ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918〜23)
レーニン時代の弾圧システム
S・P・メリグーノフ〔著〕 梶川伸一〔訳・解説〕
〔目次〕
1、宮地コメント
2、メリグーノフ『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル』の〔目次〕のみ
3、梶川伸一『レーニン時代の弾圧システム』−本書に関する若干の解説
6、強まる飢饉の犠牲
8、〔注〕−37項目
4、訳者紹介
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』
スタインベルグ『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』
ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』『レーニンの秘密・上』の抜粋
191918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜1922年』ファイル多数
1、宮地コメント
これは、著者S・P・メリグーノフ、訳者梶川伸一『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918〜23)−レーニン時代の弾圧システム』(社会評論社、2010年5月)からの転載である。メリグーノフ『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル』は252頁ある。訳者の『レーニン時代の弾圧システム』は、37頁である。
ソ連崩壊後、1918〜23年の赤色テロル問題について、チェー・カーの横暴を中心とした詳細なデータを載せた著書は初めてであろう。ただ、人質・銃殺・テロルなどの事例が膨大なので、〔目次〕のみを転載した。梶川教授の「解説」内容は、レーニンとチェー・カーとの関係、レーニン・トロツキーが遂行した諸事件とその背景を含め、総合的で理論的なレーニン批判になっている。レーニンの最高権力者期間は、1917年10月のレーニン・トロツキーらによる単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター以降、1922年12月16日第2回脳梗塞発作で活動不能になるまで、5年2カ月間だった。訳者は、その期間を、著書の副題として『レーニン時代の弾圧システム』と付けた。私は、そこで、梶川教授「解説」題名を『レーニン時代の弾圧システム』とした。
訳者は、転載別ファイルにおいて、1917年10月を「軍事クーデター」と規定した。そこから、「解説」においても、「10月政変」「10月体制」と書いている。日本の研究者で、クーデターでなく、あくまで、十月革命と規定する人は、学者党員でももはやいない。
梶川伸一『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター
21世紀になっても、ソ連崩壊後20年経っても、日本において、「レーニン神話」信仰者がまだ多く残存している。ヨーロッパでは、「レーニン神話」はほぼ完全に崩壊してきた。資本主義世界において、レーニン型前衛党が生き残っているのは、東方の島国だけになった。私は、〔関連ファイル〕にあるように、レーニン批判ファイルや、レーニン批判文献をHPに多数載せてきた。
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜1922年』ファイル多数
このHPに以下を転載することについては、出版の社会評論社と訳者の了解を頂いた。これによって、本書全体を購読される人が増えれば幸いである。
2、メリグーノフ『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル』の〔目次〕のみ
ここには、著書の〔目次〕のみを載せる。
1、人質制度
2、「テロルが絡み合う」
3、血まみれの統計
一九一八年 一九一九年 一九二〇年 北部で ヂェニーキン以後 ヴラーンゲリ以後のクリミア 一九二一年 一九二二〜二三年 一九二四年
4、内戦で
5、「階級的テロル」
6、チェー・カーの横暴
処刑の厚顔無恥 虐待と拷問 刑吏のやり放題 死刑囚 女性への虐待 「ブルジョワジーの迫害」
7、監獄と流刑
8、「誇りと名誉」
3、梶川伸一『レーニン時代の弾圧システム』−本書に関する若干の解説
あとがきに替えて
〔小目次〕
6、強まる飢饉の犠牲
8、〔注〕−37項目
本書の背景について述べるなら、まず著者であるセルゲイ・ペトローヴィッチ・メリグーノフ(一八七九〜一九五六)について若干触れなければならない。彼は旧貴族の出自で、モスクワ大学歴史文学部在学中に学生運動に参加し、同時に様々な雑誌の編集にも関わり、一九〇七年以後人民社会主義(エヌエス)党員となる。エヌエス党とはおもに都市インテリからなる、ナロードニキの流れをくむ政党であるが、政治闘争の手段としてテロルを否定する点でエスエルと一線を画する。
彼の政治的立場は当然にも十月政変には否定的であり、そのため政変後はいくつかの反ボリシェヴィキ闘争に関わり、チェー・カーによって再三逮捕され、チェー・カー資料に彼の名前はしばしば登場する。まずは「ソヴェト権力の武装転覆」などをおもな目的に掲げた、カデット、エスエル、エヌエス党員から構成される「再生同盟」の代表的活動家として名前が挙げられ、一八年の彼の逮捕の後、「秋にはモスクワでの「再生同盟」の活動はいくらか沈静化している」といわれたように、彼はチェー・カーには名の知れた優れた活動家であった。
次いで、一九年四月にこの「同盟」と同様の目的を持つ、「民主主義」をスローガンに反ボリシェヴィキ組織「戦術センター」が発足し、その設立メンバーとして「同盟」からメリグーノフらが参加した。しかし、二〇年に「戦術センター」関与の罪で彼は逮捕され、死刑判決を受けたが、禁固一〇年に減刑された後、女性ナロードニキ活動家ヴェーラ・フィグネルやクロポートキンの尽力によって最終的に釈放された。
その当時、二〇年三月のチェー・カー供述調書の中で彼は自分の立場について次のように語っている。「革命の当初からわたしはいわゆる[社会主義政党の]連合の熱烈な支持者であり、それにこそ革命的建設の正しい道があると考えていた。同時に、幻想を作り出し革命を破滅させるだけのあらゆるデマゴギーの断固とした敵であった。エスエルの戦術は明快な手本となった。ボリシェヴィキ十月政変はそのような基盤に築かれていない。歴史的展望の中で現状を評価するなら、ソヴェト権力は内戦の勝利者となり、西ヨーロッパと相互関係を築きつつあるにしても、現在の「共産主義」がわれわれのところで多少なりとも安定した国家体制となっていることを示す客観的データがあると、わたしは今でも思っていない。
ソヴェト権力の著しい成功は、住民からの共感ではなく、ロシアの社会的勢力の分裂状態と、辺境の動きで支配的な反動政策によって説明されると、わたしには思える。実際われわれは、それが最終的には崩壊するのが避けがたい運命にあるとしても、プロレタリアートにとっての独裁すらない」。[i]
このような視点が本書を貫いているといえるであろう。彼は本書で自身が語っているように、二二年一〇月に国外に亡命し、同志とともにエヌエス国外委員会を設立し、歴史・文学雑誌『余所で』を発行し、革命と内戦期のソヴェト体制を批判し続けた。この中でもっとも包括的なボリシェヴィキ体制批判の書が、本書『ロシアにおける赤色テロル』である。筆者が序文で書いているように、三部作を予定していたとのことであるが、結局は二三年にベルリンで発行された『赤色テロル』を増補改訂して、二四年にそれが出版されただけに終わった。もちろん本書はソ連時代には反革命的禁書扱いであったが、この本が一九九〇年に最初にロシア国内で発行されたのが、ソ連崩壊の直前であったのは象徴的である。
本書の主役は「赤色テロル」の実行機関としてのチェー・カーである。確かにそうではあるが、メリグーノフは弾圧システムの醜悪な実行機関としてのチェー・カーを強調するあまり、賢明な読者であるならレーニンへの言及が異常に少ないことにお気づきになるであろう。チェー・カーがレーニンの直轄組織であったことをここで改めて指摘しよう。それはまさにレーニンの意志を体現する機関として、十月政変直後から機能したのである。政変直後の非常事態に対処するため生まれた非常委員会がレーニン支配の下でより強化され、存続し続けたこと自体が異常事態なのである。
本書で生々しいまでに描かれている「赤色テロル」を行使することでこの機関は肥大化し、紛れもなくボリシェヴィキ権力の支配構造の要となった。その犠牲者の多くは無辜の民衆であり、これらの事実は民衆にとっても「十月革命」にとっても悲劇の根源となった。「赤色テロル」は「十月革命史」の裏面史ではなく、まさにその歴史そのものである。
そこでわれわれは、「赤色テロル」を導きの糸に、「ロシア革命」の悲劇の歴史を紐解かなければならない。いささか長すぎて、ほとんどの読者諸氏には不要な煩わしい典拠註が多数あるのは、以下で示す事実が、決して荒唐無稽な想像の産物ではなく、公文書などにより裏づけられていることを確認してもらう以上の意味はない。
一九一七年旧暦一〇月二五日(新暦一一月七日)にペトログラードではじまったいわゆる十月政変により、ソヴェト臨時政府の樹立が宣告された(以下の叙述は新暦で表記)。当初ボリシェヴィキと左翼エスエルの連立ではじまった新政権がまず直面したのが、飢えたペトログラード住民による食料品店や倉庫などの掠奪と、ボリシェヴィキ権力に反対する労働者による工場の操業停止であった。旧政府の官僚たちも官庁内での業務を引き渡さず、新政府は完全な機能不全に陥った。そのため「労農政府を認可するのを拒否する国立銀行職員」の逮捕、資産の没収に至るサボタージュする企業家との闘争、ブルジョワ的反革命との闘争などに関する人民委員会議[レーニンを首班とする閣僚会議]の命令が一一月下旬から一二月にかけて矢継ぎ早に出された。
このような状況下で一二月一九日の人民委員会議はヂェルジーンスキィに悪質な政府内のサボタージュを鎮圧するための非常特別委(チェー・カー)の設置を委ね、翌二〇日の人民委員会議でヂェルジーンスキィによる「サボタージュとの闘争非常特別委」の組織化とスタッフについての報告の後、「人民委員会議付置全ロシア非常特別委」の設置が決議された。チェー・カーとは非常特別委のロシア語の頭文字である。こうして、チェー・カーは、人民委員会議の直属機関として設置され、一八年一〇月二八日に全ロシア中央執行委幹部会で承認された条令によれば、「チェー・カーは人民委員会議の組織であり、内務、司法人民委員部と協力して活動する」と規定され、弾圧司法機関としての陣容を整えた。
大方の予想に反するかもしれないが、二二年初頭にヴェー・チェー・カーが内務人民委員部に移管されゲー・ペー・ウーと改称されるまで、それは人民委員会議の直轄であったということは、後者がレーニンの意志が強く反映された機関であった以上、チェー・カーの行動に直接責任があるのはレーニンである。とはいえ、実務的にはチェー・カー議長と内務人民委員をヂェルジーンスキィが兼務したため、彼はチェー・カーの象徴的存在となった。まもなくモスクワの中心街にほど近いルビャンカにあるホテル・セレクトとロシア保険会社を接収して、大きな広場をほぼ囲むような威容な建物にチェー・カーが置かれた。このときすでにそれは三五個大隊、四万の兵力を持っていた。[ii]
一党独裁と「赤色テロル」による支配が展開されるにつれ、チェー・カーはそれへの批判を封じて非常大権を持つに至った。一九年二月八日づけでロシア共産党中央委員会はすべてのコムニストに、「中央委は、チェー・カーを批判する同志がしばしば実務的党議の範囲を逸脱しただけでなく、チェー・カーが党の指令と統制の下に党の直轄組織として設置され、存在し、活動していることを失念し、しばしばまったく聴くに堪えない言動に至ることを、遺憾ながら確認せざるをえない。かような批判は現状を改善するのに役立たず、党の意志の弱体化を招くだけである」と、チェー・カーへの無条件の服従を指示した。
内戦の終了とネップへの移行によって(これは農民への宥和政策といわれているとしても)、チェー・カーは様々なキャンペーンの実施といっそう深く関わるようになった。ネップが公式に宣言された二一年一二月の第九回全ロシア・ソヴェト大会で、レーニンはそのようなヴェー・チェー・カーを高く評価するとともに、それを改造する必要があることを公言し、この改造にレーニンは積極的に関わった。党中央委政治局案とヴェー・チェー・カー参与会案とは隔たりがあったが、レーニンは後者の改造案を支持し、人民委員会議組織として懲罰機能を残すことを主張した。
チェー・カー議長代理ウーンシリフトはレーニンとこの問題に関する書簡を交わし、チェー・カー問題が審議される二二年二月二日の政治局会議への出席をレーニンに求めたが、病状の悪化のためにレーニンはこの会議に出席できなかった。同会議はヴェー・チェー・カー改造案を審議し、ウーンシリフトにゲー・ペー・ウー条令案の作成を委ねた。中央委決議に基づくヴェー・チェー・カー改造案は二月六日の全ロシア中央執行委幹部会会議に持ち込まれ、布告として採択された。それにより、これまで人民委員会議組織であったヴェー・チェー・カーは清算され、新たに内務人民委員部の下に国家政治管理局(ゲー・ペー・ウー)が設置され、それは旧組織の指導部と軍事力をそのまま受け継いだ。[iii]
チェー・カーが絶大な権限を持った理由は明白である。ボリシェヴィキの指導と統治に反対する民衆の抵抗を暴力的に押さえ込む必要があり、このような民衆の弾圧が階級闘争の行使として正当化されたからにほかならない。そしてこれらの民衆運動は白軍や反革命、ましてや、外国列強とはいささかも関係がなかったために、すなわち、ボリシェヴィキの反民衆的政策そのものに根ざしていたため、内戦が終了して反革命の脅威が去ったとしても、むしろそこから大規模な農民蜂起が至る所で勃発した。このような体制の本質は、戦時共産主義からネップへの移行があったとしても基本的に不変であった。こうして「赤色テロル」の行使は、十月政変直後から戦時共産主義期、ネップ期を経てスターリン時代に至るまで一貫した統治システムとして機能し、「十月革命」直後から多くの悲劇を生み出した。
一八年春は、各地でソヴェト権力が樹立したソヴェト権力の確立期であると、通史では説明されている。しかしながらそれらの多くは、ソヴェト権力とは村スホード(村会)に至る旧地方自治組織の看板替えか、赤軍などの軍事力を背景とする旧自治体からの権力奪取であった。こうして地方でソヴェト権力が樹立されたとしても、それで新政府が直面する最大の難問、食糧危機は解決されなかった。
なぜなら、当時のソヴェト=ロシアはペトログラードとモスクワの両首都はいうまでもなく、中央も地方も、戦争による穀物生産の縮小や穀物商業の解体などさまざまな理由で、モスクワに北西に接するトヴェリ県でも、一週間に一フント半[六〇〇グラム余]のオート麦が郡食糧委から放出されるが、それでは糞に似たパンしか焼けない、「県人口の約六六%が飢え、その数は不断に増加し、トヴェリ県は最大の飢餓に支配されている」と惨状を訴えたように、ロシア各地が飢えにあえいでいた。[iv]飢えた「都市プロレタリアート」に穀物を供給するため地方ソヴェトに穀物の供出を命じたとしても、地方ソヴェトは地元住民への供給を優先し、中央権力による供出命令を拒否し、地方での穀物調達は完全に行き詰まったのである。食糧危機が深まるにつれ、穀物をめぐる中央と地方、都市と農村の対立はいっそう激化した。
中央への穀物搬出命令を拒否するソヴェトを「地方分離主義」として断罪し、一八年五月に「食糧独裁令」が出された。これは次のことを意味した。第一に、地方の利益を優先する地方ソヴェト権力の自治権を奪い、上意下達の中央集権体制を整え、第二に、おもに中央の都市労働者から編成される食糧部隊による武力による強制的穀物徴発を制度化したことである。事態はさらに進行する。食糧独裁を「農民への宣戦布告である」と見た左翼エスエルは閣外に去り、共産党独裁がはじまった。それはソヴェト体制の変質をも意味した。
党中央委機関紙『貧農』紙上では四月一三日づけで「村のオオカミ、富農=クラークを抑えなければならない。では誰が彼らを抑えるのか。地方ソヴェトがこれを行わなければならない」と報ずる巻頭論文を最後に、地方ソヴェトを積極的に評価する論調は消えてしまった。「十月革命の理念」は失われ、実質的にソヴェトなきソヴェト体制が出現し、また、共産党独裁は農村における階級闘争の強化を目指すようになった。
先のトヴェリ県の例のように、様々な機関紙・誌に地方での飢餓の実情が公然と掲載されただけでなく、一八年四月にも「完全な飢えのために多くの地方で住民は半月で二フントの穀物しか受け取らず、農民は絶望に陥っている」などの請願を持った大勢の、穀倉地帯といわれたタムボフ県からも、農民代理人がレーニンに窮状を訴え、食糧人民委員部[食糧の調達と配給を司る官庁]にも非常に多くの農村代表が訪れ、地方の危機的食糧事情を完全に知りながらも、「農村における階級闘争」の名の下に、都市労働者から編成される軍事部隊による暴力的食糧徴発のシステムが動き出した。
革命に連帯する貧農=「農村プロレタリアート」は幻でしかなく、飢えた共同体農民は一丸となって武力による強制的穀物調達に反対し、各地で農民蜂起が勃発した。まさに双方に多数の死傷者が出る本物の内戦がはじまった。こうして一八年夏に特に穀物生産地帯を中心にして農民蜂起が吹き荒れ、それらはことごとく「赤色テロル」による血の弾圧で終わった。[v]
一八年八月初めに食糧独裁と貧農委員会に反対してペンザ県で勃発した農民蜂起に対し、レーニンは県執行委宛てに八月九日づけ電報で、「クラーク、坊主、白軍兵士に容赦のない大量テロルを行使して、疑わしい者を強制収容所に収監すること」、翌一〇日の電報では、「最大限のエネルギー、速やかさ、無慈悲によってクラーク反乱を鎮圧し、[・・・・・・・]決起したクラークのすべての財産とすべての穀物を没収すること」を命じた。この電報までに蜂起はすでに鎮圧され、反乱の首謀者はすでに地方当局により銃殺されていたが、レーニンはそれ以上の血を求めたのである。
これに続いて別の郡で発生した蜂起に対しても、レーニンは県執行委を激しく譴責した一九日づけ電報で、「すべての執行委員とコムニストに、彼らの責務は容赦なくクラークを鎮圧し、蜂起した者すべての穀物を没収することであると伝えよ」と徹底的弾圧を指示した。サラトフ県には、徴収に対して命をかけて責任を取る「二五、三〇人の人質を」富農から取るよう命じた。反乱を鎮圧したオリョール県リヴヌィ郡執行委に二〇日づけの電報で、「決起したクラークからすべての穀物と財産を没収し、クラークの中から首謀者を絞首刑にし、[・・・・・・・]富農から人質を取り、郷ですべての穀物余剰が集荷されるまで彼らを勾留する必要がある」と、指示を与えた。もちろん、クラークとは暴力的穀物徴発に抵抗する農民の呼称であることは改めていうまでもない。飢えた農民を斟酌することなく、これらの電報によってすでに「赤色テロル」が胎動しはじめ、人質、処刑の文字が溢れ出す。
これらの電報は、もっとも基本的文献資料であるロシア語版『レーニン全集(第五版)』に掲載されている。[vi]これを読んで、ウリーツキィの暗殺やレーニン自身の暗殺未遂に応えて公式に「赤色テロル」が宣告されたとの主張や、一九年末の第七回ソヴェト大会で「赤色テロル」は外国列強の進撃から引きおこされたとのレーニンの報告を、まだ信じることができるであろうか。さすが、『全集』への掲載もはばかられた、ペンザ県の農民蜂起に関する八月一一日づけ現地ソヴェト執行委議長宛ての次の書簡はどうか。
「同志諸君!クラークの五郷の蜂起を容赦なく鎮圧しなければならない。革命全体の利害がこのことを要求している。というのは、今や至る所でクラークとの「最後の決定的戦闘」が行われているので、手本を示さなければならない。一、一〇〇人以上の名うてのクラーク、富農、吸血鬼を縛り首にせよ(必ず民衆が見えるように縛り首にせよ)、二、彼らの名前を公表せよ、三、彼らからすべての穀物を没収せよ、四、昨日の電報にしたがって人質を指名せよ。周囲数百ヴェルスタ[数百キロ]の民衆がそれを見て、身震いし、悟り、悲鳴を挙げるようにせよ」。恐怖によって民衆を支配しようとする「赤色テロル」の本質が、そこにはっきりと示されている。[vii]
こうして一八年後半は蜂起が起こらないにせよ、食糧部隊の蹂躙などで騒然とした状況下で農村における党活動がはじまった。だがその実態はきわめて心許ないものであった。ヴャトカ県からこの時期の党活動について、例えば、「党組織はまったく存在しないことを確認しなければならない。郷に党細胞があっても、それは住民からまったく隔絶している」と報告され、そのため党の農村支配には暴力がともなった。その実行機関がチェー・カーであり、そのやり方が「赤色テロル」であった。以下で引用するいくつかの実例は、モスクワのアーカイヴに保管されている同様な資料のごく一部でしかないことを、あらかじめお断りしなければならない。
同県ソヴェトスク郡では一八年八月以後党組織が設置されたが、その活動を保証するには、一二人の地方警備中隊、一二人のチェー・カー部隊、一一人の郡民警を駐留させなければならなかった。すでに至る所で農民への血まみれの弾圧がはじまっている。ノリンスク郡の情勢は全権によって次のように報告された。八月に「多くの村で穀物専売を実施することに反対して騒擾が発生した。ズイコフスカヤ郷で郡食糧委主任が住民により捕らえられ、殺害された。これら騒擾を[チェキストの]ジリャーリスが鎮圧し、彼は個人的に鞭打ちの刑罰を加え、誰彼かまわず四七万二〇〇〇ルーブリのコントリビューツィア[勝手な課税]を徴収し、その際に一人が銃殺され、多くが負傷し、四〇人が逮捕された。
一九年一月一日までにチェー・カーによって四二人が銃殺され、現在は勝手な捜索、徴発、没収は止んでいる。人質は二六人、監獄に七一人がいる」。このような事例は地方だけではない。モスクワ県でも穀物調達には銃殺をともなう。「ヴェニョフ郡パドホジェモ村で、食糧部隊への武装襲撃に参加した罪でチェー・カー判決により三人の殺人教唆者が銃殺され」、そのほかのクラークに五万プード[一プードは約一六・四キロ]の科料が下された。食糧隠匿者にも容赦はない。納屋に隠匿した麦粉四プード、碾割り五プードなどが摘発されたため、北部鉄道保安特別コミッサールはチェー・カーにより銃殺された。これも一八年八月の出来事である。
民衆の窮状はそこではまったく考慮されなかった。カルーガ県マロヤロスラヴェツ郡は伝染病も猖獗するひどい飢餓状態にあり、ある村の執行委は穀物の供出を拒否したため、チェー・カーに逮捕され郡チェー・カーに護送された。彼のその後の運命については不明である。
「赤色テロル」は民衆の残虐な報復を招く。六月の事件についてペルミ県オハンスク郡チェー・カーは次のように報告する。「クラーク匪賊は、ペルミ管区執行委議長を殺害した。彼は郷ソヴェトで眠っているときに、近づく群衆の物音で目が覚め、通りを逃げ回っているところを銃撃され、屍体は切り刻まれて墓地に運ばれた。群衆は彼のほかに、オハンスク供給部指導官、彼の兄弟、赤軍兵士三人らも殺害した。[・・・・・・・]被害者の数を確定するため、惨殺された犠牲者を掘り出すことが命じられた。屍体は下着だけの裸の状態で埋められ、斧とシャベルで無惨にも切り刻まれ、頭部は割られ、指は切断されていた。このほか逮捕者の供述によれば、赤軍兵士の一人は生きたまま土に埋められた」。
「白色テロル」に関しては、次のような実例がしばしば新聞で報道された。これはドン管区に隣接するサラトフ県ノヴォウゼンスク郡の村が舞台である。村に駐屯していた二四〇人の赤軍部隊は圧倒的に有利なコサック軍団に包囲され、内通したクラークによって村に侵入したコサック軍団との白兵戦の末、赤軍部隊は粉挽小屋への退却を余儀なくされた。そこでコサックは郷ソヴェト議長チュグンコーフの捜索をはじめ、援軍を要請するため村から離れたチュグンコーフとチューリコフを捕らえ、「旧い習慣によりコサック兵の鞭刑が行われ、チュグンコーフは四つ裂きにされ、チューリコフは耳、鼻、顎を切り取られ、背中から肉をはぎ取った後に殺害された。この日に多数のボリシェヴィキ活動家が銃殺された。僧侶は感謝の祈りを捧げ、銃殺された同志に呪いを浴びせた。
三日後に粉挽小屋に隠れていた赤軍兵士は降伏を余儀なくされた。彼らは丸裸にされ、寒い穴蔵に押し込まれ、そこで彼らは水も食事もなしに三日間放置された。その後斃死した家畜を投げ込んでいた村の大きな窪地に連れ込まれた。窪地では一〇人ずつが銃殺された。刑吏の下手な射撃のおかげで、多くの同志は傷ついただけで死ななかった。だが、九六人全員が窪地に集められ、窪地が埋められた。傷ついた受難者から断末魔の呻き声が上がった」。この記事はコサックの残虐さと僧侶の悪行を暴くステレオタイプの内容ではあるが、「白色テロル」も「赤色テロル」も、敵への恐怖心と報復から生ずるために、そのやり方は同様である。だが、「赤色テロル」は権力による犯罪であることが、決定的な相違である。[viii]
一八年後半にロシア全土で暴力的支配を構築したボリシェヴィキ政府は、一九年一月に農産物調達の新たな制度として、地方の需要を完全に無視した食糧割当徴発制度を導入した。大戦と内戦によって労働力と役畜を奪われて困窮する農民経営は、多くの場合に家畜の飼料や播種分までも「余剰」として取り上げられ、この制度によって窮乏化はいっそう加速した。
彼らは革命の領袖レーニンに次のような実情を訴えた。「穀物が不足するため、われわれは穀物の命令を遂行できません。家族は破滅の運命にあります。穀物はなく状況は破滅的です。食糧がまったくないために、動揺がはじまっています」。だが、このような訴えが叶えられることもなく、割当徴発の徴収は農民の抵抗を前提として、軍隊の出動をともなう臨戦態勢で実施された。
二〇年八月にペンザ県に次の手続きで割当徴発の実施が命じられた。「一、[・・・・・・・]ペンザ郡で割当徴発は県軍事委と国内保安軍旅団により選抜された軍事部隊の支援で行われなければならない。二、これらの郡で郡食糧会議はまず、二、三のもっとも穀物が豊かでクラーク的な郷を選定し、一〇月一日までに算出されたすべての割当徴発を速やかに組織的に遂行しなければならず、もし抵抗があるなら、武装力と抵抗する者から一〇〇%の徴発を適用し、世帯主を逮捕しなければならない。それが正確に実行された作戦行動の後に、ランクの低い次の郷に移り、それらの郷で調達がどのように実施されるか、国家割当徴発に抵抗する者がどのような処罰を受けるかを明らかにして、あらかじめ郡の農民への命令、アピールを作成する」。プスコフで見られたように、軍隊とともにチェー・カーも出動する。穀物割当徴発の強化のため「全県に軍事部隊、おもに第七軍特別部の騎兵隊と県チェー・カーが派遣された」。[ix]
このような農村からの暴力的収奪の結果は、農村の完全な荒廃であった。「どうせ取られるなら、何も植えない方がましだ」として、農民は畑への播種をやめた。そして何より、播種しようにも彼らの手元には播種用の穀物は残されていなかった。これらの情報は無数にある。二〇年春にヴャトカ県ウルジューム郡では、割当徴発が一二〇%遂行された結果、播種用の穀物はなくなった。ウファー県ビルスク郡では、力のおよばない割当徴発が課せられたため種子と飼料は残されなかった。ヴャトカ県ノリンスク郡から「与えられた穀物量はほかの郷に比べて不当に重く、割当徴発を完遂するため遠征部隊は武器の威嚇の下に、貧農をも斟酌せずに、すべての食糧と種子を奪い取り、住民は危機的状況に陥り、迫り来る春蒔き用の種子不足のために住民はパニックを起こしている」と報じられた。種子不足は収穫不足、すなわち、飢饉の前触れである。[x]
二〇年にいくつかの農業地帯を襲った旱魃があっても、権力は容赦しなかった。リャザニ県カシモフ郡では凶作のために、農民は穀物以外を食べてかろうじて種子を残していたが、郡食糧委はそれでもすべての穀物を徴収した。トゥーラ県チェルニ郡やヴォロネジ県ザドンスク郡では、播種用穀物が食糧に転用されないよう、播種と種子調達が完了するまで製粉所が閉鎖され、多くの住民はパンが焼けずにパニックになった。食糧を奪われたのは農民だけでなく労働者にもおよんだ。都市労働者への供給制度はまったく機能せず、担ぎ屋となって搬送するわずかな穀物が彼らの唯一の食糧源であったが、それさえも闇食糧取締部隊やチェー・カー部隊によって没収された。ヤロスラヴリ県のソヴェト職員は、一年半分の労働者の稼ぎである家族用の麦粉がチェー・カーにより不法に没収されたことを、レーニンに訴えた。[xi]民衆の窮状は内戦の終了とともに深まった。
二〇年一一月末に内戦は基本的に終了し、割当徴発が農業生産に悪影響をおよぼし、おもに地方活動家からその廃止の声が多数挙がっていたにもかかわらず、割当徴発を基本とする戦時共産主義政策は継続された。要するに、レーニンをはじめとして当時のボリシェヴィキ指導部は、民衆の疲弊と困窮に目をつむり、「共産主義」の勝利に酔いしれ、それに一気にたどり着こうとはかない幻想を夢見ていたのであった。その幻想の犠牲者はつねに民衆であった。[xii]
内戦の終了にともない赤軍の動員解除がはじまり、ボリシェヴィキ権力の軍事的抑圧が減退することはなかった。元々、赤軍は様々な弱点を抱えていた。赤軍への招集を呼びかけても、動員はわずかであった。一八年末にトロツキーは、兵役忌避者は八〇%までの高い比率となり、彼らはライフル銃を持って緑軍に合流していると、レーニンに訴えた。兵役忌避者(招集に応じない者、部隊からの脱走兵)は銃殺、彼らの隠匿者は連帯責任で厳罰に処するなどの措置が適用されてもこの流れは止まなかった。
また、ほとんどの赤軍部隊の装備も食糧事情も劣悪であった。二〇年二月の赤軍部隊に関する報告書は、ヤロスラヴリ第三中隊では二月の二日間で「パン一フント、スープ一杯、ピロシキ三個のほかには何もなく」、この部隊は「全員がぼろを纏い、草鞋を履いて」厳冬の中を行軍し、モギリョフ第四中隊は、「装備はまったく与えられない。裸足で行軍し、草鞋もない。給与はもう三ヶ月間受け取っていない」などと指摘した。八月にシベリア軍事食糧局[労働者食糧部隊の本部]は、制服が支給されるはずの部隊は旧い夏服のまま一ヶ月間着の身着のままで、冬装備を受け取れないなら部隊は活動を停止すると訴えた。一〇月のチェー・カー報告は、装備と衣服がないために、寒さの到来とともに脱走兵が著しく増加した事実を指摘した。
九月のヴェー・チェー・カー参与会会議で、脱走兵が出ないよう国内保安軍部隊への監視を強めることが決議された。[xiii]トロツキーが赤軍建設をいかに自画自賛しようとも、人民軍としての赤軍は編成される前に崩壊していた。強制的農民召集兵を基本とする赤軍兵士は、ボリシェヴィキと「共産主義理念」を共有することは決してなかった。そして、それを埋め合わすように革命裁判所巡回法廷、革命軍事評議会、革命委員会などの弾圧司法・懲罰機関が二〇年後半までに各地で設置され、機能していた。司法的弾圧と行政的弾圧と、われわれにはもう区別がつかなくなっている。戦時共産主義がいわゆるネップに移行する二一年春までに、ロシア全土がこのような弾圧機関におおわれていた。
革命後の農民運動の原動力を、奥田央は「農民のぎりぎりの生存」の要求であると、コンドラーシンは、農民は内戦にともなう権力の厳しい経済的破壊政策に対する「自己防衛的性格」であると、日本とロシアの農民史家はほぼ同様に指摘する。[xiv]ほとんど慢性的な飢えにさらされ、それでも革命権力、反革命勢力を問わず農民に降りかかる穀物や家畜の徴発、労働力や家畜、荷馬車の動員などが、日常的に農民の生存権を脅かし、彼らは必死に身を守ろうとしても将来の生存権が失われたと感じたとき、自己防衛の最後の手段が農民蜂起であった。
タムボフ県で二〇年八月下旬に発生したいわゆるアントーノフ蜂起は、その規模においても継続期間においてもソヴェト=ロシア最大の農民運動であったが、その弾圧には徹頭徹尾「赤色テロル」があふれていた。より正確には、穀物の徴収方法自体が「赤色テロル」的やり方であった。ロシア有数の穀倉地帯として中央黒土地帯にあるこの県は、割当徴発による中央権力の組織的掠奪がはじまる以前から様々な地方の徴発部隊によって掠奪され、すでに飢餓が現れていた。
「徴発に不満を持つ農村のクラークは、秋蒔きの耕起をひかえるよう農民をそそのかしはじめる。どうせ徴発されるのだ」との声が囁かれる。リペツク郡では一八年の秋蒔き収穫はひどいと認められたが、食糧部隊による徴発は続いた。一九年一月に最初の割当徴発が実施されたとき、この郡ではライ麦、オート麦、ジャガイモはすでに現地の必要量を大きく割り込んでいたが、割当徴発は容赦なく課せられた。県内の全体的凶作にもかかわらず、一九年八月からはじまる一九/二〇年度の割当徴発は、県食糧委が算定した穀物割当量二六〇〇万プードに対し、食糧人民委員部は三一一〇万プードに増量してはじまった。[xv]
そこに県食糧コミッサールとしてゴーリディンが登場する。食糧部隊への挨拶の中で、「彼は穀物徴発の際に誰にも、実母にさえも情けをかけないよう勧告した。だが兵士は実際に「誰にも情けをかけていない」。強情であったり最後の穀物を引き渡すのを拒否したりする場合には、人質を捕らえ、すべての郷執行委と村執行委の議長逮捕し、郷が穀物を納付するまで市内のどこかの寒い部屋に彼らを閉じこめる。釈放されるには、農民はしばしば「余剰」を引き渡すために穀物をほかで買い求めなければならない。
だが県内に穀物は少ないので、いくつかの郷で農民は自分たちの「ノルマ」を購入によっても充足することができず、種子を引き渡すか、自分の消費のために残しておいた「ノルマ」を引き渡しても、これでも不足するなら、黙って処罰を待ち受ける。「さあ殺せ、銃殺しろ」。農民の大量銃殺のケースが県内の三、四ヶ所であった(二年間にタムボフ郡ドゥホフカ村で二人が殺害され、一人が負傷し、一人は「見せしめのため」銃殺された)。農民の自殺のいくつかのケースも記録されている。タムボフ郡の村の一つで(名前は覚えていないが)、現地「コミッサール」が自殺で命を絶った」と、エスエル県組織は伝えている。
ボリソグレブスク郡には食糧部隊長マルゴーリンの名前が轟き渡る。彼は過度の鞭打のため革命裁判所によって逮捕されたが、タムボフ当局は彼の釈放を命ずる。鞭打ちで満足することなく、彼の命令によりルサノフスカヤ郷で偽の銃殺が挙行される。逮捕された村ソヴェトメンバーが納屋に勾留され、彼らのうち一人ずつが連れ出され、壁の前に立たされ、命令が下された。「発射用意!撃て!」。食糧軍兵士が空に銃撃し、恐怖に動転したソヴェトメンバーが失神して倒れた。次に、彼らの衣服をはぎ取り、寒い納屋に閉じ込め、彼らは零下二六度の中に放置された。殴打によって大勢の人々が死んだ。県の至る所で同様なやり方が認められた。ウスマニ郡からは、「農民を鞭打ち、彼らを寒い納屋に閉じ込め、農民から奪った穀物で部隊長は農民に密造酒を造るよう強いた」事実が報告された。
だが、このような農民への「赤色テロル」は個々の活動家の過剰行為ではなく、権力による「組織的犯罪」であったことは、彼らは特に処罰されることもなくほかの地方に転出し、このような行為が繰り返されたことからも明らかである。ゴーリディンはアルタイ県の指導的食糧活動家となり、シベリアでの食糧税の徴収に関わった(そして、そこで農民に殺害された)。マルゴーリンは食糧人民委員部全権としてサマラ県で割当徴発の遂行に努め、その結果多くの郷は播種なしになり、彼らを未来の大飢饉が待ち受ける。
タムボフ全県で二〇年の春蒔き播種は壊滅的で、そのため収穫は完全な凶作であった。ボリソグレブスク郡では播種分の収穫さえなかった。このような地方の実情について、キルサノフ郡の郷執行委議長はレーニンに次のように訴えた。「現在郷にいる食糧部隊は割当徴発により穀物を一〇〇%汲み出している。貧農の大部分は凶作のためそれを遂行することができない。どれだけかの播種面積は[・・・・・・・]軍事部隊が通過する際に全滅した。そのような穀物の汲み出しは住民に[消費]基準と種子を残していない。割当徴発を履行できない者から、繁殖を考えずにすべての家畜が徴発されている」。[xvi]
農民経営は崩壊し、未来に生きる望みも絶たれた。革命によって実現されたと思われた彼らの長年の夢ははかなくも破れ、ボリシェヴィキへの憎悪が高まり、収穫期がきても膝丈もないライ麦の生育を見て絶望に陥った彼らは命を賭して立ち上がった。アントーノフ運動への直接的参加者は、その支配領域の人口の一〇%程度であり、多くの農民は程度の差こそあれ、蜂起の目的に共鳴しても平穏な農耕を捨てきれず、運動への直接の参加を回避したといわれる。
[xvii]しかしながら、アントーノフ蜂起軍は地勢を熟知していただけでなく、農民一般大衆によって鎮圧軍接近などの情報を得て、食糧などを受け取り、匿ってもらうなど様々な「後方支援」を獲得することで、長期にわたって戦局を有利に展開することができた。多くの農民反乱がそうであるように、それが必然的に持つローカルな特性はその強さでもあり、弱さでもあった。ソヴェト文献ではクラーク的エスエルによってこの蜂起が準備され指導されたと繰り返し指摘されたが、現在の研究者は、エスエルは中央でも地方でもそれに直接関わりを持たなかったと異口同音に指摘する。まさにアントーノフ反乱は民衆蜂起であった。
八月一九日に約五〇人の武装した脱走兵がタムボフ郡カメンカ村付近で食糧部隊を襲撃した。翌二〇日に別の脱走兵のグループがソフホーズを襲い、労働者を殺害し、馬を盗んで逃げた。二一日に追撃する食糧部隊は武装グループと衝突し、それに合流した援軍ともども騎馬蜂起兵の奇襲によって粉砕された。戦闘に参加した脱走兵と一五〇人の村人は赤旗を掲げてカメンカ村に凱旋した。付近の農村に急使が送られ、その後に開かれたスホード(村会)で、コムニストと割当徴発に反対する蜂起がはじまったと宣言された。
カメンカ付近でソヴェト部隊が粉砕されたとの知らせはその日のうちにタムボフ市に届けられ、八月二一日深夜に県執行委幹部会会議が開かれ、県チェー・カーの下に蜂起鎮圧の作戦参謀部を設置することが決定された。中央から全権代表が派遣されるまで、これが反乱鎮圧の指揮を執ることになる。増援部隊が派遣され蜂起は沈静化したように思われたが、八月三〇日早朝にカメンカ地区全域で大規模な蜂起が新たに発生した。狼狽した県チェー・カー作戦参謀部は翌三一日午前五時二〇分に以下を軍事部隊長に下令した。
「匪賊的直接行動や匪賊の隠匿への関与が認められる村落に対して、容赦なく赤色テロルを実施するよう命ずる。
そのような村落で[・・・・・・・]一八歳以上の市民を人質として取るよう命ずる。もし匪賊的直接行動が続く場合に、人質は銃殺されることを住民に宣告する。
そのような市民の財産を完全に没収する。
彼らが寝泊まりする建物を取り壊し、それができない場合には火を放つ。
犯罪現場で捕獲した匪賊を銃殺する。
同様に、県執行委幹部会決定にしたがい、匪賊運動への関与が認められる村落は非常食糧コントリビューツィアが課せられ、その不履行に対してすべての市民のすべての土地とすべての資産が没収されることを宣告する。
彼らは強制的に追放され、成人男女は強制労働収容所に、子供は内戦終了まで孤児院に収容される。
本プリカースはスホードで読み上げられすべての村落に掲示される」。
アントーノフ蜂起に対し、こうして早々と「赤色テロル」が公式に宣言された。[xviii]
現地軍では蜂起を鎮圧できず、県執行委は中央に割当徴発の遂行には増援部隊が必要であることを再三要請したが、中央からの本格的介入は著しく遅れた。さらに当時すでに最高決定機関となっていたロシア共産党中央委政治局会議で、不可解なことに、この問題はまったく取り上げられなかった。二〇年一二月末に出された「タムボフ県における反乱運動が長引く理由に関する」報告書で国内軍参謀部特別委は、その理由として「共和国の対外事情[ポーランド戦争]を考慮しても、国内軍参謀部である中央司令部は現地司令部の要請に必ずしも熱心に耳を傾けず、実質的に援軍の派遣を遅らせた」中央司令部の失策と、「一二月一日までタムボフ司令部と[革命]軍事評議会から共和国国内軍司令官に軍事状況と運動の性格に関する一遍の状況報告も提出されなかった。
受け取ったあらゆる報告は非常に曖昧で、むしろ、楽勝気分であった」とする現地司令部の状況判断の甘さを指摘する。アントーノフ運動の専門家サモーシキンも、アントーノフは住民に支持されていないとの嘘の情報をタムボフ当局は中央に送りつけていたと指摘する。だが、一〇月一九日づけでレーニンは国内保安軍司令官コールネフとヂェルジーンスキィに、「同志シリーフチェル[県執行委議長]はわたしに、タムボフ県での蜂起の強大化と、わが兵力、特に騎兵の弱体を伝えている。もっとも速やかで(模範的)根絶が絶対的に必要である。
いかなる措置が執られているのかをわたしに通知するようお願いする。大きなエネルギーを発揮し、多くの出兵が必要である」と指示したように、彼はアントーノフ蜂起の深刻さを充分認識していたように思われる。だからこそ、アントーノフ軍によって地元の工場地区が占領された際にヂェルジーンスキィに、これに責任あるチェキストとコールネフを軍事裁判で厳罰に処せと、レーニンは苛立ちを隠せず命じたのであった。[xix]
中央からの軍事介入が大幅に遅れた理由として、ソヴェト軍の軍事力はこの時期には物理的にも精神的にも限界であったことが挙げられる。二一年二月に党員有志の党中央委への書簡は、「最近の動員解除は、軍の極端な弱体化を招き、その戦闘能力を徐々に減退させ、個々のケースではそれはゼロになっている。そのような状態で赤軍はソヴェト権力の当てになる保塁となりえない」と指摘する。動員解除の遅延は民衆の不満をかき立て、強制動員された兵士は脱走兵となってアントーノフ軍に合流し、反乱軍を補強させる結果に終わった。
六月の鎮圧軍の状態について革命軍事評議会の報告書は、食糧と装備がないため戦闘能力は低い、「数日にわたって配給を受け取らず、そのため農民から(匪賊の家族と彼らのシンパ)最後の食糧を取り上げるのを余儀なくされている。実働部隊の装備はひどい。休むことなく匪賊を追撃している部隊の衣服は完全にぼろぼろになり、大部分は裸同然である。[・・・・・・・]赤軍兵士は数週間、数ヶ月も風呂に入らず、汚い川や沼地で身体を洗い、再び汚れたぼろぼろの下着を身につけていた」。軍隊の士気と戦闘能力は著しく低下し、ボリシェヴィキ権力に残された効果的闘争手段が「赤色テロル」であった。「赤色テロル」とは何か。二〇年二月のチェー・カー協議会でヂェルジーンスキィは次のように演説した。われわれが敵を殺すときは、「彼が悪人だからではまったくなく、ほかの人々に恐怖を与えるため、われわれはテロルという武器を行使する」。
二一年一月から反乱鎮圧の新しい段階がはじまる。このときから、この問題はようやく地方から中央に移された。一月一日の党中央委組織局会議で、タムボフ県の軍事状況に関するヂェルジーンスキィの報告が行われ、一月一二日の中央委総会で農民の気分に関する問題が審議された際に、凶作を被った農民を緩和する特別委と、匪賊運動を速やかに根絶する任務を持つ特別委の設置が決定された。
一月末にタムボフで開催された党県協議会にブハーリンらの指導的コムニストが派遣され、二月二日の中央委政治局会議でタムボフから帰還したばかりのブハーリンの報告が行われ、そこで二つの重大決定がなされた。第一は、困窮する農民と地方の政情に重大な関心を払い、これら諸県で農民の食糧状態を緩和するための措置を採ること、第二は、タムボフ反乱の鎮圧を指導するため全権アントーノフ=オフセーエンコを現地に派遣することである。前者はタムボフを含むいくつかの県への割当徴発停止命令をもたらし、後者はアントーノフ蜂起鎮圧に中央が本格的に介入する態勢作りであった。[xx]
二月一六日にタムボフに到着したアントーノフ=オフセーエンコは、レーニンの提案により自身が議長を勤める中央執行委全権特別委を設置し、これが実質的にタムボフ県での全権を掌握した。三月の第一〇回党大会で決定された食糧税の導入は大々的に宣伝されたものの、農民は「現物税は割当徴発と同じで、名前が違うだけだ」などと懐疑的で、四月に全権特別委は、「諸君は、現物税は以前の割当徴発とそっくりであるとの疑念を持ち、諸君の敵、アントーノフ軍、エスエル、その他の犯罪者は森に潜んで、諸君にこのことを信じ込ませた」として、農民に「以前の割当徴発と似ても似つかないことを分からせる」アピールを出さなければならなかった。
二一年二月に四万に達したアントーノフ軍の総勢は、それ以後減少し続け五月までに二万一〇〇〇人、七月半ばには一二〇〇人までになったとしても、「ネップ効果」を過大評価することはできない。増派された赤軍の攻勢や春の畑作業は、その理由の一部であるが、もっとも大きな理由として、アントーノフ軍と地元住民との関係の変化と、「赤色テロル」の強化を挙げなければならない。
まだアントーノフ軍が比較的小規模であった時期には、ソフホーズや穀物倉庫の掠奪などで蜂起軍を維持することができたが、すでにそれらは掠奪し尽くされ、拡大した蜂起軍をまかなうには、必然的に強奪の対象を一般農民へと拡大しなければならなかった。それに加え、徐々に忍び寄る飢饉の脅威は、この状況をいっそう深刻にした。また、蜂起軍の活動区域が拡大するにつれ、機動力を発揮するために軍の主力は歩兵から騎兵に移り、そのため畑仕事に不可欠な馬匹を農民から徴発する機会が目立つようになり、農民の間にアントーノフ軍への不満が高まった。[xxi]
最終段階は軍司令官トゥハチェーフスキィの登場である。彼の軍功について語るなら、危機の二一年冬に遡らなければならない。
この冬は例年以上に猛烈な寒波に襲われ、ロシア全土で燃料が不足し、鉄道輸送は止まり、工場は操業を停止し、暖房のために木造家屋や生垣が壊された。食糧貨物は立ち往生し、食糧危機は極限に達しようとしていた。特にペトログラードで状況は深刻で、工場は原料と燃料がないために閉鎖され、三万の労働者が路頭に投げ出され、食糧配給は停止された。二月二一日に信管工場で開かれた労働者集会で、人民主権への移行が決議された。二月二四日にはいくつかの工場にストが拡大し、ヴァシーリエフ島に集まった二五〇〇人以上の労働者に守備隊からの銃撃が容赦なく浴びせられた。
ジノーヴィエフを議長とする防衛委員会が設置され、共産党ペトログラード委員会はこの状態を「反乱」と認定し、翌二五日に市内に戒厳令を布告した。二月二六日づけ『ペトログラード・プラヴダ』に掲載された防衛委のアピールには、「スパイに用心せよ!スパイに死を!」の見出しがつけられた。ペトログラード守備隊の一部は労働者の鎮圧を拒否し、武装解除された。この運動はまもなく軍事力で粉砕されることになるが、当局はこの不穏な情勢が、ペトログラード沖にある重要な海軍基地、クロンシタット要塞に伝播しないようあらゆる措置を採ったが、無駄であった。
要塞の水兵は、ペトログラードにおける労働者の圧殺に強い衝撃を受け、労働者の銃殺の風聞が広まり、コムニスト独裁への憎悪をいっそう募らせた。なぜなら、彼らの多くは故郷からの手紙などで、ボリシェヴィキが力ずくで自分たちの家族から最後の穀物と家畜を奪い取っているのをすでに知っていたので。
こうして、二月二八日に主力戦艦『ペトロパヴロフスク』と『セヴァストポリ』で採択された決議は、全島集会で圧倒的多数により支持された。この決議は、基本的に十月革命で謳われた諸権利の回復であり、一党独裁を非難するが、政府転覆を求めたものではなかった。しかしながら、三月四日づけ国防会議は、この運動はフランス反革命情報部と元ツァーリ将軍によって企てられた「黒百人組的[極右的]エスエル」反乱であると宣告し、完全な軍事的制圧の準備に取りかかった。いつものように事件に無関係な者や家族が人質として捕らえられ、クロンシタットが陥落した後も人質の逮捕と収容所送りは続いた。三月五日に反乱鎮圧命令が出され、その司令官に任命されたのがトゥハチェーフスキィであった。これ以後もトゥハチェーフスキィは「赤色テロル」の執行人として再三登場する。
要塞攻撃は、第一〇回党大会の開会日である三月八日に指定された。レーニンはこの大会で「反革命の容赦のない鎮圧」を報告するはずであった。だが、その思惑ははずれ、懲罰軍は大損害を出して退却し、党大会の代議員も鎮圧のために動員するはめになり、党大会の議事日程が大幅に変更されるという醜態を招いてしまった。このときの敗北の大きな理由は、攻撃への不服従、クロンシタットの要求を支持する赤軍兵士の気分にあった。
ここでも「赤色テロル」が猛威をふるう。これら不穏分子は辺境地に軍用列車で送られ、その首謀者と見なされた者は即決裁判で直ちに銃殺された。三月一八日朝までに要塞は赤軍兵士の手に落ちた。当局は戦死、行方不明、負傷した赤軍兵士の数を秘匿した。バルト海の氷上で倒れた屍体の多くは陸に引き上げることさえできなかった。氷が溶けるとともにフィンランド湾の水域が腐敗汚染される危険が生じた。三月末にフィンランドとソヴェト=ロシアの代表の会見で、フィンランド湾に放置された死体の除去についての問題が解決された。
クロンシタット守備隊への懲罰がはじまった。蜂起時に要塞にいたこと自体が犯罪と見なされた。即決裁判で有罪の判決を受けた者の中に捕虜はいなかった。なぜなら、彼ら全員が現地で射殺されたので。攻撃の後、バルト海の氷上やクロンシタットの街頭に放置された負傷した水兵を助けることは、厳罰の脅しの下に禁じられた。
何十もの公開裁判が行われた。『セヴァストポリ』と『ペトロパヴロフスク』の水兵は特に厳罰に処せられた。三月二〇日の非常三人委員会会議で、『ペトロパヴロフスク』水兵一六七人の審理が行われ、全員に銃殺の判決が下った。クロンシタット蜂起の鎮圧場面でも「赤色テロル」が荒れ狂ったが、無辜の人々への懲罰は遅れてやってくる。七月五日づけのトロツキーへの書簡で、第一〇回党大会でクロンシタットに関する報告を行った党中央委員ヤロスラーフスキィは、アナキストはこの反乱に反対しなかっただけでなく、クロンシタットのスローガンを大々的に広め、「周知のように、モスクワのレオンチエフ小路で地下アナキスト・グループによって爆破が挙行され、その結果、党モスクワ委書記と数人の女性コムニストを含む前衛的コムニスト一三人が死亡した」ことから、アナキストは白衛軍組織と密接な関係があることは明白であるとして、彼らへの弾圧を求め、この時期多数のアナキストが逮捕された。この爆破事件は二年ちかく前の、一九年九月の出来事であった。「赤色テロル」は虎視眈々と好機を待ち受ける。[xxii]
二一年四月二七日の党中央委政治局会議で、タムボフ管区軍司令官に革命軍事評議会の推挙によりトゥハチェーフスキィが任命され、彼に軍事的全権が付与されたが、このことは革命軍事評議会の議事録には記載しないとされた。[xxiii]トゥハチェーフスキィは五月一二日にタムボフに着任し、その日のうちに軍事部隊への機密文書「匪賊運動根絶に関する命令」、「命令一三〇号」、それを補足する全権特別委決議「匪賊の家族の人質と財産没収に関する命令」を次々と出し、その中で、匪賊の家族を人質に取り、匪賊が二週間以内に出頭しないならその人質をシベリアの強制収容所に送り、財産を没収するなどの「赤色テロル」を宣言した。
六月九日の全権特別委会議で彼は、討伐軍の態勢はようやく六月に整えられたが、「命令一三〇号を実施する活動は困難である。[匪賊を]家族が通報するのを拒否し、財産を分散し、匪賊の家族はすでに逃げ出した所もあり」、ソヴェト権力に対する農民の気分は上辺は好意的であるが、内面は敵意を抱いていると、厳しい現状を報告した。
「赤色テロル」は厳しさを増し、六月一一日づけ「全権特別委命令一七一号」で頂点をきわめる。そこで全権特別委議長アントーノフ=オフセーエンコと軍司令官トゥハチェーフスキィは次のように宣言する。「エスエル匪賊を根絶やしにするため、以前の個々の訓令を補足し、全権特別委は命ずる。
一、自分の姓名を告げることを拒否する市民は、その場で裁判抜きに銃殺される。
二、武器が隠匿されている村落に[戦闘]区域政治特別委または地区政治特別委の権限により人質を取る判決が宣告され、武器を引き渡さない場合には彼らは銃殺される。
三、隠匿武器が摘発される場合には、家族の最長老の働き手がその場で裁判抜きに銃殺される。
四、家に匪賊を匿った家族は逮捕され、県外に追放され、彼らの財産は没収され、この家族の最長老の働き手がその場で裁判抜きに銃殺される。
五、匪賊の家族または財産を隠匿する家族は匪賊と見なされ、この家族の最長老の働き手がその場で裁判抜きに銃殺される。
六、匪賊の家族が逃亡した場合に、彼らの財産はソヴェト権力を信頼する農民の間で分配され、残った家屋は焼かれるか解体される。
七、本プリカースは厳格に容赦なく実施される」。
さらに、翌一二日に出された「軍司令部命令〇一一六号」は、「匪賊が潜む森林を窒素性ガスで浄化し、窒素性ガスの雲が森全体に完全に飛散し、そこに潜む全員を根絶するよう」毒ガスの使用を命じた。この非人道的命令は長い間威嚇の文書でしかないと解釈されてきたが、軍事アーカイヴに「八月二日カライ=サルトゥイコフスカヤ郷キペツ村北西の砲撃で榴散弾六五発、榴弾四九発、化学弾五九発が発射された」証言が残されているという。
鎮圧軍の増強に加え、アントーノフ=オフセーエンコ自身が「もっとも恐ろしいテロル」と評した命令一七一号は、アントーノフ軍に決定的打撃を与えた。トゥハチェーフスキィは懲罰活動について次のようにいう。「もっとも悪質な匪賊村で気分を転換させ農民に匪賊を引き渡すようにさせるため、厳しい銃殺に頼らなければならなかった」。[xxiv]
これ以後様々な公式会議で「赤色テロル」の効果が臆面もなく次々と披瀝される。六月二二日の全権特別委会議では次のように報告された。「パレフカ[村]で[銃殺の]判決がきわめて上首尾に適用された(カメンカ村でのように)。八〇人の最初の人質はいかなる情報も提供するのをきっぱりと拒否した。彼らは全員銃殺され、人質の第二陣が取られた。この集団はまったく強制なしに匪賊、武器、匪賊の家族についての情報を提供し、何人かは命令一三〇号による作戦行動に直接参加することも申し出た。
同様な作戦行動を実施するためパレフカから第二区域政治特別委が向かったイノコフカではパレフカでの作戦行動についての噂がすでに伝わり、人質を取る必要もなかった。住民は喜んで特別委を迎えた。一人の老人が息子を連れてこういった。「もう一人の匪賊をどうぞ」。至る所にもっとも強力な転換がある」。多数の村に火が放たれ、蛮行が繰り返される。それでも戦闘区域特別委は七月六日に、謀反人幇助者への極刑の適用について、「ソヴェト権力は、市民が改心し、平和的勤労に戻り、匪賊に対抗することを期待して、今日まで彼らを寛大に扱ってきた。これらの期待は失せ、ソヴェト権力は彼らに今や厳格な措置を適用するのを余儀なくされている」という。
これに応えるかのように、銃殺の範囲がますます拡大する。農民蜂起は基本的にはローカルな利益を擁護する性格を帯びていたので、中央権力の影響力を断つため、電信施設や橋梁の破壊は通常の戦術であった。そのため、七月九日づけで全権特別委は、橋梁破壊について「重要な橋の最寄りにある村落住民から、五人以上の人質を取り、橋が損傷を受けた場合に彼らを直ちに銃殺しなければならない」と命ずる。
キルサノフ郡特別委会議で、駐屯軍に敵意を持つ村で、「四〇人の人質が取られ、村落に戒厳令が布告され、赤軍兵士部隊によって包囲され、強制的に匪賊と武器を引き渡すために二時間の期限を定め、不履行の場合には人質を銃殺するとの命令が出された。全体集会で決定と命令を宣告すると農民は激しく動揺したが、匪賊を捕獲するための支援に積極的に参加する決心がつかず、銃殺に関する命令が執行されることに懐疑的であるのは明白であった。定められた期限が過ぎた後、スホードに出席した農民の目の前で人質の二一人が銃殺された。「五人委員会」の全員、全権、軍事部隊幹部士官などが臨席した公開銃殺は、市民を震え上がらせた。
銃殺の終了後、群衆はざわつき喚声が轟いた。「忌々しいやつらのためにひどい目に遭っている、引き渡せ、誰でもいい」、「もう黙ってはいられない」。群衆から名乗り出た代表が捜索と山狩りによって武器と匪賊の探索を行うのをすべてのスホードに認可するよう要請した。認可が与えられた」というオシノフカ村の例、「五人委員会」は村を「根絶することを決定し、赤軍兵士家族を除き、住民を一人残らず退去させ、彼らの財産を没収し、彼らをほかの村に移動させ、匪賊家族から接収した納屋に閉じ込めた。高価な資材、窓枠、ガラス、フレームなどをきっちり取り外した後で、村に火を放った。火事の間実弾が束ごと燃えさかり、爆弾の破裂に似た大爆発が見られた。
このような措置は地区全体に大きな衝撃を与えた。シャブロフカ、カシルカなどカレエフカに隣接する残りの村落は、移住の準備をはじめ、特赦の請願を持って代表が訪れ、彼らを救うのは匪賊と最後の武器を引き渡すことであると代表に言い渡した」実例などが報告された。
「赤色テロル」の恐怖によって民衆を圧殺したアントーノフ蜂起について、これ以上述べる必要もないであろう。航空機、装甲列車、装甲自動車、毒ガスなどの近代兵器が大量に投入されたが、蜂起鎮圧に「赤色テロル」がもっとも効果的に作用したのは疑いない。
6、強まる飢饉の犠牲
農民反乱だけでなく、二一年のソヴェト=ロシア一面が深刻な飢饉におおわれた。このときの大飢饉についてソヴェト時代の文献では、サマラ県を中心にヴォルガ流域地方の深刻な被害についての言及がもっぱらで、ほかの地方、特に辺境地での大被害は秘匿されてきたが、実際にはこの飢饉はきわめて広範囲におよんだ。
タムボフを含めて多くの諸県ですでに二〇年の収穫に凶作が認められていたが、割当徴発から現物税の移行は事態を改善せず、さらに食糧危機を悪化させた。なぜなら、二一年二月末に中央ロシアで食糧割当徴発は基本的に停止されたが、夏にはじまる現物税による徴収まで食糧調達を待たねばならず、国家に残された食糧備蓄はすでに乏しく、配給は完全に停止した。その緊急措置として三月末に出されたのが農産物の自由取引認可の布告であった。国家供給が不可能なら、民衆に自由に食糧を探させるしかなく、それが担ぎ屋を合法化したこの布告であった。
要するに、民衆は飢饉の中に棄民として投げ出されたのである。これがネップの始まりとされる自由商業認可の実情である。そのうえ、タムボフ県には鎮圧軍を扶養する義務が課せられたが、匪賊に掠奪された農村にすでに食糧はなく、通過する食糧列車の連結を切り離して労働者と軍隊を養い、ボリソグレブスク郡では突撃企業でさえ、労働者への配給は破滅的状況で、労働者の半分は飢えのために病に伏せ、残り半分は働けない有様であった。このような光景がロシア全土で認められた。[xxv]
今年の春は通年よりも早くはじまり、すでに異常な旱魃の予兆が見られた。春先から六月下旬までほとんどの地方で雨が降らなかった。未曾有の旱魃が飢饉の最大の理由であるのは間違いないが、割当徴発による農村の疲弊、農業技術の後進性などが加わり、その被害を、特に辺境地で拡大させた。民衆は春先からはじまる旱魃に無力であり、例えば、タムボフ県テムニコフ郡やオムスク県タラ郡のようにロシア各地で、僧侶を中心に雨乞いの祈祷の行列が認められた。これが効果をもたらすことはなかったにせよ、民衆が教会を最後の拠り所とする光景を、権力者は苦々しい思いで眺めていたであろう。
収穫後も未曾有の旱魃のため事態は改善されなかった。それでも食糧税の徴収は、技術的にいくらかの遅れが見られたが、予定通り八月にはじまり、そこでは旱魃や凶作は考慮されなかった。そのため、飢えた農民は税の供出に頑強に抵抗した。税納付を遅らせようとする兆候が見られる場合に、直ちに軍事部隊と革命裁判所巡回法廷を行使せよとの国防会議政令に基づき、抑圧的措置による徴税はその当初から広く適用された。割当徴発の再現ではあるが、大飢饉の中での徴税はいっそう困難であった。匪賊運動が続く中で徴税キャンペーンを開始したヴォロネジ県では、県チェー・カー部隊と食糧部隊による活動が行われた。
二二年一月にオムスク県では、農民は代用食と屍肉を食べているような飢餓状態で、税の減量を再三訴えたがそれも叶わず、税の遂行まですべての製粉所が閉鎖され封印された。ノヴォニコラエフスク県では税の支払いのために余所から運び込まれた穀物を闇食糧取締部隊が没収した。飢饉の下でこれらの措置は民衆の餓死を意味したが、権力がそれを考慮することはありえなかった。シベリアではコムニストへの非難が次のように公然と語られる。「コルチャーク[白軍を率いた提督]が県チェー・カーに替わっただけで、おまけに、二年目には穀物を支払わせている」。
この悲劇のもっとも象徴的地域がウクライナであった。ロシアのほとんどの県で二一年二月に割当徴発は停止されたが、ウクライナでの穀物調達は継続された。しかしながら、燃料不足で穀物貨物列車は至る所で立ち往生し、マフノー農民運動の主要な攻撃対象となった食糧活動家と食糧機関は失われ、実質的にウクライナでの割当徴発も停止した。そして三月末に自由取引の認可に関するロシア政府の布告が公表されるや、担ぎ屋の群れや労働者組織が堰を切ったようにウクライナを含む穀物生産地方に溢れた。
四月には「最近ウクライナの運輸を根本から解体し、未曾有の大量の担ぎ屋が溢れている」、「緊急措置が執られないなら、担ぎ屋の波は、ウクライナの主要な穀物諸県での調達活動を最終的に崩壊させる」など、ウクライナ共産党中央委から再三このような非組織的担ぎ屋行為を停止させるようにとの要請が出されたが、抑えようもないロシアからの飢餓民の波によってウクライナにある余剰はすっかり汲み出された。[xxvi]
これに追い打ちをかけたのが、ウクライナの特にステップ諸県に忍び寄る異常気象であった。二〇年の夏は早霜で、冬は積雪が少なく突風が雪と大地とともに秋蒔き穀物を根こそぎにし、二一年の凶作を予想させるのに充分であった。春が訪れても降水量は異常に少なく、四月末から二ヶ月以上も一滴の雨も降らなかった。それに猛暑が続いた。すべての穀物は干上がり、通常の丈にまで成長せず、多くの場所で春蒔き穀物から実も藁も収穫できなかった。ウクライナ全体で戦前には一八プードを悠に超えていた一人当たりの食糧用穀物量は、飢饉地区では五プードに満たなかった。
未曾有の大凶作の下でも、ボリシェヴィキ権力は農民からの現物税の徴収に躊躇しなかったが、そこでの徴収は二重の負担を農民に強いることになる。第一に、もちろん、飢餓民から最後の食糧源を奪うことはいうまでもないが、それだけではない。第二に、このときの現物税はほとんど根拠のない収穫予想に基づいたために、実際よりはるかに高い税率が設定されたことである。戦前のウクライナの穀物総収穫は一一億二五〇〇万プードであり、二一年の収穫を政府は七億五〇〇〇万プードと見積もったが、実際には四億五〇〇〇万プードしかなかった。後に飢餓県と認定されるステップ五県は、戦前の平均収量四億プードに対し八二〇〇万プードの収穫しかなかった。こうして設定された現物税はきわめて重い負担としてウクライナ農民にのしかかった。ロシア農村でも同様である。大凶作は自然災害であったとしても、大飢饉は人為的である。[xxvii]
二一年夏からウクライナでの飢饉は顕著になった。飢餓は村落内で急速に広まり、荒廃した農村には何も残されず、猫や犬、それに油粕やトウモロコシの芯などの代用食が通常の食事となった。粘土や雑草も食べた。これら食糧がなくなったとき、飢饉の最終局面が訪れる。人々は農家の屋根に葺かれた藁、長靴、馬具の革を食べはじめる。彼らが耐えている非人間的苦痛は彼らを非人間的にし、そのように野獣になった人々は屍肉を食用にし、カニバリズムに至る。民衆の悲劇は常に至る所で同じ光景で幕が閉じられる。
飢饉はボリシェヴィキによる人為的=政策的段階から、次いで犯罪的段階へと移る。二一年八月に飢餓民援助のためにロシア政府と非政府団体であるアメリカ援助局(ARA)との間で行われたリガ交渉で、そこは相対的に豊作であるとの理由で、ウクライナは援助対象地域に含まれなかった。飢饉にあえぐキルギス共和国のうちアクモリンスクとセミパラチンスク県は、中央ロシアのための調達対象県になったために飢餓地区に認定されなかったように、ウクライナもそこがシベリアとならんで主要な穀物調達地域に設定されたため、そこでの飢饉は秘匿された。
シベリアではコルチャーク軍が崩壊した後も、ボリシェヴィキ権力によるいっそう暴力的穀物徴収が続き、その全域が二〇年一二月四日まで戒厳令下に置かれた。これはシベリアの飢饉の大きな要因になり、それにもかかわらず現物税は厳しく徴収され、農民の抵抗に対して「赤色テロル」が頻繁に行使された。これについては、アルタイ県ルブツォフスク郡についての二一年一二月末に関する県チェー・カーの極秘報告を引くだけで充分であろう。「トポリノエ村で食糧部隊員によって農民三人がナガン銃で殴られ、アクテフスカヤ郷で食糧活動家により数人の農民が殴打され、同郷で食糧コミッサール代理と食糧活動家により農民が鞭打たれ、ギレフスカヤ郷で食糧活動家により何人かの農民が下着だけで寒い納屋に閉じ込められ、ロクテフスカヤ郷で食糧活動家により不払い農民が逮捕され、灼熱の部屋に閉じ込められ、何人かは意識不明のままそこから担ぎ出された」。これはいわゆるネップ体制下での話である。
ARA代表は二一年一一月二三日づけ書簡で、ウクライナの飢饉を調査しようとのARAの提案に対し、ロシア側はウクライナには飢饉は存在しないとの理由でそれを拒否した事実を挙げ、ロシア政府の対応を非難した。ウクライナのステップ諸県(ウクライナ南部)、ザポロジエ、ドネツ、ニコラエフ、オデッサ、エカチェリノスラフ県が飢餓地区に認定されたのは、現物税徴収キャンペーンが基本的に終了した二二年一月一日のことであった。二二年八月に出されたARA報告書はニコラエフ県の飢饉の惨状に触れ、「ニコラエフ地区で飢饉を引き起こした原因を以下にまとめることができる。二一年の凶作、前年までの収穫からの備蓄の欠如、ニコラエフ地区自体が飢饉であると判明するまでヴォルガ流域に引き渡すため割当徴発が実施されたことであり、中央ウクライナ政府は二二年一月一日までニコラエフ地区を飢饉地区に認定しなかった」事実に言及した。
飢餓民援助の遅れはウクライナでの飢饉の被害をきわめて甚大にした。ソヴェト政府の飢饉に関する公式資料集によれば、二二年五月にザポロジエ県で飢餓民は七五%に達した。「ヘルソン[飢饉地区に認定されていない]では七万人の人口のうち三万人しか残らず、後は死につつあるか四散した。ときには村全体が死滅した」。大飢饉であることを知りながらも現物税を取り立て、飢餓民援助を拒絶し続けた国家的犯罪の結果がこれであった。[xxviii]
ボリシェヴィキ権力による中央ロシアでの飢餓民の救済もきわめて緩慢であった。六月二六日づけ党中央委機関紙『プラヴダ』は巻頭論文で、歴史的飢饉の一八九一年を超える二五〇〇万人の飢餓民援助の組織化を訴えたものの、七月一八日づけ全ロシア中央執行委幹部会令により「飢餓民援助特別委(ポムゴル中央特別委)」を設置する以外、具体的援助活動はまったくなされなかった。ポムゴルの活動資金と援助フォンドは国家援助と地方の原資で賄うとされたが、実際には民衆からの寄付(自発的または強制的)、賃金からの天引き、罰金の徴収などからの拠出に頼るしかなかった。
このような危機的状況下で、総主教チーホンを先頭にロシア正教会はこの活動に迅速に対応した。通説では七月一二日にマクシム・ゴーリキーが飢饉援助を訴え、これを受けて合衆国商務長官フーヴァーが七月二三日づけ電報でARAがロシアを支援する用意があると声明し、本格的飢餓民援助活動がはじまったとされる(この実現のためのリガ協定は難航し八月二〇日にようやく調印された)。
だが実際には、チーホンはゴーリキーの声明より一日早い七月一一日にロシアの信徒と世界の人民に飢えたロシアの支援を訴えていた。彼はまた八月五、一七日の当局への書簡で、教会は飢餓民を自発的に援助し寄付集めを組織する用意があること、組織的寄付集めと配分のために教会委員会が設置されたことを声明し、教会による飢餓民救済事業の認可を求めた。八月一七日のポムゴル中央特別委幹部会は「それらの活動を有益と認める」と決議したが、これはチーホンに通知されなかった。
レーニン、トロツキーらは教会の救済活動への関与にかたくなに反対したため、チーホンの言葉によれば、「八月一五日からわれわれに暗黙裡に認められた寄付集め」が行われたが、いくつかの地方では寄付集めの罪を主教が問われ、逮捕されるような厳しい状況下にあった。一般の寄付が途絶えはじめた冬に、一二月八日の党中央委政治局会議は、飢餓民援助に参加する旨の宗教団体からの請願を認めるが、このことは公表しないことを決議した。だが、それには厳しい条件がつけられ、あまりにも遅く出された認可であった。[xxix]
飢餓民用の穀物を外国で買い付けるための貴金属などの徴収は、教会から貴重品を強制収用する際の口実となったように、特に重要な意味を持っていた。そのため、モスクワ組織のようないくつかの前衛的コムニストは、飢餓民援助の先頭に立ってすべての金装飾品と貴金属を強制的に拠出することを決議した。このような動きに対する党中央委の反応は驚くようなものであった。
九月一二日の中央委組織局会議はすべての県委への以下の機密回状を採択した。「個々の委員会によって提起された、党員による金、貴金属の強制的引渡しに関する決議を中央委は不適切な方法と見る。そのような決議は、党細胞に組織解体の要素を持ち込み、不充分にしか鍛え上げられず、不屈でもなく訓練を受けていない同志に、自分の持つ貴重品(婚約指輪、家族の記念品など)を隠匿するために(通常はきわめてわずかな量)様々な口実を作り出させている」ことを理由に挙げ、このようなキャンペーンを破棄するよう命じたのである。
ソーリツの編纂になる原案では、「金装飾品と貴金属の強制的引渡しに関する一般的決議を出すのは余計なことであり、コムニストが金装飾品と貴金属を保管しているという望ましからざる印象が作り出される」との理由づけがなされた。こうして、多くの民衆が塗炭の苦しみで呻いているそのさなかに、コムニストの財産は守られたのである。そもそも、二〇年二月三日づけ決議により、「インゴットの金、プラチナ、銀とそれらの製品、宝石貴石、真珠からなる全貴重品」を全ソヴェト施設と公務員は国家保管所に引き渡すことが義務づけられている以上、これら貴金属を持つこと自体が違法行為であった。ボリシェヴィキ幹部の厚顔さにはあきれるしかない。[xxx]
実質的な飢饉援助を、ボリシェヴィキの仇敵である帝国主義列強と教会に依存するしかなかったことが、飢餓民の援助を悲劇的結末に導く大きな要因となった。
二一年八月二五日の党中央委政治局会議でリガ協定によって到来する外国人を監視する特別委がレーニンの提案により設置され、一二月三一日の政治局会議でARA機関の監視がさらに強化され、中央でも地方でも権力の疑惑と妨碍という困難な状況の下で、二二年から本格化するロシアの飢餓民救済活動は、ARAを筆頭にもっぱら外国援助組織によって精力的に実施された。
例えば、二二年五月にバシキリア共和国でポムゴルは飢餓民の一四%を、ARAは二四%を扶養していた。このような救済活動が続く中で、二二年九月に全ロシア中央執行委議長カリーニンは、収穫の後「飢饉は収束した」ことを宣言し、ポムゴル中央特別委は解散され、新たに「飢饉後遺症との闘争委員会(ポスレドゴル)」が設置され、罹災した経営の復興などがそのおもな任務に掲げられた。
だが、多くの地方で二二年収穫後も飢饉は克服されず、キルギス共和国では二二年の播種面積は二〇年の半分しかなく、サマラ県では二二年の収量は一人当たり九プードを超えなかった。ヴォチャーク州から、二二年の収穫は農村住民一人当たり九プード以下で、「現状から住民は自力で抜け出すことができない」と訴えているように、餓死者をともなう飢饉は依然として各地で認められていた。[xxxi]
あまりにも早い飢饉の終息宣言により外国による援助活動は二三年夏に停止したが、その背後には教会弾圧の動きが隠されていた。十月政変直後から、「赤色テロル」の主要な対象は反革命運動とならんでロシア正教会であった。一八年夏から聖職者に対するボリシェヴィキの本格的テロルがはじまり、殉教者の数は急増した。聖職者と信徒は人質として銃殺されただけでなく、権力により「反革命勢力」として分類された。
一連の十字架行進がトゥーラ、ハリコフ、タムボフ県シャツクで銃撃を受けた。一八年七月三〇日布告により、教会の鐘を鳴らすこと自体が革命裁判所の判決により処罰された。ヴェー・チェー・カーの不完全な資料によれば、一八年に司祭八二七人、一九年には一九人が銃殺され、六九人が投獄された。実際の数字ははるかに多い。一万一〇〇〇人が弾圧を受け、そのうち九〇〇〇人が銃殺されたといわれている。チーホン自身もソヴェト権力の転覆を幇助した廉でチェー・カーの尋問を受け、自宅軟禁状態が続いた。[xxxii]
教会に救済活動を認可する一方で、この間に教会弾圧の態勢は秘密裡に進行していた。この策動がいつはじまったのかを正確に特定するのは難しいが、その中心人物がトロツキーとレーニンであること、二二年二月一六日づけの、教会資産から金銀宝石のあらゆる貴重品を収用し、それを飢餓民援助のために財務人民委員部に引き渡すことを命じた中央執行委布告よりはるか先立つことは確実である。
トロツキーは、教会からの資産の没収を急ぐこと、この遅延は犯罪的であるとした二二年一月一二日づけのレーニンへの極秘書簡に続き、一月三〇日づけのレーニン宛ての極秘書簡で、ゲー・ペー・ウー報告書によれば現在使われていない修道院から金銀が押収されているが、現在機能している教会からの収用は特に重要な任務であるとの自説を展開した。この措置はタタール共和国で先行し、すでに一月二四日づけ同共和国ゲー・ペー・ウー議長の極秘草案では、飢餓民援助の基金を形成するため「赤色商人」からの営業税の徴収や罰金の強化とならんで教会資産を没収する方針が確認されていた。
ここで特徴的なことは、教会貴金属の収用を通しての教会弾圧政策は、形式的には当時の最高決定機関である党中央委政治局会議で決議されたが、実質的には党指導者間の極秘文書のやりとりの中で方針が先決されていたことである。二二年以降になると決議や議事録に機密、厳秘、極秘の文字が頻繁に現れるようになる。超秘密の文書までも存在する。これだけでも、きわめて異常な現象であるが、さらに、後で触れる三月一九日づけレーニンの厳秘書簡では、教会弾圧政策の立役者はトロツキーであったが、彼を表舞台に登場させず、カリーニンだけを矢面に立たすよう指示が与えられた。民衆からはもちろん、党員大衆からも秘匿された、秘密と嘘で塗り固められた醜悪な政治体制がここに成立する。[xxxiii]
教会祭礼に直接関わる貴金属の収用に危機感を抱いたチーホンは、二月二八日づけで次のように訴えた。「われわれによって飢餓民救済全ロシア教会委員会が創設され、すべての寺院と残りの信徒グループの間で飢餓民救済に予定された金銭の徴収がはじまった。だがかような教会組織はソヴェト政府によって余計なものと見なされ、教会によって徴収されたすべての金は政府委員会への引渡しを要求された(そして引き渡された)。
[・・・・・・・]飢饉で死に絶えつつあるヴォルガ流域住民にできる限り援助しようと願い、われわれは礼拝に必要のない値打ちのある教会の装飾品と物品を飢餓民のために犠牲にするのを教会教区会議と集会に認めさせることができると考え、このことを今年二月一九日に特別アピールとして教徒住民に通知した」と、これまでの教会の活動を総括した後、チーホンは、それでも実施されようとしている、「教会の精神的指導者に対する政府新聞での激しい攻撃に続く、聖なる什器、その他の礼拝用教会物品を含むあらゆる貴重品の寺院からの収用」は、「神聖冒瀆の行為」であるとして厳しく論難した。[xxxiv]
このときからボリシェヴィキ権力と教会との対立は決定的となった。飢餓民援助がボリシェヴィキにとって絶好の機会を与えたというのは、単に飢餓民救済基金が教会資産を没収する際の表向きの理由となっただけではない。飢饉が頂点を迎えようとする二二年春になると、農村一帯は「赤色テロル」に蹂躙されただけでなく、飢饉によっても民衆は心身ともにまったく疲労困憊し、彼らには教会弾圧に抵抗する力は残されていなかった。このため、教会資産の没収過程で個々の抵抗は認められるとしても、これを原因とする大規模な民衆の直接行動は発生しなかった。まさにレーニンとトロツキーは絶好のタイミングをはかったといえる。
特定の地方を選抜して、没収すべき教会財産目録作りの作業が三月にはじまったが、このキャンペーンは、中央委書記モーロトフの言葉によれば、「あまりにもわずかで、遅々として進まず」、聖職者が政治的に勝利するおそれがあった。各地から民衆の頑強な抵抗を示すゲー・ペー・ウー極秘報告が送られた。「タムボフ県(三月八日)。農民の気分は教会資産の収用に関する布告のために思わしくない。エラチマ郡のある村で教会資産の登録に関する特別委は、農民によって放逐された。別の村では農民は聖職者と一緒に、教会資産収用に関する特別委議長を殺害することを決議した」。
「カルーガ県(三月九日)。教会資産の収用に関する特別委は至る所で活動に着手した。聖職者は反革命的情宣を行っている。タルサ郡の郷の一つで農民の公然とした直接行動があり、部隊が派遣された」。もちろん、これに抵抗したのは農民だけではない。オデッサでは労働者だけでなく共産主義青年同盟員の間でも、これに対する憤激の声が挙がった。ペトログラードでは教会貴重品収用に関する特別委は、集まった信徒大衆によってカザン寺院から放逐された(三月一四日)。[xxxv]
このような状況下で、三月一五日にイヴァノヴォ=ヴォズネセンスク県シュヤ市で一つの事件が発生した。同日現地の県チェー・カーが、「シュヤ市で民衆の群れは教会貴重品徴収郡特別委に作業をさせず、特別委員に暴力を振るおうとする試みがあった。衝突は収まり、特別委は近日作業に取りかかるであろう」と通知したように、事件そのものはことさら深刻なものではなかった。だがレーニンの政治的判断は異なっていた。
レーニンは三月一九日づけ中央委書記モーロトフへの厳秘書簡で党中央委政治局員に次のような指示を与えた。翌二〇日の政治局会議にレーニンは出席できないため、そこで政治局員に指針を示したのがこの文書であり、コピーを取らずに全員に回覧して、賛成か反対かをメモ書きして戻すように、との指示が末尾につけられた。異常な手続きであった。
「[・・・・・・・]黒百人組的聖職者の影響力のあるグループの秘密会議でこの計画が案出され、まったく着実に採択されたのは明白である。シュヤでの事件はこの全体計画の発露と適用の一つでしかない。
[・・・・・・・]まさに現在、飢饉地域で人が食べられ、通りで何千でないとしても何百の屍体が横たわっている現在だからこそ、犯罪的抵抗を弾圧するのをためらうことなく、もっとも苛烈で容赦のないエネルギーでわれわれは教会貴重品の収用を行うことができる(そのため、そうしなければならない)。[・・・・・・・]
われわれは是非とももっとも断固としてもっとも速やかに教会貴金属の収用を行う必要があり、それによりわれわれは数億金ルーブリのフォンドを確保することができる(いくつかの修道院と大修道院の巨万の富を想起する必要がある)。このフォンドなしに、一般にいかなる国家活動、いかなる経済建設、特に、ジェノア[会議]でのいかなる立場の堅持もまったく考えられない。[・・・・・・・]」。
内容でも異常なこの書簡は党内情勢を一変させた。それまで党中央委員にあった待機的気分は一掃され、このときから、教会貴重品徴収のキャンペーンは教会と民衆信徒への弾圧キャンペーンに変わり、ゲー・ペー・ウーが主導する弾圧措置を駆使して、教会弾圧の中心的人物であったトロツキーの方針が次々と具体化された(おもに書簡で指示して)。
レーニンはこの厳秘書簡の中で飢餓民対策にまったく触れなかったのは、この一連の事件を理解するために非常に示唆的である。まさに飢饉の絶頂期に民衆が苦しみあえいでいるときに、レーニンはそれを教会弾圧の好機と捉え、民衆から最後の拠り所を奪ったのである。スモレンスク県で行われた教会貴重品の徴収活動は、民衆の抵抗により再三中断され、圧倒的軍事力を動員して大勢の抵抗を排除しようやく目的を達成し、その際一〇〇人以上が逮捕された。この事件に激怒したトロツキーは、事態収拾後にトゥハチェーフスキィを長とする懲罰軍を新たに派遣し、この事件がポーランド国境付近で発生したことに憂慮し、逮捕者は西部戦線革命軍事法廷で審理を行うよう指示を与えた。[xxxvi]
このキャンペーンで徴収された貴重品が飢餓民救済に向けられたならば、そこでの犠牲者はまだ救われたかもしれない。正確な数字を挙げることはできないが、ここで集められた資金は、レーニンが書簡で触れたように、ネップ体制下での経済建設に利用され、このとき貴金属により保証された新通貨が発行されたのは偶然ではない。ARA広報責任者は二二年五月の覚書で、カニバリズムがありながら、「教会から一億ドル近くと推定される貴金属と貴石を集めたにもかかわらず、外国からの穀物のためにこの宝飾を交換する」ことはなかったと、ボリシェヴィキ政権の飢饉対策を断罪した。[xxxvii]まさにネップは民衆の墓標の上に構築された徒花であった。
血まみれの「赤色テロル」はスターリンの独創ではなく、まさにボリシェヴィキが権力を握ったそのときから、その支配の論理と実践を貫く「赤い糸」としてソヴェト=ロシア社会を支配し、ボリシェヴィキ政治支配の要諦となった。
十月政変によって権力の中枢に据えられたのは、ソヴェトの最高決定機関である全ロシア・ソヴェト中央執行委と政府機関の人民委員会議であった。まもなく、このときの共産党と左翼エスエルとの連立が崩壊し、共産党独裁がはじまるにつれ、次第に党中央委、特にその中でも政治局が実質的に最高政治決定機関として登場しはじめる。二一年のクロンシタット反乱、アントーノフ蜂起、飢饉などの一連の危機的状況の中で、党中央委政治局の権威は不動のものとなった。この過程は、これらの一連の危機への対応にチェー・カーが重要な役割をはたすようになった時期と奇妙に一致している。
しかし、事態はさらに進展する。すでに触れたように、二二年に本格的に開始される教会弾圧の過程で、以下の現象が現れるようになる。第一に、党エリートの機密文書と秘密特別委(どこで誰によって設置されたのかが分からないような)の決定が政治局決議の指針を先決するようになり、第二に、全ロシア・ソヴェト中央執行委はその本来の機能を完全に喪失し、上記の決定の傀儡になってしまい、第三に、ゲー・ペー・ウーが政策実施機関に組み込まれたことである。いわゆるネップ初期にソヴェト体制の政治構造は完全に様変わりしてしまった。これはレーニン支配の晩年の出来事であり、レーニン体制の総仕上げであった。
メリグーノフの記述で特徴的なのは、われわれがソヴェト=ロシア史で常識となっている戦時共産主義からネップへといった時代区分にまったく触れずに、むしろ連続した現象として「赤色テロル」が語られていることである。二一年には翌年に頂点を極める飢饉があり、二二年には教会への弾圧がその年いっぱいにかけて敢行される。割当徴発量のほぼ半分になった現物税は農民の負担を軽減したといわれる。しかし、人質や銃殺といった「赤色テロル」を駆使しても、割当徴発の遂行率は半分に満たなかった。
こうして実際の割当徴発による達成量が現物税として農民に課せられただけでなく、未曾有の飢饉の中でもそれは大きく減量されることなく、二一年秋の徴収キャンペーンでは軍事組織や革命裁判所などのあらゆる弾圧装置が動員され、隠匿耕地が徹底的に摘発された。穀物一粒ごとに農民の涙と血がにじみ出たことであろう。まさに「奔流となって流れる」無辜の民衆の血の中でネップが生まれようとしている。
8、〔注〕−37項目
[i] Красная книга ВЧК.Т.2.М.,1989.с. 34,53,292.本書は本文で言及されているチェー・カーの活動概要報告書の復刻版である。
[ii] В.И.Ленин и ВЧК: Сборник документов (1917-1922 гг.).М.,1975.с.13-14,24,26-28, 33-38,112-113;
Litvin A.L. The Cheka.Critical companion
to the Russian Revolution. Arnordo,1997,p.318.
[iii] Переписка Секретариата ЦК РКП(б) с местными партийными организациями: Сборник документов.М.,1971.Т.6.с.61-62; В.И.Ленин и ВЧК.с.543-553.
[iv] Продовольственное дело. Орган Мос.прод.комитета.1918.2.с.19.
[v] Государственный Архив Российской Федерации.Ф.130,Оп.2,Д.265,Л.8.[以下 ГАРФ ]初期ソヴェト体制については、梶川伸一『飢餓の革命』、名古屋大学出版会、一九九七年、同『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』、ミネルヴァ書房、一九九八年、を参照。
[vi] Ленин В.И. Полн.собр.соч.Т.50.с. 442,143-145,156,160.
[vii] В.И.Ленин Неизвестные документы:1891-1922.М.,1999.с.246.
[viii] Российский Государственный Архив Социально-Политической Истории. Ф.17,Оп.5,Д.17,Л.1,138; Д.22,Л.33[以下РГАСПИ]; ГАРФ. Ф.393,Оп.4,Д.31, Л.36-37, 70 ; Изв. Наркомпрода.1918.20/21.с.59; Центральный Архив Федеральной службы безопасности Российской Федерации. Ф.1,Оп.4,Д.160,Л.10. [以下ЦА ФСБ]; Правда. 1918.25 сент.
[ix] Российский Государственный Архив Экономики. Ф.1943,Оп.1,Д.745, Л. 82,103. [以下РГАЭ]
[x] ГАРФ.Ф.130,Оп.4,Д.604, Л.42; Д.586а, Л. 17; Д.602, Л.603.
[xi] Беднота.1921.17 фев.; ГАРФ. Ф.1235,Оп.56,Д.9, Л.218; Ф.130,Оп.4,Д.601, Л.60; Оп.3,Д.507, Л.14,16, 29,37.
[xii] 共産主義幻想とネップの導入に関しては、梶川伸一『幻想の革命』、京都大学学術出版会、二〇〇四年、参照。
[xiii] РГАСПИ. Ф.17,Оп.65,Д.453,Л.17-18об; ГАРФ. Ф.5556,Оп.1,Д.37, Л. 42; ЦА ФСБ.Ф.1,Оп.4,Д.123,Л.50об. ; Архив ВЧК: Сборник документов.М.,2007.с.400.
[xiv] 奥田央編著『二〇世紀ロシア農民史』、社会評論社、二〇〇六年、二七ページ; Кондрашин В.В. Крестьянское движение в Поволжье в 1918-1922 гг.М.,2001.с.71.
[xv] РГАСПИ. Ф.17,Оп.84,Д.176,Л.100; Осипова Т.А. Крестьянский фронт в гражданской войне //Судьбы Российского крестьянства.М.,1996.с.146; РГАЭ. Ф.1943, Оп.7,Д.918, Л.187; Оп.3,Д.246, Л.2; Оп.65,Д.370, Л.96; Ф.478,Оп.1,Д.330, Л.32.
[xvi] « Антоновщина » крестьянское восстание в Тамбовской губернии в 1920-1921 гг. Тамбов,2007.133,143; ГАРФ.Ф.130,Оп.4,Д.608, Л.1; РГАСПИ. Ф.4,Оп.1,Д.1256,Л.2-3; 梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』、五九三−九五ページ。
[xvii] « Антоновщина »,2007.с.13.
[xviii] 以下の叙述は特に断りがなければ、Самошкин В.В. Антоновское восстание.М., 2005, Крестьянское восстание в Тамбовской Губернии в 1919-1921 гг.: « Антоновщина ».Тамбов,1994、« Антоновщина »,2007、梶川伸一『ボリシェヴィキ権力と民衆』に拠る。ただし、煩雑さを考えページ数は省略。
[xix] Самошкин В.В. Указ.соч,с.48; Ленин В.И. Полн.собр.соч.Т.51.с. 310.
[xx] Архив ВЧК.с.145; РГАСПИ. Ф.17,Оп.112,Д.108, Л.2-3; Оп.2,Д.55, Л.4; Оп.3,Д.128, Л.1.
[xxi] Антоновщина : Стати, воспоминания и другие материалы к истории эсеро-бандитизма в Тамбовской губ.Тамбов,1923.с.93-94; The Trotsy Papers 1917-1922.v.2,Mouton,1971,p.528-30.
[xxii] 梶川伸一『幻想の革命』、一四七-四八ページ; Кронштадт 1921.М.,1997.с.8-14; Правда о Кронштадте.Прага,1921.с.5-31; РГАСПИ. Ф.17,Оп.84,Д.228,Л.43.
[xxiii] РГАСПИ. Ф.17,Оп.3,Д.155,Л.2-3.
[xxiv] Осипова Т.А. Указ.соч.с.150.
[xxv] РГАЭ. Ф.1943,Оп.7,Д.2334, Л.177,226.以下の記述は特に断りがなければ、梶川伸一『幻想の革命』に拠る。
[xxvi] РГАСПИ. Ф.17,Оп.13,Д.1007,Л.119; Д.668, Л.70; РГАЭ. Ф.1943,Оп.6,Д.577, Л.11; ЦА ФСБ. Ф.1,Оп.6,Д.523,Л.168; РГАСПИ. Ф.17,Оп.65,Д.640,Л.183-185.
[xxvii] Hoover Institution Archives.
American Relief Administration. Russian Unit.6-6,133-6.[以下HIA]
[xxviii] ЦА ФСБ. Ф.1,Оп.6,Д.523,Л.220; HIA. 18-6,146-8; Итоги борьбы с голодом в 1921-22 гг. : Сборник статей и отчетов. М.,1922.с.255.
[xxix] Изьятие церковных ценностей в Москве в 1922 году: Сборник документов из фонда Реввоенсовета Республики.М.,2006.с.135,137-139,142; ГАРФ.Ф.1065, Оп.1, Д.16, Л.41,42-43; РГАСПИ. Ф.17,Оп.3,Д.242,Л.5; Одинцов М.И. Русские патриархи XX века. М.,1999. с.61.
[xxx] Бюллетень ЦК помгол. 1921.1.с.12,17; РГАСПИ.Ф.17,Оп.112,Д.209,Л.2,46, 46об.; Декреты Советской Власти.Т.7.с.193-194.
[xxxi] РГАСПИ. Ф.17,Оп.3,Д.194,Л.1; Оп.12,Д.263,Л.70; Усманов Н.В. Деятельность Американской администрации помощи в Башкирии во время голода 1921-1923 гг.Бирск,2004.с.54; Итоги борьбы с голодом. с.425-428; После голода.1922.1.с.73,84; 2.с.125.
[xxxii] Следственное дело патриарха Тихона. М., 2000. с.15-17.
[xxxiii] Итоги борьбы с голодом. с.418-419; The Trotsy Papers 1917-1922.v.2,p.670-672; РГАСПИ. Ф.5,Оп.2,Д.48,Л.3-3об.; В.И.Ленин Неизвестные документы.с.517-518.
[xxxiv] Следственное дело патриарха Тихона. с.114-115.
[xxxv] РГАСПИ. Ф.5,Оп.2,Д.48,Л.77; Советская деревня глазами ВЧК-ОГПУ-НКВД
1918-1939.Т.1.М.,1998.с.582-587.
[xxxvi] Там же.с.587-588; В.И.Ленин Неизвестные документы.с.516-523; ГАРФ.Ф.1235,Оп.140,Д.60, Л.721.
[xxxvii] HIA. 94-10.
4、訳者紹介
梶川伸一 1949年金沢市生まれ。文学博士。
京都大学大学院博士後期課程(現代史)満期終了、現在、金沢大学・教授
おもな仕事 著書 『飢餓の革命:ロシア十月革命と農民』、名古屋大学出版会、1997年
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民:戦時共産主義下の農村』、ミネルヴァ書房、1998年
『幻想の革命:十月革命からネップへ』、京都大学学術出版会、2004年
論文 「共産主義「幻想」と1921年危機」(奥田央編『20世紀ロシア農民史』、社会評論社、2006年、所収)
Голод
и большевистская власть. - В кн. : Государственная
власть и крестьянство в конце Ⅺ]- начале ]Ⅺ века. Коломна, 2009.など
5、梶川伸一著書・論文の転載ファイル7編リンク
『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、1918年貧農委員会
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター
『十月革命の問題点』2006年4月16日講演会レジュメ全文
『レーニン体制の評価について』1921年〜1922年飢饉から見えるもの
『共産主義「幻想」と1921年危機』現物税の理念と現実
以上 健一MENUに戻る
〔関連ファイル〕
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構』
スタインベルグ『ボリシェヴィキのテロルとジェルジンスキー』
ヴォルコゴーノフ『テロルという名のギロチン』『レーニンの秘密・上』の抜粋
191918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成
『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜1922年』ファイル多数