「日韓併合期の朝鮮社会」に関する資料集日韓併合期の朝鮮社会がどのような状況であったのか、具体的に判るような資料を集めていきたいと思います。 ○ 〜1910年(日韓併合の前夜) ![]() |
![]() =(機械翻訳)「聯合ニュース ≫ 100年前尚州市(サンジュシ)風景入れた写真発見」 |
![]() ![]() ![]() ○1910〜1919年(武断統治) ![]() ![]() ![]() ![]() ○1919〜1937年(文化統治) ・林 廣茂(はやしひろしげ)著「「植民地時代は収奪・搾取の時代であった」と言われたら」(鄭大均・古田博司 編「韓国・北朝鮮の嘘を見破る 近現代史の争点30」(文春新書、2006年)所収) |
この文章のなかから、何カ所かを引用します。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです 『 昭和八年、最も経済力が集中したソウルには、本格的な五大百貨店が勢ぞろいし隆盛していた。内訳は、韓国での創業順に、日本人経営の丁子屋百貨店本店(現在ロッテ百貨店ヤングプラザ)、三中井百貨店本店(同ミリオーレ)、三越百貨店京城店(同新世界百貨店本店)、平田百貨店(同天然閣センター)の四店と、韓国人経営の和信百貨店である。 日本人経営の四百貨店は、現在のソウルの中心街である退渓路(当時昭和通り)と明洞ギル(同明治通り)に挟まれた明洞を取り囲むように、互いに隣接して立地していた。和信は少し離れた鐘閣交差点の右北(現在鐘路タワー)にあった。 平田を除く四百貨店は全て、巨大なビルの威容を誇っていた。どの店も、八〇〇坪前後の土地に近代ルネッサンス式の聳え立つ五〜六階建てのビルをかまえ、延べ面積は二千数百坪くらいの広さがあった。昼間は大きなリボンや看板で華やかに飾りつけ、夜間は競い合うようにライトアップした百貨店を、府内のどこからでも仰ぎ見ることができた。平田は実質的に現在のディスカウント・ストアで、他の四店の華やかさはなく、木造二階建て延べ八〇〇坪である。』(p63) 『 五大百貨店と商店街は九〇万のソウル市民ばかりでなく、周辺の仁川や開城、水原などからも集客した。商圏人口は一二〇万人を超えていた。 昭和八年一二月一七日の京城日報は、「ボーナス景気の百貨店」の見出しで記事を載せている。三越、丁子屋、三中井、平田の四百貨店は一日から一五日までの売上が昨年対比五〜一五%上昇した。年末にかけて更なる売上増加を予想している。 この五大百貨店の客層に関する内部資料がある。結論から言うと、客の七割くらいが韓国人だった。彼らが主として百貨店ビジネスを支えていた。 丁子屋の客の六割が韓国人で四割が日本人だった。三中井では八割から九割の客が日本人で、今後どうやって韓国人客を増やすべきかが社内で討議されていた。中でも三越は韓国人に圧倒的に支持された。客の六〜七割が韓国人だった。和信は中級クラス以下の韓国人客がほとんどで、日本人客は一〇%にも満たなかった。 日本を代表する超一流百貨店である三越のブランドを、韓国人が日本人に負けず劣らずひいきにした。三越の社内資料によると、三越の包装紙で包んだ日本製の商品を特に両班(ヤンパン)クラスの韓国人が最も好んだという。値段は日本国内より一五〜二〇%高かったが、それでも三越の人気は絶大だった。』(p65-66) 『 韓国人による著書の中にも、五大百貨店の殷賑ぶりを裏付ける記述を多く見つけることができる。その内のいくつかを紹介する。 趙豊衍(一九九五)は、「三越の客の半数以上が韓国人で、例えば、一九二四年一二月の大晦日の売上が三五〇〇〇円(当時は二円が一ドル)で、そのうちの三分の一が韓国人による買上げと、記録されている」と述べている。 シン・ミョンジク(二〇〇三)によると、昭和五年七月の朝鮮日報のコラムで、「韓国人女学生たちが夏休み前に三越や丁子屋に押しかけて、それぞれの百貨店のロゴ入りの袋をさげて京城駅に向かう行列」を、流行に流されている没個性の現れと嘆いている。 また朝鮮中央日報の昭和八年九月のコラムでも、若い韓国人夫婦が、「口の肥えた金持ちの家のむく犬のように百貨店の食堂や西洋料理に行き、(中略)着るものは三越、丁子屋でなければ服でない」と思い込んでいると怒っている。 これらのエピソードを、韓国人が豊かになったシンボルとしてではなく、韓国人が日本人の百貨店商法に毒されているという立場で批判的に取り上げているのが特徴的である。』(p67) ![]() |
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![]() ![]() ![]() ![]() ○1937〜1945年(支那事変以降) ![]() ![]() ![]() |
朝鮮での千人針の様子など。 =(機械翻訳)「見てはいけない日帝時代の映像. 1937年中日戦争直後我が国の姿.」 下のサイトで見つけました。 ![]() =(機械翻訳)「知ってはいけない日帝時代の真実 学校で学ばない日帝強占期の実像」 〜注:ハングルのサイトです。どんな人物が作っているサイトなのか、当サイト管理人には分かりません。 |
![]() =(機械翻訳)「日本植民地時代平安と平壌一帯の生活を撮影した写真が公開された(写真集)」 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ○全般にかかわるもの ・桜の花出版編集部 著「朝鮮総督府官吏 最後の証言」発行 桜の花出版、発売 星雲社、2014年 ・呉善花 著「日韓併合を生きた15人の証言」発行 桜の花出版、発売 星雲社、2015年 ・但馬オサム 著「こんなに明るかった朝鮮支配」ビジネス社、2018年 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
=(機械翻訳)「知ってはいけない日帝時代の真実 学校で学ばない日帝強占期の実像」 〜注:ハングルのサイトです。どんな人物が作っているサイトなのか、当サイト管理人には分かりません。 |
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![]() =(機械翻訳)「1925年日帝時代、韓国の姿。公立普通学校の運動会。」 |
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このなかに、前韓国空軍大佐チェ・サムヨン氏の発言として、次のような記述がある。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。 「 キム・ジョンイルの父親キム・イルソンは、終戦前は、満洲で誕生しました。実名は、キム・ソンジュ。朝鮮語より中国語が流暢で、匪賊として活躍しました。1945年、朝鮮北部を占領したソ連によって、抗日の英雄 キム・イルソン将軍の伝説が作られていたのです。すなわち、偽のキム・イルソンです。本当のキム・イルソン将軍は、我々が少年時代、朝鮮北部で噂で聞いた人物ですが、当時33才の若造だったキム・ソンジュなはずがありません。本当のキム・イルソンは、日本の陸軍士官学校21期を卒業し、独立運動に転向したキム・グァンソだと言われています。 」 |
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