書名:あの戦争と日本人
著者:半藤 一利
発行所:文藝春秋
発行年月日:2011/1/30
ページ:381頁
定価:1524 円+税
あの戦争という命名、太平洋戦争、大東亜戦争、第二次世界大戦等々いろいろ呼ばれているが適切な名前がないので「あの戦争」と呼んでいる。あの戦争の歴史を明治維新、日清戦争、日露戦争、統帥権、八絃一宇の思想、戦争とメディア、戦艦大和、十死零生、特攻隊、敗戦の道程を追いながら一つ一つの事実を語っていく。この本は書き下ろしではなく、語り下ろした戦争史です。
明治以降の近代史は「財閥や地主が軍部と結びついて対外侵略を行なった「帝国主義」と考える唯物史観」と「明治の英雄が近代化を成し遂げた。明治と昭和は非連続とする」司馬史観。また「国民に罪はないが軍部が暴走した」とする大江健三郎。いろいろな史観があるが、半藤氏の視点は違う。文藝春秋の編集者であった著者は司馬遼太郎の編集者も務めていたし、司馬史観にも共鳴しながらも明治国家と昭和の戦争は非連続ではなく「歴史とは、前の事実を踏まえて後の事実が生まれてくる一筋の流れである」と捉えている。
明治の西南戦争で山県有朋は戦争の遂行に政府の承認を得ないと何も出来ない現状に、軍事は軍部が臨機応変に対応できる態勢にしないといけないと、政府に指揮されない軍隊を意図して天皇直属の軍隊を組織した。統帥権の問題。これは憲法発布よりも早い明治10年代。そして軍隊のトップとして長い間君臨することになる。
日露戦争は大勝したように言われているが、国家予算2億円の時代、ロシアは20億円の国、と戦争やむなしと決断した。それ以前の10年間国家予算の半分を軍事費に充て準備をし、戦争を遂行する前にアメリカ他に戦争をやめるための仲裁を要請して、何処で戦争をやめるかを充分検討し手を打って戦争を始めた。そして日露戦争の戦記(詳細な報告書、1980年代に150巻に及ぶ書類が皇居から見つかった)を作って、日露戦争は当時の日本の実力から言うとぎりぎりの戦い。運よく勝っただけということが書かれていた。そしてその報告書はその後誰も読まず、そのまま倉庫にしまわれてしまっていた。
203高地の攻防は無意味な戦いだった(2万人の犠牲者を出した)。203高地を攻略したときには旅順港のロシア艦隊は壊滅していた。この日露戦争の時に政府・軍隊と新聞は戦争記事は国民に受け入れれるということを知った。日露戦争前には反政府的な新聞が主流だったが、戦争中政府よりのいけいけどんどんの記事を国民が喜んで読んだ。そして新聞の販売数が2倍~6倍に増えた。勇ましい戦争記事は商売になると。反戦記事は商売にならない。このことを知ったメディア。ジャーナリズムとは絵に描いた餅になってしまった。そして民意、空気に迎合するようになってしまった。日露戦争が分岐点となった。
日露戦争の戦後処理に不満を持った国民から弱腰を徹底的に叩かれた。でも当時の日本は戦争を続ける力など殆ど残っていなかった。日露戦争の頃の指導者は大局的見地に立った戦略を持っていたが、太平洋戦争は「民意」の雰囲気に押されて新聞がそれをあおり、軍隊がそれに乗り、空気に押されてずるずるとその場しのぎの意志決定が行われた。その日本的組織の欠陥は現在の政治でも、原発事故を巡る迷走にも受け継がれている。歴史は前の事実を踏まえて後の事実が生まれてくる。今の現象には遠い遠い遠因を見ることが必要だと。これからも勇ましい話は気をつけないといけない。