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2017年7月16日

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またまた一か月以上間を空けてしまいました。おかげでかなり長文になっちゃったのもありますし、細かいネタは最後に一気にまとめてます。

◆今週の記事

◆カタールは落ちぬ?

 「カタール」という国について、実のところ僕は名前しか知らなかったと言っていい。せいぜいペルシャ湾のあたりにある産油国だよなぁ、という程度の知識ということでは日本人の平均値ということになろう。ちょっと調べてみるとその首都が「ドーハ」であると聞けば、日本人の多くは「ドーハの悲劇」を思い出すだろう。これはサッカーW杯アメリカ大会のアジア予選、日本対イラク戦で、日本が勝利目前のロスタイム中に同点に追いつかれてW杯出場を逃した「悲劇」ということなのだが、このカタールで2022年のサッカーW杯を開くことになっていたりするんだよな。

 そんなカタールが、先日にわかに世界の注目を集めた。サウジアラビア、エジプト、バーレーン、アラブ首長国連邦、イエメン、モルディブ、モーリタニアといったアラブ諸国がいきなりカタールに対して「断交」、つまり国交断絶を通告したからである。国交断絶というと、ほぼ戦争状態と同じようにも思うのだが、とりあえず宣戦布告はしてない。ただ国交自体は途絶するため貿易や人の往来は行われなくなってしまう。このためカタールこれまでは陸続きの隣国サウジから輸入していた食料など生活必需品に事欠く事態、ほとんど「兵糧攻め」状態となり、一時はちょっとしたパニックにもなったらしい。カタールとサウジ両国を行き来してる遊牧民ベドウィンがカタールに帰れず国境で足止めを食ってしまい、2万頭ものラクダが国境で待ちぼうけ状態になって一部は死んでしまい、ようやく交渉の末に国境通過が認められた――なんて、いかにもこの地方らしい話もあった。

 陸路はサウジから遮断、海路はバーレーンやアラブ首長国連邦から遮断、という徹底した経済封鎖で、「まるで冷戦初期のベルリン封鎖だな」と僕は思ったものだが、実際にカタールの高官が「ベルリン封鎖よりひどい」と発言していた。1948年のベルリン封鎖の時はアメリカなど西側が空輸で生活必需品を西ベルリンに運び込んだわけだが、今回はイランおよびトルコがカタールを支援して生活必需品の空輸を行っている。イランといえばペルシャ人、トルコといえばもちろんトルコ人ということで、同じイスラム圏でもアラブとは微妙な対立関係をもつ両民族の国家がここに登場するのも歴史的に見て面白い。

 それにしてもなんでいきなり「断交」なのか?サウジやエジプトなどの諸国はその理由の筆頭に「カタールが各地のテロ組織を支援しているため」と挙げている、エジプトにおけるs「ムスリム同胞団」、あるいはパレスチナ・ガザ地区の「ハマス」といったものから、ヒズボラ、アルカイダ、ISにいたるまで、さまざまな「テロ組織」の名を挙げてその資金面での支援をカタールがやっている、と主張しているのだ。その真偽のほどは僕にはわからないが、カタールがあらゆる方面に「いい顔」をする、よく言えば「全方位外交」悪く言えば「八方美人」な姿勢をとっていて、その流れでハマスやムスリム同胞団とのつながりがあることは以前から言われてはいたらしい。
 もう一つ、アラブ諸国が挙げているのが「カタールはイランに接近しすぎている」という批判。その「全方位外交」の姿勢でここはイランとも一定の交流をしているが、ペルシャ人国家でありイスラム教シーア派の大国であるイランは、アラブ&スンナ派の盟主サウジにとって宿敵のようなもの。アラブのスンナ派国家であるカタールがイランと仲良くするなんて、「よその組のもんとチャラチャラすんな!」とのたまう親分の気分であろう(「仁義なき戦い頂上作戦」参照)

 報道によると、サウジなどが断交という措置に踏み切った直接のきっかけは、5月末にカタールの報道でカタールのタミム首長(実質的な国王にあたる)がイランに好意的な発言をしたと報じられたことにあった。そのくらいでキレるのもどうかと思うが、カタール政府は首長がそんな発言をしたとは認めておらず、「ロシアのハッカーによる偽ニュース」との見方まで出ている。アメリカ大統領選、フランス大統領選でもちらついたロシアの影だが、仮にそれが事実だとしても、サウジやエジプトがカタールを敵視したのはもっと根の深い事情があって、単にそれだけが原因ってわけでもないようで。

 歴史をさかのぼってみると、カタールというこの地は18世紀にハリーファ家という一族が支配していた。このハリーファ家というのはもともと現在のクウェートにいた一族だそうで、カタールからさらにペルシャ湾内の島バーレーンをも支配するようになり、そのうちにバーレーンの方に拠点を移した。このハリーファ家が現在のバーレーン王族だ。そしてこのハリーファ家の支配に対して反旗を翻してカタールの新たな支配者におさまったのが現地豪族の「サーニー家」で、これが現在のカタール首長家だ、言ってみれば戦国時代の下剋上みたいなもので、バーレーンとカタールはその後も何度かやり合うが、結局はイギリスの仲介でそれぞれ別々の国になっていく。
 もっとも第一次大戦まではこの地域はオスマン帝国の支配下にあり、第一次大戦後はイギリスの保護領となって、正式に独立するのは実に1971年のことだ。このときカタールもバーレーンも「アラブ首長国連邦」の一員となる案もあったようだが両国とも石油資源で潤っていて単独でやっていけるということで現在の状態になったのだそうで。

 独立以来のカタールの歴史を眺めると、1972年と1995年にクーデターによる政権奪取が起こっている。どちらも先代の首長の外遊中に息子が無血クーデターを起こして政権を奪うというパターンで、このあたり、やっぱり戦国時代風味(武田信玄の例を思い出す)。実際、こうした「首長」というのは日本の戦国大名みたいなものと理解しちゃっていいようで、日本の武士たちがそうであったように何かと首長家・王家同士でお互いの「格付け」にうるさいところもあるようで、カタールのサーニー家はバーレーンやサウジの首長家・王家から見ればずっと格下という位置づけでもあるらしく、そうした心理も今度のことに影響しているようでもある。
 確認してみたらサウジ・バーレーン・アラブ首長国連邦の三国がカタールと「断交」したのはこれが初めてではなく、2014年にもあった。この時は直前まで吹き荒れた「アラブの春」と呼ばれた各地の民主化運動(それでかえって混乱状態になった国も多いわけだが)にカタールが積極的に関わった、とされたことに原因があった。その詳しい事情は僕も分からないのだが、エジプトでムバラク政権崩壊後に一時政権をになったムスリム同胞団との関わりは確かなようで、今回「断交」にエジプトが加わっている原因ともなっている。
 ではカタールがバリバリのイスラム保守派なのかというとそう単純でもなく、カタール国内にはアメリカ軍の基地もトルコ軍の基地もあるし(この辺はオスマン帝国への回帰のような)「中東のCNN」の異名をとってイラク戦争時にアラブ・イスラム圏側の声を世界に届けた衛星TV局「アルジャジーラ」もカタールにある(首長のポケットマネーで設立されたと言われる)。「アルジャジーラ」のニュースのキャスターたちの放送ぶりを見てると、アラブ側の声を伝えつつもスタイルはかなり欧米的な印象だ。

 断交後、サウジなど各国がカタールに突き付けた「13か条の要求」には、「アルジャジーラの閉鎖」が含まれていた。いろいろ理由はあるようだが、直接的にはサウジの人権問題を取り上げたことがサウジ政府の逆鱗に触れたから、という話も報じられている。それこそまた「アラブの春」を起こされては…という危惧もあるのだろうし、そもそもサウジはこのところイランと激しく対立してそれこそ「断交」しているので、イランにもいい顔しているカタールに我慢がならなかったということか。

 しかしその結果、かえってカタールとイランの結びつきを強めてしまったような…カタールの高官も「降伏はしない」と言っており、兵糧攻めに対しても強気だ。アルジャジーラも、ニュースキャスタ^たちがそろって出演して「報道の自由」を世界に訴える動画を公開している。こういうところは欧米諸国がカタールを支持しそうだ。もっともトランプ米大統領は当初カタール非難に同調していて、もしかしてそれって彼の「CNN嫌い」と重なっていたりするのでは…。
 「兵糧攻め」に関してだがカタールという国、生鮮食料品はともかく資源とカネだけはバッチリある。現在のカタールには200万人ほどが住んでいるが、そのうちカタール国籍を持つ人はなんとおよそ10分の1、残りの9割は出稼ぎ外国人なのだそうで。それだけカタールの富を求めてよそから人が集まってくるわけで、実はエジプトからもかなりの出稼ぎが来ていて、その本国への仕送りがバカにならない額。それもあってカタールはまだまだ余裕の態度ということのようだ。ただ品不足、物価高は避けられないようだが。断交状態が長期化してくるとさすがにいろいろくたびれてくるかもしれない。

 ところでそれほど騒がれてはいないのだが、一方のサウジでは6月末に王太子が突然交代していた。つい先日まで、サウジの太子は現国王の甥であるムハンマド=ビン=ナエフ(57)で、対イラン強硬派だとかいろいろ言われていたのだが突然太子の地位を解かれ、現国王の実の息子であるムハンマド=ビン=サルマン副太子(31)が太子に昇格することになった。まさに「皇太子が交代し」たのである(笑)。元太子は太子の地位だけでなく政府の役職もすべて剥奪されたが、新太子に忠誠を誓って、とりあえず穏便に太子交代は実現した。あまり騒ぎになってないのは少し前から関係者の間では「そうなりそうだ」と言われていたらしいのだな。
 前の太子が指名された時も「サウジの世代交代」がささやかれたが、次は一気に30代。新太子はサウジ近代化の策定を行い、イエメン内戦への介入を指揮するなど実績を積んでるそうだが、いろいろと未知数ではある。
 さっきの「戦国大名」の例えでいうと、こういう交代劇は表面的には穏便でもあとあとしこりを残して大事になったりするんだよなぁ。「イスラム国(IS)]もいよいよ拠点を攻め落とされて崩壊目前と言われているが、まだまだ中東では波乱が起こりそうな気配である。



◆ロイヤルをめぐるバトル

 先日終わった通常国会で、天皇の生前退位を可能とする「特例法」が成立をみた。昨年突然持ち上がって大騒ぎとなった天皇の「生前退位」問題だが、本人の希望ということもあるし、特にそれで誰かが損をするわけでもないということか、法律自体はすんなりと成立をみた。与野党ほとんどの政党が賛成しての可決だったが自由党のみは賛成せず欠席という態度をとった。理由はこの法律があくまで現在の天皇のみ、つまり「今回のケースだけですよ」という「特例法」であったためだ。野党の多く、与党の一部でも特例法ではなく恒久法、ひいては皇室典範の改正の必要が主張されていたが、保守系の人たちの間ではそもそも生前退位自体に否定的な意見が強いくらいだから、折り合いをつけてこんなところ、なのだろう。
 では特例法だから次の天皇がやはり退位を言い出したら「それはなし」となるのかというとそうでもなく、次にそういうことになった時はこの「特例法」が先例となることは一応与党政治家が言及している。ただ、確かにむやみに天皇の自主的意志による退位を認めてしまうと、高齢でもないのに気分で退位してしまう可能性だって出てくるし、そもそも立憲君主制において「天皇の意志」が発動されるのは実のところあまり好ましいものではない。80歳になったら退位するとか、「定年制」を設ける恒久法という手もあるとは思うんだけど、今回のところはこれが落としどころ、ということかな。落としどころと言えば保守系がいやがる「女性宮家」についても先送りしつつも検討対象とするとの文言も民進党の要請で入れていたような。

 さてこの法律により、天皇が生前退位して「上皇」となることが可能になった。実に200年ぶりのことである。退位した場合、皇后は「上皇后」という呼び名になるそうだが、こちらは歴史的前例のない「新語」でとなる。退位および新天皇即位の時期については後日政令で決めることになるが、今のところ最有力視されているのは平成30年=2018年12月31日。翌日の2019年元旦から新元号へ移行ということになりそう。それが一番混乱がなさそうなのだが、宮内庁が年末年始の移行をいやがってるという話もあるし、新元号についても当初の「前年夏頃発表」という話にカレンダー業界が「一年前にしてほしい」と要望するなど、あれこれいろんな声がある。200年ぶりの生前退位、上皇出現といっても実質日本中が初めての体験ということになるんだよな。

 さて、そんな上皇に対して、京都から「退位後はこちらに」という声が上がってきている。「こちらに」と言っても旅行レベルのことではなく一定期間の滞在や腰を据えての「居住」を求めるものだ。明治元年に天皇を東京へと持っていかれた(それもだまし討ちに近いやり方で)京都としては、これを機に「奪回」をはかりたいようである。う〜ん、やっぱり「帰ってきてほしい」という声は根強いのだな。
 初めて知ったのだが、「京都党」なる地域政党があるそうで、今年の2〜3月に「上皇の京都居住」を求める署名運動を行い、6月までに17000筆以上を集めて政府に提出していた。さらに京都市長にも同種の内容の発言があり、7月になって京都府知事も参加する京都各界から集めた懇話会で「上皇の京都滞在、あるいは新天皇即位関連儀式の京都での実施」といった提案がなされている。
 それらの報道で触れられていたが、京都ではこの退位論議が持ち上がる以前の2013年から京都と東京を二つの「首都」ととらえる「双京構想」なんてものまですでに発表しているのだった。う〜ん、やっぱり京都人、千年以上「首都」をやってて「京都」というどう見ても首都の固有名詞までついちゃった町の住人たちだけあって、なんとしても首都の地位の奪還、そのための上皇招聘ということなのか。ネット上では「南北朝時代か?」という声もチラホラ見かけたけど…(笑)。

 ただ京都の人たちの主張にあるように、京都と天皇の結びつきは近代に入っても強かった。明治天皇は東京に移った第一号だが墓は京都にあるし(伏見桃山陵)大正天皇昭和天皇はいずれも東京生まれだったが、即位の礼はわざわざ京都御所に赴いて実施した。ところが現在の天皇になって初めて即位の礼を東京で済ませてしまったのだ。その当時特に大きな議論になってなかったと僕は記憶しているのだが、あとで聞く所では京都の即位儀式関係者(代々やってる人たちがいるんだよね)にはかなりショッキングなことではあったらしい。そのことを思い返すと、今度の生前退位の件も含めて今上天皇は結構近代天皇制度に風穴を開けまくっているのではないか、という気もしてくる。
 今のところ上皇の居住地については現在の東宮御所を「仙洞御所」(上皇の御所。この名称もかなり久々の復活となる)にする予定となっている。京都には江戸時代の本物の仙洞御所の建物もあるんだそうで、京都の人たちはそこへの滞在もしくは居住を望んでいるらしいのだが、いろいろと難しいんじゃないかなぁ。
 そしたら京都だけではない。奈良県知事までが上皇招聘に参戦してしまった(笑)。まぁ、こっちは京都より前から都だったわけで…平城京跡である奈良市、さらにさかのぼって都がおかれていた明日香村まで話はさかのぼってしまうのだろうか。


 別記事にしようかな、とも思ったんだけど、「ロイヤル」な「バトル」ということで強引につなげて以下の話題を。面白い話なんだけど、日本ではほとんど報じられてない気がする。
 先月の話だが、イタリアでステファン=チェルネティック氏(56)なる人物の自宅が警察に踏み込まれ、日本で言うところの「ガサ入れ」というやつで、さまざまな物品が押収された。この人物、イタリア上流階級やらバチカンの幹部、さらにはヨーロッパ各国の王族、スポーツ選手や有名女優などなど、「セレブ」な世界に頻繁に出入りしていて一部ではよく知られていたらしい。その肩書は何かというと…「モンテネグロ・マケドニア・セルビア・アルバニア・ヴォイボニア公(プリンス)」および「コンスタンティヌス大帝の子孫でローマ帝国およびギリシャ皇帝」という凄まじいもの。ご本人の公式サイトがあるのでご確認いただきたい。
 いや、一応現役でそういった位についているということではなく、その継承権利者であると名乗っていたのだが、この凄い肩書を多くのセレブが信じてしまったんだからヨーロッパ人も歴史勉強不足である。僕だってさすがに気づきましたよ、「こんな肩書、あるはずがないよっ!」って。高校レベルの世界史知識でもわかるはずなんだよなぁ。

 そう、このチェルネティック氏、明白な「詐欺師」だったのである。彼は実際にはスロベニアとの国境付近生まれのイタリア人だった。いつから「王族」を名乗り始めたのか分からないのだが、少なくともここ10年ぐらいうまいこと上流階級のイベントに潜り込んで顔を売るようになり、前イタリア大統領から名誉勲章まで授与され、それをいつも誇らしげに胸に飾っていた。これじゃ信じる人が出るのも無理はない話で、世界的モデル・女優のパメラ=アンダーソンはこの男から「ナイト」に叙爵される儀式を受け(ひざまづいて肩に剣を当てるアレね)、バチカンの枢機卿やらテニス選手のジョコヴィッチやら、多くの有名人が彼と一緒に写真に収まり、当人たちは「王族」とお知り合いという箔を自分につけたつもりだったが、実は彼の拍付けと宣伝に大いに利用されていた。しかし失礼ながら女優さんやスポーツ選手は仕方ないとしても、王族とか政治家がダマされちゃダメでしょうが。ちょっと調べればわかることだったんだから(実際、ネット上では早くから指摘はあったらしい)

 チェルネティック氏が主に使った肩書は「モンテネグロ公」だった。地図を見ればわかるようにイタリアのアドリア海を挟んだ「隣国」だ。それでダマされる人が続出してるんだから、イタリア上流階級の人たちも東欧のことはよく知らん、ということなんだろうか。東欧諸国の旧王族というのは結構残っているそうで、ヨーロッパの王族・貴族のサロンにもよく出入りしていると聞くから、そういうものの一つ、くらいに考えていたのかもしれない。
 「モンテネグロ公」あるいは「モンテネグロ王家」というものは歴史上ちゃんと実在している。19世紀まではオスマン帝国支配下で「モンテネグロ公」をやっていた一族がロシアなどヨーロッパの後押しを受けて19世紀末に独立し、「公」から「国王」へとランクアップしたのだ、なおモンテネグロはロシアへの恩義から日露戦争時に義勇軍を派遣して日本と交戦状態になり、その後モンテネグロ自体が消滅してしまったため両国間で戦争終結の手続きをとっておらず、一部に「実は日本とモンテネグロは今も戦争状態」という冗談がささやかれたりしている(笑)。
 そのモンテネグロは第一次世界大戦でオーストリア軍に占領され国王は亡命、戦争はオーストリアの敗北に終わったのだが戦後はセルビアを中心とした「ユーゴスラビア王国」が成立してモンテネグロは独立を失ってしまう。モンテネグロ王家は亡命したまま祖国の復活と王位復帰を図ったが、第二次世界大戦後も国王なしの「ユーゴスラビア連邦」が続き、1990年代以降のユーゴスラビア崩壊の結果、モンテネグロは唯一セルビアにくっつき続けて一時期は「セルビア・モンテネグロ」という長い名前になっていたりもしたが、今は完全分離して100年近くぶりで独立を達成している。なお旧王族についてはモンテネグロ政府は「伝統継承のため」として旧王家当主をトップとする財団をつくり、事実上国費で養う形になっているとのこと。

 もちろんチェルネティック氏はそのモンテネグロ王家とは縁もゆかりもありゃしない。彼の開設したウェブサイトがまだ健在なので見てほしいのだが、そこに掲載されている系図(コンスタンティヌス1世が先祖にいるな)はモンテネグロ王家とはまったくの別物だ。事件後にあるマスコミが当人に電話取材したところ、彼は「モンテネグロには二つの王家があって争っている。あちらの王家が大金をメディアに投じて私を陥れたのだ!」と主張していたとのこと。そう、まだ彼は自分が「本物」だと主張しているんだよね。なんだか敗戦直後に注目された自称南朝子孫の「熊沢天皇」を思わせる言い分である。
 この手の「ロイヤル詐欺師」にたまにあることのようだが、あまりにその役を演じ続けていると当人も本気になってしまう、というケースがある。ずいぶん前に「史点」ネタにした「昭和天皇御落胤詐欺」の御落胤役がまさにそうだったという。このチェルネティック氏もそうかもしれない、と思ったのは、この人への警察の捜査が始まったキッカケが、彼がさる高級ホテルに一週間宿泊して「代金はモンテネグロ政府に請求してくれ」と言い残してトンズラしたことだったという記事を見た時だ。ホテル側は実際にローマにあるモンテネグロ大使館に請求したが、モンテネグロ政府は「そんな奴は知らん」と回答、これが詐欺発覚のキッカケになったらしいのだな。そんなことしたらまさに「足がつく」と普通は分かると思うんだが、やはり本人がその気になっちゃってたんじゃないかと思う次第。
 他の記事では同様の話が「マケドニア政府に請求してくれ」と言ったことになっていて、情報が混乱してるのかあるいは両方とも本当なのかもしれない。報道によると彼はこのように高級ホテルや別荘に泊まったり、上流階級のパーティーに出て美食にふけったりと優雅に生活していたらしいが、おそらく「そういう身分の人だから」ということで誰かが金を払ってやったり黙って泣き寝入りしたりしてたんじゃないかなぁ。

 ま、日本でも「偽有栖川宮事件」ってのが比較的最近ありましたからねぇ。偽皇族が右翼団体の名誉会長にまでなってたもんね(笑)。日本人も皇室のことを良く知らない人が多いから。最近でも「後醍醐天皇=南朝の直系子孫」を名乗って保守業界に絡んでる人もいたりするもんなぁ。歴史の本も書いてる保守論客な人があっさり信じてるのには驚いたものだ。
 ま、振り込め詐欺には腹が立つが、こういう稀有壮大というか、「大ボラ」な詐欺師の話というのは楽しいもんだ(笑)。ご当人、マスコミの電話取材に対して「トランプ大統領からの手紙も持っている」と主張し(これ自体は事実の可能性はある)、「先日のG20で米露大統領の和解に立ち会いたかったのに」とボヤいていたそうで…今後も「王族」として活動を続ける気マンマンだが、この分だと恐らく詐欺容疑で立件される見込みだとのことだ。



◆二つの象徴的訃報

 更新をさぼっている間にイギリスで総選挙があり(前倒しの実施という、イギリス史上でも珍しいケースだった)、当初圧勝が予想されていたメイ首相率いる与党保守党が、フタをあけてみれば過半数割れの惨敗といっていい結果に。前回の「贋作サミット」でもネタにしたようにメイ(May)首相だから6月の選挙はダメだった、なんて現地では実際に言われてるそうで(笑)。当初メイ首相は選挙の圧勝に力を得てEU離脱交渉を有利に進める腹積もりだったが、この結果でかなり苦しい状況に。イギリスのEU離脱の方向自体は変わらないだろうが、一定のブレーキはかかるんじゃないかと。
 一方のフランスでは先の大統領選で勝利したマクロン新大統領率いる中道新党「共和国前進」が総選挙で圧勝、それまでの右派・共和党と左派・社会党の二大政党体制に大きく風穴を開けてしまった。特に社会党の惨敗ぶりは深刻で、「共和国前進」に取って代わられそうな勢い。かつての日本の社会党を見る思いがするなぁ。極右の国民戦線も議席数を伸ばしているが、大統領選の決選まで進んだルペン党首に公金流用の疑惑が持ち上がり、失速しそうな気配もある。もっともマクロンさんも任命した閣僚が直後にスキャンダルで辞任する羽目になったりしてるけどね。
 物事をそう簡単にまとめて論じちゃいけないんだろうなぁ、と自戒しつつやってしまうと、昨年の「ブレグジット」騒ぎ以来のEU解体危機は、今年に入ってずいぶん後退した空気はある。ブレグジットと並ぶ昨年のショックであったアメリカのトランプ大統領出現も、当人のあまりのムチャクチャぶりにかえって反グローバルの勢いに水を差したんじゃないかという気すらしている。トランプさんもEU解体論者でルペン党首やメイ首相を応援していたのだが、かえって逆効果になったりしてないか。

 そんななか、6月16日にヘルムート=コール元ドイツ首相が87歳で死去した。ドイツというと今のメルケル首相もそうだが一人の首相がやたらに長期間在任しているイメージが強いが、特にこのコールさんはきわめつけで、1982年から1998年まで、実に16年間もドイツの首相をつとめていた。コールさんが首相に在任している間の日本の首相を並べてみると、鈴木善幸中曽根康弘竹下登宇野宗佑海部俊樹宮澤喜一細川護熙羽田孜村山富市橋本龍太郎小渕恵三…と実に11人もいたりするのだ(こうして並べるとこちらも物故者も多いなぁ。中曽根さんのバケモノぶりも思い知らされる)。ドイツについては長すぎると思うし、日本については短すぎるとは思うのだけど。
 ヘルムート=コールは1930年にドイツ西部のルートウィヒスハーフェンで生まれた。第二次世界大戦が終わった直後の1946年、つまりまだ16歳の時に「キリスト教民主同盟」に入党してその長い政治家人生を歩みだしている。それから20年後の1969年よりラインラント・プファルツ州首相をつとめ、1973年にキリスト教民主同盟の党首となり、1976年に西ドイツ連邦議会議員、1982年10月に保守中道連立政権の首相に就任した。

 あくまで僕の印象なのだが、コールさんはやたら長い間ドイツの首相だったが、「でっぷりした巨漢」(身長190cm、体重120kg!)という以外これといった印象がなく、あまり強い個性を持つ政治家タイプではなかった気がする。もちろんあれだけの長期政権を維持したんだから政治家として「やり手」であったことは間違いないだろうが、信念や目標に向かって強く邁進するというよりは協調と根回しでうまいことおさめて世渡りしていくという、「調整型政治家」だったような印象が強い(繰り返すが、あくまで印象だ)。そしてそういうタイプだったからこそ、あの歴史的な「ドイツ再統一」を実現できた、とは実際に言われている。
 1989年の秋、東欧各国では次々と革命が起こって社会主義政権が崩壊した。その流れの中で東ドイツでも人々の西側への移動を止められなくなり、命令の行き違いも一因と言われているが、11月に「ベルリンの壁崩壊」という大事件が起こってしまう。西ドイツ首相であったコールさんにとっても寝耳に水の大事件で(ちょうどポーランドを訪問中だった)、その事後処理には追われたろうけど積極的に崩壊に関わったわけでもない。
 ただその後のドイツ再統一、実質的には東ドイツの西ドイツへの併合を実現するに至るまではコールさんの手腕が大きかったことは事実のようだ。そこでも彼のやったことはもっぱら「協調と根回し」である。国内的には東ドイツ吸収で負担が増えると不安視する政界・財界を説得、国外的には「ドイツの再統一と強国化」を懸念する英仏米ソらかつての連合国の首脳たちにドイツが二度の大戦のような真似はもうしないと丁寧に説得して、実現にこぎつけた。特に後者の各国首脳との駆け引きはのちにドイツでドキュメンタリー・ドラマ化されていて、日本でもNHKが「ドイツ統一の舞台裏」と題して放送、僕もそれを見ていたのでよけいにコール=協調と根回しという印象が強い。しかしあのドラマ、コールさん以外の各国首脳役の俳優が全然似てなかったんだよな(笑)。

 1990年のドイツ再統一達成後は、主にフランスと協調してEC(ヨーロッパ共同体)からEU(ヨーロッパ連合)へとヨーロッパ統合を推進、共通通貨ユーロ導入の早期実現にも力があったとされる。だが1998年の総選挙で敗北して首相の座とキリスト教民主同盟党首の地位を去り、直後に闇献金疑惑がかかり、2001年に妻が病気を苦に自殺、2002年に政界引退と、ドイツ統一の立役者にしては寂しい晩年を送ったと評されてしまうのだが(私生活では35歳も年下の女性と再婚して話題を詠んだりしてるけど)、それも一つには彼があまり強烈な個性の政治家ではなく状況に応じた協調タイプだったからではないかと思える。なお、現在のドイツ首相であるメルケルさんはこのコールさんに抜擢されてキリスト教民主同盟の党首を引き継ぎ、やはり長期政権の首相となっていて、「コールの娘」の異名まである。なんだかんだでこれから再評価されそうな政治家という気がする。
 コール元首相の訃報を受けて、EUでは彼をヨーロッパ統合の立役者であるとして初の「EU葬」を行うことに決定、7月1日にフランス東部ストラスブールにある欧州議会において各国首脳列席のもと「EU葬」が執り行われた。その後コール氏の棺はヘリで故郷のルートウィヒスハーフェンに輸送され、現地の大聖堂でミサを行ったのち、埋葬されている。


 さて「史点」執筆がジリジリ遅れるうちに、もう一つ重大な訃報が入って来てしまった。7月13日に中国の民主活動家・劉暁波氏がガンのため61歳で亡くなったのである。
 劉暁波氏は1955年の中国東北部吉林省長春生まれ。彼が生まれたころはもう関係なかったが、ここはかつての「満州国」の首都・新京だった町だ。1955年といえばまさに冷戦の真っ最中で、劉氏の青春期には「文化大革命」の嵐が吹き荒れ、その終息にいたる過程を横目に学者への道を歩んだことになる。やがて劉氏は文学評論家として頭角を現し、1988年に文学博士号をとってコロンビア大など国外の大学の客員研究員となった。翌1989年にアメリカ滞在中に天安門広場に民主化を求める学生たちが集まり始めると(これは当時ソ連のゴルバチョフ訪中に合わせたものだった)、劉氏は周囲の制止も振り切って帰国、北京で民主化を求めるハンストに参加する。しかし6月4日に中国当局が軍を動員して学生デモを鎮圧(第二次天安門事件あるいは六四天安門事件)、このとき劉氏は学生と軍隊双方を説得して少なくともその場での流血事態を回避することに成功したと言われているが、学生たちの「暴乱」の首謀者の一人として逮捕・投獄され、釈放後も当局の監視下に置かれながら中国民主運動家の一人として名を知られるようになっていった。

 時は流れて2008年12月に民主運動家らにより「零八憲章」がネット上で発表される。中国の民主化を求めて一党独裁の放棄、三権分立の徹底、人民解放軍の国軍化(あれはあくまで共産党の軍隊なんだよな)、集会・結社・言論の自由など人権の保障といった内容を含んだもので、主な起草者の一人に劉暁波氏の名が挙げられていた。発表当時、僕も非常に注目した動きだったので一か月ほど遅れて「史点」で取り上げてもいるのだが、当時は僕も劉暁波氏の名は知らなかったのでその名を書いていないのだが、直後に逮捕された劉氏について2010年2月に「国家政権転覆罪」により懲役11年の刑が確定した時は直後の「史点」でその名前に触れていた。この時の「史点」を今読み返すと、下に書くように他国の話だから縁遠いとは言えなくなってくるんだよなぁ…
 そしてその2010年の秋にノーベル平和賞が劉暁波氏に贈られることに決まるのだが、中国政府は当然猛反発、ノルウェー政府に露骨な「報復」をやったし(今回の劉暁波氏の訃報にもノルウェー政府はかなり気を遣った表現をしていた)、劉氏の妻をはじめ支援者たちへの監視もいっそう強化した。このときも僕は「史点」でそれに触れていて、そういう結果が目に見えているし、ともすればノーベル平和賞ってのが欧米進歩派の価値観押しつけの嫌いがあることと合わせて複雑な気分という感想を書いたものだ。
 懲役11年とされたが、結局それまでもたないまま今年の5月に末期の肝臓ガンと判明、仮釈放にはしたが劉氏夫妻が望んだ国外での治療は認められず、結局長くはもつことなく亡くなってしまった。事実上の「獄死」であり、ちょうど習近平国家主席の香港訪問(返還20周年)とかち合ったこともあって世界中の注目を集める形になった。だが中国国内では報道もほとんどされてないようだし、ネットでも「劉暁波」の名前で検索することすら不可能な状態。それでも一部で隠語を使ってゲリラ的な追悼活動が行われてるらしい。
 中国は経済的にも発展して、国際的地位も上昇してるんだが、こういうところはまだまだダメ、というかむしろ統制を強化してる観がある。まぁソ連の例に学ぶと政治的自由を認めていくと体制崩壊につながる、という確信はあるんだろうな。ここらへん、どうソフトランディングしていけばいいものか。


 ひるがえって、日本では6月に終わった通常国会で、最大の焦点とされた「テロ等準備罪」を定める法案が国会を通過、成立した。これに犯罪の実行はなくてもその準備の段階でも罪となる「共謀罪」がふくまれていることから大きな議論になるにはなったのだが、委員会採決なしで本会議に持ち込んじゃうという荒業まで使って(社会の先生としてもそれってアリなのかと驚いた)数で押し切ってしまった。政府は「一般人は無関係」と言ってるが、どういう人が「一般人」なのか定義はないし、「テロ等」のように「等」の字でどうにでも解釈可能な余地を残したことから下手に運用すると無制限に国民の思想統制が可能ではないか、との指摘がある。戦前の「治安維持法」との類似点も指摘されるが、あれだって当時の国会では人権上問題はないかと議論になり、それこそ「一般人は無関係」と政府が言ったりしてるんだよな。その結果が敗戦まで続いた特高警察による思想統制(それも途中から「仕事」を作るためにどんどん罪状をでっちあげていた)だったわけで、本当に気をつけてないと劉暁波氏の運命は明日のわが身かもしれない、と肝に銘じておくべき。
 日本は一応多党制で政権交代も時には起こるが、ともすれば自民党の一党独裁体制に近いともいえ、実はいろいろと共通点は見つかる。先ごろ「森友学園問題」が騒がれて登場人物の一人となった「日本会議の研究」の著者・菅野完氏は、「日本の右傾化」を聞き出そうとする中国マスコミの取材に対して「これは有力政治家のコネで政治が私物化されたものであり、日本の中国化だ」という趣旨を答えて相手を驚かせていたが、ああ、似たようなことを考えてる人はいるんだな、と思ったものだ。そのあとに火を噴いた加計学園問題もそうだし、稲田朋美防衛相が自衛隊を自民党の軍隊みたいに言っちゃったのだって、そういえば「人民解放軍」の発想とソックリだ(そのせいかどうか知らないが、あの産経抄でさえ稲田防衛相をボロクソに批判しだした)。ちょっと前には総務相がマスコミ統制ともとれる脅しをやってたこともあるし。

 ここまでなぜか高い支持率を保ってきた安倍内閣。「安保法制」の強行の直後にも支持・不支持の逆転が起きたのだが、その後じわじわと支持率が上昇して、どんなスキャンダルや失言が起こっても支持率が下がらないというあまり前例のない情勢が続いていて、森友問題の時にちょこっと下がりだしたのだが、この6月末から7月にかけてまた支持・不支持がひっくり返り、しばらくしても支持率下落が続いてるので、もしや潮目が変わったか?と思わせる状況になっている。
 ちょうど都議選があり、加計学園問題、稲田発言、下村博文(これも安倍さん側近)の疑惑、といろいろ重なったが、世間一般では豊田真由美衆院議員の「コノハゲー」のインパクトが大きくて自民党惨敗という結果が出た。この豊田委員は側近でこそないけど安倍さんと同じ細田派(清話会)に属していて、「神道政治連盟」だの「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」だのに名を連ねていた。文部科学政務官もつとめて道徳教育をふくめた「公共」科目をつくる提言にも参加していて、道徳教育を勧めたがる人に道徳的に疑問のある人が多い、という実例をまたみることになってしまった(笑)。都議選について言えば「どこでも与党」の公明党が自民党に協力しなかったことも注目点で、自民党って逆風状態のときはますます公明と縁が切れない、という実態を改めて見せつけることにもなった。これ、今後いろいろと響いてくる気がするんだよな。
 とまぁ、最後は脱線気味ではあるが、劉暁波氏の訃報を「あっちの国の話だから」と他人事に考えないこと。日本国憲法にもあるように人権は「不断の努力」をしてないと保持できないものなんだから。安倍さんはその憲法改正にいよいよ取り掛かる気のようだけど。



◆一か月間の小ネタ詰め合わせ

 ではまた例によって、この間に集まった小ネタを一挙羅列。

◆人類史、くつがえされる!?

 今や世界中に広がっている現生人類、ホモ=サピエンスがもともとアフリカで発生したことは今や常識となっている。それ以前のものも含めて東アフリカ方面で古い人類の化石が発見されるので、ホモ=サピエンスも東アフリカで30〜20万年ほど前に発生して、数万年前に「出アフリカ」をして世界に広がった、というのが一応の定説だ。だがこのたび、西北アフリカのモロッコで35万〜30万年前のものと考えられるホモ=サピエンスの化石が確認され、もしかすると常識がくつがえるかも?と言われている。
 これはドイツなどの研究チームが6月に「ネイチャー」で論文を発表したもの。実は化石の発見自体は1960年代の鉱山開発の中であり、青年期1体、青少年期3体、子ども1体の計5体が確認されていた。2004年になってようやく現場の確認発掘が始まり、その結果「35万〜30万年前の遺跡」という判断が出た次第。ホモ=サピエンスの発生予想時期でも早い段階にあたり、もしかして東アフリカよりこっちの方が早いんじゃ…という話にもなってしまう。実際発見された骨はホモ=サピエンスの古い段階の特徴があるというのだが…もっとも当時のアフリカは今とはずいぶん環境もことなり、サハラ砂漠も存在しなかったくらいで、早い段階でホモ=サピエンスはアフリカ大陸全体に広がったかもしれない、という意見も鍾愛されていた。
 今のところ「最古の人類化石」とされるものも東アフリカではなくチャドで出土してしまってるしなぁ…などと思っていたら、この記事を書く直前になって東欧のブルガリアでそれを上回る古さの「人類化石」が見つかって人類史の常識がくつがえるかも…なんて記事を読んでしまった。ま、こっちの方はさすがに疑問視の声が多いみたいなんだけど。

◆宗教改革500周年

 今年、2017年はマルティン=ルターによる「宗教改革」開始から500周年の節目の年だ、という話をネットで見て、「ああ、そういや1517年のことだっけね」と思い当った。
 1517年10月31日、ルターが「95箇条の論題」を発表したことが「宗教改革」の始まりとされている。これは当時カトリック教会が資金稼ぎのために名財部(贖宥状)なる、言ってしまえば「天国行き切符」を大々的に販売していることに疑問を感じたルターが意見提起を行ったものだが、やがてこれはカトリック教会からの破門、新たな宗派「プロテスタント」の創設というおおごとにつながっていくことになったわけ。確かに世界史的に見てこれは大事件と言ってよく、それから約30年後にザビエルが日本くんだりまで布教にやってくる原因ともなっている。この辺、テストによく出るから中学生は覚えておこうね(笑)。
 さてこの500年という記念すべき節目の年ということでルターの故国ドイツではちょっとしたルターブームで、ルターゆかりの地めぐりの旅など盛んであるらしい。こうした「巡礼者」たちへのオミヤゲにと、「ルター人形」なるものが作られ、プロテスタント教会などで販売されているとのこと。シンボルのペンと聖書を手にしたルターくん人形は大好評で、すでに100万体を討っちゃったとか。一般販売はしてないというから当然利益はプロテスタント教会へ。
 …その資金稼ぎに怒ってプロテスタント教会に「論題」を出して新たな宗教改革を起こす人が出てきたりしないだろうか(笑)。


◆板垣退助死すともルイ・ヴィトンは死なず!

 板垣退助と言えば、土佐藩出身の幕末志士の一人で、明治時代に「民選議院設立の建白書」を出して自由民権運動を主導し、日本初の政党・自由党を結成した人物。なんだかんだと議論のある人でもあるが、憲政史上の重要人物ということで黒海議事堂内に銅像も建てられている。晩年のそのヒゲの凄さから紙幣の肖像画にも使われた人物でもある。そういうなんとなくかたっ苦しい印象の人物とフランスの高級ブランド「ルイ・ヴィトン」が意外な縁で結びつく、というのが面白いところ。
 実は知る人ぞ知るの話だったそうで(僕は6月末の毎日新聞記事で知ったが)、板垣は「ルイ・ヴィトンのバッグを最初に買った日本人」の有力候補の一人だったのである。板垣は同じ土佐藩出身の後藤象二郎と共に1882年から1883年にかけてヨーロッパ旅行に出ていて、このとき二人ともルイ・ヴィトンで買い物をしている。板垣はトランクを購入していてそれは今も高知市の自由民権博物館に保管されているのだが、これまでは顧客カードの記録を調べたルイ・ヴィトン・ジャパンの初代社長が著書の中で「後藤が購入日本人第一号」と紹介したため、これが通説とされてきたのだそうだ。しかし数年前に顧客資料の調査で当時日本のフランス公使であった薩摩藩出身の鮫島尚信が後藤・板垣より五年早くルイ・ヴィトンで買い物をしていたことが確認され、今のところ購入日本人第一号は鮫島ということになる。ただし彼が勝った現物は見つかっていない。実は後藤が買ったとされるトランクも確認されていないのだそうだ。
 
 昨年、板垣退助の顕彰会「板垣会」の副理事長がルイ・ヴィトンの記録を照会、その結果、板垣退助がルイ・ヴィトンでトランクを購入したのは1883年1月9日であることが分かった。購入したトランクのシリアルナンバーも記録されていて、これも現存するトランクと同一のものと確認された。一方の後藤象二郎はそれより3週間遅れた1883年1月30日に二つのトランクを購入しているのだが、こちらは前述のように現物が未確認。しかもこの日付より前に後藤はパリを出ていたらしく、こうなると購入事情が少々怪しくなってきてしまう。
 とまぁ、そういうわけで、現物まで確認できる、という条件付きならルイ・ヴィトン購入第一号は板垣退助ということになるということだそうで。

◆「三浦按針」の骨、確認!?

 三浦按針(みうら・あんじん)、とは有名のような有名でないような…知る人ぞ知る、という歴史人物だ。本名をウィリアム=アダムスというイギリス人だ。関ヶ原の戦いの直前、1600年4月に日本にやってきて徳川家康に仕え、三浦の地に領地を与えられ「按針(水先案内人)」という名前までつけてもらい、家康時代の日英交易のために尽力した。むかしアメリカで「将軍」というテレビドラマが大評判となったことがあるが。その主人公のモデルでもある(名前は変えてあったが「按針」を名乗る点は共通)。家康の死後、帰国するつもりもあったようで平戸のイギリス商館に移り住んだが、1620年にその地で世を去っている。
 平戸という、今となっては小さな港町は、後期倭寇の大物・王直、日本布教のザビエル、日中混血の英雄・鄭成功と僕の専門ジャンルに絡んでくる人がやたらいるので二度ほど旅しているのだが、その時に同市の崎方公園の一角にある「三浦按針之墓」なるものも見てきている。なかなか立派な石碑が建てられていて「うゐりあむ・あだむす」とひらがなで書いてあるのが面白いのだが(右図が僕が撮った写真)、これは当然当時のものではなく、1954年になってこさえたもの。なんでもここにアダムスの墓があったらしいという場所ではあり、戦前の1931年に発掘調査が行われて人骨などが出たことはあるそうだが、それを埋め戻したかどうかも記録がはっきりしてないらしい。

 2020年にはアダムス没後400年の節目になるというので、現在の「三浦按針之墓」の下に本当に彼の遺骨があるのか確認しようということになり、6月下旬から7月上旬にかけて発掘調査が行われた。報道によると、この石碑や周囲の石畳を撤去した上で彫ってみたところ、つぼに収められた人骨の破片が出て来たとのこと。もちろん誰の骨だか分かったものではないし、アダムスの子孫や親戚がいるのか知らないがDNA鑑定での特定だって難しそう。ただ戦前にも一度掘って人骨を見つけているわけで、あまり頼りにならない伝承ながら、アダムスの遺骨の可能性はなくもない…というところか。

◆ドクロの塔、発見!

 続いても人骨発見の話なのだが、こちらはグッと物騒。
 7月1日、メキシコの首都・メキシコシティに残るアステカ帝国時代の神殿の近くから、石灰石で固められた人間の頭蓋骨の「塔」が発見された。頭蓋骨の数はおよそ650人分と言われ、アステカ帝国で行われていた「人身御供」、つまりは人間のいけにえとして斬首され石灰石で固めて「塔」状態にされたものと推測されている。
 アステカ帝国を征服したコルテスも、アステカ帝国の建造物などには感心しつつも、この人身御供の儀式を目撃して嫌悪感をあらわにし、彼らを「野蛮」と見なしていた。同じ中米のマヤ文明にも同様の人身御供があったとされ(「アポカリプト」って映画があったなぁ)、人間の命を神々に捧げて世界のエネルギーを維持するというか、そういう発想があったらしい。もっとも人間を「いけにえ」とする習慣は世界中の古代文明に共通してみられるもので、中米文明がすごく特殊だったというわけでもない。
 しかし今度見つかった「ドクロの塔」は、これまでの定説をくつがえす要素が含まれていた。頭蓋骨の中に女性や子供としか思えないものが含まれていたのだ。これまでこうした人身御供の犠牲にされたのは戦争捕虜や奴隷などで、もっぱら若い男性だと考えられていたのだが、女性や子供も対象だったとなると、やっぱり恐ろしい習慣だったのだなぁと思わされる(もちろん他の文明での例でも女性や子供がいけにえにされてるとは思うが)

◆ラーメン史、くつがえされる!?

 今回の小ネタ集では「定説くつがえし」が目につくがな。ま、歴史の世界では定説や通説というのはしばしばひっくり返されるというのも定説でして(笑)。
 日本で最初にラーメンを食ったのは「水戸黄門」こと徳川光圀――というのはちょっと知られたトリビアだが、これは当時明が滅亡して日本に亡命してきた朱舜水が光圀に「ラーメンらしきもの」を伝授、光圀も自分で調理して家臣に食わせたらしい、という話で、そもそもちと頼りない話なのである。この件をもとに水戸市が「日本ラーメン発祥地」みたいなことを言い出すと、朱舜水が最初に日本に来た熊本が「いや、こっちで最初に作ったはず」などと言い出すという「発祥地争い」のようなものまである。どっちにしてもその時光圀が食ったものが今日の日本ラーメンとつながるとはとうてい思えない。
 さて、このたびこの「光圀が日本人初のラーメン喰い」という通説をくつがえすかもしれない、という発見が報じられた。日本そばなどを販売する「イナサワ商会」という会社の社長さんが日本における麺の歴史を調べるうち、『蔭涼軒日録』という室町時代の僧侶の日記記録に目を通したところ、どうも「ラーメン」ではないかと思われる「経帯麺」なるものを調理したとの記述を見つけたのだ。
 この『蔭涼軒日録』なる史料、決して新発見のものというわけではない。京都の相国寺鹿苑院の「蔭涼軒」というところの記録で軒主たちが書き継ぎ、1435〜1466年および1484〜1493年のおよそ40年分が残された。現物は関東大震災で焼失してしまっているそうだが、内容自体は今も目を通すことができる。僕も南北朝マニアとして名前だけは関連書籍で良く見ていて、割とポピュラーな史料という印象を持っていたのだが、これまで「麺」に注目して本文をあさった人がいなかったということなのだろう。

 『蔭涼軒日録』によれば長享2年(1488)に日記の作者・亀泉集証『居家必要事類』なる中国の書物を参考に「経帯麺」を調理し、来客にふるまったとの記述があったという。『居家必要事類』の方をあたってみると、小麦粉とかん水を料として麺を作ったとあり、これは今日の「ラーメン」「中華麺」の定義にあてはまることとなる。スープについては各自随意に、という記述になってたそうで、今回の発見について展示を出した新横浜ラーメン博物館の担当者は「シイタケや昆布でだしをとったものでは」と推測しているそうで。

 では日本人初のラーメン喰いはこの亀泉さん本人か彼にふるまわれた人たちなのか、という話になるのだが、このぶんだと記録がないだけどそれ以前にも調理して食ってみた日本人はいたんじゃないかと思える。だいたい鎌倉時代から室町時代にかけては禅僧が数多く中国に渡り、中国から日本に来る僧も少なくなかったから、ラーメンのようなものも禅宗業界では結構食べていたんじゃなかろうか。
 「イナサワ商会」の社長さんもレシピ通りに「経帯麺」を再現調理してみたそうで、「たおやかでソフト。スープの味が麺にしみこむ」と好意的な感想を述べていた。今のラーメンに比べると柔らかい麺だそうだが、「現在でも十分通用する」とも。
 ところで水戸黄門と言えば、今度は武田鉄矢さんが就任するそうで。あの人だとラーメンというより、「赤いきつねと緑のたぬき」のイメージだよなぁ。

◆「神宿る島」のその後

 前回更新時に、九州北部の「沖ノ島」が世界遺産に登録されそうだ、という話題を書いた。ただしあの時点ではイコモスの勧告では登録は沖ノ島のみで、日本が申請していた宗像大社などの「セット販売」は退けられた形になっていた。ところが先日、結局もとの申請通り、宗像大社も含めて関連文化財が全て「世界遺産」となることとなり、福岡県は「逆転勝利」にわいていた。終わってみれば富士山登録の時の三保の松原と同じパターンだったわけだ。
 だが、別にそれと交換条件だったというわけでもないんだろうが、沖ノ島は今後神職以外は一般人いっさい立ち入り禁止となることが発表された。もともと女人禁制の島だったが、男子でもめったに入れず、日本海海戦の記念日の大祭の時だけ抽選で選ばれた男性たちが禊(みそぎ)をしたうえで上陸できることになっていたのは前回も書いた通り。今後はそれも実施されなくなるそうで、よく言えばますます近寄りがたい「神秘の島」となることになる。
 何度も書いてるが、「世界遺産」も世界中で目ぼしいものはだいたい登録済で、各国で「村おこし」のように行われる世界遺産登録運動は複数の関連地を組み合わせた「セット販売」のパターンが増えている。日本はあと「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」「飛鳥・藤原の宮都とその関連遺産群」という、いかにも「セット販売」な世界遺産候補の登録を目指すこととなる。


2017/7/16の記事

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