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●【隠す憎悪-長女のアトピー】
 私は、18歳で結婚、出産しました。そして、母となり、自分の女性性を否定し、憎悪を隠して愛情だけの、母性のみで生きていきたいとさえ思った。だから、あいこを、隠してきた憎悪で、食い殺すほどに支配してきました。 そんな私の隠された憎悪に傷つき、あいこは生後まもなくからショック症状を起すほどのアトピーになりました
●【育児へのこだわり】
 それがきっかけで、自然食を始め、やがて林先生と繋がったのです。 私は、何故か自然分娩や母乳、布おしめににこだわり、「絶対母乳育児」で育てた いと心に決めていました。でも、長女のあいこが5ヶ月の時、ヘルペスで2度の入
院、そのせいで私も乳腺炎になり、同じ病院に入院、18歳の無知な私は、やむなく母 乳で育てることを断念しました。
 でも、いま思うと、母乳をやりたくなかったのです。現に、乳首を加えさせると、 ドーンと谷底に落とされるカンジ、動悸をうち、母なら誰でも思うはずの幸せな気持 ちなんてなれなかったのです。そんな気持ちと正反対なほどに、湧き出すぎる母乳。 今から思うと、何故そうなってしまうのか、分からないことがつらかった。  8年後に次女のはなこが産まれ、長女のあいこにしてやれなかったことを全てやっ てあげたいと、はなこを通して自分の欠陥を取り戻そうとしてしまった。だから「自然育児友の会」という会まで立ち上げて、今 は、会員80名ほどになってます。
●【次女の出産-自分自身の出産とだぶる】
 はなこを出産する時、最後の一息という所で、助産婦さんに手を入れられ、引っ張 り出されるカンジが納得いかなかった。そのズルっとした感覚が何故か心に残り、こ の出産ではそこだけが気に掛かる所だった。今思うと、自分の意思どおりでないその 行為は、自分の育てられ方(産まれ方・・・促進剤と無痛分娩剤を使った)とだぶ り、その傷に響いたのだと思う。 長男太郎を妊娠したと分った時、どうしてもそれを拭い取りたくて、「自分の手の 中で取上げたい」と強く思いました。分娩台や布団の上ではできそうにない、その行為をする為に、水中出産を選び、友達の助産婦にそばに居てもらい、お風呂の中で自分で取り上げました。それは、今までの人生で経験のない達成感でしたが、精も魂もつき、2度とできな い、そう思いました。
●【取り戻そうとする人生】
 こうやって書いてみると、私の人生は取り戻すためにあるのか、そんなに自分が許せないのか。これが真に愛されず育った子、私の生き方なのです。
●【甘えられず-甘えられることが苦手】
子どもに甘えられることが苦手なのです。長女、あいこには「スキンシップ」をと思い産まれた時からベタベタよくしてました。
●【長女「お母さんの抱っこは苦しかった」】
 今思うと、自分がされてないから反動でです。 最近、長女のあいこが言いまし た。「お母さんの抱っこは苦しかった。痛かった。」と・・「でも、あいこはおやつよりもお母さんの抱っこが大好きって言ってたよ。」というと「自分がして欲しいときはいいけど後は嫌だった」と言いました。それを聞いた時ハッとしました。やっぱり私は自分の淋しさでしがみついていた。
●【あの淋しさよりはまし-長女にしがみつく】
 現に私は長女、あいこが産まれるまで、淋しさのあまり、布団の中でよく泣いていました。でも、産まれてからは、淋しさで泣く事がなくなったのです。何があっても、あの淋しさよりはましだと思うほどにしがみつきました。
●【知って受け入れる長女】
 あいこは知っていたのです。その手を振り払うとお母さんが淋しがることを・・がまんして受け入れていないと、捨てられる事を・・結婚して子どもを産んでもさみしいお母さんだと、次は又、淋しさを埋めるために、母は違うものを探すかもしれないと、必死でしがみついてたのです。だから、あいこには「いつか捨てられる」ってカンジがいつもあります。
●【捨てたい】
 そして私にも捨てたい自分があります。腹が立った時、すぐ切り捨てたくなってま した。「出ていけ。」が、私の怒りのお決まりの文句でした。それは今でも時々言っ てしまいます。 でも、今は自分探しが進んだことで、その頃に比べると、随分マシになり、腹が たっても、たちかたが違います。憎しむような怒りは無くなっています。
●【手のかからなかった次女】
 次女のはなこは3歳頃まで、あまり泣かず、べたべたせず、手のかからない育てや すい子でした。胎教も、出産も、食事も良いので、やっぱりしっかりと気をつけて手 をかければ、手の掛からない育てやすい子になるんだなあと思っていました。
●【ベタベタし始めた次女】
 次女はなこは3歳でおっぱいをやめてからぐずぐずベタベタします。自分を取り戻 すかのように、現在に至るまでグズグズベタベタたするのです。まだ6歳なので、甘 えて当たり前なのです。
●【本音はうっとおしい-駄々っ子をさせて貰えてない自分】
 でも、私にとって、そのベタベタは本音はうっとおしいのです。私は駄々っ子をさ せて貰えてないので、ぐずぐず言われると、本心は嫌気がさしてます。でも、それが 必要だと理解はしてるので、「頑張って」受け止めてる、そんな感じがあります。
●【嘘より正直】
 でも、どこまでいっても「愛していた」と言い張る親よりまだましと思います。私 は子供 の頃から「本当の事が知りたい。本物が欲しい。」とずっと思ってきまし た。嘘や偽者を見破って傷ついてきたからだと思います。 私も本当の愛情を与えられないのだから、子ども達も見破るはずです。私はせめて自 分に、子どもに、正直でありたい。それを自分が観て行くために、自分探しをしてい るのです。
●【知らないうちに親と同じ「押し付け」】
私は淋しさを埋める為に若くして、子どもを産みました。旦那も若く、あいこにあ まり関心がなく、自分が一番という感じなので、益々私は、あいこしか眼中に入らな くなりました。 私は母親のような生き方はしないと心に決め、あいこを育て始めました。子どもの 気持ちが分かるような振りをしました。その頃は振りとは到底思わず、自分が正しい と突っ走りました。服も自分の趣味を押し付け、キャラクター物なんか絶対着せたく
なかった。 アトピーになっても、食物に反応する極めて珍しいショック症状を伴うものだった ので、私が気を付けて食事を管理すれば表面上は分らなくなるほどの状態にまで綺麗 になり、そこでより一層「このやり方が正しい」と自信をもち、突き進みました。私 は知らないうちに親と同じような「押し付け」をしていたのです。 あいこは、小学 生になり、自分の机を持つようになり、その辺りがいつも散らかっていました。 次女はなこが産まれてからは、私は、それを責めるばかりで、手伝って片付ける事 などしませんでした。見るに見かねて、手伝う時も、私が見て、美しいと思うような 片付けの仕方を押し付けました。子どもの使い勝手など、汲む事もせずです。
●【自分の母親と同じ-突き放し】
 大抵の事は「自分の事は自分でする事」と突き放し、助けを求めてきても、あいこ の気持ちが満足するような接し方などしてませんでした。 助けて欲しい時に突き放す、冷たい母親です。今から思うと、自分の母親がしてき た事と同じなのです。
●【精神状態でこんな事が起こる】
あいこは2歳になる頃から喘息が出始めました。私は自分の勉強の為にとアトピーの 会の会長を受けました。21歳の時です。5年間続けました。今から思うと、自分の名 誉の為が大きかったのではと思います。アトピーを食事や体質、環境のせいにする事 で、治療効果が上がったので、子どもの精神状態が大事だと気がつくまでには、時間 が掛かりました。 あいこが2歳の頃、ふすまを破った事に腹が立ち、ひどく叱りました。その数分後に 蕁麻疹が出始めました。その時初めて、精神状態でこんな事が起こるという事を認識 しました。 でもその事実を認めるだけで、どうしたらいいのかが分かりませんでした。 それからは、アトピーはライフスタイルの変換と心が重要だという事は掲げていま したが、なんの確信もないまま月日が過ぎました。
【子供の優しい面しか許す事ができない】
 あいこが5歳の時の事です。旦那の実家に遊びに行っている時、祖母から貰った風 船を膨らまして遊んでいました。そのゴムに反応し、唇が腫れ上がり、蕁麻疹が出て 大変なことになりました。祖母は慌てて「私がこんな物もたせたから」と自分を責め た感じで部屋を出て行きました。私もそんな義母の後姿が可愛そうで脳裏に焼き付い ていました。あいこはその日みんなと出かける事になっていたので、行きたい一心で その苦痛をガマンしてました。  ある日夕食の時私に言いました。「あの時蕁麻疹がでたろう。おばあちゃんが可愛 そうだった。」と・・。私は半年も前の事をそんな風に言うあいこに対して、喜びま した。「お母さんもあの時のお婆ちゃんの後ろ姿は忘れられん。あいこがそんな事に 気づいていたなんて、お母さんは嬉しい。アトピーに生まれたからこその優しさがあ るんだね。」そのように答えました。
 今から思うと本当に分らず親です。綺麗な優しいあいこしか許す事ができませんで した。自分の苦しみを言えない、出せない、我が子に対して、おかしさも感じず、私 と同じ様に感じたことを話すあいこを誇らしいとすら思いました。 アトピーをどこまでも外側のせいにし、前向きに考え、アトピーのお陰で「人の心 の分かる優しい子」に育ったと思い込んでいたのです。
●【自分のせいだと認めると人生が崩れ落ちる】
自分のせいだと思いたくなかった。それを認めると今迄の自分の人生が崩れ落ち る、そんな恐怖があったのかもしれません。
●【駄々こねしないあいこ】
あいこは自分を言葉で表現できる頃になると、もうすでに、「親の思う良い子」を やっていました。2、3歳頃も食事制限がきつく、皆と同じ物が食べれないのに「食 べたい」と駄々をこねた事もありません。私はその頃よく人に「あいこちゃんはなん で欲しがらないの?普通駄々をこねるでしょう。」と言 われてました。でも私は駄々こねしないあいこに対して、「産まれた時からそうだから、本人が食べられないのをちゃんと理解してる」と応え、そう思い込んでいました。
●【駄々こねされてたら虐待して殺してたかもしれない】
ショックを起すので、駄々こねされても、「食べさせれないから、無理な物は無理」と私も思ってたので、あいこは自分の感情を無意識に押し殺してました。今思うと、無理な事でも、存分に駄々こねさせてあげたかった。「つらいね。ごめんね。でも食べる事は無理なんよ。」と言ってあげたかった。そんな事すら気づかない親ですから、ぶつけれるはずはありません。今思うとあの頃、駄々こねされてたら、そんな自分の感情をぶつけるあいこなら、私は虐待して殺してたかもしれないというほど、子どもの心と向き合う事ができていませんでした。あいこも私のその隠された部分が恐怖で自分を無意識に押さえてきたのだと思います。
●【私も駄々こねをした覚えがない-それが親の望み】
 思い出すと私も駄々こねをした覚えもありません。5歳の頃、年子の妹がひっくり 返って泣き叫ぶことに「この子はなんでこんな事するのだろう」と不思議に思った自分の気持ちを今でも覚えています。その頃にはもう、甘えは許されない自分だったのです。  私は人の事を羨ましいとか嫉妬するという感情も、もってはいけないものとして、自分で感じないようにして生きました。汚い感情を持つ私は許されなかったのです。それが親の望みでした。そういう自分の感情を自分で許せない私は、女々しさを感じる人は特に嫌いでした。
●【人間としての感情まで殺してきた】
だから私は深く人と関わったことがありませんでした。付き合った人ともそんな自 分になりそうものなら、そんな自分に耐え切れず、逃げていました。そんな私がそん な自分に気づかぬまま子どもを産んでしまったので、私がされたように、私の子ども に対して、人間の基本的に出さなければいけない、持っててもいい感情まで殺してき ました。
●【子供への支配と束縛】
 知らず知らずにそれは生活の全てにおいて、子供に対して支配し、束縛という形で 出ていました。大きくなるにつれ、お手伝いという名の強制労働。家にあるおやつも 自由に食べさせませんでした。その日の体調を考え、私が管理をしていました。その ままの自分を許されず育った私は、子どもを許す事ができなかった。「まあいいか あ」なんて到底思えなかった。
●【テスト週間やテスト期間に体調を崩すあいこ】
 あいこは小学生までは勉強が出来る子でした。中学に入って、テストに順位がつく ようになり、変化が現れ始めました。中一の終るころより、テスト週間やテスト期間 に体調を崩すようになりました。今ではほとんど出ない喘息という形や、風邪からの 熱や、そうでない微熱などです。どこかで必ず欠席をしなくてはならない状況になる のです。
●【自分の状態に気がつかないあいこ】
 その頃はよく勉強の仕方が分らないから、やる気はあるけどできないと言ってまし た。中一になりテスト週間位は勉強しなくてはと思ったらしく、その期間はやる気ま んまんで始まり、いざ後残りわずかでテストという時になると気持ちが続かなくなり 自分自身に嫌気が差してました。私達はすぐにテストの「評価」が気になり、自分を
発揮できない子どもの状態に気づき、どうにかしてあげたいと思ってました。でもあ いこが、自分の状態がおかしくなっていることを受け入れるまで時間が掛かりまし た。何度もこの状態が続き、まず、あいこ自身が自分のおかしな状態に気づく事が大 切だと思いました。
●【成績の悪い自分が許せないあいこ】
 テストの順位について実際に夫婦共々あまり関心がありませんでしたから、あいこ に勉強して成績をあげるように言った事はありません。・・・があいこはテストが恐 いのです。親に言われるからではなく、成績の悪い自分が許せない、そんな感じで す。許されず育ったあいこは「自分で自分を評価する」そんな風に育ちました。
●【それは私が許せてなかったから】
アコールでカウンセリングを受け初めて5年間で少しずつですが私は、自分が分るよ うになり、この子が自分を許せないのは、私がこの子を丸ごと許せてなかったし、私 自身が自分を許さず生きてきたという事が分り始めてたので、なんとかアトピーを治 したのと同じように私のつけた傷は親の責任として、この子が生きやすくなる程度に してやりたいと思いました。
●【私自身が傷を知る-反抗できるあいこ-心底の侘び】
 それには私自身が自分の傷を知る事が必要と思い、あいこが中1の夏から本気を出 し始めました。私がカウンセリングとブレスを続けるうちに子どもは強く私に反抗できるようになり、今までに何度も本気バトルをしました。私は子どもに心の底から詫びれるようになりました。
 そして、中2の3学期の実力テストは体調を崩さず挑むことができました。今までは自分が強く勉強をしたいと思っても手に付かない、集中しきれない辛さを感じてました。でもこのテストは自分の思っただけ、勉強が手に付く、そんな変化を感じてました。
●【爆発-子供も自分も許せない】
・・がやはり予想通り症状は行きつ戻りつと言われますが、その通りで、学期末は又テストの前日に微熱を出し、欠席しました。私は腹が立ちました。休ませたものの、納得がいってないのです。正直言って「また病気がでたか・・」と言い放つほど 苛立ちました。その夜はとうとう爆発しました。熱のある子どもに対して責めまくりました。テスト恐怖症の子どもが本当は許せなかったのです。そして子どもをそんな風にしてしまった自分が許せなかったのです。
●【言い合い】
 言い合いになり、「好きで産まれたんじゃない。自分達の快楽で産みやがって。 私の人生を終わりにさせたのはおめーじゃ。」とあいこ。「まだ終ってないは。諦め るな」と私。「こんなになるならさっさと中絶すれば良かった。こんなにじわじわと 殺されるのはごめんじゃ。」とあいこ。「まだ死んでないわ。生きとるじゃないか」 と私。「私は言葉で心を殺されたようなものじゃ。あんたは3人共殺してしまう わ。」とあいこ。・・・その通りです。
●【憎悪、暴れ】
その言葉に私は反論しませんでした。でもこの子の怒り、私に対しての閉じ込めら れた憎悪こそ病気の根源だと分っていましたから、とにかくそのエネルギーを出させ てやりたいと思い、私は子どもの身体を押さえ、抵抗させ、暴れさせました。  ベビーブレスを9歳の頃から受けていたあいこは、 反抗期に入り、強くベビーブレスを拒否しています。私が押さえつけた時、ブレスを さされると直感的に気づき、「キモイんじゃあーっ」と叫びました。自分の憎悪を出 すのが恐いんだと思いました。暴れながら、言いたい事を言い放つその場面は、傍か ら見るとキチガイざたです。それでも続けました。きょうだい達も恐がりました。 でもそこは、旦那が「姉ちゃんもブレスして吐き出さんといけんのよ。はなこも太 郎も 駄々こねして暴れるじゃろ。それと一緒だから、大丈夫だよ。」とフォ ローしてくれました。
●【子どもの心を粉砕させてきていた】
 私もあいこも力つき、放心状態でした。私は、子どもに伝えた傷は分るけど、それ でも、言われた言葉に心が粉砕してしまいました。粉々のその心を拾って集めてどう にかしたいほどつらく悲しかった。 でもまさに私は子どもの心を粉砕させてきていた。その事に理屈ではなく、心で、 遅ればせながら気づいたのです。  私は何度も自分自身の内面が粉砕しなければ本当の自分が出てこないことも分か り、言っ てくれた事に感謝も出てきました。  そして、それを私にぶつける事のできるあいこに嬉しさも感じました。 テスト当日の朝、どうするのか様子を見ていました。布団から出て来ません。 「どうするん?微熱位なら行きなさいよ」と私。 「おかんが昨日私がしんどいのにあんな事させるから、行かん」と言います。私は ここは本気出すぞと思い、 「ちょっとこっちに来い、 話あいじゃ。」と呼びました。
●【認める】

「たった3時間なら今の熱なら行けるはずだ。送り迎えするから行きなさい。」「行 かない」 「じゃあ明日はどうするん?」 「明日は熱があっても行く」 「じゃあ今日も行けるじゃろう。今日休んだらテストの順位がでなくなるから行かな いというわけじゃな。」 「でるよ。今日の教科が0点として」 「あんたはそろそろ自分の病気を認めなくてはいけん。お母さんはこの日を待って た。何度もこの状態が続かないとあんたは認めんかったから、今言うけど、テスト前 に休めば、結果が悪くても勉強できてないからと自分に言い訳できる。テスト中休め ば0点として結果がでるから、それも自分の実力でないと言い訳できる。あんたはそ れで本当に満足か。幸せなのか。本当は気持ち悪いはずじゃ。自分が一番苦しいはず じゃ。そんな中でもあんたの病気は良くなっている。勉強が手に付くようになってる じゃないか。自分が思っただけできるようになってるじゃないか。あんた自身が病気 を認めなくてはこれから受験どころではないよ。ここで本気で自分と向き合わないと 将来の夢も叶わない。夢のために高校に行きたいのなら受験までに今なら間に合う よ。
 ここは逃げるな。絶対あんたの自信になるはずじゃ。テストの結果ではなく、受け る事に意味がある。どんな結果でもいいじゃないか。」と・・。 その時初めて素直な顔でぽろぽろと涙をながし、認めると言いました。
●【自信】
そして時計をちらっと見始めたので、 「行こう、送っちゃるから。今すぐ用意すれば遅刻でもテストには間に合うから」 と誘いました。そして無事3日間のテスト期間を乗り越えました。 最終日は喘息まで出てましたが、本人は本当に爽快で自信に満ちてました。自分か ら逃げなかった自信です。
●【私も自信のない子】
その3日間は私は子どもの傷と向き合う事で自分探しをする事ができました。 私は子どもの頃から自信のない子でした。走るのが速く、トップとアンカーが決 まった時も、負ける自分が恐くて、仮病を使い、アンカーを辞退しました。器械体操 の技の練習も恐くてできなくなりました。そんな事が数え切れません。気が付くと「負ける自分が許 せない」ように育ってました。
●【私もテストは白紙で】
そして思春期に入り、もともと勉強が苦手で、勉強が手に付くような環境で育たな かった私は、あいこのテスト恐怖症が顔を出し始めた頃と同じ、中1の辺りからツッ パリはじめました。 テストの悪い点を取る自分が許せなくて白紙で出したほうが、自分にとって、かっ こよかったんです。そのうち中学をよく休むようになりました。 家庭もボロボロで両親と暮らしてなかったので遊びまわりました。負ける事ができ ない私は、カッコの悪い自分を許せないから「ツッパリ」でそれをカモフラージュし ました。
なんでも人と違わなければ納得しない私はその頃、自分はヤンキーではないと思っ てました。まじめでもない、その辺のヤンキーとも違う、自分だけがもつ特別な存在 その頃の刺青入りの私の友達と先日再会し、「ナナは不思議な人だった。まじめでも ないし、私たちと組むわけでもなく、でもかなり恐かった。なんせこの私をパシリに するんじゃからと」
●【逃げる-同じ傷が我が子の中に】
私は自分に自信のないところから逃げるためにツッパリました。そうやってでも自 分を認める場所を作って生きてきました。そうしないと生きられないほど、自分を許 せなかった。そのままの自分を許せなかったのです。その傷と同じものを我が子の中 に見ました。私は自分の傷から目をそらして、隠して生きてきましたが、あいこはぎ りぎりの所で、自分から逃げずに認める事ができました。
 子どもの傷から自分の人生を改めて振り返り、何故そうして生きて来たかを知る事 により、子どもに付けてきた傷は私の傷そのものだったという事が改めて理解できま した。
 これが林先生たちのいう「親の傷に傷つく」ということなのです。そしてそれは親 子で現象が違っても同じ時期に起こってくるという感じがします。 あいこのテスト恐怖症も、私のツッパリも、起きてきたのが共に中一の終わりなの ですから。思春期の反抗期に親が気づけて本気で向き合えば、かなり胎児期、幼児期の 傷が緩和されるように思います。
●【家族と本当に繋がる】
私の場合は親が目の前にいないし、そんな揺れ動くところも見てはもらえなかっ た。もっとも今の私の親をみていると、たとえ一緒に暮らしててもそんな私には気づ いてもくれなかっただろうこともよく分りますが・・ 私は隠したり、逃げたりしている事を自分自身で分らなかった人生が一番辛かっ た。
こうやって分って生きていく事が子ども達や家族と本当に繋がれることと分かりま した。そして次の世代にその苦しみをなるべく残さない事が私の生きる意味だと感じ るのです。
今回の事で自分が何故つっぱって生きてきたのかをより認識する事で、子どもの苦 しみと悲しみが分りました。 私の事もたくさん子どもに聞いて貰いました。全て話しました。同じ気持ちをもっ て生きてきていた自分に気づき、子どもと真に繋がれるのだと思いました。テストの 終った日にその事を語り合う事ができて、子どもの晴れ晴れとした表情を見ていると これ以上の幸せはないと感じました。
子どもの気持ちを分かりたいと思うのなら、まず自分のルーツを探し、自分が何故 そうやって生きてきたかを知り、本当の自分が分かる事なのではと痛感しています。 生きる事は苦です。でもその根源を知ると真の喜びに変わっていくのだと思います。
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