左翼知識人とマルクス主義
左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識
高橋博彦
〔目次〕
3、(註32〜38)
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『共産党の丸山批判・経過資料』高橋博彦査問・除籍の時期との関係
宮本顕治
『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判
志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判
共産党 『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価
丸山眞男
『戦争責任論の盲点』(抜粋)
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕4連続粛清事件とネオ・マル粛清
加藤哲郎『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に』
Google検索 『三木清』 『服部之總』 『家永三郎』 『高倉テル』
(高橋博彦論文・手紙 HP掲載ファイル)
『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題
『逸見重雄教授と「沈黙」』(宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件の同時発生
『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果
『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に
これは、高橋博彦法政大学名誉教授の『「社会労働運動史研究の45年」から』(大原社会問題研究所雑誌No.549、2004年8月号)における〔目次〕6、現代史と大学史の接点(P.49〜54)の全文抜粋です。その題名を私(宮地)の提案で、HP転載にあたって、上記題名と副題に変更しました。このHPに全文・註を転載すること、および、題名を変更することについては、高橋氏の了解をいただいてあります。(註)は茶太字にしました。
題名・副題を変えた理由は以下です。日本におけるマルクス主義知識人の傾向・問題点について、左翼の側から、きちんと論点整理して、指摘してきた人はほとんどいません。高橋氏は『左翼知識人の理論責任』(窓社、1993年)で、そのテーマを提起しました。そして、それを主要な原因として、共産党によって査問・除籍されました。
高橋彦博『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題
高橋除籍の位置づけには、2点があります。
第一、その時期は、共産党の丸山眞男批判キャンペーンの真っ最中であり、共産党の丸山眞男批判と高橋博彦査問・除籍は、宮本・不破の思惑において、連結しているというのが、私の判断です。なぜなら、丸山眞男『戦争責任論の盲点』は、天皇の戦争責任とともに、共産党の戦争責任を指摘し、共産党がその総括を公表すべきとする見解でした。高橋博彦『左翼知識人の理論責任』は、共産党を名指していなくとも、共産党知識人側の戦争責任と民衆側の戦争責任の存在を指摘した内容でした。宮本顕治が、異様なまでに過剰反応をして、丸山眞男批判キャンペーンを展開した心情と、高橋博彦除籍を強行した暴挙とは、一体の誤りでした。この転載評論は、そのテーマを別の視点から、さらに突っ込んで検討したものです。
『共産党の丸山批判・経過資料』高橋博彦査問・除籍の時期との関係
宮本顕治
『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判
志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判
共産党 『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価
丸山眞男
『戦争責任論の盲点』(抜粋)
第二、宮本顕治は、ユーロ・ジャポネコミュニズムが、スターリン批判に留まらず、レーニン批判に深化し、Democratic Centralism放棄に至ることを察知し、日本共産党崩壊の恐怖に打ち震えました。そこから、彼は、日本共産党の逆旋回を決断し、4連続粛清事件で、大量粛清をしました。その最初の粛清事件が「ネオ・マル粛清」です。それは、ユーロ・ジャポネコミュニズムの動向を支持し、党中央の見解と異なる理論を主張し始めたネオ・マルクス主義学者党員たちのほぼ全員を査問にかけ、除名・除籍し、離党に追い込みました。高橋博彦除籍は、その「ネオ・マル粛清」の一環です。
この粛清事件のもう一つの本質があります。それは、マルクス・レーニン主義理論=科学的社会主義理論とその歴史の解釈権は、絶対的真理の唯一の認識者・体現者である宮本顕治・不破哲三のみが保有できるものであり、単なる学者党員風情が、厚かましくも、党中央見解と異なる独自の理論や歴史解釈を発表する党員権は、一切ないとするものです。それは、共産党議長・委員長・書記局長が、すべての学者党員、知識人党員の見解にたいする異端審問官であることを、日本共産党とはそういう体質の科学的社会主義政党であることを、党内外に公然と宣言した粛清行為でした。
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕4連続粛清事件とネオ・マル粛清
加藤哲郎『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に』
左翼無答責・民衆無答責という結果責任認識
法政大学の『100年史』編纂から「120周年」事業までの期間であったので,少なくとも20年間になるが,この間,定年に至るまで,私は法政大学の大学史,図書館史,学部史の編纂作業に取り組んできた。大学史編纂は,本来の研究活動からすれば余分な仕事であったが,なぜか,この20年間の作業は私に徒労感を与えなかった。それは,この間,大学史編纂の仕事を本来の研究活動と一体化させることができたからであると思う。
大学史は,ある大学の学内行政史に止まることのない近・現代史の拡がりをもった領域であった。それは,文化史の奥行きを持ち,学問と思想の歴史という知的高みをたたえた研究領域であった。大学史についてのそのようなとらえ方について,私は,大学史編纂委員会の同僚であった飯田泰三氏(法政大学法学部)から多くを教えられた。飯田氏のように奔放な知的遊弋はできなかったが,私も,専攻する社会労働運動史における固定観念打破となる生の材料を獲得できる場として大学史編纂作業をせいぜい活用したつもりである。
たとえば,私の場合,最近では,法政大学の大学史と法政大学の社会学部史が交錯する地点に「親鸞をめぐる三木清と服部之總」なるテーマを見出していた。法政大学史における三木清の存在は重い。その三木の存在と法政大学社会学部史に浮上する服部之總の存在が接触する一点を求めると,そこに親鸞論があった。「親鸞をめぐる三木清と服部之總」は,定年後の私の継続研究課題の一つとなった。私は,このテーマについて,私が開催責任者となっている法政大学社会学部同窓会の「土曜セミナー」という小さな研究会で勉強を開始した(註32)。
同窓会の有志とテクストを読んでいるうちに,私は,「親鸞をめぐる三木清と服部之總」というテーマがさらにふくらんでいることに気付いた。三木清と服部之總の間に,やはり親鸞論をめぐってであるが,家永三郎氏が登場していたのである。家永さんは,服部の親鸞研究を高く評価する評者として,服部の三木批判を後押しする形をとって現れてきた。私からすれば、服部の三木批判は「左翼無答責」論を前提としていたのであり,その方法論は,親鸞研究の内容確定のためにも検討されるべき問題点となっていた。しかし,家永さんは,服部の方法論を問題にすることなく服部の親鸞研究に高い評価を与えていた。
ここで,私は,私のプログラム・パッケージから旧著一点を引き出すことになった。私は,かつて『民衆の側の戦争責任』(プログラム7)という一冊で,「家永さんは『戦争責任』という本の中で民衆の無答責を主張しているが,それは問題ではないか」との疑問を提起していた。家永さんが,服部の親鸞研究を評価するにあたって服部の「左翼無答責」論を見過ごしたのは家永さん自身に「民衆無答責」論があったからであり,「左翼無答責」論と「民衆無答責」論は同根の認識方法になっていると私には考えられた(以下,敬称略で論じさせていただく)。
三木清の絶筆となった「親鸞」が唐木順三によって『展望』の創刊号に発表されたのは三木が獄死した四ケ月後の1946年1月であった。三木の死を知り,三木の絶筆となった「親鸞」に接した服部は,直ちに親鸞研究を開始したのであったと思われる。三木の遺稿「親鸞」が世に出た翌年には,服部によって「三木清と『親鸞』」が発表されている(『国土』1947年2月)。戦前の左翼全盛期に,マルクス主義に接近した三木のマルクス主義理解の問題性を批判することによって「プロ科」や「唯研」の中心人物となった服部であった。戦後の服部による三木の親鸞論批判は,三木の獄死の後も服部の三木批判の立場が変わらないことを宣明するものとなった。
服部の親鸞研究は,『親鸞ノート』(国土社1948年)にまとめられたあと,新版『親鸞ノート』と『続親鸞ノート』となった(いずれも福村書店,1950年)。そして,服部の福村書店刊の二冊の本の序文に,いずれも家永三郎を登場させ,服部の親鸞研究に対する学界の評価としたのであった。
服部の親鸞研究によれば,三木は,親鸞を「王法為本」の説において理解しているのであった。さらに三木自身も,「仏法があるによって世間の道も出てくるのである」と「世俗的調和の世界」を繰り広げ,「諦観の境地」に達しているのであった。そして,三木のそのような親鸞理解は,服部によれば,親鸞の「御消息集」の誤読によるものであった(福村書店版,p29.)。服部は,三木の親鸞理解に異を唱えることによって,三木に対する再批判の立場を確定した。
ところで,服部の『親鸞ノート』(国土社版)に接した家永は,そこにおける服部の三木批判,すなわち服部の親鸞文書の読みを正当であり画期的なものであると評価した。家永の書評によれば(『読書倶楽部』1949年5月),服部の研究は「親鸞の思想研究史上まさに画期的意義を有するものとしなければならない」のであった。服部は,三木批判を再展開するにあたって,家永のそのような評言を自著の序文に掲げ,三木批判再展開の有力な後押しとした。
三木の親鸞文書の読みは通説に従うものであった。私なども通説でよいのではないかと思うのであるが,ここではその問題に立ち入らない。私がこだわるのは服部が示した三木再批判の方法である。服部が戦前の1920年代後半に『マルクス主義講座』で見せた三木批判は河上肇に与える三木の影響を切断するためであったと服部自身が認めているように,明らかなイデオロギー闘争としてなされていた。戦後直後期になされた服部による三木の絶筆に対する批判も,「農民のそば」からなされるものであるという階級的立場が強調されるものとなっていた。服部の三木批判にあたっては,つねに史的唯物論の立脚点が強調されているのであった。服部のマルクス主義を座標軸とする三木批判の方法は,服部の次のような言葉に端的に表明されるものとなっていた。
「私は近衛新体制時代,昭和塾から刊行された一見して三木の筆になる一種の世界観を一読してゐた。それは一種の哲学的猿芝居であった。」(p.8.)
「彼は彼のつねに真実にして精力的だった哲学的探求のコースにおける夏至点−マルキシズムへの最短距離から出発して,この冬至点に至ったのである以上,彼の出口は唯諦観の一途しかない。」(p.42.)
「三木清の哲学の夏至から冬至への旅は,満州事変から太平洋戦争終戦の前年にいたる期間において営まれた。多くの思想戦犯を輩出させたその時機において,彼が激情を吐露して親鸞に触れ,悩んで諦観の道途に座したとして,何人が彼をせめうるだらう。」(p.42.)
「彼が生き耐へて敗戦日本の大地に立ったとしたら,未定稿『親鸞』は書き改められたにちがひなく,彼の哲学的コースはこの冬至を去って多産の春分へ,再出発したにちがひない。」(p.43.)
このような服部による三木批判の論点については,まず,三木が親鸞論に取り組む思想的文脈に関する理解の不十分さが指摘されなければならないであろう。三木がパスカルを論じたアントロボロギー論展開の延長線上に,さらには「構想力の論理」展開を経た地点に三木の親鸞論は見出されるのであった。三木が「激情を吐露」して親鸞に触れたとか,「悩んで諦観の道途に座し…」とする服部の断定は,三木の思想的営みについて理解する姿勢を欠いた暴論でしかないであろう。
次に,三木の昭和研究会への参加については,同じく三木の思想史的文脈における「時務の論理」についての理解が必要であろう。三木の「時務の論理」を理解することなく,三木が昭和研究会で提示した「新日本の思想原理」としての「協同主義の哲学的基礎」について「哲学的猿芝居」であったと断定するのは,単なる決め付け以外のなにものでもないであろう(註33)。
しかし,私がここで問題にしたいのは,服部の三木哲学理解の内容ではない。服部が三木批判で示した特有な方法である。服部の三木批判は,マルクス主義への最短距離として「夏至点」を設定し,そこからマルクス主義に離反する距離を測定し,最遠隔の地点に「冬至点」を設定するという方法であった。しかも,「夏至点」と「冬至点」は平面上に設定されているのではなく,「夏至点」から「冬至点」へのコースは「諦観の道途」とされ,「冬至点」から「夏至点」へのコースは「多産の春分」への「再出発」とされていた。この二つの地点設定には,上位と下位の価値関係が含められていたのである。
さらに,私が問題としたいのは,「夏至点」と「冬至点」の上位・下位関係において「夏至点」からする「冬至点」に対する献身が当然のように求められ(註34),左翼の極点である「夏至点」の要請によって生じた「冬至点」における犠牲については「夏至点」の側の政治責任を問わないとする「左翼無答責」の論理がそこにあったことである。
ある哲学者がいた。彼は,最初,非合法共産党へ資金援助を行って逮捕され,大学のポストを失った。友人達が代講を行って彼の生活を支えた。次に,彼は,警察から逃亡した「一人の共産党員」へオーバー・コートを与えて逮捕され,今度は獄中で命を失った(註35)。そのような彼の死について「夏至点」とおぼしき地点から贈られた言葉は,彼が「生き耐へ」ていれば「彼の哲学的コース」は「再出発したにちがひない」であろう,とするものであった。服部は,三木が死にいたる経過について簡単に次のような説明を与えている。
「彼は捕らへられ,遂に日の目を見ず,戸坂潤と前後して,敗戦決定の前夜において獄中に斃死した。彼が捕へられたのは,空襲を機会に警察から逃亡した友人である一人の共産主義者を,彼が一晩泊めたといふ事実に,因縁をつけられたのである。」(pp.42〜43.)
ここには事実認識の誤りがある。三木の死は敗戦後であった。そこで三木の死は悲劇性を増している。なぜ,三木を救出できなかったのか。しかし,いまは,それについても問わない。私は,服部が,三木の死の説明に続けて,三木の獄死について「彼にとっては偶然の奇禍であり……」としている点にこだわりたい。服部は,平然と,「冬至点」に立つ三木が「夏至点」に立つ「一人の共産主義者」に友情を示したために獄死したのは「偶然の奇禍」にすぎなかったと言い切っているのである。服部の三木再批判は,「一人の共産主義者」の無謀な行為のために逮捕され,書きかけのままとなって机の上に散乱していた三木の親鸞研究の原稿に対してなされた。
その服部の三木批判において,服部は,国家権力による「必然の暴状」を指摘することはあっても,三木の親鸞論を途絶させた「一人の共産主義者」の責任を問うことはしないのであった。服部は名を出さないでいるが,「一人の共産主義者」とは高倉テルのことである。高倉自身は,三木の死について「一人の共産主義者」としての責任を認めている(註36)。
家永が服部の親鸞研究に高い評価を与えたのは服部の親鸞文書に対する読みに対してであり,親鸞の家族に関する実証的研究に対してであった。必ずしも,服部の学問と方法のすべてに対してではなかった。したがって,家永の服部の親鸞研究に対する評価が,服部によって服部の三木批判展開の書の巻頭に掲げられたのは家永にとって不本意であった。家永は,服部についての「思いで」として,「方法論も専門領域もまったく異なるのに,服部さんの著書の序文のなかで学問的な交流をとげた,というのは,実に奇縁というほかありません」と述べている(註37)。しかし,服部との間の「学問的な交流」を否定するこの家永の抗弁は不十分である。
家永による服部の親鸞研究評価は,服部の三木再批判が「夏至点」からする「冬至点」への見下しとなり,「左翼無答責」論に立脚していた方法論的前提を不問に付していた。それは,私に言わせれば,家永における「民衆無答責」論と服部の「左翼無答責」論が関連し合体する構造があったからであった。家永と服部の間には,日本の進歩派に特徴的な「民衆と左翼への批判」をタブーとする姿勢が底在していた。家永の服部に対する「異」の申し立てには,家永と服部の間に共通する「民衆と左翼への免責」構造についての切り込みが欠落していた。
最近,私は家永についての克明な研究文献に接することができた(註38)。それによれば,家永は,親鸞の悪人正機説の社会的基礎は,服部の言うように「百姓」層に求められるのでなく「武士階級」の宗教生活の展開過程に求められるとして,服部の史的唯物論を機械的に適応する親鸞論を批判していた。それだけではなく,家永は,日本共産党について,戦争の惨禍を少しでも少なくするために「最大限可能な戦略戦術が考察され実行されたかどうかきびしく自己批判する責任は残るのではなかろうか」と,丸山眞男の日本共産党に戦争責任自覚をもとめる見解に同調していた。家永は,服部が示した「左翼無答責」論から脱出していたのである。
しかし,家永と服部の間に共通する「民衆と左翼への免責」という基本的立場は,日本の社会派知識人に特徴的な「進歩派選良の使命感」の底在からもたらされる姿勢であった。民衆と左翼を擁護する進歩派の立場は民衆と左翼の欠点を批判しない立場であるとする「進歩派選良の使命観」が民衆に対して発揮されるとき,それは「民衆無答責」論となり,左翼に対して発揮されるとき,それは「左翼無答責」論となる。家永は,「左翼無答責」論から脱出したとしても,私が知る限り,「民衆無答責」論については頑なな保持者としての立場を変えることがなかった。
家永先生に私はお会いしたことがない。先生から,手紙と電話を何回か頂戴したことがあるだけである(ここでは,先生と呼ばせていただく)。私の『日本国憲法体制の形成』(プログラム10)をお届けしお目にかけたとき,手が不自由で手紙を書けなくなったとのことで丁寧な電話を頂戴した。それは1997年秋のことであったと思う。私は,機会があったらと用意していたある質問を先生にぶつけた。大日本帝国憲法の形成過程にあっては私擬憲法が70点も出現していたのに,日本国憲法の形成過程にあっては各種憲法私案が10種類ほどしか発表されなかった経過について先生はどう考えておられるか,というのが私の質問であった。いまでも,電話口に聞こえてきた先生の声と口調を覚えているのであるが,先生の答えはこうであった。「それはね,高橋君,日本の民衆はね,戦時下にですね,もはや声を上げることができなくなるところまで痛めつけられていたからなのです」。この先生のご意見に反論する機会はないまま,2002年11月,私は先生の訃報に接した。
私の旧著『民衆の側の戦争責任』(プログラム7)は「民衆無答責」論を追究し,旧著『左翼知識人の理論責任』(プログラム9)は「左翼無答責」論を追究するものとなっていた。私は,「親鸞論をめぐる三木清と服部之總」なる分析テーマの所在に気付くことによって,「君主無答責」に起点を置く「民衆」と「左翼」の「無答責」(Unverantwortung)という政治責任倫理の欠落構造の追究が社会労働運動史ならではの日本の思想史への接近になっていることを確認できたと思っている。
(註32〜38)
(註32) 「親鸞をめぐる三木清と服部之總」をテーマとする小さな研究会における参加者の声については法政大学社会学部同窓会『同窓会報』(第21号,2002年12月16日)を参照。そこで,私は,歴史学者として著名な服部之總であるが,その社会学者としての側面に注目する必要があると発言している。なお,『法政大学社会学部50年誌』(2002年刊)には「日本史家」としての服部に「訣れを告げようと思う」とする中筋直哉「服部之總『明治の五十銭銀貨』再読」があって注目される。
(註33) 昭和研究会に法政大学関係者として参加したのは,三木清のほか,平貞藏,笠信太郎,中村哲,城戸幡太郎,小野武夫,友岡久雄などである。これらの人たちが近衛新体制で試みた政治的投機は,服部之總によれば「茶番」なのであった。
(註34) 松尾章一編「服部之總年譜・著作目録」(小西四郎/遠山茂樹『服部之總・人と学問』日本経済評論社,1988年,所収)によれば,服部が野坂参三のすすめで日本共産党に入党したのは1949年1月であったが,翌年の1950年1月には野坂の「自己批判(平和革命論)をきっかけ」として脱党届を出したとされている。服部の日本共産党との関係においては,1928年3月に「義兄の馬島|に協力し,山本懸藏の国外脱出を成功させる。馬島をへて百円札一枚を山本に渡す」という経過が注目されるべきであろう(同上,年譜)。服部の「夏至点」への接近は,山本懸藏や野坂参三への接近となっていた。その山本と野坂の関係とは,世界共産党内部における陰湿な確執の関係にほかならなかった(加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人−30年代共産党と国崎定洞・山本懸藏の悲劇』,青木書店,1994年,参照)。戦後のある時点で,服部は馬島を通じ,山本や野坂が取り込まれた「スターリン粛清」について具体的な情報をえたのではなかったか。「夏至点」への接近が陽光の世界への接近ではなく,暗黒の世界への接近であったことを,戦後のある時点で,服部は悟らざるをえなかったはずである。三木の高倉支援という「夏至点」への接近が三木の「獄死」受難をもたらし,服部の支援による山本の「夏至点」への接近が山本に「粛清」受難をもたらした事態を服部はどのように受け止めたのであったろうか。
(註35) 刑務所における三木の最期について大内兵衛は詳しく語る。その詳しさが三木の死への追悼に止まらない三木を死に追いやった経過についての憤りを示すものとなっていた(「三木清君の死に方」『回想の三木清』三一書房,1948年)。豊島輿志雄が「捕えられることになった事件そのものが,実につまらないものだった」と,短い文章の中で「つまらないこと」「実につまらない」と三度も言い切っているところにも三木の死の経過についての憤りの表明があった(同上)。
(註36) 高倉テルは三木の遺児である洋子に「自責の苦しみは,おそらく私の死ぬまで,きえますまい」と述べている(上掲『回想の三木清』p.33.)。法政大学図書館藏「服部文庫」で『回想の三木清』を見ると,上記引用箇所に,おそらくは服部の手によるものと思われる傍線が引いてある。
(註37) 前掲『服部之總・人と学問』pp.137〜138。服部の没後30年記念の講演の一つに,中村政則「服部史学からうけつぐもの」があった。同書,所収。中村の記念講演は,従来の「服部史学」の評価は服部の宗教論=親鸞論を見落としているとする滝沢秀樹「服部史学についての覚え書」(『歴史学研究』1973年4月)の批判に応えてなされた「服部史学」の再評価論であった。中村の記念講演は,滝沢論文が提示する服部における「内なる三木との闘い」は釈然としないと斥け,服部の親鸞研究は「服部の天皇制研究と内面的にむすびついていた」とするものであった(p.46)。だが,滝沢論文によれば,服部は「突然の死」の前に大塚久雄に心情を吐露しているが,その心情とは,信仰とイデオロギーの葛藤からもたらされる「陰影」であり「屈折」であった。
(註38) 田口富久治「家永三郎の<否定の論理>と丸山眞男の<原型論>」(立命館大学『政策科学』10巻2号,2003年1月)
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共産党 『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価
丸山眞男
『戦争責任論の盲点』(抜粋)
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕4連続粛清事件とネオ・マル粛清
加藤哲郎『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に』
Google検索 『三木清』 『服部之總』 『家永三郎』 『高倉テル』
『論争無用の「科学的社会主義」』高橋除籍問題
『逸見重雄教授と「沈黙」』(宮地添付文)逸見教授政治的殺人事件の同時発生
『「三文オペラ総選挙」と東京の共産党』2005年総選挙と東京の結果
『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に