富士 - 特別急行第2列車 東へ -
変身
宇部(20:03)、新山口(20:26)、防府(20:40)、徳山(21:04)と細かく停まった〔富士・はやぶさ〕は、静まり返った夜の小駅に停車する。下松(くだまつ 21:16)。下り列車はここから「立席特急券」の利用が可能だ。これは寝台列車の座席使用という制度にもとづくもので通称「ヒルネ」、寝台券なしでブルトレに乗ることができる。
寝台列車の立席特急券 「はやぶさ号」と指定されている BはB特急券区間の意 ※ 検印がありませんが使用済みです |
今の列車では、下段の寝具を隅にやれば座席になってしまうし、ベッドや梯子もつくりつけだから上段でゴロゴロしていても怒られない。しかし三段寝台が当たり前だったころは、夜8時ごろに中段の寝台を降ろして寝具をセットし、翌朝7時すぎに片付けて座席に戻していた。ということは、それ以降は寝たくても寝ているわけにはいかなかったのだ。
20系の時代は各車に乗務した「乗客掛」が、それ以降はその区間だけ乗る作業員が、走る車内でその転換を行っていた。ちなみに制度上、寝台を朝6時まで使用すると、その後で運転が打ち切られたとしても「寝台料金」の払い戻しはない。
ヒルネは、そうして見かけ上は昼行特急と同じになった列車に、途中で下車した乗客のスペースも活用して区間利用客の便宜をはかったものといえる。停車駅が一気に増えるのも、下車客とヒルネ向け、それと他列車の廃止から通過駅にも停車せざるを得なくなった事情が伺える。その成り行き上、東京方では行われないが、ブルトレ・ブームが過熱化した1980年代には、体験乗車として東京から三島までの〔こだま〕と上りブルトレのヒルネをセットした旅行商品も存在した。
下関駅の発車案内 九州ゆき特急がポツンと取り残された 「特急券のみで乗車できます」とは微妙な表現 (2008-12) |
立席特急券は全車指定の列車に発売するもので、料金は自由席特急券と同額だがその意味合いはまったく違う。乱発しては全車指定の意味が無いからタテマエとしてその数は限定されている(現行〔富士〕〔はやぶさ〕では各30枚、計60人分とのこと)が、なぜか超満員のブルトレが走ったことも少なくなかったようだ。これに限らずヒルネの問題は多々指摘され続けてきたが、しかし抜本的な対策は行われないまま、対象列車の削減・消滅という形で幕を引くことになる。
末期、両列車の寝台券は発売早々に売り切れており、ヒルネはそんな中でもブルトレにもぐりこめる公認の技ではある。私もこのあと12月末、実際に〔はやぶさ〕の立席券を買って関門を越えた。そのときはあっさり買えた(そんな利用はほとんど無かった?)けれど、発売枚数はほんとうに制限されているかもしれないし、また自由席券(周遊きっぷのゾーン券)での乗車も不可であることにも注意したい。上り列車では本来行っていないが、2月に限り熊本→博多・大分→小倉間でB寝台車1両を指定席扱いとした。なお改正後の対象列車は〔日本海〕と〔あけぼの〕で、上り列車は指定席として扱う。
ところでなぜ下松から(6:45)なのだろうか。手許に1975年の時刻表(古本)があるのだが、当時は立席扱いをやっておらず、下松に停車する九州ブルトレもなかったので、その経緯はよくわからない。ただ関連がありそうなのは、同駅近くに日立製作所の鉄道車両工場(笠戸事業所)があり、新幹線を筆頭とするJRや私鉄の車両が製造されていることだ。かつてはメーカーや関連会社の社員も、当たり前のようにブルトレで出張していたのだろう。それだけでなく、九州夜行の主客層はビジネス客だったといわれる。現在のような高速道路も航空網も廉価なビジネスホテルもない時代に、長距離の移動は夜行列車が当たり前で、寝ていけるだけでもありがたい存在だった。いまブルトレの乗客は、乗り換えの手間を嫌う年輩の個人・団体客、そして私もそうだが「列車に乗る」ことが目的のレールファンだ。
2008-10-5発 42〜2レ〔はやぶさ〕 | |||||||
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7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | ||
スハネフ 15 20 | オロネ 15 3004 | オハネ 15 2004 | オハネ 15 1202 | オハネ 15 1122 | スハネフ 15 1 | EF81 411 | EF66 45 |
B▲ | A1▲ | B1▲ | B | B | B | 門司-下関 | 下関-東京 |
- 門司-東京間〔富士〕を小倉方に併結し2レ
- EF81 411=[大]大分鉄道事業部大分車両センター所属
- EF66 45=[関]下関地域鉄道部下関車両管理室所属
柳井(やない 21:35)を過ぎると再び海が見えてくる。上り列車ではもちろん黒く沈んでいるが、その海上を進む灯が見えた。柳井港から松山へ向かうカーフェリーだ。
かつて大島への国鉄連絡船が発着した大畠(おおばたけ)の近くには、それに代わった大島大橋がある。海を横目に朝日を浴びるブルートレインの姿はたびたび登場するが、それはここから撮られたものだ。
編成中央〔富士〕〔はやぶさ〕の連結部 |
前日は松山にいて、山陽本線にどう戻るかが思案のしどころだった。そのさらに前日に岡山で途中下車し、松山ゆきの高速バスで四国へ渡り、翌朝キハ65の姿を捉えた。
松山港(三津)を深夜に出航する便は、柳井港へ5時すぎに到着する。タクシーで大畠に移動すれば、ちょうど時間もよさそうだなと思った。しかし調査を進めていくと、燃料費高騰の影響で土曜出発便が休航とされ、計画そのものが成り立たなくなった。けっきょく私は しまなみ海道経由の特急バスに乗り、福山から新幹線で新山口へ移動した。成立していたからといって、実際にやったかどうかは……
列車最後部のデッキへ後方を眺めに行く。電源車のない14系では、機関車も最後尾も見ることができる。ちょうど21時半となり、「おやすみ放送」が流された。この先列車は岩国(22:02)、広島(22:37)、尾道(23:48)、福山(0:05)、そして岡山(0:48)まで停車する。改正ごとに〔のぞみ〕が増強される広島駅は先立って急行〔みよし〕が廃止されており、東海道・山陽筋で初めて在来線の優等列車を失う県になる。