2000年6月25日(日)。私はこの日を「日本の民主主義が死んだ日」と呼びたい。そもそも日本には民主主義は根付いていなかった。だから正確には「死んだ」ではなく、「存在していないことを再認識した」日だったのかもしれない。何の日であったのか。既に記憶から薄れつつある(というのも民主主義がない証かもしれない)「第42回総選挙」があった日である。
自由民主党、公明党、保守党の連立政権を信任するのか否か、という意味合いもあった衆議院選挙であったが、最終投票率62.49%、連立与党は大幅に議席数を減らしたものの、全480議席中271議席を確保、森喜朗内閣続投、という何のために選挙をやったのか意味がなかった結果に終わった。
6月26日(月)の「筑紫哲也のNEWS23」でメインキャスターを務める筑紫哲也氏は番組の冒頭「結局誰が勝ったのかわからなかった選挙」と表現した(選挙の勝敗ラインを予想した各マスコミもまた敗者だ。基本的に外れてしまったからだ)。私の率直な感想としては、勝者はいなかったが敗者が国民(有権者)であったことだけは揺るぎがないだろうと思う。
誰も支持していない政権、誰も望んでいない景気対策(景気対策自体は望んではいるが実現される形が違う)、誰も望んでいない首相等々、誰が望んでいるのか一切不透明のまま、日本という国はますます暗闇の中へ引きずり込まれつつある。
そもそも「問題発言」ばかりを繰り返し、「元首相」という肩書きだけが欲しかった森喜朗(私の中では彼は既に過去形だ)を首相と認めている人間がいる(事実石川2区で14万票を集め当選している)というだけで私には驚きで、著しく現状認識を欠いているとしか言い様がないだろう。そもそも彼には民主主義というものがわかっていない。このままサミットに突入して世界の首脳たちに彼の無能さをさらけ出すのかと考えただけで恥ずかしい(前首相が病床に倒れた瞬間、党内に波風を立てないような人事だったのかもしれないが(例えば河野洋平では党が分裂する可能性がある)。所詮その場しのぎの首相でしかない。だから私の中では過去形なのだ。しかし、それだけで一国の宰相を密室で決定されては国民不在を再認識させるだけだ)。
そもそもある特定の宗教団体だけしか支持しない党(しかもある特定の政党を中傷するビラを大量に散布)が連立政権の中に存在することすら間違いであり、その組織票だけで776万票という過去最高を記録しただけでも今回の選挙がどれだけ意味がなかったのかを示している。
これでは国政選挙自体がますます無意味になっていくだけで、ますます投票率が下がり(たまたま今回は前回(1996年)史上最低の投票率59.65%をほんのちょっと上回っただけ)、ますます国民が政治から離れ、無関心となり、ますます国民がないがしろにされ、主義主張もない集票マシーンだけが暗躍していくこととなる(逆に政治が国民から離れている、という評価もある)。連日マスコミは選挙に関心をもつよう報道し、与党側が「問題」を連発してくれたおかげで野党側に順風が吹くかと思えば、「小選挙区」という制度もあり、与党側から見れば「国民は変化を求めていない」と思わせるだけの結果となってしまった(そもそも変化とは何なのか?)。完全に民主主義の敗北である。
相変わらず地方は「公共事業」という麻薬漬けにされ、就業人口の12%を占める土建業を養ってきた効果が大きく、無意味に、無駄に土木工事を伴う「公共事業」が推進されていく。その債務は結局最終的には将来の国民負担となることに目をそらしながら(12%という人口を支えるためには途切れることなく「公共事業」を継続する必要があり、当然その債務が回収されることはない。首都高速道路がいい例だ。「30年で無料化する」という「公約」が最初の開通から40年近く経った現在でも守られていないだけでなく、ただひたすら「道」を作り続け、保守し続けている。そのためにお金が消えていく)。
今度の選挙は金や権力といったある種暴力に近いものによって支配されていることを示してしまったのではないだろうか。そんなことに国民が気づいたら与党側はたまらないので(投票せずに)「寝ていてくれ」と言ったほどだ(まぁ、国民をこれでしらけさせようという思惑だけは当たったようだが)。
さすがに都市部ではそれはおかしい、国益にそぐわない、ということに気がついたのか、現職通商産業省大臣という閣僚の一角が崩れる結果となった(落選した)のが、ほぼ唯一の救いであろう。
私は20歳になってから一度も選挙権を放棄したことがない(今回も、6月24日(土)はある映画のイベントで関連作品をオールナイト上映(断っておくがR指定やX指定がつくような映画ではない)した帰り道で投票した)。たとえ小さな市議選であろうとも必ず「投票」という権利を行使してきた(これからもその権利を失うまで行使し続けるだろう)。小さな、数少ない権利ではあるが、形だけでも民主主義を掲げているものに属している以上、この権利を行使するのが当たり前だと思っている(そもそも民主主義を教える立場にある教職の家庭に育ったことも影響しているだろう)。投票したい候補者がいない場合はわざわざ不在者投票として白票を入れたこともあった。投票所が開く時間に駆けつけ、投票箱の中に何も入っていない、という確認をしたことすらもある(そもそも投票率が数%でも成立してしまうような議会選挙は意味があるのか。投票率何%以下、無効票が何%以下であれば不成立、というような法律はないものであろうか)。
私は基本的に「政党」というものが嫌いだ(ついでにナショナリズムも嫌いだ)。「無党派」であることを自認している。しかし「無関心」ではない。最近の右傾化している政権には異を唱えたいと思っている(かといって左翼系思想の持ち主でもない)し、このコラム(第31回、第38回、第41回)でも取り上げてきた。
ただなぜこれほどまでに無関心で、選挙権を放棄し続ける人々が多いのか。私の推測でしかないが、実感がわかないのだと思う。国政に参加しているという。そして個人の主義主張が見えない(無表情な)集票マシーンの力を知っているがために、自分の行為に意味を見出せないでいるのだ。そうなってしまったら意識の改革は非常に困難だ。だからこそ逆風、逆風と言われながらも、終わってしまえば何事もなかったかのようにただいつもの日常が再び始まる。
この国はもはや戦後ではないのかもしれないが、民主主義を取り戻すために、もう一度戦後からやり直す必要があるのかもしれない。
(2000. 7. 2.)