「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証
「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証
第10部、新しい二重権力への移行・対立と別次元クーデター連続説
(宮地作成)
〔目次〕
2、レーニンが11月7日にしたことの性格規定の大転換、革命→クーデター
3、大転換し定説になった内容=どの権力にたいするクーデターだったのか
4、ロシア革命とソヴィエト革命という言い方における微妙な違い
5、二重権力の両者にたいする一党独裁狙いの権力奪取・簒奪クーデター
6、二重権力解消から、新しい二重権力への移行・対立という歴史認識の是非
8、革命定説→十月クーデター定説への大転換→7連続クーデター仮説
1、「十月革命」定説の74年間−1917年〜1991年
2、「十月クーデター」定説への大転換−1991年以降
3、別次元の「7連続クーデター」仮説−2006年〜2007年提起
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』
1、党独裁クーデター政府による7連続クーデターという仮説
この第10部は、「レーニンによる7連続クーデター」という私の仮説を自己検証する。仮説というのは、ソ連崩壊後、「十月クーデター」説を発表した研究者たちは、誰も「その後も続く連続クーデター」と言っていないからである。1922年までの諸事件を分析するときも、「クーデター政府、または、クーデター権力」という言い方をしていない。
(1)、1991年ソ連崩壊前まで、レーニンが11月7日に起こした事件は、一貫して「十月革命」と呼ばれてきた。
→(2)、ソ連崩壊後、それは「レーニン・トロツキーらによる十月クーデター」という規定に大転換した。その歴史認識は、21世紀のソ連・ロシア研究者たちにおいて、ほぼ定説になったと言える。
→(3)、私は、そこから一段と進めて、「レーニンによるソヴィエト権力簒奪の7連続クーデター」という仮説を立てた。それは、レーニンらが、「十月クーデター」と異なる性質のソヴィエト権力簒奪クーデターを連続して行ったという意味である。
「1回だけの十月クーデター」という規定の仕方と、「7連続クーデター」という言い方は、かなりか、または、根本的に異なる。そこには、クーデター対象の不明確さ、どの権力を簒奪するクーデターだったのかというテーマがある。クーデターの概念については、『第1部』に載せたが、簡潔な再確認をする。
インターネット検索では、クーデターについて、下記3つの説明がある。
(1)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クーデター(仏語 Coup d'État,
西語 golpe, 独語 Putsch)は権力者内部の少数のグループが武力による迅速な襲撃で政府の実権を握る行為。より大きなグループによる反乱や政治的意図から体制を変革する革命とは異なる。ただし、必ずしも排他的な概念ではなく、革命的意図を持ったクーデターもある。クーデターはフランス語で「国家への不意打ち」の意味がある。
フリー百科事典『クーデター』クーデターの歴史・クーデター事件の諸データ
(2)、三省堂提供「大辞林第二版」 goo辞書
クーデター[(フランス) coup d'État] 既存の政治体制を構成する一部の勢力が、権力の全面的掌握または権力の拡大のために、非合法的に武力を行使すること。国家権力が一つの階級から他の階級に移行する革命とは区別される。
(3)、広辞苑
クーデター 急激な非合法的手段に訴えて政権を奪うこと。通常は支配層内部の政権移動をいい、革命と区別する。
革命 従来の被支配階級が支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激に変革すること。
ここで、重要なことは、(1)権力者内部の少数グループ、(2)既存の政治体制を構成する一部の勢力、(3)支配層内部の政権移動という概念において、クーデター直前の二重権力実態とその性格をどう認識するかである。さらに、レーニン・ボリシェヴィキによるクーデターは、別の新しい二重権力を発生させたかどうかの規定である。
「十月クーデター」直前までの二重権力とは、ケレンスキー臨時政府権力とソヴィエト権力である。私の仮説・別の新しい二重権力の発生とは、レーニンらのクーデター政府権力と、ボリシェヴィキ以外のソヴィエト権力という二重権力性とその対立を指す。
2、レーニンが11月7日にしたことの性格規定の大転換、革命→クーデター
『第1部』でも書いたが、研究者たちの説を再確認する。これらを3つに分けた。リンクをした論文は、別ファイルに関連箇所の抜粋を載せた。
1、ソ連崩壊前−他党派、アメリカ人ジャーナリスト、E・H・カー
(1)、メンシェヴィキ、エスエルは、1917年10月25日時点で、「レーニンによるクーデター」「ボリシェヴィキのクーデター」と批判していた。レーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」と主張する裏側で、正規の第2回ソヴィエト大会を待たず、その前日の単独武装蜂起により単独権力奪取をした。第2回大会退場他党派の批判言動は、あらゆる文献が一致している。
(2)、ハリソン・E・ソールズベリー『黒い夜白い雪−ロシア革命1905〜1917・下』(時事通信社、1983年、絶版、原著1978年)−「クーデター始まる」(P.202〜244)。彼は、10月24・25日の事件の性格を、クーデターと明確に規定している。
(3)、E・H・カー『ロシア革命』(岩波現代文庫、2000年、原著1979年)−「工場労働者を主力とした赤衛隊が市の中心部を占拠し、冬宮へと進軍した。それは無血のクーであった。臨時政府は、無抵抗のうちに崩壊した」(P.8)と表現。クー=coupとはクーデター(coup d'État)と同一の意味である。
2、ソ連崩壊後の日本人研究者3人
(1)、加藤哲郎一橋大学教授『ソ連崩壊と社会主義』(花伝社、1992年)−「クーデターとしての十月革命」(P.64〜66)。
(2)、中野徹三札幌学院大学教授『社会主義像の転回』(三一書房、1995年)−「一〇月革命が、レーニンらの誤算と過信から生じた(悲劇に導くという意味で)悲劇的なクーデターであった」(P.14)。
(3)、梶川伸一金沢大学教授『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』(『レーニン、革命ロシアの光と影』社会評論社、2005年)−「十月革命とは労働者を中心とする民衆革命ではなく、ボリシェヴィキ戦闘集団の軍事クーデターであった。つまり、十月革命とはわれわれが通常イメージするような民衆蜂起ではなく、ペトログラードでの軍事クーデター以上を殆ど意味しなかった」(P.21)。
3、ソ連崩壊後のアメリカ・フランス・イギリス人研究者7人
(1)、マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇・上』「主役はプロレタリアート それとも党」(草思社、1997年、原著1994年)−「『世界をゆるがした十日間』は、事実上のクーデターだった」(P.178〜195)。
(2)、リチャード・パイプス『ロシア革命史』「第6章、十月のクーデター」(成文社、2000年、原著1995年)−「ボリシェヴィキのクーデターは、二つの局面を通して進行した」(P.123〜158)。
(3)、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』「第一章、十月革命のパラドックスと食い違い」(恵雅堂、2001年、原著1997年)−「政治的クーデターと3つの他社会革命が一時的に一致した」「レーニンは軍事クーデターのすべての段階を設定した」(P.49〜61)。
(3)、ニコラ・ヴェルト『ロシア革命』「蜂起の技術」(創元社、2000年、原著1997年)−「1917年10月25日のクーデターは、『蜂起の技術』の帰着点だった」(P.157〜159)。
(4)、ロバート・サーヴィス『レーニン・下』「第三部、権力奪取」(岩波書店、2002年、原著2000年)−「レーニンは意気高らかに演説した。『このクーデター〔perevorot〕の意義は〜』」(P.54〜97)。
(5)、H・カレール=ダンコース『レーニンとは何だったか』(藤原書店、2006年6月、原著1998年)−「軍事革命委員会の創設は、紛れもないクーデター」(P.310〜317)。
(6)、ステファヌ・クルトワ『共産主義黒書−コミンテルン・アジア編』の「なぜだったのか」(恵雅堂、2006年、原著1997年)−「一九一七年二月革命は、労働者・農民による社会革命の性格に裏打ちされた、立憲議会選挙をともなうブルジョア的・民主的な革命の方向である。一一月七日のボリシェヴィキによるクーデターによってすべては転倒され、革命は全般化した暴力の時代に突入した」(P.343)。
(7)、ヴォルコゴーノフも、ほとんどの著書で、「十月クーデター」と書いている。
(8)、アン・アプルボーム『グラーグ−ソ連集中収容所の歴史』(白水社、2006年)−「レーニンは論争に勝ち、一〇月二四日にクーデターを起こした」(P.44)
彼らの著書全文を読めば分かるが、彼らは研究者として、革命(revolution)とクーデター(coup d'État、または、coup)との区別を明確にした上で、十月事件をクーデターと規定している。しかも、レーニン自身が、10月25日時点で、ロシア語でクーデターを意味する〔perevorot〕を使った事実も、ロバート・サーヴィスが証明した。
ソ連崩壊後に出版された著書で、十月事件は、あくまで「革命」と主張する研究者は、知る限りで、一人しかいない。
エルネスト・マンデル『一九一七年一〇月−クーデターか社会革命か』(つげ書房新社、2000年、原著1991〜92年執筆)。彼は、第4インター統一書記局派の指導者である。ただ、訳者解説は、著書の最大の弱点が当時ソ連の第1次資料をほとんど使っていないと書いている。その面で、上記研究者11人は、ソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密資料」や膨大なアルヒーフ(公文書)に基づき、「十月クーデター」説へと大転換した。
もっとも、21世紀の資本主義世界で、暴力革命論を否定した以外で、全面的なレーニン賛美と「革命」主張をしている政治家がもう一人いる。日本共産党の不破哲三である。彼のレーニン研究出版状況と研究レベル、中国まで出かけてのレーニン崇拝講演実態は、別ファイルにある。
マンデル『一九一七年一〇月−クーデターか社会革命か』 『マンデルの部屋』
3、大転換し定説になった内容=どの権力にたいするクーデターだったのか
「十月革命」論から大転換した「十月クーデター」論は、ソ連崩壊後の21世紀において、ほぼ定説になった。クーデターの主体は、レーニンらボリシェヴィキと、トロツキーが指揮した軍事クーデター部隊数千人だった。二月革命のような数十万人による大衆的蜂起ではなかった。このデータも議論の余地なく証明されている。エイゼンシテインの映画『十月』におけるモブシーンは、レーニン・スターリンによって偽造歪曲されたロシア革命史の映像化であって、事実に反する。
(表1)、10月24・25日ボリシェヴィキ武装蜂起部隊の実数
軍事革命委員会 |
水兵 |
守備隊兵士 |
労働者赤衛隊 |
出典 |
|
マーティン・メイリア |
直接指令 |
少数の水兵 |
/ |
一握りの労働者赤衛隊 |
『ロシア革命史』P.169 |
ニコラ・ヴェルト |
直接指令 |
数千人のクロンシュタット水兵 |
数百人の守備隊兵士 |
赤衛隊 |
『共産主義黒書』P.60 |
ソールズベリー |
直接指令 |
クロンシュタット水兵2500人 |
兵士約2500人 |
赤衛隊約2500人 |
『黒い夜白い雪』P.229 |
そこでの問題は、(1)権力者内部、(2)既存の政治体制、(3)支配層内部の政権移動というクーデターにおいて、レーニンがどの権力から権力を奪い、簒奪したのかというテーマになる。
定説になった「十月クーデター」論のすべてが、ケレンスキー臨時政府権力から、レーニンと軍事クーデター部隊数千人が単独武装蜂起・単独権力奪取をしたという側面を根拠とした。私は、当然ながらそれに同意している。しかし、その側面以外に、もう一つ別の権力=ソヴィエト権力からの権力簒奪があったとするのが、私の「7連続クーデター」仮説である。
4、ロシア革命とソヴィエト革命という言い方における微妙な違い
私は、ロシア革命とソヴィエト革命とを同義語として使っている。その始まりは、1917年二月革命であり、終焉が1921年3月のクロンシュタット事件鎮圧・「ネップ」である。その期間は、4年1カ月間になる。革命期間の規定は、P・アヴリッチ、ニコラ・ヴェルト、梶川伸一らも明言しており、「十月クーデター」論と同じく、ソ連崩壊後において、ほぼ定説となった。
ただ、上記研究者たちは、ロシア革命と言うが、あまりソヴィエト革命という用語を使わない。私がソヴィエト革命と言う場合は、その比率をソヴィエトというロシアにおける独創的で大衆的な組織に担われた革命という意味を重点としている。ロシア革命の組織的性格を表す用語として使う。それは、レーニン・ボリシェヴィキとは別個に形成された組織である。
ボリシェヴィキは、二月革命時点のソヴィエト形成にほとんど関与していなかった。ソヴィエトの中心党派ではなかった。エスエル・メンシェヴィキと比べても、まだ少数派だった。このデータは、ソ連崩壊後、完全に証明された事実である。レーニンは、(1)一党独裁狙いのクーデターにおいて、「すべての権力をソヴィエトへ」とのスローガンでソヴィエトを利用した。さらに、(2)ボリシェヴィキ党独裁クーデター権力の維持機構としてソヴィエトを利用した。ダンコースは、レーニンのソヴィエト利用意図と手口を具体的に検証している。
長尾久は、『ロシア十月革命』(亜紀書房、1972年、絶版)と『ロシア十月革命の研究』(社会思想社、1973年、絶版)の2著において、ソヴィエト革命の側面に関し、詳細な研究を出版した。彼は、二月革命から「十月革命」までのソヴィエトの形成と発展、各ソヴィエトの臨時政府との関係を検証した。1917年10月に至る過程において、ペトログラード・ソヴィエトやクロンシュタット・ソヴィエト、ロシア全土のソヴィエトが、臨時政府への支持・協調態度から、どのようにして、臨時政府批判の立場=「すべての権力をソヴィエトへ」という革命派に転換したのかという経過を具体的に分析した。
ソ連崩壊後の諸著書を見ても、これほどの規模・レベルでソヴィエト組織を検証した研究書はない。ペトログラード・ソヴィエトやクロンシュタット・ソヴィエトの形成と転換経過の研究内容は別ファイルに転載した。
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
4年1カ月間のロシア革命の全経過を、労兵ソヴィエト・農民ソヴィエトによって担われたソヴィエト革命という組織的性格の視点から検証したらどうなるのか。ソヴィエト革命は、なぜその期間で終焉を迎えたのか。その経過と原因をどう分析するのか。
5、二重権力の両者にたいする一党独裁狙いの権力奪取・簒奪クーデター
二月革命は、ペトログラードの労働者・兵士が中心となったが、自然発生的な側面が強かった。2月前後から、1905年革命のソヴィエト形成体験を生かし、ロシア全土で労働者・兵士ソヴィエトが結成された。3月からの80%・9000万農民の総決起による土地革命において、農民ソヴィエトも形成された。少数民族地方でのソヴィエトも、民族解放革命と結合して作られた。ツアーリ帝政が崩壊したので、各ソヴィエトが地方分権的な権力機構に発展した。1917年6月3日第1回ソヴィエト大会は、労働者・兵士ソヴィエトが中心だった。5月農民ソヴィエト大会を合わせ、労兵農ソヴィエト権力は全国組織になった。
一方、二月革命の結果を受け継ぐ権力機構として、1917年3月2日臨時政府が組閣された。「レーニンによる十月クーデター」がどういう性格なのかどうかという規定をする上で、その政党構成を見ておく必要がある。それは、当初、カデット中心の単独政府だった。しかし、ソヴィエト権力の影響・圧力を受けて、ソヴィエト権力内の2政党を含む連立政府に転換した。
ケレンスキーは、ボリシェヴィキにも入閣を要請した。しかし、レーニンは、臨時政府が行き詰るのを予想し、かつ、いずれボリシェヴィキだけの一党独裁狙いクーデターを秘密裏に構想し、入閣を拒否した。エスエル・メンシェヴィキが入閣した臨時政府の性格は、ソヴィエト内政党を含んだ一種の革命政府と規定できる。自由主義政党カデットの閣僚人数は減っている。
(表2) 臨時政府4回の組閣における政党構成
期間 |
首相 |
カデット |
エスエル |
メンシェヴィキ |
ソヴィエト勢力計 |
|
単独政府 |
3・2〜5・2 |
リヴォーフ公爵 |
5 |
(1) |
0 |
0 |
第1次連立政府 |
5・5〜7・2 |
後、ケレンスキー |
3 |
(1)+1 |
2 |
3 |
第2次連立政府 |
7・24〜8・26 |
ケレンスキー |
4 |
(1)+1 |
2 |
3 |
第3次連立政府 |
9・25〜10・25 |
ケレンスキー |
2 |
(1)+1 |
2 |
3 |
トロツキー『ロシア革命史(一)』(岩波書店、2000年)の巻末に、訳者藤井一行作成の閣僚リスト・データ(P.29)がある。それに基づいて、私が(表2)にした。ケレンスキーは、3月以降エスエル党員だったので、エスエル(1)として計算した。
この状態は、二重権力だった。(1)エスエル・メンシェヴィキ閣僚を含む臨時政府権力と、(2)労兵農ソヴィエトとそれを代表する13政党からなるソヴィエト権力である。臨時政府にたいする各ソヴィエトの態度は、長尾久が実証的に分析したように、2つに分かれていた。臨時政府の路線・政策を受け入れる協調派と、「すべての権力をソヴィエトへ」と主張する革命派だった。
「土地・平和・パン」公約と「すべての権力をソヴィエトへ」という政権公約を掲げるボリシェヴィキにたいする支持が広がり、「土地・平和・パン」要求を解決できない臨時政府とエスエル・メンシェヴィキへの支持が激減した。(1)労兵ソヴィエト革命、(2)80%・9000万農民の土地革命、(3)ウクライナなど少数民族地方の民族解放・独立革命など、3つの革命運動が高揚した。それらの情勢とドイツ革命の成功を期待したレーニンは、その瞬間を捉え、かねてから秘めていた一党独裁狙いの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを、数千人で決行した。
ただ、ソヴィエト権力内におけるボリシェヴィキの比率は少数派のままだった。「十月革命」と呼ばれる事件は、13政党を含むソヴィエト権力が、その合意に基づいて、臨時政府を倒したものではない。あくまで、ソヴィエト権力内の少数派である一政党がおこしたクーデターだった。その勢力関係は、第1回ソヴィエト大会の党派構成が証明している。ボリシェヴィキの比率は、105÷822≒12.8%にすぎなかった。第2回ソヴィエト大会の党派構成は、レーニン・トロツキーによるクーデター作戦の一環で不法に捏造された。その作戦内容は別ファイルで検証した。
(表3) 第1回〜第3回ソヴィエト大会の党派別代議員構成の変遷
第1回大会 |
第2回大会 |
第3回大会 |
|||
年月日 |
17年6月3〜24日 |
17年10月25日 |
18年1月10〜13日 |
||
党派 |
党員+同調者 |
大会アンケート委 |
労兵ソヴィエト大会 |
農民ソヴィエト大会 |
労兵農合同大会 |
エスエル メンシェヴィキ メンシェヴィキ国際派 ボリシェヴィキ 左翼エスエル |
285+20 248+8 32 105 |
193 68 300 |
35 22 441 112 |
309 278 |
35 22 750 390 |
無党派社会主義者 社会民主党統一派 ブンド 「統一」派 トルドヴィキ エヌエス アナルコ=コムニスト エスエル・社民党綱領支持 |
73 10 10 3 5 3 1 2 |
36 10 3 |
|||
ウクライナ社民党 アナキスト ポーランド社会党と社民党 社民党国際派 リトヴァ社会人民主義派 |
17 |
7 3 10 14 4 |
|||
マキシマリスト その他+不明 |
|
22 |
18 80+234 |
77+41 |
18 157+275 |
合計 |
822 |
670 |
942 |
705 |
1647 |
よって、レーニンが決行した一党独裁狙いクーデターは、二重権力の両者それぞれにたいする単独武装蜂起・単独権力奪取という性格とを帯びた。
〔性格1〕、それは、エスエル・メンシェヴィキ閣僚を含み、二月革命を受け継いだ一種の革命政府側面を持つ臨時政府権力にたいするクーデターだった。それは、トロツキー指揮による数千人のクーデター部隊によって完全に成功した。
〔性格2〕、同時に、第1回ソヴィエト大会での13政党・党派からなるソヴィエト権力にたいし、12.8%比率の代議員だけのボリシェヴィキが、他12政党・党派を出し抜き、単独武装蜂起手口によってソヴィエト権力を簒奪したクーデターだった。レーニン・トロツキーの策略は、それを第2回ソヴィエト大会の前日に強行し、ソヴィエト大会をクーデターの事後承認大会に変質させようとしたものだった。それも思惑通りに運んだ。
エスエル・メンシェヴィキは、レーニンの手口をクーデターと非難し、第2回ソヴィエト大会を、何の決議もしていない時点で退場した。ただし、分離・独立前の左翼エスエルは、クーデターを支持し、会場に残った。クーデターの事後承認大会は、12.8%のボリシェヴィキと人数不明の左翼エスエルだけの違法・不成立な大会となった。レーニン・トロツキーは、他党派を挑発し、退場させる事前作戦がうまくいったことに歓喜した。レーニンは、他党派を挑発によって退場させる作戦後の大会において、革命臨時政府の樹立を宣言した。
エスエル・メンシェヴィキによるクーデター規定は、当然ながら、それら〔2つの性格〕を指摘している。ところが、クーデターと規定した上記11人の研究者たちは、これらの性格の区別を明記していない。もちろん、〔性格1〕を意味しているが、〔性格2〕も含めたクーデターとしているのか。彼らの著書をいろいろ読んでも、そこがどうもはっきりしない。私が〔性格2〕にこだわるのは、レーニンによる7連続クーデター仮説の決定的根拠になるからである。研究者11人は、なぜ〔性格2〕に言及しないのか。それとも、私の歴史認識の方が間違っているのか。
6、二重権力解消から、新しい二重権力への移行・対立という歴史認識の是非
十月クーデターは、たしかに、(1)臨時政府権力と、(2)13党派からなるソヴィエト権力の並立という二重権力を解消させた。しかし、クーデター後の権力関係はどうなったのか。ロシア革命・ソヴィエト革命の4年1カ月間において、権力的対立はなかったと規定できるのか。
研究者11人が、十月クーデターと規定したことは、ボリシェヴィキ・クーデター政府権力の成立を意味する。左翼エスエルとの連立政府は、3カ月間で崩壊した。その期間以外、3年10カ月間存在したのは、一貫して、党独裁クーデター権力だった。
ソヴィエト内の12他党派は、依然としてソヴィエト権力としての実態を備えていた。なかでも、中心の党派は、エスエル、メンシェヴィキ、左翼エスエル、アナキストである。ソヴィエト権力の内容は、労働者ソヴィエト、兵士ソヴィエト、農民ソヴィエト、ウクライナなど少数民族ソヴィエト・中央ラーダと、それらを統合した地方別・行政区ソヴィエトで構成されていた。政党・階級・階層・地方・行政区など多層な権力機構だった。
クーデター政府権力と、多層なソヴィエト権力との利害・要求が一致すれば問題はない。しかし、事態の進行は、さまざまな対立・軋轢を生み出した。その対立の増大と激化は、主として、党独裁クーデター権力側の路線・政策の誤りが引き起こしたと、ソ連崩壊後の資料・データから規定できる。それは、(3)クーデター党独裁権力と、(4) ボリシェヴィキ以外のソヴィエト権力という新しい二重権力への移行、そこでの二重権力間の対立・闘争という歴史認識になるのではなかろうか。
ロシア革命という用語では、この認識があいまいになるのかもしれない。私がソヴィエト革命という用語を意図的に使うのは、この二重権力のあらたな発生と対立に注目したいからである。ソ連崩壊後に出版された研究著書は、レーニン・ボリシェヴィキと政党・階級・階層・地方との利害対立・闘争を具体的に検証している。しかし、誰も、新しい二重権力への移行、権力間闘争という用語・歴史認識を明記していない。なぜなのか。私の認識に根本的な誤りがあるのか。本当は、『第9部』で終わる構想だったが、どうもこのテーマが納得できないので、この『第10部』を追加して、自己検証をしている。
7、ソヴィエト権力簒奪クーデターは十月・1回で完了したのか
レーニン・トロツキーらによる十月クーデターは、(1)臨時政府権力とソヴィエト権力という二重権力を解消した。それは、同時に、(2)ソヴィエト権力13政党内の一政党が、単独武装蜂起によって、ソヴィエト権力を単独で権力簒奪したクーデターだった。その結果として、臨時政府権力はなくなった。しかし、多層的なソヴィエト権力は、クーデターとトロツキーの挑発演説によって退場しただけで、無傷だった。
(3)ボリシェヴィキ党独裁クーデター政府権力と、(4)それに反対・批判するボリシェヴィキ支持以外のソヴィエト権力とは、新しい二重権力の対立・闘争段階に移行した。問題は、レーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターが、「十月革命」1回だけで完了したのかという事実認識である。
クーデター前後、左翼エスエルを含め、レーニンの「土地・平和・パン」公約、「すべての権力をソヴィエトへ」という政権公約にたいするソヴィエト勢力の期待度は高かった。80%・9000万の土地革命農民は、臨時政府が土地革命を弾圧したのにたいし、レーニンが、土地革命による共同体所有を認めたことで、クーデター権力を支持した。ロシア国民・全政党は、クーデター政府が、臨時政府の従来方針・期日どおりに、憲法制定議会選挙を施行するのを見守った。
その選挙結果はどうなったのか。第1回ソヴィエト大会における代議員比率12.8%政党は、憲法制定議会選挙において、24.0%議席しか獲得できず、ソヴィエト内政党エスエルの議席40.4%に敗北した。惨敗に直面したレーニンは、予定作戦通り、憲法制定議会の武力解散を強行した。12.8%クーデター権力が、(1)第1回ソヴィエト大会での87.2%政党と、(2)憲法制定議会選挙での76.0%議席政党とその投票者を暴力で弾圧・解散させた。この行為は、「十月クーデター」と別次元の新たなソヴィエト権力簒奪クーデターと規定できるのではないのか。それは、ソヴィエト権力を簒奪する第2次クーデターそのものである。
ボリシェヴィキ・左翼エスエルを除くソヴィエト権力は、第1次・十月クーデターにおいて無傷だった。憲法制定議会選挙は、レーニン・ボリシェヴィキも繰り返し公約しており、ボリシェヴィキ党独裁権力そのものが施行した。その憲法制定議会の一日目武力解散は、(1)ボリシェヴィキ自身が公約を裏切ったというだけでなく、(2)ロシア国民、ソヴィエト勢力の期待・要求を真っ向から裏切った。ロイ・メドヴェージェフが規定したように、それにたいする怒りが、内戦を引き起こした第一主要原因となった。
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
1918年3月、左翼エスエルが、屈辱的なブレスト講和条約に反対し、連立政権を3カ月間だけで離脱した。それ以降、レーニンの党独裁クーデター権力が、ソヴィエト権力にたいしてしたことの性質をどう規定したらいいのか。ソヴィエト権力簒奪のクーデターは、「十月クーデター」1回だけですんだのか。
ソヴィエト権力は、多層的なソヴィエトで構成されていた。政党・階級・階層・地方・行政区など多層な権力機構だった。第2次クーデター以後、レーニンが強行した路線・政策は、各ソヴィエトの要求と根本的に対立した。それらの要求・権限を次々と剥奪する実態だった。レーニンは、別々の手法によって、それらのソヴィエトにたいし、権力簒奪クーデターを連続して遂行した。
1918年4月29日、レーニン・スヴェルドロフ・トロツキーらは、80%・9000万土地革命農民にたいし、食糧徴発の内戦を仕掛ける決定をした。5月13日、食糧独裁令による農民ソヴィエト権力簒奪の第3次クーデターを開始した。これは、内戦の第二主要原因となった。これは、別次元のクーデターではないのか。
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
1918年6月、ソ連国民が、レーニン・ボリシェヴィキの誤った路線・政策・手口に背を背けた。党独裁クーデター権力は、主要な19都市のソヴィエト選挙で惨敗した。敗北したレーニンは、政権交代をするどころか、勝利した他党派をジェルジンスキー・チェーカーに指令し、逮捕・強制収容所送りをし、ボリシェヴィキ党員を後釜に据えた。さらに、6月13日、ソヴィエト権力機構から、他党派を排除する決定をした。レーニンは、それによって、カデットを除くすべての党派・各階級ソヴィエトで構成されてきたソヴィエト権力を、ボリシェヴィキ党独裁機構に変質させた。これも、「十月クーデター」と別次元の第4次クーデターと規定できないのか。
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
1922年2月25日から3月18日、(1)ペトログラード・ソヴィエト労働者による全市的山猫ストライキにたいする弾圧・500人即時銃殺、(2)クロンシュタット・ソヴィエト水兵・基地労働者による15項目の平和的要請、平等で自由なソヴィエト新選挙運動を始めた行為に対する14000人皆殺しは、まさに、「十月クーデター」と異質な、ソヴィエト権力簒奪の大量殺人犯罪的クーデターでないのか。これら第5次・第6次クーデターによって、ソヴィエト革命は、レーニン・トロツキーの手で、息の根を止められた。
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
農民ソヴィエト権力簒奪の第3次クーデター、他党派への第4次クーデター、革命の栄光拠点ペトログラード・ソヴィエトとクロンシュタット・ソヴィエト弾圧・皆殺しの第5・6次クーデターは、「十月クーデター」とは異次元のクーデターとして峻別する必要がある。それが、私の「7連続クーデター」説の根拠である。「十月クーデター」と規定した11人の研究者たちは、それらの事件を検証している。しかし、それを連続クーデターとしていない。なぜなのか。私の仮説に、事実認識の誤り、クーデター規定の根本的なミスがあるのか。
8、革命定説→十月クーデター定説への大転換→7連続クーデター仮説
〔小目次〕
1、「十月革命」定説の74年間−1917年〜1991年
2、「十月クーデター」定説への大転換−1991年以降
3、別次元の「7連続クーデター」仮説−2006年〜2007年提起
1、「十月革命」定説の74年間−1917年〜1991年
1917年11月7日(旧暦10月25日)、レーニン・トロツキーらがしたことは、クーデターでなく、「十月革命」と規定された。それは、国内だけでなく、全世界に宣伝されてきた。エスエル・メンシェヴィキや亡命者200万人が、当初から、それは、革命でなく、「十月クーデター」だと主張した。しかし、ボリシェヴィキの宣伝内容と規模から、社会主義革命・社会主義国家・社会主義ユートピア実現を熱望していた世界の左翼は、「十月クーデター」説を無視した。さらに、クーデター説を唱える政党・国民は「反革命分子だ」というレーニンらの嘘のレッテルを鵜呑みにした。
レーニンは、カデット機関紙『レーチ』とブルジョア新聞閉鎖を、単独権力奪取直後から遂行した。さらに、1918年、ソヴィエト権力内他党派の機関紙、ボリシェヴィキ支持でない新聞を、秘密政治警察チェーカーの手ですべて閉鎖させた。その結果、レーニンは、ソ連を、完全な情報統制社会・一元的情報管理システムという異様な体制に変質させた。
この情報閉鎖・一元的管理システムは、ソ連内の80%・9000万農民、労働者、兵士、他党派の動向・要求、ボリシェヴィキとの対立が国外に漏れ出るのを完璧に圧殺した。スターリン時代の4000万人粛清や大粛清は、規模があまりにも大きく、悲惨なので、かなり国外に伝わった。しかし、レーニンが最高権力者5年2カ月間にしたことの実態やその犯罪的性質は、レーニン自らが縫製した「鉄のカーテン」によって、ほぼ100%封印された。彼の大量殺人犯罪指令文書は、クレムリンの奥深く、「レーニン文書保管所」において、「レーニン秘密資料」6000点となり、誰の目にも触れなかった。
かくして、「十月革命」定説は、1991年、ソ連崩壊までの74年間、正しい歴史認識規定としての生命力を保ち続けた。
2、「十月クーデター」定説への大転換−1991年以降
1991年ソ連崩壊は、鉄のカーテンと呼ばれた情報閉鎖システムも、同時に破壊した。ペレストロイカ、グラスノスチなどの情報公開によって、秘匿されていた膨大なアルヒーフ(公文書)も発掘・公表された。それだけでなく、「レーニン秘密資料」6000点の封印も剥がされ、国内外の研究者が閲覧できるようになった。開けゴマの洞窟内にあった秘宝のように、そこには、貴重なレーニンらの大量殺人犯罪指令データが山と積まれていた。「十月革命」定説を覆し、「十月クーデター」説を証明する秘密資料も、続々と発掘された。
これら秘宝の山に踏み込んだ研究者たちは狂喜した。しかし、彼らは、自分も従来から信じていた定説を大転換せざるをえなかった。74年間もの長い眠りから覚めた秘密データは、驚愕すべき真相を研究者たちに突きつけた。彼らは、「十月クーデター」を証明する資料を集め、分析し、それを次々と著書で出版した。研究者11人が到達した結論は、「十月クーデター」説への大転換だった。
今や、21世紀になっても、「十月革命」定説を依然として唱える研究者は、ほぼ皆無になった。上記のランメルは、1991〜92年の執筆で、しかも、ロシア語の原資料を見ていない。ただ、その旧定説に固執する資本主義国の政治家が一人だけ残存している。東方の島国における不破哲三である。
3、別次元の「7連続クーデター」仮説−2006年〜2007年提起
私は、熱烈なレーニン信奉者だった。20歳からの『資本論』研究会参加を初めとして、警職法反対デモに加わった。1960年、安保反対闘争デモでは、名古屋市の金融関係職場の数千人を組織する先頭に立った。全損保労働組合幹部3年間において、スト権投票のオルグで各職場に行った。民青・共産党専従15年間は、レーニン型前衛党を作るために、毎晩夜中まで、または、9カ月間も泊り込み体制で活動した。
その間、レーニンの『なにをなすべきか』を十数回読み、それを担当の細胞会議に持ち込んで、赤旗拡大の意義を説得した。映画『戦艦ポチョムキン』を7回観て、ショーロホフ『静かなドン』を3廻り読んだ。『レーニン全集』中の基本文献ほとんどとともに、当時の『レーニン10巻選集』を何回も読み直した。もちろん、専従として、日本共産党の出版物・文献・雑誌はすべて読んだ。
日本共産党の体質に根本的な疑問を抱いたのは、愛知県党における2回の「指導改善運動=党民主化闘争」の先頭に立ってたたかったこととと、それにたいする党中央の報復の体験による。私にたいする専従解任は、党中央批判発言専従にたいする報復措置だった。それは、私と妻にたいし、宮本顕治・不破哲三・上田耕一郎・戎谷春松ら常任幹部会員4人と愛知県党常任委員会が行った政治的殺人犯罪だった。1977年・40歳、報復にたいする「日本共産党との裁判」体験を経て、レーニン型前衛党の体質にたいする疑惑が深まった。
『日本共産党との裁判・第1〜8部』党民主化闘争2回と報復とのたたかい
しかし、私のレーニン批判は、1991年ソ連崩壊によって、レーニン・トロツキーらが行った「十月クーデター」データや大量殺人犯罪データが発掘・公表されるまで具体的にならなかった。「十月クーデター」と規定した11人の研究者著書は、私を、スターリン批判から、レーニン批判へと導いた。
しかし、私のレーニン信奉者時期、専従15年間、政治的殺人を受けたという特殊体験から、レーニン批判としての「十月クーデター」説だけでは、どうも納得できなかった。クーデター以降、レーニン・トロツキーらが何をしたのか、その性質をどう規定するのかというテーマに首を突っ込んだ。ロシア革命史・ソヴィエト革命史から私が学んだ観点は、(1)最高権力者レーニン側という上からの視角よりも、(2)レーニンによって殺害されたソヴィエト革命勢力数十万人の無念・怒りという下の視角から、レーニンを逆照射することだった。
研究者11人の「十月クーデター」・1回説と、私が主張する「別次元の7連続クーデター」説との違いはどこから生れるのか。私の仮説の方が根本的な誤りなのかを自問自答している。それとも、歴史認識や体験の相違によるものなのか。その3つの原因を自己検証する。
〔自己検証1〕、私は、ソヴィエト革命という組織的性格にこだわる。11人は学者・ジャーナリストである。ヴォルコゴーノフを含め、ほとんどがロシア革命研究のプロである。それにたいし、私の職業歴は、(1)損害保険会社、そこでの労働組合幹部・運動、共産党細胞長3年間、(2)愛知県の民青・共産党専従15年間、現在で言えば5つの地区委員長体験、(3)日本共産党との裁判2年間、(4)42歳から小中学生相手に自宅で開いた学習塾塾長21年間である。
22歳から除名になる40歳までの18年間は、労働運動・職業革命家運動として、愛知県における末端の組織活動、中間機関活動に専念していた。その体験の違いに基づいて、ロシア革命認識の視点が、レーニンたち指導者よりも、ソヴィエトの農民・労働者・兵士という末端の革命家たちの組織活動=ソヴィエト活動とその組織実態に向けられた。
〔自己検証2〕、レーニン型前衛党の内部体験期間とその体験レベルによる違いからくるロシア革命認識の相違も考えられる。日本共産党は、レーニン型前衛党の体質を、21世紀でもそのまま引き継ぎ、世界で唯一残存する特殊な前衛党である。加藤哲郎が規定するように、日本共産党はコミンテルン型共産党の生きた博物館的な存在である。私は、共産党地区常任委員時代、愛知県党における2回の党民主化闘争の先頭に立ってたたかった。党中央批判発言専従への専従解任という報復にたいし、党内において1年8カ月間たたかった。
日本共産党との裁判2年間の第1回審理冒頭において、共産党県常任委員2人と共産党側弁護士2人ら4人は、名古屋地裁裁判長と弁護士のいない本人訴訟1人の私に向かい、大声で何度も叫んだ。「共産党員が、党中央委員会を裁判で訴えたのは、国際共産主義運動史上一度もない。この提訴は、党破壊の反党活動である。よって即座に門前払い却下せよ」と。党内外にわたる共産党との直接闘争3年8カ月間の体験レベルは、私に、レーニン型前衛党の犯罪的本質をいやというほど痛感させた。そこから、(1)権力を持たない日本共産党の犯罪的体質と、(2)レーニンが行った大量殺人犯罪の性質とは、私の体験から見て、ほとんど同質と認識した。学者・プロの研究者たちのレーニン・ロシア革命認識と、私のレーニン型前衛党の直接闘争体験からくるソヴィエト革命認識とが、大きく異なるのは当然でもある。
〔自己検証3〕、私は、党民主化闘争2回の公式会議において、10数回、党中央批判の発言をした。それにたいする報復としての私の専従解任を、レーニン型前衛党による政治的殺人犯罪と規定している。レーニン・スターリン型前衛党としての日本共産党は、百数十人規模か数百人規模で、同じ性質の粛清=専従「浄化」を秘密裏に行ってきた。レーニンは、社会主義・正義・公平を掲げる裏側で、ロシア革命勢力数十万人を殺害した。知識人数万人を追放作戦で「浄化」した。私は、前衛党に殺害された日本共産党の中間機関専従として、レーニンに殺害された土地革命農民・革命労働者・革命水兵、社会主義他党派という末端のソヴィエト革命家の立場から、レーニンがしたことを逆照射する。
レーニンによる大量殺人犯罪データをとことん調べて、HPに載せているのも、その理由による。日本共産党というレーニン型前衛党によって殺害された専従と、ロシア革命史研究プロの学者とでは、研究テーマの方向が微妙にずれる。大量殺人犯罪データを詳細に載せているのは、ニコラ・ヴェルト以外にほとんどいない。なぜ、他研究者たちは、その大量殺人犯罪データを強調しないのか。東方の島国における左翼勢力・党費納入共産党員28万人を呪縛し続けるレーニン神話を解体する方法の一つは何か。それは、『第9部』で分析したように、(1)レーニンの嘘・詭弁データと、(2)レーニンによる大量殺人犯罪データを詳細に発掘・公表することだと判断している。
『スターリンは悪いが、レーニンは正しい』10部作におけるそれら特殊なデータ追及の執念は、自分でも異様さを感じる。しかし、日本共産党というレーニン型前衛党による政治的殺人指令、および、レーニン自身による肉体的殺人指令によって直接殺された立場の者でないと、その心情を理解できないのかもしれない。
ソヴィエト革命の担い手でありながら、レーニン・トロツキー・ジェルジンスキーらによって殺害されたロシア革命勢力数十万人の立場から、レーニンがしたことを検証したら、どうなるのか。(1)80%・9000万農民、(2)ペトログラード労働者、(3)クロンシュタット水兵、(4)ソヴィエト権力内の他党派らが、党独裁クーデター権力とたたかった経緯と、それにたいするレーニンらの肉体的政治的殺人犯罪を、階級・階層・政党別に、かつ、時期的に分析したら、どのようなソヴィエト革命史が新たに構築されるのか。
その結論が、10部作としての「レーニンによる7連続クーデター」仮説になった。
ただし、これら〔自己検証〕3つは、学者・プロの研究者たち11人のレーニン秘密資料研究体験と、私のレーニン型前衛党における直接体験に関する相違を見ただけである。また、そこから、ソヴィエト権力にたいする上からのレーニン照射・下からのレーニン逆照射という立場の違いを検証したにすぎない。それによって、私の「7連続クーデター」仮説の方が正しいということを根拠づけるものではない。
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〔関連ファイル〕
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』