逸見重雄教授と「沈黙」
芝田進午氏一文と『逸見重雄追悼集』抜粋
高橋彦博法政大学教授
(注)、「スパイ査問事件」関係者の一人、逸見重雄中央委員はその後、法政大学社会学部教授、社会学部長となりました。これは、夫人『歌集』(1996年)における芝田氏の文、および『追悼集』(1978年)に関しての、高橋氏の『通信』(1996.7.5)です。このHPに全文を転載することについては、高橋氏の了解を頂いてあります。最初の題名は、『通信』に題がなかったので、私・宮地がつけたものです。高橋氏通信文部分は緑太字にしました。
〔目次〕
1、歌人・逸見千鶴子さんの世界 芝田進午
(宮地・添付文) 逸見教授政治的殺人事件の同時発生
〔目次〕
1、袴田政治的殺人事件と逸見教授政治的殺人事件
2、スパイ査問事件前後の逸見中央委員
3、逸見陳述内容の真実性と転向との区別
4、『転向』の新しい見方考え方
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『立花隆『日本共産党の研究』関係』巻末「年表」の一部
(高橋彦博論文の掲載ファイル6編リンク)
『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題
『左翼知識人とマルクス主義』左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識
『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果
『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
つい最近のことですが、逸見千鶴子作品集『薔薇真紅、添いとげ得しと』(*)を関係者からおくられました。そこに、芝田進午先生の次のような発言を見ることができました。同書は、私家版「歌集」なので、皆様のお目に触れることがないであろうと、左に芝田先生の一文の一節を紹介させていただきます。『薔薇真紅』に再録されている『逸見重雄追悼集』(一九七八年)からの何点かの追悼文も紹介させていだきます。(*)故・逸見重雄教授の教え子の会があり、この会が千鶴子夫人の詠まれた歌を一冊にして一九九六年四月に刊行しました。発行者連絡先は左記です。〒252 神奈川県藤沢市高倉2279 保坂治男氏 пFax0466-44-0634
逸見千鶴子さんは、私が法政大学に職を得た時、同大学社会学部長の職責にあられて、私にとって人生の恩人になられた故逸見重雄先生の令夫人であられた方です。いっしょに助手に採用された増島宏さんとともに、鵠沼海岸のお宅を初めてお訪ねしたのは一九五三年春のことで、もう四十三年も昔のことになります。今でもご夫妻の丹精込めた薔薇が庭いっぱいに咲き誇り、芳香を放っていたことが昨日のことのように思い出されます。
こうは申しましても、逸見千鶴子さんの人生が重雄先生の人生と切り離せないものであったことはいうまでもありません。重雄先生の人生と業績については、私も「逸見重雄追悼集」(一九七八年)に拙文を書き、特にわが国でのベトナム研究ならびにベトナムとの連帯運動の先駆者としての先生の功績を高く評価させていただきました。困難な時代における先生の苦難に満ちた、人情厚い人生についても、同書に寄稿された多くの人々の追悼文から、私は多くのことを教えていただきました。
そのうちでも、とりわけ湯川和夫先生の文章「逸見先生と沈黙」が私に深い印象を残しました。湯川先生は、ある人を評価する場合、その人が語ったことよりも語らなかったことに、より多く耳を傾けなければならないと指摘されました。実際、沈黙のほうが多弁よりもより多くを語ることがあるものです。さらに、多弁はしばしば弁明になるもので、それに較べると沈黙は非常に大きな忍耐力を求めるものであり、だれにとっても難しいことです。その難しいことを黙々と続けられた重雄先生の生き方には、人をして襟を正させるものがあります。
ある事件の関係者が、その事件について沈黙を守ことによって、事件について証言をする以上に真相を語る結果になっているようです。その事件の主人公が、関係者に沈黙を強いることによって、かえって重い証言をさせた結果になっているのでした。それにも関わらずですが、私は、ここで、左翼知識人の沈黙が何に対する誠実さの証になっているのかと問わずにはいられません。
逸見夫妻の思い出 伊豆公夫(赤木健介)
逸見さんは、戦中の転向について苦しまれたにちがいない。同じ悩みは、私を含む多くの人びとが経験してきたものだ。それを時代の犠牲者などと言いたくはない。みずから選んだ道、その挫折、そして再起しようとした努力、――それらすべてが各人の負うべき責任であり、また時代の中で、本人ぬきに批判され、評価されるべきことである。誠実に生きぬいた逸見さんの生涯に浮かびあがってくる背光を、後世がどのようにつかむであろうか。それは歴史にゆだねたい。
重雄さんのことども 中野新
最後に。一昨年来「共産党のスパイ査問事件」がジャーナリズムをにぎわすに至り、当事者の一人としての逸見氏のところへも、新聞、雑誌社の記者がささり込んだようですが、その政治的影響を重視された氏は、終始沈黙を守り通されたとのことです。このことがあってから、氏は苦悩に満ちた日々を送られ、死期を早められたときいていますが、日本の未来のために、苦しみを一身に背負ながら、遂に倒れられたのでした。(一九七八年・四・八) (北海道経済研究所常任理事)
逸見重雄さんと思い出 守屋典郎
逸見さんを不屈の共産主義者だといったら、それは誤りであろう。だが、逸見さんを誠実な心をもった、人類の進歩のために一生を捧げた人だといったら、決して過褒ではないと思う。運命の不思議から、彼は共産党の最も困難な時代の中央委員となり、いわゆるスパイ査問事件に関係し、その重荷に堪えかねて獄中で転向し、一時保釈ののち、四三年再び獄につながれて、四五年二月病気が悪化して執行停止で六本木の病院に運び出されるまで、実刑に服した。その彼を転向した党員として非難することの出来るものは、宮本顕治君を除いたら何人いるであろうか。しかも彼は戦後、共産党からのきびしい冷遇に堪え、世界革命の勝利を信じ、党を支持する態度を崩さず、若い後進の青年たちを指導し、育ててきた。
友よ安らかにねむれ 山本正美
その後起きた「スパイ査問事件」の中味についてはこれ以上ここではふれるつもりはない。今日の時点ではこの事件については全貌がすでに明らかになっており、この事件の真の責任者もはっきりしてきたからだ。憎むべきは当のスパイであり、当時の支配権力であることはいうまでもないが、この事件の最大の被害者は、私は他ならぬ逸見君であると信じている。逸見君に身近かに接したことのある人なら誰でも知っているように逸見君は進んでそのようなことをする人柄では絶対にない。ただ彼の党に対する忠誠心が、ついに彼をこのような悲劇的事件に巻き込んだのである。この事件の当の責任者たちは現在ジャーナリズム紙上で互に醜いののしり合いをつづけ、責任のなすり合いをしているが、逸見君は出獄時からひとこともこの事件の秘密を洩らさず、心の中て苦悩しつづけてきたようだ。彼は出獄後も支配階級側からだけでなく、この事件の最高責任者たちからも陰に陽に迫害されつづけ、隠忍させられたのである。この逸見君の苦悩については彼がこの世を去る瞬間までつづいたときいている。こういうことはほんとうに誠実な人間でなければできないことである。
逸見先生と沈黙 湯川和夫
逸見先生はかならずしも多弁な方ではなかったと思います。しかし、お書きになった文章のなかでは、御両親や御兄弟について、師友について、それからまた御自身についても、かなり多くのことを述べておられます。そして、学連事件前後、一九二〇年代中期から三〇年代前半期にかけて、苛酷な弾圧下の社会・政治運動に挺身されたことについても、社会学部における最終講義、その他で言及しておられます。また、政治運動から離れた後、どういうお仕事、いかなる生活をなさったかということについても、述べておられます。しかし、政治運動から離れたこと、そのこと自体については、ほとんど書いておられないのではないかと思います。
他方、先生が政治運動から離れた後も、組織と運動から離れなかった人たちのなかには、「スパイ査問事件」(一九三三)にかかわる「調書」のなかで、まったく事実無根のことを先生の行為であるかのように述べている人もいました。また、戦後三〇年も経ってから、戦後の先生の学問的・社会的活動についてはまったく触れないで、政治活動から離れた前後(三〇年代中期から四○年代前半にかけて)の先生の生きかたについて、きびしく否定的な価値判断を加えて言及した文章が雑誌に掲載されたこともあります。前の事例にせよ、後の事例にせよ、いったい、どういうわけでそういうことが起きたのか、わたくしにはまだよくわかりません。したがって、それらの事実について論評することは控えたいと思います。しかし、それらの事実によって、先生の心がどんなにふかく傷つけられたかということ、そのことを思うとき、「人間」について、「政治」について、また「組織」について、わたくしは何ともいいようのない感慨を覚えずにはいられないのです。いや、感慨というよりは、むしろ、感傷というべきものかもしれませんが、いずれにしても、それはわたくしだけのもので、先生自身がお書きになった文章のなかには、そういう子供じみた感慨・感傷はひとかけらも見当りません。また、前記のような作り話や非難にたいして、先生はいかなる反駁も、釈明もなさいませんでした。
国会における「春日質問」以後、マス・コミや反共主義者がさかんに「スパイ査問事件」を取りあげるようになってからも、先生は依然として沈黙をまもり続け、そして、そのまま(ということは真実を語る機会を得ることなく、ということになるわけですが)、おなくなりになりました。おなくなりになったことにかんする記事は、「一般紙」には掲載されましたが、「機関紙」にはついに掲載されませんでした。
しかし、その後のさまざまの事態の進行は、先生自身の言葉によっては語られる機会がなかった歴史の真実を、きわめて間接的なかたちにおいてではあるにせよ、すぐれて客観的に語りはじめているようにも思われます。それを聴く耳をもたない人には聞こえないとしても。(法政大学社会学部教授)
(宮地・添付文)
逸見教授政治的殺人事件の同時発生
(目次)
1、袴田政治的殺人事件と逸見教授政治的殺人事件
宮本、不破、小林氏らは、1976年6月10日「赤旗」で袴田氏に『袴田自己批判論文』を発表させました。彼らは@『不正確な陳述』『系統的な暴行なるものを自認するかのような陳述になった』、A『不正確な陳述を必然的にともなう密室の審理に応じたことは誤りである』を認める“政治的自殺遺書”を袴田氏に強要したのです。小林栄三中央委員・元宮本秘書は、宮本氏と共謀し、同年9月「文化評論」で『系統的・計画的・意図的暴行なるものを認めるかのような陳述をした』と誇張歪曲する、長大な“殺人論文”を発表しました。「日本共産党の七十年」では『特高のでっち上げに乗ぜられるような不正確な陳述をした』と定式化しました。かくして袴田政治的殺人事件を完璧なまでに成功させました。この全経過は『スパイ査問事件と袴田除名事件』で書いてあります。
「宮本ウソを真実」とし、「袴田真実をウソ」とする宮本、不破、小林式大ペテン戦争は、「逸見真実をウソ」とする『逸見教授』政治的殺人事件を自動的に併発させたのです。1976年1月から1979年7月までの3年7カ月間におよぶ『犬は吠えても歴史は進む』と『反共毒素一掃』の二本立てキャンペーンは、スパイ査問事件当時の逸見中央委員、逸見被告の予審・公判陳述内容、キャンペーン中の逸見重雄法政大学社会学部教授をも当然の対象としました。なぜなら袴田陳述内容と逸見陳述内容とはごく一部をのぞいて基本的に一致しているからです。
宮本公判陳述(第1審再開公判)内容は100%「真実」とされ、したがってそこでの逸見陳述批判部分も完全に正しいことになっています。それは逸見教授への日本共産党の評価となっています。
逸見教授への日本共産党の公式評価
第4回公判調書(1944.9.2)
『此ノ間ノ状況ヲ予審終結決定テハ大変誇張シテ表現シテ居ルカ左様ナ事実ハ更ニナイ…(中略)…唯、小畑カ逃ケ様トシテ暴レタ時一寸騒イタ位テアル。従ツテ決定書ニ書イテアル様ナ事ハ出来ル訳カナイ。此ノ点ニ関スル逸見ノ供述ハ相違シテ居ル。逸見、木島ノ陳述ハ迎合的テアル。硫酸ヲカケタリ、炭ヲ押シツケタリシタ事ハナイ。自分ハ静ニ訊問シタ丈テアル。』
第8回公判調書(1944.10.5) (大泉、木島、逸見の陳述について)『三名ノ陳述ハ大体此ノ事件カ公判ヘ廻ルマテノ判断ノ基礎トナツタ傾カアル。大泉ハスパイテアリ逸見、木島両名ハ当時ノ反撥的感情ト党ノ全体的方針ニ関スル理解カ不充分テアツタ為本件ノ観察ヲ歪メタト思フ。逸見、木島等ハ査問当時ハ真面目テアツタカ其ノ後ノ陳述ヲ観ルト事件ノ観察ヲ歪メ我々カラ云ヘハ結局右両名ノ陳述ハ大泉ノスパイトシテノ陳述ト異ルトコロナシト云フヘキテアル。結局、大泉、逸見、木島三名ノ陳述内容ハ同一テアルト云ハサルヲ得ナイ』
。(逸見の陳述について)『逸見自身威嚇用器具ノ準備ヤテロニ付イテノ協議ナンカ全然ナカツタト公判テ述ヘテ居ルノテモ明テアル。…(中略)…又、逸見カ誰カトウシタカトカ一々記憶シナイト云イツツ、彼ヲ余リ宮本等カ散々殴ツタリ蹴ツタリシタト云フノモ自己ヲ穏健テアツタト強調セントスル同一策法テアル。私ハ特ニ周囲ヘノ顧慮ヲ念頭ニ置イテ居リ斯カル混乱ヲ導ク行動ハ取ラナカツタ』(P.219)
第9回公判調書(1944.10.14) (袴田の陳述について)『(前略) 当時小畑ノ死因カ脳震盪テアルトノ予断カ広ク一般的ニ支配シテ居タ外、木島、逸見等ノ迎合的誇張的ナ陳述カアツタ為ソウシタ雰囲気ノ下テ不正確ナ陳述カ生シタモノト思フ』(P.225〜226)。 (予審終結状況の査問の状況について)『(中略)…小畑ノ陳述モ基意ニ満タサル為、頭部ヲ投打シ腹部ニ炭火ヲ打当テ硫酸ヲ注イタト云フ記載ニ付イテハ、従来述ヘタ通リテ全然事実ニ反スル。総テ木島、逸見ノ歪曲誇張シタ陳述ニ依リ左様ナ認定ニナツタノテアル。』(P.235)
第10回公判調書(1944.10.24) (確定判決の引証部分の逸見予審陳述について)『…又歪曲ノ著ルシイ点ハ二十四日ノ午前小畑ヲ酷ク詰問シ爾後ハ最モ酷イ査問カ行ナハレタ等ト述ヘテ居ルモ彼ノ云フ如キ拷問ラシイ事態ハ何等行ハレテ居ナイ。』(P.244)
第13回公判調書(1944.11.21) (木島、逸見の陳述の証拠的意義について)『(中略)。次ニ逸見ノ陳述ニ関シテモ…査問ノ状況ニ関シテモ他人ノ行動ニ関スル限リ針小棒大ニ述ヘ結果ニ於テハ大泉ト同シ役割ヲ果シテ居ルモノテアルカ…』(P.272)
これらは、「スパイ査問問題意見書」で分析したように、すべて宮本被告による「ウソの陳述」です。当時は治安維持法裁判にたいする抵抗方針として正しいものでした。しかし、1976年時点では誤りです。これは宮本、不破、小林氏らによる『逸見教授』政治的殺人となりました。この政治的殺人は三重のウソを伴っています。
第一、斧使用対象者(小畑にではなく、大泉にのみ1回使用)問題以外は、査問状況について「真実」をのべた逸見陳述を、袴田陳述と同じく、『系統的・計画的・意図的暴行なるものを認めるかのような陳述をした』と誇張歪曲しました。逸見陳述も『特高のでっち上げに乗ぜられるような不正確な陳述をした』と定式化し、「宮本ウソを真実」としました。
第二、戦前のコミンテルン日本支部党員約2300人のほぼ100%が検挙・起訴されました。警察・予審という密室審理を黙秘で貫いた宮本顕治中央委員以外の2299人は、エンゲルスの『密室審理』問題指摘を守らず、「密室審理に応じない」とする党決定に違反した。日本共産党史上決定を守ったのは宮本中央委員一人だけである。2299人は袴田と同様『不正確な陳述を必然的にともなう密室の審理に応じたことは誤りである』と自己批判させよ。逸見中央委員も同罪であるとしました。袴田氏に自己批判させたことは、このような荒唐無稽な“2299人は決定違反の誤りを犯したが、宮本一人だけが正しかったとする異様な、超個人崇拝党史”、宮本式“密室審理黙秘者・密室審理陳述者峻別党史”になるのです。
第三、『袴田は二重の誤りを犯したが「非転向」であった』。それにたいして、逸見中央委員、秋笹中央委員、木島中央委員候補者は「転向」した。3人は『転向した変節者』『革命の裏切者』である。3人の陳述内容は『転向者による迎合的陳述であり、検討に値しない』としました。宮本式“非転向者・転向者峻別党史観”に基づき、逸見陳述内容もその後の生き方も全面否定し、逸見中央委員・逸見被告・逸見法政大学教授にたいして三重殺人を行いました。
2、スパイ査問事件前後の逸見中央委員
逸見氏は、「立花・年表」にあるように、1933年5月野呂委員長時代に中央委員となり、野呂秘書の役割を果たすとともに党中央財政部長でした。同年10月に小畑中央委員が財政部長となり、逸見中央委員は組織部長となります。同年11月28日野呂検挙後は、大泉、小畑、宮本、逸見の4人の中央委員会になりました。その4人中2人をスパイ容疑で査問せよとする宮本、袴田、秋笹の提起にたいして、逸見中央委員はなかなか同意しませんでした。3人の何度もの説得に押されて、彼も最後には査問に賛成します。
当時彼と街頭連絡していた宮内勇氏は『1930年代日本共産党私史』(三一書房)で、逸見中央委員の行動をいくつか描いています。宮内氏は全農全会フラクションのキャップでした。全農全会とは、全国農民組合の左右対立による左派・全国農民組合全国会議のことで、1932年末に28,888人を擁していました。
『昭和八年の大晦日も迫った十二月の下旬、私は逸見重雄と会った。逸見が当時党中央部のどういうポストにいたのか詳細は知らなかったが、大泉と一緒に全会フラクとの連絡の際に時々顔を見せたことがあったから、おそらく農民部に籍を置いていたのではないかと思う。本郷の帝大赤門前の大通りの左側舗道を私が正門の方角に向かって進む。正門の方から赤門の方に向かって逸見が歩いてくる。午後七時の定期の街頭連絡であった。逸見は二重廻しを着て白いガーゼのマスクをはめていた。二人で近くのしるこ屋へ入った。すると彼はいつになく興奮した口調でいきなり「大泉と小畑がスパイだったよ。いま押さえて査問にかけている」と言うのであった。私は驚いた。逸見という人は、たしかもと芝の協調会にいた人で、村山重忠などと共にプロ科時代に私も一、二度会った記憶がある。物静かで、気の弱いインテリといったタイプの人であった。その物静かな彼が、いつになくおどおどとあたりに気を配りながら取り乱して話すのを聞きながら、私も「やっぱりそうだったか」とまず思い、その次に言い難い不安感が背すじを走るのを意識した。』(P.170)
『そういう事情にありながらも、私と逸見との連絡は、中央委員会と全会フラクとを結ぶ唯一正規のルートとして、リンチ事件の経過中も確実に維持されていた。十二月二十三日に大泉、小畑を摘発してから、二月下旬に逸見が検挙されるまでの約五十日間に私と逸見とはおそらく十回以上も会っているように思う。そしてわれわれははじめ断罪闘争を全面的に支持し、この旨を逸見に告げた。そしてさらにいろいろな進言をした。再登録の取りやめを進言したのもその一つである。そのほか、スパイ査問の内容についてできるだけ詳細に公表し、スパイの手口や、彼らが党内侵入後、好んで極左的言辞を弄する事実などをできるだけ詳しく党員大衆に知らせ、警戒心を促すべきことをも進言した。また中央委員会は、自分自身の内部から二名もスパイを出した以上、自分自身の信任を何らかの形で党員大衆に問う必要があるということをも進言した。これらの進言は、別に文書にしたためたわけではなく、逸見と私との間の談話として、あるいは口頭による上申として語られたものであるが、逸見は、生来おとなしいタイプの人で、彼自身のそれに対する見解をその場で直ちに示すようなことはほとんどしなかった。ところがそういう談話の取り交わされている最中に大泉の逃亡事件が発生した。この思いもかけぬ事件の発生は、その原因の明示を中央委員会に迫る結果となり、私と逸見との「談話」も、このあたりから相当に深刻なものになっていったように記憶する。大泉逃亡事件は、査問委員会の単なる力不足のために起こった不慮の過失とだけ言ってはすまされない問題を含んでいる。あるいは残存スパイの存在と何らかの関係があるのではないかという疑問が当然起こる。この点について私は逸見に執拗に質問したが、はっきりした答弁は得られなかった。中央委員会も苦しい査問闘争をやっているのだ。疲れているのだ。会うたびにゲッソリやせている逸見の顔を見ながら、私は何度もそう思い、中央委員会の過失を問うというような一方的態度は、この場合同志的でないと何度も反省しながら、それでもなおかついろいろな進言や質問を彼につきつけ、彼を 困惑と沈黙に追いやることがしばしばであった。』(P.186)
『そんなある日、突然逸見との連絡が切れた。いつも連絡の正確な逸見にしては珍しいことだと思い、さまざまな思いにかられながら、かねての取決め通り、切れた日から二日後の同時刻、同場所に連絡に出向いてみたが、逸見の姿はついに現われなかった。逸見は二月二十七日に検挙されていたのだ。この二月下旬の逸見の検挙を境にして事態は急変した。われわれにとって、唯一の信頼できるルートであった逸見という窓口を失うことによって、中央委員会とわれわれとの間には一挙に大きな距離のできたことがはっきりした。それにしても逸見はどうしてやられたのだろう。大泉逃亡事件といい、逸見の逮捕といい、粛清闘争の真っ最中に、こういう奇怪な事件が続出するのはどういうわけであろうか。残った中央委員会のメンバーというのは一体どういう人物が何人いるのであろうか。私はまたしてもさまざまな疑惑と想定に突き落されながら、それでも党のフラク機関である以上、中央との連絡を何とかして復活しなければならないと思いつづけた。しかしこのことはかなり困難で危険な作業であるとも思った。』(P.189)
彼の中央委員としての活動期間は、1933年5月3日野呂委員長時代から1934年2月27日検挙までの約10カ月間でした。大泉を除くスパイ査問事件関係者5人の検挙では、宮本(1933.12.26検挙、小畑死亡2日後)、木島(1934.2.17検挙)に次ぐ3人目でした。特高は、宮本中央委員が黙秘を続けている中で、「リンチ」を裏付ける供述として、木島中央委員候補者、逸見中央委員を拷問し、転向を迫り、査問事実に反する『小畑に斧使用』の供述を強要しました。
1)、第2の事実問題での陳述内容
「スパイ査問問題意見書」で分析したように、「斧の使用対象」を「大泉でなく小畑」とした陳述以外は、第2の事実問題で誇張歪曲、迎合はなく、袴田、秋笹、逸見の3人の陳述内容は細部にいたるまで一致しています。「袴田政治的殺人事件」でも抜粋したように、真実をのべています。以下はその一部抜粋です。
〔第2の事実問題〕と5人の自己行為自認陳述
〔表14〕
木島 |
逸見 |
秋笹 |
袴田 |
宮本 |
|
1)なぐるける |
○「アヂラレタカラヤッタ」 |
○「小畑ヲ二三回蹴飛バス」 |
/ |
○小畑、大泉各1回 |
× |
2)斧使用 |
/ |
/ |
○「有リ合ワセタル物ニテ小突ク」 |
×小畑への斧使用否認 |
× |
3)硫酸第1段階 |
/ |
/ |
/ |
○「薬鑵ノ水ヲ之ハ硫酸タト云ツテ振リカケ」 |
/ |
第2段階 |
/ |
/ |
/ |
/ |
× |
第3段階 |
×自己行為を否認 |
/ |
/ |
/ |
× |
4)タドン使用 |
/ |
/ |
○「タドンヲ小畑ニ押シツケ」 |
/ |
× |
5)錐使用 |
/ |
/ |
/ |
/ |
× |
6)ピストル使用 |
/ |
/ |
/ |
○小畑到着時 |
/ |
1回 |
1回 |
2回 |
4回 |
〔第2の事実問題〕と6人の他人行為目撃陳述
〔表15〕
大泉 |
木島 |
逸見 |
秋笹 |
袴田 |
宮本 |
|
1)なぐるける |
○ |
○ ×(23日夜) |
○ |
(?) ×(宮本) |
○ |
× |
2)斧使用 |
○ |
○ |
○ |
(自己行為自認) |
○ |
× |
3)硫酸第1段階 |
(自己行為自認) |
|||||
第2段階 |
○ |
○(公判でとりけし) |
× |
|||
第3段階 |
○ |
○ |
○ |
○(控訴審で木島をとりけし) |
× |
|
4)タドン使用 |
(△=火傷) |
○ |
○ |
(自己行為自認) |
○ |
× |
5)錐使用 |
○ |
△ |
× |
|||
6)出刃包丁使用 |
○ |
× |
× |
|||
イ.是認 |
5項目 |
4項目 |
5項目 |
1項目 |
5項目 |
0 |
ロ.否認 |
0 |
1項目 |
0 |
1項目 |
1項目 |
7項目 |
斧「なんらかの使用」是認5人陳述内容の一致点と相違点
〔表18〕
「存在」 |
「使用」是認 |
「使用」否認 |
||||
行為者 対象者 |
使用程度 |
回数 |
||||
秋笹 |
予審(非転向) |
(?) |
秋笹→大泉 |
小突イタ(有リ合ワセタル物ニテ) |
1回 |
|
袴田 |
警察(非転向) |
○ |
||||
予審(非転向) |
○二挺 |
秋笹→大泉 |
斧ノ背中テ頭ヲゴツント殴ルト |
1回 |
23日使用否認 |
|
第1審(〃) |
○ |
秋笹→大泉 |
コラ本当ノコトヲ云ハヌカト大泉ノ頭ヲ小突イタ |
1回 |
小畑への使用否認。袴田使用否認 |
|
逸見 |
予審(転向) |
秋笹→小畑 |
何故嘘ヲ云フノカト云ヒテ斧ニテ頭ヲコツント叩キ |
1回 |
||
木島 |
予審(転向) |
(?) |
宮本→小畑 |
薪割テ頭ヲツツイタ |
1回 |
|
大泉 |
(スパイ) |
○ |
(?)→大泉 |
斧ノ峰テ頭ヲ殴ラレタ為カ 斧テ殴ラレ気絶、 歯カ折レタ 一々器具テ殴ラレタ |
1回 2回 数回 |
逸見が対象者を大泉でなく小畑にしたのは、小畑の死因との関係での対象者すりかえの迎合的陳述である。木島陳述も、逸見と同じ迎合的陳述であるとともに、宮本黙秘による闘争、スパイ挑発への特高の報復的意図にたいする迎合的陳述である。この推定はいずれも後でのべる。大泉陳述はスパイとしての出鱈目な陳述ではあるが、「斧のなんらかの使用」という点で他の4人と一致しているとともに、「斧ノ峰テ頭ヲ殴ラレタ為カ血カ私ノ顔ヲ伝ツテ落チルノヲ覚エマシタ」という陳述内容は袴田陳述内容と完全一致している。
逸見、木島、大泉の迎合的または出鱈目な部分・側面を批判的に検討した場合、秋笹自己行為自認としての「有リ合ワセタル物テ小突イタ記憶」という内容は斧の「なんらかの使用」行為を示しており、大泉をのぞく、他の4人の使用程度(小突く、またはこつんと叩く程度)と使用回数(1回)は事実である。
秋笹・袴田・逸見3人の2)、3)、4)行為陳述内容の一致点と相違点
〔表19〕
2)斧使用 |
3)硫酸使用 |
4)タドン使用 |
|
秋笹予審(非転向) |
秋笹→大泉(自認) 小突イタ |
宮本か誰か→(?) 「付ケルゾ付ケルゾ」ト 硫酸瓶振廻シ脅カシ |
秋笹→小畑(自認) 足ノ脛ノ辺ニ押シツケルト 慌テテ足ヲ引込メ |
袴田予審(非転向) |
秋笹→大泉 頭ヲゴツント殴ルト コラ本当ノコトヲ云ワヌカト |
袴田→小畑(第1段階自認) 木島→小畑(第2段階) 之ハ硫酸タト云ツテ脅シ乍ラ |
秋笹→小畑 足ノ甲アタリニクツツケタ 熱イ熱イト云ツテ足ヲ跳上ゲ |
逸見予審(転向) |
秋笹→小畑 頭ヲコツント叩キ 何故嘘ヲ云フノカト |
木島→小畑(第1、第3段階) ソラ硫酸ヲツケタゾ流レルゾト云ヒテ |
秋笹→小畑 両足ノ甲ニ載セタルトコロ 熱イト叫ンテ足ヲ跳ネルト |
4)タドン使用については、秋笹の明白な自己行為自認があるというだけでなく、3人の陳述が行為者・対象者・使用程度・小畑の反応・使用回数などの細部にいたるまで完全一致している。3)硫酸瓶・硫酸使用については、3人に相違があるが、行為者発言のような脅迫行為の存在、「付ケルゾ、付ケルゾ」「之ハ硫酸タ」「ソラ硫酸ヲ付ケタゾ流レルゾ」という脅迫的言辞の存在は完全一致している。硫酸瓶・硫酸による「なんらかの脅迫」行為の存在で完全に一致している。2)斧使用についても、上記の相違はあるが、使用程度「小突ク」「ゴツント殴ル」「小突イタ」「コツント叩キ」と一致しており、行為者は秋笹とする点でも3人は一致している。袴田・逸見2人の陳述は袴田予審・第1審公判とも見ると、行為者の「コラ本当ノコトヲ云ハヌカト」「何故嘘ヲ云フノカト」という発言も合わせ、その使用程度、回数も一致しており、対象者のみ相違している。秋笹陳述は非転向時陳述である。
これらを総合的に見た場合、2)、3)、4)での3人の陳述の一致点・相違点から見て、秋笹自己行為自認としての「有リ合ワセタル物ニテ小突イタ」というのは「斧で大泉を小突いた」ことを意味している。秋笹が2)斧使用行為を非転向時において自認しており、袴田予審・第1審陳述とも一致し、他の逸見、木島、大泉3人の「なんらかの斧の使用」陳述とも一致している以上、そこには、斧「なんらかの使用」行為は明白に存在した。斧の「使用」行為が存在する以上、斧の会場「存在」は袴田陳述のいうように事実であった。
宮本陳述の斧の「存在」「なんらかの使用」全面否認内容は事実ではない。「私等ハ器具ヲ手ニシタコトハナイ」(P.235)という陳述内容は非事実性のものである。斧の「なんらかの使用」は24日午前中のことであり、秋笹の23日夜説は記憶ちがい、逸見の24日午後説は迎合的陳述である。袴田陳述では24日午前中「使用」として予審・第1審とも一貫しており、その24日午前中の査問には宮本中央委員は同席しており、秋笹の大泉にたいする斧の「なんらかの使用」行為を目撃している。したがって「何レモ目撃シテ居ナイカ」(P.245)という陳述内容はこの斧使用について事実ではない。斧「存在」そのものの否定としての「オ示シノ斧、出刃包丁等ハ存シマセヌ其様ナ物カ査問アヂトニアツタカ否判然シマセヌ」(P.260)という陳述内容も事実をのべていない。
尚、特高のデマ、予審終結決定での薪割の使用という事実認定が、確定判決ではのべられていないがその理由への推理は後でのべる。
タドン使用については、秋笹が非転向時・予審で明白に自己行為自認をしている。袴田陳述も予審で秋笹と同一内容で陳述し、第1審では聞かれていないのでのべていない。
秋笹・袴田・逸見3人のタドン使用行為細部までの完全一致
〔表21〕
秋笹(非転向時) |
袴田(非転向) |
逸見(転向) |
|
イ.行為者 |
秋笹(自認) |
秋笹 |
秋笹 |
ロ.対象者 |
小畑 |
小畑 |
小畑 |
ハ.個所 |
踵ノ辺 |
足ノ甲アタリニ |
両足ノ甲ニ |
ニ.行為 |
押シツケルト |
クツツケマシタ |
載セタルトコロ |
ホ.小畑の反応 |
慌テテ足ヲ引込メ |
足ヲ跳上ケマシタ |
足ヲハネルト |
ヘ.小畑の声 |
/ |
熱イ熱イト云ツテ |
熱イト叫ンテ |
ト.畳の焼跡 |
/ |
タドンカ畳ノ上ニ散ツテ処々ニ焼跡ヲ拵ヘマシタ |
火ハ付近ニ散乱シテ畳ヲ焦シタリ |
チ.日時 |
23日午後2時頃 |
24日午前中 |
24日午後1時頃より |
日時のみ相違しているが、これは秋笹の記憶ちがい、逸見の迎合的あるいは記憶ちがいの陳述である。袴田陳述の24日午前中が事実である。確定判決も24日午前中の事実認定をしている。木島は宮本陳述によれば、逸見行為として陳述しているが、3人の細部にいたるまでの一致、秋笹自身の自己行為自認からいって、秋笹行為である。足の甲に火傷がないという法医学的痕跡有無への判断は上記にのべた。
宮本陳述は、「タドン使用」を木島、逸見の転向による迎合的陳述のせいにして全面否認した。しかし、上記@〜Cから見て、宮本中央委員をのぞく査問者4人全員(但し、木島は査問委員でないが、査問参加)が上記内容で是認しており、「タドン使用」は事実であり、それを全面否認する宮本陳述は真実・真相をのべていない。24日午前中査問に宮本中央委員は参加し、その行為を目撃している。「何レモ目撃シテ居ナイカ」(P.245)という陳述内容はこの「タドン使用行為」目撃についても事実をのべていない。
斧、タドンの使用については、秋笹が非転向時・予審陳述で自己行為として自認している。(1)、斧「有リ合ワセタル物ニテ大泉ヲ小突イタ様ナ記憶アリ」(予審第14回、P.306)。これは斧か錐が推定されるが、斧の使用行為の自認であるという根拠は上記にのべた。(2)、タドン「自分ハタドンヲ火箸ニテ鋏ミ小畑ノ踵ノ辺ニ一回押シツケルト小畑ハ慌テテ足ヲ引込メタルコトアリ」(予審第13回、P.306)。この2項目の事実性は、自己行為自認と、袴田・逸見の他人行為目撃陳述の゙細部にいたるまでの一致゙という点からも証明される。
〔表35〕
秋笹自己行為自認陳述 |
袴田他人行為目撃陳述 |
逸見他人行為目撃陳述 |
|
(1)斧 |
秋笹→大泉 1回 有リ合セタル物 小突イタ / / |
秋笹→大泉 1回 斧ノ背中、斧ノ峰 ゴツント殴ルト 頭ヘ二、三滴血カ流レマシタ コラ本当ノコトヲ云ワヌカト云ツテ |
秋笹→小畑 1回 小サキ斧ニテ コツント叩キタルコトアリ / 何故嘘ヲ云ウノカト云ヒテ |
(2)タドン |
秋笹→小畑 1回 タドンヲ火箸ニテ鋏ミ 踵ノ辺ニ 押シツケルト / 慌テテ足ヲ引込メ / / |
秋笹→小畑 1回 タドンノ火ヲ持ツテ来テ 足ノ甲アタリニ クツツケマシタ 熱イ熱イト云ツテ 足ヲ跳上ケマシタ タドンカ畳ノ上ニ散ツテ 処々ニ焼跡ヲ拵ヘ |
秋笹→小畑 1回 火鉢ノ火ヲ鋏ミ来タル故 両足ノ甲ニ 載セタルトコロ 熱イト叫ンテ 足ヲハネルト 火ハ附近ニ散乱シテ 畳ヲ焦シタリ |
(予審第14回、P.306) |
(予審第14回P.248、第1審P.317) |
(予審第18回P.302、303) |
2)、転向の陳述内容への影響
6人の陳述場所とその陳述の思想的立場
〔表13〕
宮本 |
大泉 |
木島 |
逸見 |
秋笹 |
袴田 |
|
検挙年 |
1933 |
1934 |
1935 |
|||
検挙月日 |
12.26 |
1.15 |
2.17 |
2.27 |
4.2 |
3.4 |
警察(聴取書) |
×(黙秘) |
△(スパイ) |
△(転向) |
△(転向(?)) |
×(黙秘) |
○(非転向) |
検察庁 |
×(〃) |
△(〃) |
△(〃) |
? |
? |
|
予審(予審調書) |
×(〃) |
△(〃) |
△(〃) |
△(〃) |
○(非転向) |
○(非転向) |
第1審公判(公判調書) |
○ ○(再開公判) |
△(〃) |
△(〃) |
△(〃) |
△(途中から転向) |
○(〃) |
控訴審公判(〃) |
△(〃) |
△(〃) |
△(〃) |
△ |
○(〃) |
|
大陪審 |
−棄却(判決確定)− |
〇=非転向陳述、△=スパイまたは転向時陳述、×=黙秘。秋笹予審陳述は非転向時陳述
秋笹は、第1審公判併合審理時点でも非転向(宮本公判速記録、第1回、第2回、P.23〜P.76)
第2の事実問題では、@なぐるける、A斧使用、Bたどん使用、C硫酸使用という4項目の暴行行為について、A斧使用対象を小畑としたことは、特高の拷問、脅迫による迎合陳述、あるいは転向による迎合陳述と思われます。それ以外は、上記〔表〕のように、暴行項目、暴行程度について、転向による迎合的陳述は存在していません。ただ、その転向時期が、警察聴取段階か、予審段階なのかは現公表資料では不明です。したがって、『転向者は変節者、裏切者である。その変節者の陳述はすべて迎合的である。よって転向者の陳述はまったく信用できず、検討に値しない』とする宮本式三段論法は、事実に反するウソの詭弁論法です。
(注)、この文は「『転向』の新しい見方考え方」ファイルとして独立させました。そちらをご覧ください。
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〔関連ファイル〕
『立花隆『日本共産党の研究』関係』巻末「年表」の一部
(高橋彦博論文の掲載ファイル6編リンク)
『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題
『左翼知識人とマルクス主義』左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識
『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果
『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に