1993年より3年間にわたって旧徳山村の寺屋敷遺跡の発掘調査を担当した篠田通弘に対して、(財)岐阜県文化財保護センターと岐阜県教育委員会は、報告書作成作業を目前にした1997年3月末に突然解職・異動の処分を下しました。
 これに対して、篠田は水没する徳山の遺跡発掘調査に対する責任を全うできないことを訴え、ただちに県人事委員会に対して不服申し立てを行いました。岐阜県人事委は21年ぶりにこれを受理し、1年間の準備手続を経て、1998年5月15日第1回公開口頭審理を開始し、第2回公開口頭審理を7月16日、第3回公開口頭審理を10月8日に、第4回公開口頭審理を12月24に、第5回公開口頭審理が1999年3月3日に開催されました。1999年5月22日に開催された第6回公開口頭審理では申立人本人に対する尋問が開始され、本人尋問は1999年8月5日の第7回公開口頭審理においても継続されました。
 旧徳山村には約40か所もの遺跡が知られていますが、そのほとんどが徳山村廃村前に地元の「徳山村の歴史を語る会」によって発見されたものです。1978年の会の発足当時から遺跡の分布調査に取り組んできた申立人は、1993年藤橋中学校から岐阜県教育委員会文化課へ異動を命じられ、同時に(財)岐阜県文化財保護センターへ派遣となり、同センター調査課長補佐として昨年3月まで徳山ダム建設事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査と整理調査・報告書作成に従事してきました。1993年から3か年にわたって従事した寺屋敷遺跡の報告書作成業務が、1997年4月から予定されていた所、突然センターを解職され、揖斐郡池田小学校勤務を命じられたものです。
 遺跡(埋蔵文化財)は行政のものでも一部の研究者の研究材料でもありません。水没など破壊に先立って実施された遺跡の調査は、その成果を報告書の刊行によって地域はもとより広く国民に公開して完了するものです。申立人はこの解職・異動によって調査の責任を全うできないことを訴え、岐阜県人事委員会に対して不服申し立てを行い、処分の取り消しを求める闘いを行っています。
 水没する徳山村の歴史をうやむやにすることにつながる、場当たり的な文化財行政に対して、あくまでも異議を唱えていく覚悟です。
 県人事委員会における審理は11月16日の第8回公開口頭審理において最終意見陳述が行われ、これをもってすべての審理が終了しました。県人事委員会においては、訴えの趣旨に十分耳を傾けてくださった上で、岐阜県文化財行政のあるべき姿について良識を示していただけることを固く信じております。