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詩のホームページ「氾濫」へようこそ

「氾濫」は河井 洋と小田悦子による詩とエッセイのページです。
病気療養しておりました河井洋は、2015年10月13日、永眠いたしました。生前、親しくしてくださった皆様にお礼をいいます。
以下は、絶筆となった詩です。

病中ながら幸せの絶頂  河井 洋
 今朝もまた汗の夢を見た。橋の袂に僕はしゃがみこむ一八才の少年だった。就職先が決まり、そこでの夏休みのアルバイト兼研修だった。その場所は後に清張さんの「砂の器」に出てくる舞台になる。それを知ったのはそれから二十年も過ぎてからのことである。東京での暮らしは、その年の冬休みにもう一度、同じ場所で佇んでいたことがある。橋と言っても陸橋である。陸橋の下を蒸気機関車が走っていた。蒸気機関車はそののち十年ほどの期間みたことがある。実際乗ったこともあるが、北海道の苫小牧と、あれはどこだったか、駅の名は忘れた。その名前を忘れた駅から、地図を頼りに山をのぼると、測量山という碑があった。陸軍参謀本部とかそのあたりの人たちがつけたのであろう。測量山は殆んど木というものがなく、熊笹でおおわれていた。寺田寅彦のエッセイに掲載。
 私がまだ工業学校の生徒のころ、よく山に行った。私の郷里は静岡である。同級生とか他の学科の仲間と一緒に、山に登った。熊笹が立枯れていた。笹というものは何十年かに一度一斉に花をつけて枯れるらしい。竹とはそういうものらしい。
 私の家庭を申せば、町内一のといっていいほどの貧しい家だった。本人のことを言えば、町内一と言っていい、出来のいい子だったからせめて高等学校くらいと言って、市で新設したばかりの奨学金など貰って、工業学校に行くことができた。中学校では、一学年約五〇〇人の生徒の中で成績は一〇番を下ったことがことがなかったが、三番まではいったことがある。しかしながら上には上があるもので、工業学校に行くと、成績は七番くらいまで落ちてしまった。頑張ってもそれ以上行かなかった。ただ作文とか製図とかそんなものは得意だったから、そういう科目が採点の中心になる学期はクラスで三番以内に収まることができた。学校は、機械科と電子科と電気科と、土木科と建築科と木工科があった。木工科というのは静岡特有のものであろうが、今もあるかどうかは知らない。私はそういう中で、学校全体の自治会選挙で副会長になったりもした。そのことを家に帰って親に話すと随分喜んでくれた。私が自慢の息子だったに違いない。父親は私が高三の卒業間際に脳卒中で倒れ、三年ほど寝たきりになり、死んだ。母親はそれから十年ほど後に死んだ。
 そのころ詩の同人と結婚した。名は悦子といった。実は、当初には気がつかなかったが、親が死んだころの歳になってくると、いや、自分が死ぬ年頃になってくると、妻の顔立ちも、背格好も、気立ても、母親にそっくりだった。少しばかり頭が良く生まれたことがどれだけ幸いしたか。その後の人生は、いま病気で伏せているが、優しい妻と、二人の優しい娘に、そして多くの友に恵まれて、幸せの絶頂期である。ありがとう。

hanran@mx3.mesh.ne.jp


河井 洋のプロフィール
日本詩人クラブ会員。
関西詩人協会会員。
日本現代詩人会
「リヴィエール」同人。「PO」同人
著書 「やさしい朝」1970年
「近代の意味」1981年
「日本との和解」2002年
「僕の友達」2008年 
21世紀詩人叢書 第U期 35 土曜美術社出版販売 ネットで購入可
「麻と日本人」2008年
ソフィア叢書No.20 竹林館 
お蔭様で、初版・第2刷は完売しました。
カラムシにつくカミキリムシ、ラミーかみきりです
「異婚」2011年
土曜美術社出版販売

すべて譚詩(おはなし)です。けっこう面白いですよ。

「河井洋詩集」2014年 
新日本現代詩文庫 119 土曜美術社出版販売 ネットで購入可

小田悦子のプロフィール
著書 「あどけない悪女のお話」1972年
「出奔」1976年

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