警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備
謎とき・大須事件と裁判の表裏 第2部
(宮地作成)
〔目次〕
3、大須事件における警察・検察の騒乱罪でっち上げの計画と準備
6月26日 帆足・宮腰両氏歓迎報告大会準備会と会場
名古屋市警臨時部課長会議―名古屋地検検事正安井栄三出席
6月27日 毎日夕刊報道記事―名古屋市警本部「発砲も辞せず」
被告人永田末男『控訴趣意書』の安井検事正の出席有無
7月 3日 名古屋地検羽中田金一次席検事―騒擾罪適用指示を受領
大須球場大会の正式決定
7月 4日 名古屋高検藤原末作検事長―大須事件2、3日前から出張
名古屋市警による火炎ビン製造・投擲・消火・薬品の訓練
7月 5日 帆足・宮腰宿舎に至る広小路デモへの挑発・弾圧の計画と準備
7月 6日 広小路事件でっち上げ→「玉置メモ」押収
騒擾罪でっち上げ方針決定と警備・挑発体制の具体化
7月 7日 名古屋市警の各大隊長会議と挑発物・挑発者行動決定
名古屋地検3人が中署に事前出動―騒擾罪発令時刻判断
4、〔資料1〕名古屋地検・名古屋市警による騒乱罪合同研究会の内容 (別ファイル)
5、〔資料2〕挑発物=警察放送車、挑発者=清水栄警視、スパイ鵜飼照光の事前配備
6、〔資料3〕名古屋地方裁判所長の予断と偏見―騒擾罪でっち上げ中の警察への激励
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
(謎とき・大須事件と裁判の表裏)
第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備 第1部2・資料編
第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備 第2部2・資料編
第3部 2勢力の思惑による大須・岩井通り騒乱状況の認否 第3部2・資料編
第4部 騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価 第4部2・資料編
第5部 騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥 第5部2・資料編
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る
元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む
(武装闘争路線)
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ
伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
(メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」
丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介
(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」
1、共産党にたいする警察・検察のでっち上げ謀略事件例
〔小目次〕
共産党にたいする警察・検察のでっち上げ謀略事件を検証する上で、日本共産党の武装闘争路線と実行事例を確認しておく必要がある。というのも、謀略事件は、共産党の違法な後方基地武力かく乱戦争行動にたいする権力側の違法な対抗措置だったからである。ただ、国家権力側の意図はそれだけではない。彼らの基本路線は、1952年4月28日、サンフランシスコ条約・日米安保条約発効後における日本の治安体制の確立だった。合わせて、朝鮮戦争特需を利用した日本経済の復興を図る目的があった。それらを成功させるためにも、日本本土において、スターリン・毛沢東命令に隷従し、朝鮮侵略戦争参戦政党となって、火炎ビン武装闘争という後方基地武力かく乱戦争行動を全国的に開始した共産党を、真っ先に叩き潰す必要に迫られた。
火炎ビン武装闘争という違法な戦争行動には、違法なでっち上げ謀略で応える。目には目、歯には歯、違法には違法も許されるという精神状況が、警察・検察側と共産党側の2勢力双方に形成されたのが1952年度だった。日米権力によるその政治的経済的要請に応え、武装闘争共産党を壊滅させるには、共産党にたいする違法なでっち上げ謀略を仕掛けることが、全国の警察・検察にとって当然の正義の行動であると正当化された。もちろん、国家権力が、共産党の行動に違法な対応をすることは、いかなる理由があろうとも、それは国家権力犯罪の誤りである。
具体的な武装闘争実践は、下記(表1、2)のように、1951年2月23日の四全協からでなく、五全協からである。1951年4月、スターリンは、分裂争いを続け、後方基地武力かく乱戦争行動に決起しない日本共産党にいらだって、「宮本らは分派」と裁定した。宮本顕治ら反徳田5分派すべてがスターリンに屈服した。1951年11月上旬、宮本顕治は、「(スターリン執筆の)新綱領を認める」という志田重男宛自己批判書を提出し、徳田・野坂・志田らの主流派に復帰した。11月17日、宮本顕治らがスターリンに屈服したことによって統一回復をした五全協共産党は、ソ中両党命令に従って、朝鮮侵略戦争の後方基地武力かく乱戦争行動を開始した。
全国的な後方基地武力かく乱戦争行動データを載せているのは、現時点で、警察庁警備局『回想・戦後主要左翼事件』(警察庁警備局、1967年、絶版)だけである。よって、以下の諸(表)は、それを、私(宮地)の独自判断で、分類・抽出した。
(表1) 後方基地武力かく乱・戦争行動の項目別・時期別表
事件項目 (注) |
四全協〜 五全協前 |
五全協〜 休戦協定日 |
休戦協定 〜53年末 |
総件数 |
1、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪) 2、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21) 3、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行) 4、米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃 5、デモ、駅周辺(メーデー、吹田、大須と新宿事件を含む) 6、暴行、傷害 7、学生事件(ポポロ事件、東大事件、早大事件を含む) 8、在日朝鮮人事件、祖防隊・民戦と民団との紛争 9、山村・農村事件 10、その他(上記に該当しないもの、内容不明なもの) |
2 1 1 |
95 2 48 11 20 8 15 19 9 23 |
1 5 2 3 |
96 2 48 11 29 13 11 23 10 27 |
総件数 |
4 |
250 |
11 |
265 |
(表2) 武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表
武器使用項目 (注) |
四全協〜 五全協前 |
五全協〜 休戦協定日 |
休戦協定 〜53年末 |
総件数 |
1、拳銃使用・射殺(白鳥警部1952.1.21) 2、警官拳銃強奪 3、火炎ビン投てき(全体の本数不明、不法所持1件を含む) 4、ラムネ弾、カーバイト弾、催涙ビン、硫酸ビン投てき 5、爆破事件(ダイナマイト詐取1・計画2・未遂5件を含む) 6、放火事件(未遂1件、容疑1件を含む) |
|
1 6 35 6 16 7 |
|
1 6 35 6 16 7 |
総件数 |
0 |
71 |
0 |
71 |
1953年3月5日、スターリンが死去した。日本共産党の武装闘争路線と実践は、スターリン死亡4カ月後の1953年7月27日、朝鮮戦争休戦協定調印時点で、ぴたりとやんだ。このデータは、武装闘争が、ソ中両党に隷従していた日本共産党による朝鮮侵略戦争参戦の後方基地武力かく乱戦争行動だったことを完璧に証明している。宮本顕治も復帰した統一回復の五全協共産党は、党史上初めて侵略戦争参戦政党となった。
(表2)データは、(表1)から武器使用指令(Z活動)だけをピックアップしたものである。本来は、統一回復五全協が行なった武力かく乱戦争実態とデータを、六全協共産党が公表すべきだった。しかし、(1)NKVDスパイ野坂参三第一書記、(2)軍事委員長志田重男、(3)ソ中両党人事指名で指導部復帰ができたばかりの宮本顕治常任幹部会責任者ら共産党トップ3人は、ソ連共産党フルシチョフ、スースロフと中国共産党毛沢東、劉少奇らが出した「武装闘争の具体的総括も、公表も禁止する」との指令に屈服した。そして、(1)上っ面の極左冒険主義という抽象的なイデオロギー総括だけにとどめ、(2)武装闘争の具体的内容・指令系統・実践データを、隠蔽した。そして、今日に至るまで、完全な沈黙を続けている。
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ
伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル
共産党の朝鮮戦争反対や他スローガンと運動は当然で正しかった。しかし、その目的のために、共産党が採った手段である武装闘争実践は、1955年7月六全協が自ら認めたように、極左冒険主義イデオロギーによる全国的に展開された朝鮮侵略戦争参戦の犯罪行動だった。警察・検察は、それを全面鎮圧する目的のためには、手段を選ばなかった。1952年度、共産党員たちは暴力革命路線・方針を信仰していた。それと同じく、1952年度における全国の警察官・検察官たちは共産党にたいする謀略使用の鎮圧作戦を採ることも治安確立上の正義と信仰していた。1952年度こそ、共産党の武装闘争思想・実践と、それにたいする警察・検察側の謀略使用思想・鎮圧作戦とが激突した時期だった。
(表3) 1952年全国の警察・検察によるでっち上げ謀略事件例
月日 |
事件名 |
起訴 |
判決 |
概要 |
1・21 |
白鳥事件 |
3人 |
村上懲役20年、2人懲役3年執行猶予 |
札幌市共産党による白鳥警部射殺。逮捕55人。実行犯ら10人中国逃亡。村上と軍事委員7人の共同謀議存在。7人は共同謀議を自供。幌見峠の2発の弾丸を警察・検察がでっち上げ謀略。 |
2・19 |
青梅事件 |
10人 |
無罪 |
青梅線列車妨害と貨車自然流出事故。共産党の犯行とでっち上げて逮捕。 |
2・20 |
東大ポポロ事件 |
2人 |
有罪 |
東大構内のポポロ座公演に巡査3人が潜入。学生が2人に暴行。 |
4・30 |
辰野事件 |
13人 |
一審有罪、二審無罪 |
長野県辰野町の警察署・交番5個所を、警察自身が火炎ビン・ダイナマイトで爆破。解雇反対闘争中の共産党員がやったと13人を逮捕。 |
5・1 |
メーデー事件 |
253人 |
一審有罪、二審無罪 |
共産党の人民広場突入軍事方針と実行の事実。警察は馬場先門で阻止せず、道を開けた。広場に引き入れておいてから「違法な先制襲撃」。死亡2、重軽傷1500人以上。警官重軽傷832人 |
5・8 |
第二早大事件 |
起訴なし |
(喧嘩両成敗的妥結) |
私服巡査2人が、メーデー事件容疑者を調べる目的で構内に入った。学生が1人を軟禁した。警視庁は不法監禁だとして学内に500人突入。逮捕26人。学生の重軽傷者100余人、警官負傷者なし。 |
6・2 |
菅生事件 |
5人 |
一審有罪、二審無罪 |
大分県菅生村で市木(警察官戸高高徳)が共産党員2人にカンパを渡すと駐在所付近に呼び出した。直後に何者かが駐在所を爆破した。戸高高徳は上司命令でダイナマイトを運んだことを認めた。 |
6・25 |
吹田事件 |
111人 |
一審有罪15人、二審無罪 |
デモ隊1500人にたいして、警官事前動員配置3070人。警察輸送車でデモ隊脇を追越し、火炎ビンを投げさせる挑発行動。デモ終了後の流れ解散時点の吹田駅車輌内、大阪駅構内で警官隊がピストル乱射。重軽傷11人、警官重軽傷41人。 |
7・29 |
芦別事件 |
無罪 |
北海道芦別市において、鉄道爆破が発生。共産党がやったと逮捕。 |
(表4) 1952年愛知県の警察・検察によるでっち上げ謀略事件例
月日 |
事件名 |
起訴 |
判決 |
概要 |
5・7 |
愛大事件 |
9人 |
不法逮捕罪、強制罪の成立を認めたが、刑を免除 |
深夜、制服警官2人が愛大に侵入。学生らが1人を捕らえ、謝罪文を書かせた。5月19日、警察・検察は警官隊数百人を学内に突入させ、学生を大量逮捕。学長を先頭に全学挙げて権力の弾圧とたたかった。 |
5・30 |
金山橋事件 |
7人 |
全員有罪、懲役最高10カ月 |
私服警官1人が朝鮮戦争・破防法反対大会500人に潜り込んで偵察。労働者が見つけて殴り、歯が折れた。9日後に、名古屋市軍事委員長を含め7人を逮捕。大須事件ファイルに出てくる後の共産党愛知県常任委員田中邦雄中学教員も逮捕・有罪。 |
7・6 |
広小路事件 |
12人 |
全員有罪 |
翌日の大須大会参加の帆足・宮腰議員を名古屋駅で歓迎。彼らを宿舎に送って、広小路歩道上を無届デモ。名古屋市警は、米軍接収の住友ビルからデモ隊に向けて、いきなり窓枠を落とした。それを合図に、武装警官隊260人が襲いかかって、多数を逮捕。逮捕者の1人名電報細胞員から、翌日の火炎ビン武装デモ指令メモを押収した。その物的証拠を事前に掴んで、警察・検察は、翌日の騒乱罪でっち上げの計画と準備を完成させた。 |
7・7 |
大須事件 |
150人 |
騒擾罪成立。有罪116人、内実刑5人 |
共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備は事実。警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備も事実(この『第2部』)。大須・岩井通りでの騒乱罪でっち上げ謀略(次の『第3、4部』)。 |
この(表3、4)から判明することは何か。1952年度の警察・検察は、武装闘争共産党を壊滅させ、独立日本の治安を確立する目的のためには、共産党にたいする事前・事後のでっち上げ謀略作戦という犯罪手段を全国的に、および、愛知県においても、平然と遂行したことである。1952年度の政治システムにおいて、「正義・真理と信仰する」目的のためなら手段を選ばないというのは、左右2勢力の日常的倫理になっていたのか。
ちなみに、目的と手段との関係と言えば、1989年から91年、東欧・ソ連10カ国社会主義国家と前衛党がいっせい崩壊した事実から、前衛党の革命倫理を想い起こす。そこで発掘・暴露された無数の事例が証明したことは次である。
(1)、10カ国におけるレーニン型前衛党と社会主義国家とは、一党独裁権力を維持・強化する目的のためなら、他党派殲滅作戦や自国民の大量殺人を含めて手段をえらばないという犯罪的政党・国家だった。
(2)、この国家権力犯罪を遂行する暴力装置の根幹部隊は、ソ連におけるレーニン創設のチェーカー→スターリンのNKVD→ブレジネフのKGB、東ドイツのシュタージ、ルーマニアのセクリターテなどの前衛党秘密政治警察だった。三権分立を否定したレーニンは、秘密政治警察官・検察官・裁判官をすべてボリシェヴィキ党員で固めるシステムを構築した。
(3)、レーニンは、権力奪取後の5年2カ月間、左翼エスエルとの連立政権3カ月間を除いて、一党独裁国家の最高権力者だった。その間、二月革命以来のロシア革命勢力だった労働者・農民・兵士らが、レーニン・ボリシェヴィキ政権の根本的に誤った路線・政策を批判し、抵抗した。彼らの行動にたいし、レーニンは、「反革命」「武装反革命」というウソをでっち上げ、レッテルを貼り付けた。その結果として、彼が数十万人のロシア革命勢力を殺害したという大量殺人犯罪型社会主義者だった事実も証明されてきた。明らかになったレーニンの大量殺人犯罪テーマについては、多くの別ファイルで分析した。
『発掘されたレーニンの大量殺人犯罪事例』レーニンにおける目的と手段の革命倫理
警察・検察による1952年度のでっち上げ謀略事件といっても、それらは、いくつかのパターンに分類される。
〔第1パターン〕、共産党の武装闘争実行事実とそれに対抗する警察・検察のでっち上げ謀略事件
このケースは、白鳥事件と、メーデー事件・吹田事件・大須事件の3大騒擾事件という4事件である。吹田事件において、(1)警察輸送車ウィポンキャリヤが意図的に行進中のデモ隊すぐ脇を追越し、火炎ビンを投げさせたのは、騒擾罪でっち上げの事前謀略行為である。検察庁・警察庁は、メーデー事件騒擾罪でっち上げに続いて、約2カ月後の大阪でもそれを事前に企んだ。武装闘争共産党を壊滅させるという目的で、時代錯誤的な騒擾罪成立を裁判所に認めさせるには、事件を連続してでっち上げる手段を用いる方が、より高い効果が得られるからである。これが、検察庁・警察庁側における武装闘争絶滅目的と手段の国家権力倫理と言える。
しかし、(2)流れ解散後の吹田駅・大阪駅における警察のピストル乱射襲撃に関しては、別の解釈も成り立つ。それは、デモ隊の地下道通過という進路突然変更の奇策によって、騒擾罪対象のデモ隊を取り逃がし、後手に廻った警察のあせりによる事後大弾圧行為であった。よって、事前からの謀略作戦という側面はやや薄い。なぜなら、大阪府警は、国鉄駅でデモ隊を襲撃し、逮捕するという事前作戦など立てていなかったからである。
〔第2パターン〕、共産党がなんら関与していないのに、警察側が自ら事件を発生させて、共産党がやったと共産党員多数を逮捕するという100%謀略事件
これらは、辰野事件、菅生事件が典型的である。後者は、この事実経過が完璧に暴露された。起訴された共産党員たちが、事件にまったく関わっていない事実も、裁判によって完全に証明された。
田村HP『菅生事件』全経過と起訴状、判決
〔第3パターン〕、警察側が先に挑発行動を仕掛け、その罠に掛かった共産党員たちを大量逮捕する謀略事件
このケースは多い。東大ポポロ事件、第二早大事件がある。愛知県における愛大事件、金山橋事件、広小路事件は3件とも、警察による先制挑発の謀略行為だった。
〔第4パターン〕、共産党が関係しない事故を、共産党がやったとでっち上げ宣伝・大量逮捕する謀略事件
これは、青梅事件、芦別事件である。1949年には、下山事件、三鷹事件、松川事件が起き、政府と警察・検察はそれらすべてを共産党員がやったこととして、大宣伝をした。三鷹事件、松川事件では、共産党員の大量逮捕をした。
2、大須事件の2面的性質とそれぞれの位置づけ
〔小目次〕
2、警察・検察による騒乱罪でっち上げ謀略の計画・準備とその位置づけ
1、共産党による火炎ビン武装デモの計画・準備とその位置づけ
『第1部』で検討したように、共産党名古屋市委員会・軍事委員会による火炎ビン武装デモの計画・準備は事実であった。共産党の武装闘争路線とその1952年度実行における大須事件の位置づけを、(表1、2)に基づいて考える。
(1)、大須事件は全国の武装闘争事例135件の一つである。
(2)、武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動については、全国71件の一つである。
(3)、火炎ビン使用事件としては、全国35件の一つである。火炎ビン大量使用武装闘争は5月末から始まった。大須事件は、火炎ビン大量使用事件の4番目だった。5月30日新宿駅事件20本→6月25日吹田事件数十本→6月25日新宿駅事件50本→7月7日大須事件20本以上である。東京2件・大阪1件に続く、中部地方中心都市の名古屋における初めての火炎ビン武装デモ事件だった。大須事件はその4番目だが、それ以後の大量使用事件はなく、大須事件が最後となった。
由井誓『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』5月30日新宿駅事件火炎ビン20本
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』6月24・25日吹田事件数十本
(4)、大須事件は、メーデー事件をスタートとした5月以降における連続事件の5番目だった。騒擾罪適用裁判の3番目である。
(5)、白鳥警部射殺事件を含めると、大都市における本格的な朝鮮侵略戦争の後方基地武力かく乱戦争行動としては、1月21日札幌→5月1日東京→5月30日東京→6月25日大阪、東京→7月7日名古屋となる。大須事件は、共産党中央軍事委員長志田重男の指令に基づく全国の大都市を縦断する戦争行動の6番目となった。
大須事件は、名古屋市だけの孤立した火炎ビン武装デモ事件ではない。宮本顕治も復帰し統一回復をした五全協共産党が、全党組織を挙げて遂行した日本全土における後方基地武力かく乱戦争行動の一つ、しかも、その最大重点作戦の一つだった。党中央軍事委員会は、残された未決起大都市の名古屋で、強烈な火炎ビン武装デモを決行させる必要があった。
なぜなら、スターリン・毛沢東・金日成らが、ソ中両党隷従の日本共産党にたいする圧力・命令を強化したからである。彼ら3人は、アメリカ軍が介入しないとの大誤算に基づいて、朝鮮侵略戦争を開始した。一時は釜山近郊以外のすべてを占領したが、アメリカ軍の仁川上陸で敗走した。中国人民義勇軍100万人の参戦で盛り返したが、開戦2年目の1952年度は、38度線付近での一進一退の攻防で、戦線が膠着状態に陥っていた。朝鮮人党員を含んだ日本共産党にたいする国際的命令は次の3つだった。
第一、スターリン・毛沢東は、それを打開する戦争作戦の一つとして、日本における後方基地武力かく乱戦争行動を激発させることを構想し、命令した。第二、金日成は、在日朝鮮人の民戦・祖国防衛委員会・祖防隊に、「正義の朝鮮戦争支援」のため、日本全土において祖国防衛戦争の総決起をせよと指令した。第三、北京機関の徳田・野坂・伊藤律らも、日本にいる志田重男にその指令を発し続けた。北京機関とは、あらゆる資金・建物・要員を中国共産党に提供してもらっていた100%中国共産党依存症の、かつ、中国共産党隷従のかいらい組織だった。これら3方面による国際的命令と圧力の増大との関連で、1952年度の武装闘争と大須事件を位置づけることが重要である。
■赤い範囲は北朝鮮占領地域 ■青い範囲は韓国(国連軍)占領地域
「朝鮮戦争による戦死を含めた死者総数は、(1)北朝鮮250万人、(2)中国志願軍100
万人、(3)韓国150万人、(4)米軍5万人にのぼった。戦争により南北に引き裂かれた
離散家族は、1000万人以上、当時の朝鮮半島人口の4分の1になった。その内訳は、
韓国676万人、北朝鮮300万人である」(『現代韓国・朝鮮、岩波小事典』No.791)。
韓国映画『ブラザーフッド』朝鮮戦争の史実に基づく映画
宮地幸子『映画ブラザーフッドと萩原遼』萩原遼の朝鮮戦争研究
吹田・枚方事件が「大阪でたたかわれた朝鮮戦争」とも言われるように、大須事件は「名古屋でたたかわれた朝鮮戦争」とも規定できる。それらは、ソ中朝日という4つの共産党・労働党が、世界で初めて遂行した侵略戦争の一環だった。1952年度の武装闘争315件、武器使用(Z活動)71件という「日本全土でたたかわれた朝鮮侵略戦争参戦行動」の中で、大須事件を位置づけなければ、事件の本質を正確に把握することができない。
もっとも、ソ中両党隷従下の日本共産党は、国家権力を握っていなかったので、ソ中朝という3つの社会主義国家と前衛党が、周到に事前の侵略戦争準備をし、1950年6月25日に、北朝鮮軍の方が先に38度線を突破したという真相を知らされていなかった。北朝鮮系在日朝鮮人数十万人も、それを疑う者はいなかった。
一方、スターリン・毛沢東・金日成ら3人のマルクス主義一党独裁権力者は、侵略戦争開戦と同時に、大ウソ・ペテンを世界中で振り撒いた。それにより、すぐ隣の島国=朝鮮戦争兵站補給基地日本において、左翼陣営と全共産党員・シンパ、北朝鮮系在日朝鮮人は「朝鮮戦争は李承晩とマッカーサーが先に北朝鮮にたいして侵略戦争を起こした。4つの前衛党による朝鮮戦争、東京・大阪・名古屋でたたかう朝鮮戦争は、理想の朝鮮民主主義人民共和国を防衛する正義・正当な行動である」と信じ込んだ。3人の社会主義国最高権力者=偉大なマルクス・レーニン主義者が、このようなペテン宣伝を世界中に仕掛けたとは、当時の誰も疑わなかった。この大ウソ・ペテンを信じて、火炎ビン武装デモをやった共産党員の方が悪いと、それが愚かだったと笑えるのか。
2、警察・検察による騒乱罪でっち上げ謀略の計画・準備とその位置づけ
〔小目次〕
2、愛知大学事件 1952年5月7日
3、金山橋事件 1952年5月30日
4、広小路事件 1952年7月6日
1949年は、下山事件、三鷹事件、松川事件が3連続で発生し、「謀略の夏」とも言われた。1952年度は、共産党にとっても、国家権力と警察・検察にとっても、重大な転換点であり、両者による全面対決の年となった。日本共産党と朝鮮人祖国防衛委員会・祖防隊にたいする3方面からの国際的命令と圧力増大は、上記にのべた。その武装闘争共産党に対抗して、(表3、4)のように、警察・検察が多くのでっち上げ謀略事件を仕組んだのは事実だった。
検察庁・警察庁は、大須事件の火炎ビン武装デモ計画・準備をどう位置づけたのか。統一回復をした五全協共産党が全国的に武装闘争を実行していた中で、大都市における本格的な武装闘争実践が起きていないのは、名古屋だけだった。
(1)、大須事件は、共産党にたいする警察・検察の全国的なでっち上げ謀略事件の9番目である。
(2)、それは、4種類の謀略パターンにおける〔第1パターン〕最後の4番目である。白鳥事件・メーデー事件・吹田事件・大須事件はいずれも大事件で、先行した共産党の武装闘争計画・準備、または実行に対抗して、警察・検察がでっち上げ謀略を仕組んだ。
(3)、検察庁・警察庁は、東京・メーデー事件、大阪・吹田事件に次ぐ、3番目の騒擾罪適用を名古屋・大須事件で企んだ。3つの騒擾罪裁判を1952年度から同時並列的に起こし、マスコミを利用して、大々的な共産党攻撃と宣伝を展開した。それらの謀略は、武装闘争共産党の衆議院35議席を0議席に壊滅させる上で絶大な効果を挙げた。
(4)、大須事件は、愛知県におけるでっち上げ謀略事件の4番目だった。しかも、名古屋市警始まって以来の最大規模の警備体制を敷いた騒乱罪でっち上げ事件だった。
大須事件の火炎ビン武装デモ計画・準備に対抗するでっち上げ謀略作戦を検討する上で、それ以前の愛知県における3つの謀略事件を分析し、その流れの延長線として、大須事件を位置づける必要がある。1952年、愛知県警・名古屋市警・名古屋地検が、愛知県に4件ものでっち上げ謀略行為を連続して仕組んだという異様な事実をどう考えたらいいのか。
2、愛知大学事件 1952年5月7日
以下のデータは、『抵抗、愛知大学事件、一九五二・五・七』(愛知大学事件を記憶する会・自費出版、184頁、発行責任者豊島忠、2004年3月)に基づいている。最高裁までの公判資料を別として、事件52年後に出版されたこの著書によって、事件の全貌が明らかになった。私(宮地)の大須事件ファイルもそうだが、50年以上経たないと、事件によっては、その全体像が解明されないのか。
愛大事件は、でっち上げ謀略によるものであるが、その謀略に2つの側面がある。
第一、全国的な連続謀略事件における愛大事件の位置づけである。検察庁・警察庁は1952年度の全国方針として、学生運動・学生自治会への干渉・弾圧を重点の一つとした。拠点大学では、共産党学生細胞が強力になり、運動の指導部隊をなしていた。共産党軍事委員会は、メーデー事件や火炎ビン大量使用事件において、学生細胞を無届デモの先頭部隊として活用していた。2月20日東大ポポロ事件→5月7日愛大事件→5月8日第二早大事件という3連続の謀略事件は、検察庁・警察庁の全国指令に基づくものである。この事件は「三大学事件」と言われた。他にも、北大事件、東京教育大学事件など学生にたいする謀略事件がある。
第二、愛知県の謀略事件における位置づけである。5月7日愛大事件は、7月7日大須事件に至る2カ月間の4連続謀略事件のトップだった。愛知大学は、愛知県の学生運動・学生自治会、および、共産党学生細胞規模において、名古屋大学と並ぶ最大の拠点校だった。豊橋市にある大学は、中国上海の東亜同文書院の業績を戦後に生かす目的で創立された。その伝統を受け継いだ自由で進歩的な校風は全国的に知られていた。警察の愛大事件調査報告書は「愛知大学は、学生1900名中約250名が左翼と認められ、左翼的勢力の最も熾烈且つ活発な大学である」(『抵抗』P.163)としていた。愛大の共産党学生細胞には、軍事担当委員もいた。「事件後、何人かで火炎瓶づくりを寮で数人集り、トリスの空き瓶、サイダーの空き瓶で20本位作った」(P.64)というレベルにあった。
『抵抗』が詳しく記述しているが、事件以前から、愛大学生自治会・運動にたいする警察や特審局の調査活動、スパイ工作が多数あった。特審局とは、公安調査庁の前身である。しかも、進歩的な教授陣とは別に、警察・公安に大学・学生の情報を提供する他教授・課長・講師が少なくとも3人はいた。ある講師は、学生にピストルを渡し、保管を頼んだ。著書にある多数の証言を読むかぎり、彼ら3人が警察・公安の挑発者だったことは確実と推定される。
事件は、1952年5月7日夜11時30分頃、大学の垣根を越えて大学構内に侵入した豊橋警察署の制服巡査2人を、それまでの噂によって張り込んでいた学生自治会・寮生が捕まえたことである。学生らは、警官が不法侵入を認めたので、詫び状を書かせて学外へ立ち去らせた。その間は約35分だった。警察・検察側は、5月19日数百人の警察官を動員して、寮生らを大量逮捕した(P.162〜164)。裁判結果は(表4)の通りである。この裁判には、学長・学生らが一体となり全学を挙げて、最高裁までの約21年間、警察・検察の弾圧・謀略とたたかった。
翌日新聞と警官謝罪文 侵入した制服巡査の警察手帳
寮を取り囲む警官隊 引き揚げる数百人の警官隊
しかも、『抵抗』を読むと、断言は避けているが、そこには学内3人の警察スパイ・挑発者と警察とが事前に、進歩的な愛知大学全体に罠を仕掛けた疑いが濃厚である。私服刑事が深夜にたびたび、学内の挑発者官舎に情報収集に来ているという噂を流し、学生に伝え、張り込みを示唆した者の一人が、学生にピストルを渡し、保管を頼んだという講師だったことである。
私(宮地)の推理は、次である。(1)その講師が共産党愛大細胞、寮自治会の学生を示唆し、深夜に張り込ませる。→(2)そこへ制服警官2人を侵入させる。→(3)学生らに警官を捕らえさせる。→(4)学生の行為を「泥棒を追ってきた」公務の執行妨害事件とでっち上げる。→(5)数百人の警察官を動員して、寮生らの大量逮捕をする。学内の教授・課長・講師ら3人と愛知県警・豊橋市警・名古屋地検が事前に仕掛けた罠は、愛知大学という獲物を見事に捕捉した。
3、金山橋事件 1952年5月30日
以下の事件経過と裁判内容は、当時の名古屋市軍事委員長千田貞彦から私(宮地)が直接聞いた証言である。彼は、名古屋中央郵便局にいたが、共産党員だとしてレッドパージされた。その後、「アカハタ」分局員になった。そして、市軍事委員長となり、名古屋空港の航空自衛隊基地使用反対運動などに取り組んだ。軍事委員長として、名大桜鳴寮などで、たびたび軍事委員会を開いていた。そこには、大須事件被告人の名大軍事委員なども加わっていた。
5月30日、五全協共産党は、メーデー事件に続き、全党に全国統一行動を指令した。これは、共産党が、「1949年5月30日、東京都公安条例反対を掲げて約3000人のデモが都庁内に入ろうとし、この阻止にあたった警官隊と衝突、東交柳島支部車掌橋本金二が圧死した事件、および大正14年5月30日、上海において発生した反帝ストによって暴動化した事件」などを記念し、5・30記念日と名づけ、メーデー事件に継続するたたかいとして武力闘争を指導したものである。
東京では、東京都軍事委員会が指令し、新宿駅西口広場で3000人の大会を開いた。大会が不許可となる中で、東口と淀橋警察署前で、早大細胞・東大細胞・全日自労などが、火炎ビン20本以上を使った武装闘争を行った。これが火炎ビン大量使用最初の「5・30新宿駅事件」である。
由井誓『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』5月30日火炎ビン20本使用
名古屋市では、党中央指令に基づいて、共産党名古屋市委員会が、名鉄金山駅前広場で500人規模の同一趣旨大会を開いた。ただ、東京と違って、党中央による火炎ビン使用指令は、名古屋市軍事委員会にまだ来ていなかった。名鉄駅は市電軌道が通る金山橋の下にあり、橋上には制服警官数百人が配備されていた。
ところが、橋下の500人大会に、名古屋市熱田区警察署の私服刑事数人が、参加者偵察目的で紛れ込み、潜入していた。その私服一人を、全日自労熱田分会の労働者が発見した。熱田署刑事と全日自労熱田分会は、さまざまなデモ・名古屋市との交渉の場において、たびたび衝突しており、お互いに「面が割れていた」。大会は、瞬時に、私服刑事糾弾の包囲に変わった。メーデー事件1カ月後で、潜入警官にたいする参加者の憤りは抑えきれなかった。
激昂した数人が、刑事をこずき、殴りつけた。その結果、刑事の歯が折れ、鼻血が出た。金山橋上にいた警官隊は、全員逮捕で突入しようとした。そのとき、名大軍事委員が出て行って、大量逮捕指令を謀った熱田署刑事課長と「潜入した刑事の方も悪い」と話をつけた。しかし、名古屋市警は、9日後の6月に入って、いっせい検挙に踏み切り、7人を逮捕した。
裁判は最高裁まで行った。現場にいた名古屋市軍事委員長千田貞彦は最高の実刑で懲役10カ月となった。彼を含め7人全員が実刑になった。問題は、愛大事件と同じく、ここにも警察・検察の事前謀略が強く臭う。というのも、「面が割れていた」刑事を私服で500人大会に潜り込ませたという行為は、全日自労熱田分会労働者に発見させ、こずく、殴ることを意図的に挑発し、関係した共産党員を逮捕する謀略行為と疑わせる要素が臭うからである。もちろん、裁判において、名古屋市警・名古屋地検は、そのような謀略意図を認めなかった。
ちなみに、名古屋市軍事委員長は、千田貞彦が逮捕・長期の未決勾留になったので、空席になった。6月中旬、名古屋市ビューローキャップ永田末男は芝野一三を新軍事委員長に任命した。芝野一三は、はやくも、6月28日から、大須事件の火炎ビン武装デモの計画・準備という初任務に執りかかった。
4、広小路事件 1952年7月6日
これは、『大須事件の真実、写真が語る歴史への証言』(大須事件被告・弁護団、1980年7月7日、絶版)の記事と写真に基づいている。事件概要は次である。
「名古屋には大須事件にさきだつ前日の、七月六日、大須事件と深いかかわりをもつもう一つの事件があった。日本人としてはじめて社会主義国を訪問して帰った帆足・宮腰の両氏は、七月六日、名古屋駅頭に降りたった。これを迎えた名古屋市民は駅前で歓迎大会を行ったのち、名古屋駅→笹島→広小路と歩道上をデモしながら、両氏を宿舎に送っていた。
デモが伏見通りをすぎ、住友ビル(当時米軍に接収されていた)にさしかかったとき、五階の米軍宿舎からいきなり窓枠がおとされてきた。これをきっかけに警官隊がいきなりコン棒をふりかざしておそいかかり、十二名が検挙された」(P.15)
名古屋駅→広小路の歩道をいくデモ隊 米軍接収の住友ビルをかためた警官隊
デモ隊に突然落された5階窓枠 六尺棒を使って、12人を逮捕
これらの写真が事件の真相を鮮明に証明している。これは、名古屋市警・名古屋地検が、事件を自ら引き起こし、デモ参加者を大量逮捕する行為によって、翌日の火炎ビン武装デモの計画・準備状況を事前に検挙者に吐かせ、掌握しようとしたおそるべき謀略事件だった。事件発生の経過は、あまりにも不自然で作為的である。
私(宮地)は、この歩道上なら、3年間働いた職場ビルすぐ近くで、住友ビル前を数百回歩いた体験がある。住友ビルは、米軍が接収するだけに、堅固な建物で、自然事故で窓枠が落ちるようなレベルのビルではない。事件に関する私の推理は以下である。
(1)、警察・検察は、共産党による火炎ビン武装デモの計画・準備方針が出されたことを、7月2日の第2回名古屋市軍事委員会会議決定とその下部組織連絡ルートで知った。遅くとも、7月5日第3回軍事委員会会議としてのブロック・細胞の軍事代表による隊長会議決定を、その下部指令ルートから掴んだ。名古屋市警は、当然ながら、警察スパイや情報提供者を日本人細胞や朝鮮人祖国防衛委員会内に配備していた。
(2)、計画・準備状況を正確に掴むには、日本人と朝鮮人の共産党員を、なんらかの口実を作って検挙することが上策である。そこへ、7月6日の歩道デモ情報が手に入った。それはでっち上げ検挙をする上で絶好のチャンスである。
(3)、しかし、無届デモとはいえ、名古屋市公安条例違反だけでは、大量逮捕などの警官隊による実力行使をいきなりすることができない。デモ隊を挑発し、彼らが突然暴れ出すという現場状況を創作するにはどうしたらいいのか。帆足・宮腰の宿舎に行くには、米軍接収の住友ビル直下の広小路北側歩道を通る。そこまでのデモ20数分間は、無届デモ解散の警告だけにする。武装警官隊数百人を、デモ隊からの米軍宿舎防衛という名目で、ビル前にあらかじめ配備しておく。デモ隊がビル直下歩道を通過している時、5階から、名古屋市警の私服刑事がデモ隊目掛けて窓枠を落とす。他の日本人入居ビルでは、誰が落としたかが、事後追求される。しかし、米軍接収ビルなら一種の治外法権で、落とした警官を隠蔽できる。
(4)、デモ隊は怒って、ビル入口に殺到するであろう。挑発の罠に掛かったその瞬間を逃さず、暴行罪・建物不法侵入罪で大量逮捕をする。とくに、共産党員の顔を熟知している私服刑事も配置して、党員と判明できる者を計画的に検挙せよ。逮捕した共産党員から直ちに、翌日の火炎ビン武装デモの計画・準備状況を吐かせよ。手帳・メモ・書類すべてをぬかりなく押収せよ。
名古屋市警・名古屋地検は、挑発の罠を見事なまでに成功させ、デモ隊12人を捕獲した。そのほとんどが共産党員だった。その内の一人が名古屋中央電報局細胞の玉置鎰夫だった。
名古屋市Bブロックの労働者最大拠点細胞である名電報細胞のLC(指導部員)は3人で、軍事担当(Y部)が山田順造だった。他ファイルでも述べたように、火炎ビン武装デモ指令メモ7枚中の1通(玉置鎰夫宛)が、大須事件前日の7月6日、警察に渡った。
7月4日、市軍事委員兵藤鉱二は、5日の隊長会議前、山田順造に、市軍事委員会の指令を与えた。『検察研究特別資料』(P.184)の内容は次である。
「(イ)、帆足、宮腰講演会の政治的意義に関連し、中日貿易は日共を中心とする労働者が武器を持って闘うことによってのみかちとられるものであること。
(ロ)、従って、この大会には労働者がへゲモニーをとる必要があること。
(ハ)、又、この大会には全部で二千個の火焔瓶が参加者によって持ち込まれるが、電報細胞員及びその同調者はそれぞれ一個の火焔瓶を持って参加すること。
(ニ)、瓶とガソリンは各自準備すベきだが、他の薬品は軍事部から無料で供給する、又その製造方法も教える。
(ホ)、又、中核自衛隊は更に高度の武器を持って参加する予定である。
といったものであってこの指令を電報細胞員に伝えることを命じた。
そこで、山田順造はこの指令に基づき『七月七日の帆足、宮腰大会における各人の任務について』と題する電報用紙を利用したレポ七枚を作成し、それぞれアルファベットの略号を表記して片山博を初め電報細胞員に兵藤の指令内容をそのまま伝達したのであった。
この七枚のレポのうちY部RからAに宛たもの、即ち軍事担当山田から玉置に宛てたレポが、七月六日逮捕された十二名中の一名である玉置の所持していたもので、前記の如く七月七日における警察当局の警備の発端を為したものである。」
名古屋市警・名古屋地検は、「玉置レポ」を押収でき、想いもかけぬほどの貴重な獲物に狂喜した。なぜなら、その物的証拠があれば、翌7月7日に、武装警官隊1000人の違法な先制攻撃によって騒乱罪をでっち上げても、「玉置レポ」内容は騒乱罪の決定的証拠の一つとして公判維持の最良の武器になるからである。警察・検察は、絶対的自信を深め、7月2日、乃至、7月5日以来、秘密裏に企んできた騒乱罪でっち上げの計画と準備の最終仕上げにかかった。東京・メーデー騒擾事件、大阪・吹田騒擾事件よりも、名古屋・大須騒擾事件の方を、名実ともに日本一の立派な騒擾罪に仕立てる決意を固めた。
5、愛知県の3事件に共通する特徴と大須事件への連結
愛知大学事件→金山橋事件→広小路事件という3事件には共通する特徴がある。(1)、事前挑発の罠で、警察・検察が狙った獲物は、武装闘争共産党である。(2)、ただ、学生の不審者張り込み、500人大会、歩道上の無届デモにおける参加者は、なんの武器も持たず、警察への攻撃意図もなかった。(3)、それを大量逮捕するのには、警察・検察による先制挑発行為を必要とした。大須事件に先行する3つのでっち上げ謀略手口は、それぞれの相違性を持ちながらも、大須事件の手口に連結された。
(表5) 愛知県4事件における先制挑発と謀略手口
月日 |
事件 |
内部挑発者 |
警察挑発者 |
警察挑発物 |
検察の起訴 |
5・1 |
メーデー事件 |
なし |
なし |
なし |
騒擾罪 |
6・25 |
吹田事件 |
なし |
なし |
(警察輸送車) |
騒擾罪 |
5・7 |
愛大事件 |
教授・課長・講師3人 |
制服警官2人 |
講師のピストル |
公務執行妨害罪 |
5・30 |
金山橋事件 |
/ |
熱田署刑事 |
/ |
公務執行妨害罪 |
7・6 |
広小路事件 |
/ |
(5階の刑事) |
ビル5階窓枠 |
公務執行妨害罪 |
7・7 |
大須事件 |
スパイ鵜飼昭光 |
清水栄警視 |
警察放送車 |
騒擾罪 |
3、大須事件における警察・検察の騒乱罪でっち上げの計画と準備
このテーマに関して、被告・弁護団は、公判において鋭く追求している。しかし、騒乱罪でっち上げを謀っていた警察・検察は、公判において、さまざまな偽証、証拠隠しをした。その国家権力犯罪の壁は厚く、警察・検察の計画・準備について、暴露され、証明された事実は少ない。ここで、そのわずかな証拠だけを並べる書き方もある。しかし、それだけではやや説得力に欠ける面が出る。
そこで、私(宮地)は、明白な証拠だけで争う公判スタイルから意図的に逸脱して、事件52年後における私の推理を交えて書くことにする。推理が含まれれば、それは、別の意味で、説得力を欠く要因にもなる。そのため書き方を、2通りに分ける。第一、明白な証拠は、青字、または、青太字にする。第二、私の推理個所は黒字、または、黒太字にする。ただ、随時赤太字も使う。以下は、「騒擾罪」と「騒乱罪」とを併用する。正式な刑法用語は騒擾罪で、被告・弁護団は「擾」が当用漢字にないという理由で「乱」を使っているが、いずれも同じだからである。
『第一審判決』は、共産党による火炎ビン武装デモの計画・準備事実を、6月28日から7月7日までの時系列別に認定した。私もそれに倣って、警察・検察の騒乱罪でっち上げの計画・準備を、6月26日から7月7日までの時系列別に分析する。
〔小目次〕
6月26日 帆足・宮腰両氏歓迎報告大会準備会と会場
名古屋市警臨時部課長会議―名古屋地検検事正安井栄三出席
6月27日 毎日夕刊報道記事―名古屋市警本部「発砲も辞せず」
被告人永田末男『控訴趣意書』の安井検事正の出席有無
7月 3日 名古屋地検羽中田金一次席検事―騒擾罪適用指示を受領
大須球場大会の正式決定
7月 4日 名古屋高検藤原末作検事長―大須事件2、3日前から出張
名古屋市警による火炎ビン製造・投擲・消火・薬品の訓練
7月 5日 帆足・宮腰宿舎に至る広小路デモへの挑発・弾圧の計画と準備
7月 6日 広小路事件でっち上げ→「玉置メモ」押収
騒擾罪でっち上げ方針決定と警備・挑発体制の具体化
7月 7日 名古屋市警の各大隊長会議と挑発物・挑発者行動決定
名古屋地検3人が中署に事前出動―騒擾罪発令時刻判断
6月26日 帆足・宮腰両氏歓迎報告大会準備会と名古屋市警臨時部課長会議
〔小目次〕
2、名古屋市警臨時部課長会議―名古屋地検検事正安井栄三出席
1、帆足・宮腰両氏歓迎報告大会準備会と会場
これは、『大須事件の真実、写真が語る歴史への証言』(以下略称『真実・写真』とする)の記事と写真である。
「この準備会のもとめに応じて、七四名のひとびとが、世話人になることを承諾した。世話人名簿には、愛知県選出のすべての国会議員、愛知県、名古屋市をはじめとする各地方議会の議長、豊田自動織機社長石田退三氏ら経済界の大物、愛知大学教授桑島信一氏らの名前がのせられている。
愛知県下の労働組合・民主団体は、もとよりこの大会の趣旨に全面的に賛同し、愛知県地方労働組合評議会、名古屋市職員組合、全自動車東海支部、民主商工会、日ソ親善協会、朝鮮民主統一戦線など代表を世話人におくり、大会成功のため、それぞれ活動した。
日本共産党名古屋市指導部は、この大会を成功させるために、全組織をあげてその宣伝と当日の動員に努力することをきめるとともに、大会が終ったのち、日中貿易再開、朝鮮戦争反対、単独講和反対の要求をかかげて、デモ行進を行う計画をたてた。」
準備会の依頼状 共産党ポスター 共産党作成チラシ
準備会の依頼状は、5都市での歓迎報告大会の日程表を載せている。
「七月一日東京・新宿スケート場、三日大阪・南海球場の予定、四日神戸、五日京都、七日名古屋市の第一会場商工会議所大ホール・第二会場大須球場の予定」。
その後の情報で、名古屋市警・名古屋地検は、関西の大会後に、聴衆と警察との衝突があったとの報告を、大須事件前までに入手した(『検察研究特別資料』)。
2、名古屋市警臨時部課長会議―名古屋地検検事正安井栄三出席
やや長くなるが、名古屋地検検事正安井栄三が、なぜ名古屋市警臨時部課長会議に出席していたのか、さらに、その出席をなぜ隠蔽しようとしたのかという謎の理由を、まず推理する。というのも、6月26日の会議は、大須事件の騒擾罪でっち上げ謀略作戦の決定的な第一歩となったからである。
5都市での歓迎報告大会日程情報を、共産党中央軍事委員会と検察庁・警察庁とも、当然ながら6月26日の数日前に掴んだ。共産党は、中国共産党と北京機関からの直接連絡ルートで事前に入手した。両者とも、この情報に喜び、この機会を有効に利用するよう、瞬時に5都市の該当機関に緊急指令を出した。
共産党中央軍事委員会は、(1)5月1日メーデー事件・火炎ビン使用なし、(2)5月30日新宿駅・火炎ビン20本使用事件、(3)6月25日新宿駅・火炎ビン50本使用事件、(4)6月25日吹田・火炎ビン数十本使用事件など、東京3件、大阪1件となる朝鮮侵略戦争の後方基地武力かく乱戦争行動の総決起を大都市で連続して発生させてきた。ソ中両党と北京機関は、その「日本における朝鮮戦争」を高く評価し、隷属下の日本共産党にたいして、日本人民と在日朝鮮人を引き続き決起させるよう指令していた。
5都市のうちで、火炎ビン大量使用の総決起事件を起こしていないのは、神戸・京都・名古屋だった。しかし、影響力のある大都市となると、当然、名古屋が第一候補となった。しかも、神戸・京都はまだ会場も決まっていなかった。党中央軍事委員岩林虎之助は、以前から、中日本ビューロー員として東海北陸地方の各県党組織を武装闘争に決起させる任務を帯び、軍事委員長志田重男の命令を受けて名古屋を拠点にしつつ、配備されていた。名古屋では、共産党員桜井紀自由法曹団所属弁護士が、彼にアジトを提供していた。岩林虎之助は、党中央軍事委員長の密命を受けて、直ちに、名古屋市大須球場大会後の火炎ビン武装デモの計画と準備に取りかかった。
検察庁・警察庁は、共産党と同じ視点から、第三の騒擾罪でっち上げ適用の第一候補を名古屋市大須球場大会後のデモと定めた。東京・大阪4件発生を受けて、警察・検察の不手際・取り締まりの生ぬるさにたいする日米権力からの批判・不満が高まっていた。このレベル・規模の事件の連続発生をまたまた許せば、「独立」直後日本の政治経済上の大問題になるばかりか、朝鮮戦争の兵站補給基地日本の治安が崩壊しかねない事態に陥る。検察庁・警察庁の面子は丸つぶれになる。武装闘争共産党を徹底的に破壊・殲滅する上で、7月7日名古屋大須球場大会後のデモは、警察・検察にとっても、歓迎すべき騒擾罪でっち上げの絶好のチャンスと映った。ここで、共産党デモを包囲殲滅し、以後、共産党による火炎ビン武装闘争を起こさせないほどに、完璧に叩き潰す必要があった。
それだけでなく、検察庁・警察庁にとって、メーデー事件、吹田事件の不手際・ミスを絶対繰り返してはならなかった。
第一、メーデー事件では、騒擾罪裁判の当初から、警察側の違法な先制攻撃だったかどうかが大問題になっていた。人民広場内において、流れ解散状態にあったデモ隊7000人のごく一部が警官隊を攻撃する意図も見せず、やや離れた前方で渦巻きデモをした。それにたいして、二重橋前の警官隊長が21人・70発の拳銃発射による先制攻撃と警棒を振りかざした一斉突撃を命令した。その違法な実態を多数の証拠写真が証明していた。違法な先制攻撃ととられないレベルの、もっと巧妙な騒擾罪でっち上げをすべきだった。とりわけ、警官隊を攻撃させる挑発者・挑発物を事前に配備しておくべきであった。メーデー事件裁判中だったが、東京地検・東京警視庁は内部で密かに自己点検・反省をしていた。
『検察特別資料から見たメーデー事件データ』「部外秘」『メーデー騒擾事件の捜査』
第二、吹田事件では、警察輸送車がデモ隊の真横を挑発的に追い抜こうとして、火炎ビンを投げられた。しかし、それはごく一部の行為で、デモの隊列はなんら崩れず、行進を続けた。本来なら、火炎ビンを投擲された時点で、警察輸送車を止めて、乗っていた警官隊26人がデモ隊1000人と大乱闘をすれば、騒擾罪の完全証明となった。しかし、警察指揮官は、止めずに逃げ去った。折角の騒擾罪でっち上げ挑発物となる警察輸送車を有効に使えなかった。
その後、大阪府警数百人は、吹田操車場を出たデモ隊が吹田駅に向う前方で待機し、デモ隊を捕捉殲滅しようとした。しかし、デモ隊指揮者の咄嗟の判断で地下道に曲がられて獲物を逃がした。本来なら、その時点で、地下道の出口を瞬時に封鎖し、そこへ催涙弾を撃ち込んで、入口との両側から全員逮捕をすべきだった。現場隊長は、それを指示しなかった。
あわてふためいた大阪府警警官隊は、後手後手に追い込まれ、国鉄吹田駅に突入した。その上、流れ解散して、すでに発車寸前の列車に乗り込んでいたデモ隊にたいして、先制的に違法なピストル乱射をして、大量逮捕をした。この内容は、大阪府検が『吹田事件・検察研究特別資料』において、大阪府警のやり方を批判しているものである。
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』『吹田事件・検察研究特別資料』を含めた分析
検察庁・警察庁は、5、6月の流れを分析し、そこから、名古屋大須球場大会後に、共産党が必ず火炎ビン武装デモを実行すると推定した。警察・検察の面子にかけても、メーデー事件・吹田事件の不手際・ミスを三度犯さず、かつ、騒擾罪でっち上げの計画と準備体制を万全に仕立てなければならなかった。
検察庁・警察庁首脳は、このままでは、メーデー事件・吹田事件とも騒擾罪不成立=起訴者全員無罪になるかもしれないと心配した。検察庁は、メーデー事件、吹田事件の教訓と不手際を必死で研究し、吹田事件後に、全国の高検検事長・地検検事正会議=「会同」を招集した。その後、大須球場日程情報が入ったなかで、名古屋高検検事長藤原末作と名古屋地検検事正安井栄三にたいして、騒擾罪でっち上げ謀略の計画と準備を、万全抜かりなく仕上げるよう指令した。これは、上意下達の国家権力ルートである。とくに、警察・検察が完全一体となって、事前に違法な癒着体制を作ってでも、騒擾罪を何がなんでも成立させよと命令した。
大須事件・裁判の謎の一つは、下記に分析するように、事件発生前から、警察・検察の完全一体・癒着体制がなぜできていたのかという問題である。これは、メーデー事件・吹田事件と比べても、異様なほどの一体化で、他都道府県の警察・検察がどうしてそこまでやれたのかと不思議がったレベルだった。その原因は、検察庁ルートと警察庁ルート双方からの名古屋地検・名古屋市警への上意下達の癒着命令があったと考えるのが妥当である。高検検事長藤原末作と地検検事正安井栄三、および、名古屋市警本部長宮崎四郎は、その命令への絶対服従と共産党火炎ビン武装デモの殲滅作戦遂行を誓った。彼ら3人は、検察庁・警察庁首脳による尋常ならざる期待と命令に奮い立った。
ちなみに、その指令スタイルは、共産党側の党中央軍事委員長志田重男→党中央軍事委員岩林虎之助→共産党名古屋市ビューロー・キャップ永田末男、名古屋市軍事委員長芝野一三というDemocratic Centralismの上意下達軍事規律ルートと同質である。レーニンが創作し、分派禁止・除名という党内民主主義抑圧規定と結合させた組織原則は、その成立経緯からいって、まさに、暴力革命・武装蜂起のための革命軍隊の規律そのものだったからである。
『なぜ民主集中制の擁護か』Democratic Centralismの3つの虚構
以下は、『真実・写真』(P.11)に載った言動である。
「騒乱罪適用は準備されていた
大須球場での大会後のデモ行進に対し、騒乱罪を適用してのぞむことは、六月二十六日に、すでにきめられていた。
五月一日には東京でメーデー事件、六月二五日には大阪で吹田事件が発生した。そのあとをうけて、名古屋市警本部は二六日、急きょ臨時部課長会議を安井検事正出席の上ひらいた。
この会議は、大衆運動に対する取り締り方針を一八〇度転回した重大な会議であった。安井検事正は証言の中で、「いわゆる公安事件について警察が消極的だったような気がしたんで、それでもう少し積極的にやったらどうかと話した。それで警察もそれを感じて取締を積極的にやりだした」とのべている。
また宮崎四郎名古屋市警本部長は、「警苑」五周年記念特別号で、
「ここに於て本部は二六日、急きょ臨時部課長合議を開いて、集団斗争の取締方針について、あらゆる資料を慎重に検討し、長時間にわたる熟議の結果、従来の隠忍自重の態度も自ら限界があり、この際これを一擲し、治安維持上必要な段階に於て、市民又は警察吏員の生命財産を保護するため、最悪の場合には武器の使用も巳むなし、爾今強力かつ積極的な方針を以て臨むべきである。との結論に到達した時には、全幹部の眉宇に、不退転の決意が漲っていた。名市警健在なりと心中喜んだのは私一人ではなかったと確信する。この方針を……、安井検事正から力強い支持激励を与えられ、百万の味方を得た以上の心強さを感じたことであった。」とのべている。
6月27日 毎日夕刊報道記事―名古屋市警本部「発砲も辞せず」
被告人永田末男『控訴趣意書』の安井検事正の出席有無
これも、『真実・写真』(P.11)に夕刊写真付で載っている。6月27日夕刊の見出しは「集団暴力に強硬態度―名古屋市警本部『発砲も辞せず』」とした。その内容として、名古屋地検安井検事正の出席を伝え、発表声明の内容を報道した。
被告人・共産党名古屋市委員長永田末男は、『七・七大須騒擾事件控訴趣意書』(一九七〇年十一月)(P.81)において、このテーマに関し、安井検事正の出席有無について、次のようにのべている。彼の出席有無は重大な意味を持つ。
「市警機関誌『警宛』昭和二八年、五周年記念特別号において、われわれを直接弾圧した市警の最高責任者宮崎四郎本部長は、此の会議の後の時期に、会議で打ち出された方針を名地検安井検事正に報告したように書かれている。しかし、翌六月二十七日付の毎日新聞夕刊には、安井検事正か出席していたと報道されている。
そしてまた、此の会議に出席した当時の市警防犯少年課長警視清水栄証人は、昭和三十一年九月七日原審法廷で、同会議に安井後事正が出席した事実を認めている。彼は、この会議について「会議の目的は、名地検の安井後事正に、愛大事件についての話を聞くためと、もう一つは高田派出所事件(六月二十六日早朝発生)があったためで、批判をするための臨時的なものだった」と竹田哲裁判長の尋問に答えている。もっとも安井検事正は愛大事件の説明をするために来ただけで、高田事件の話が出たのは安井検事事正が帰った後だったとは証言している。
この場合、決定的に重要なことは、他の警官、検察官証人の否定した安井検事正の会議出席の事実を清水栄が証言しているということである。この、安井検事正出席についての清水証言と翌日の毎日新聞の記事をあわせて、前記宮崎本部長の手記を綜合的に検討したとき、真の歴史学者は「昭和二十七年六月二十六日の市警臨時部課長会議に、名地検安井検事正は出席し、市警の集団暴力に対する強硬態度決定に重要な役割を果し、ここに日ならずして発生した七月七日の大須事件に検警一体の緊密な協同作戦が成ったのである」と、学問的良心と確信をもって推論づけるであろう。
このように見なければ、欠陥だらけの多くの証言と証拠を矛盾なく綜合的、科学的に判断し、事案の真相を究明することはできないのである。そして、少くとも、この程度の判断ができなくては、裁判官とは言えないのである。しかるに、原判決をみれば明らかなように、この重要な安井検事正はおろか六月二十六日の市警臨時部課長会議も、市警の警備態勢を扱った判決文「第三款」から、全く姿を消しているのである。このことは、本件を「名実共に日本一の事件に仕立上げたい」とまで言明して、むしろ自己の栄達の好材料が天佑によって名古屋の地に授けられたと言わんばかりに欣喜雀躍して迎えた名地検検事正安井栄三の在天の霊に対しても、甚だしい非礼に当る重大な事実誤認と言わなければならない。」
7月3日 名古屋地検羽中田金一次席検事―騒擾罪適用指示を受領
大須球場大会の正式決定
7月3日かそれ以前、名古屋地検羽中田金一次席検事は、名古屋地検安井検事正、名古屋高検藤原検事長に会い、騒擾罪適用に関して相談し、具体的な指示を受けた。なぜ、その月日を「7月3日かそれ以前」としたのか。それは、下記で、被告人永田末男が控訴趣意書でのべたように、「名古屋高検藤原検事長が、事件の2、3日前から出張していた」という事実に基づく推論である。
1、名古屋地検羽中田次席検事―騒擾罪適用指示を受領
名古屋地検・名古屋市警合同研究会での羽中田次席検事挨拶内容 (『真実・写真』P.13)
「当時私は検事正の命を受けまして、中署に参って居て割に早い機会に騒擾罪の判断を下した次第でありますが、実は楽屋裏を打ち明けてみますと、之は私はスポークスマンに過ぎなかったのでありました。幸にして検事長、検事正両上司とも騒擾罪の経験が御座いまして、前以て色んな場合を想定して、こういう云う場合にはこうだと云う御指示が御座居まして、それによって幸い適切な判断がし得た事と考えて居ります。」
被告人永田末男の『控訴趣意書』(P.84)
永田末男は、「名地検『三人の侍』の中署事前出動問題」として、羽中田次席検事挨拶内容を引用した上で、次のようにのべている。
「ところが、彼及び寺尾、中島らは、法廷での証言では、申し合わせたように言を左右にして『前以て色んな場合を想定したり、指示をうけたり』した事実を否定している。これは明白な偽証である。検察官自らが、三人までそろいもそろって法廷で偽証していることは明らかなのに、裁判所は此の事実に目をおおい、三検事の中署出張の事実を黙殺してしまった。検察官が事件後日の浅い昭和二十七年八月四日、名地検会議室で、地検・市警合同の研究会の席上述べたことを文書化したものよりも、法廷で述べたアイマイな証言の方を重しとした。」
2、大須球場大会の正式決定
被告・弁護団が最高裁に出した『上告趣意書』(P.93)は、「公調(公判調書)」に基づいて、大須球場大会の正式決定月日を載せている。
「七月七日に名古屋において、帆足・宮腰両氏の歓迎報告大会を開くとぃうこと、が決まったのは、六月二六日頃であった。そして、七月三日の第一回準備世話人会において、まず業者を対象とした報告会を七月七日午後一時半から商工会議所ホールで、また、大衆を対象とした報告大会を午後六時から大須球場において、それぞれ開催することなどが正式に決定された (伊藤長光証人、第二八回公調)。」
7月4日 名古屋高検藤原末作検事長―大須事件2、3日前から出張
名古屋市警による火炎ビン製造・投擲・消火・薬品の訓練
1、名古屋高検藤原末作検事長―大須事件2、3日前から出張
被告人永田末男は『控訴趣意書』(P.85)において、藤原検事長の事件前出張事実の証拠を挙げ、かつ、羽中田次席検事にたいする騒擾罪の想定指示の月日を特定している。私(宮地)の推定では、彼の出張先は、東京の検察庁・検事総長であり、その目的は、名古屋高検検事長を交えて、検察首脳が、第三番目の騒擾罪でっち上げ謀略作戦を練り上げることだったと考える。
「ところで、安井栄三証人の証言によれば、当時の名高検検事長藤原末作は、事件の二、三日前から出張で名古屋を留守にし、事件についても安井検事正が翌八日、検事長に電話で報告している(証人安井栄三公判調書16号17丁)というのであるから、羽中田のいう検事長、検事正から「前以て色んな場合を想定して、こういう場合にはこうだというど指示」をうけたのは、事件の少くとも三、四日前またはそれ以前ということにならねばならない。」
2、名古屋市警による事前の火炎ビン製造・投擲・消火・薬品の訓練
被告・弁護団の『控訴趣意書』(P.284)は、次の「公調(公判調書)」を載せている。全文は〔資料編〕にあるが、ここは(抜粋)にする。ただ、月日について、「大須事件前」は確実だが、正確には特定できていない。以下に、消火方法の実験と濡れむしろの効果がないが、火焔瓶被投擲のおとりにする警察放送車に濡れむしろを事前配備することも方針として決定されたはずである。
「名古屋市内の警察署に於て、火焔瓶を作成して実験した点について、例えば証人嶋田信彦は次のように証言している。
公調(公判調書)206号 証人嶋田信彦
45、それはどうして、あなたにわかったんですか。
以前に空地だつたか、外の空地だつたか知らんがそこで火焔瓶の実験をしたことがあります。それで大体火焔瓶というものはこんなものであるという予備知識を受けたことはあります。
46、そうすると東署で署員に対して、火焔瓶というものはこういうものだということを知らせ教養づけるために火焔瓶を投げて火を出すというようなことを実験したようなことがあるわけですか。
ええ、あります。
51、それはいくたりぐらいの人を集めてやったんですか。
まあ何回かくり返されたと思いますが、僕のみておったときは四、五十名ぐらいだつたと思いますが。
55、当時すでにあなた方に火焔瓶による被害に対する対策として何らかの薬品が渡されておるということはありませんでしたか。
ええ、ありました。
56、それはいつどんなものが渡されたんですか。
それはその大須の前だと思いましたが、個人に渡ったか、派出所単位に渡ったかそれは記憶ないですが、白い粉でもし火焔瓶が遠くで割れた場合は煙でぱっとなるだけですが、きわであったとか硫酸がはいっておる関係でそういうものが、顔や衣類についた場合にそれを洗浄する薬ですが、洗いとるかぬぐいとるというような薬だったと思います。
220、それから、火焔瓶の実験ですが、大須事件の前どのくらいのことでしようか。
日にち的には記憶ないですね。大体前であるということは、、、、、。
224、どういうことで証人自身は実験を御覧になるようになったんでしょうか。
こういう実験をやるから集まれというから集まったわけです。」
7月5日 帆足・宮腰宿舎に至る広小路デモへの挑発・弾圧の計画と準備
この7月5日項目は、事件全体の前後経過に基づく、私(宮地)の推論である。
7月5日は、大須事件の2日前だった。6月末、すでに火炎ビン使用事件が3件発生していた。(1)6月25日広小路通りのP・X襲撃事件、(2)中村県税事務所襲撃事件、(3)6月26日高田派出所襲撃事件である(『検察研究特別資料』、第一審判決・第二審判決)。これらは朝鮮人祖国防衛委員会が「名古屋における朝鮮戦争2周年」として実行したものだった。
一方、共産党名古屋市軍事委員会は、(4)6月28日軍事委員会会議をスタートとし、(5)6月29日から7月4日にかけて、火炎ビン武装デモの計画と準備を具体化し、日本人の共産党下部組織、朝鮮人の祖国防衛委員会の下部組織に方針の徹底と計画・準備を指令していた。これら会議データは、第1部〔資料編〕にある。
名古屋市警・名古屋地検は、その中で、7月7日火炎ビン武装デモの計画・準備の具体的情報を入手した。検察・警察は、完全に一体化し、全力を挙げて、共産党と朝鮮人組織動向の情報収拾に当たった。私服警官数百人を総動員し、かねてから目星をつけてある共産党事務所・アジト、朝鮮人祖国防衛委員会事務所や幹部自宅にたいする張り込み、日本人共産党幹部・朝鮮人幹部にたいする尾行・張り込みを展開した。名古屋市警は、私服警官や警察スパイ網を通じて、第1部〔資料編〕にある会議情報を続々と収拾し、武装闘争共産党の殲滅作戦を、東京に出張していた藤原検事長や検察庁・警察庁首脳とも緊密な連絡を取りつつ、具体化していった。
その中で、警察・検察は、翌7月6日、帆足・宮腰両氏が名古屋駅到着時に駅頭において歓迎集会が開かれるだけでなく、宿舎に向けて、共産党と朝鮮人祖国防衛委員会が、名古屋駅→笹島→伏見通り→広小路→栄町への無届デモを決行するとの情報を掴んだ。しかも、無届デモは、広小路を東西に通る市電の北側歩道上を進むとの情報も確認した。
警察・検察は、この無届デモを2つの面から、絶好のチャンスと位置づけた。
第一、無届デモ隊に挑発者・挑発物を事前配備し、デモ隊が挑発にどういう反応を示すかの実地実験をする。デモ隊は、宿舎位置との関係から、広小路にあるアメリカ駐留軍接収の住友ビル直下の北側歩道を必ず通る。ビル5階に名古屋市警の私服刑事を配備する。その刑事の秘密任務は、デモ隊が直下を進んでいる瞬間に、5階窓枠がデモ隊を直撃するように落す。その挑発者・挑発物にたいするデモ隊の反応次第によっては、翌7月7日の火炎ビン武装デモ隊にたいする挑発者・挑発物の配備の有効性が確かめられる。
第二、デモ隊は、5階からの意図的な窓枠落しに抗議し、ビル入口に殺到するであろう。ビル周辺に事前配備した武装警官隊は、そのチャンスを逃さず、デモ隊を襲撃し、大量逮捕をせよ。とくに、共産党員とおぼしき者を検挙する。そのために、党員の面を知っている私服刑事を事前配備しておく。大量逮捕の口実は、公務執行妨害罪とする。逮捕した共産党員のカバン・手帳・メモを完璧に押収せよ。万一、その中の誰かが、翌7月7日の計画・準備指令を持っている可能性が存在するからである。。
7月6日 広小路事件でっち上げ→「玉置メモ」押収
騒擾罪でっち上げ方針決定と警備・挑発体制の具体化
1、広小路事件でっち上げ→「玉置メモ」押収
デモ隊は、名古屋市警の窓枠落し挑発者・挑発物にまんまとひっかかった。逮捕者12人中に、名電報細胞党員玉置鎰夫がいた。彼は、名電報細胞軍事担当山田順造が、電報用紙に書いた7枚の火炎ビン武装デモの計画・準備指令メモの一枚を持っていた。押収メモは、騒擾罪でっち上げの決定的証拠となるもので、その物的証拠を早くも前日に押収できたことに、警察・検察は狂喜した。その裏どり証拠固めとして、翌7月7日とその後で、名電報細胞党員・シンパ全員を逮捕・起訴せよとの事前方針を決定した。
起訴の結果は、全体150人、日本人被告80人中、名電報細胞党員・シンパは12人で起訴グループ中で最大となり、名古屋大学学生9人よりも多くなった。検察・警察は、この物的証拠と逮捕・起訴した名電報12人の警察尋問調書・検事調書を、公判維持の中心証拠と位置づけた。
7月6日夕方から7日にかけて、警察・検察は、徹夜体制で、騒擾罪でっち上げの最終的な警備体制確立と挑発者・挑発物の配備に取り組んだ。
以下は、『第二審判決』内容である(『控訴趣意書』P.435)。ただし、このメモには「右大会終了後デモ隊は中署・アメリカ村を攻撃する」との指令は書いてなかった。
「前日の六日午後、名古屋駅に右両氏を出迎えた百数十名が、駅前広場で歓迎演説会を開いた後、広小路通りを無届の集団示威行進をしたので警備に出動した警察官がこれを解散させた際、逮捕された玉置鎰夫が所持していた一通のメモに、『この大会参加者全体として二千個の火焔瓶が持たれる、電報としては参加者は全部一個づゝの火焔瓶を持って参加せよ、中核隊にはさら高度の武器を持たせる』等の記載欄あったので、市警本部はこれを重視すると共に、その頃右大会終了後デモ隊が中署・アメリカ村を攻撃するらしいとの情報を得ていたことと、関西方面における両氏の歓迎大会後に混乱の事態を生じたこと、及び同年六月二五日の中村県税事務所事件、翌二十六日の高田派出所襲撃等、名古屋市内で火焔瓶を使用した暴力事件が発生したこと等を総合して、七日七日夜は重大な事態になる恐れがあると考え、同月六日夜及び七日午前にわたり本部長宮崎四郎以下各部長、公安部警備課長出原柴太郎等が中心となって、中署の前記警備計画を変更して新たな警備計画をたてた。」
2、騒擾罪でっち上げ方針決定と警備・挑発・検挙体制の具体化
以下の1から3は、被告・弁護団『控訴趣意書』(P.437〜440)からの抜粋である。
1、警備計画メンバー
本部長宮崎四郎以下各部長、公安部警備課長出原柴太郎等が中心となった。
2、警備体制の決定と指令
これは、『第二審判決』内容であり、その合計は約890人になる。
「当夜の警官隊の配置は、原判決の認定のとおり、
1、早川大隊 三百六、七十名 春日神社 四ケ中隊と警告隊、中隊長四名は警部
警告隊 隊長清水栄警視(大隊副官を兼ねる)、十三名にて放送車に搭乗
2、村井大隊 二百五十〜八十名 中署
3、富成大隊 二百名 伏見通
4、青柳大隊 四十数名 アメリカ村(但し衝突後に出動)」
『真実・写真』(P.43)は、「名古屋市警の警備状況調」文書から次のデータを載せている。「大須事件当夜、警備動員された規模は二七一七名であった。この数は、実に名古屋市警全体の八六%に当る。(一部待機を含む)」
(地図1) デモ開始前の警官隊配置完了図(午後6時〜9時)
地図は宮地徹作成。(地図2〜5)は第3部に載せる。点線は進行・出動予定線。
デモ隊北進予定。茶2本線は市電軌道で、南北に車道・歩道があり全体で5本
になる。大須球場―上前津交叉点間は、デモ隊行進スピードで8分間の距離。
大須観音・繁華街はかなり広く、浅草観音・繁華街のスケールと類似している。
被告・弁護団『控訴趣意書』(P.437〜440)(抜粋)
「就中、早川大隊、村井大隊、富成大隊は、直接、現場に出動し、武力を使いて、デモ隊を制圧する部隊として編成されたものである。これを見て判ることは、上前津交叉点北西の春日神社に配置された早川大隊は、他の大隊に比べ格段に大きい、四ケ中隊で副官をつけ、放送車(警告隊)を配備しているのはこの早川大隊だけであった。この早川大隊の任務は、球場を出発し上前津に向って進行して来るデモ隊を上前津交叉点までにて解散させることにあった。」
(証人、早川清春公調二六二、二六三号)=早川大隊大隊長による公判証言の要約
「大隊副官清水警視の乗込んだ放送車は、岩井通り路上の大須交叉点東約三〇米の地点で、東に向けて停車して、デモ隊の進行して来るのを待ち受け約三九〇名の四ケ中隊の武装警官隊は春日神社にてデモ隊を待ちち構えていたので、デモ隊を右地点で待ち受けていた放送車はデモ隊が到来すればデモ隊先頭と共に、上前津に進み、上前津に近づくや、四ケ中隊の武装部隊が出動しデモ隊を制圧する。このように手筈が整えられていたものである。」
3、挑発物=警察放送車、挑発者=清水栄警視の人選と配備
この点につき、宮崎市警本部長は次のように述べている。(公調271号66項、67頂、72項、75項)
「問 そういうところまであなた方の方で会議の時に任務が与えられたのでしようか。
答 問題は警備というよりも、その警告隊を出して、そこで大体解散してやめてもらおうというつもりで清水隊というものに任務を与えたんです。従って清水隊にこういうふうにしてもらおうということは、私が一番重くみて力をそそいだのです。これは早川大隊に入っておるんです。
問 そのようにして、特に市警本部に勤務しておった清水栄警視にそういうことをする隊長にしたということについては、証人は特に人選もなさったでしょうか。
答 そうです、あの人は非常にしっかりしていると思いましたので、あれがよかろうということで、あいうふうにしたんです。それで私は清水君にしようということになったんです。」
4、検挙体制の具体化とその規模
これは、最高裁に出した『上告趣意書』(P.90)にある。
「さらに、本件デモに対する警備計画として注目に値するのは、このような警備体制以外に、検挙体制まで検討、決定されていたということである。市警本部としても、警備体制の一環としてこの検挙休制をとったことは、佐藤広市警本部刑事部長の証言によって明らかである(三四〇回公調六一丁)。
佐藤広刑事部長の証言によれば、この検挙体制は、およそつぎのようであった(前同、四四丁以下)。
(一)、鑑識班を設け、被逮捕者はすべて中署に連行し、鑑識班によって逮捕者と被逮捕者を写真にとる。
(二)、四、五名からなる捜査課警部補を長とする身柄配分係を設け、その指示により被逮捕者を市内各署に分散留置する。
(三)、制服部隊の手をのがれて逃げる者を逮捕するため、約二〇名の私服捜査刑事を大須球場を中心とする歩道上に配置する。
(四)、分散留置された被疑者の取調のため、各署に要員を相当数待機させる。
『私が記憶している限りでは一番大きな警備体制』(前同、八一、八二丁)『はっきりした(検挙)体制を整えたのは大須事件以外にはない』(佐藤広刑事部長、三四八回公調四丁)
それは、市警本部が中心となった、市下の全警察力をあげての、水ももらさぬ体制だったのである。」
7月7日 名古屋市警各大隊長会議と挑発物・挑発者行動計画決定
名古屋地検3人が中署に事前出動―騒擾罪発令時刻判断
1、名古屋市警各大隊長会議と挑発物・挑発者行動計画の決定
これは、『上告趣意書』(P.94)にある。
「警備計画の変更は、六日夜のうちに市警本部の幹部によって策定され、その夜のうちに各署にも連絡された(鶴見清、三一八回公調一九丁)。そして、翌七日の午前に、早川清春、村井忠平、富成守次の各大隊長などをあつめ、市警幹部も加わって、前夜に決めた警備方針について十分徹底をはかり(前同、四〇丁)、警備体制の実施について万全を期し、手落ちのないように打ち合せをした(鶴見清、三三三回公調、三七丁)。」
その打ち合せの内容について、翌7月7日の行動結果から逆算した私(宮地)の推定をのべる。
警察放送車に関して、公判で判明した事実は、次である。(1)、デモ隊が大須球場を出ると同時に、警告隊の一人が、清水栄警視・警告隊隊長命令により、春日神社の早川大隊380人に、デモ隊出発を知らせに走った。そして、放送車発火前に5分以内で走り帰った。(2)、警察放送車が挑発予定場所=上前津交叉点に至る中間地点の大須球場から250m地点で停車した。(3)、挑発者清水栄警視が命令し、彼を含め2名以外を下車させた。(4)、放送車に残ったのは、中村署巡査野田衛一郎だった。(5)、消火用濡れむしろ事前積載しており、野田巡査が濡れむしろで消火した。これらの事実に関して、警察・検察のさまざまな偽証があるが、それについては第3、4部で検討する。
検察庁・警察庁は、第3の騒擾事件をでっち上げる前に、先行2事件のデータを徹底的に研究し、その傾向と対策を練った。日本の検察・警察官僚は頭脳明晰、かつ、武装闘争共産党を上回る組織力で有名である。メーデー事件では、挑発者・挑発物を事前設置しなかったために、騒擾罪裁判の公判維持に苦労している。吹田事件において、火焔瓶を投擲された警察輸送車が騒擾罪証明の絶好の証拠となる挑発物となるべきだったが、輸送車指揮官が慌てふためき、スピードを上げ逃げ去ったので、挑発物としての利用に失敗した。しかし、吹田事件の教訓は、警察車輌が騒擾罪でっち上げの挑発物=火焔瓶被投擲のおとりとして使えることを示唆した。
大須球場を出た共産党の火炎ビン武装デモ隊が、(1)中署・アメリカ村襲撃の北進、または、(2)上前津交叉点に向けて東進するのは間違いない。ただし、北進を断固阻止する。その理由は2つある。
〔理由1〕、中署・アメリカ村襲撃を許せば、名古屋市警・名古屋地検の面子丸つぶれになる。それだけでなく、東京2件・大阪1件の火焔瓶大量使用事件後も、その連続発生を阻止できなかったとして、講和条約直後日本の治安確立上重大な事態に陥る。
〔理由2〕、デモ隊北進中に解散の襲撃をすれば、大須繁華街にデモ隊が逃げ込んで、収拾がつかない大混乱が発生する。大須観音を中心とした大須繁華街は広大である。そこは、浅草観音とその繁華街に類似している。浅草繁華街に火炎ビン武装デモ隊が逃げ込んだら、どのような大混乱が起きるのかをイメージすれば、北進絶対阻止の作戦の正しさを理解できよう。
北進を阻止する挑発者・挑発物をなんとしてでも事前設置しなければならない。吹田事件の教訓から、北進阻止の挑発物として、警察放送車を利用する。それを挑発予定場所で停車させ、2名以外を下車させ、消火用濡れむしろを事前積載しておく。
その計画・準備として、火焔瓶の製造・投擲・消火・薬品の実験をしておく必要が生じた。それを名古屋市警東警察署で教養訓練名目で実施した。実験やさまざまな想定の結果、次のような騒擾罪でっち上げ作戦6項目の結論になった。目には目、歯には歯、武装闘争共産党の火炎ビン武装デモという違法な「日本における朝鮮戦争」行動には、検察・警察の違法な騒擾罪でっち上げ行為は、違法性が阻却され、正義の謀略となり正当化される。
騒擾罪でっち上げ謀略作戦の計画6項目
以下は、上記鶴見清公判調書にある「手落ちのないように打ち合せをした(、三三三回公調、三七丁)」作戦内容を、私(宮地)が事件の全経過データに基づいて推定したものである。
〔作戦1〕、警察放送車への火焔瓶投擲スパイの配備計画
警察放送車の内部に火焔瓶を投擲させ、発火させるのが、騒擾罪でっち上げの決定的証拠になる。警察放送車が、南側車道にいる火炎ビン武装デモ隊の北側車道を警告放送しつつ平行で進むからには、車内の警官が自作自演で内部発火をさせるのは、目撃者が多く、後でばれてまずい。警察スパイに放送車後部から投擲させるのが上策である。すでに、共産党愛日地区軍事委員・テク担当の鵜飼照光をスパイとして確保してある。
ただし、7月7日午前までにおける私服刑事数百人の共産党・民青団・朝鮮人祖国防衛委員会にたいする尾行張り込み情報・警察スパイからの情報によれば、共産党名古屋市軍事委員会は、火焔瓶製造を、名古屋市内の細胞に指令しただけであり、郡部・春日井市の共産党愛日地区には製造指令を出していない。朝鮮人祖国防衛委員会は、愛知県全体に火焔瓶製造指令を出している。よって、鵜飼照光には、名古屋市警が火焔瓶訓練の際、製造しておいた火焔瓶2本を事前に渡しておく。
〔作戦2〕、火焔瓶の車内消火実験結果と濡れむしろ事前積載、消火者計画
火焔瓶そのものは、もともと関東軍がソ連軍戦車への対抗武器として製造・使用したもので、武装闘争共産党による製造だけでなく、警察自身が製造することも簡単である。その消火方法を、東警察署内において、いろいろ実験した。問題は、ガソリン・硫酸の混合液の車内2本炎上である。各種実験の結果、狭い警察放送車内では、瞬時の消火をするには、濡れむしろが最適であることが、分かった。濡れむしろを警察放送車に事前に積み込んでおく。消火任務は、警告隊の野田巡査とする。
〔作戦3〕、挑発の最前線指揮官の人選基準と清水栄警視に決定
最前線指揮官=挑発の合図者を清水栄警視と決定する。4大隊の中隊長はすべて警部である。しかし、挑発合図の現場判断者は、ワンランク上の警視でなければならない。名古屋市警の指導機関構成は、(1)警察本部長1名、(2)警視正6名、(3)警視21名、(4)警部60名、(5)総計現員3427名である。(『真実・写真』P.43)
人選の基準は2つある。
第一、挑発合図指揮官は、警視21名の中でも、騒擾罪でっち上げ命令に絶対服従を誓い、かつ、警察放送車という挑発最前線において臨機応変の対応力という資質を持つ幹部でなければならない。
第二、しかも、第3の騒擾罪として起訴する予定であるからには、公判において、挑発最前線指揮官は、被告・弁護団による追求の矢面にさらされる。その追求にたいして、挑発・でっち上げ作戦の存在を全面否認し、かつ、堂々とした偽証をなしうる人物でもなければならない。人選論議の結果、名古屋市警宮崎本部長は、清水栄警視を「あの人は非常にしっかりしていると思いましたので」と推薦した。
〔作戦4〕、放送車停車、乗員下車直後の火焔瓶投擲実行という挑発計画
挑発の最前線指揮官清水栄警視は、挑発予定地点で、警察放送車を停車させる。彼は、2人以外を下車させる。そこへ、デモ隊15列目に配備した共産党愛日地区軍事委員・スパイ鵜飼照光に、南側車道を進んでいるデモ隊列から北側車道に飛び出させ、火焔瓶2本を、警察放送車の後部から投げ込ませる。車内に残った一人の野田巡査が、濡れむしろで消し止める。
火炎ビン武装デモ隊は、その挑発者・挑発物の罠にひっかかって、吹田事件のように、放送車に火焔瓶を大量に投げるであろう。その状況になれば、その瞬間を騒擾状況の完全証拠にさせることができる。
〔作戦5〕、拳銃5発発射=警官隊一斉襲撃合図者清水栄警視の最重要任務
下車していた警官隊一斉襲撃合図者清水栄警視が、警察放送車内部の火焔瓶2本発火と同時に、放送車の後方に位置し、拳銃5発を水平発射する。火炎ビン武装デモ隊に襲われて、正当防衛のために、やむなく拳銃発射せざるをえなかったという騒擾状況証拠をねつ造する上で、水平発射は騒擾罪でっち上げの絶対必要条件である。清水警視には、暴徒に襲撃されたから、5発を撃ったと偽証をさせる。デモ隊が250m進行した地点が、武装闘争共産党にたいする3方面からの包囲殲滅目標場所である。なぜなら、上前津交叉点まで行かせてから襲撃すれば、市電軌道が交叉する地点の地形的条件から、デモ隊は四方八方に四散してしまい、一挙に包囲殲滅をするという作戦が困難となるからである。
〔作戦6〕、清水警視拳銃発射を合図とする武装警官隊の一斉襲撃直前の接近計画
放送車内部の火焔瓶発火、清水栄警視拳銃発射を合図として、デモ隊に武装警官隊1000人が一斉に襲撃する。襲撃開始合図に間に合うように、3方面の各大隊は、火炎ビン武装デモ隊の直ぐ北側に接近しておく。3大隊による同時襲撃の連携プレイが重要である。その場合、あくまで車道北側から襲いかかり、デモ隊を大須・岩井通りの南方に追い込む。大須観音を含む大須繁華街という北方に逃げ込ませてはならない。早川大隊の山口中隊4人も、清水栄警視に倣って、拳銃の水平発射をする。それによる死者・負傷者が出た方が、大須・岩井通りの騒擾状況を証明する証拠ともなる。
ただ、メーデー事件における警官隊とデモ隊との大乱闘の教訓から、短い警棒では警察側が不利になり、暴徒側の長い角材によって、警察側に多数の負傷者を出すことが分かった。よって、警官隊1000人全員には、(1)実弾6発装填の拳銃、(2)長い警杖=6尺棒、(3)編上靴、(4)火焔瓶のガソリン・硫酸混合液対策の薬品などで完全武装をさせる。
2、名古屋地検3人が中署に事前出動―騒擾罪発令時刻判断
この行動は、警察の独立捜査権を犯す違法行為である。〔資料編〕に全体を載せた。8月4日に開かれた名古屋地検・名古屋市警合同研究会の抜粋を書く。安井検事正が検事3人を中署に事前出動命令を出した目的は何か。それは、現場において、騒擾罪発令の即事判断をし、(1)名古屋地検に待機している検事正と、(2)東京で待機していた藤原検事長・検事総長に緊急連絡し、騒擾罪適用を遅滞なく発令する現場判断をさせることだった。
「宮崎本部長挨拶(抜粋) 只今安井検事正から御紹介がありました様に七・七事件がうまく参りましたが、これは愛知県下の警察、検察庁の間柄が非常に密接にいって居ると云う事が一つの重要な原因であると思うのであります。
過日、大阪管区の十二府県の自治体警察長の会議が和歌山で行われました。その際に大阪の管区本部長の中川さんが大阪の吹田事件についてどう云う点を考え落していたか、どう云う点がまづかったかと云う様な点の極めて詳細な御報告があったのであります。私も後で一寸時間があったので、大須事件について話す様にと云うので、大須事件について初頭に極めてうまく之を処理することが出来たこと、爾後騒擾罪の適用が非常に早かったので犯人も比較的多く手に入れることが出来たと簡単に報告したのでありますが、その時、検察庁の検事公安部長、次席検事が現場に出て居られて、生のニュースをパトロールカーから聞き乍ら事態の研究をされ、即座に騒擾罪の法条を適用されることを決定されたのだと云うことを話しましたところ、各県の警察長さん方は異口同音にどうして検察庁はそんなに早く現場に出て来てくれるんだろうかと云うことを疑問に思って居られた様であります。
検察庁と警察との関係や協力等について、余り字句の末に拘泥して、独立捜査権がどうだの一般指揮権がどうだのこうだのと云う様な理屈を論議すると云うことは本当は治安維持を根本から紊すことになるのではないかと心配するのであります。」
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(関連ファイル)
(謎とき・大須事件と裁判の表裏)
第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備 第1部2・資料編
第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備 第2部2・資料編
第3部 2勢力の思惑による大須・岩井通り騒乱状況の認否 第3部2・資料編
第4部 騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価 第4部2・資料編
第5部 騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥 第5部2・資料編
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る
元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む
(武装闘争路線)
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ
伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
(メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」
丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介
(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」