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1944年 アメリカ軍がサイパン島へ上陸


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 まずは、リンクと、田中徳祐 著「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」(立風書房、1983年)からの引用を、ご覧下さい。


【アメリカ軍の反撃(島嶼部)】
 主に LINK 太平洋戦争 - Wikipedia を参考に、まとめてみました。
・1942年6月5日(米時間6月4日)〜6月7日  ミッドウェー海戦 (出典:LINK ミッドウェー海戦 - Wikipedia
・1942年8月7日〜■    ソロモン諸島のガダルカナル島 (出典:LINK ガダルカナル島の戦い - Wikipedia
・1942年8月8日〜8月9日  第一次ソロモン海戦 (出典:LINK 第一次ソロモン海戦 - Wikipedia
・1942年8月24日      第二次ソロモン海戦 (出典:LINK 第二次ソロモン海戦 - Wikipedia
・1942年11月12日〜11月15日 第三次ソロモン海戦 (出典:LINK 第三次ソロモン海戦 - Wikipedia
・1943年11月1日〜終戦   ソロモン諸島のブーゲンビル島 (出典:LINK ブーゲンビル島の戦い - Wikipedia
・1944年6月15日〜7月9日  マリアナ諸島のサイパン島 (出典:LINK サイパンの戦い - Wikipedia
・1944年9月15日〜11月25日 パラオ諸島のペリリュー島 (出典:LINK ペリリューの戦い - Wikipedia
・1944年10月20日〜終戦   フィリピンのレイテ島 (出典:LINK レイテ島の戦い - Wikipedia
・1944年10月23日〜10月25日 レイテ沖海戦 (出典:LINK レイテ沖海戦 - Wikipedia
・1945年1月6日〜終戦   フィリピンのルソン島 (出典:LINK ルソン島の戦い - Wikipedia
・1945年2月3日〜3月3日  フィリピンでマニラ市街戦(ルソン島) (出典:LINK マニラの戦い (1945年) - Wikipedia
・1945年2月19日〜3月26日 小笠原諸島の硫黄島 (出典:LINK 硫黄島の戦い - Wikipedia
・1945年3月26日〜6月20日ないし6月23日  沖縄戦 (出典:LINK 沖縄戦 - Wikipedia


【マリアナ諸島(含むサイパン島)の歴史】
 1521年に、マゼランがマリアナ諸島を訪れた。マゼラン隊は、原住民のチャモロ人といざこざを起こし、虐殺も行っているという。
 1667年に、スペインはマリアナ諸島を植民地とした。
 1898年の米西戦争の結果、グアム島はアメリカ合衆国に割譲され、他の島嶼は2500万ペセタでドイツへ売却された(正式な領土化は翌1899年)。
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本はドイツ領マリアナ諸島に侵攻して実効支配下に置き、戦後発足した国際連盟によって日本の委任統治領とされた。
 1941年12月に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、日本はグアム島にも侵攻した(1941年12月)。
(出典:LINK マリアナ諸島 - WikipediaLINK 米西戦争 - Wikipedia および LINK グアム - Wikipedia





 サイパンの戦いを記録した 田中徳祐 著「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」(立風書房、1983年)から、何カ所かを下に引用します。
 著者の田中徳祐氏は、サイパン島で戦った時には、日本陸軍の尉官だったようです。
 また、この本は、2012年に復刊ドットコムから復刻版が出ているようです。

 まず、田中徳祐 著「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」(立風書房、1983年)の著者による「前書き」から引用します。なお、引用文中の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。
   はじめに
 第二次大戦で日本の勝敗を決定づけたサイパン島攻防戦――それは昭和十九年六月十一日からの物量豊富な米軍の空爆、艦砲射撃によって火蓋は切っておとされた。同十五日、十万の大軍を投入して上陸してきた米軍を迎え撃った日本軍は五万。民間人一万が戦闘に巻き込まれた。
 七月七日、日本軍は総攻撃をかけ玉砕。わずか一ヵ月足らずの戦いで大半が死傷し屍となった。幅四キロ、長さ十六キロの小さな島での戦いは、熾烈をきわめた。
 私は最後まで生き残り、戦後の昭和二十二年十二月一日まで、戦友と共に戦っていた。引き揚げてくると、「あなたはなぜ生き残れたのか」という遺族の方からの質問に狼狽した。胸が痛かった。
 私は、昭和二十二年、帰国するとすぐ、この実戦記を書いた。散華した戦友とその遺族、民間人のためにも、残さなければならない、と思って夢中で書いた。「今日の日本」という雑誌にその一部を発表した。だが、当時のGHQの検閲をうけ、ズタズタに切りさかれて、ただの戦争報告にすぎなくなった。あげくの果て、「以後の発表まかりならぬ」というきつい命令までうけ、原稿は書柵(注:ママ)に眠ったままとなった。
 遺族の要望もあって、七年ほど前に発表の機会にめぐりあった。書庫から取り出して出版社に持ち込まれた。だが、「あまりにもショッキングすぎる」といわれて再び陽の目をみることができなかった。玉砕というあまりにもショッキングな事実を、いまさら、ということもあったろうし、本当の戦争の恐ろしさ、悲しさ、残虐さを知らなかったからかもしれない。しかし、私はただ事実を、体験を、こっそりと持ちかえった作戦図をもとに、書いたにすぎない。多少の記憶違いがあるかもしれない。また、いまの地名とは違った呼び方をしているところもある。しかし、作戦図に書き込まれた戦争は、否定のしようもない事実であった。
 米軍のあまりにも非道な残虐行為の数々、日本人同志殺しあい心中、自決、集団投身自決……。敗走する日本軍。あの小さな島でなにが起き、どうなったか。戦争とはなんであったか……。
 戦後三十八年を経て、島はすでに観光のメッカとなり、島での戦争も風化しつつある。昨年暮れ、米軍兵士の書いた戦記が発表された。多くの遺族から、あれでいいのか、あれがあなた方のサイパン島戦記か、と詰め寄られた。一言で云えば、勝った側の眼からみた戦争は、あれでいいのかもしれない。しかし、私の書き残していた三十余年前の戦争は、負けた側からの体験からいえばそんなものではなかった。
 今読みかえしてみて、加筆したいところがないわけではない。しかし、帰国当時の、つまり三十余年前の、「ついに生き残った」という悲痛な思いを、そのまま伝えたいと思って、手を加えないことにした。
 悲運にも、サイパン島の土と化した五万有余の霊に合掌――。
 昭和五十八年七月七日
                             著者

 田中徳祐 著「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」(立風書房、1983年)p15 から引用します。なお、引用文中の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。
 五月下旬(注:1944年5月)になって戦況は急激に悪化し、輸送船が次々と敵潜水艦に撃沈されるニュースが相ついだ。サイパン島住民には、内地への引き揚げ話が持ち上っていた。ガラパン(注:サイパン島の中心的な町)の町は、その話題と人選でもちきりだった。
 敵潜の監視の眼を逃れて、アメリカ丸と、サントス丸が米を積載して入港した。この二隻は折り返し内地へ帰還するため、疎開する婦女子多数を乗せて出港することになった。だが、疎開希望者が多く、軍と南洋庁で相談し、特別の事情がある者に限られた。アメリカ丸は豪華船だったが、サントス丸は老朽貨物船だった。駆逐艦一隻が護衛に当って出港したが、二日後、父島と母島付近でアメリカ丸撃沈されたというニュースが伝わってきた。千名近い婦女子が太平洋の荒波にのまれ、わずか十六歳の少女一名が救出されただけだという。
 その後、内地からの輸送船半数も到着しない状況が毎日のように続き、戦況は悪化の一途をたどった。アスリート、パナデルの両飛行場の滑走路拡張工事が、軍官民を総動員して昼夜兼行でおこなわれた。
 六月上旬、戦車一個聯隊を積んだ輸送船が、敵潜に追われ、命からがら上陸してきた。六月に入って完全武装で上陸したのはこれが最後だった。
(後略)

 田中徳祐 著「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」(立風書房、1983年)p67 から引用します。なお、引用文中の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。
(前略)
 敵は、南部から北上しチャッチャ(注:サイパン島東岸中部の地域)――ガラパン(注:サイパン島西岸中部の街)を結ぶ線まで進攻してきた。すでに全島の半分近くが敵の手におちている。我々の行動範囲はせばめられ、軍、官民が逃げ場を失い混乱しはじめた。と同時に、混乱に乗じてスパイが暗躍しはじめた。おもに原住民カナカ、チャムロ族に多かったが、中には日本の若い女性まで混っており我々を驚かせた。このスパイたちは昼は洞窟に避難し、スパイらしい振舞いは全くみせなかったが、常に部隊指揮官の行動を見届けているようだった。夜になると指揮官のスキを狙い、拳銃で狙撃し、姿を消してしまうので手がつけられない。このスパイに殺された指揮官も出た。
 こうなると、誰もが信用できなくなり、兵がスパイをスパイするという事態に発展した。疑心暗鬼の目が、原住民や女たちに注がれるようになる。昼は洞窟でじっとしているが、夜になると飲み水の確保に必死になった。しかし、水源地にもとうとう毒薬が投入され、知らずに飲んだ兵や住民が、血を吐き苦悶しながら死んでいく事態が続発した。
(後略)

 田中徳祐 著「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」(立風書房、1983年)p78 から引用します。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。
(前略)
 夜の明けないうちにと、住民たちは道なきジャングルを歩き、岩壁を登る。そのジャングルの中で、妻子の悲鳴がおこり、断末魔があがる。悲劇は次々とおきた。若い男二人、我々のところへやってきた。
「兵隊さん、私たちも夜襲に参加させて下さい。妻子は、あの岩壁から、いま、落ちて死んでいきました。私は二十代ですから、うんと働けます。もう、なにも思い残すことはありません。ここまで追い詰められては最後です」
「病気で、手足まといになる妻子を、いまジャングルの中で殺してきました。兵隊さんたちと一緒に死んでいきます……」
 大地に泣き伏す二人の若者の哀れな姿。時が経過すればするほど、こうした悲劇が次々と重なっていく。しかし、我々には、手のうちようもない。
 私は兵たちの士気が弱まっていくのをみて大声で命令した。
「さあ、出発だ」
(後略)

 田中徳祐 著「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」(立風書房、1983年)p88-89 から引用します。なお、引用文中の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。
(前略)
 その日、夕暮れ迫るころ、山砲隊の生き残り兵五名が我々の洞窟にたどりついた。彼らの話を、我々は息もつまる思いで聞いた。――敵の砲撃で次々と吹き飛ばされていく兵たちは、避難するところもなく、身をまかせた。
(中略)
 敵の攻撃の輪がちぢまり、重囲に陥った砲兵中隊は、中隊長が敵前で、砲の上に乗り、軍刀で腹をかき切って死んでいった。追いつめられた兵士たちは、タッポーチョ山(注:サイパン島中央にある山)の最北部の断崖に立ち、遠く祖国を眺め、君が代を歌いながら飛び下り自決をしていった。高さは五十米はあった、という。
「我々もその一人でしたが、下にタコの木が繁茂していて、その上におちて、かろうじて命が助かったのです。飛ぶ瞬間の気持ちは何ともいいようもありません」
 と涙を流しながらタッポーチョ山守備隊の最期を語るのだった。聞き入る我々は茫然と、その黒くそそり立つ運命の断崖をみて合掌した。やがて電信山(注:サイパン島のやや北部にある山)への後退がはじまった。昭和十九年六月三十日午後八時のことである。

 田中徳祐 著「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」(立風書房、1983年)p107-108 から引用します。なお、引用文中の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。
(前略)
 彼らが立ち去った後で、三日前に、電信山のジャングルで手に入れた乾パンとカニ缶をわけあって食べていた。そのとき、すぐ上の洞窟から、
「ヒエーッ」
 という異常な悲鳴を聞いた。私と戦車隊の下士官らがその声のした洞窟に向かって走りだした。民間人が、洞窟のそばにある焼け残った樹木に、一本の縄を結んで、七、八歳の男の子の首を吊ったところだった。身体が揺れ、まだ手足がぴくぴくと動いていた。
「こらっ、なにをするんだ。バカはよせ」
 私は必死になって叫び、同時に軍刀を抜いて縄を切った。子供が、ドサッと落ちてきた。私は動顚していた。……よくみると、その木にはまだ、両親子供三人が吊り下って揺れていた。あわてて軍刀を振り、次々と縄を切った。一番最後は父親だった。まだ、もがいていた。ドサッと落ちてきたがすでに虫の息だった。父親は子供たちを次々と吊るし、最後に自分が吊り下ったらしい。
 ……なんのために、この孤島にきて十数年もの間、寝食を忘れて働いてきたのだ……と思うと、彼らになんの報いもしてやれなかったことが哀れで仕方なかった。六人を一箇所に集め、付近に落ちていた毛布でくるみ合掌した。
 悲しみはそれだけでは納まらなかった。近くの洞窟内で、次々と手榴弾の炸裂音が起こった。その炸裂音と一緒に、最期の叫びがあがる。合掌している我々の鼻先きに、火薬の臭いが漂ってきた。洞窟に飛び込むわけにもいかなかった。炸裂音がするたびにただ、その方向をみて合掌するのみである。
 やがて音も納まり、静かになった。洞窟に足をふみ入れた。強い火薬の臭いが、鼻とノドを突いてきた。そこには、あの血醒い(注:ママ。血腥い?)臭いが漂い、内部は煙が充満し暗くて何も見えない。下士官が、入口に落ちていたボロ布に火をつけ、明りをとった。その明りには数十人重傷者が、たがいに手榴弾で自決し、手、足、首を吹き飛ばされた凄絶な光景が映し出された。周囲の石灰岩の壁は、付着した肉塊と血で染まっていた。一番奥の、かなり広いところには、民間人数家族が、幼児を道連れに、頭を並べて死んでいた。幼児の首には細ヒモが巻きついている。右側の横穴をみた。そこには兵士若い女自決していた。下士官がそばに近寄ったかと思うと、
「バカヤロー、軍人がかかる姿で死ぬ奴があるか。敵兵が見たらなんと思うか。恥を知れ」
 と叫んで、兵士の屍をけとばし、女と引き離した。
 我々は洞窟の外に出てはるか水平線上を見つめつつ気をとり静めた。
(後略)


(注:後半部分からも、さらに引用する予定です。)




【LINK】
LINK サイパンの戦い - Wikipedia
LINK バンザイクリフ - Wikipedia
LINK スーサイドクリフ - Wikipedia
LINK YouTube ≫ 【新春特別対談】日下公人氏に聞く[桜H26/1/3]
 この動画(32分48秒付近から)の日下公人氏の発言によると、第一次世界大戦後に国際連盟の事務局次長になった新渡戸稲造らは、ドイツから日本に割譲されたトラック・パラオ・サイパンに委任統治の制度を作って導入し、文明開化したら独立させることにしたという。
・ドン・ジョーンズ著「タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日」中村 定 訳、祥伝社、1982年
・ドン・ジョーンズ著「タッポーチョ 太平洋の奇跡 「敵ながら天晴」玉砕の島サイパンで本当にあった感動の物語」中村 定 訳、祥伝社黄金文庫、2011年
LINK ドン・ジョーンズ - Wikipedia
LINK 太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男- - Wikipedia
LINK 平山秀幸 - Wikipedia
LINK 大場栄 - Wikipedia
LINK わんわんらっぱー@アメブロ沖縄戰の集団自決は米軍によるサイパン島での虐殺行為が原因。
LINK 人民の星 ≫ 「人民の星」5560号(2011年2月26日付)4面 ≫ 映画評『太平洋の奇跡』 サイパン戦の真実かくす 監督・平山秀幸
 〜「人民の星」は、日本共産党(左派)中央機関紙のようです。
LINK YouTube ≫ 【遠くの声を探して】サイパン・テニアン慰霊の旅、今の日本人が忘れてしまったものとは...[桜H26/11/26]
LINK 産経ニュース【サイパン戦跡】「戦前も戦後も日本が開発した」 感謝を忘れないチャモロ人(2015年6月1日付の記事)



【参考ページ】
1944年 アメリカ軍がサイパン島へ上陸(リンクのみ) 〜このページ
1944年 アメリカ軍がペリリュー島へ上陸(リンクのみ)
1945年 日本軍が神風特別攻撃隊を創設(リンクのみ)
1945年 マニラ市街戦(リンクのみ)
1945年 硫黄島の戦い
1945年 アメリカ軍が東京大空襲
1945年 アメリカ軍が沖縄本島へ上陸(リンクのみ)
1945年 広島、長崎に原子爆弾投下
1945年 ソ連が対日参戦(リンクのみ)
1945年 日本がポツダム宣言を受諾して降伏
1945年 当サイト管理人の叔父が樺太で戦死
1945年 日本人捕虜のシベリア抑留(リンクのみ)
私の思うところ日本の歴史認識
私の思うところ反日宣伝に関するリンク集




参考文献
「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」田中徳祐 著、立風書房、1983年
・2012年に、「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」田中徳祐 著、復刊ドットコム(復刻版)が出ているようです。
LINK サイパンの戦い - Wikipedia の「信頼性等に議論のある主張」の「アメリカ軍の虐殺行為に関する田中徳祐の証言」の項
LINK 独眼竜国際ジャーナル米兵が上陸後、日本人女性に対する強姦や暴行は膨大な数でしたが、すべて報じることを禁止されてしまいました。無能オバマが動くと国際政治が混乱する!! この無能有害、元人権や弁護士のバラック 糞オバマを廃棄せよ!!!!!
「我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実」田中徳祐 著、復刊ドットコム、2012年(復刊版)
 はじめは1983年版を地元の図書館で借りることができたのですが、いまは検索できなくなってしまったため、復刻版をネットで購入しました。
LINK サイパン島 - Wikipedia
LINK マリアナ諸島 - Wikipedia
LINK チャモロ人 - Wikipedia
LINK 米西戦争 - Wikipedia
LINK グアム - Wikipedia
LINK 第二次世界大戦 - Wikipedia
LINK 太平洋戦争 - Wikipedia
LINK 大東亜戦争 - Wikipedia


更新 2022/1/18

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