(曖昧な記憶)。
・カレーは、大戦前にチャンドラーポースの弟子の何とかボースという人が新宿中村屋に持ち込んだ恋と革命の味だったはずではないか、と一瞬思ったのだが、それは、本格インドカレーの話だったか。
榎本武揚とカレーの結びつきの面白さもさることながら、クラーク博士起源説というのも知らなかった。このアーカンソーの百姓大学出身のクラック(ひび割れ)博士については、以前このサイトで触れたこともあって興味をもっており、『カレーライスの誕生』(小菅桂子著/講談社選書メチエ)なる本を当たってみると、出てきた出てきたクラーク博士。
開拓使の外国人たちは北海道の米作に反対で、栄養の面からも、主食は米から小麦粉を奨励。札幌農学校の寮では、明治9年に来道したクラーク博士の意見もあって、米はライスカレーの他に使用することを許可されなかった。3食とも洋食だったのは最初の頃だけで、明治15年秋からは3食とも和食になったが、当時でも1日におきに「ライスカレー他壱品」が供されたという。現在わかっているカレーの最古文献は明治5年の「西洋料理指南」という本だそうで、こちらも古いが、日常食にしていたということでは、農学校の寮は随分早い。少なくとも、海軍割烹術参考書(明治41年)のレシピに基づき調理したというのが起源で、カレーの街宣言をしている横須賀の海軍カレーよりはずっと早い。クラーク博士はカレーの王子さまでもあったのだ、と。
この本によれば、カレーライス三種の神器はタマネギ、ジャガイモ、人参だそうで、そのうち、江戸末期からタマネギ、ジャガイモを継続的に生産していたのは、北海道くらいしかないようだから、佐々木説は随分説得力があるように思う。定説となりますかどうか。
9月16日(水) 『歌うダイアモンド』
「十勝沖地震」、全道的には大きな被害になった。先般の台風とならんで、日高・十勝にはダブルパンチになってしまった。
ハルカさんの掲示板では地震発生時に実況されてたのにびっくり。わが家では、本の山が何カ所で崩れたのと、玄関に立て掛けて置いた本棚の支柱が倒れて干していた傘が潰れただけだが。札幌市内でも、金魚の鉢が落ちて水浸しになったとか、ガスをつけてたので消すのが大変だったとか(これは実家)、小被害があった模様。(31日記)。
・『歌うダイアモンド』ヘレン・マクロイ(03.1('65)/晶文社) ☆☆☆★
だいぶん前の本ですが。
「東洋趣味(シノワズリ)」 清朝末期、北京の町中で忽然と姿を消したロシア外交官夫人。異色の題材をエキゾティズム豊かに描いた名作。
「Q通り十番地」 天然の食物がタブーとなった時代のもぐり酒場。大量生産時代のインモラルとは。妻の隠し事から始まる語り口の妙。
「八月の黄昏に」 ロケット開発に一生を捧げた技術者が夢の果てに見たものは、ノスタルジックなSFとしてなかなかの出来映え。題名、エピグラムも決まっている。
「カーテンの向こう側」 8ヶ月もの間、廊下を仕切るカーテンの夢を見る女。ある事件をどこから語り出すべきかの、お手本のような作。
「ところかわれば」 ファースト・コンタクト物のユーモラスなタッチのSFだが、咀嚼/消化とジェンダーの強烈なアナロジーには、かなり恐くなるかも。
「鏡もて見るごとく」 「折々〜」で前に触れました。
「歌うダイアモンド」 空飛ぶ円盤を目撃した人間が次々と怪死。被害は、アメリカのみならず中国にも及んでいる。空前のファンタスティックな謎に真っ向勝負していることに感嘆。手がかりの妙もあり。ウィリング教授物。
「風のない場所」 核戦争を描いて、ただもの悲しい、沁みる掌編。
「人生はいつも残酷」 少年の日殺人の犠牲になったはずの男が、村に戻り、「自分殺し」の犯人を探る。限られた容疑者ながら、謎は二転三転。登場人物の人生の変転も織り込んで印象深い充実の謎解き編。
SF4編を含むパラエティに富んだ収録作からは、マクロイが、社会・文化に対する旺盛な好奇心と批評眼をもった知的な作家であったことが伝わってくる。特に、1950年代の時代精神でもあった核への恐怖は、空を見上げる視線として作品のあちこちに定着され、作品に独自の色あいをもたらしている。「歌うダイアモンド」は、こうした時代精神と謎解きスピリッツが絶妙に配合された異色の傑作といっていいと思う。
9月15日(月・祝) 『ウサギは野を駆ける』
・朝方、強い地震。札幌は震度4だそうだが、体感はそれ以上。テレビは太平洋沿岸での被害拡大(を報じている。(26朝記)以下は、昨晩書いたもの。
・この日は、留萌・稚内で4年半のおつとめを終えて札幌に帰還したばかりの山美女から電話あり。レコードと映画パンフ、本を処分したいというので、興味津々、サイ君とともに、つき合うことに。レコードは、電話帖で調べた狸小路の専門店へもっていく。弟さんのレコードで300枚くらい。無論、弟の許可はとったという。ロックが中心。査定に1時間くらいかかります、という。店頭では、1枚ん万円というのが並んでいたりして、秘かに期待に胸を震わせたのだが、3万ちょいというところだったか。1枚100円。まあ、こんなものか。映画パンフと映画関係雑誌は、平岸の映画専門店へ。パンフは、5、60冊あったと思うけど、在庫過剰ということで、10冊と雑誌を少ししかとってもらえなかった。古本の方は、段ボール一箱程度だったが、あまり売れそうなものはなし。今日中に決着を付けてしまえと、GEOに持ち込む。しばしの査定後、本が2つの山に分けられており、「こちらは1冊10円、こちらはマニア本として1冊20円での買い取りとなりますが、よろしいですか」とのこと。マニア本とは、いかにと山をみると、児童文学と別冊宝島だった。うーん、マニア本ねえ。結局
、引き取ってもらえなかった雑誌も残る。世の中厳しいですのお。自分の少ない経験でも、古本は古本屋にもっていくのが面倒だし、ブックオフは引き取りにきてくれても、ここ数年の本以外は、はねられる。査定には、がっくりすること多し。本を有効活用しようというのも一苦労なのだ。ところで、本日の結論としては、山美女の運転する車には二度と乗りたくないということだな。 猫美女を呼出し、電車通りの店でワインを数本空け、山猫シスターズの怪気炎を聞く。その後、猫美女の家で、サンマの刺身と日本酒で二次会。猫をじゃらす。
・『ウサギは野を駆ける』 セバスチアン・ジャンプリゾ('74.2('72)/ポケミス) ☆☆☆
『狼〜』のシナリオ化ということなので、興味を惹かれ引っ張り出す。一読、上手いなあ、と。舞台はモントリオールに移され、犯罪者一味の襲撃目標は、首都警察ビルの18階という大がかりなものに置き換えられている。前半はプロ犯罪集団に紛れ込んだ青年という基本設定や登場人物、エビソードをほとんど変えずに静の展開、後半はほとんどオリジナルで銃弾うなるアクションの連続で畳みかける。前半で改変・追加されたシーンは極めて「絵」になるシーンであり、小説の映像化とはこういうことかと膝を打たせる。後半犯罪者チームが一人ずつ倒れていくシーンでは、前半で描かれたエビソードが効いてきて、滅びの歌が嫌みなく奏でられる。周到な計算が行き届いたつくり。登場人物の性格がやや判りやすすぎるといった感もあるが、原作とは全然別の物語と割り切るべきなのだろう。要所に、本筋とのかかわりが途中までわからないマルセイユの少年のエピソードが織り込まれたり、主人公の青年を追っているのがジプシーという設定が、この作者らしいファンタスティックな調子を与えている。
9月14日(日) 『狼は天使の匂い』
・『狼は天使の匂い』 デイヴッド・グーディス(03.7('54)/ポケミス) ☆☆☆★
原題はBlack Monday。フランスで映画化されることになり、ジャンプリゾが本書に基づいて書いたシナリオが『ウサギは野を駆ける』(ホケミス)。その映画(ルネ・クレマン監督)の邦題が『狼は天使の匂い』。その邦題を本書は踏襲しているという映画化に伴う複雑な事情は、原寮の解説に詳しい。原作とシナリオがポケミスに収められるという希有の例ではないだろうか。『ウサキ〜』は未読だが、本書のシナリオ化を担当したジャンブリゾの困惑は想像に難くない。最後に豪邸襲撃のシーンがあるものの、舞台はほとんど一軒家を出ることはなく、全体として極めて動きに乏しい。まるで演劇でもみているようである。といって、本書がスリルを欠いているかというと、そうではない。
兄を殺した罪でフィラデルフィアに逃亡した青年ハートは、ある事件をきっかけにプロ犯罪者の住む一軒家に拉致され、強盗計画の一員として参加することになる。決戦は13日の金曜日。巻頭からケンカに強いところも見せ、気の利いたへらず口も叩いて、タフな外観のハートだが、筋が進行するに連れて、ナイーヴな若者であることが明らかにされていく。一味から放逐されれば殺人犯として警察の手が及ぶのは必定。ハートに残された手段は、己がプロフェッショナルな悪党であることを示し、冷徹なリーダー、チャーリーに気に入られ、一味に加わり続けることだけ。物語を話し続けなければ殺される運命にあるシェラザードの如く、ハートはタフな外観を装い続けなければならない。その意味で本書は、極めて変わったタイプのサバイバル小説なのだ。一度の過ちが命取りになる。キャデラックのような尻をもつ一味の大女の愛も受け入れなければならないような悲喜劇も生まれる。さりげない会話や描写で、緊張を持続させ続ける作者の力量は特筆もの。終わり近くになって、本書は晴天の霹靂のように恋愛小説に変貌するが、結末を読んだ読者の胸にはマンドリンの調べが響くであろう。固茹で
卵にキャビアが入っていたような後味。
9月13日(土) 『孤独な場所で』
・暴風と豪雨の中、予約してしまった勢いで、母親とサイ君の3人して、手稲山中のレストランへ。野菜がメインのフレンチだが、前に行ったときよりおいしくなったと味盲夫婦は語る。
・『孤独な場所で』 ドロシイ・B・ヒューズ(03.6('47)/ポケミス)
同名のボギー映画('50)の原作。ハリウッド周辺で頻発する連続女性絞殺事件。主人公は、この絞殺魔。しかし、サイコキラー物というわけではなく、主人公の不安と孤独に筆が費やされ、犯行の場面は極めて抑制した書き方がなされている。主人公ディックスは東海岸出身の戦争帰りの若者。名門ブリンストン大学を卒業しているが、吝嗇な伯父のせいで苦学せざるを得ず、金持ちの子弟にうまく取り入り甘い汁を術を知った。戦争中の彼はヒーローだったが、帰還後は、小説を書くと称し、金持ちの友人から借りたアパートでのらくろとした生活している。ハンサムで人当たりはいいが、徹底的な利己主義者像は、レヴィン『死の接吻』(53)の主人公を思わせる。知り合いのいない西海岸で旧交を暖めたのはかつての戦友だったが、皮肉なことに今は絞殺事件を捜査する刑事になっている。ディックスはゲーム感覚で、旧友との交際を続け、旧友の妻にも関心を寄せるが…。追う者と追われる者の駆け引きが主題になりそうだが、奇妙なことに、物語の焦点は、途中からディックス住むアパートの住人であるハリウッドの女優との恋愛に移行してゆく。激しい恋情が巻き起こす有頂天と失意の日々。性格
破綻者を主人公にしながら、その行く末に関心を寄せられるのも、主人公の歓喜と絶望に真実が含まれているからだろう。結末はややあっけないが、登場人物を最小限に絞り、緊密なサスペンスを産み出す筆致はさすが。リーダビリティも高い。
余談だが、主人公が書いていると称する小説は、探偵小説。チャンドラー、ハメット、ガードナーから少しずつアイデアを盗み、クイーンとカーの手法も拝借したものだという。そんな小説があったら読んでみたい。
9月12日(金) 『リトル・シーザー』
・前回分、なんか変なところで改行されて一部で大いに受けたようで、修正しときました。
・やよいさんから、「三つ数えろ」に関して、メールを戴きましたので、引用させていただきます。
日記の「三つ数えろ」に関連してですが、こんなエピソードもあります。 映画の一般公開後、主演のハンフリー・ボガードがヨットに乗っていると、近くにいたヨットの上のふたりの男が彼を認め、船を近づけてきた。そのうちの一人が、彼に「おい、あの運転手はどうなっちまったんだい?」と問いかけた。(御存知だと思いますが冒頭に登場する運転手はそのまま二度と姿を現わさないのです)それに対するボギーの答え。「おれにわかるものか」
混乱だらけの映画ではありますが、私のお気に入りの一つです。そしてそのパロディの「四つ数えろ」も。
ありがとうこざいました。ボギーも自棄か(笑) 『四つ数えろ』は観てないのでした。
・『リトル・シーザー』 W・R・バーネット(03.7('29)/小学館) ☆☆☆
著者のデヴュー作となった本書が書かれた当時のシカゴの雰囲気や、著者の文学的野心は、刊行後30年を経て書かれた著者序によく著されている。カポネが王様で、道徳的腐敗は至るところにはびこっている。街中でギャングたちが撃ち合いをやっていた。ギャングたちの世界の取材を重ね、書き方を模索する中で、対象のうまい扱い方(これを著者は、ハリウッド流に「ギミック」と呼んでいる)について天啓を受ける。「一人のギャングの眼を通して語られる世界の物語」。紋切り型の感情等を廃し、口語体の俗語を採用し、形容詞に宣戦布告する。説明的な描写も放棄し、客観描写と台詞だけで通す。行動がすべてを雄弁に物語るような物語。かくして、本書は古典となった。のだが、今の眼から観ると、描写は客観的かもしれないが、語り口は必ずしもハードボイルドに徹底していない点も眼につく。クラブ襲撃の一味のうち最年少のトニーが神父に出逢う場面や葬儀のシーン、一の子分オテロとその情婦、一味からの足抜けを志すジョーとその愛人の描き方等等、場面の選択と台詞の進行に紋切り型の感情−「泣き」が顔をのぞかせてしまう、というか。襲撃、仲間割れ、襲名披露、主人公を眼の
敵とするアイルラント系警部、イタリア系移民社会、栄光と悲惨・・といったストーリーを構成する各要素に既視感がつきまとってしまう。無論、これは、後年の映画等で引用されつくされた古典としての地位を物語るものであろうけれど。そんな中で、マキャベリズムのみにつき動かされているような、壁に穿たれた空虚な穴のような主人公リコの肖像はいまだにインパクトをもっていると思う。
9月11日(木) めでたい便り
・パラサイト・関、5か月ぶりに更新(9月17日付け)。なんと、近々女児誕生とか。第一子の誕生に喜びもひとしおに違いない。サイ君が、関さんが女の子の親でいいのか、といっておりましたが。
・この日は、羽幌に出張。夏の賑わいが去った日本海の町は、何かしみじみとしたものがありました。
・二階堂黎人編『密室殺人大百科』(上・下)文庫化。文庫でみると分厚いのが際だつ。ロバート・エイデイー「密室ミステリ概論」(森英俊訳)以降の翻訳データが追加されている由。下巻の解説(横井司)で、本編収録の「日本の密室ミステリ」同様、当サイトに触れていただき、ありがとうこざいました。最近、リスト更新をさぼっているので、ジクジたるものがありますが。
・既に旧聞に属するが、7月に小学館から出た、W・R・バーネット(『リトル・シーザー』は、ギャング映画の古典といわれる『犯罪王リコ』の原作。ポケミス名画座でも、『犯罪王リコ』(菊地光訳)が近刊としてラインナップされているから、またしても、小学館、バッティング。ついてないというかなんというか。せっかく今まで陽の当たらなかった古典が訳されるのだから、こうした事故は避けてほしい。
古典ミステリ翻訳コミッショナー制度を設けて、事前に「アレはソコから出るから、君のところのアレはコレに差し替え!」と調整するとかね。コミッショナーの横暴で、嫌がる出版社に翻訳を押しつけたり。 まあ、本書の場合は、小鷹信光vs菊地光という翻訳対決の興味があるかもしれないが。と、前振りだけになってしまった。
9月10日(水) 海辺の町へ
・もう一回、『非情な裁き』関連で。
本書はロス・アンジェルスを舞台にした小説だが、事件の容疑者を追って主人公の私立探偵クライヴが海辺の小さな町を訪れる場面がある。このシーンはタフな語り口で統一された全体の調子とやや違って、少々ノスタルジックな感傷が混じっているに思える。この町は、クライヴの育った町だからだ。町の名はヴェニス。
「いまの浜辺には強い石油臭がただよい、きれいな海水の下に汚水が混じっている。むかし、ここには砂浜と、日にさらされた住宅と、海を渡ってくる潮風しかなかった。いまは、犬の死骸にたかるハエのように、油井やぐらが林立している」(浅倉久志役) かつてこの町は「太平洋のヴェニス」として売り出された町で、あちこちに運河が通じていた。少年の日のクライヴは一日中運河で遊んだものだと回想する。今は、運河の水は石油真っ黒に汚れている。後半再びこの町を訪れたクライヴは、砂の上の黒いしみに少年の日の自分と今の自分を二重写しにしてみたりする。
このヴェニスという町について昔読んだことがあるような気がして、ブラットベリの小説『死ぬときはひとりぼっち』('85)を引っ張り出してみる。ストーリーは忘れ果て、廃墟とさびれた海辺の町の印象だけが強く残っている。
やはり、町の名はヴェニス、だった。ブラッドベリが初めて書いたハードボイルド小説ゆえ、献辞は、「チャンドラー、ハメット、ケイン、ロス・マグドナルドの思い出」に捧げられているほか、「惜しみてもなお余りある わが友、わが恩師、 リー・ブラケットと エドモンド・ハミルトン」に捧げられていた。
ブラケットとブラッドベリの交遊は、『非情な裁き』に寄せられたブラッドベリの心のこもった序文「B&B」に詳しいが、読み返してみるとなんのことはない、ブラットベリもブラケット&ハミルトン夫婦も、1945年からすぐ後、この砂漠に並び立つ油井やぐらに取り囲まれたヴェニスに、ごく数ブロック離れて住んでいたと書かれている。
1949年ヴェニスを舞台にした『死ぬときはひとりぼっち』は、ブラケットの死(78年)後、10年ぶりの書き下ろしとして書かれたもの。街の運河に浮かぶ動物園のライオンの檻の中の死体、次々住人を襲う謎の死と失踪、崩壊寸前の海上公園・・(本袖より)。刊行当時なぜブラットベリがハードボイルドを?という風に思ったのだが、駆け出しの頃から書いてみたかった、という理由のほかに、ブラケットと彼女の作品のことも、念頭を離れなかったに違いないと思われる。訳者(小笠原豊樹)のあとがきによれば、「日本の観光客にもよく知られた「ヴェニス・ビーチ」のファッショナブルな賑わい」と86年当時のヴェニスの賑わいが書かれている。この海辺の町は今はどんな姿を見せているのだろうか。
9月9日(火) 『三つ数えろ』
・それにしても、なんとなく聞いたことのあるSF作家、程度の認識しかなかったが、『非情の裁き』の訳者(浅倉久志)あとがきを読んで、リイ・ブラケットという人の活動の多彩さには恐れ入った。SF/ファンタジーの分野での1940年代の最も影響力のある女性作家の一人、ブラットベリの「師匠」、エドモンド・ハミルトンの奥さん、ハワード・ホークス監督映画「三つ数えろ」の共同脚本家(共同脚本家にフォークナー等)、その他ホークス映画「リオ・ブラボー」などの脚本、ロバート・アルトマン監督の「ロング・グッドバイ」や「スターウォーズ/帝国の逆襲」の脚本、ノワール作家、西部小説作家…。
ハワード・ホークスが『大いなる眠り』の映画化である『三つ数えろ』を準備中に『非情の裁き』を読んでいたく気に入り、「ブラケットというやつを呼べ」と脚本家として招聘、目の前に現れた作家がまだ二十代の小柄な女性だったので、ひっくり返ったというエピソードはなんとも楽しい。
『監督ハワード・ホークス[映画]を語る』(H・ホークス、J・マグブライド/青土社)という本を繙いてみると、残念ながらブラケットについての言及はそれほどない。彼女と一緒に仕事をしてどうだったかを聞かれて、
「彼女は男みたいに書く。それにうまい」
初めて彼女の作品を読んだときに、名前から男の作家だと思ったのは本当ですかと聞かれて、
「そうだ。私は彼女をエイジェントを通して雇ったのだが、男を雇ったと思っていた」と答えている。
『三つ数えろ』にまつわる別なエピソードも面白い。脚本は、8日間で仕上がったらしいのだが、シナリオ・ライターのフォークナー、ブラケット等は「意味の分からないところがたくさんある」とホークスに進言する。監督は「それでいい」といいつつ、原作者チャンドラーに電報を送り、この物語でなにが起こっているのか、誰が犯人なのかを尋ねる。チャンドラーの返答に、監督は、彼は犯人ではありえないと反論。折り返しチャンドラーから電報がきて、「私にも分からない」
だが、この原作者からの脱力の返事は、映画に一種の革命をもたらした。
ホークスは、「映画をつくっていて、物語を説明するのはやめよう、と決めたのは初めてだった。良いシーンだけを撮ろうとしたのだ」
こうして、何度見ても犯人が誰かよく分からない過激な実験作が出来上がったのだ。
9月8日(月) 『非情の裁き』
『非情の裁き』 リイ・ブラケット(03.8('44)/扶桑社ミステリー文庫) ☆☆☆☆
帯で紹介される諸家の賛辞が決して過褒でないと思わせる優れたハードボイルド。女流でここまで、チャンドラーのエッセンスを取り込んだ作家がいたのかという新鮮な驚きをもたらしてくれる。いや、女流云々を抜きにしても、非の打ち所のない「正統」ハードボイルド作品であって、いままで翻訳されていなかったという「大いなる眠り」からの目覚めを言祝ぎたい。LAの私立探偵エド・クライヴは、恋人で何者かの影に怯えるクラプの歌手ローレルの警護に当たるが、彼女は殺害され、容疑はかつて彼を裏切った旧友の富豪にふりかかる。エドは葛藤しつつも、孤独な真犯人探しの戦いに乗り出していく…。タフな主人公、退廃の匂いをさせる富豪と美しいその妻、イカレた家族、過去を持つ女、悪党と一癖ある警部補…お定まりともいえる布陣をいきいきと描き出し、印象的な場面を次々と積み重ねていく手並みは鮮やか。プロットはよく練られ、残酷で美しい幕切れも申し分なし。登場人物の台詞や行動、筋の展開等のなにげない部分にも読者の意表をつくようなところがあって、このちょっとした仕掛けの数々が小説をより豊かなものにするのに貢献している。
9月7日(日) 『テンプラー家の惨劇』
・『テンプラー家の惨劇』 ハリントン・へクスト(03.5('23)/国書刊行会)☆☆☆★
本書に関しては、何をいってもネタばらしになりそうだ。評価の方も、バーザン&テイラーの「類例のない傑作」という激賞と、ジュリアン・シモンズの「二○年代当時の最もバカバカしい産物」という酷評の真っ二つに分かれているらしい。自分の感想は、前者に近い。これで欠陥部分がきちんとしていれば…。テンプラー家が一同に会したイースター祭における祈りのシーンから幕を開ける一族皆殺し。あらかじめ仕組まれたプログラミングが実行されるように、一族の悲劇が粛々と進行していく。事件には、殺人者の意思が介在しているにもかかわらず、一族が殲滅されていく過程は、運命としか名付けようのないもので、この運命の苛酷さに対する残された者の恐怖が類をみないほどの迫力で迫ってくる。登場人物の長い台詞廻し、信教や倫理をめぐる態度は、この時代にしても古めかしいものだったと思われるが、作品に、重厚かつ荘厳な調べを響かせるのに欠かせない要素になっている。一族殲滅のおののきが、第一次大戦後の急激な経済や社会意識の変化による貴族階級の衰退という現実に重ね合わされているところも、見逃せない。とまれ、本書の読みどころも(欠陥も)真田啓介解説に言い
尽くされているような気がいたします。
9月6日(土) 『スモールボーン氏は不在』
・『スモールボーン氏は不在』 マイケル・ギルバート(03.9('50))☆☆☆☆
サンデータイムズのベスト99に挙げられていた作品で待望の邦訳。クライム・ノヴェルの要素が入っているのかとなんとなく思っていただけに、端正な本格物の秀作だったので驚いた。ロンドンの法律事務所の書類金庫の中から、行方不明になっていた共同管財人スモールボーン氏の遺体が発見。誰がなんの目的で、死体をこんなところに隠したのか。英国ミステリの一つのパターンともいえる、小集団の中での事件のもたらす波紋と混乱を描いて屈指の出来。作者が法曹という部分社会を知悉していることもさることながら、経営者、弁護士、秘書達個性に富んだ群像をさりげないユーモアでくるんで描き出すタッチの見事さが、この法律事務所という特異な場所を舞台にしたミステリの成功の秘訣となっている。いずこも同じ人間関係の軋轢や、めまぐるしく局面が変化する捜査の進展をつるつると読まされているうちに、結末に至って、作者のたくらみが、なにげない会話や描写、捜査上の袋小路といった、そこここに仕込まれていたのに気づかされる。派手さはないが、警部・新米弁護士による多元捜査と事件の進展が巧妙にクロスする表のプロットに加えて、それを裏打ちする布地の精巧なつくり
。まさに英国高級紳士服の如き触感。素人探偵に携わることになる超不眠症の新米弁護士も魅力的だ。
9月5日(金) 『魔法人形』
『魔法人形』 マックス・アフォード('37(03.8)/国書刊行会) ☆☆☆
来たーっ。「オーストラリアのカー」の初翻訳長編。悪魔学研究家の教授の屋敷で不気味な人形の予告どおり続発する殺人。オカルト趣味の横溢した道具立ては、申し分なし。アルテの『第四の扉』が日本の新本格を思わせるところがあったように、この作もなんとなく新本格を思わせるものがある。英米本格にみられる様々な趣向の拡大・徹底、先行作へのオマージュ、人物へ無関心、記号としての名探偵…。徹底して、黄金期本格をなぞっているにもかかわらず、本家と違う肌触り。まあ、これは、先進国文化を移入したものという先入観ゆえなのかもしれないが。全体に重厚感が乏しい印象を受ける理由の一つには、犯人側の計略のずさんさにもあって、犯行は偶然にたよりすぎているし、行動も一貫していない。ブラックバーン氏の謎解きがなくても、いずれ犯人は絞首台に登ることになってしまったのではないか。解明部分で光るのは、「人形はなぜ殺される」の部分。ここを強く押し出していれば、印象もかなり変わったかもしれない。本編も一部不可能犯罪を扱っているが、エイディ−氏が最もできのいいという密室物The
Dead Are Blindも是非読んでみたいものだ。
9月4日(木) 『子どもの王様』
・マックス・アフォード『魔法人形』(国書刊行会)、マイケル・ギルバート『スモールボーン氏は不在』(小学館)、リイ・ブラケット『非情の裁き』(扶桑社文庫)購入。一週間くらい、引きこもって溜まった本を読みたし。
・『子どもの王様』 殊能将之(03.7/講談社) ☆☆☆
「氏のミステリーシーンでの神出鬼没ぶりは、誰にも叩けないモグラ叩きを彷彿させる」とは、著者紹介における編集者氏?のコメント。紹介の枠をはみ出したヒット評語だと思うが、よく考えると多少おかしい。「彷彿させる」とは「よく似ている/ありありと思い出す」だから、「誰にも叩けないモグラ叩き」が我々にはどんなものかよくわからない以上、よく似ているとか、ありありと思い出させるといった感想は持ちようがないはずだ。ところで、存在しないものを「彷彿させる」という一見矛盾した試みは、この小説のなかで、主人公ショウタの日常をリアルにするために重要な手続きになっている。ディック晩年のインタヴュ−を思わせるようなトモヤの団地の「外」に対する空想、TVの神聖騎士バルジファルの物語、東の魔女と西の魔女・・。存在しないものを彷彿とさせる―簡単にフィクションと言い換えてもいいのたが―これらのフィクションの系、いずれもが、ショウタが団地の少年であること/子ども向けの小説の主人公であることを強化していく。というより、これらのフィクションの系は物語に奉仕しすぎているきらいもあって、実際のところ、この小説は、現代的スパイスを効
かせて、友情、勇気、家族の絆、別れ、少年の成長等等を描いた、至極立派な 児童文学にしか見えない。まっとうすぎて、不安になるくらいに。おそらく本書が立派な児童文学程度にしかならなかったのは、書かれるへきフィクションの系が抜け落ちているからだ。真の主人公「子どもの王様」は、王様なのだからその領土、王国があるはずだ。物語は王様の「王国」を「彷彿」させてはくれなかった。空想が物語を強化しても、物語が空想を強化することはなかった。そこが不満だ。
9月3日(水) 西条八十児童小説リスト・単行本リスト
・すっかり遅くなってしまったが、掲示板で、シンシンさんから掲載いただいた西条八十児童小説リスト・単行本リストを「少年探偵小説の部屋」コーナーに仮アップ。(「少年探偵小説」というカテゴリーからははみ出す部分が多いかもしれないが)リストを一読するだけで大変な労作であり、貴重なものであることがわかると思う。掲載をお許しいただいたシンシンさんありがとうございます。
・西条八十といっても、詩人・作詞家・少女小説の作者といったくらいの認識のない者(私のような)者にとっても、リストに付されたシンシンさんの注釈は大変楽しい。注7では、戦前、西条八十がいかに少女たちの間で偉大な存在であったかわかるし、少女の紅涙を絞った作風が晩年過激に変化して、少女戦隊物のハシリまで書いていた?という驚愕事実も明らかにされる。折しも、掲示板にて安達さんより「人喰いバラ』復刊の報。これは当たっみなければなるまい。
9月2日(火) 『夜の皇帝/深夜の魔王』
・沼崎文雅さん@神月堂から、高木彬光『夜の皇帝/深夜の魔王』(復刻版)をいただいてしまった。昨年の『骸骨島』に続く、単行本未収録の神津恭介物少年探偵小説の復刻版。昨年と同じく本屋で販売していてもおかしくない装幀に、麗しき帯もついている。本を開いて、またびっくり。帯の別バージョンが3種もついているではないか。4種の帯をもつ本が果たしてこの世にあったであらうか。TPOに合わせて着せ替えができることを考えると、やはり、これは帯というより腰巻きと呼びたい。趣向を凝らした腰巻き4枚をもつとは、幸せな本である。その腰巻きの文面からも、本づくりの苦労と喜びが伝わってくる。復刻までの苦労は、困難なテキストの入手から始まって、想像に難くないが、苦労も遊び心で乗りきってしまうパワーに敬礼である。(帯4種というのは、関係者用らしいのだが、なんの協力もしていないのにいただいてしまって、すみません。。)
内容の方は、長編二編とあって、ボリュームたっぷり。「夜の皇帝」(「冒険王」昭和31.9〜32.6)は、毎月の連載の最後が、話の展開に応じた推理クイズになっているというユニークな構成の長編。皇帝のみならず、夜の皇后なる女傑も出てきて、ロマノフ王朝の宝冠のありかをめぐる争奪戦が繰り広げられる。「深夜の魔王」(「中学一年コース」昭和34.4〜35.3)は、こちらも、インドの秘宝をめぐって怪事件が続発。神津恭介と怪人の丁々発止の知恵比べが展開するが、冒頭の奇怪なインド人の跳梁、チャンドラー・ボースを思わせるチャンドール博士にまつわる秘話、インド大魔術団までインドづくしが色どりを添えている。巻末には、あの北の大地の朱礼門おげまる氏の、懇切で楽しい−しかも謎解きつき−の解説つき。
興味のある向きは、「神月堂」別館に当たられよ。
8月27日(木) 『あたまの漂流』
『あたまの漂流』中野美代子(岩波書店/03.6)
最近、どうされているのかと思っていたが、著者の変わらぬ御健在ぶりを本書で窺えて何より。中野先生には、大学の教養の中国文学の講義を受けたことがある。というよりも、当時できたばかりの推理研の顧問をお願いしていた。もっとも、顧問というのも、ほとんど名義上の話だけだったが、一度、メンバーと居酒屋で歓談させていただいたのは、良き思い出となっている。当時は、まだ助教授であられたか。万巻の書を渉猟して、驚異という果実を持ち帰る書き手として、仏文の澁澤、独文の種村に並べて、中文の中野、と勝手に呼んでいたりしたものだ。中国文学の試験で夢野久作の話を書いて、パスさせてもらったこともある。(可だったが)略歴によれば、96年に大学を退官されているらしい。
本書は、朝日新聞社のPR誌『一冊の本』に連載された肩の凝らない長編エッセイだが、その書物の渉猟の広さ深さ、博覧強記ぶりには改めて驚嘆させられる。久生十蘭の短編「藤九郎の島」から筆を起こし、『ロビンソン・クルーソー』とその基になった史実、大航海時代の記録によくみられる孤島への置き去り(マルーン)のモチーフ、18世紀パリに連れて行かれた中国人、12世紀アラビアの孤島哲学小説、シュヴァルの理想宮等のアウトサイダーアート、清朝の壮麗な西洋建築、間宮海峡を発見したラ・ペールの航海、20世紀末に発見されたという中世の中国旅行記の偽書騒動・・話題は汲めどつきぬ泉のように沸き出す。地理的にも、伊豆諸島、南米の群島、南太平洋の島々、南シナ海、タタールの砂漠、アフガニスタン、チベット、タクラマカンの砂漠・・書物と実際の旅の経験が織り交ぜられながら異境の地への憧れを誘う。時空を越えた著者の「漂流」につき合うことの心地よさ。
一見すると、途方もない好奇心の赴くままに綴られたような本書だが、一貫して流れているモチーフがあるのは見逃せない。航海、民族誌(エスノロジー)、植民化といった西洋と東洋の干渉・衝突のユニークなケーススタディにもなっているのだ。とりわけ著者が関心を抱くのは、西洋が東洋に寄せるまなざし−エキゾティズムであり、豊富な引例をもって吟味され、時に解体されるエキゾティズムの諸相は、著者の独擅場ともいえるものだろう。これまで、時局的な発言を避けてきたという著者が、連載中に起きた同時多発テロ事件やイラク戦争に触発され、歴史的な観点から、この現代の西洋・東洋の相克について発言しているのも、漂流という自由なスタイルなればこそか。「次なる漂流の旅のしたくをしよう」と書かれている著者の漂流が末永く続かれんことを。