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近況メモ(平成20[2008]年5月〜6月)

 

平成20(2008)年〜「初夏の藤棚」から「静謐な増上寺」 

 

5月7日(水)快晴

  さる5月5日は旧暦では卯月(四月)一日、立夏です。小生も夏背広に衣替えして冬物をクリーニングに出しました。連休中は、所用で実家に帰ったくらいで、あとは、冬の間お世話になった袢纏(はんてん)や丹前(たんぜん)を日干ししたり、金魚の水槽を掃除したりと、のんびり過ごしました。きれいに甦った水槽を泳ぐ二匹の金魚は、この水槽で生まれてもう15年ほどになります。写真は、帰省した際に立ち寄った岡崎公園の藤棚です。岡崎城のある公園南側の乙川(おとがわ)堤防添いに1300uの藤棚があり、花房が長く、見事な紫色の花が広がります。小生が立ち寄った時には藤の花は既に盛りを過ぎていましたが、緑の葉と薄紫の花の取り合わせが初夏の日差しに映えていました。

  さて、昨日5月6日は我が夫婦の24回目の結婚記念日でした。たまたま新橋演舞場の歌舞伎公演のチケットをいただいたので、夫婦で観劇に行きました。ただ演目が「東海道四谷怪談」で、あまり結婚記念日にはふさわしくなかったかも知れません。しかしそんなことに頓着無く歌舞伎を楽しめるのが我が夫婦です。(^^; 序幕から大詰めまで通し狂言の形で演じられたこの日の四谷怪談、民谷(たみや)伊右衛門には中村吉右衛門、お岩には中村福助という配役でした。吉右衛門がクールでニヒルな悪役を巧みに造形していました。伊右衛門は、お岩を虐待した上に、若い女と再婚するためにお岩に毒薬を飲ませ、お岩はその美貌が崩れ果て、髪も抜けてすさまじい姿に変じてしまいます。お岩を凄慘な目に遭わせた伊右衛門は、結局、彼女の亡霊に取り憑かれて錯乱したところを敵に討たれてしまいます。その様は、あたかもモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」におけるドン・ジョヴァンニの地獄落ちを思わせるものでした。福助も美貌でつつましやかな女性からおどろおどろしい姿への変容を体当たりで演じていました。お岩が変容する場面に立ち会った按摩(あんま)宅悦を演じた中村歌六の悲しくもコミカルな脇役ぶりも味がありました。


  「東海道四谷怪談」の作者、四世・鶴屋南北については、「陽春花形歌舞伎」を楽しむにも書きましたのでご覧下さい。「東海道四谷怪談」でも、鶴屋南北の筆は冴えに冴えて、忠臣蔵を下敷きにした「あり得な〜い!」ような意外性に富んだストーリー展開、テンポのよい小気味いい会話のやりとり、これでもかこれでもかと出てくる奇怪で残酷な場面は、まさに「奇才」の独壇場です。この複雑な物語を理解するには、やはり江戸時代後期の時代背景や風俗、忠臣蔵の人物群などを理解していないとなかなかついて行けません。そこでこの日も私たちはイヤホンガイドを頼りにしました。特に後半に解説をされた藤野穣さんのガイドは、場面が今の東京のどこだとか、作者が自身の実話を取り入れているだとか、とにかく話題が豊富で、この物語を楽しむのに恰好の名ガイドでした。

 

5月11日(日)雨のち曇り

  先週は、関東地方に地震があり夜中に目が覚めたり、初夏の気候から急に3月下旬の気候に逆戻りしたりと、体調維持に気を配らされました。さて、写真は府中市の大國魂神社の東側で発掘調査されている「武蔵国衙」(古代の武蔵国の役所)の一部が復元されたもので、国衙の朱色の柱を撮影したものです。 国府物語というサイトを運営されている方が、日本全国の国府を訪ねた記録を書いておられます。それによれば、大化改新(645年)以降、中央集権の政治体制確立を目指した大和朝廷は、国造(くにのみやつこ)など地方豪族による統治から、中央官吏の派遣による直轄統治を推進し、国毎に国府を定めました。中央集権化は、壬申の乱(672年)を経て、天武・持統朝に強力に展開され、大宝元(701)年、大宝律令の成立で完成しました。現在でも国府、府中といった地名が各地に残っていますが、武蔵国の府中市、駿河国の静岡市などのように、今でも都市として発展しているところは稀で、多くは小さな町や村にゆかりの地名だけがひっそりと残っています(小生の出身地の三河国の国府も、今では国府(「こう」と読みます)という小さな町です)。古代の武蔵国は、現在の東京都と埼玉県のほぼ全域に川崎市、横浜市の大部分を併せた領土を持つ大国で、その国府所在地が府中市だったのです。こうして色鮮やかな朱柱が復元されると、国衙のイメージが彷彿としてきます。


 

5月18日(日)曇りときどき晴れ

  写真は我が家の二匹の金魚です。この水槽で生まれて15年ほどになる「お年寄り」ですが、二匹とも泳いだり跳ねたりする姿は元気です。これからの季節、涼しげに泳ぐ姿は夏の風物詩ですね。

  さて、去る14日(水)に神田明神の境内で催された薪能を拝見しに出かけました。神田明神は、東京の中心―神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内など―の108町会の総氏神様です。祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと=いわゆる「だいこく様」)、少彦名命(すくなひこなのみこと=いわゆる「えびす様」)、それに平将門の三柱です。神田明神のHPによれば、同社は天平2(730)年に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。それからずっと後、平安時代に関東一円を舞台に大反乱を起こした平将門を葬った将門塚周辺で天変地異が頻発し、それが将門の神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚くその霊を慰め、さらに延慶2(1309)年に神田明神に奉祀したとのことです。同社は、戦国時代には太田道灌ら名立たる武将によって崇敬され、江戸時代にも「江戸総鎮守」として幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬を受けました。関東地方には平将門を祭る神社が多いようです。


  この日の薪能では、狂言「 口真似(くちまね)」、半能「西王母(せいおうぼ)」、能「小鍛冶(こかじ)」が奉納されました。「口真似」は、主人の意図を察しない室町時代のKY従者・太郎冠者が引き起こす愉快なハプニング劇。誰でも笑わずにおれないわかりやすい狂言です。「西王母」は中国を舞台に不老長寿を祈念する祝言の曲。この日は後半だけが演じられ、桃を手に携えた侍女を従えた西王母が光輝く妙なる姿で帝王に桃の実を捧げ優美な舞を舞います。西王母の冠と装束がいとも美しく、舞の型の典雅さとともに目を楽しませてくれました。「小鍛治」も、名剣の奇端や稲荷明神の神徳を讃えた祝言の曲です。金剛流の遠藤勝實さんが颯爽と稲荷明神を演じられ、日頃の疲れが吹っ飛び、気分が爽快になりました。

 

5月29日(木)雨

  先週末は、東京→金沢→京都→豊田→東京と、慌ただしく日本の真ん中を一周しました。金沢では、小生の謡と仕舞の師匠・藪俊彦先生の社中「篁宝会」の50回記念大会を拝見し、京都では、西陣の町家に住まいする遠縁のおばさま一家を訪ね、帰りがけに豊田の実家へ立ち寄った次第です。東京から金沢までは越後湯沢経由で特急「はくたか」、金沢から京都へは北陸線の特急「雷鳥」、京都からは東海道新幹線・名鉄・東海道線等と、車窓からの風景を楽しみたいと思い、すべて鉄道の旅にしました。北陸地方も東海地方もちょうど田植えが済んだ季節で、水を張った水田に稲の小さな苗が整然と植えられている光景が広がっていました。ときおり、白鷺(さぎ)や青鷺が餌を狙ってたたずむ姿や、雉(きじ)が何かを追いかけて畦(あぜ)道をちょこちょこ駆けている姿も見つけました。また、金沢から京都までの車中からは、日本一の生産を誇る福井県の大麦畑も見られます。まさに今が収穫期の大麦畑は黄金色に輝く広大な絨毯のようです。日頃の仕事の中では自然の移りゆきを味わう機会が少ない小生にとっては、気持ちが洗われる景色の数々でした。

  さて、金沢では、藪先生父子が松風・村雨の姉妹を演じた能「松風」を拝見した(その感想をドラマティックな「松風」と題して記しましたのでご覧ください)ほか、お弟子さんたちの演じるお能や仕舞などを時間の許す限り拝見しました。会場の石川県立能楽堂では、九谷焼の陶芸家・谷敷正人さん(谷敷さんについては平成17(2005)年7月23日付「近況メモ」をご覧ください)や、師範格のTさんや、会報「篁宝」にいつも軽妙なエッセイを寄稿されているS・Tさんや、お稽古の日によくお目にかかったKさんや、名古屋でもお世話になったTさんのご主人といった懐かしい方々にお会いしました。

  Tさんは素人ながら既にお能のシテを何回かつとめておられます。今回も、能「葵上」のシテ・六条御息所を演じられました(葵の上や六条御息所については「源氏物語読書メモ(二〇〇五年)」をご参照ください)。シテの六条御息所は、葵の上への怨恨が晴れずに病床に伏せる葵の上を「思ひ知れ」と罵りつつ打ち据えたり、般若の姿となって暴れたりする役柄です。Tさんは重々しく堂々とした所作で見事に役柄を表現しておられました。が、Tさんご自身はご夫婦仲も睦まじく邪念の無い朗らかなお人柄なので、謡の声の調子がとても澄んで美しく、「恨む女」というよりは「天女」の声のように聞こえました。六条御息所になりきれないのは幸せなことかもしれません??? 残念だったのは、小生の時間が無くて途中で会場を去らねばならず、Tさんが鬼と化した姿を拝見できなかったことです。いったいどんな般若だったのでしょう。それにしても、前半の最後で六条御息所がおのれの姿を恥じて上衣を引き被って去ってゆく所作は、人間の心理をすさまじいばかりに示したもので秀逸な演出だと感じました。この場面の謡は「その面影も恥かしや 枕に立てる破れ車 打ち乗せ隠れ行かうよ」で、ふつうは「その自分の姿が恥ずかしい せめて枕元に用意した乱れ車に 葵上を乗せ(死の世界へ)連れ去ってしまおう」と訳されていますが、国文学者の林望氏は、車に乗せるのは葵の上ではなく、六条御息所の心だとし、「この醜く乱れた己の姿を、哀しい破れ車に乗せて、さあさあ、早く隠れ行こうよ」と理解すべきだと述べています(林望「能は生きている」集英社文庫、1997年)。確かにその解釈の方がシテの上衣を引き被って去ってゆく所作と合っているような気がします。

  京都のおばさまの家については、平成17(2005)年4月9日付「近況メモ」をご覧ください。京の町家独特の、間口は狭いけれども奥行きが広々した家屋です。ともに大学の先生をされているおばさまご夫妻は、最近、その奥行きの突き当たりに、海外からの留学生を宿泊させるための「離れ」を拵えられました。ちょうどその「離れ」が空いていましたので、小生は今回そこに泊めていただきました。

 

  
越後湯沢から金沢まで走る特急「はくたか」(越後湯沢駅)    石川県立能楽堂前    藪先生父子による能「松風」(5月24日付「北國新聞」)

 

6月7日(土)晴れのち曇り

  旧暦では皐月(さつき=五月)に入り、明日は端午の節句です。この季節、入梅して過ごしにくい気候なので、菖蒲湯に入ったりして気分をさっぱりさせる風習が昔からありますね。皆さんも体調にご留意下さい。写真はきょう家内と自転車で出かけた際に見つけた色鮮やかな黄色の花の群れです。花の黄色と葉の深い感じの緑色の調和も見事です。ネット上の草花図鑑で調べると、「きんしばい(金糸梅)」という花のようです。「原産地は中華民国、6月開花。梅の形に似た黄色い花で、雨が降ると元気に咲く。一日花で次から次へと咲くが、花期は短い」とありました。どなたか花に詳しい方がいらっしゃったら、「金糸梅」でいいかどうか、教えていただけると幸いです。

  5日(木)に、紀尾井ホールで催された「歌・舞・音・曲」と題した大鼓方の能楽師・亀井広忠さんの主宰する演奏会へ出かけました。素囃子、舞囃子、大鼓一調、居囃子と、囃子(=はやし。能楽の器楽。すなわち大鼓、小鼓、太鼓、笛のアンサンブル)を中心としたバラエティに富んだ番組で、大いに楽しみました。能の一部を紋付・袴姿で(すなわち面も装束も付けず素の姿で)舞い、謡い、演奏するこうした演奏会形式は、いわば「能のデッサン」です。

  例えば、この日演じられた居囃子「松風」は、先週小生が金沢で拝見した能「松風」の一部、すなわち、松風・村雨姉妹の登場から汐汲みの場面までを謡と囃子だけで聞かせるものです。能「松風」全体の演能時間は2時間近くかかりますが、この居囃子は20分くらいです。限られた時間と場面という切りつめられた条件で曲趣を表現することが求められるためか、能にも増して張りつめた緊張感と凝集力が感じられます。

  この日登場したのは若手・中堅クラスの将来有望な能楽師ばかりですが、小生がとりわけ惹かれたのは、京都の観世流シテ方・味方玄(みかたしずか)さんです。この日はトリで舞囃子「邯鄲 盤渉」を舞われましたが、そのフォルム(型)の美しさと動きの滑らかさ、しなやかさは格別です。また、観世流シテ方の山崎正道さんはこの日の謡の中心人物でしたが、力強く明晰で安定感のある謡は聞き応えがありました。もちろん囃子方も技量のある人たちばかりでしたが、主催者の大鼓方・亀井広忠さんも小鼓方・大倉源次郎さんも「掛け声」に迫力があるのが素晴らしいですね。


 

6月15日(日)快晴

  梅雨の季節、紫陽花(あじさい)の花が元気に咲き誇っているのを街角で見かけるようになりました。右写真のように、近年は、紫陽花も青紫色だけでなく、赤系の色や白のものが増えているような気がします。岩手・宮城内陸地震は、当初の報道よりかなり大規模なもので、被害も甚大なようです。一日も早い地域の復興をお祈り申し上げます。

  さて、13日(金)に、トッパンホールで催されたフィリップ・ヘルヴェッヘ指揮ロイヤル・フランダース・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に出かけました。このオケはベルギー王家直属の楽団で、往年の名指揮者、アンドレ・クリュイタンスをはじめ歴代ベルギー出身者が指揮者をつとめています。ヘルヴェッヘもベルギー出身で、もともと古楽系の指揮者です。この日演奏された曲は、前半がシューベルト(付随音楽「ロザムンデ」と「未完成」交響曲)、後半がメンデルスゾーン(序曲「フィンガルの洞窟」とヴァイオリン協奏曲ホ短調)。こうした初期ロマン派は、情緒たっぷりの演奏かきびきびした古典派的演奏か、どちらも可能ですが、ヘルヴェッヘは古楽系の人らしくかなりアクセントの強い表現でした。しかしこの人の音楽の美質は、緩徐楽章などで見せる独特の知的なリリシズムにあるのではないでしょうか。その美質は初期ロマン派と相性がいいな、と感じながら楽しんだ次第です。


 

6月22日(日)雨

  関東地方は梅雨も盛りの雨の一日、今日は、水道橋の宝生能楽堂へ第47回「真葉会」出演のため夫婦で出かけました。「真葉会」は、東京の宝生流の教授嘱託会(プロの職分=能楽師ではないですが一定の資格を持つ能楽の先達を教授とか嘱託とか称しています)が毎年一回主催する門下生の合同発表会です。小生と家内は、地元の武蔵府中市の嘱託の方々が組織する会で(細々とではありますが)謡を習っていて、その縁でこの会に出ることになったのです。府中のメンバーには、まだ習い始めたばかりの人たちのほか、学生時代に謡や仕舞を習った経験を持っている方々も交じっていて、なかなかレベルは高く、ご指導いただいている嘱託の先生も驚いておられます。また、皆さん、熱心にお稽古に来られます。今日も、府中の会は13名が参加し、「羽衣」(「乙女は衣を着しつつ」から終わりまで)、「鵜飼」(「なうその鵜使いこそ空しくなりて」から「鵜の段」まで)、「藤戸」(「憂しや思ひ出でじ」から終わりまで)の三曲の素謡で登場しました。小生は「羽衣」と「鵜飼」の地謡を、家内は「羽衣」の地謡をそれぞれ務めさせていただきました。これら二曲はかつて金沢で習ったことがあるので、何とか謡うことができました。「藤戸」はかなり謡が高度でメロディもリズムも難しく、とても小生の手には負えません。この曲は嘱託の先生と先輩方五人だけで謡われました。

  写真は久々に着た紋付・袴姿を宝生能楽堂の舞台裏で写したものです。やはり紋付・袴を着ると身も心も引き締まっていいですね。能楽堂の舞台で謡うと、普段の稽古場と違って、自分の声が反射して戻ってきません。舞台から客席の最後部まで声が飛んでゆく感じで、客席に声が響き渡っているのを実感できてなかなか心地よいものです。この日、驚いたのは、この会に蔵前宝生会から出演されていたメンバーの中に、小生の勤務先銀行のOBの方がいらっしゃったことです。偶然に控え室でお目にかかったのですが、まさかあの方が宝生流の謡をされていたとはつゆ知りませんでした。何でも早稲田大学のクラブ活動でされていて、近年再開されたとのこと。世間は狭いものです。


 

6月28日(土)曇り

  先日、所用で浜松町に出向いた折、次の用事の間に時間があったので、浜松町から芝の増上寺を経て霞ヶ関まで歩いて行きました。約30分の行程でしたが、天気も良く、ビジネス街ではありますが途中に芝公園などもあり、気持ちのいいウォーキングでした。写真は増上寺の三門です。増上寺は、明徳4(1393)年、聖聡(しょうそう)上人によって開かれた浄土宗の寺院です。徳川家康が江戸に移封されて間もなく、徳川家が代々浄土宗の信徒だったことから、増上寺は徳川家の菩提寺となります。浄土宗の寺の中でも増上寺が選ばれたのは、家康が時の住職、存応(ぞんのう)上人に深く帰依したためとのことです。慶長3(1598)年には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後は、徳川家の手厚い保護もあり、増上寺は大いに繁盛し、「江戸名所図絵」にも参拝者で賑わう様子が描かれています。

  小生が訪れた時は、本殿が工事中で、また平日の昼間とあって、人もまばらな一万六千坪の広大な境内は、周囲の慌ただしさとは隔絶した、時の流れが止まったような空間でした。都心にこのように静謐な心癒される空間が残っているのは新鮮な驚きで、また、有り難いことだと思いました。


 

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