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・・・「自傷行為と気づかず、苦しんだ湿疹」・・・ 【義父の自殺】
今からちょうど2年前、私が31歳になったその日に起こった出来事です。 母の再婚相手の義父が、首吊り自殺でこの世を去りました。真夜中の出来事でし た。 自営の場所がその現場となりました。検死の後、私の旦那と親戚が遺体を抱いて車でそのまま自宅へ連れ帰りました。 普通は病院で遺体の身体を拭いたり、穴という穴に綿を詰めたりして、清めるので すが、家で私達がそれを行いました。 私は義父の成育歴を思うとどんなに苦しい悲しい人生だったかが、手にとる様に分 り、その思いと共にありたいと思ったのを覚えています。 遺体の身体を拭き、服を着替えさせ、首の部分にバンダナを巻きました。首と鎖骨 の広範囲にわたり、ロープのあととうっ血した肌の色が広がっていました。私がプレ ゼントしたバンダナを巻きながら義父の死に至る感情をも共有したいと思いました。
●【母に甘える為に義父との関係を繕う】
でも、私は義父の事は本当は好きではありませんでした。私が結婚して長女を出産 した辺りから、少しずつ私と母の関係も復活しつつあり、行き来するようになる中で、私の 子どもを可愛がってくれるという事もあり、義父と母と歳の離れた実の弟のい る家庭へ出入りするようになりました。 私も子どもを産むと帰る家が欲しいと強く思うようになり、私は住んだ事ないの で、実家という感覚はありませんが、母に甘える為に私は義父との関係を繕って出入 りしてました。
●【認めるのが怖い義父への憎悪】
薄々自分の本当の気持ちに気づいてましたが、その頃の私はそれをはっきりと自分 で認識することが恐く、見ないフリをしてました。何故恐いかというと、表面はいい 顔していて、中は憎悪という自分を認めるのが恐かったのです。 嘘っぱちの母との関係でも義父の顔色を見ながら、繋ぎとめておきたかった。 義父 に対する憎悪を自分の意識に上らせる事が都合が悪かったのです。そんな自分を薄々 気づいていたのに、いざ死ぬと、共にありたいとまで思ってしまうのです。
●【首にそっくりな湿疹】
私は義父が死んで一週間後、義父の首と鎖骨の様子とそっくりな湿疹を全く同じ場 所へ出しました。痒みが酷く、醜いので外出はバンダナやストールで隠してました。 その頃にお尻にも酷い湿疹が出始めました。春が来て夏が来てより一層痒みがま し、お尻は特にボロボロでした。弟も中学頃よりお尻に同じ症状が出ています。
●【私は霊媒体質か】
首の辺りの湿疹があまりに義父の死に様にそっくりなので、私は霊媒体質かと思う 程でした。家族達も気持ち悪がりました。私は「共にありたい」と思ったら本当に共 にある現象が起こったので、何かあるんだろうという事は分るのですが、何故そう なったかが分らない事が気持ち悪く、知りたいと強く思いました。痒みに苦しめられ るので、理由がはっきりしないと、解決しないと思いました。 私は何故そこまで「共にありたい」と強く思うのか、それはどこから来る思いなの かを知る為に、初めて林先生の事務所を訪れました。ベビーブレスもカウンセリングもいつ もこちらにきてしてもらっていたからです。  お湯の中に全身を浮かべる、フローティングセラピーはその時初めて経験しま した。
●【何故と聞かれ頭が真っ白】
カウンセリングが始まって、「何故、あなたから母親を奪った人と共にありたいと まで思うのですか?共にありたいと思う気持ちの反対を考えた事がありますか?」と 聞かれました。その時は前記したような義父への感情を自分の中で表面化させていま せんでしたから、頭が真っ白になり、「分らない」と答えました。もう一度考えよう とすると頭が痛くなり、やはり「分らない」と答えました。
●【殺意のカモフラージュが分かる】
そのままベビーブレスに入りました。その時の体験は省きますが、終ってみて話していく と「自分の中の殺意(憎悪)を隠す為に、カモフラージュする為に痒みが起こり掻き 毟っていた」という事が分りました。義父が亡くなることにより、薄々気づいてた恨 みは瞬時に私の意識下へとしまいこまれてしまっていたのです。
●【消えた湿疹】
それを私が意識上で認識し、吐き出す事により、東京から帰って1週間で首の湿疹が きれいに消えました。 人間は受け入れにくい感情は自分が気づく前に瞬時にしてリスクを背負ったまま消 して、しまい込んで生きて行くのだと思いました。無意識で瞬時に行われるそれこ そ、心の病や病気として身体に現れ、私達を苦しませ、悩ませ、生きにくくさせてい るのです。 私は、出しては生きて行けなかった憎悪をベビーブレスで出す事で、症状が消えていく凄 さを身体で体感しました。病気は根っこが分れば消えていく物だと知りました。
●【根っこは深い】
でもお尻の湿疹は結局、2年近く患いました。弟も10年以上患っているので、ここの 部分の根っこは深いのだという事は、分りましたがそれ以上は分りませんでした。
●【自傷行為】
この2ヶ月前、縁あって皮膚科の先生にお尻を診て貰いました。その時に言われた 事は「これはあなた自身が掻いて作っている病気です。」と。 「それは自傷行為という事ですか?」 「そうです。よく分ってらっしゃる。」 私はお尻を掻いている時が恍惚に気持ちいいから、それを止めるというのは拷問の ようだと言いました。でもその後来る痛みも拷問なのです。 と・・「そうでしょう。掻かない事が拷問と感じるほど掻く事が気持ちいいでしょ う。そして痛みで我に返る。だからこれはあなた自身がつくり上げている病気で す。」 まず掻かないようにする為に強いステロイドが出されました。そして抗鬱剤も出す というのです。私はそれを飲むのは抵抗があるからと断りました。病院では「掻かなくてはならない私の傷」の治療までは出来ませんから、出た症状への対処療法になります。
●「【何かあるのでは】
この「自傷行為」もはっきりと言葉ではないのですが、薄々気づいてました。 お尻 を掻いている時はそれに没頭できて、気持いいので、何よりもそれを優先させていま した。 その事実は認識していて、何かあるんじゃないかとは思ってましたが、それよ り深めず「アトピー」と自分で思うようにしてました。子どももアトピーだし、この 苦しみを共有する意味があるのでは ないかと思うようにしてました。 でも先生に はっきりと病気を指摘され、思い当たるだけにとてもすっきりしました。 でも、抗鬱剤だけは認めたくありませんでした。そこまで病気なのかと思うとそん な事許せないし、薬に依存するかもしれない自分が怖かったからです。

そして林先生 にメールでカウンセリングしてもらい、薬の事も相談しました。薬に 対しての見解はこのようでした。 「 薬も役に立つでしょう。薬で治るとかブレスで治るとか決めないで体のことです から丁寧に扱って上げたらどうでしょうか。皮膚が治っても自傷行為はなくならないで しょう。次は皮膚以外の何かに移るものです。精神的なものがベースにはあり ます。でもだいぶ分かってきたから皮膚を直してかかないようにしていったら少しは 自傷行為も少なくなるかもしれませんね。」  
 私はステロイドだけ言われた通りに塗りはじめました。2日ほど、痒み止めを飲み ましたが、副作用の眠気で昼間、子育てに支障がでるのですぐやめました。塗り薬の みで、1ヵ月後ほぼ完治の状態になりました。 薬を塗り始める時期と自分の事が分り始めた時がタイミング的に合ったのだとおも いました。
●【分かった。「母さんは良くやった」と「このバカ女」】
何故掻き毟らずには生きて行けなかったのか・・・それが分かったのです。 義父が亡くなったと聞き駆けつけたとき、呆然とたたずむ母に私はとっさに「お母 さんのせいじゃないよ。お母さんは良くやった。」と抱きしめました。
 義父が亡くな る3時間前まで、私は母の苦悩を電話で聞いていたという事もあります。母は義父の 2年間に渡る不倫に悩んでいました。そして、商売で返せそうに無い借金があったと いう事もあります。その日、母はお金の工面に走り回っていました。そういう事を全 部 私は聞いていました。 でもその事実とは裏腹に私の心の中に「あんたのせいで死んだんだ。夫婦が本当に 分り合い繋がっていればこんな事にまでならなかった。私達を捨ててまで離婚し、再 婚し、仮面夫婦をしてきたから、こんな事になった。やっぱり、どう考えてもあんた のような生き方はしたくない。そんな悲惨な人生をも気づかず生きて行くことは真っ 平ごめんだ。このバカ女。」そんな気持ちがあったのです。  

でもやはりその時も瞬時にその気持ちは隠されました。こんな状況の中でこれ以上 恨みを意識上に登らせて生きて生きて行くことは困難、と私の無意識が判断したので す。
●【湿疹は憎悪】
 そして、その片方の気持ち、「このバカ女」という気持ちを浮上させられないま まに時が過ぎて行きました。私の母親に対する憎悪がこの出来事をきっかけに許容範 囲を越し、溢れ出たものがお尻の湿疹として出たのではと思います。 私の母親に対する憎悪は、母親の持つ憎悪そのものを胎児期から幼児期に取り込ん だものなので、その根源をまず吐き出す事をベビーブレスでしました。そして日々の生活の 中で気づくとこがたくさんあり、それを理解し消化していく事で症状がゆっくりと無 くなっていったのです。  私は母親としての自分を保つために自分を傷つけ慰めていた。それが日々の生活を 丁寧にメールでカウンセリングしてもらう事により、分った事です。
●【カウンセリングの抜粋】

 そのカウンセリングの一部を抜粋しました。 (私)

今思ったのですが、掻いてる私のほうがまだいいお母さんだった気がする。掻かな い今のほうが自分の感情がコントロールできなくて子どもたちにダイレクトにぶつけ ている。自傷行為をしてないと母親としての自分を保っていけないんだ。自分を傷つ けてまで「お母さん」であろうとする自分。母として生きれないのなら自分はなんの 価値もない人間なのだと感じる。今日はこれ以上自分に向かうのは困難そうなのでや めます。 (先生)
自分を傷つけてまでいいお母さんであろうとしたのですね。それは自分を傷 つけなければできないことでもあったのですね。母親は子供を捨てて何の価値もない からその反対を生きないと許せなかったのでしょう。  自分を傷つけることは母親を憎むことであり自分を憎む(殺す)ことでしたね。そ うしないと生きてはいけなかったのですね。

自分が分らないと私の場合は如実に身体に反応します。それが一番つらい事です。 でもその根源を知ろうとするとき、自分の傷に気づき、子どもに付けた傷に気づ き、親子関係や夫婦関係がより深みをまし、本音で繋がれていきます。 病気の症状や人間関係において目に見えて起こる事はどんどん変化しますが、根底 にあるものは、簡単には変わらないと思います。しかし、日々起きてくることや心の 動きを丁寧に観て行くことで、少しずつですが、根底にある自分の傷が変わっていっ ているように思います。

 ・・・・さならる気づき・・・・

今回のブレスで私は3回ほど入る事が出来ました。ベビーブレスではうまく入れる (簡単に言 えば心が開く)時と入れない時があります。その時のブレス 直後の感想です。

●【ベビーブレス中の体験】

[ベビーブレス中の体験の感想]
小学一年生の頃の自分「大人の始まり」と母に言われた事に本当は抵抗していた自 分が分った。大人の始まりと言われて、ますます甘えられなくなる自分。次女はな こと同じ頃の自分が、自分なのか、はなこなのか、分らないほどの駄々こね。6歳の 頃そうやっ ていたかった自分。父親の狂気の目。目を見開いたままの狂った父のような自分。そ んな父親を殴り殺す。母も冷たく、愛されない。憎まれつづけた自分の恨みで母を呪 い殺す。 本当は愛されたかった、子どもの頃そんな母親にも愛されたかった自分が分った。 愛してくれない母親を殺す。そして憎しまれた自分は殺されていく。物凄い恐怖。初 めて経験する恐怖。死にたくない。恐い。どうにか、どうにか、助けて。殺される感 覚。声が出ない。殺された感覚では物足りないから、再度呼吸。喉を押して貰って、 自分から死んで行った。初めての恐怖。ただ死んだ。何も無かった。シェイクの時 「生きていたい」という感情。 瞑想後、吐き気。「自分に感謝して」という言葉で、感謝が湧いてきた瞬間に物凄 い吐き気が襲う。

●【過呼吸-パニック-自律神経失調症】
長女の妊娠中、後期で1度、突然、猛烈な全身の寒気と共に過呼吸を起しました。 その時、自分がパニックになり、このまま死んでしまうと思うほどの恐怖を感じまし た。車で窓を締め切って乗ると動悸がしていました。その時はパニック症候群という 言葉も知らず、病院では自律神経失調症と診断されました。 次女の妊娠後期も一度同じ症状が起こりました。その時は呼吸法を知ってましたの で、なんとか自分で落ち着くイメージをしてパニックまでにはなりませんでした。私 は妊娠中だけそういう症状がでます。
●【母乳をあげる事が苦痛】
私は子どもを絶対母乳で育てたいと思っていました。長女を産んで、幸せな母乳育 児ができると思っていたのですが、乳首をくわえさせても、とても幸せな気持などな れませんでした。反対に谷底に突き落とされるような感じと、ひどい時は動悸まで打 ちます。母乳をあげる事が苦痛でたまりませんでした。私は母に電話で相談しまし た。

●【赤ん坊の自分-母乳が美味しいからミルクを飲まない-祖母】

その時に聞いた内容をまとめて書きます。  母は自営業のため、昼間、赤ん坊のわたしを姑、私の祖母に預けて働いていまし た。昼間はミルクなのですが、私は嫌いで飲まなくて困ったそうです。母は昼間母乳 をあげれない事もあり、私が生後3ヶ月の頃、乳腺炎になり、手術をしました。夜は いつもパンパンに張ったおっぱいを私に飲ませていました。  

ある夜もそうしていると、姑が言いました。「昼間私が面倒見るとき、ミルクを飲 まなくて困っている。母乳のほうが美味しいからだと思うから、やめてくれないか」 母はそれを聞き入れ、当分の間、夜になると私を横に置き、張って痛いおっぱいを泣 く泣く絞っていたそうです。 「飲ませたくても、飲ませられない辛さで泣きながら絞っていた。あんたはそれを 覚えていたのかもしれない」 それは私が生後6ヶ月の頃の事です。 私はそれを聞いても、感覚的には分るのですが、納得はできませんでした。
●【何故、母乳育児にこだわるのか。母乳をあげる時に苦痛なのか】
何故、母乳育児にこだわるのか。母乳をあげる時に苦痛なのか。妊娠中に過呼吸になるのか。それが知りたかった。この事が切っ掛けで、後にベビーブレスのと出あいました。 私は今回のカウンセリングとブレスの体験で知りたい事が分りました。 私が祖母になつく事で、母は姑、祖母に私を取られたと思っていたそうです。 私が1歳4ヶ月で妹が産まれ、母は「ナナ(本人)はお婆ちゃんの子。ケイ(妹)は 私の子。」と思い育てたと言います。
●【母乳を求める事は母を求める事-気づかない母】
「ナナはミルクを飲まなくて困った。」と母も祖母も私が小さい頃からよく言って
ました。私は、母乳を貰いたい一心でミルクを拒否しました。母乳を求める事は祖母 ではなく母を求める事でした。 母はそこに気づきませんでした。 ただ、「ミルク嫌い」としてかたずけたので、母乳をやめるように言われて、それ に従いました。でも、母は乳腺炎を繰り返している事から、私に母乳をあげるのは苦 痛でもあったはずです。 母も私と同じく母乳をあげたくても、あげられない傷があったようです。妹が産ま れ、私は母に「祖母の子」として位置付けられました。

●【切り捨てられたような寂しさ-祖母にすがりつくしかなかった】

それが私にとって切り捨てられたような寂しさでした。私は切り捨てられた寂しさで、生きる糧のミルクをくれる祖母にすがりつきました。私は切り捨てられた寂しさで祖母にすがりつくしかなかったのに、そうしなければ生きて行けなかった。
●【なのに私を憎しむ母】
なのに、母はそれが分らず、「ナナはお婆ちゃんの事が私よりも好きなんだ」と思い、「私から去った子」として私を憎しみました。何かあれば「あんたはお婆ちゃん子 だったから・・」と言いました。 私も物心つく頃にはそう思い込んでいました。切り捨てられた傷は悲しすぎて、背負っては生きられないので、その傷は意識下にしまい込まれ、「私が母よりも祖母を 選んだ」という意識で生きていました。
●【母の気持ちをそのまま自分のもの】
でもその奥を言えば、母乳を貰えなくなった、生後6ヶ月前後には、母の気持 (姑に取られた子、自分より姑を選んだ子)がそのまま自分のものとして根付いた のです。 それを思うと私は母の子どもでいる為に、無意識に自分の思いを殺し、母の気持に 添って生きた、けな気な子どもです。
●【死んでもいい、でも生きてしまった】
憎まれても、「母の子」としていたかった。それがブレスの体験の「そんな母にも愛されたかった」=「母の為なら死んでもいい。でも生きてしまったから、せめてあなたの子どもでいさせて」だったのです。
●【母乳で育てたい、でも、母乳をあげたくない-葛藤が症状として】
おっぱいが欲しいのに貰えなかったという反動で、絶対母乳で育てたいと思いました。私は自分の生きる糧、母乳をとられた傷があるので、自分の湧き出る母乳さえ我が子に取られるのが嫌だったのです。 たとえ、我が子でも自分の食べ物は渡さない。それが私の心の奥底に、傷ついたままの子どもとして残り、 蓋をされていたのです。 そして、私の意識(母乳で育てたい)と無意識(母乳をあげたくない)の葛藤が心 の奥底で起こり、それが私の身体に症状として現れていたのです。
●【自分には嫉妬がない?】
私は先日、義妹と「嫉妬」について話あいました。私はその感覚が無かった事を思い出しました。私にはあいこを姑や周りの人に取られるという意識がありませんでした。その頃はただ、「姑はベッタリとするタイプではないから。」と思っていました。でも姑も口出しは普通並にしていたと思います。それもそこまで気になりませんでした。
●【実は、取られる心配の無いくらいあいこを支配していた】
自分は他の人と違い、子どもに執着しない人間なのだと思っていました。それが、 大間違いな認識だったと気づいたのです。実は取られる心配の無いくらい私はあいこを支配していたという事が分ったのです。
●【支配に役立っていたあいこのアトピー】

あいこは産まれてまもなくアトピーになりました。食物アレルギーで、合わない物を食べるとショック症状を起すタイプでした。それに最初に気づいたのは、あいこが生後5ヶ月の頃私が乳腺炎で入院している間に母乳をあげれないから、姑がはじめてミルクを与えた事で体中真っ赤でパンパンになり、唇は膨れあがり、器官も腫れあがり、呼吸も困難になるという事があったのです。
 それからというもの、何にアレルギーがあるか調べ、徹底的に食べ物を制限し、生活全ての改善に全力を尽くしました。 症状が酷い時は、卵焼きを焼く時の煙を吸っただけで、蕁麻疹や呼吸困難になった時もあります。旦那も含めて、周りも、そんなあいこに何かあったら困るという恐怖で手出しはできませんでした。食べ物さえ私の許可がなければ与えられないという情況でした。  私とあいこの間には誰1人として入る事ができなかったのです。無意識に取られないようにしていたのです。

●【丸呑みの完全支配-寂しさから解放】
私は寂しい生い立ちだったので、寂しさを埋めるために子どもを産みました。過食 症の人は食べ物で寂しさを埋めると言われてますが、私は子どもを食べ物として 産 み育て、食べ物、あいこを丸呑みするかのように完全支配したのです。そして表面
上の寂しさから解放されました。
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