『異国の丘』とソ連・日本共産党(第1部)
シベリア抑留問題から見た「逆説の戦後日本共産党史」
1945〜1955「六全協」
(宮地作成)
(注)、ファイル分量が大きくなったので、2分割した。CG(コンピューター・グラフィックス)、および、3DCGは、ファイル(1)(2)とも、すべて、長男宮地徹作成のものである。
なお、2002年9月、新たに、1)シベリア抑留者「奈良県の吉田勇さん」の絵4枚(『はるかなシベリア』北海道新聞社、1995年、所収)、2)『スターリンの捕虜たち』の写真2枚(北海道新聞社、2001年、所収)、3)『シベリア捕虜収容所』の写真3枚(明石書店、1999年、所収)を追加した。1)のHP転載については、吉田勇氏ご遺族の了解、2)については、訳者長勢了治氏の了解とともに、いずれも出版した北海道新聞社の了解をいただいた。3)については、『初版』(1979年)がサイマル出版会であるが、絶版の上に、出版社解散により写真著作権が不明である。現出版社と相談の上、問題が起きたら、HPから削除することにした。
〔目次〕
1、ミュージカル『異国の丘』 You Tube『異国の丘』3編リンク
2、シベリア抑留の経過と性格 (表1、2)
3、“未必の故意”による「シベリア極寒(マローズ)殺人」 (表3)
4、民主運動とソ連共産党 (表4)
5、舞鶴「ダモイ(帰国)」とソ連による日本共産党支援方針の強化
6、シベリア抑留めぐる日本共産党問題 (別ファイル・2)
1)、当時の日ソ両党関係の実態 1945年〜1955年「六全協」
2)、代々木、他での集団入党と多額の共産党カンパ問題
3)、徳田球一「要請(期待)」“帰国妨害”問題と管季治の証言・自殺問題
4)、宮本顕治「抑留記『極光のかげに』内容の批判発言」問題
5)、野坂参三「NKVDスパイ」事実と「民主化運動提案」事実 (大幅加筆・改定)
6)、抑留期間中、ソ連から日本共産党への108億円以上の資金援助問題(表5、6)
7)、シベリア抑留により「具体的恩恵」を受けた“唯一の革新政党”
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シベリア抑留関係
木内信夫 『旧ソ連抑留画集』
ソ連抑留記『青春の足跡』
佐々木芳勝『流転の旅路 −シベリア抑留記』
川越史郎 『抑留生活のあと、日本を捨て、家を捨ててソ連に残ったが…』
宮地幸子 『「異国の丘」が強く心に響く』
ステファン・コスティク『ウクライナ人捕虜から見た日本人捕虜』
逆説の戦後日本共産党史関係
『逆説の戦後日本共産党史』ファイル多数
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』
2002年3月、劇団四季のミュージカル『異国の丘』を観た。名古屋での長期公演で、連日満員の大盛況だった。当日は、ミュージカル愛好の若い人が中心だったが、シベリア抑留体験者らしい年配の方々もかなりいた。
ストーリーは、1930年代当時の近衛文麿首相の長男近衛文隆を主人公とし、彼のアメリカ留学、上海における日中和平秘密工作の破綻を経て、シベリア抑留となり、1956年、死ぬまでの期間である。彼は、ソ連戦犯として25年の刑を受けた。ソ連政府は、彼を「大物スパイ」にしようと、様々な拷問・勧誘をしたが、彼は一貫してそれを拒否した。その中で、シベリア抑留における強制労働、飢餓、仲間の死が、吉田正作曲『異国の丘』合唱を含めて、多くのミュージカル・ナンバーが歌われる構成になっていた。舞台は、彼がスパイになることを拒絶し続けたために、抑留最長11年の帰国当日に、ソ連当局による薬物注射で殺されるシーンで幕を閉じた。
ソ連共産党、政治局による「コノエを帰すな」という指令事実と、近衛殺害については、ロシア人研究者アルハンゲリスキーが『プリンス近衛殺人事件』(新潮社、2000年)で、ソ連崩壊後発掘した膨大な機密資料や「近衛ファイル」のデータによって論証していた。次の引用では『殺人事件』と略した。
約60万人の日本人シベリア抑留から57年経って、その体験が風化しつつあり、戦争、抑留問題を知らない世代が圧倒的多数になってきている。このミュージカルは、現時点で、そのテーマを再提起するという、きわめて大きな意義を持っている。全体を通じて、企画・演出・台本の浅利慶太の「赤紙・一銭五厘の視点から」という精神がにじみ出ていた。上海場面では、中国側の「侵略者日本」にたいする批判・反撃もきちんと描かれていた。アメリカ留学時代のダンスシーン、シベリア抑留者たちの『異国の丘』合唱などにも感銘を受けた。私(宮地)たち夫婦も、初めて劇団四季の公演を観たが、ミュージカルとしての側面はとてもよくできていて楽しんだ。
異国の丘
増田幸治作詞 佐萬孝夫補作詞 吉田正作曲
今日も暮れゆく 異国の丘に 友よ辛かろ 切なかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日もある 春がくる
今日も更けゆく 異国の丘に 夢も寒かろ 冷たかろ
泣いて笑って 歌ってたえりゃ 望む日がくる 朝がくる
今日も昨日も 異国の丘に おもい雪空 陽がうすい
倒れちゃならない 祖国の土に 辿りつくまで その日まで
02:57 投稿者: ge1206
戦後、シベリアに抑留されていた兵士の間で作られ、歌われた歌 ...
www.youtube.com/watch?v=9hkoI_r3MLM
Videos, Channels. advanced. Loading... 異国の丘. Hello, you ...
www.youtube.com/watch?v=mZiqfwYeZvg
ただ、当然ながら、商業ミュージカルによる限界をもっている。このシベリア抑留問題めぐるソ連共産党、日本共産党に関する政治的背景、方針や、いわゆる「民主運動」はカットされている。主人公が、帰国当日死んだ(=殺された)ので、「ダモイ(帰国)」前後の動向に触れていない。私は、この舞台を観たことによって、日本左翼陣営および日本共産党にとって“一種のタブー”となっているシベリア抑留問題に興味をもち、いろいろ調べた。
以下の文は、シベリア抑留問題全体の分析ではない。また、そこでの強制労働、飢餓、死亡の具体例については、何千という『抑留記』『抑留画集』があるので扱わない。ここでは、その根底にあるソ連共産党の目的・方針とそれに関連した日本共産党の問題というテーマに限定した。というのも、ソ連崩壊後、ソ連機密資料が公開され、ロシア人研究者3人が、その膨大なデータを分析して、シベリア抑留問題について3冊の文献を出版したからである。そこには、ソ連側の「シベリア抑留行政」実態とソ連共産党による強力な日本共産党支援活動内容が初めて暴露されたからである。
その「新事実」によって、抑留期間中の日本共産党の徳田球一・宮本顕治・野坂参三らとの関係を再検討する必要が生まれた。このテーマにおけるスターリンの個人的役割は大きく、かつ、表向きはソ連政府である。しかし、シベリア抑留行政の中核は、スターリン憲法により明記され、また実態として国家権力の上に君臨するソ連共産党である。よって、ソ連共産党と、当時もコミンテルン日本支部以来の対ソ連共産党従属状態下にあった日本共産党との関係を分析した。
まず、抑留・死亡者数と帰還経過を確認した。数字的には、日本側、ソ連側でさまざまなデータがあった。
(表1) 抑留・死亡者数と帰還者数
抑留者 |
死亡者 |
帰還者 |
出典 |
|
1、厚生省 |
575000 |
55000 |
472952 |
厚生省援護局 |
2、ソ連内務省 |
609448 |
61855 |
546752 |
軍事捕虜・抑留者担当総局 |
3、ソ連機密資料 |
1102145 |
92053 |
1010092 |
内務省・各軍管区収容所計 |
(1)、厚生省の「帰還者472952人」は、2001年度の厚生労働省調査資料室データを、私(宮地)が直接確認した正確な数字である。従来は『援護五十年史』(厚生省社会援護局、1997年、P.456)で「帰還者約473000人」となっている。ただ、死亡者数字については、その(注)において「帰還者から個別に聴取した資料をまとめたもの」と書いてあるだけで、「55000人」の具体的根拠に触れていない。そのうち「死亡者名簿」提供は、3回あり、「名簿登載者総数40025人」であるが、「身元が特定できた者26361人・66%」しかない。
(2)、ソ連内務省の数字は、すべて『歴史軍事雑誌第4号』(1991年)にあった。日本共産党は、厚生省数字を無視し、ソ連共産党と同じデータを使い、『日本共産党の七十年・党史年表』(P.112)に載せている。
(3)、ソ連機密資料の数字は、ヴィクトル・カルポフ『スターリンの捕虜たち−ソ連機密資料が語る全容』(北海道新聞社、2001年、P.23、他のページ)にあった。
(表2) 帰還経過(厚生労働省調査資料室データ、2001年)
時期 |
帰還者 |
対象 |
1946.9.16〜1950.4.22 |
470382 |
一般軍事捕虜 |
1953.12.1〜1956.12.26 |
2570 |
スターリン死後再開。ソ連戦犯、その他。最長11年 |
総計 |
472952 |
モンゴル12000人、民間人を含む |
ソ連側の上記2つのデータとは、かなり異なっている。
シベリア抑留の性格には、3つがあった。これらは、ソ連崩壊後のロシア側4研究文献が一段と精密に論証した。
第1、ポツダム宣言第9項違反である。それだけでなく、ソ連軍=ソ連共産党ぐるみの60万日本人にたいする「トーキョー・ダモイ(東京に帰れる)」というウソによる“拉致”だった。数多くの『抑留記録』でも、ほぼ全員がこの「ウソ=日本人だまし」を書いている。ソ連側機密資料も、このソ連共産党の「ウソ」指令の存在を証明した。
第2、ソ連共産党は、社会主義国ソ連の戦後国土復興という第1目的のために、最初から賃金も支払わない奴隷労働力として使用する方針をもって、ソ連本土を侵略していない日本人約60万人の軍事捕虜を“拉致・抑留”した。ソ連共産党は、当初、収容所施設、食糧、防寒具もない状態での抑留により、1945年から46年だけで、51163人を強制労働死、餓死、防寒具不支給による凍死という「日本人の大量殺人犯罪」を犯した。これは、戦争状態における「戦死」ではない。この「シベリア“極寒マローズ”殺人」数値は、上記ソ連機密資料による「死亡者92053人」の一部である。
第3、ソ連共産党の第2目的は、軍事捕虜約60万人のソヴィエト化(=ソ同盟支援者化)と日本共産党支援(=日本革命の戦士養成)というイデオロギーを含んだ中国・朝鮮・日本の東アジア向け作戦の一環だった。1944年から45年の東ヨーロッパ解放は、結局のところ、「東欧のソ連衛星国化」だった。東アジアでは、朝鮮北部の「ソ連衛星国化」とともに、1949年にかけて中国革命が進展していきた。残るのは、日本の社会主義革命=「ソ同盟の衛星国化」の課題だった。シベリア抑留の日本人約60万人は、そのための絶好の工作材料となったのである。この工作の具体的内容をソ連機密資料に基づく3冊の文献データによって、以下分析する。
3、“未必の故意”による「シベリア極寒(マローズ)殺人」
〔小目次〕
1、ソ連機密資料が示す“零下40度の極寒(マローズ)殺人”の状況証拠
1、ソ連機密資料が示す“零下40度の極寒(マローズ)殺人”の状況証拠
1945年8月15日、日本軍は無条件降伏し、武装解除に応じた。ソ連共産党・ソ連軍は、8月23日から、『トーキョー・ダモイ(東京に帰れる)』というウソによる“シベリア拉致”を、いっせいに開始した。シベリア拉致決定の正式文書は、戦後48年間見つからなった。それは、降伏8日後の1945年8月23日付で出された『国家防衛委員会の決定、モスクワ・クレムリン』だった。この機密資料は、1993年6月、ソ連崩壊後に、読売新聞社古本記者が、ロシア大統領直属の「クレムリン文書保存館」で発見した。その全文を、高木一郎が『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店、1996年、P.10〜17)に載せた。題名は『日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について』で、14項目と19細目にわたる詳細な指令である。「国家防衛委員会議長ヨシフ・スターリン」がサインをしている。
「抑留者」は、兵士・民間人とも夏服・夏靴だった。日本人側は、「抑留者」と言うが、ソ連側は「軍事捕虜」と呼んた。ソ連共産党側は、1945年末から46年初めにかけて、冬のシベリアが、“零下40〜50度の極寒=マローズ”になることを当然ながら熟知している。しかし、『トーキョー・ダモイ』というウソをついての“拉致”であるからには、軍事捕虜にたいし「越冬装備・衣服の携帯」を指令するわけにもいかない。
現地シベリア当局は、いきなり、約60万人から110万人の収容を指令されても、その施設・冬装備の準備もできていなかった。アルハンゲリスキーが『殺人事件』で、ソ連崩壊後の機密資料から、そのデータを書いている。長くなるが、そのまま引用する。これらの機密資料は、“零下40度のシベリア極寒(マローズ)殺人”の証拠文書である。
『スターリンは最高命令者であったが、どこにどうやってこの膨大な数の人間を移送する気だったのか? 収容家屋も冬季用衣服、輸送手段、食糧備蓄もないのだ。護送隊さえ不足している。当初、満州では日本人が自分自身を護衛した……
あまりにもたくさん実例があるから、証拠を引いても無意味なのだが……
ハバロフスク州には十三万二千人を移送することになっているが、臨時宿舎は三十二人分しかつくらなかった。チタでは一万千四百五十人に対して五十五人分しかなかった。他地域もおして知るべしである。ケメロヴォの第五〇三ラーゲリでは、一万二千六百三十人の捕虜がいるが、冬用マットレス三千百九十個、毛布六〜七千枚、フェルト製防寒長靴二千九十二足、外套四千七百六十六着しかなかった。多くの者は、帽子、ミトン、靴下、足布さえなかった。調理場、食堂、風呂、洗濯場、消毒室、トイレ、ベッド、診療所もなかった。捕虜は列車で運ばれたり、数千マイルを歩かされた。現人神スターリンの命令に従わない者は、即座に銃殺だった。
こんな状態でどうやって人員損失を避けることができよう? タイシェトの第七ラーゲリと言えば、バム鉄道建設現場で最悪のものとされたが、ここでは一九四五年十二月に日本人が二百八十九人、翌年一月に三百八十九人、二月に三百十二人、三月に百七十九人がそれぞれ死亡した。冬季《人員減損率》は三二・九パーセントに達した。
ペトロフ将軍は日本人抑留者用の配給食料をくすねて自分の家族にはたっぷり食わせているが、第五二五ラーゲリを視察し、モスクワ本部に次のように報告している。「毎月三百〜五百人死亡、冬季四カ月間に二千四百八十二人死亡、第五〇三ラーゲリでは二千百七十人、第二四ラーゲリでは、二千百九十九人死亡。新たな一団が到着した際、貨車に七十八体の死体を発見。移動中の凍死である」。
一九四六年四月にペトロフがクルグロフ内相に提出した報告書にはこうある。「極東全州において捕虜受入れ用宿舎の供給率は一五〜二〇パーセント以下。一九四五年八月二十三日付国家防衛委員会決定は現場では実行されていない。沿海州、チタ州では日本人は掘っ立て小屋、夏用テント、暖房のない兵舎に収容され、冬もそこに留めおかれた。給食は準備されず、米・肉・野菜がなかった。医療は事実上なきに等しかった。鉄道・自動車輸送手段がなかったため、沿海州、チタ州などへは満州・朝鮮から徒歩で移動させた。たとえば、八千人からなる一つの縦隊は二千キロ行進し、その間食べ物、水、休息は一切なしだった」。
『殺人事件』(P.178)のデータ 全体統括は、ソ連共産党「ラーゲリ政治部」。
日本人捕虜を扱う「ラーゲリ管理局」は71あり、その下に「ラーゲリ」を217カ所
に分け、さらに、それを「ラーゲリ支部(分所)」として2112カ所に細分化した。
「特別労働大隊」を、392隊編成し、「捕虜用特別病院」を、178カ所作った。
食べ物も、水も、休息もなかったというなら、彼らは何をもらったのか? 空気か? それも凍り付くような冷気だ。その年はもう十月に地面が凍り始めている。日本人は早期帰国を期待し戦わずしてソヴィエト部隊に投降したが、虜囚となった最初の数カ月で、南洋の激戦地よりも多いくらいの人員を失ってしまった。特にひどくやられたのが、いわゆる民間人抑留者である。彼らは街頭からそのまま拉致された。真夜中に寝床からたたき起こされ、あるいは、工場の作業場から引っぱられ、貨車に詰め込まれたり、隊列を組んで歩かされて、北へ北へと追いやられた。民間人は兵隊より倍も年を食っているし、衣類・靴も悪かった。シベリアの厳冬にそぐわないものしか身につけていなかった』(P.192)。
『一九四七年十一月六日、クルグロフはスターリンを喜ばせた。十月革命三十周年を前に予定より二カ月早くタイシェトとブラーツクを結ぶバム鉄道始発点区間が開通した。区間距離三百十キロ。《親分、ブラーツクからウスチ・クートの第二区間もきっと期限前に開通したよ。何しろ、日本人はよく働く。並の働き者とはちがいる……》。この作業に十一万二千から十八万の日本人抑留者を動員したという報告書が残っている。「世紀の幹線」(第二シベリア鉄道ともいわれるバム鉄道の異名)のレールは捕虜たちが零下三十度、四十度の酷寒の中で敷いる。夏靴にソックス、戦闘帽という軽装で。バム鉄道沿いにずらっと死体がならんだ……』(P.195)。
『《シベリア抑留問題は存在しない》とするコワレンコの第二公理はグロテスクな犯罪効果を生んだ。日本人抑留者が大量死したという事実が公式に完全否定されたとなれば、埋葬地もあってはならないのであった。フルシチョフは日本人墓地破壊命令を発令した。人骨を蹴散らしてブルドーザーやトラクターが走り回り、埋葬地は道路や住宅団地、菜園と化し、人造湖の湖底に沈んだ。イルクーツク州では、一九五〇年から五四年までに七十五カ所の日本人埋葬地が消滅した。否、抹殺された。この野蛮行為の典型ともいうべきは、一九五九年四月九日付の内務省令第三〇/三−一一五五である。これに基づき、現地に次のような指令が飛んだ。
日本人墓地を破壊せよ
該当する地方警察本部およびその他の内務省機関に指示する。雪解けのあとに残存する日本人埋葬地を破壊する。破壊される墓地では、彼らが埋められている場所の盛り土を崩して平らにし、墓標を破壊し、柵を取り払う。イルクーツク州領内の五十四カ所の墓地を破壊した後、六カ所の墓地が残る。これらは必要の場合外国人が訪れることを許される墓地のリストに含める……
(フルシチョフ、ブレジネフ、ブルガーニン、スースロフ、ミコヤン、ヴォロシーロフ)
ソ連内務省監獄部長ブラーノフ大佐
ブラーノフ大佐の前に筆者はわざと当時のソ連最高指導部の(名前)を連ねた。当然、彼らの署名入りの命令書は残っていない。しかし、スターリン時代と同じく、この国では党指導部の許しがなければ何もできないのだ』(P.199)。
これらは、まさに、“ソ連国家・ソ連軍の上に君臨した”ソ連共産党による日本国民大量殺人犯罪とその証拠隠滅犯罪である。そして、“零下40度のシベリア極寒(マローズ)殺人”である。「マローズ」で零下4〜50度にならないときでも、シベリアの冬は、零下数十度になった。他の2つのソ連機密資料文献にもその殺人証拠資料があったが、これ以上引用しない。もちろん「死因」は、「マローズ」だけではない。すべての「抑留記」が告発していることは、『極寒、飢え、強制労働』の3つである。「死因」は、『強制労働死、餓死、凍死』のいずれか、もしくは、その複合原因によるものである。
やせ衰えて死んだ仲間に手を合わせる 目を光らせて食糧の分配を見守る抑留者
日本人抑留者 (絵は、4枚とも吉田勇さん)
そこで、世界最大のマルクス主義政党が犯したこの「他国民」大量殺人犯罪のもう一つの性格を規定する必要がある。
これは、(1)たんなる“偶発的な、やむをえざる事故死”なのか、それとも、(2)“故意の殺人”か、あるいは、(3)“未必の故意による殺人”なのかというテーマである。上記(表)の「死亡者6万人から9万人」の性格をきちんと規定することが大切だからである。
(1)“偶発的な、やむをえざる事故死・餓死・凍死”などでないことは明白である。(2)“故意の殺人”であるとすると、約60万人の軍事捕虜の一部を、意図的に強制労働死・餓死・凍死させる目的の存在を証明することが必要になる。上記ソ連共産党の第1・第2目的から見て、“故意の殺人”目的はなかったと思われる。ただし、シベリア抑留に関する無数の「証拠隠滅」「日本人墓地破壊」は、“故意の犯罪”である。
私(宮地)の判断は、ソ連機密資料文献3冊、厚生省データ、および膨大な「抑留記」などを検討した上で、それが(3)“未必の故意による殺人”だったとするものである。「未必の故意(みひつのこい)」とは、日本の刑法用語である。その法律解釈を3つ引用した。
1、新辞林・三省堂、『〔未必の故意〕実害の発生を積極的に希望ないしは意図するものではないが、自分の行為により結果として実害が発生してもかまわないという行為者の心理状態』。
2、新村出編・広辞苑第3版『[未必の故意]〔法〕行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図ないし希望したわけではないが、自己の行為から、ある事実が発生するかもしれないと思いながら、発生しても仕方がないと認めて、あえてその危険を冒して行為する心理状態』。
3、判例付・六法全書、松原富雄監修、昭和56年版、金園社『場合によったら人が死ぬかも知れないと意識しながら、それもやむを得ないと考え、ピストルを人に向けて発射し、その結果弾丸が命中して人が死んでしまったら、たといその人を殺そうと思って射つたのでなくても、人を殺す犯意があって人を殺したことになる』。
1991年ソ連崩壊後、ソ連機密資料に基づくロシア人研究者3人によるシベリア抑留実態が、初めて暴露された。それらは、マルクス主義政党が、この刑法解釈どおりの「心理状態」で、日本国民の約6万人から9万人にたいし“未必の故意によって零下40度のシベリア極寒(マローズ)殺人”を犯し、『強制労働死、餓死、凍死』させたことを証明した。「権力を握ったソ連・マルクス主義者たち」は、約60万人日本国民をシベリア拉致する行為によって、10%前後の『強制労働死、餓死、凍死』が発生するかもしれないと思いながら、『6万人程度なら死んでも仕方がない』と認めて、ソ連機密資料が暴露した“とても生存でない”ような装備・施設・マローズ環境に拉致した。
空のスープ缶をすくいながら ソ連兵の監視の中、
すしや赤飯の夢をみることもあった 伐採作業に汗を流す抑留者
このような「犯罪心理状態」は、いつから、なぜ、共産党内に形成されたのか。
1991年ソ連崩壊によって、「レーニン秘密資料」6000点や膨大な公文書(アルヒーフ)が公表・発掘された。それらによって、「レーニン神話」とその裏にある、恐るべき「真実」が暴露されてきた。それが証明したことは、シベリア抑留とその死亡者問題だけでなく、はるか以前の1917年ロシア革命当初から、レーニンが、自国民に「人民の敵」というレッテルを貼りつけ、大量の“故意の殺人”、“未必の故意の殺人”犯罪を犯してきたという事実だった。
スターリンの犯罪は、1956年、フルシチョフの「スターリン批判」後、かなり明らかになっている。彼は、約4000万人を粛清した。1932・33年の飢饉では、600万人の死亡者が出た。これは、重工業開発資金獲得のための穀物・家畜飢餓輸出をし、コルホーズ農民から極端な軍事的食糧収奪を強行した結果だった。これは、スターリン・ソ連共産党が行なった“未必の故意の人為的飢餓殺人”だった。この時点では、天災は発生していない。彼は、1936年から38年にかけて、『大テロル』を指令し、そこで600万人を粛清し、そのうち68万人から100万人を「処刑」した。これは、明白な“故意の自国民大量殺人”だった。その犯罪データは、塩川伸明、ニコラ・ヴェルト、ブレジンスキーのファイル3つにある。
「スターリン像の完全崩壊」 1956年、フルシチョフの「スターリン批判」
時点においても、スターリン・ソ連共産党による日本国民約60万人拉致・
抑留犯罪、6万人シベリア極寒(マローズ)殺人犯罪の「機密資料」公表・
発掘ができなかった。1991年ソ連崩壊に伴う「スターリン像の完全崩壊」
によって、それが初めて可能になり、日本国民は上記データを目にした。
レーニンの犯罪は、1991年ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」などによって、初めて証明され、具体的データで浮き彫りにされつつあった。彼の犯罪は、権力奪取2カ月後に、「赤色テロル」機関チェーカーを創設し、ボリシェヴィキ一党独裁とその政策に反対、批判、反乱した自国民に「人民の敵」レッテルを貼りつけ、ソ連全土で“裁判なし射殺”を奨励・遂行したことである。彼は、「反乱」農民、「ストライキ」労働者、「反乱」兵士・水兵、「反ソヴィエト」知識人、聖職者を数十万人“殺し”た。この詳細は、『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』で書いた。この内実は、“故意の自国民大量殺人”である。
1922・23年の飢饉では、500万人の死亡者が出た。これは、レーニンが、マルクスの誤った「市場経済廃絶」理論を、機械的にロシアの現実に持ち込んだ、根本的に誤った「食糧独裁令の『軍事・割当徴発』」政策と、それに反対した「反乱」農民への報復的な「余剰穀物完全没収」などが原因だった。ただ、ここには、天災の要因も加わっている。そこには、レーニン・ボリシェヴィキが行なった“未必の故意の、および故意の人為的飢餓殺人”が、天災原因以外で、明白にあったのである。この内容も『農民』ファイルに載せた。
『われら』 「恩人は、ソクラテスのように禿げた頭をもった男で、
その禿げた所に小さな汗のしずくがあった」 「その方の巨大な
鉄の手は、自分自身を押しつぶし、膝を折ってしまっている」
「彼ら(反逆者)は、みな恩人の処刑機械に至る階段を昇るであろう」
「レーニンの犯罪」 彼は、根本的に誤った「市場経済廃絶」路線を強行し、それに
抵抗・反乱した“無実”の自国民すべてを「人民の敵」として殺害した。1918年〜
21年、「反乱」農民数十万人、「ストライキ」労働者数万人、「反乱」兵士・労働者1万
数千人を銃殺・殺害・強制収容所送りにした。1922年、聖職者数万人を銃殺し、信
徒数万人を殺害した。1922年、知識人数万人を国外追放・強制収容所送りにした。
20世紀社会主義の歴史は、“権力を握ったマルクス主義者たち”=共産党という政治組織が、『人類の解放、労働者の楽園』という美名を掲げる裏側で、自国民・他国民を問わず、平然と、“未必の故意の、および故意の大量殺人”を遂行したことを証明した。
3、ソ連共産党の日本国民殺人数と時期、8つのデータ
この数字と時期のデータは、いろいろあり、今後のソ連機密資料発掘次第で、より正確になるかもしれない。一般的には、「死亡者数」と言う。しかし、外国マルクス主義政党(=科学的社会主義政党)による日本国民大量殺人事件という上記観点から、このファイルでは、あえて「殺人数」とした。また、「死亡者」は、兵士だけでなく、拉致された民間人も多数含んだ。よって、「日本国民殺人数」とした。
私(宮地)の評価を加えずに、8つのデータを載せた。これらは、すべて「日本敗戦後の死者」であり、「戦死」を含んでいない。(表)下に簡単な説明だけ書いた。データの一部は省略したので、合計数と食い違う。正確には、『出典』にある。
(表3) ソ連共産党の日本国民殺人数と時期
名前 |
地域 |
時期 |
死亡者数 |
出典 |
1、ソ連機密資料 |
ソ連収容所 同 本国送還収容所 方面軍・北朝鮮 合計 |
1945〜46 1947〜55 1946〜50 |
51163 7746 1445 31383 計92053 |
ヴィクトル・カルポフ『スターリンの捕虜たち―ソ連機密資料が語る全容』(北海道新聞社、2001年、P.23) |
2、ソ連内務省 |
ソ連本土(?) |
61855 |
ソ連軍事捕虜・抑留者担当総局。『日本共産党の七十年・党史年表』(P.112) |
|
3、厚生省援護局 |
ソ連本土 |
55000 |
『援護五十年史』1997年 |
|
4、「ソ連での日本軍事捕虜の作業所」マッカーサー記録文書保管所 |
ソ連本土(?) |
62538 |
(就業者数)611824中の死亡者。セルゲイ・クズネツォフ『シベリアの日本人捕虜たち』(集英社、1999年、P.128) |
|
5、日本軍参謀本部、日本政府復員局作成。対日理事会シーボルト米代表の提示 |
ソ連(ソ連軍管理地区すべてか?) |
1945最悪の冬 1946若干の改善 1947顕著な改善 1948イデオロギー洗脳 |
272349 77816 19668 4208 総数374041 |
アルハンゲリスキー『プリンス近衛殺人事件』(新潮社、2000年、P.191) |
6、厚生省最新資料 |
ソ連本土 千島・樺太 北朝鮮 満州(関東州) 計 |
55000 14700 34600 245400 計349700 |
若槻泰男『シベリア捕虜収容所』(明石書店、1999年再版、P.428)(初版は、サイマル出版会、1979年)。「最新資料」とは、初版の時点(?) |
|
7、引揚地域別内訳 (a)死亡確認数・厚生省が確認した数字 (b)行方不明・死亡・他 |
満州 大連・旅順 北朝鮮 樺太・千島 ソ連 合計 (a) (b)総計 |
(a)162000 (b)35000 (a)1000 (b)1000 (a)34000 (b)2000 (a)8000 (b)1000 (a)49000 (b)54000 (a)254000 (b)93000 総計347000 |
ウィリアム・ニンモ『検証―シベリア抑留』(時事通信社、1991年、P.209) 出典は3つ。(1)「デーリー・インテリジェンス・サマリーズ」1945〜51、第4・6記録群、マッカーサー公文書、(2)日本外務省の報告1951〜55、(3)戦争捕虜に関する国連委員会報告1951〜57. |
|
8、ロシア新資料76万人分発見、2009年7月23日 |
旧ソ連全域 |
死亡数未判明 |
モスクワのロシア国立公文書館、一人一枚のカード型−段ボール7571個 |
『1984年』 「偉大な兄弟があなたを見守っている」
「党への忠誠を除けば、愛もなくなるであろう、“偉大な
兄弟”への愛を除けば」 (党の3つのスローガン)「戦争
は平和である 自由は屈従である 無知は力である」
厚生省援護局「抑留死亡者名簿提供」(P.463)。名簿はソ連邦、
カザフスタン共和国、ロシア連邦から3回で、40025人。そのうち
「身元が特定できた者」26361人だけで、特定率が66%しかない。
若干のデータ説明
『ソ連共産党の日本国民殺人数と時期』となると、そのデータの信憑性が問われた。よって、少し説明を加えた。
1、ソ連機密資料 ソ連側機密資料として、初めての「時期別・地域別データ」である。1945・46年の“極寒マローズ殺人”を示している。ただ、これは、一つの機密資料だけでなく、著者がいくつかを総合したものである。
2、ソ連内務省 ソ連政府の公式統計である。日本共産党は、厚生省資料を無視し、このデータを使い、『日本共産党の七十年・党史年表』(P.112)に載せている。
3、厚生省援護局 このデータは、「第8節、旧ソ連邦等抑留中死亡者問題」(P.456〜467)にあるので、ソ連本土だけの数字である。
4、「ソ連での日本軍事捕虜の作業所」 資料の題名は、『工業生産、農業部門への日本の軍事捕虜の配置と死亡者』である。21の生産部門別の「就業者数」と「死亡者数(死亡率)」の克明なデータである。死亡率の高い順では、第1、森林経済30%死亡、第2、鉱石採掘産業23.2%死亡、第3、農業15.1%死亡である。鉄道建設が死亡者931人・1.51%というのは、上記「バム鉄道建設」における“枕木1本ごとに、日本軍事捕虜が1人死んだ”という話とまったく違い、疑問である。
5、日本軍参謀本部、日本政府復員局作成 対日理事会シーボルト米代表の「言明」が、どの場所でなされたのかは書いてない。「5、6、7」のデータは、いずれも「ソ連軍管理地区すべて」を含めた。『1945年最悪の冬』数字の比率は、「1」のソ連機密資料と一致している。別の『ソ連地域の引揚経緯表』から見ると、この数値は、1949年12月21日の「第102回対日理事会」におけるシーボルトによる抑留者の情報提供要請と思われる。
6、厚生省最新資料 厚生省援護局は、『引揚援護の記録』を1950年、1955年、1963年と3回出し、『引揚援護三十年の歩み』を1978年に出版した。このデータは、1978年版の数字であろう。
7、引揚地域別内訳 ウィリアム・ニンモは、アメリカ人研究者である。これは、3つの機関が確認した統一データである。日本厚生省は、1954年には、252881人の死亡を確認した。厚生省は、最終的な数字を、上記の「254000人」に修正した。
8、モスクワのロシア国立公文書館の新資料発見 2009年7月23日ニュース
「シベリア抑留」全容解明に寄与−日本軍人ら76万人分、ロシアで新資料発見。この同一ニュースはすべてのマスコミに載った。これは、産経新聞記事である。朝日新聞記事も一部追加・挿入した。
【モスクワ=遠藤良介】モスクワのロシア国立軍事公文書館に、第二次大戦後にシベリアなど旧ソ連に抑留された日本人約76万人分の資料が収蔵されていることが、2009年7月23日分かった。同館では日本政府に写しを提供する方向で話し合いを進めているという。これまで日本の厚生労働省はいわゆるシベリア抑留者の総数を約56万人、うち死亡者を約5万3千人と推定しており、新資料がこの問題の全容解明に寄与することが期待される。
同館のクゼレンコフ館長によると、見つかった資料は抑留者の氏名や生年月日、収容所の移動歴、死亡記録など個人情報をタイプ打ちした十数目項目に手書きで記入したカードで、総数76万枚と推定される。これまで日本政府に提供されてきた名簿や身上書類とは別の書式であり、「新しい名前が明らかになる可能性がある」という。同公文書館の保管庫に一人分一枚で、約千枚ずつを入れた段ボール箱757個があることが、昨2008年に分かり、日本側も確認した。ただ、カードには同一人物に関する情報が重複している恐れがあり、これまでの身上書類と照合するなど膨大な整理作業が予想される。
シベリア抑留者に関する資料提供は1991年4月、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領の訪日を機に始まり、これまでに計4万1千人の死亡者名簿が日本側に引き渡された。これに対し、日本政府による帰還者や家族らへの聞き取り調査で判明した死者は約五万三千人と約1万2千人の開きがあるのが実態だ。また、死亡者のうちロシア側の資料で収容所や死亡地が確定したのも約3万2千人にとどまっている。厚生労働省は、推定される死者のうち、ロシア側の資料がなかった3百人を抽出、ロシア側に新資料との照合を依頼した。その結果、約20人分が新たに確認された。
旧ソ連は第二次大戦での日本降伏後、満州や樺太(サハリン)などから日本の将兵や民間人をソ連各地に連行し、約2千カ所の収容所や作業所で強制労働を課した。元抑留者や遺族の高齢化が進む中、ロシアだけでなくカザフスタンやウズベキスタン、ウクライナなど旧ソ連各国での実態解明も急がれている。
厚生労働省は、シベリア抑留者の人数について「総数は70万人程度ではないか」と推定。ロシア側との新資料提供に関する交渉については「まだ新資料の入手に向け調整をしている段階で、両国間で合意ができているわけではない」としている。
「民主運動」は「民主化運動」とも言う。これには、2つの側面があった。一つは、日本人兵士側からの自然発生的な「反軍」闘争である。しかし、もう一つの基本的な側面は、ソ連共産党の「ラーゲリ政治部」が一貫して、巧妙に組織した政治運動だった。
1、ソ連共産党が抱いる2つの政治的狙い
第一、「軍事捕虜教化運動=ソヴィエト化」である。それは、『ダモイ(帰国)』を“餌”にした、「ソ同盟」の宣伝、共産主義教育だった。ただ、ソ連共産党は、その狙いに従わない軍事捕虜にたいして、イデオロギー的威圧、「反動的」将校など異分子抑圧、「懲罰大隊」への隔離、帰国妨害を行った。
第二、東アジア対策の一環として、日本革命の中核となる日本共産党を支援・強化するために、約60万人もの軍事捕虜を「日本共産党支援者、または帰国後の入党者」にすることだった。『日本共産党がもち上げられ、捕虜の考え方や行動の全体的なイデオロギー化が始まった』(ヴィクトル・カルポフ『スターリンの捕虜たち』P.128)。『あらゆる宣伝は、日本共産党に率いられた日本人民の民主主義勢力の発展を呈示することに向けられた』(同、P.227)。以後、引用は『スターリン捕虜』と略す。
捕虜収容所の門 「赤旗の歌」を歌いながら、強制労働に
向かう。門の上には『日本共産党の旗の下に』のスローガン
1947年極東(『スターリンの捕虜たち』P.224)
2、軍事捕虜60万人を「共産主義化」するラーゲリ機構
その体制は、ソ連全土の『収容所群島』における経験を踏まえた重層的な構造だった。以下の機構データは『殺人事件』(P.178)にあった。日本人側が出版した無数の『抑留記』では、当然ながら、このシステムと数値が不明だった。全体を統括するのは、ソ連共産党の「ラーゲリ政治部」である。日本人捕虜を扱う「ラーゲリ管理局」は71あり、その下に「ラーゲリ」が217カ所に分かれ、さらに、それを「ラーゲリ支部」として2112カ所に細分化した。「支部」は、『抑留記』などで「分所」とも書かれている。「特別労働大隊」を、392隊編成し、「捕虜用特別病院」を、178カ所作った。
2112の各「ラーゲリ支部」は、次の7つの部局で編成されている。(1)「反ファシスト部」は、ソ連戦犯の摘発をする。(2)「工作・秘密警察部」が、収容所内チェキスト機関として、日本人からスパイ・密告者を養成する。(3)「警備部」は、脱走捕虜を銃殺する。(4)「規律部」が、強制労働規律強化とノルマ成績向上を受け持つ。(5)「会計部」。(6)「政治部」は、ソ連共産党の収容所内コミッサールである。さらには、(7)「特別宣伝部」が、最初から捕虜にたいする政治工作の組織面を担当した。その工作目的に250人のソ連軍将校=共産党員を配置した。その任務は、収容所内政治機関=「民主委員会」「友の会」「民主グループ」「反ファシスト委員会(AFK)」などの捕虜“自主的”組織への指令、文書作成、政治工作の形態と方法の方針作成、『日本新聞』の編集と配布、学習運動の組織などであった。これらの支部機構は、クズネツォフ『シベリアの日本人捕虜たち』(P.70、他)にあった。以下引用は『シベリア捕虜』とする。
3、宣伝・扇動・組織活動と異論者排除の全面的実践
以下の方針データは、『スターリン捕虜』および、御田重宝『シベリア抑留』(講談社、1986年)、岩槻泰男『シベリア捕虜収容所』(明石書店、1999年再版)、その他にあった。引用ページは、ごく一部以外書かない。
(1)、宣伝・扇動・組織活動の中心は、『日本新聞』だった。その「第1号」は、ソ連軍の満州占領終結の6日後だった。このことは、ソ連共産党の上記第2目的の存在を証明している。ソ連共産党は、これを1949年11月27日の「第650号」まで継続して発行し、数人に一部の割合で配布した。新聞の基本方針は、『ソ同盟の宣伝』とともに、『日本共産党の綱領の宣伝』『日本共産党を援助するための人員の養成』だった。新聞社従業員は、取材・編集・印刷を含めて、ソ連人63人、日本人捕虜70人の計133人で、ちょっとした地方新聞社規模だった。発行部数は、公称50〜80万部だが、配布状況からみて、実数は10万部程度であろう。
(2)、「ラーゲリ政治部」は、政治教育の集会を、1948年だけでも、7285回開かせ、のべ1287000人の捕虜を参加させた(『スターリン捕虜』P.211)。抑留期間全体では、数万回、数百万人になった。その教材は、『日本新聞』だけでなく、『ソ同盟共産党歴史小教程』『スターリン略伝』『レーニン主義の諸問題』など豊富で、捕虜に配布した。
「反ファシスト大会」 スローガンは、「平和・民主主義・民族独立」
という日本共産党の行動綱領、議題は「スターリンへの感謝決議文」
の可決、1949年4月の地方大会(『スターリンの捕虜たち』P.224)
(3)、組織活動も活発だった。ソ連共産党の指令の下に、2112の「ラーゲリ支部」すべてに、「友の会」「民主グループ」を組織し、さらに、「反ファシスト委員会(AFK)」に発展させた。ただ、それらと旧軍の「大隊本部」とが併存しているラーゲリもあった。
(4)、軍事捕虜にたいする階層別・思想別の分裂工作を奨励し、日本人同士を敵対=“階級闘争”させる路線を強制した。「民主運動」の内実は、ソ連共産党による3つのグループ分別の政治工作である。スターリンは、1930年、農村のコルホーズ化に反対する14000件の「農民反乱」を鎮圧するために、『社会主義建設が勝利に近づけば近づくほど、階級闘争はたた激化する』という「富農撲滅」理論を“創作”した。そして、1000万人の「反乱」農民を粛清し、自国民大量殺害とともに強制収容所送りにした。
“ソ連共産党製作・演出”「軍事捕虜民主運動」とは、マルクス主義の「階級闘争」理論、および、スターリン理論を、日本人軍事捕虜約60万人集団に機械的に持ち込んだ“共産主義教育と犯罪的な粛清行為”だった。『ダモイ』を“餌”にされたとはいえ、また、自主的運動の側面もあったとはいえ、日本人抑留者全員が、その運動に、いやおうもなく巻き込まれた。ほとんどの『抑留記』の中心テーマは、2つあった。それらは、1)、寒さ・飢え・強制労働=凍死・餓死・強制労働死ともに、2)、日本人を分裂・対立させ、吹きすさんだ「民主運動の嵐」体験である。
第1グループ−アクチブ(積極分子)で、「ソ同盟と日本共産党」を讃美し、反軍闘争を積極的に行う分子
強制労働作業免除・食糧特別支給をし、その一部を「専従」に抜擢した。1947年6月7日付内務省令No.112は、「ラーゲリ政治部」にたいし、『「支部」によって捕虜から10人または5人の“政治工作”専従者をもつ権利』を与えた(『スターリン捕虜』P.184)。さらに、政治工作の「報奨金」として、毎月100ルーブルを支給した。2112支部×最低5人=専従者10560人になった。ただ、専従総数データは公表されていない。この措置は、軍事捕虜約60万人を、ばらばらの民主アクチブだけでなく、専従者の周りに結集し、ソ連共産党政治工作員に指導される軍事捕虜集団に変化させた。
第2グループ−は、「工作・秘密警察部」が養成したスパイ・密告者
内務省は、「民主運動」を妨害している「敵対分子」を摘発するために、アクチブ内、または別個にスパイ・密告者の養成を指令した。『スパイになったら早く帰国させる』というチェキスト機関の勧誘工作については、多くの『抑留記』が書いている。ミュージカル『異国の丘』でもテーマの一つになっている。
第3グループ−弾圧対象の捕虜
ソ連共産党中央委員会は、1947年2月、内務省に命じて、『反ソ・反動派捕虜を暴き出して、「特別規制収容所」(=懲罰大隊)に隔離を命じる』指令No.0300を出した(『スターリン捕虜』P.159)。高杉一郎が『極光のかげに』(岩波文庫、1991年)において、彼が不当にも隔離された「懲罰大隊」の実態を描いている。ソ連共産党は、捕虜1万人に「反ソ・反動派捕虜」のレッテルを貼り、隔離し、約3000人を軍法会議にかけ、「自由剥奪刑」を下した。そのほとんどが、「工作・秘密警察部」=収容所内チェキスト機関が養成し、奨励した捕虜内スパイによる密告が原因だった。対ソ連諜報機関活動をしているごく一部以外は、すべて「無実の罪」のままで、25年間の刑に処せられた。
「ソ連戦犯である」との“自白”を強要され、一部の将官や検察官のいいなりの自白をした者以外の大部分が拷問を受けた。「ソ連長期抑留者同盟」の1199人調査結果では、受刑者にたいする拷問の種類は、以下の(表)である(若槻『捕虜収容所』P.301)。
(表4) ソ連検察官、チェキスト機関による日本人拷問の種類と人数
種類 |
人数 |
種類 |
人数 |
種類 |
人数 |
種類 |
人数 |
絶食 |
124 |
寒冷攻め |
61 |
暴力 |
158 |
拷問なし |
182 |
減食 |
317 |
睡眠与えず |
99 |
その他 |
63 |
||
水攻め |
38 |
脅迫 |
157 |
計 |
1017 |
調査総計 |
1199 |
(注)、1人で2つ以上の拷問を受けた場合は、主たる方が記載されている。
拷問率は、1017÷1199=85%である。約3000人を軍法会議にかけたので、3000×85%=2550人が、「工作・秘密警察部」または、ソ連検察官から拷問された。拷問の具体的実態は、(表)の後にくわしく書かれている。その拷問内容は、ほぼ、ソルジェニーツィンが『収容所群島』第3部「審理」で分類した「32種類の拷問」と同じである。これは、レーニンの秘密政治警察チェーカー、スターリンのNKVD以来の「赤色テロル」型社会主義国家の伝統である。「チェキスト」とは、レーニンが権力奪取の2カ月後にはやくも創設した「赤色テロル」オルガンであるチェーカー要員のことである。しかし、チェーカーの名称がNKVDに代わっても、“革命防衛テロルを遂行する栄誉ある名前”として、この時点でも「チェキスト」が使われている。
(1)権力を握ったマルクス主義者たちの「未必の故意」による、日本国民にたいする“シベリア極寒マローズ大量殺人事件”と、(2)ソ連秘密政治警察の収容所チェキストたちが行なった“密告された、無実の日本人85%拷問事件”という2つは、ソ連共産党の日本国民シベリア抑留犯罪の本質を象徴的に示すデータである。
5、舞鶴「ダモイ(帰国)」とソ連による日本共産党支援方針の強化
日本占領アメリカ政府の交渉、占領下鳩山内閣の要請、ドイツ軍事捕虜問題を含む国際世論の圧力であるターリン・ソ連共産党も、しぶしぶ、舞鶴への「ダモイ」を許可した。そこの帰国前に、2つの状況が現れた。
第1、ソ連共産党による「ダモイ」時の日本共産党支援方針強化と「日本共産党入党運動」
カルポフが『スターリンの捕虜』において、機密資料による、以下の詳細な実態を暴露した。1947年2月から8月、ソ連共産党は、アクチブの地方大会、全国大会をハバロフスクで開かせ、『スターリンへの感謝決議』運動を組織した。1948年10月25日、ソ連陸海軍総政治局は、『祖国に帰還したら日本共産党に入党する必要があることを意識させるべく捕虜をじかに導く』とする「指令No.432/sh」を発した(P.229)。ここからシベリア「民主運動」は、大きな質的変化をとげた。
それは、もはや「反軍闘争」ではなく、明らかに「アメリカ占領下における日本の政治的変革」を目的としたものになった。スローガンは『天皇島に敵前上陸』『代々木(日本共産党本部)の旗の下に集れ』『日本の共産主義革命の達成に全力』などである。『日本新聞』は、日本共産党の『アカハタ』記事を広く転載した。この指令後、ラーゲリ政治局は、捕虜全員にたいし、「日本共産党の行動綱領」(1947年12月21日第6回大会改定)の宣伝と教育を強化した。
「日本共産党入党運動」と講習会のひとこま 上の板壁に「わが民族を破滅
から救う共産党」のスローガンが掲げられている。左側写真は片山潜。後方
左右の壁は、「天皇制打倒、人民政府樹立」「万国の労働者団結せよ」の垂幕
(『アルバム・シベリアの捕虜収容所』朝日新聞社、1990年、P.34、絶版)。
「ソ連共産党」側の体制 日本人捕虜の「共産主義化」と「日本共産党入党運動」
推進のため、ソ連軍政治将校(共産党員)を250人配置。「日本新聞」は、ソ連
共産党員63人配置体制で、650号発行。「ラーゲリ政治部」は、この政治講習
会を、1948年だけでも、7285回開かせ、のべ1287000人を参加させた。
ナホトカ港の第380本国送還収容所第3分所では、ラーゲリ政治局の指令によって、アクチブ・専従者が捕虜集会を開き、レーニン、スターリン、徳田球一の肖像を飾り、帰還者全員が『赤旗の歌』『インターナショナル』を歌いる。『日本共産党に入党しよう!』のスローガンだけでなく、『日本共産党入党資格審査運動』も展開した。高杉一郎は、『極光のかげに』(岩波文庫、1991年、P.337)で、次のように書いている。『ことに「スターリン大元帥に対する感謝署名運動」と「日本共産党入党資格審査運動」が展開されるにおよんで、虚構は虚構を生み、恐怖は恐怖を生んでいった。しかし、私はもうここにその仔細を書くに堪えない。人間の理性と良識に対するこれよりもはなはだしい侮辱があるだろうとは思えないから』。
ナホトカに新しく到着した梯団の歓迎集会と『ナホトカ人民裁判』。
林立する赤旗を中心にインターなど革命歌を歌いながら、うず巻き
デモをしている。この後、「人民裁判というリンチ」に移行した。帰
国前の熱狂的光景(『アルバム・シベリアの捕虜収容所』P.114)。
高杉一郎が『書くに堪えない仔細』としたことについて、御田重宝『シベリア抑留』(講談社、1986年)が、彼自身の抑留体験と綿密な取材を通じて、日本人抑留者側からの「民主運動」と「人民裁判という名のリンチ」の描写と分析(P.204〜288)をしている。ラーゲリ政治部の指令を受けたアクチブ・専従者が帰還直前の抑留者たちにしたことは、「感謝署名運動」と「入党資格審査運動」だけではない。彼らは、『ナホトカ人民裁判』を開き、旧軍将校らや「民主運動」に消極的な者を「反動派」ときめつけ、「人民裁判というリンチ」を加えた。『ダモイ』のためには、アクチブ・専従者が要求する、どんな学習・インター合唱・リンチもするという“ダモイ民主主義”の嵐が吹きすさんだ。この『ナホトカ人民裁判』の異様な精神状況については、多くの抑留者が、痛恨の思いを込めて記している。なぜなら、『人民裁判』の場で、“つるし上げ”の批判発言をしなかったら、それだけで『反動』とされてしまう雰囲気だったからである。そして、いったん『反動』と見なされると、『ダモイ』が取り消されるケースも多かったからである。日本の帰還船を目の前にして、“船に乗れるかどうかという恐怖”の実感は、私を含めて第三者ではとうてい理解できないであろう。
「民主運動」は引揚船まで 船上にも、「民主運動」が持ち込
まれ、“天皇制批判”の学習、インターの合唱が渦を巻いる。
『シベリア捕虜収容所』(P.332)
カルポフは、『スターリン捕虜』(P.312)において、ソ連側機密資料により、次のような事実を記した。『集会ではまた、ソヴィエト政府とソ連軍司令部にあてた、「ソ連在留中に捕虜に示された配慮に対する」捕虜の感謝文が読み上げられた。六月二十五日と二十七日の乗船は捕虜の大衆的歓喜となった。彼らは甲板に出てソヴィエトの革命歌や収容所でつくられた日本の革命歌を歌い、またスターリンに敬意を表して整然と乾杯の音頭をとった。「スターリン万歳!」「ソヴィエト人民よ、人道的待遇ありがとう」等々。「ナホトカ港の建設現場で働いている、第五三収容所のある支隊の捕虜たちはオーケストラと赤旗とともに見送りに出た。彼らは桟橋に隣接する丘の岩壁にレーニン、スターリン、日本共産党中央委員会書記長徳田球一の肖像画をとりつけたり、民主主義の戦士の隊列を強化し、日本共産党に入党するよう帰還者に呼びかけるスローガンを掲げた」――政治工作員は報告書の中でみずから舞台監督した工作をこう描いている』。
第2、「ダモイ」舞鶴港での「赤旗梯団」の行動
この状況ついては、御田重宝『シベリア抑留』、若槻泰男『捕虜収容所』が、詳細に描いている。1949年は、ナホトカから舞鶴港に、44隻・87202人が帰国した。その第1船・高砂丸は2000人を乗せている。『ナホトカ人民裁判』は、1948年から最盛期を迎え、1949年になると、44隻中33隻・75%の全引揚者が「赤旗梯団」と称されるほど、先鋭的になった。「赤旗梯団」という名称は、抑留者やマスコミが使ったが、厚生省『援護五十年史』も、6月27日の第1船・高砂丸から『いわゆる「赤い引揚者時代」始まる』(P.755)としている。33隻以外には、「日の丸梯団」と呼ばれるアクチブ批判派の船も帰還した。
『天皇島に敵前上陸』という合言葉が引揚船を包んだ。舞鶴港には、日本共産党が事務所を設け、熱烈歓迎した。引揚者は、『国際青年の歌』を歌い、『歩武堂々、笑顔も見せず、スクラムを組んで上陸』した。彼らは、『代々木(日本共産党本部)の旗の下に集れ』と叫び、特別仕立ての復員列車に乗っても、停車のたびに労働歌を歌いつつ、引き戻そうとする母親を振り切ってデモをした。
「民主運動」上陸 「赤旗梯団」33隻は、隊伍を組み、歌を
歌い、歓迎にも応えず(『シベリア捕虜収容所』P.332)
第2船・永徳丸の引揚者は、京都駅で下車し、大規模なデモを行ない、座り込みに入った。これらの情景は、1949年6月から8月にかけての各新聞でも詳細に報道された。
関東、東北方面に帰国する600人はさらに過激だった。東京で下車した引揚者は、公会堂を2日間占拠し、政府官庁・工場前で渦巻きデモを行ない、ソ連大使館へ行き、『ソ同盟の温情ある抑留』に感謝した。そして、一部は、家にも帰らず、代々木に行って集団入党した。入党者はいったい何人いるのか。それは、別ファイル(2)で分析した。
それらの行動は、当時の国内外の政治状況も反映したものだった。御田重宝『シベリア抑留』は次のように書いている。『昭和二十四年といえば一月二十三日の総選挙で共産党が一気に三十五議席を取り、完全に“市民権”を得た年である。ジャーナリズムは反米・親ソ的な論調で満ちている。世界的には社会主義諸国の充実期で東ドイツ、毛沢東の中国が成立した。ソ連の原爆実験の成功(九月十三日公表)も“善なる核”として日本の“知識人”に支持されている。国内的には公務員の定員法による国鉄十万、郵政二万六千五百人の減員、下山国鉄総裁の怪死、三鷹、松川事件と続いるが、これも左翼に対する“反動政府”のやらせであり、日本の社会主義革命近し――とする一部ジャーナリズムの見方は一般的でさえあった。このような社会背景の中で始まった二十四年の引き揚げだが、左翼シンパのマスコミさえ、共産党の機関紙「アカハタ」以外、引き揚げ者の行動を批判したのである』(P.277)。
以上 『異国の丘』とソ連・日本共産党(2)に行く
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シベリア抑留関係
木内信夫 『旧ソ連抑留画集』
ソ連抑留記『青春の足跡』
佐々木芳勝『流転の旅路 −シベリア抑留記』
川越史郎 『抑留生活のあと、日本を捨て、家を捨ててソ連に残ったが…』
宮地幸子 『「異国の丘」が強く心に響く』
ステファン・コスティク『ウクライナ人捕虜から見た日本人捕虜』
逆説の戦後日本共産党史関係
『逆説の戦後日本共産党史』ファイル多数
れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』