レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター
「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証
第1部 1917年10月、レーニンによる十月・第1次クーデター
(宮地作成)
〔目次〕
2、ソヴィエト権力の構成とロシア革命勢力の規定 (表1)
3、白衛軍との内戦とレーニンによるクーデターへの抵抗・反乱との区別 (表2)
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』
1、クーデターという概念とロシア革命に適用した研究者たち
〔小目次〕
ファイル10部作を書く初めに、まず、この概念の内容を確認する。1989年東欧革命・1991年ソ連崩壊後、ヨーロッパでは、レーニンによる十月クーデター認識がほぼ常識になってきた。しかし、東方の島国では、「十月革命」と呼ばれてきた歴史が、革命でなく、レーニン・ボリシェヴィキによるクーデターだったという歴史的真実を見ようともせず、読みたくもないというレーニン神話信仰者が、多数残存している。これら10部作は、彼らが信奉する「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」という歴史認識の当否を検証する。
ソ連崩壊後も、神話が残存している原因はいろいろある。ここでは2つだけ挙げる。
第一、地政学的条件の違いである。ヨーロッパには、ソ連・東欧10カ国の前衛党犯罪やレーニンの大量殺人犯罪に関する大陸地続きの生情報や300万人亡命者情報が大量に流れ込んだ。300万人の内訳は、ソ連からの亡命者約200万人、東欧9カ国からの亡命者約100万人である。この数値は一応の定説だが、もっと多い可能性もある。
というのも、レーニンによる数十万人大量殺人犯罪とスターリンによる4千万人粛清犯罪から逃れた大量亡命がある。そして、1956年10月ハンガリー事件で、フルシチョフは、蜂起した約4000人を殺害した。約20万人がヨーロッパに亡命した。さらに、1968年プラハの春だけでもチェコ共産党員50万人が職場解雇・除名されたという歴史的事実があるからである。それらの殺人・粛清スケールを考えれば、300万人を超える情報が流入したはずである。そして、彼らがもたらした前衛党犯罪データや社会主義観がヨーロッパに定着した。
そのヨーロッパと比べて、東方の島国には、それらの生情報が日本海を越えてまで届かず、亡命者が一人も来なかった。よって、抽象的で理念型のレーニン信仰が資本主義世界で唯一生き残ってきた。
第二、日本共産党宮本顕治の犯罪的対処があった。ヨーロッパの共産党は、1956年フルシチョフによるスターリン批判を党内外で徹底して討論し、研究を深めた。1968年プラハの春から1970年代、ソ連・東欧の政治・経済・文化の根本的停滞、人権の抑圧実態が明らかになるにつれて、ユーロコミュニズム運動が勃発し、その原因究明に党内外が取り組んだ。
しかし、宮本顕治は、スターリン批判研究を抑圧・中止させた。さらに、ユーロ・ジャポネコミュニズム運動から、日本共産党を逆旋回させるクーデターを強行した。彼の策謀によって、日本共産党は、資本主義国の共産党において、レーニン型前衛党の5原則すべてを隠蔽・略語変更・訳語変更形式で堅持する唯一の残存政党となっている。
インターネット検索では、クーデターについて、下記3つの説明がある。
(1)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クーデター(仏語 Coup d'État, 西語 golpe, 独語 Putsch)は権力者内部の少数のグループが武力による迅速な襲撃で政府の実権を握る行為。より大きなグループによる反乱や政治的意図から体制を変革する革命とは異なる。ただし、必ずしも排他的な概念ではなく、革命的意図を持ったクーデターもある。クーデターはフランス語で「国家への不意打ち」の意味がある。
フリー百科事典『クーデター』クーデターの歴史・クーデター事件の諸データ
(2)、三省堂提供「大辞林第二版」 goo辞書
クーデター[(フランス) coup
d'État] 既存の政治体制を構成する一部の勢力が、権力の全面的掌握または権力の拡大のために、非合法的に武力を行使すること。国家権力が一つの階級から他の階級に移行する革命とは区別される。
(3)、広辞苑
クーデター 急激な非合法的手段に訴えて政権を奪うこと。通常は支配層内部の政権移動をいい、革命と区別する。
内乱 一国内における政府と叛徒との兵力による闘争。国際法上の戦争ではないが、交戦団体の承認をうけると国際法上の戦争とみなされ、戦争法規が適用される。
内戦 国内での戦争。特に、内乱。
戦争 武力による国家間の闘争。
革命 従来の被支配階級が支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激に変革すること。
2、「レーニンによる十月クーデター」と規定した研究者たち
これらを3つに分ける。リンクをした論文は、別ファイルに関連箇所の抜粋を載せた。
1、ソ連崩壊前−他党派、アメリカ人ジャーナリスト、E・H・カー
(1)、メンシェヴィキ、エスエルは、1917年10月25日時点で、「レーニンによるクーデター」「ボリシェヴィキのクーデター」と批判していた。レーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」と主張する裏側で、正規の第2回ソヴィエト大会を待たず、その前日の単独武装蜂起により単独権力奪取をした。レーニン・トロツキーらは、彼らにたいし、この二枚舌による既成事実を突きつけ、意図的に挑発演説をし、退場するよう仕向けた。よって、第2回大会は、居残ったボリシェヴィキと左翼エスエルだけによる不成立で、かつ、ソヴィエト大会を騙った一種違法な大会になった。退場他党派の批判言動は、あらゆる文献が一致している。これらの経過の真相認識については、下記3の外国研究者たちが、ソ連崩壊後に出版した著書において、ほぼ一致している。
(2)、ハリソン・E・ソールズベリー『黒い夜白い雪−ロシア革命1905〜1917・下』(時事通信社、1983年、絶版、原著1978年)−「クーデター始まる」(P.202〜244)。彼は、10月24・25日の事件の性格を、クーデターと明確に規定している。
(3)、E・H・カー『ロシア革命』(岩波現代文庫、2000年、原著1979年)−「工場労働者を主力とした赤衛隊が市の中心部を占拠し、冬宮へと進軍した。それは無血のクーであった。臨時政府は、無抵抗のうちに崩壊した」(P.8)と表現。クー=coupとはクーデター(coup d'État)と同一の意味である。塩川伸明東大教授の訳文は「無血の蜂起」となっている。原文が「無血のcoup」ということは、下記著書で加藤哲郎が指摘した。ただ、『ボリシェヴィキ革命』全3巻(原著1950〜53年)において、彼は、「ほとんど血を流さぬ勝利」と書いたが、クーデター、クーという用語を、まだ使っていない。彼が、1953年以降、79年までのいつの時点から、「クー=coup」認識に変わったのかに関する研究論文は出ていない。
2、ソ連崩壊後の日本人研究者
(1)、加藤哲郎一橋大学教授『ソ連崩壊と社会主義』(花伝社、1992年)−「クーデターとしての十月革命」(P.64〜66)。
(2)、中野徹三札幌学院大学教授『社会主義像の転回』(三一書房、1995年)−「一〇月革命が、レーニンらの誤算と過信から生じた(悲劇に導くという意味で)悲劇的なクーデターであった」(P.14)。
(3)、梶川伸一金沢大学教授『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』(『レーニン、革命ロシアの光と影』社会評論社、2005年)−「十月革命とは労働者を中心とする民衆革命ではなく、ボリシェヴィキ戦闘集団の軍事クーデターであった。つまり、十月革命とはわれわれが通常イメージするような民衆蜂起ではなく、ペトログラードでの軍事クーデター以上を殆ど意味しなかった」(P.21)。
(4)、稲子恒夫『ロシアの20世紀−年表・資料・分析』「はしがき」「あとがき」全文
『1917年コラム−16のテーマ』臨時政府時期と「十月革命」=10月クーデター後
3、ソ連崩壊後のアメリカ・フランス・イギリス人研究者
(1)、マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇・上』「主役はプロレタリアート それとも党」(草思社、1997年、原著1994年)−「『世界をゆるがした十日間』は、事実上のクーデターだった」(P.178〜195)。
(2)、リチャード・パイプス『ロシア革命史』「第6章、十月のクーデター」(成文社、2000年、原著1995年)−「ボリシェヴィキのクーデターは、二つの局面を通して進行した」(P.123〜158)。
(3)、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』「第一章、十月革命のパラドックスと食い違い」(恵雅堂、2001年、原著1997年)−「政治的クーデターと3つの他社会革命が一時的に一致した」「レーニンは軍事クーデターのすべての段階を設定した」(P.49〜61)。
(4)、ニコラ・ヴェルト『ロシア革命』「蜂起の技術」(創元社、2000年、原著1997年)−「1917年10月25日のクーデターは、『蜂起の技術』の帰着点だった」(P.157〜159)。
(5)、ロバート・サーヴィス『レーニン・下』「第三部、権力奪取」(岩波書店、2002年、原著2000年)−「レーニンは意気高らかに演説した。『このクーデター〔perevorot〕の意義は〜』」(P.54〜97)。
(6)、H・カレール=ダンコース『レーニンとは何だったか』(藤原書店、2006年6月、原著1998年)−『軍事革命委員会の創設は、紛れもないクーデター』(P.310〜317)。
彼らの著書全文を読めば分かるが、彼らは研究者として、革命(revolution)とクーデター(coup d'État、または、coup)との区別を明確にした上で、十月事件をクーデターと規定している。しかも、レーニン自身が、10月25日時点で、ロシア語でクーデターを意味する〔perevorot〕を使った事実も、ロート・サーヴィスが証明した。ソ連崩壊後に出版された著書で、十月事件は、あくまで「革命」と主張する研究者は見当たらない。
2、ソヴィエト権力の構成とロシア革命勢力の規定
1、ロシア革命と1917年10月時点の政府規定、権力構成
1917年2月、二月革命は、ペトログラード兵士ソヴィエト・労働者ソヴィエトの自然発生的決起によって、ツアーリ帝政を倒した。臨時政府には、ソヴィエト内社会主義政党であるエスエル、メンシェヴィキも閣僚に入った。その面から見れば、自由主義政党カデットが入っているとしても、臨時政府は一種の革命政権だった。エスエル党員ケレンスキーは、ボリシェヴィキにも入閣を再三要請したが、レーニンはそれを拒絶した。「一種の」という意味は、レーニン路線とケレンスキー路線とが、3大政策−土地・平和・パン(飢餓解決)問題において、とくに土地・平和政策面で基本的に対立していたことである。
土地政策は、80%・9000万農民による貴族・地主からの土地収奪の農民革命を認めるのか、それに反対し、軍隊派遣で弾圧するのかの対立である。平和政策は、第一次世界大戦で、ツアーリが始めたドイツとの戦争を継続するのか、それとも、単独講和によって第一次世界大戦からロシア一国だけを離脱させるのかの対立だった。レーニンの情勢判断は、土地(農民土地革命可否)・平和(戦争継続可否)・パン(飢餓解決策)の3大政策面で臨時政府が行き詰ること、その時点でボリシェヴィキによる単独権力奪取を狙う思惑を秘めていた。
1917年2月二月革命以降、3種類のロシア革命がロシア全土で勃発し、1921年まで続いた。ニコラ・ヴェルトは、上記著書において、二月革命から1921年3月ネップ(新経済政策)への転換・開始までを、ロシア革命期間と規定している。ロイ・メドヴェージェフも同じ歴史認識である。私(宮地)は、彼らと基本的時期が同じだが、二月革命からクロンシュタット水兵の平和的要請をレーニンが拒絶し、水兵10000人・基地労働者4000人を虐殺・皆殺しにした1921年3月までを、ロシア革命期間と考える。ネップの解釈は、『第3部』で行う。
私は、ロシア革命とソヴィエト革命とをほぼ同義語として使う。ただし、若干の違いを持つ。ロシア革命とは、ツアーリ帝政を倒した政治体制変革の意味である。ソヴィエト革命とは、二月革命以来の革命権力の性格がソヴィエトという世界史上初めての画期的で独創的な政治システムによる革命という意味である。そのソヴィエト革命・ソヴィエト権力は、レーニンがソヴィエト権力簒奪7連続クーデターを成功させ、ボリシェヴィキ一党独裁を完成させた行為により、1921年3月までで窒息させられた。ロシア革命=ソヴィエト革命の息の根を止めたのが、連続クーデター指導者レーニンだった。
3種類のロシア革命は、以下である。ソ連崩壊後に公表・出版された文献のすべてが、以下の歴史解釈で基本的に一致している。
第一、都市の労働者・兵士による2月以前からの自力革命である。二月革命の主力だった労働者ソヴィエト、兵士ソヴィエトは、工場・部隊・地域において、2月以降も、さらにソヴィエト革命を進展させた。労働者ソヴィエトは、各工場内に労働者委員会をつくり、工場管理を行った。兵士ソヴィエトは、各部隊内に兵士委員会を結成し、兵士による将校選挙など軍隊の民主化を推進した。メンシェヴィキ・ボリシェヴィキ党員たちが大きな役割を果たしているとしても、この革命運動は、政党主導ではなく、あくまで労働者・兵士が中心の自力・民衆革命だった。
ボリシェヴィキは、二月革命において、なんの指導的役割も果たさず、関与もしていない。むしろ、妨害した。レーニンがスイスから、ドイツ軍部の封印列車に乗って、フィンランド駅に着いたのは、2カ月後の4月だった。それらの事実については、あらゆる文献が一致している。それだけに、レーニンは、「十月クーデター」後、二月革命の意義を低め、過小評価し、「十月革命」の意義だけを恣意的に誇張し、宣伝した。これは、レーニンによるロシア革命史の偽造歪曲というレベルにある。
ボリシェヴィキが、労働者・兵士ソヴィエト内で、支持率第1位になったのは、1917年8月、コルニーロフ反乱の失敗後である。レーニンは、その一時的チャンスをとらえて、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを決意した。しかし、『第4部』において、検証するが、その支持率第1位は、1918年月6月、ボリシェヴィキが主要な19の大都市ソヴィエト選挙で惨敗するまでの10カ月間しか続かなかった。ロイ・メドヴェージェフが規定するように、「1918年春、大衆がボリシェヴィキから顔を背けた」。その原因は、(1)憲法制定議会武力解散と(2)食糧独裁令など、クーデター指導者レーニンの根本的に誤った路線・政策を、労働者・農民・兵士が拒絶したことである。
第二、3月からの農民の土地革命である。80%・9000万農民による農民土地革命が、ロシア全土で勃発した。農民は、地主・貴族ら個人所有の土地を没収・収奪した。農民ソヴィエトを結成し、収奪した土地を、個人所有でなく、各ミール共同体で社会的所有をし、毎年の総割り換え制による平等な社会的配分を始めた。それにより、いわゆるレーニン式レッテル「富農・クラーク」は、ソ連全土でいなくなった。農民の自力革命にもボリシェヴィキは一切関与していない。クーデター政府は、80%・9000万農民の支持を取り付けるために、農民革命と土地社会化を認めた。その結果、革命農民は、一応、ボリシェヴィキを支持した。
しかし、その支持関係も、1918年5月13日、レーニンの食糧独裁令で決裂した。農民がクーデター政府を支持したのは、クーデター後の7カ月間しか続かなかった。以後は、80%・9000万革命農民が、レーニンの犯罪的な穀物家畜収奪路線に反対の総決起をし、ソ連全土でクーデター政府にたいし抵抗運動・反乱を起こした。レーニン路線は、実質的に、不当で暴力的な穀物家畜収奪によって農民土地革命の権益を全面的に簒奪する「反土地革命」の性質だったからである。
1918年1月、憲法制定議会選挙の結果は、ボリシェヴィキの得票率・議席数が24.0%・175議席で、エスエルの40.4%・410議席に敗北し第2党だった。ただし、エスエル議席は、左翼エスエルの40議席を含む。投票率が50%弱で、革命農民のボリシェヴィキ支持率は20%以下と思われる。それが、食糧独裁令発令後には、10%かそれ以下に激減したと推定される。1ケタ支持率のクーデター政府は、秘密政治警察チェーカー28万人と赤軍を派遣して、軍事割当挑発システムによって農民の穀物家畜を収奪した。レーニンは、それに抵抗・反乱した農民にたいし、「富農・クラーク」というでっち上げレッテルを恣意的に貼り付け、革命農民数十万人を殺害した。それが、ソ連崩壊後に証明された歴史の真実である。この詳細は『第3部』において検証する。
「十月革命」後、ボリシェヴィキ支持の歴史学者内でも、プロレタリア革命と農民革命との複合革命だったとする見解が多く出された。しかし、レーニン・ボリシェヴィキ指導部は、その学説を抹殺し、プロレタリア革命側面だけを誇大化するロシア革命史に歪曲した。歴史の真実として、農民革命が正当に評価され、位置づけられるようになったのは、ソ連崩壊後だった。
第三、民族独立・解放革命が、他民族国家ロシアにおいて、ツァーリ・大ロシア人支配のくびきから離れて、ロシア全土で巻き起こった。なかでも、ウクライナの独立・解放革命が有名である。5万人を超えるマフノ農民軍の運動は、農民革命であるとともに、民族独立・解放革命の性格も帯びた。ダンコースが、このテーマで大著をソ連崩壊前に出版している。ニコラ・ヴェルトも3種類の一つに挙げている。ただ、この革命に関するソ連崩壊後の新データが公表・出版されていない。資料不足によって、この10部作ファイルでは、第三の革命問題を割愛する。
二重権力の成立と、10月までのそれぞれの内部変動を確認する。
二月革命後の政府形態は、臨時政府になった。「臨時」という意味は、1917年11月12日から始まった憲法制定議会選挙による正式政府までの暫定的政府のことである。臨時政府結成には、ほとんどトラブルや抵抗が起きなかった。そこには、再三の入閣要請を拒絶したボリシェヴィキを除く、主要政党すべてが入閣した。ソヴィエト内政党であるエスエル・メンシェヴィキも入閣しているからには、それはソヴィエト政府という一側面も含んでいた。よって、臨時政府がよって立つ基盤は、3つになった。(1)ボリシェヴィキを除き、ソヴィエト内2政党を含む全政党、(2)ツアーリ帝政から受け継いだままの旧軍隊、(3)ロシア革命の権力機構としての労働者ソヴィエト・兵士ソヴィエト・農民ソヴィエトである。これら3つは、方針・体質が異なるので、その内部関係・相互関係が複雑に進行した。
臨時政府は、1917年3月2日、二月革命によって成立した。それには、4回の組閣がある。「レーニンによる十月クーデター」がどういう性格なのかどうかという規定をする上で、その政党構成を見ておく必要がある。トロツキー『ロシア革命史(一)』(岩波書店、2000年)の巻末に、訳者藤井一行作成の閣僚リスト・データ(P.29)がある。それに基づいて、私(宮地)が(表)にした。ケレンスキーは3月以降エスエル党員だったので、エスエル(1)として計算した。
(表1) 臨時政府4回の組閣における政党構成
期間 |
首相 |
カデット |
エスエル |
メンシェヴィキ |
ソヴィエト勢力計 |
|
単独政府 |
3・2〜5・2 |
リヴォーフ公爵 |
5 |
(1) |
0 |
0 |
第1次連立政府 |
5・5〜7・2 |
後、ケレンスキー |
3 |
(1)+1 |
2 |
3 |
第2次連立政府 |
7・24〜8・26 |
ケレンスキー |
4 |
(1)+1 |
2 |
3 |
第3次連立政府 |
9・25〜10・25 |
ケレンスキー |
2 |
(1)+1 |
2 |
3 |
ソヴィエトと臨時政府との関係もいろいろ変化した。各ソヴィエトは、臨時政府にたいし独自性を持ち、とくに土地・平和・パン(飢餓)の3政策の対立が激化した。各ソヴィエト内で、革命運動が進展するにつれて、二重権力状態が明確になってきた。「すべての権力をソヴィエトへ」というレーニン・ボリシェヴィキのスローガンにたいする支持者が大都市において急増した。
2、ロシア革命勢力5つの規定
二月革命以降のロシア革命勢力は、5つである。それらは、臨時政府とその参加政党、および、不参加ボリシェヴィキも含めて、全国民参加の普通選挙としての憲法制定議会選挙を行い、ツアーリ帝政打倒後の政治形態を、憲法と普通選挙による議会制民主主義とすることで一致していた。1917年4月に帰国したばかりのレーニンは、5月の農民ソヴィエト大会に出席した。その大会において、彼は、憲法制定議会が始まったら農民の社会的土地所有を決定すると公約する演説をした。
第一、革命労働者である。彼らは、各工場内ソヴィエトだけでなく、地域ぐるみのソヴィエトを結成していった。工場に労働者委員会を作り、工場管理・生産自主管理も始めた。ただし、労働者総数は、ロシア全土でも約300万人で、人口の3%しかいなかった。都市にいた彼らは、飢餓が強まるにつれ、食糧を求めて農村に流出した。
第二、革命兵士・水兵である。二月革命以来のペトログラード守備隊、クロンシュタット水兵10000人・基地労働者4000人、1917年7月事件におけるペトログラード機関銃連隊などが、首都における革命軍隊に転化した。兵士ソヴィエトは、部隊内で、兵士委員会を作り、兵士たちが将校を選挙するという軍隊民主化運動を展開した。そして、労働者と連帯し、地域・地方ごとに、労働者・兵士ソヴィエトを結成した。
第三、革命農民80%・9000万農民たちは、1917年3月以降、臨時政府の反対・弾圧と戦いつつ、ロシア全土において、貴族・地主個人所有の土地を暴力的に収奪した。彼らは、各ミール共同体内で、総割り換え制による社会的共同所有にした。それは、左翼エスエルの賛成だけで、どの政党の支援も受けなかった。『第3部』でも分析するが、レーニンが十月クーデター半年後に規定した富農・中農・貧農の区別は、根拠のない詭弁だった。
というのも、総割り換え制とは、ミール内の委員会、または、農民ソヴィエトが、家族単位で、(1)働き手人数、(2)扶養人数、(3)耕地の良し悪しについて判定し、毎年か約2年ごとに、耕地を割り換える合理的・公平な土地配分システムだったからである。(1)(2)が大きいほど、その家族が年間に必要とする余剰穀物が多いのは当然である。それは、富農・中農・貧農というレーニンによる恣意的分類に当てはまらない。レーニンとクーデター政権は、その農民分類基準を明記したことが一度もない。ただ、抽象的に「余剰穀物が多いのが、富農・クラーク」と決め付けた。
第四、革命知識人たちも、大きな役割を果たした。エスエル派知識人、メンシェヴィキ派知識人、ボリシェヴィキ派知識人、アナキスト系知識人である。1917年7月事件前までは、エスエル・メンシェヴィキ派知識人がかなりの影響力を持っていた。
第五、革命党派である。1917年6月の第1回ソヴィエト大会、および、10月25日の第2回ソヴィエト大会ともに、11の党派が参加した。主な政党は、ボリシェヴィキ、エスエル、メンシェヴィキだが、アナキストもいる。
3、白衛軍との内戦とレーニンによるクーデターへの抵抗・反乱との区別
反革命勢力という場合、4つを厳密に区別する必要がある。なぜなら、レーニンは、下記4つを恣意的に同一視し、(1)ロシア革命に反対する勢力・白衛軍と、(2)レーニン・ボリシェヴィキのクーデターや誤った路線・政策に抵抗・反乱したロシア革命勢力とを、同じような「反革命勢力」「武装反革命勢力」とし、ロシア革命史の偽造歪曲をしてきたからである。レーニン路線・政策の数々の誤り、大量殺人犯罪データやロシア革命史の偽造歪曲が、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)によって発掘・公表されるには、1991年ソ連崩壊を待たなければならなかった。それは、ソ連という国家が、レーニン以来、異様で犯罪的な情報統制・情報閉鎖システムだったという真相をも証明した。
第六、チェコ軍団4.5万人の反乱勃発である。いわゆる内戦が始まった時期を確定する。チェコ軍団の反乱は、1918年5月25日だった。ボリシェヴィキ・左翼エスエル連立政府は、1918年3月、ブレスト講和条約によって、ドイツとの戦争から単独離脱した。左翼エスエルは、屈辱的な講和条約に猛反対していて、連立政府から脱退した。戦争終結後、ボリシェヴィキ単独政府とソ連内に残されていたチェコ軍団の協定が成立した。彼ら4.5万人は、協定による武装帰還を認められ、シベリア鉄道を使って、ウラジオストックからチェコに帰国する途中だった。彼らはツアーリ帝政の旧軍隊だが、反革命軍ではない。その時点では、白衛軍による内戦は起きていなかった。
ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』(現代思潮社、1998年、原著1997年、P.103〜110)において、ボリシェヴィキ政権の誤りを分析した。彼は、ソ連崩壊後の膨大なアルヒーフ(公文書)を発掘・検証し、従来のチェコ軍団反乱原因説を否定した。彼が解明した反乱理由は、軍事人民委員トロツキーが協定を一方的に破って、帰国途中の全員を武装解除・武器収奪せよという残酷な命令をしたことである。彼らは、武装解除命令を、全員虐殺指令と判断した。レーニン・トロツキーの誤りが引き起こした完全武装軍隊4.5万人の反乱は、シベリア鉄道沿線において、反ボリシェヴィキ政権の拠点をいくつも作り出した。
第七、白衛軍とツアーリ帝政復活支持の貴族・地主である。これは、文字通りで、ロシア革命にたいする反革命勢力だった。彼らとの戦闘は、まさに内戦だった。ただ、これを書くと長くなるので、ここでは省略する。ただ、内戦の基本原因について、ロイ・メドヴェージェフは、『同書』において、ソ連崩壊前に流布されていた外国干渉軍説を否定した。彼は、ソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密資料」や膨大なアルヒーフ(公文書)に基づき、内戦の基本原因を(1)憲法制定議会武力解散、(2)食糧独裁令の2つであるとした。これは、内戦原因説に関する根本的な逆説である。その詳細は、『第2部』『第3部』で検証する。
第八、コサックの反乱が発生した。1919年3月12日、ロシア共産党組織局指導者スヴェルドローフは、コサック全体にたいする無慈悲な赤色テロル指令を出した。それにたいし、コサックは反赤軍の反乱を起こした。ロイ・メドヴェージェフは、ソ連崩壊後の秘密資料を発掘し、『同書』(P.121〜124)において、「これは極めてひどい誤りであるばかりでなく、ロシアと革命にたいする犯罪行為であった」と断定した。ニコラ・ヴェルトも、『共産主義黒書』(P.107〜111)で、ボリシェヴィキの犯罪行為データを載せた。ボリシェヴィキの犯罪テロルが惹き起したコサックの反乱は、白衛軍の回復を助けた。ただ、白衛軍との内戦は、1920年夏に基本的に終わった。
第九、レーニンの連続クーデターと誤った路線・政策にたいするロシア革命勢力の抵抗・反乱である。上記5つのロシア革命勢力は、二月革命以降、10月にかけて、事実上のソヴィエト権力を勝ち取ってきていた。そのままなら、10月25日第2回ソヴィエト大会と11月12日以降の憲法制定議会選挙によって、二重権力を解決し、「すべての権力をソヴィエトへ」に基づく連立ソヴィエト政権を樹立できるはずだった。レーニンが第2回大会前日に強行した十月クーデターは、ソヴィエト革命・連立ソヴィエト政権に背き、ボリシェヴィキ単独武装蜂起・単独権力奪取政権を樹立させた。
それ以後、レーニンは、ソヴィエト革命勢力にたいし、次々とソヴィエト権力簒奪クーデターと誤った路線・政策を遂行した。ロシア革命勢力がそれに抵抗・反乱した行為は、反ボリシェヴィキ一党独裁ではある。ソヴィエト権力簒奪クーデターにたいする抵抗・反乱だった。しかし、それは、反革命ではない。レーニンは、彼の連続クーデターに反対するロシア革命勢力の抵抗・反乱のすべてにたいし、「反革命」「武装反革命」という虚偽のレッテルを貼り付けた。そして、彼は、ロシア革命勢力数十万人を殺害する大量殺人犯罪者となった。
(表2) レーニン・ボリシェヴィキによる殺人指令文書27通
対象 |
年月日 |
殺人指令文書 |
レッテル |
発令者 |
殺害数 |
農民 |
18・8・11 18・8・20 18・8・29 20・10・19 21・6・11 21・6・12 21・7・10 |
1、ペンザ暴動農民の絞首刑指令 2、富農の人質指令 3、クラーク鎮圧・没収措置の報告督促 4、タンボフ県の農民反乱への鎮圧指令 5、タンボフ農民への裁判なし射殺指令 6、毒ガス使用とタンボフ農民絶滅命令 7、タンボフ県匪賊の人質・公開処刑報告 |
暴動農民 富農 富農 クラーク反乱 クラーク反乱 クラーク反乱 クラーク反乱 |
レーニン レーニン レーニン レーニン レーニン 政治局 政治局 |
数十万 |
兵士 |
18・8・30 |
8、脱走兵銃殺命令 |
犯罪、腰抜け |
トロツキー |
数十万 |
コサック |
19・1・21 20・10・23 |
9、コサックへの赤色テロル指令 10、コサック解体・絶滅命令と絶滅報告書 |
白衛軍加担 白衛軍加担 |
スヴェルドローフ オルジョニキッゼ |
数十万 |
労働者 |
18・5・31 20・1・29 |
11、ストライキ労働者銃殺指令 12、ストライキ労働者の大衆処刑電報 |
黄色い害虫 黄色い害虫 |
ジェルジンスキー レーニン |
数万 |
水兵 |
21・2・28 |
13、最後通牒、雉子のように撃ち殺す |
白衛軍の豚 |
トロツキー |
14000 |
チェコ |
18・5・25 |
14、チェコ軍団への武装解除・銃殺命令 |
独断的行動 |
トロツキー |
45000 |
聖職者 |
22・3・19 |
15、教会財産没収、聖職者銃殺指令 |
黒百人組 |
レーニン |
数万 |
知識人 |
22・5・29 22・6 22・9・5 22・9 |
16、知識人追放指令の秘密手紙 17、反ソヴィエト知識人追放指令 18、知識人追放督促指令 19、知識人掃討・浄化指令メモ |
反ソヴィエト 反ソヴィエト 反ソヴィエト 浄化 |
レーニン レーニン ジェルジンスキー レーニン |
数万 |
他党派 |
17・11・28 18・6 18・8・9 18・9・3 21・4 21・6 22・5・15 |
20、カデット党員逮捕の布告 21、チェキスト党集会法令とレーニン指示 22、銃殺とメンシェヴィキ追放指令 23、社会革命党員の即時逮捕電報命令 24、メンシェヴィキ、エスエル逮捕銃殺命令 25、社会革命党とメンシェヴィキ壊滅作戦 26、銃殺刑の範囲拡大とテロル指令 |
反革命 武装反革命 動揺分子 白色テロル 反革命 反革命 反革命 |
レーニン他 チェキスト レーニン ペトロフスキー レーニン ウンシュリフト レーニン |
百数十万 |
総計 |
17・12・20 |
27、チェーカー創設と組織、チェキスト |
人民の敵 |
レーニン |
数十万 |
〔殺人指令文書〕27通の全文は、それぞれを別ファイルの文中に載せた。これらの指令を発したレーニンという大量殺人革命家の人間性、革命倫理をどう考えたらいいのか。未発掘の殺人指令文書や殺人指令電報などが、まだ数百通あると言われている。それらを含めれば、『レーニン全集』の裏側として、『レーニン殺人指令選集』が編纂できるほどである。
レーニンによるロシア革命勢力の殺害数は、個々の革命勢力データを単純合計すれば、百数十万になる。しかし、未確定な内容も多い。ただ、さまざまなデータを検証すると、レーニンが、最低でも総計数十万人のロシア革命勢力を殺害したことは事実であるので、一連のファイルではその数値を使っている。これは、白衛軍との内戦における双方の死者推計約700万人とは異なる。
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書の文面
『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが「殺した」自国民の推計』
〔小目次〕
2、クーデターで成立した政府とソヴィエト権力との関係をどう規定するのか
そもそも、「レーニンによる十月クーデター」説を言うだけでも、それにたいし、そんなたわごと・歴史の偽造歪曲と感情的な拒絶反応をむき出しにする左翼勢力は多い。ましてや、「レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター」説を唱えれば、「レーニン悪者」論に陥り、歴史を見失った反共主義的見解、および、荒唐無稽な珍説と思われるであろう。冒頭や別ファイルで検証したように、ヨーロッパでは、「レーニンによる十月クーデター」説がほぼ常識になってきている。日本人研究者も3人いる。しかし、ソ連崩壊後のヨーロッパ研究者たちでも、レーニンの最高権力者期間5年2カ月間の分析として、「7連続クーデター」と規定する見解は出ていない。もちろん、彼らは、以後の10部作において検証する7事件を書いて、それらをレーニン路線・政策の誤りと規定してはいる。しかし、それら事件の性格を連続クーデターとしていないという意味である。
私(宮地)は、それら7事件を、レーニンがソヴィエト権力簒奪をしていった連続クーデターと規定したい。その理由をのべる。大前提は、「十月革命」と呼ばれてきた事件が、革命ではなく、「レーニンによる十月クーデター」だったという歴史認識である。十月事件の性格認識については、E・H・カー、日本人研究者3人、上記のヨーロッパ・アメリカ人研究者たちが共有している。その認識から見れば、成立したのは、ソヴィエト権力内の24%少数派によるクーデター政府である。よって、この10部作ファイルにおいては、レーニン・ボリシェヴィキによる少数派「クーデター政府」という用語を使う。しかし、「十月クーデター」説を主張する研究者たちは、誰も、クーデター政府とソヴィエト権力とのそれ以後の関係について、連続クーデターという視点からの分析・規定していない。
1、臨時政府とソヴィエト権力という二重権力関係の変遷過程
二月革命から「十月クーデター」までにおける権力実態は、二重権力だった。ケレンスキー臨時政府と労兵ソヴィエト・農民ソヴィエトという権力が並立していた。両者の力関係は、情勢変化によって変動した。以下の段階内容は、ロシア革命史のすべての文献が一致している。
〔第1段階〕、二月革命から7月事件の間は、当初、臨時政府の権威の方が高かった。しかし、土地・平和・パンの3課題が未解決のまま、深刻化するにつれて、労兵農ソヴィエト権力にたいする支持の方が増大した。
〔第2段階〕、7月事件は、ペトログラードの労兵ソヴィエトによる自然発生的な数十万人デモだった。機関銃連隊を先頭としたデモ隊のスローガンは「すべての権力をソヴィエトへ」だった。しかし、ボリシェヴィキを含むすべてのソヴィエト内政党が反対した。ボリシェヴィキは、デモ隊にやじられて、途中からデモ支持に転換した。これに見られるように、ソヴィエト権力基盤とは、ソヴィエト内3大政党党員たちが重要な役割を果たしているとしても、あくまで、自然発生的に形成されてきた大衆的な労・兵・農ソヴィエトである。
しかし、臨時政府は、軍隊で武力鎮圧をした。ボリシェヴィキがクーデター扇動政党だとして弾圧された。レーニンは、平和的にソヴィエト権力獲得をする見込みがなくなったとの情勢規定をし、「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンを取り下げた。
〔第3段階〕、8月、コルニーロフの反乱が失敗し、ケレンスキーと軍隊との離反が拡大した。臨時政府への失望感が深まり、その閣僚政党メンシェヴィキ・エスエルにたいする支持率が急落した。それに反比例するかのように、ボリシェヴィキへの支持者が、ペトログラード・モスクワなどの都市部で急増し始めた。レーニンは、(1)再び「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンをかかげるとともに、(2)10月25日第2回ソヴィエト大会前のボリシェヴィキによる単独武装蜂起・単独権力奪取方針を指令した。
それは、レーニンが建前と本音を使い分けた二枚舌戦略だった。なぜなら、(1)「すべての権力をソヴィエトへ」方針なら、第2回ソヴィエト大会において、権力奪取を決定し、二重権力を解消した連立ソヴィエト政府と労兵農ソヴィエト権力基盤の樹立に向かうはずである。しかも、10月時点に入った二重権力間の力関係から見て、それを実現しうる現実的可能性はきわめて高かった。しかし、(2)第2回ソヴィエト大会前の単独権力奪取方針は、そのスローガンと完全に矛盾していた。レーニンは、この二枚舌戦略によって、意図的にソヴィエト権力=「すべての権力をソヴィエトへ」を裏切った。レーニンの路線転換方向の本音は、明らかに、一党独裁狙いのクーデターだった。
もちろん、ソ連崩壊前に世界中で流布していたレーニン神話や、東方の島国になお残存するレーニン信仰者の立場に立てば、レーニンの行為は、クーデターなどでなく、あくまで、十月社会主義大革命だったとなる。その根拠は、次である。レーニン型前衛党のみが、真のマルクス主義社会主義政党であり、真理を認識・体言・実行できる唯一の世界観政党である。それにたいし、メンシェヴィキ・エスエル・左翼エスエルなどは、社会主義政党を名乗っているが、真理を認識・体言・実行できない。ボリシェヴィキしか真の社会主義革命を遂行できないからには、レーニンによる単独武装蜂起・単独権力奪取は、まったく正しかった。「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」。レーニンは二枚舌など使う人間ではない!
また、私(宮地)の友人・知人の内、かなりの人たちが「スターリンと日本共産党は悪いが、レーニンは正しい」という歴史認識に固執している。私も、かつては、『レーニン全集』と公認ロシア革命史のみに基づく、熱烈な「公認文献的」レーニン信奉者だったので、彼らの心情は理解できるが・・・。レーニン文献内容と「レーニンがしたこと」との乖離・社会主義的二枚舌に気付くのに比例して、ヨーロッパだけでなく、東方の島国においても、レーニン神話は崩壊するはずなのだが・・・。
ただ、新左翼を含む日本の左翼や共産党支持者たちが、『レーニン全集』の裏側において、レーニンがロシア革命勢力数十万人を殺害したという歴史的事実・犯罪データを直視する立場に転換しないかぎり、神話はまだ生き残る。1991年ソ連崩壊から15年経っても、東方の島国におけるレーニン神話の呪縛性はなお強烈である。旧東欧・旧ソ連を含む資本主義ヨーロッパでは、国民・左翼とも、大陸地続き生情報と300万人亡命者情報とによって、その呪縛から解き放たれたのにもかかわらず。
2、クーデターで成立した政府とソヴィエト権力との関係をどう規定するのか
10月24・25日、ボリシェヴィキ部隊数千人による軍事クーデターは、死者10人〜14人程度で、見事に成功した。それは、ニコラ・ヴェルトが規定したように、「レーニンがすべてを設定した」ものだった。レーニン・ボリシェヴィキによる6つのクーデター作戦については、別ファイルで分析した。
『「レーニンによる十月クーデター」説の検証』6つのクーデター作戦
〔小目次〕
第一、クーデター政府の正当性存否
第二、クーデター政府と労兵農ソヴィエト権力との対立と、新たな二重権力性の発生
第三、レーニンによるクロンシュタット・ソヴィエト要求の弾圧・全員虐殺と一党独裁権力完成による二重権力解消
第四、一党独裁権力完成後における知識人数万人個別追放「浄化」作戦の第7次クーデター
第2回ソヴィエト大会の真相と性格を規定する。それは、(1)、レーニンが事前に仕組んだ通り、「十月クーデター」の事後報告大会だった。(2)、トロツキーの意図的な挑発演説によって、レーニンの作戦どおり、メンシェヴィキ・エスエルをして抗議の退場をさせることにも成功した。会場に残ったのは、ボリシェヴィキ代議員とクーデター支持の左翼エスエル代議員たちだけだった。(3)、その不正常・不成立の大会の名において、レーニンは、権力奪取・革命政府の樹立を宣言した。当然ながら、居残った代議員たちは、アメリカ共産党員ジョン・リードが描写したように、熱狂的に歓迎した。(4)、しかし、これは、正規のソヴィエト大会、ソヴィエト権力全体から承認された政府ではない。あくまで、労兵農ソヴィエト権力にたいするクーデター政府だった。
東方の島国における左翼は、ソ連崩壊後も、このクーデター政府の正当性をなお認めるのか。
第二、クーデター政府と労兵農ソヴィエト権力との対立と、新たな二重権力性の発生
臨時政府と労兵農ソヴィエト権力との関係は、二重権力だった。それなら、レーニンによる「十月クーデター」によって、二重権力は解消したのか。たしかに、10月25日前までの臨時政府との二重権力は解消した。しかし、別の形の二重権力に移行した。それが、(1)労兵農ソヴィエトから正式に承認されていないボリシェヴィキ単独クーデター政府と、(2)エスエル・メンシェヴィキ・アナキストを含む全国の労兵農ソヴィエト権力である。この新たな二重権力性への移行とその対立内容を認識しておかないと、その後1921年3月まで続くロシア革命史を理解できない。レーニン・スターリンの公認ロシア革命史に騙されて、歴史の真相を見誤ることになろう。
第三、レーニンによるクロンシュタット・ソヴィエト要求の弾圧・全員虐殺と一党独裁権力完成による二重権力解消
1921年3月1日、クロンシュタット・ソヴィエトの水兵10000人・基地労働者4000人は、(1)「すべての権力をソヴィエトへ。しかし、政党にではなく」という新しいスローガンと15項目の綱領を決定した。そして、ソヴィエト執行委員会の定期改選時期が来ていたので、(2)「自由で平等な新選挙」というもう一つのスローガンを掲げ、新しいクロンシュタット・ソヴィエト執行委員会の選挙を目指す運動を始めた。「革命の栄光拠点」ソヴィエトが、なぜ、十月事件の3年4カ月後に、このような新しいスローガンと綱領を掲げ、かつ、ソヴィエト執行委員会選挙に立ち上がらなければならなかったのか。
もちろん、「政党にではなく」といっても、ボリシェヴィキ排除ではなく、ボリシェヴィキ党員が立候補・選挙運動をすることは、当然とされていた。現実に、多くのボリシェヴィキ党員が新しい選挙運動に立ち上がった。「政党にではなく」とは、いずれの政党であれ、二月革命以来作り上げてきたソヴィエト革命権力を担う大衆組織としてのソヴィエト執行委員会を、政党が占拠し、引き回すやり方を拒否するという主張である。この経過の詳細は、多数の別ファイルとして載せた。
その背景には、ソ連におけるあらゆるレベルのソヴィエト執行委員会が、3年4カ月間で、ボリシェヴィキ党員により完全占拠されてしまっていたという実態がある。『第4部』で検証するが、レーニン・ジェルジンスキーは、指令を出し、全国の階層ソヴィエト・地域ソヴィエトの執行委員会から、エスエル・メンシェヴィキら他党派全員をチェーカーの暴力使用によって強制追放し、その後釜の執行委員全員をボリシェヴィキ党員に差し替える第4次クーデターを遂行してきた。クロンシュタット・ソヴィエト執行委員会も、クロンシュタット・チェーカーの暴力により、全他党派が排除され、ボリシェヴィキ党員が占拠するボリシェヴィキ一党独裁機関に変質させられていた。
ただ、執行委員会が、レーニンの指令とチェーカーの暴力により、ボリシェヴィキ党員に占拠・私的所有されたといっても、ソヴィエト構成員には、左翼エスエル・エスエル・メンシェヴィキ・アナキストなど他党派党員が多数いた。ボリシェヴィキ独裁執行委員会に対抗し、かつ、チェーカーの暴力的干渉とたたかいつつ、定期選挙を進めるには、独自の選挙運動組織を必要とした。彼らは、臨時革命委員会という名称の選挙運動母体を創設した。
クロンシュタット・ソヴィエトの1万6000人大会は、その大会に出席したカリーニンにたいし、ボリシェヴィキ政府が15項目要求を認めるよう平和的要請をした。フィンランド湾内のコトリン島にあるクロンシュタットは、戦艦2隻を含むバルチック艦隊の軍港なので、彼らは武装した軍隊による兵士ソヴィエトである。赤軍の兵士ソヴィエトによる(1)平和的要請と(2)ソヴィエト執行委員会選挙運動だからといって、それは武装反乱とは異なる。レーニンは、一切の話し合いもしないで、それを全面拒絶した。レーニンは、その平和的要請・執行委員会選挙運動を武装反乱と捏造歪曲する犯罪的なウソをついた。ソ連崩壊後、レーニンが貼り付けた「武装反乱」「白衛軍将軍の役割」というレッテルは、彼が恣意的に捏造したウソであることが、完全に証明された。
レーニンは、「白衛軍の豚たち」の軍事鎮圧命令を下した。トロツキーは、「雉のように撃ち殺す」と脅迫した。臨時革命委員会は、ボリシェヴィキ政府による軍事攻撃即時開始のニュースを受けた。しかし、彼らは、一党独裁政府の脅迫・軍事攻撃に屈しなかった。彼らは、やむなく、臨時革命委員会の性格を、15項目の平和的要請・執行委員会選挙運動組織から、クロンシュタットの軍事防衛機関に変更し、兵士ソヴィエトとして武装抵抗の準備に入った。この経過が、戦闘開始前までの真相である。戦闘開始前までにおけるクロンシュタット・ソヴィエト問題は、ロシア革命史の謎解きをする最大の焦点である。
レーニンと軍事人民委員トロツキーの命令により、トハチェフスキーは、赤軍5万人をフィンランド湾の氷上を突撃させ、武力鎮圧をした。レーニンは、コトリン島での虐殺、逮捕者の銃殺、強制収容所送りと虐殺などで、14000人とその家族たちを皆殺しにした。これが、レーニンによる第6次クーデターである。レーニンは、自らのクーデターと多数の大量殺人命令で、1921年3月にロシア革命の息の根を止めたクーデター指導者となった。クロンシュタット・ソヴィエトの虐殺・抹殺によって、レーニンは、第1次クーデター後に発生した新しい二重権力を解消し、全ソヴィエトをボリシェヴィキによる党独裁機構に変質させ、一党独裁権力を完成させた。
第四、一党独裁権力完成後における知識人数万人個別追放「浄化」作戦の第7次クーデター
レーニンは、6回の連続クーデターによって、ソヴィエト権力機構から権力を簒奪した。その結果、あらゆるレベルのソヴィエト執行委員会から他党派を排除し、ソヴィエトを党独裁の道具に変質させることに成功した。残る課題は、残存する他党派の知識人個々人や、ボリシェヴィキ路線・政策に協力しない学者・文化人たちをソ連全土から国外追放するテーマだった。1922年5月以降、彼は、秘密政治警察チェーカーに指令して、それら知識人数万人に「反ソヴィエト」というでっち上げレッテルを貼り付け、彼らをヨーロッパに追放した。彼は、それを「浄化」作戦と名付けた。
それは、ソ連国家・社会を、ボリシェヴィキ支持だけの学者・文化人・技術者の単一世界に「浄化」するクーデターだった。レーニン自身が、追放知識人の対象者をリストアップし、他リストを事前チェックした。それは、レーニンこそが、スターリンの大テロルにおける学者・文化人大量粛清や毛沢東の文化大革命に先駆けて、模範を示した旧文化破壊・追放の赤色テロル指導者だったことを証明する。
『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』
彼は、この第7次クーデター遂行の最中、1922年12月16日、第2回目の脳梗塞発作で倒れ、以後、表立った政治活動はできなくなった。レーニンの最高権力者期間は、1917年10月25日の第1次クーデターから、第7次クーデター遂行中の1922年12月16日までの5年2カ月間である。
「十月クーデター」は、ボリシェヴィキ単独政府を成立させた。左翼エスエルとの連立政府は、1917年12月9日(新暦12月22日)から、1918年3月3日ブレスト講和に反対し下野・連立解消までの3カ月間だけだった。クーデター政府とソヴィエト権力基盤とは同一にはならなかったという実態認識が、このファイル「7連続クーデター説」の前提となる。ソ連全土に結成されたソヴィエト権力の中心は、労・兵・農ソヴィエトであり、工場・部隊・ミール共同体農村ごとの単位ソヴィエトとともに、行政レベル単位ごとにそれらが結集した地域ソヴィエトだった。
ソヴィエトに参加した革命勢力は、(1)人口の3%・300万人の革命労働者、(2)数十万人の革命兵士・水兵、(3)80%・9000万の土地革命農民、(4)政党員とかなりが重なる革命知識人たちだった。それらに参加していた政党の比率の大きさは、エスエル・ボリシェヴィキ・メンシェヴィキ・左翼エスエルの順だった。アナキストも多数加わっていた。よって、クーデター政府のボリシェヴィキは、ソヴィエト権力基盤の中において、あくまで、その構成部分の一部という位置づけになる。ソヴィエト権力の一部だけからなるクーデター政府と全ソヴィエト革命権力基盤とは、さまざまな路線・政策面で対立を深めていった。
私(宮地)は、革命農民の数を、一連のファイルにおいて、80%・9000万農民としている。帝政ロシア政府が示した二月革命以前の人口統計は1億4千万人となっている。しかし、80%・9000万農民が正しいとすれば、人口は1億1200万人となる。これは、人口統計と矛盾している。ただ、当時の諸文献では、80%とするもの、9000万人とするものがあって、確定的なデータが不明である。よって、とりあえず、この数値を使う。また、労働者人口の300万人は、どの文献も一致しているが、その人口比率を3%としたり、2%として、ばらばらである。このファイルでは、人口1億1200万人説に立って、労働者3%・300万人というデータを用いる。
レーニンは、(1)労働者が3%しかいない国家を、「プロレタリア独裁国家が成立している」とするウソをついた。その実態は、ソ連崩壊後に公表・出版されたあらゆる文献が一致しているように、クーデターの最初から一貫して「党独裁国家」だった。ボリシェヴィキ単独政府は、1918年5月、土地革命を自力で成し遂げた革命農民から、穀物家畜を収奪する食糧独裁令を出し、80%・9000万農民に敵対した。革命農民たちは、1921年3月「ネップ」まで、の3年間にわたって、ソ連全土で、クーデター政府にたいし、抵抗・総反乱を起こし続けた。レーニンは、その実態を熟知した上で、(2)「社会主義支持の労農同盟が成立している」と全世界を欺いた。しかも、彼は、(3)農民反乱と白衛軍との内戦とを恣意的に混同させ、それらをすべて「内戦」とし、ロシア革命史の偽造歪曲をした。
〔第1のウソ・プロレタリア独裁国家の成立〕
1970〜80年代、資本主義ヨーロッパの共産党すべてが、ポルトガル共産党を筆頭として、レーニンのプロレタリア独裁理論の放棄宣言をした。放棄の理由はいろいろあった。
〔理由1〕、マルクス・レーニンのプロレタリア独裁理論そのものが完全に誤った理論であった。
〔理由2〕、プロレタリア独裁の実態は、最初から、ボリシェヴィキ党独裁以外の何ものでもなかった。プロレタリア独裁国家は成立していなかった。
〔理由3〕、プロレタリア独裁と呼ばれた体制は、無実のロシア革命勢力数十万人を殺害したという事実が判明してきた。
〔理由4〕、レーニンは、その大量殺人犯罪を指令しただけでなく、犯罪的な党独裁体制について、「プロレタリア独裁国家が成立している」と虚偽の宣伝をし、世界を欺いた。
これらの動向が国際的認識である。それにたいし、東方の島国の日本共産党だけが、「プロレタリア独裁」理論の訳語変更を繰り返し、現在も隠蔽・堅持している。ヨーロッパの共産党のように放棄宣言をしたことがない。このような姑息な堅持スタイルをしているのは、日本共産党だけである。
『「レーニンによる十月クーデター」説の検証』「プロレタリア独裁」に関するヨーロッパと日本
〔第2のウソ・労農同盟の成立〕
梶川伸一金沢大学教授は、ソ連崩壊後に公表・発掘された膨大なアルヒーフ(公文書)に基づいて、4冊の著書を出版した。彼は、そこでの詳細なデータによって、レーニンが「社会主義支持の労農同盟が成立している」と宣伝したのは、事実に反し、「社会主義支持の労農同盟」は成立していないことを論証した。これら4冊は、世界的にも最新のロシア革命史研究=ボリシェヴィキ権力と80%・9000万農民問題の専門的研究である。
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1917、18年
『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』クロンシュタット反乱の背景
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』十月革命は軍事クーデター
かくして、(1)「プロレタリア独裁国家が成立」のウソと並んで、(2)「労農同盟が成立」のウソも、ソ連崩壊後に暴かれた。いったい、そのような基本的テーマでのロシア革命史偽造歪曲と虚偽宣伝を全世界にばら撒いたレーニンを、どう評価すればいいのか。
少数派クーデター政府の全国支持率は、(1)1918年1月議席率24.0%→(2)1918年5月食糧独裁令以後は10%前後に激減したと推定される。その10%前後に激減事実は、1918年6月のソヴィエト選挙において、ボリシェヴィキが19の大都市ソヴィエトで惨敗したことによって証明される。そのテーマは、『第4部』で検討する。
レーニンの路線・政策が、ソヴィエト権力基盤を構成する革命農民・革命労働者・革命兵士・社会主義他党派の要求・政策と一致すれば、二重権力は解消したかもしれない。しかし、十月クーデター事件後、レーニンが遂行した路線・政策は、ほとんどソヴィエト勢力の要求を無視し、二月革命以来の革命の獲得物・権益と対立する内容であり、それらを剥奪していく根本的に誤った実質を備えていた。しかも、レーニンは、それらの誤りを、確信的な国家暴力装置理論に基づいて設置された秘密政治警察チェーカー28万人と赤軍という暴力によって強要した。その対立が激化する中で、レーニンは次々とソヴィエト権力簒奪クーデターを意図的に遂行した。
4、レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター
十月事件そのものが、レーニンによる一党独裁狙いのクーデターだった。彼は、ソヴィエト権力との二重権力性を解消する方向として、労兵農ソヴィエト・各地方ソヴィエトから権力を簒奪し、ソヴィエトをボリシェヴィキ一党独裁の道具に変質させようと企んだ。ソヴィエト権力の最後の破壊が、1921年3月、クロンシュタット・ソヴィエトの平和的要請を拒絶し、水兵・基地労働者14000人を皆殺しにした第6次クーデターである。彼は、コトリン島のクロンシュタット・ソヴィエトそのものも廃絶させてしまった。この大虐殺事件によって、ロシア革命=ソヴィエト革命は終りを遂げた。レーニンは、ソヴィエト国家という形骸化した名前だけを残存させたソ連共産党一党独裁システムを、ついに完成させた。
7連続クーデターという意味は、第1次・十月クーデターが、クーデター政府を樹立できただけで、それによって、二月革命以来のソヴィエト権力のすべてを簒奪できたわけではないという事実を指す。10月25日、第2回ソヴィエト大会で、レーニン・トロツキーは意図的にエスエル・メンシェヴィキを挑発して退場させた。それは、居残ったボリシェヴィキ代議員と左翼エスエル代議員だけによる不正常・不成立の大会だった。ロバート・サーヴィスが証拠として上げたように、大会において、「レーニンは意気高らかに演説した。『このクーデター〔perevorot〕の意義は〜』」と革命政府の樹立を宣言した。
ロバート・サーヴィス『レーニン・下』「第三部、権力奪取」(岩波書店、原著2000年)
ソヴィエト権力の一構成勢力であるボリシェヴィキが「十月クーデター」によって倒したのは、(1)ケレンスキー臨時政府である。しかし、同時に、そのクーデターは、(2)ボリシェヴィキ・左翼エスエル以外のソヴィエト権力にたいする、ソヴィエト内の単独権力奪取クーデターという二重性を持った。レーニンは、十月クーデターによって、臨時政府を倒したが、他のソヴィエト勢力を倒したわけではない。トロツキーの意図的な挑発演説によって、第2回ソヴィエト大会から退場させただけである。
そこから、少数派の一党独裁クーデター政権を、あくまで承認させようとすれば、クーデターに抵抗・反対するソヴィエト勢力・党派にたいし、彼らから、ソヴィエト権力を簒奪するクーデターを連続して行わなければならない。農民ソヴィエト、労働者ソヴィエト、兵士ソヴィエト、各行政区ソヴィエトから、ボリシェヴィキ以外の勢力・党派を排斥することが必要となった。そこから、レーニンは、批判・反対勢力を含むレベルのソヴィエト権力を、ボリシェヴィキ党員だけでソヴィエト執行機関を占有するシステムにしようと企んだ。
彼は、ソヴィエトを、ボリシェヴィキ一党独裁型ソヴィエトに変質させるため、ソヴィエト内クーデターを、各階層・行政区において、連続して強行した。それらの全経過の性質は、レーニンが、ソヴィエト権力にたいして行ったソヴィエト権力簒奪7連続クーデターとなった。その過程で、レーニンは、連続クーデターに反対するロシア革命勢力数十万人を殺害しつつ、一党独裁型ソヴィエト建設・変質に、最高権力者期間5年2カ月間を費やした。
レーニンは、不正常・不成立のソヴィエト大会によるクーデター政府承認という事実をもって、ボリシェヴィキ単独政府とソヴィエト権力とが一体化したと歴史の偽造歪曲をした。世界中の左翼が、レーニンの虚構を信じ、騙された。クーデター政府と、下部の労兵農ソヴィエト権力との対立が、レーニンの誤った路線・政策によって激化した。彼は、その誤りを撤回するどころか、下部・地方ソヴィエト権力の実質を次々と簒奪するクーデターを連続して強行した。ロシア革命勢力内部における、その性格のクーデターが連続7回あったとするのが、ソ連崩壊後に出版された、さまざまな研究文献を検証した私(宮地)のロシア革命史認識である。
この内容は、別ファイルで詳細に検証した。よって、この『第1部』続編として、そちらを見ていただきたい。
『レーニンによる十月クーデター説の検証』10月10日〜25日の16日間
以降、〔関連ファイル〕に載せたように、10部作として、7連続クーデターを検証する。個々のケースにおけるレーニンの大量殺人犯罪についても、各ファイルで検討する。
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〔関連ファイル〕
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』