富士 - 特別急行第2列車 東へ -

伝統

単独時代終期の〔富士〕 EF66と富士山マークの取り合わせも今は昔 (根府川-早川 2002-9)
[D100, AF-S Nikkor ED 80-200mm F2.8D]

列車名称としての「富士」は、はるか明治時代の1912年に東京〜下関間で運行をはじめた特別急行列車の愛称として、一般公募により決定した(1929年)ものである。新列車の愛称公募は現在でも行われるが、その元祖は源流にまでさかのぼることができるのだ。

このとき一・二等車列車が第1位の「富士」、1923年に運行を開始した三等車列車は第3位の「櫻」となった。展望車に掲げられた富士山型のマークが日本の列車最高峰を誇示していた。第2位は「燕」だったが、これは計画中の超特急列車に向け保留されている(1930年に登場、東京〜神戸)。関門トンネルの開通によって「富士」は長崎へ延びたものの、戦況が悪化する1943年に廃止(列車自体は44年まで運行)された。

それから〔富士〕の不在期間は結構長く、1961年に至って四国連絡の電車特急(東京〜宇野:151系)に起用された。一等車「パーラーカー」の連結はあったが、戦前のそれとはまったく関係がない。豪華列車への起用を目論んでいたともいわれ、大事にお蔵入りしておいたら出す機会を逸してしまった感もある。この間の1958年に〔はやぶさ〕が九州特急増強の中で登場しており、戦後だけで見ると〔富士〕は〔さくら〕(1959〜2005)と〔はやぶさ〕の後輩にあたる。

〔富士〕東京ゆきには「日豊線経由」の注記 西鹿児島発の歴史を語る

1964年10月、東海道新幹線開業に伴う昼行特急の大幅な整理によって〔富士〕は廃止、同時に東京〜大分間の寝台特急(20系)の愛称に転じた。目的は若干違うが、ようやく伝統の場所へ戻ってきたことになる。ヘッドマークは他列車と同じ丸型。翌年には日豊本線を南下し西鹿児島(現・鹿児島中央)まで延長、運転時間がまる一日を超える日本最長距離列車となった。以来、1960年に20系化された〔はやぶさ〕とともに45年間にわたって九州ブルトレ、2008年度は最後の存在として走り続けてきた。

JTB時刻表巻頭の特急地図では、寝台特急を示す線として青が一貫して使われてきた。2009年3月改正以降、寝台特急の西端は出雲市(山陽本線では倉敷)となって、広島県より西で伝統の青い線が消滅する。


大分駅で出発を待つ〔富士〕 古びたホームに短い編成がわびしい

10月5日。雨の昼下がりに別府へ着いた。どこかへ行く時間もなく、駅前の公衆浴場(もちろん温泉である)にゆっくり浸って、大分へ向かう。改札外で2回の食事その他を買い込んで荷物の空きスペースに詰め込み、ホームに出た。〔富士〕が出発する2・3番線には、飲料の自販機しかない。

いま大分駅付近では連続立体交差化事業が進められており、8月には久大本線・豊肥本線のりばが先行して高架ホームに移った。数年すれば日豊本線も高架に移ることになるが、そのとき〔富士〕の姿はここにはない。〔はやぶさ〕出発地の熊本はというと、こちらも九州新幹線の受け入れ工事が進んでおり、かつて車両基地を併設した駅はホームの周囲もすっかり整理された。

大分車両センターから入線する上り〔富士〕

相変わらずの小雨の中、下り方に2つのヘッドライトが見えた。ED76 69がいつものように客車6両を従えてホーム中央に停まる。ほかの長編成列車は〔ソニック〕883系の7両だから、それほど見劣りするわけではないが、すでに長い地上ホームはもてあまし気味である。併結開始によって本州のマークは丸型になったから、1985年に復活した富士山型マークは現在九州内でのみ見られるものだ。

前後での撮影をあわただしく済ませて自室に急いだ。車掌の手笛、ドアを閉める空気音。大分発車(16:43; 以下定刻発時刻)。軽いショックがあって動き出した車両は、グイッ、グイッと緩く引っ張られながら加速をはじめた。この感触は、電機に牽かれる客車列車でしか味わうことができない。

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ほどなく「ハイケンスのセレナーデ」の一節が流れた。

チャイムが本物のオルゴールかどうかはすぐにわかる。オルゴールは機械式だから、音になんとなくチープさが感じられるのに対し、テープはしっかりとした音で、エコーもかかっている(おそらくシンセ演奏)。オルゴールの流れる車両は今残っているのだろうか?

放送は「詳しくは別府を出てからご案内いたします……」とあっさり終了、別府(16:54)発車後改めてチャイムとともに案内放送が入った。長い放送が終わるころ、列車はすでに国東半島の付け根を抜ける第一の峠越えへ向かっていた。