2004年10月はこの4公演

 


時間堂「月並みなはなし」

王子小劇場 10/1〜10/4
10/1(金)観劇。座席 自由(4列目正面:招待)

作・演出 黒澤世莉

 今より少し未来。各国が競って月面都市への移民を開始し、日本でも“月面移民一次計画”の一環で、一般移民の公募が開始された。そんな10月の穏やかに晴れた午後。最終選考まで残ったが、落選してしまった6人は、残念会を催す事にした。しかし、単なる残念会だったはずの集まりは、突如現れた審査員のセガワ(黒澤世莉)の一言で一変する。それは「欠員がでたので、6人のうちの一人だけが月に移民できる」というものだった。しかし、一人を選ぶには、全員一致が前提であり、制限時間60分以内に決定しなければならない、という条件が付けられた。60分が過ぎてしまったり、一人を選べなかった時は、欠員補填は無効になる。「ここまでが、試験なのか?」と疑心暗鬼の渦が彼等を取り巻く。どう対応すべきか考えた結果、一人でも月に行けるなら一人を選ぼうと、全員の意見は一致する。
 オノデラキリン(こいけけいこ)は、月で初めてのエレベーターガールになる夢を持つ。タカハラアマネ(木村瞳)は月で得意のパンを焼きたいと語る。カンバラユキチ(根津茂尚)の目指すものは総理大臣。ショウジユリコ(両角葉)は、天文学者が夢で、月から星を眺めたいと語るが、好きな人と一緒に行けないのなら行きたくない、と候補を辞退する。イシヤマススム(内山一寿)は30歳を過ぎてもバイトの生活、何かを掴む為に月に行きたいと思っている。ショウジユリコとは夫婦の間柄。コウギコウゾウ(中田顕史郎)は視力が悪く宇宙飛行士にはなれなかったが、人口衛星の会社に勤め、宇宙への夢は持ち続けていた。月へはどんな事をしてでも行きたいと願っている。美人の妻(渡辺詩子)を地球に残してでも・・・。間違えて部屋に入ってきた(その日の夜、兄の結納があるらしい)審査員の妹・セガワミミ(稲村裕子)を加え、60分の決議タイムが開始される。選択方法は10分間で1人を採決で落として行くサバイバー方式。最後に残るのは一体誰か・・・。

 ※結末を書いてしまうので、知りたくない人は読まないで。

 

 最後に選ばれたのは、コウゾウであった。祝福されるコウゾウ。しかし、審査員の決定は「今回必要なのは、選ばれる人ではなく、選べる人である」との判断理由で、コウゾウを除く5人が移民に選ばれる。失意のどん底にいるコウゾウの元へ妻がやってくる。そして「おかえり」と笑顔で声をかける。コウゾウは自分の本当の居場所が何処にあるのか、やっと気づくのであった・・・。

 面白かったけど、心は動かされなかった。これが率直な感想である。ただ、とても複雑なシコリも残っている。一人を選ぶまでの制限時間を設定しているので、一人一人の気持ちはあっさりと描かれている。ミミの立場でその場所にいるという感じなので、リアルな空間を共有できる。ストーリー展開上もどんどん進むので、退屈しない。短時間でどれだけ気持ちを伝える事ができるのか、ってのも課題だと思うので、素晴らしい演出だと思う。ただ、それとは逆に、深く描かなかった分、感情移入ができなかったという問題点も残したと思う。だから、“全てを捨ててでも月への移民を熱望する”という、その熱意が伝わって来ない。親も友人も仕事も愛する人さえも捨てて月に行きたい、なんてのは相当な決意だと思うのだが、その深い気持ちが伝わって来ない。だから、落とされた悔しさだって当然伝わって来ない。落ちた時の失意な表情とか、演じ手はうまかったけど、熱望する心が見えてない分、失意の大きさも見えて来ないのである。もう少し人となりを描く時間が取れたなら、と複雑な気持ちが残った。あっさりと描く事によりストーリー展開の面白さを味わっておいて、その気持ちとは裏腹に、人となりを深く描いて欲しかった、って矛盾しているが、そんな気持ちが本音なのである。難しいとは思うが、「この人は好きだから最後まで残して欲しい」とかの感情が生まれる前に、篩い落とさないで欲しかった。ただ、ここにも矛盾した感情があって、最後の二人を際立たせる為に、他の人をあっさり描いたとなれば、別だと思う・・・。う〜ん気持ちの整理ができん。

 後ちょっと引っかかるのが、“選べる人”を選んだ理由。国の意思が、“一般市民の中からは、選ばれるリーダーは必要ない。従順な一般市民が望ましい”という支配的なものだとしたら、ハートフルなラストとは裏腹に恐怖を感じるのだが、考え過ぎだろうか。


“時間堂”自分が観た公演ベスト
1.気がついたときにはいつも
2.月並みなはなし

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カラーチャイルド「免許がほしい!」

麻布die pratze 10/1〜10/4
10/2(土)マチネ観劇

作 渡辺浩一
演出 蛯原味茶煎

申し訳ありません。まだ書けていません。

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猫のホテル「しぶき」

ザ・スズナリ 9/23〜10/5
10/2(土)ソワレ観劇

作・演出 千葉雅子

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ポツドール「ANIMAL」

三鷹市芸術文化センター 星のホール 10/8〜10/11
10/11(月)観劇

作・演出 三浦大輔

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維新派「キートン」

大阪・南港ふれあい港館 野外特設劇場 10/8〜10/25
10/16(土)観劇。座席 K-24

作・演出 松本雄吉

 雨模様のとある日。廃館になったナガヤシネマという名の映画館。行きかう人々は、映画館の存在すら忘れたかのように、足早に目的地へと向かう。雨宿りに軒下を借りたワタルという名の少年(春口智美)。少年が何気なくドアに寄りかかった時、ドアが開いてしまう。興味本位に中に入ってみると、そこは少年達の秘密のたまり場になっていた。そして、突然スクリーンに昔の無声映画が映し出される。気が付けば、少年達はスクリーンの向こう側にいた。ワタルも呼ばれるがままに、スクリーンの中へと 足を踏み入れる・・・。そこでは“無声映画の世界”の日常が繰り返されていた。そこで、ワタルはキートンと出会う。

 今回は、タイトルで判るように、チャーリー・チャップリン、ハロルド・ロイドと並ぶ三大喜劇王の一人“バスター・キートン”がモチーフになっている。そして、無声映画をリスペクトしたかのように、台詞は一切なく、歌うシーンも少ない(今回は『ヂャンヂャン・オペラ』の表記は見当たらなかったように思う)。よりイメージ色が強い、パフォーマンスが中心となった公演になっていた。ストーリーに沿って話が展開すると言うよりは、いろいろなシーンの合間合間にキートンの映画『キートンの白人酋長(1922)』『キートンの探偵学入門 (1924) 』『セブン・チャンス(1925)』『キートンの大列車強盗(キートン将軍)(1927)』『キートンの蒸気船(1928)』などのシーンが挿入されて行くという感じで展開していく。まるでレトロな夢の中にいるかのように・・・。

 そう、本当に夢の中に入る一歩手前の状態での観劇でもあった。恥ずかしながら・・・。朝3時起きで始発の飛行機に乗り(だって安いんだもん)大阪に向かったからなのか、昼間ユニバーサル・スタジオに行って遊んだ疲れが出たのか、少々冗長気味なところがあったからなのか、ふっと気が抜けてしまう所が何ケ所かあった。絵画から抜け出たような、幻想的な世界を作り上げる舞台装置の素晴らしさや構図の素晴らしさ、そこで演じる一人一人の役者の素晴らしさは申し分ないんだけど、眠気に誘われてしまったのは事実。目を開けたまま一瞬ガクッてくるような感覚が何ケ所か・・・。自分がいけないんだけどね。維新派の芝居だけは、眠くなってしまった事に対して、反省って言うか、申し訳ないって気持ちで一杯になるから不思議だ。自分的には、クラッシック音楽を聞いている時の浮遊感にも似ている(ちょっと気持ちよく眠くなるところとか・・・)。と同時に神聖な空気が劇場全体(上空に浮かぶ星をも含んで)を包んでいるような不思議な感覚もある。そんな中で眠くなるなんて不謹慎な!みたいな 気持ちになってしまう。これら全ては、維新派が特別な域を越えているって証しなのであろう。

 話は変わるが、久々の大阪南港での公演の上、野外公演って事で数日前から(本当は公演日時が発表になった時点から)ワクワク感に包まれる。東京に住んでいると維新派を観る準備から“旅”が始まる。どの経路で行こうか、開演までどこで過ごそうか、どれだけ防寒着を持っていったらいいか、とかとか。本当に楽しい。公演が終わった途端“旅の終わり”を感じ、寂しくはなるんだけど、また来年どこかで会えると思うと又ワクワク感が復活してくる。こんな素晴らしい経験を味わえるのは維新派だけで ある。この楽しさはクセになる。

 余談になるが(って今回は、芝居の感想より、余談が多い)、舞台セットで巨大で急な坂が登場する。観た日は快晴だったのでいいのだが、中止にならないくらいの小雨(台風の影響で初日と2日目は公演が中止だったらしい)が降ったらどうなるんだろう、と心配になった。あの坂じゃ滑ると思う。あまりにも危険。でも、その坂で作り出された“長く伸びる影”は本当に素晴らしく、そのシーンは心に深く刻まれた。


“維新派”自分が観た公演ベスト
1.南風
2.王國
3.さかしま
4.水街
5.nocturne-月下の歩行者-
6.キートン
7.カンカラ
8.流星
9.青空

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クリオネプロデュース「バット男」

シアターサンモール 10/14〜24
10/24(日)観劇。座席I-9(招待)

原作 舞城王太郎
脚本 倉持裕
演出 河原雅彦

 「バット男」とは、かつて調布あたりに出没した、悲惨な男の別名だ。自転車のカゴに金属バットを入れて持ち歩いていたが、よく高校生などに襲撃されては、自身のバットでボコボコに殴られていた。それでも、バットを持ち歩くことをやめはしなかった。そして、ある日、「バット男」は自分でバットを使う事なく、何者かに撲殺されてしまう。
 「バット男(石川浩司)」のことを思い出すたび、林博之(水橋研二)はなぜか苛立っていた。弱いから、悲惨な目に遭っているだけのことで、同情する義務も、守ってやるいわれもない。自分は単なる傍観者だと決め込んでいるのに・・・。会社では、驚くほど使えない同僚増渕(カリカ家城)を、上司の貝島課長(木村靖司)と同僚の浅井(新井友香)がチクチクといじめている。いじめられながらも、増渕は決して抵抗しようとしない。林は、その姿が「バット男」と重なり、「なぜ、バットを使おうとしない!」と苛立ちを覚えるが、いじめを止めようとはしなかった。
 高校時代、林の友人・大賀(伊藤高史)が、バスケ部をやめると言い出したことがある。大賀の彼女・梶原亜紗子(持田真樹)は、心配して林に相談する一方で、いつの間にか年上の男(木村靖司)の子供を身ごもっていた。だがその事を知った大賀は、高校を中退して亜紗子と結婚すると言う。産まれてくる子供が、自分の子ではないと知りながら・・・。林は、そんな大賀に対しても「バット男」に対するのと同じような苛立ちを感じるのであった。
 バット男は、絶対にバットを手放さない。自分より弱いヤツが現れたらすぐに殴れるように。だが、バット男より弱いヤツなどいない。結局、自分自身のバットで殴られ続けるしかない。それが、「世界最弱者」としての、「バット男」の役割だった。そんなある日、林の前に、死んだはずの「バット男」が現れる。そして、決して手放さなかった金属バットを林に押しつける。「これを一番必要としているのは、オマエだ」という言葉とともに・・・。

 …STORYはパンフレットを参考にさせて頂きました…

 パンフのストーリーを読むと素晴らしく面白そうである。しかし、実際の芝居は、大筋でもストーリーを知らずに観たら理解できただろうか?って疑問が残るくらいに解りづらいものだった。
 原作は読んでいないが、きっと面白いに違いない。脚本もうまくまとめているのであろう。演出だって良いに違いない。ラストの数十本のバットが落下するシーンとか主人公の心情を表現しているに違いない。しかし、全て噛み合っていない。いや、それどころか反発しあっているとさえ思えた。その中で、役者達は、戸惑いながらも必死にもがいていたと思う。しかし、役者の必死さは伝わっても、登場人物になりきれていない分、気持ちは伝わって来ない。従って感動もない。残念ながら。

 で、結局「バット男」って何?って疑問が放置されたまま、終わってしまった。自分が想像するところでは(原作を読んでないので、見当違いはご了承ください)、「バット男」は現実に存在した男ではあるが、林の中でどんどん膨らんでしまった“妄想の産物”であり、破壊したいができない林の“弱い心”そのものだったのではないだろうか。会社内のいじめに対しても苛立ちを表面に出さず、心の中で「なぜ、バットを使おうとしない!」と叫ぶだけ。友人の彼女に子供を孕ませた男が、自分の上司になったとしても、平気な顔をして日常生活を送っている。そんな自分に対して、心の中の「バット男」はバットを差し出したのではないだろうか。しかし、その悶絶するような狂気の狭間が、芝居では見えない。悩んでもがき苦しむ姿が見えないのである。演出家の意に反するのかもしれないが、もっと視覚的に心の葛藤を表現しても良かったのではないだろうかと思う。バットを持っても殴る事ができなかった「バット男」に対し、林は、「自分はそんな弱者ではない」と全員を殴り殺す。しかし、惨殺は全て妄想であった。林は、何かを悟ったように心の中のバットを手放す・・・みたいな。

 そうそうバットで人を殴るシーンがあるのだが、無音じゃなくて、嫌〜な鈍い音を出した方が良かったと思う。その音がだんだん音楽にかき消されていくとか。それをしないなら寸止めはせずに、本当に殴る(柔い材質で)とか、客を嫌な気分にさせないと、あのシーンは効果がなかったと思う。ハイレグ・ジーザスで散々観客を不快にさせてきた河原雅彦の演出にしては、生温いと感じた。

 話は変わるが、脇にいい役者を使うのはプロデュース公演ならではの贅沢でもあるが、物足りなさも感じてしまうという事を実感した。ラッパ屋の木村靖司なんて勿体無いったらありゃしない。全然生かしきれていないと断言してもいい。辛うじて良かったのはカリカ家城だけ。作品で勝負をかけるなら、主人公だけ名の知れた役者で、後は無名の役者でも良かったように感じる。でも、それじゃ客が呼べないのかなぁ?プロデュース公演の難しさなのだろうか・・・。

 そんなこんなで、全てに於いて中途半端、というか未完成感が残る公演であった。

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北京蝶々「酸素」

早稲田大学大隈講堂裏劇研アトリエ 10/22〜10/26
10/25(月)観劇。座席自由(5列目左端:招待)

作・演出 大塩哲史

 舞台は深海に沈没した潜水艦の中。艦内の区画の大部分は急速に浸水し、乗務員の大多数はあえなく死んでしまった。難を逃れ生き残ったのは、機関士長フクシマ(森田祐吏)、機関士イシカワ(赤津光生)、機関士ナガノ(三浦英幸)、機関士ヤマグチ(高橋直樹)、機関士フクイ(横井佑輔)、海軍学校実習生ミヤザキ(垣内勇輝)、看護士キョウコ(通地優子)の七名。当然の事ながら、酸素が徐々になくなってきている。残された酸素量を計算してみたところ、どう工夫しても、乗務員5人で(重症を負って死んでしまったヤマグチとか、その区画に入れない者を除いて)2.5日分しかない。救助にくるまで3日かかると予想すると、生き延びる量は全くない。いや、その前に、救助が来る保証もない。さて、どうしよう、と話し合っている時間も余裕もない。そんな状況下、それでもどうにかしようと、酸素の節約を図る彼ら。そんな切羽詰った状態に現れたのが、艦長の娘と名乗るミエコ(鈴木麻美)であった。艦長が勝手に連れ込んだらしい。ただでさえ救助が来るまで全員が生き残れるだけの酸素量がないのに、さらに一人増えてしまう。その上死んだと思ったヤマグチまでも蘇生・・・。どうする事もできない状況と理解すれども、息を止めて酸素を出来るだけ吸わないようにしたり、植物を置いて酸素を作りだそうとしたり、様々な努力を試みる。しかし、敵は酸素だけではない。見えないものをあつかう時は、見えないものを見る目も必要だった。徐々に「自分だけは」という自己顕示欲が剥き出しになっていき、人間関係が歪んでいく。そんな中、窒素(帯金ゆかり)が現れ、一人一人の息の根を止めていくのであった・・・。

 当日パンフには、2000年8月に実際に起った潜水艦の沈没事故からイメージを膨らませたと書いてあった。その事故は明記されてないが、私が調べたところでは、ロシアの原潜クルスクの事故だと想像される。沈没直後には多くの乗組員が生き残り、中から救助を待ち続けて死んでいったそうだ。回収された遺体の衣服のポケットからメモが発見され、そこには「12:58 第6,7,8区画のメンバーの大部分が第9区画に避難した」「ここ第9区画に23人がいる。だれ1人、上に上がることはできない」「第9区画の緊急用ハッチから2,3人が脱出を試みるだろう」「私は手探りで書いている」と走り書きがしてあったそうな。そんな悲劇をモチーフにした芝居。

 さらにパンフには「空気についてのあれこれ」というマメ知識が書いてあって、息苦しさをあおる。それによると、通常の空気は、窒素が78%、酸素が21%で残り1%がその他のガス。呼吸すればするほど、酸素の割合が減っていく。17%で軽い酸欠症状、16%で集中力の低下、15%で火 が消える、12%で立ち続けるのが困難になる、10%で意識障害が起こり、6%で1回呼吸するだけで失神してその5分後に死亡に至るらしい。空気がなくなるって言うけど、酸素の割合が減って行くって事なのね、って当たり前だけど、少なからず衝撃を受けたりして。科学は大の苦手だったもんで・・・。劇中で酸素を作る科学の基礎知識みたいなものも披露され、“北京蝶々”の目指す「ささやかなSF」って感じが濃厚で良いですわ。

 で、肝心の芝居はどうかと言うと、ちょっと物足りなかった。まずは、舞台美術。前回の公演がむちゃくちゃ良かったので期待したのだが、今回はちょっと普通すぎて面白くない。水を使って浸水を表現したり工夫を凝らしてはいるが、潜水艦の密閉された空間がイマイチ表現しきれていなかった。写実的な表現が難しいなら、もっとデフォルメされたものでも良かったように感じる。勝手な事を書いてしまえば、あんなノビノビした空間でなく、観客が解放されたいと思うくらいの狭さを強調した美術、部屋中が配管だらけとか、設計上ありえないものでも良かったように感じる。過去の公演『最初の人と次の人』『壁と障子はスパイの目と耳』は観てないが、舞台写真を見ると斬新で良いのに。余談だが『壁と障子はスパイの目と耳』の鈴木麻美の写真が大好き(って、こんなところでコクってもしゃぁないけど、惚れてしまいました)。パソコンのデス クトップにしちゃえ、ってくらいにお気に入り。って本題から離れ過ぎ。

 芝居の中身もちょっと物足りない。面白かったのは正直な感想ではあるが、“北京蝶々”の名の由来のごとく、些細な事件が大事件を引き起こしてはいない所に、物足りなさを感じてしまった。後半の擬人化された窒素の登場で、とても面白い展開になっただけに、ラストの捻りのなさが残念でならない。不機嫌に動き回る窒素。首を絞めはじめる時のうれしい顔。ホラー的になっていく面白さ。みえないものを見せる面白さ。そんなところは最高だったのに、ホント惜しい!どうせフィクションなんだから、もっと大ふろしきを広げても良かったのではないか。勝手に書かせてもらうと(大塩様、すまんです)、この潜水艦の中が世界に残った最後の空気ってのはどうでしょう?小さな世界が実は世界の全てだったみたいな。物語のラストは、生き残った喜びもつかの間、浮上した潜水艦のハッチで、生き残った一人が死んでしまう。そして、窒素が何人も現れ、嬉しそうに踊る。地上では録音されたであろう「酸素が消滅し始めてます…」という声が虚しく響き渡っているだけ・・・ってな具合で。遅かれ早かれ酸素はなくなってしまうのに、人を傷つけてまで生き残ってしまった虚しさを、窒素の楽しげな踊りと対比して見せる・・・って、ちょっと希望なさ過ぎかなぁ〜。


“北京蝶々”自分が観た公演ベスト
1.Othello
2.酸素

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