朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(2)
軍事組織実態、戦費の自力調達、ソ中両党による戦争資金援助
(宮地作成−全体は4部作、目次1〜14)
〔第2部・目次5〜7〕
2、武装闘争路線への戦略転換命令の内容と、2派1グループの対応
1、宮本顕治偽造歪曲党史にたいする逆説−2派1グループの存在と実態
2、宮本分派ら国際派中央委員7人・20%、5分派に分裂、党員10%
4、主流派内だが、武装闘争に反対し、骨抜きサボタージュ活動をしたグループ
2、国内非合法機関
1、戦費支出内訳の推計 (表2)
2、戦費収入内訳の推計 (表3、4)
2、ソ連共産党が支給した、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費の党本部受領
3、中国共産党が支給した北京機関維持費、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費
〔第1部・目次1〜4〕 スターリン・毛沢東指令隷従の軍事方針・武装闘争時期、主体と性格
〔第3部・目次8〜11〕 後方基地武力かく乱戦争行動の実践データ、効果と結果
〔第4部・目次12〜14〕「戦後史上最大のウソ作戦」敗北処理のソ中両党隷従者宮本顕治
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』7資料と解説
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
Wikipedia『朝鮮戦争』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
由井誓 『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」
5、朝鮮侵略戦争に参戦した統一回復日本共産党
〔小目次〕
朝鮮戦争を、コミンテルン型前衛党3党が始めた朝鮮侵略戦争と位置づけるがどうか。そして、スターリン命令によって統一回復をさせられた五全協武装闘争共産党がした行為を、朝鮮侵略戦争に4番目に「参戦」したコミンテルン型前衛党の戦争行動と認識するかどうかで、当時の歴史の見方考え方がまったく異なる。
朝鮮戦争の期間は、3年1カ月間である。1950年6月25日朝鮮人民軍の南朝鮮侵攻から、1953年7月27日休戦協定成立日までである。その内、日本共産党の参戦期間は、1年9カ月間だった。1951年10月16日統一回復五全協から、武装闘争実践を具体的に始め、休戦協定成立日でぴたりと中止した。侵略戦争参戦期間の割合は、37カ月間中の21カ月間で、62%になる。武装闘争が休戦協定成立日でぴたりと中止した事実こそが、ソ中両党による参戦命令に隷従したことを証明する。
スターリン死後、フルシチョフ・毛沢東らが、北京機関・野坂参三宛に日本における武装闘争中止命令を出したと思われる。ただ、その指令文書や電報などの証拠は発見されていない。
朝鮮戦争の62%の期間は、朝鮮人民軍、中国人民義勇軍のべ300万人、ソ連空軍、日本共産党「軍」と、韓国軍、米軍、国連軍の間の一大国際戦争だった。朝鮮戦争は、半島南北を、くまなく2回の戦争ローラーをかけるように、戦場にした。この戦争による戦死を含めた死者総数は、(1)北朝鮮250万人、(2)中国志願軍100万人、(3)韓国150万人、(4)米軍5万人にのぼった。戦争により南北に引き裂かれた「離散家族」は、1000万人以上、当時の朝鮮半島人口の1/4になった。その内訳は、韓国676万人、北朝鮮300万人である(『岩波小事典』bV91)。ソ連軍の死者は、極秘で「参戦」したミグ戦闘機のパイロット少数だけである。北朝鮮派遣のソ連軍将校団は、安全地帯に引き上げていて、無傷だった。
死者総数505万人と離散家族976万人とを合わせた数は、1481万人になった。朝鮮戦争の性格規定について、別の言い方もある。それは、「国家と軍隊を所有していた」朝鮮労働党・中国共産党・ソ連共産党と、「国家未所有の」日本共産党という4つのコミンテルン型前衛党が、自ら引き起こした侵略戦争によって、1481万人を殺害・離散させた犯罪だった。その性質は、第2次世界大戦後における最大の前衛党犯罪だった。
2、武装闘争路線への戦略転換命令の内容と、2派1グループの対応
〔小目次〕
1、宮本顕治偽造歪曲党史にたいする逆説−2派1グループの存在と実態
2、宮本分派ら国際派中央委員7人・20%、5分派に分裂、党員10%
4、主流派内だが、軍事方針・武装闘争に反対し、骨抜きのサボタージュ活動をしたグループ
1、宮本顕治偽造歪曲党史にたいする逆説−2派1グループの存在と実態
文献的証拠としては、(1)コミンフォルム批判内容、(2)劉少奇テーゼ=植民地型革命軍事方針と、(3)51年綱領(文書)の3つの文書がある。ただし、いずれも、直接的な武装闘争方針や指令を書いていない。宮本顕治が、五全協前に、スターリンに屈服し、宮本分派=統一会議を解散し、主流派・党中央軍事委員長志田宛に宮本自己批判書を提出し、五全協武装闘争共産党に復党したことは事実である。彼の行為は、これら3つの文書が示す基本的な軍事方針を承認したものである。
『宮本顕治の「五全協」前、“スターリンへの屈服”』資料7編と解説
ただし、文書として書かれたものと、実際に存在した各派・グループが採った見解・行動とのへだたりに目を向ける必要がある。(1)コミンフォルム批判と(2)劉少奇テーゼとは、野坂参三による占領下の平和革命論=全党が一致していた路線を全面否定した。それは、朝鮮戦争参戦の暴力革命=スターリン・毛沢東が隷従下日本共産党に出した武装闘争路線への戦略転換命令だった。宮本党史は、それらにたいし様々な隠蔽・歪曲をしている。その詳細は、〔第4部・目次12〜14〕において検証する。
武装闘争路線への戦略転換命令にたいして、実態として、3つの複雑な対応が発生した。以下は、宮本党史にたいする根本的な逆説である。3つの分類は、当時の東京都委員長・軍事委員・全国オルグ増山太助の証言とアドバイスによる。私は彼の熱海自宅で、2日間直接取材をした。下記の党員比率は、幹部多数の証言に基づく私の推計である。
2、宮本分派ら国際派中央委員7人・20%、5分派に分裂、党員10%
宮本・志賀ら国際派とは、日本共産党内におけるもっとも熱烈で忠実なスターリン崇拝グループだった。彼らは、コミンフォルム批判が報道されたとたん、その即時・無条件受諾=暴力革命路線への即時転換を主張した。国際派とは、スターリン盲従の、もっとも先鋭な武装闘争転換・遂行主張派だったというのが歴史的事実である。それが国際派といわれる所以(ゆえん)である。彼らは、単一分派ではなく、徳田主流派にたいする5グループに分裂していった。なかでも、宮本顕治は、平和革命論放棄・武装闘争路線転換への反対・所感派=主流派にたいし、右翼日和見主義と強烈な敵意を表していた。
宮本顕治は、1950年4月、『前衛4月号』でも、「コミンフォルム論評の積極的意義」を発表し、「コミンフォルムは偉大な同志スターリンの指導下にあるのであるから、無条件で支持すべきである」と論じた(『検証・内ゲバ』第5章、来栖宗孝、P.309)。同年『前衛五月号』でも、次のようにコミンフォルムを絶賛している。「われわれはとくに、マルクス・レーニン主義で完全に武装されているソ同盟共産党が、共産党情報局の加盟者であることを銘記しておく必要がある。このソ同盟にたいする国際共産主義者の態度は、つぎの同志毛沢東の言葉によく表現されている。『ソ同盟共産党はわれわれの最良の教師であり、われわれは教えを受けなくてはならぬ』。単に、共産党情報局は一つの友党的存在という以上に、ソ同盟共産党を先頭とする世界プロレタリアートの新しい結合であり、世界革命運動の最高の理論と豊富な実践が集約されている」。コミンテルン解散後、資本主義国共産党でコミンフォルムに加盟していたのは、フランス共産党とイタリア共産党の2党だけだった。コミンフォルムへの加盟の声もかからない日本共産党内で、このような宮本顕治のスターリン・コミンフォルム絶賛ぶりは、異様なほどだった。
宮本顕治だけでなく、現在、不破・志位・市田らも、宮本顕治が暴力革命路線・武装闘争遂行方針への転換に反対したことが、50年分裂の原因であるという主張を始めている。これこそ国際派主張の歴史的本質・経過を偽造・歪曲する真っ赤なウソである。オーウェルは、『1984年』で、情報局による歴史の偽造・転換記述シーンを描き、「過去を支配するものは、未来を支配する」として、共産党の歴史歪曲体質を批判した。
もちろん、国際派中央委員7人・20%と10%党員たちを置き去りにして、徳田・野坂ら主流派28人80%と90%党員が一方的に地下にもぐったり、合法の臨時中央指導部を作り、非合法・合法の二重組織に移行した行為は、中国共産党・毛沢東の指令に隷従したとはいえ、主流派の重大な誤りである。
3、徳田ら所感派=主流派中央委員28人・80%、党員90%
徳田主流派は、コミンフォルム批判にたいして、当初、「所感」を発表した。その真意は、単に、コミンフォルム批判報道が本物かどうかというだけでなく、暴力革命路線への転換命令にたいする抵抗心があった。そもそも、コミンフォルム未加盟の日本共産党にたいし、なんの事前相談もなく、コミンテルン日本支部時代と同じように、頭ごなしに出された路線転換命令にたいして、反感を抱くことは、よほどの盲従者でなければ、当然の心情である。主流派とは、あまりにもスターリン盲従である宮本ら国際派にたいする、ある意味での自主独立志向を心底に持った宮本批判派だった。
スターリン命令に隷従した武装闘争即時実行をめぐり、主流派と宮本ら国際派の論争が巻き起こった。それに関し、増山太助が『労働運動研究』(1994年7月号)で証言している。「私は、四全協の直後、志田に会ったとき、軍事方針についてという四全協文書について質問した。すると、彼は、これがないと宮顕たちに右翼日和見主義といわれる、と言った」(P.34)。「私は五全協で中央委員候補に選出されたが、五全協後最初の関東地方委員会ビューロー会議に出席した志田は、ビューローキャップで中央委員になった丸山一郎と私に、宮顕が新綱領と軍事方針を認めて復帰することになった。これで統一が進むが、国際派の連中にわれわれが右翼日和見主義者でないことを思い知らさなければならない、と意気込んでいた。志田は、国際派の学生たちが依然、主流派にたいし右翼日和見主義攻撃をつづけているのに腹が立っているようだった」(P.35)。
コミンフォルム批判は、1950年1月6日である。宮本顕治がスターリンの「宮本は分派」裁定に屈服し、宮本分派・全国統一会議を解散し、志田宛に自己批判書を提出したのは、五全協直前の1951年10月初旬だった。この1年9カ月間、宮本顕治ら国際派や国際派東大細胞、全学連書記局細胞は、武装闘争を即時実行しない主流派にたいして、右翼日和見主義レッテルを貼りつけ、はやく武装闘争に決起せよと攻撃を続けていた。その渦中にいた増山証言は、「宮本顕治が暴力革命路線・武装闘争遂行方針への転換に反対したことが、50年分裂の原因であるという公認党史の主張」が、黒を白と言い換える、宮本顕治の日本共産党史偽造犯罪であることを証明している。
50年分裂とは、国際派があまりにもスターリン隷従であり、スターリン命令を無条件受諾し、武装闘争即時決起を主張し、すぐにそれを開始しない主流派を、宮本顕治が学生党員らをそそのかして、右翼日和見主義と攻撃したことが主要原因だった。徳田球一と宮本顕治との性格不一致、活動経歴の違いからくる相互嫌悪感情などがある。しかし、それらは、あくまで分裂の副次的要因である。
もちろん、主流派も、まもなく、コミンフォルム批判に屈服し、武装闘争路線への転換を受け入れた。ただ、主流派といっても、約20グループに分かれていた。1950年1月6日コミンフォルム批判当時の第19回中央委員会総会の党中央発表党員数は、236000人だった。スターリン隷従の国際派宮本らにたいする専従・一般党員の批判が強まった。宮本顕治の露骨なスターリン崇拝主張は、党内で浮き上がり、それへの党員大多数の反発から、孤立して行った。その結果が、実態比率として、専従7対3、一般党員9対1となり、宮本・志賀らは、党員10%・23600人という少数分派に転落した。徳田分派などと呼ぶのは、宮本顕治得意の詭弁レッテルである。徳田90%主流派・20グループにたいする、宮本ら10%少数派・5分派というのが、歴史的実態の真相である。
4、主流派内だが、軍事方針・武装闘争に反対し、骨抜きのサボタージュ活動をしたグループ
主流派内にいて、ひそかに骨抜きの武装闘争サボタージュ活動をしたグループがあった。この存在を、増山太助・90歳が、2003年4月、彼の熱海自宅における私によるインタビュー2日間で初めて証言した。いずれ彼が、文書で、メンバー・活動内容・組織規模などの詳細を公表する予定とのことだった。とりあえず、本人の了解をえて、以下そのインタビュー概要を記す。しかし、残念ながら、彼は2007年、未公表のまま死去した。
劉少奇テーゼに基づく植民地型軍事方針を決定した四全協時点で、これに反対する強い意見が、関東地方委員会、東京都委員会内であった。それらの反対動向にたいして、国際派は「コミンフォルムの軍事方針転換に反対する者は消してしまえ」と公言していた。国際派宮本顕治は、朝鮮戦争支援のコミンフォルム軍事方針に賛成か、反対かの「踏み絵」を全幹部・党員に踏ませようとする態度を露骨に示した。そこから、主流派の中に、軍事方針・武装闘争に反対する者は「消される、排除される」という共通認識が生まれた。国際派と主流派の両方から狙われるからである。見る間に、党内の実態は、表立って反対意見を主張できなくなっていった。
増山太助は、読売新聞争議団最高闘争委員の後、共産党専従となり、党中央文化部員、青年・学生対策部員、婦人対策部員を経て、当時、全国オルグ、35人総選挙当選時の党中央選対部副部長、東京都委員長、関東ビューロー員などを歴任していた。彼は、宮本顕治のスターリン盲従度に批判を持ち、主流派にいたが、武装闘争遂行に反対だった。そして、読売争議、全国オルグ、党中央選対関係、文化人関係などで、全国に個人的つながりもあった。党中央だけでなく、地方委員会レベルでも、裏側の本音では、朝鮮戦争支援の武装闘争に反対・批判する幹部が多数いた。それらの声が増山らに集ってきた。日本敗戦後まだ5年たっただけで、戦争・戦時の悲惨な記憶は生々しく残っていた。
その時点で、再び朝鮮戦争に日本共産党自体が参戦し、国内で武装闘争=後方兵站補給基地武力かく乱戦争行動を展開することへの反対・批判の心境は、多くの共産党員が共有するものだった。党員の心情からだけでなく、日本の政治・経済状況、国民の意識を冷静に分析すれば、共産党の武装闘争が成果をあげたり、経済要求が強くとも戦争反対の国民から支持されるような条件は、まるで存在しなかった。日本の情勢について、(1)スターリン・毛沢東・劉少奇テーゼの機械的分析とその押しつけを鵜呑みにするのか、それとも、(2)敗戦5年後で自主的に分析し、自主独立の立場に立つかどうかの対立だった。
そこで、まず、増山ら5人の主流派幹部が、非公然ビューローの中で、武装闘争実践を骨抜きにするサボタージュ活動のための非公然グループを作った。二重の非公然組織である。なぜなら、そのような活動がばれたら、メンバーらは、現実に消される、即座に査問され、排除される危険性が高かったからである。それは、主流派内での意識的な面従腹背作戦だった。主流派にいて、表向きは、武装闘争に賛成するが、裏側の実践ではサボタージュをし、骨抜きにするという組織を広げることは、困難を極めた。また、全党的にその活動の成果をあげるには、相当の人数を必要とした。
個別・単線ルートで、軍事方針に異議を持つ者は集れ、と呼び掛けを出した。5人のまわりに、支持者や党外シンパがかなり集ってきた。全員がアンチ国際派だった。なぜなら、宮本顕治ら国際派こそ、武装闘争即時全面遂行のスターリン盲従派だったからである。サボタージュ活動の方針として、(1)共産党式上意下達指令は絶対に出さない、(2)各人の意志で骨抜き行動をする、と決めた。当時の全国オルグは、増山一人だけだった。彼は、代々木に戻されて、党中央選対部副部長になったことがあったが、その立場を生かして、サボタージュ支持の党中央文化部員を全国に派遣した。彼が出かける先々で、多くの党員・シンパが、彼にカンパを手渡した。彼が「これはなんなのか」と聞くと、彼らは「とぼけるんじゃないよ。しっかりやってください」と激励した。
彼らの意識は、複雑だった。後方基地武力かく乱戦争行動などを展開したら党のためにならないから、サボタージュ活動を組織する。しかし、共産党を盛り立てたいという気持ちは、矛盾をはらんでいた。実態として、その活動が行なわれ、組織・支持者が広がるにつれて、危険度も増した。
第一、彼らのグループと活動が、マッカーサー指令部にばれたら、狙い撃ちの弾圧をされる怖れがあった。なぜなら、マッカーサーにとって、日本共産党の稚拙な火炎ビン闘争は、共産党と日本国民を離反させ、彼らの講和前後の日本支配・朝鮮戦争政策にとって、きわめて大きな利用価値があったからである。それを骨抜きにしようとする主流派内非公然グループは、日本支配にとって、むしろ邪魔者になったからである。
第二、主流派指導部も、その活動と組織に気付きだした。増山らは、何度も指導部から、かまをかけられた。増山が、かなり後で、椎野悦朗から直接聞いた話では、志田は感づいていたとのことだった。
この活動と組織とは、(1)スターリン盲従・忠誠で武装闘争即時実行派宮本顕治に反対し、かつ、(2)結局、スターリン・毛沢東命令に屈服して後方基地武力かく乱戦争行動展開した主流派に抵抗し、日本の現実の自主的分析に基づいて、軍事方針でサボタージュをした自主独立派だったと位置づけることができる。グループの支持者・党外シンパたちは、その日本現状分析と自主独立路線を支援した。
増山太助『戦後期左翼人士群像』増山太助経歴
(1)、1950年10月7日、非公然機関誌「平和と独立」に、野坂参三が、武装闘争方針の論文『共産主義者と愛国者の新しい任務―力には力をもってたたかえ―』を掲載した(『党史』134)。
(2)、1950年12月、非公然機関誌「人生案内」で、『非合法活動について』を出版し、5章にわたる詳細な指令を出した。
(3)、1951年2月23日、四全協が、「劉少奇テーゼ」にもとづく軍事方針を決定した。
(4)、非公然機関誌「山鳩」は、『第三、軍事方針について』において、3、警察予備隊に対する工作の強化。4、警察に対する工作方針を打ち出した。
(5)、1951年11月8日、非公然機関誌「球根栽培法第二巻第二十二号」は、『われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない』で、軍事組織結成と中核自衛隊の組織を指令した。
(6)、1952年2月1日、非合法誌「球根栽培法二月号」は、『中核自衛隊の組織と戦術』を発表した。都市と農村での抵抗自衛闘争の拡大と中核自衛隊・山村工作隊などの武装集団の組織を主張し、軍事委員会を設置した(『党史』138)。
(7)、1952年10月下旬、統一回復日本共産党中央委員会総会は、『武装闘争の思想と行動の統一のために』を決定し、現段階を武装闘争の準備期とすると規定した(『党史』P.140)。
(8)、1953年5月5日、非公然機関誌「中核第22号」に、『中核自衛隊統一指令部の任務について』を発表し、3、隊員および幹部の政治・軍事教育。4、隊の作戦計画。5、隊の装備を高める、などの任務を指令した。
(9)、1951年10月、非公然パンフ「厚生省衛生試験所」名で、『栄養分析表』を出した。時限爆弾、ラムネ弾、火焔手榴弾、タイヤパンク器などの構造、製作、使用法である。
(10)、1952年春、非公然パンフ『新しいビタミン療法No.2』で、火焔瓶の作り方を指示し、材料、製法、使用法を解説した。
(11)、1953年4月20日、非公然パンフ『健康闘争を強化するためZ活動を組織せよ』で、Z活動=武器製造・使用の武装闘争の技術指令を出した。それは、3、武器の奪取。4、武器の製作。5、武器の購入。6、武器の保管に関する指令文書である。
非公然機関誌の名前は、他にも、『味の粋―たべある記』『さくら貝』などいろいろあった。
上記『指令文書、バンフ』の中で、いくつかは、冥土出版社が『復刻版』を出している。(1)(2)(4)(5)(6)(8)(9)(10)(11)は、『50年代共産党非合法軍事文書集成No.1、2』に掲載されている。これらは、インターネットで注文・入手できる。
冥土出版『共産党非合法軍事文書集成1、2』「復刻版(1)(2)(4)(5)(6)(8)(9)(10)(11)」
〔小目次〕
2、国内非合法機関
戦争において、軍事指令部・参謀本部とその幹部の安全を図ることは、作戦要諦の初歩である。スターリン・毛沢東らが、日本における後方基地武力かく乱戦争を指令したとき、日本国内の地下軍事組織Yとは別個に、北京に統一回復日本共産党の軍事指導部を移動させたのは、戦争作戦上の措置だった。北京機関の機構については、伊藤律が、日本帰国後に出版した『回想録―北京幽閉27年間』(文芸春秋社、1993年)において、その一端を記している。
(1)、北京の戦争指令部 北京機関の存続期間は、6年11カ月間である。それは、1950年8月末の朝鮮侵略戦争開始2カ月後から、1957年7月の北京機関指導部袴田里見、河田賢治らが帰国した時点までである(『党史』133、153)。そこには、徳田球一、野坂参三、西沢隆二、紺野与次郎、河田賢治、安斎庫治、伊藤律、土橋一吉、宮本太郎、聴濤克巳などがいた(『七十年』『党史』全体)。モスクワに出向いた袴田里見も、スターリンから一喝されて、宮本分派から北京機関に鞍替えした(『党史』136)。
毛沢東が、隷従下日本共産党に出した徳田の中国渡航命令は、朝鮮侵略戦争開戦と同時だった。それを亀山幸三が証言している。「六・六追放の前に、文化部の宮島義勇は中国へ渡り、六月の終わりか七月初めに帰国した。彼が中国から携行して帰ったものは前記のように、次の三点という。一、徳田をすぐ渡航させよ、二、非合法組織体制を作れ、三、軍事方針、武装闘争の準備をせよ、である」(『戦後日本共産党の二重帳簿』137)。映画撮影監督宮島義勇の役割については、増山太助も証言している。
Wikipedia『北京機関』
増山太助『戦後期左翼人士群像』 宮島義勇と「血のメーデー」
(2)、北京機関・党学校 その運営期間は、3年2カ月間である。中国共産党と日本共産党は、それを、1954年1月の休戦協定成立6カ月後に開設し、1957年3月という六全協の1年8カ月後に閉鎖した(『党史』143、152)。
1953年7月27日の休戦協定成立後も、北京機関を4年間解散しなかった。北京機関の党学校にいたっては、休戦協定後に初めて開設し、日本共産党員千数百人から二千人を毛沢東路線・劉少奇テーゼで、3年2カ月間も教育した目的はどこにあったのか。これは、中国共産党が、すでにソ中両党の隷従下にあった統一回復日本共産党を、さらに完璧な毛沢東盲従型のマルクス主義前衛党に教育し直し、改造し、千数百人から二千人の毛沢東崇拝幹部を日本に送り込むという一大謀略だった。党学校の校長は、高倉テルだった(『伊藤律回想録』37)。
六全協後、増山太助は、校長高倉テル、および、党学校にいた聴濤克巳の息子聴濤弘にたいして、別個に党学校の実態と目的について問い質した。2人とも最初は、マルクス・レーニン主義の教育だけだったと答えた。さらに追及すると、2人とも、実際は、日本革命を起す中核部隊を養成していたと告白した。高倉テルは、党学校には、選抜された党員が密航してきた。しかし、ダメな人間は送り返し、ものになる人間は残して、訓練したと、その運営の一端を話した。
もっとも、日本人を、自分の盲従者に改造するという大作戦遂行は、毛沢東だけでなく、スターリン、金日成も同じである。
スターリンは、日本人捕虜60万人の共産主義化と日本共産党入党運動推進のため、1)ソ連軍政治将校(共産党員)を250人配置し、2)「日本新聞」を、ソ連共産党員63人配置体制で、650号発行した。3)ラーゲリ政治部は、この政治講習会を、1948年だけでも、7285回開かせ、のべ1287000人を参加させた。4)帰国者全員にスターリンへの感謝決議を強要した。
金日成は、よど号グループを、主体(チュチェ)思想型革命を日本で遂行する幹部に養成し、その任務の一つとして、ヨーロッパにおける日本人数人の拉致犯罪を実行させた。このような謀略教育をする国際共産主義運動とは、何だったのか。
『「異国の丘」とソ連・日本共産党』 捕虜60万人の共産主義化と日本共産党入党運動
(3)、自由日本放送 北京機関は、日本向けの後方基地武力かく乱戦争行為支援短波放送を、ソ中両党の朝鮮戦争戦費援助で、3年8カ月間続けた。それは、1952年5月1日開設から、1955年12月31日閉鎖までである(『党史』139、148)。放送開始日は、血のメーデー事件当日という劇的な日だった。「それは、51年文書の宣伝や中国流の武装闘争方針、スターリン的な社会主要打撃論を放送するなどした」(『七十年』220)。短波放送局は、元NHK記者藤井冠次が全体実務の責任者で、伊藤律責任の作業班30人、聴濤克巳責任の電信班20人という50人体制だった(『伊藤律回想録』31)。藤井冠次は、『伊藤律と徳田・北京機関』(三一書房、1980年、絶版)において、自由日本放送の責任者兼プロデューサーとして、その全体像を詳細に証言した。彼も、スタートの短波放送時点は10余人、中波併設からは50余人になったとしている。
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
(4)、人民艦隊 北京機関・党学校に密航した千数百人から二千人、北京機関指導幹部数十人や自由日本放送スタッフ50人、その他を合わせると、中国密航日本共産党員の往復のべ人数は、数千人になる。それを運んだのは、人民艦隊だった。1)、東京軍事委員長大窪敏三が、その密航ルートを朝鮮、中国、日本の地名をあげて、明らかにした。2)、東京ビューローキャップ増山太助は、日本共産党側の人民艦隊体制をのべた。3)、れんだいこHPは、『戦後日本共産党史の研究12』において、次のように分析している。「この頃党は、中国へ脱出すべく人民艦隊の編成に着手しており、海上の秘密路線を作っていた。傘下の艦隊は15隻、主な出入港基地は関東から西の三崎、舞鶴、焼津、長崎等が使用されており、上海ルート、香港ルート、北朝鮮及びソ連ルートで、目的地は何れも中国であった」。
ただ、党学校参加者の約3分の2は、敗戦後、中国人民解放軍にいて、毛沢東を信奉した日本人兵士だったという説もある。となると、人民艦隊密航人数については、数百人になる。しかし、その比率に関するデータは、日本共産党が隠蔽している。
藤井冠次は、その密航状況を、日本共産党員として初めて、『伊藤律と徳田・北京機関』(P.20)で、次のように証言した。行先は北京と聞いていたが、出発した当時は五里霧中であった。この時の同行者は、国際会議出席のための機関要員男女各一名、私を含めて計三名で、途中京都で一泊し、長崎から、放送のためのアナウンサー要員(新劇出身)男女各一名が同行した。船は三十噸、六汽筒・焼玉エンジンのトロール船で、いわゆる人民艦隊の組織したものであったが、防衛上無線装置はなく、頼るものは羅針盤と海図しかない、おまけに竜骨に継ぎがしてある新造船で、素人同然の船員が操縦してゆくのであるから、出航して三日日、東支那海で暴風雨(しけ)に会った時は、板子一枚下は地獄の酩酊船(ランボオ)さながらで、生きた心地はしなかった。
後に北京で会った西沢隆二は、同様のこの密航の体験を思い出して、「明治維新の時、吉田松陰が密航したようなものだ」と語った。壮士風の彼なりの実感であろう。この体験は語りがたい。そんな感慨よりも、地下潜行の列車の旅から密航のすべてまで、ゆく先々で周到にわれわれの身の安全とダイヤを準備し、様々な困難を乗り越えて輸送任務を遂行した党組織と人民艦隊の勇敢な戦士たちに、いまも感謝を忘れることができない。彼らはいずれも二十代の若者たちで、胆力があり智力にすぐれていたが、縁の下の力持ちで、生命がけで全力を尽してはたらきながら、何一つ報いられることなく、ついに名を知られることさえなかった裏組織の人々である。私は彼らに人民大衆の不屈のエネルギーを見出し、革命の若々しい青春を見出した。
密航一週間の後、私たちは上海の埠頭に上陸し、一泊した後、列車で北京に向った。北京に着いたのは二月初旬、折柄中共は土地改革実施直後、国民経済再建のさ中で、北京駅頭には(反浪費・反貪汚・反官僚主義)の三反運動のスローガンが高く掲げられていた。
しかし、数千人の中国密航を成功させるのには、北京機関側の体制の存在が不可欠である。また、中国側提供の船舶・船員が存在した可能性もある。しかし、その側面データは、現在まだない。
増山太助『戦後期左翼人士群像』永山正昭と「人民艦隊」
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』「人民艦隊」ルートと朝鮮、中国、日本の地名
れんだいこ『戦後日本共産党史の研究12』朝鮮戦争、党分裂、人民艦隊
(5)、中央対外連絡部(中連部) 中国共産党側の北京機関指導・担当部署である。部長王稼祥、副部長李初梨で、趙安博も幹部の一人だった(『伊藤律回想録』64)。1950年4、5月、スターリンが招集したモスクワ会議に、当時、駐ソ大使であった王稼祥は、中国共産党代表で参加し、「宮本は分派」と裁定し(『七十年』228)。その後、日本共産党担当幹部になった。朝鮮戦争中、北京機関にたいし、毛沢東の軍事命令を伝え、日本国内の後方基地武力かく乱戦争行為データの軍事レポを受け取った窓口は、この中連部だった。20XX年、国家と12億人を私的所有する中国共産党が崩壊した暁には、人民解放軍情報部の「北京機関ファイル」が、完璧な武装闘争データ・軍事レポを含んで、発見されるかもしれない。
2、国内非合法機関
マッカーサーは、(1)米軍がすでに事前察知していた、金日成側からの先制奇襲攻撃をさせておいてからたたくという真珠湾攻撃並の謀略作戦とともに、(2)吉田内閣に単独講和条約・日米安保条約を呑ませる作戦の一環として、1950年、共産党幹部6・6追放をした。日本共産党は、その追放をきっかけとし、それ以前のスターリン・毛沢東の準備指令もあって、手際よく、表・裏の二重組織に移行した。非合法の裏=党中央軍事委員会と、合法組織の表=臨時中央委員会(臨中)となり、全体としては、半非合法政党になった。
非合法の裏=地下の党中央機関は、(1)中央ビューロー(地下指導部)→(2)中央軍事指導部(軍政面担当)→(3)中央軍事委員会→(4)全国統一司令部(部隊運用作戦指導)という系列となり、志田重男が党中央軍事委員長になった。下部軍事機構は、(1)から(4)まで、中央→地方→府県→地区→細胞レベルでも組織した(『回想』37)。東京の地下軍事組織Yの1951年末までの実態については、大窪敏夫・東京軍事委員長のリアルな証言がある。
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
(1)、中核自衛隊 この結成を非合法文書などで指令し、全国で約500隊、隊員は1万人近くになった(『回想』37)。メンバーの多くは、レッドパージされた労働者と学生だった。これは、都市部における後方基地武力かく乱戦争行為部隊だった。増山太助は次のようにのべている。「当時の新聞情報によると、五一年の一〇月現在、全国で五五の中核自衛隊ないしは独立遊撃隊が存在し、その人員は約二五〇〇人に達していたという。地下に潜ったYメンバーといわれる人たちの数は北海道、東北で各四〇〇人、関東三五〇人、九州三〇〇人、近畿二〇〇人、東海、中国、四国各一〇〇人、計約二〇〇〇人前後ではないかとみられている」(『左翼群像』213)。
(2)、独立遊撃隊 軍事委員会は、これを、中核自衛隊の中から戦闘的な者を選抜して編成した。そして、これを都市とともに、山村にも配備した。ただ、日本共産党は、休戦協定成立日でもって、武装闘争をぴたりとやめたが、これら戦闘部隊を存続させ、あるいは、新設もした。
脇田憲一が『私の山村工作隊体験』(『労働運動研究4』三一書房、1979年、絶版、53〜68)で、詳しい証言をしている。「和歌山、奈良地方の山間部で、日共中央軍事委員会の直接指導により山村工作隊が結成されたのは一九五三年(昭和二十八年)八月末であった。和歌山、奈良地方山間部に配属された山村工作隊の所属は、日共中央軍事委員会直属であり、その正式名称は「独立遊撃隊関西第一支隊」だった。
これは、隊結成の直接責任者であった当時の日共大阪府委員会軍事委員Wが、結隊式の席上、この隊結成は党中央がすでに認知したものであり、今後関西における第二、第三の隊結成を想定して第一支隊と命名されたと説明したことによって証明される。この山村工作隊は総勢三十名、和歌山県伊都郡花園村で結隊式を行い、これを大隊編成とし、大隊本部を花園村に置き、第一中隊、第二中隊を和歌山奥有田地方、第三中隊を奈良奥吉野地方に配属した」(54)。
(3)、山村工作隊 これは、劉少奇テーゼに盲従し、都市と農村での決起という中国の植民地型革命方式を日本に機械的に導入したものである。小河内山村工作隊が有名である。ここには、早稲田大学細胞を中心に派遣した。この山村工作隊事件経過を、警察側の視点から、『回想』(121〜131)が書いている。山村工作隊とは、政治工作の目的ではなく、暴力革命において、都市と並んで、山村にも軍事拠点を建設するという中国人民解放軍式軍事方針に基づく部隊だった。
由井誓 『“「五一年綱領」と極左冒険主義”のひとこま』山村工作隊活動他
脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」
(4)、在日朝鮮人組織・在日朝鮮民主戦線(民戦)と、その戦闘部隊祖国防衛委員会(祖防委)・祖国防衛隊(祖防隊) 在日朝鮮人の民戦は、日本共産党中央委員会の民族対策部(民対)の指導・指令をうける大衆団体だった。共産党と共産党系大衆団体とのフラクション方針により、民戦内に、民戦日本共産党グループがあり、それは、民戦・祖防委・祖防隊の武力かく乱戦闘行為をすべて決定し、指令した。祖防委・祖防隊の具体的武力かく乱行動は、党中央ビューロー志田→民戦日本共産党グループ指導者・李恩哲→府県・地区の在日朝鮮人共産党員という、軍事的無条件実行命令により行なわれた。
中核自衛隊・独立遊撃隊は、日本人共産党員側戦闘組織である。祖防委・祖防隊は、在日朝鮮人日本共産党員側の武装闘争組織である。戦闘指令トップは、非公然の地下指導部党中央ビューロー・軍事委員会Yで、同じである。武装闘争遂行においては、別行動だけでなく、両組織の統一行動もあった。当時、在日朝鮮人で共産党員になろうとすれば、六全協以前、全員が日本共産党に入った。
(5)、人民艦隊 これは、日本共産党と中国共産党との間の密航航路部隊だった。朝鮮戦争休戦協定後の1954年1月に、北京機関が党学校を設置し、その規模は関係者千数百人から二千人いた(『党史』143)。彼らは、全員が密航者であるから、密航規模は、往復を入れれば、まさに数千人になる。しかし、その密航実数は数百人とも言われる。その表向き指導部は、岡田文吉であるが、実質は、共産党非合法海員グループ常勤オルグの永山正昭だった。
ルートは、1)南朝鮮密航ルート、2)北朝鮮密航ルート、3)上海経由の中国密航ルートがあった。その概括を大窪敏三が明らかにしている。
増山太助『戦後期左翼人士群像』永山正昭と人民艦隊
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』人民艦隊
1953年3月5日にスターリンが死去し、7月27日に朝鮮戦争休戦協定が成立した。その時点で、日本共産党の武装闘争行為は、ぴたりとやんだ。この事実は、武装闘争の目的と性格が、(1)日本国内の暴力革命活動ではなく、(2)ソ中両党が日本共産党に出した軍事命令による朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行為であったことを証明している。
1955年5月12日、「平和と独立のために」(第407号)で終刊
1955年6月28日、軍事組織解体(『回想』279)
武器の処分については、当時の東京都委員会非公然ビューローの川口孝夫が証言している。
「一九五五年一月、日共中央は五〇年以降分裂していた両派の幹部によって、新しい臨時の指導部を組織し、党の統一と六全協の開催に向け準備を始めた。私は当時、東京都委員会の非公然ビューローの一員として、ビューローキャップの原誠次郎氏(神奈川・東芝出身)のもとで活動していた。この時の公然組織の責任者は唐沢清八氏である。東京都委員会も五五年の四月から全ての組織を公然化して活動を始め、六全協の準備に入った。
しかし、私はいわゆる白鳥事件に関係があるということで一人だけ非公然で残され、公然化できない部門(労働組合内部の党グループ、細胞の連絡、軍事部門)の指導と、組織の残務処理に当たることになった。主な任務は軍事部門を解散し蓄積されていた武器を廃棄することである。武器の処分は山村工作隊の政治委員であった人物が担当したが、この仕事は都党の組織が公開された四月から、六全協が開かれた七月までの間に終了した」(川口孝夫『流されて蜀の国へ』246)。
宮本顕治は、六全協後、川口孝夫を“白鳥事件の真実を知りすぎた男”として、中国の四川省(蜀)に永久流刑した。ソ連内通者袴田里見は、北京機関幹部として、中国共産党に「日本に革命が起きるまで、川口を帰すな」と要請した。これは、ソ中両党隷従者宮本とソ連内通者袴田との共同謀議による臭いものにフタの人権侵害犯罪だった。伊藤律の「北京幽閉27年間」も、2人とソ中両党による悪質な犯罪だった。
「終章・私と白鳥事件」 Z活動、手製けん銃 けん銃、弾薬、ダイナマイトの
中国流刑17年間 『回想』38 河、海への投棄、『回想』237
川口孝夫『終章・私と白鳥事件』転載以外は、北京機関・党学校、四川省(蜀)の内容
7、戦費の自力調達、ソ中両党による戦争資金の援助
〔小目次〕
1、戦費支出内訳の推計 (表2)
2、戦費収入内訳の推計 (表3、4)
2、ソ連共産党が支給した、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費の党本部受領
3、中国共産党が支給した北京機関維持費、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費
日本共産党「軍」は、傘下の軍事組織・戦闘部隊すべてを、日本全土で出撃させ、朝鮮戦争に参戦した。そして、後方基地武力かく乱戦争行為を、朝鮮半島でたたかう3つのレーニン型前衛党軍と共同して、朝鮮戦争期間の62%の間、続けた。その1年9カ月間、日本における参戦を遂行するのには、莫大な戦費を必要とした。その支出と収入の推計をする。
現在時価換算の計算式
当時の戦費といっても、私自身、イメージが湧かないので、日本円の2011年現在時価に換算する。ただ、できるだけ正確な推計にするため、やや面倒な計算をする。
(1)、当時の為替レートをまず確認する。1949年4月25日から1971年1月までは、固定相場制で、1ドル360円だった。1971年からスミソニアンレートで、1ドル308円になった。現在のような変動相場制に移行したのは、1973年以降である。よって、ソ連共産党による日本共産党への軍事資金援助ドルは、すべて1ドル360円レートである。中国共産党による日本共産党への軍事資金援助は、ドル建てでなく、推計になる。
(2)、次に、各戦費援助年時点のドル→円換算額を現在時価円にさらに換算する。その場合の換算基準を、1)、2011年現在のフルタイマーの平均給与額と、2)、当時の援助額という2つで、換算倍率を出する。1)を、大学新卒初任給相当の200000円と仮設定する。2)は、年度によって異なり、物価スライド式で引上げている。
(3)、これらに基づくソ連共産党による資金援助額の現在時価換算の計算式は以下になる。
1951年 200000円÷当時俸給1000円=200円(倍)
10万ドル×360円×200倍=7200000000≒約72億円
1955年 200000円÷当時俸給12000円=16.6円(倍)
25万ドル×360円×16.6倍=1494000000≒約15億円
1、戦費支出内訳の推計 (表2)
(1)、武器の購入・製造・使用・保管の費用
中国共産党から、どのような武器が密輸入されたのかは、資料がない。使用された武器は、ほとんどが火炎ビンだった。銃器の使用は、白鳥事件におけるブローニング拳銃一丁だけだった(『回想』66〜81)。別ファイルでのべる火炎ビン使用数百本から見ると、その製造は千本近いであろう。ブローニング拳銃使用は、白鳥事件だけであるが、川口孝夫証言や『回想』でのピストル廃棄数を見ると、数十丁を保有していたと推測される。戦前のスパイ査問事件のときだけでも、宮本顕治や特高スパイ大泉などが、3丁のピストルを所持していたことは、宮本顕治自身も法廷で認めた歴史の事実である。
別ファイル(表5)のように、爆破事件が、未遂も含めて、16件ある。使用・保有ダイナマイトは、数十本になる。ただ、それらの入手方法が、中国共産党からの人民艦隊密輸ルートなのか、非合法ルートの購入か、ダム工事現場などから盗んだものかは、不明である。これら購入・製造・使用・保管の費用には、数百万円かかる。ただし、推計幅が大きいが数千万円かもしれない。
(2)、中核自衛隊員・独立遊撃隊員・祖防隊兵士約1万人の毎月の生活・活動維持費
被レッドパージ労働者や学生などからなる日本人共産党員兵士や在日朝鮮人祖防隊兵士らの生活・活動費である。被レッドパージ労働者12000人の中にいた党員のかなりが、中核自衛隊員・独立遊撃隊員になった。祖防隊兵士を含めた彼らは、自己収入がない。参戦期間は、1年9カ月間であるが、レッドパージから六全協までは、約5年間になる。無収入の軍隊兵士全員に、生活・活動維持費を全額支給するのは、常識である。
1950年1月6日コミンフォルム批判当時、日本共産党は、党員数を236000人と発表した。その内、これら日本共産党「軍」の規模はどれだけだったのであろうか。その支給対象となる戦闘部隊・人数を、500隊・1万人と仮定する(『回想』37)。1万人×21カ月間×10万円≒210億円になる。5年間で計算すると、1万人×60カ月間×10万円≒600億円になる。軍隊とは、そもそも、消費するだけの完璧な非生産組織である。1万人の日本共産党「軍」を維持し、数年間活動させるには、膨大な浪費を必要とした。
それ以外に、合法臨中と非合法軍事委員会の非戦闘要員は、数千人いた。最低でも北京機関関係を除いて、2000人はいた。2000人×60カ月間×10万円≒120億円になる。それらを合わせると、600億円+120億円≒720億円かかった。
ただし、上記はかなり機械的な推計である。私の友人の非合法軍事委員や地下活動専従の話では、党中央や県機関から生活費がほとんど渡されず、知人宅で食事をもらったり、墓場のお供え物を食べたりして、活動を続けたとのことである。
ちなみに、現在の日本共産党専従数は、約4000人である。数字の根拠は、別ファイルで書いた。専従とは、革命綱領に基づいて、日本を社会主義国家にする革命運動に専ら従事する職業革命家のことである。私は、1977年、「日本共産党との民事裁判」を提訴して、除名になったとき、40歳で、専従給与は手取り10万円だった。その額は、友人たちと比べると、4分の1だった。専従4000人の平均給与は、現在約10万円から15万円である。共産党の専従年間人件費は、4000人×12カ月間×15万円≒72億円かかる。5年間なら、360億円になる。この比較から見ても、日本共産党「軍」1万人の5年間人件費600億円は妥当な数値であろう。もっとも、友人の話も真相に近いと思われるので、この720億円推計はぐっと下がる。
『ゆううつなる党派』日本共産党専従数4000人の根拠と活動・生活実態
(3)、地下非合法アジト・合法事務所設置費
中核自衛隊・独立遊撃隊は、全国で500隊あった(『回想』37)。党員・シンパ個人の家が地下アジトの基本であるが、アジト用借家もかなりある。現在、日本共産党が公表している地区委員会とその事務所は、315ある。当時は、合法の臨中事務所と、非合法の軍事委員会事務所とで、二重組織になっていた。2倍の約700カ所という事務所設置・維持費用を、60カ月間推計すれば、約700カ所×10万円×60カ月間≒数十億円になる。
(4)、非合法機関誌・パンフの出版印刷・配布費用
発行号数が判っているのは、3つである。『平和と独立のために』407号、『球根栽培法』22号〜?、『中核』22号〜?である。他の武装闘争指令の機関誌・パンフには、『人生案内』、『山鳩』、『栄養分析表』、『新しいビタミン療法』、『味の粋−たべある記』、『さくら貝』などがある。これらの発行部数と地下印刷所数データは、現日本共産党が持っている。地下印刷所設備を含めれば、十数億円かかる。
(5)、人民艦隊船舶15隻確保・数千人(数百人?)密航の運行費
密航に使った船舶について、大窪敏三は、「大部分が10トン以下の小型発動機船でね。小型船だから、発見されにくいし、またどこでも接岸できる利点があっわけだ」(『まっ直ぐ』218)と証言している。亀山幸三は、「地下財政が、かたっぱしから不動産を売り払い、しかも各部門の現金を一切合財党財政へ収奪したが、その大金はどこへいったのかと、非常に不審に思っていた。(中略)。ようやく謎が解けた。それは、六・六の直後にすぐ船を買ったのである。その船は少なくとも中国大陸と往復出来るだけのものであり、それに信頼できる船員も何名か雇い入れたのである。(このことは二、三年前に椎野悦朗にも確かめたが、やはり本当であった)」(『二重帳簿』284)と書いている。れんだいこHPは、具体的に「人民艦隊15隻」と明記している。
北京機関・党学校に密航した千数百人から二千人、北京機関指導幹部数十人や自由日本放送スタッフ50人、その他を合わせると、中国密航日本共産党員の往復のべ人数は、数千人になる。ただ、日本敗戦で、中国人民解放軍に降伏した兵士のうち、毛沢東思想に共鳴し、帰国せずに残留し、党学校に入った日本人もかなりいる。よって、この数字の中には、その兵士たちも含まれる。党学校の4分の3が、その兵士たちとする説もある。となると、人民艦隊による密航の日本共産党員数は、数百人レベルになる。しかし、この比率データも、日本共産党が隠蔽している。
密航党員の中には、北京機関指導部以外にも、帰国後、党中央幹部となった立木洋、工藤晃、榊利夫、聴濤弘や、歴史学者犬丸義一らもいた。彼らも、口を閉ざしている他幹部と同じく、「人民艦隊と党学校の秘密は死んでも話さない」という党機密防衛の気概を誇りとする生き方を貫いて、死去した。
れんだいこHPでは、「人民艦隊15隻」とする出典を書いていないが、それは近似値であろう。船舶購入・船員確保とその人件費、上海・日本間の数十回の往復密航費用も膨大である。人民艦隊は、1950年6・6追放後、ただちに結成された。それは、亀山幸三証言から明らかである。東宝撮影所争議後、党中央文化部員になっていた撮影監督宮島義雄が、人民艦隊で中国にまず渡り、毛沢東の「徳田北京密航」命令を持ち帰った。船員の人件費だけを推計する。15隻の船員100人×20万円×60カ月間≒120億円要る。密航党員は、数百人という説もある。しかし、船舶購入、運行費用を合わせれば、この額は、数百億円になる。
(6)、北京機関の維持・運営費
北京機関指導部と要員は数十人いた。伊藤律は、北京機関の建物を記している。「その秘密邸宅は北京西郊にあり、周囲は鉄条網を張った高い塀で、中国公安部隊兵が守備している。その後、新築された専用の大邸宅は、幹部用の二階建ビルだった」(『回想録』14、28)。戦争指令部幹部、スタッフが数十人いた。北京機関の存続期間は、6年11カ月間である。北京機関の戦争指令・活動費用、数十人×83カ月間の生活費、専用大邸宅の新築費を合わせると、約10億円になる。
(7)、北京機関党学校の維持・運営・生活費
そこには、現日本共産党も認めているように、千数百人から二千人がいた。その運営期間は、3年2カ月間である。学校関係者を含め、日本共産党員千数百人から二千人を教育した。「自由日本放送、党学校などの設備や亡命者らの居住、衣服、食事などの費用はすべてソ連と中国が負担した」(『七十年』220)。
二千人収容の学校・住居建設費に十数億円かかる。平均1500人×衣服・食事・教育費の時価10万円×38カ月間≒約57億円になる。その他費用を含めると、100億円を超えたであろう。
(8)、自由日本放送局の開設・運営費
自由日本放送局スタッフが50人いた。日本向け短波放送局の運営期間は、3年8カ月間である。作業班30人、電信班20人だった。放送設備、50人体制の居住、衣服、食事などの費用は「すべてソ連と中国が負担した」(『七十年』220)。放送設備費に数億円かかる。50人×居住・衣服・食事の時価10万円×56カ月間≒約2.8億円である。概算として5億円とする。
放送設備については、藤井冠次が、『伊藤律と徳田・北京機関』(P.160)で、次のように明言している。この時の放送施設は、いうまでもなく中国共産党の援助と協力によって非公然に開設されたもので、前章(胡同の家)とは別に北京市内にあった。出力は五〇キロ、短波周波数は前記の通り、スタジオの外部は平屋木造建であるが、器材は殆ど当時のラジオ放送国際的技術水準を示すもので、マイクロフォンは英国製ヴェロシティ型であった。但し、解放後まだ間もないため、スタジオの椅子は布地が破れ、中から綿がはみ出しているし、夏冬ともに冷暖房はないため、夏場は日本製の金属ファンの扇風機を弱でかけ放しにして放送するなど万事非常時型であったが、〈抗米援朝〉の大闘争のさ中ではあり、国内的には、国民経済復興の〈三反運動〉を展開している最中なのだから、これだけの施設を提供してくれたのは、文字通りプロレタリア国際主義の連帯観がなければ到底できないことであった。
藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も
これらの支出=参戦期間1年9カ月間を含む5年間の戦費総額は、推計で時価数百億円ではきかず、千数百億円になったであろう。時価換算の推計なので、過大過少評価のおそれも多いと思われる。ただ、今日まで、誰一人として、推計データを出した者はいない。
(表2) 朝鮮侵略戦争参戦戦費の支出分−時価推計
場所 |
種類 |
支出額 |
総額 |
日本国内 |
1、武器の購入・製造・使用・保管の費用 2、中核自衛隊員・独立遊撃隊員・祖防隊兵士約1万人の毎月の生活・活動維持費+非戦闘部隊専従の5年分 3、地下非合法アジト・合法事務所設置費5年分 4、非合法機関誌・パンフの出版印刷・配布費用 |
数千万円 720億円 数十億円 十数億円 |
800億円 |
海上航路 |
5、人民艦隊船舶15隻確保・数千人密航の運行費 |
数百億円 |
数百億円 |
中国北京 |
6、北京機関の維持・運営費 7、北京機関党学校の維持・運営・生活費 8、自由日本放送局の開設・運営費 |
10億円 100億円 5億円 |
115億円 |
総額 |
千数百億円 |
2、戦費収入内訳の推計 (表3、4)
〔小目次〕
2、ソ連共産党が支給した、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費の党本部受領 (表3)
3、中国共産党が支給した北京機関維持費、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費 (表4)
(1)、党員・シンパからのカンパ 数十億円
これは、合法的な調達である。1950年4月29日、組織分裂前の6回大会第19回中央委員会は、当時の党員数を236000人と発表した。共産党は、団体規制令により、党員数106693人と、当局に届け出た(『回想』277)。1949年の総選挙では、298万人の支持者(得票数)を得て、共産党は35議席になった。その党勢力で集めたカンパ総額は、不明である。
しかし、比較推定できるデータが一つある。2002年の共産党・代々木本部ビル新築において、公表在籍党員数43万人、共産党の衆院20議席という党勢力で、「本部ビルへの党員や後援者からの寄付は25億円を上回った」(しんぶん赤旗)。党員一人あたりの寄付額は、5814円である。よって、日本共産党軍の戦費として、時価数十億円の合法的なカンパを集めたと推定される。下記(表)の総計を出す上で、これを便宜的に、本部ビル新築カンパと同額の約25億円とする。
(2)、トラック部隊による会社乗っ取り、計画倒産手法の違法な戦費収奪犯罪 799億円
トラック部隊の存在と戦費調達の犯罪活動は、明白な事実である。最高責任者は、日本共産党中央軍事委員長志田重男で、トラック部隊隊長は、元文化部長で、その後、特殊(裏)財政部長になった大村英之介だった。日本共産党関係者では、その事実を、東京都ビューローキャップ・関東地方委員増山太助と第6回大会財政部長亀山幸三の2人が証言している。とくに、元中央委員亀山幸三は、『戦後日本共産党の二重帳簿』(現代評論社、1978年、絶版)の「第7、8章、特殊財政部の実態(1)(2)」(P.275〜332)において、トラック関係の年表を含め、詳細なデータを挙げ、57ページにわたり、その実態を検証している。彼が財政部長(表側)だっただけに、財政部人脈とその情報を生かして、分析したデータは、特殊(裏側)財政部の犯罪事実をかなりの程度まで浮き彫りにしている。ただ、戦費収奪犯罪の総件数・総額については書いていない。
そこで、戦費調達犯罪の全概況を、警察庁資料で見る。「トラック部隊とは、企業会社を拠点として、中小企業を相手に資金を収奪するために行なわれたものである。企業グループ常任指導機関(中央、関西、北海道に特殊財政部指導機関)をつくり、組織的計画的に実施され、詐欺、横領、特別背任、外為法違反等多種多様な不法手段により、企業の乗っ取り、計画的倒産等を行なった。それは、昭和二十六年以降数億円を収奪し、党資金として上納流用した知能的、かつ、悪らつな犯罪である。
このうち、警視庁公安部で処理したものは、犯罪件数三〇九件、検挙人員二五人、被害額三億九、九三七万〇二四五円で、証拠品七、〇〇〇点、参考人調べ二、〇九一人に及んだ。さらに本件の取り調べから、元在日ソ連代表部員ラストボロフが大村英之助の手を通じて、日共へ資金援助をしていた事実も明らかになったのである」(『回想』242)。
1951年当時の1円は、上記データのように、時価200円・倍に相当する。399370245円×200円≒799億円になる。この全額が、大村英之助経由で、日本共産党中央軍事委員会に渡り、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費になった。この戦費調達行為の性格は、まさに、統一回復日本共産党が、朝鮮戦争参戦中に犯した戦争犯罪そのものだった。
2、ソ連共産党が支給した、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費の党本部受領
(1)、スターリンが統一回復日本共産党に与えた朝鮮戦争の戦費約72億円
(表3)は、『「異国の丘」とソ連・日本共産党』ファイルに載せたものである。朝鮮戦争の戦費に該当するのは、「1951年の10万ドル=約72億円」である。当時の1円の時価換算計算式は、上記に書いた。
(表3) シベリア抑留期間中、ソ連共産党から日本共産党への
資金援助回数と額推計(抑留者による共産党カンパも含む)
回 |
年 |
ソ連援助額 |
為替レート |
当時の1円 |
現在時価 |
受領 |
共産党側弁明 |
1 2 3 4 |
1945 1949 1951 1955 |
(隠蔽?) (カンパ) 10万ドル 25万ドル |
360円 / 360円 360円 |
666円・倍 200円・倍 16.6円・倍 |
(?億円) 約21億円 約72億円 約15億円 |
党本部 党本部 党本部 党本部 |
野坂要請 大村領収書 北京機関 |
計 |
35万ドル+? |
360円 |
108億円+? |
党本部 |
|||
5 |
1963 |
15万ドル |
360円 |
10円・倍 |
約5億円 |
党本部 |
野坂、袴田ら |
日本共産党は、次の事実を認めている。「1952年9月6日、ソ連資金を受け取ったという同日付の大村英之助名義の受領証。北京機関の指導下にあったものへの資金援助を証明」(『党史』140)。資金額を意図的に隠蔽しているが、それが10万ドルであることは、国際的証拠文書で明白である。しかも、その月日には、宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服により、統一回復日本共産党になっていたことも事実である。よって、大村英之助は、正規の日本共産党中央委員会特殊(軍事)財政部長だった。ということは、宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服が判明した現在、『党史』記述内容は、約72億円の党本部受領を、皮肉にも証明したことになる。そして、1952年9月6日の日付は、宮本顕治が屈服し、主流派に復帰した武装闘争日本共産党が、後方基地武力かく乱戦争行為を遂行しているさなかだった。約72億円とは、スターリンが日本共産党に与えた朝鮮戦争の戦費だった。
『「異国の丘」とソ連・日本共産党』ソ連共産党から日本共産党への資金援助回数と額推計
(2)、ラストボロフが大村英之助に渡した45万ドル紙幣≒約324億円
彼の経歴を見る。「ユーリー・A・ラストボロフ 元在日ソ連代表部二等書記官として勤務していたが、実はM・X・Dの中佐であった。第二次大戦以降諜報任務に従事、昭和二十五年日本勤務となり、以来多数の日本人工作員を使用してスパイ活動を行なったが、昭和二十九年一月二十四日ベリヤ粛清の余波におそれて米国に亡命した」(『回想』242)。
「さらに、トラック部隊事件の取り調べから、元在日ソ連代表部員ラストボロフが大村英之助の手を通じて、日共へ資金援助をしていた事実も明らかになったのである」(『回想』242)。ここでは、資金額を書いていない。
第6回大会財政部長・元中央委員亀山幸三は、『戦後日本共産党の二重帳簿』で、この疑惑をのべている。1)「1951年5月、ソ連人ラストボロフ、大村英之助に数十万ドルを渡す、日本円にかえて一部を原野茂一へわたし、葛飾瓦斯の乗っ取り資金にする」(276)。2)「新日本産業新聞重役の安田の弗円交換事件は、いわゆる大村英之助とラストボロフとの四五万弗事件の一翼であったらしい」(282)。3)「トラックにたいする警察の手入れは迅速にせまってきた。志賀談話の直後の九月一六日にはその責任者であった大村英之助が検挙された。大村の次の責任者長橋正太郎はすでに八月二六日に中国へ逃亡していた。ソ連大使館員ラストボロフから四五万弗の弗紙幣を大村が受け取っていたこともその頃暴露された。次々に新聞紙上に出るトラック関係の企業名やトラックメンバーの顔ぶれはほとんどが私の知らないものばかりであった」(324)。
「四五万弗を受け取っていたことも暴露された」とは、警察庁発表による新聞報道である。それを時価換算する。45万ドル×為替レート360円×200円・倍≒324億円になる。
ソ連共産党が隷従下日本共産党に与えた後方基地武力かく乱戦争行為の戦費データが、3つになった。これらが、同一なのか、3回がそれぞれ別個なのかは、闇の中である。
1951年、10万ドル=72億円とは、ソ連と東欧各国が拠出して、資本主義国共産党にいっせい資金援助した中の、日本共産党分の額という国際的証拠文書データである。この額を、統一回復日本共産党本部が受領したことは、イタリア、フランスなど他国共産党が、同時期の自党本部受領を認めていることからも事実である。
1951年5月、45万ドル=324億円を、大村英之助がラストボロフから受け取ったことは、警察庁発表による新聞報道から見て、事実と考えられる。
1952年9月6日、ソ連資金を受け取ったという同日付の大村英之助名義の受領証について、現在の日本共産党は、その存在を認めつつも、その受領額を隠蔽している。その時期、宮本顕治屈服によって統一回復をしている以上、日本共産党本部の特殊(軍事)財政部長受領は、完全な事実である。
3、中国共産党が支給した北京機関維持費、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費
(1)、北京機関維持・運営費 約10億円 中国共産党が全額負担(ソ連共産党負担割合?)
(2)、北京機関・党学校 約100億円 中国共産党が全額負担(ソ連共産党負担割合?)
(3)、自由日本放送 約5億円 中国共産党が全額負担(ソ連共産党負担割合?)
(4)、人民艦隊 中国共産党分担分2億円
現在も、密航用船舶数・船員数・往復回数などは不明である。亀山幸三のいう大金額とともに、トラック部隊の収奪犯罪額799億円も人民艦隊に使ったであろう。それらを合わせると、日本共産党が支出した人民艦隊費用は、数百億円になった。中国共産党は、密航費用の一部と、上海での受け入れ設備、上海から北京党学校までの旅費を受け持った。その一人あたりの片道総経費5万円×のべ4000人≒約2億円になる。
(5)、後方基地武力かく乱戦争行為の戦費の現金支給 ?
下の(表4)のように、ソ連共産党は、現金による戦費援助として、396億円も、日本共産党「軍」に支給している。それと比べると、中国共産党の支給額が、117億円では、ソ連共産党との差額は、396−117=279億円となり、ちょっと釣り合わない。117億円とは、中国本土内における日本共産党「軍」にたいする戦費支出額だけである。よって、中国共産党のそれ以外の現金戦費援助額は、300億円前後になった可能性がある。
ソ連共産党と同額と仮定する。となると、日本共産党「軍」の参戦戦費収入総額は、1337+279=1616億円になる。
(表4) 朝鮮侵略戦争参戦戦費の収入分推計
党 |
種類 |
収入額 |
総計 |
備考 |
日本共産党 の自力調達 |
党員支持者カンパ トラック部隊収奪金 |
25億円 799億円 |
824億円 |
2002年党本部新築カンパと同額と仮定 警視庁発表3億9937万円の時価換算値 |
ソ連共産党 の戦費援助 |
1951年援助 ラストボロフ→大村 |
10万ドル= 72億円 45万ドル=324億円 |
396億円 |
第1次国際資金援助の日本共産党分 警察庁発表新聞報道「ドル紙幣→円換金」 |
中国共産党 の戦費援助 |
北京機関 党学校 自由日本放送 人民艦隊 現金支給 |
10億円 100億円 5億円 2億円 ? |
117億円 ? |
ソ中両党軍事命令の国内伝達機関 休戦協定後100億円支給の意図(?) 国外からの参戦鼓舞アジプロの役割 +中国側の船舶・船員提供数十億円(?) +他に現金支給の可能性(279億円?) |
日中ソ3党 の戦費総額 |
/ |
/ |
1337億円 |
+中国共産党の現金支給(279億円?) |
熱い戦争に参戦=武装闘争をすれば、お金がかかるのは常識である。ところが、今まで、誰も、日本共産党の参戦戦費支出・収入総額を推計しようとした人がいない。具体的データもない。よって、日本共産党の侵略戦争参戦収入戦費1337億円、または、1616億円の額は、あくまで第1次試算である。日本共産党が参戦状況とそのデータ、戦費額を公表すれば、そちらに書き直す。また、中国共産党が崩壊して、北京機関ファイルが発掘されれば、このデータはもっと正確になるであろう。
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〔関連ファイル〕
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』7資料と解説
THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』
Wikipedia『朝鮮戦争』
石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
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中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する
(添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」