騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価
謎とき・大須事件と裁判の表裏 第4部
(宮地作成)
〔目次〕
5、〔資料1〕放送車内の野田衛一郎巡査の偽証 (別ファイル)
6、〔資料2〕失踪した清水栄警視の捜索記録
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(謎とき・大須事件と裁判の表裏)
第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備 第1部2・資料編
第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備 第2部2・資料編
第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否 第3部2・資料編
第4部 騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価 第4部2・資料編
第5部 騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥 第5部2・資料編
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る
元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む
(武装闘争路線)
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ
伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
(メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」
丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介
(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」
1、刑事事件裁判史上最長の26年間公判
(表1) 長期化した刑事事件裁判
事件 |
起訴罪名 |
裁判期間 |
最高裁 |
判決 |
大須事件 |
騒擾罪 |
26年2カ月 |
弁護団上告の棄却決定 |
有罪91人、内実刑5人 |
東大ポポロ事件 |
暴行罪 |
21年 |
弁護団上告の棄却決定 |
有罪2人 |
愛知大学事件 |
不当逮捕罪 |
20年8カ月 |
弁護団上告の棄却決定 |
有罪だが、刑を免除 |
メーデー事件 |
騒擾罪 |
20年6カ月 |
検察が上告せず。なし |
控訴審で無罪 |
大阪タクシー事件 |
贈賄罪 |
20年3カ月 |
||
吹田事件 |
騒擾罪 |
20年 |
検察上告の棄却決定 |
無罪 |
これらの事件は、タクシー事件を除いて、すべて1952年度に発生した。3大騒擾事件裁判は、いずれも20年を超えた。最高裁は、検察側が上告をあきらめたメーデー事件を別として、口頭弁論を開くことを拒絶し、上告棄却決定をした。騒擾罪裁判において、メーデー事件・吹田事件は無罪になったのに、大須事件だけが実刑5人を含めた91人が有罪になった。
なぜ大須事件だけが有罪になったのか。その原因を2つに分けて検討する。
〔原因1〕、法廷内闘争の評価である。これは、この『第4部』で行う。法廷における主体は、検察側、被告・弁護団側、裁判所側の3者であり、それぞれの対応を分析する。
〔原因2〕、法廷内外闘争の欠陥だが、主として、外部からの大須事件裁判支援体制の誤りを分析する。具体的内容は、1964年の諸問題と宮本顕治の敵前逃亡犯罪を扱う。外部の誤りは、当然、法廷内闘争に直接的影響を与えた。それは、次の『第5部』で行う。
26年間裁判の実態と違法性・合法性、問題点について、弁護団主張と最高裁決定は真っ向から対立した。
弁護団『上告趣意書』(P.1402〜1404)
「七月七日夜の出来事は短時間かつ比較的狭域での事件にすぎない。かかる事件の審理をいわば『複雑化』させた最大の原因は、何よりも警察側のデモ参加者一網打尽の逮捕に始まる乱起訴であり、さらに日本共産党、在日朝鮮人の民主的組織の破壊を企図してその組織の主要な地位にある者を何としても起訴しようとした政治的起訴である。
加えて、裁判遅延の原因として指摘せねばならないことは、検察側証人である捜査官の計画的偽証、物証を意図的に法廷に出さないということに端的に示された検察側の不当な立証態度である。
さらに、本件裁判遅延に関して、裁判進行につき主たる責任を負う裁判所側の訴訟指揮上の問題点を看過しえない。裁判所の訴訟指揮・審理態度の不当性は、被告人らが五回にもわたって忌避を申し立てざるをえなかった事実が如実に物語っているのである。」
最高裁『上告棄却決定』(P.32)
「第一審裁判所は、第一回公判を開廷して以来、七九三回の公判を開き、一〇五回の公判期日外の証拠調、六回の検証、六二回の準備手続を行い、その間、延八一六名の証人を取り調ベ、延一五六名の被告人質問を実施した。原審においても、一〇五回の公判が開かれ、延一〇〇名の証人尋問、延三七名の被告人質問を実施し、書証、証拠物の取調をしている。このような審理状況にかんがみると、本件においては相当程度の審理の長期化は肯認されるべきである。
さらにそれに加えて、被告人らにおいて執拗ないわゆる法廷闘争を展開したことも審理長期化の一因をなしていると認められるのである。すなわち、被告人らは第一審において五回、原審において二回裁判官に対する忌避申立をしており、その理由は、訴訟指揮、証拠の採否等に関連して不公平な裁判をするおそれがあるというものであるが、記録によれば、もともと忌避理由とはなしえないような事由をことさら申立てたものと認められるから、右申立による審理遅延の責は被告人らに帰せられるべきものである。」
2、公判における検察側と共産党側との力点の違い
〔小目次〕
1、公判における事実問題での6大争点
公判における基本争点は2つである。第一、刑法第106条騒擾罪の法律解釈、適用可否は最大争点になった。第二、騒擾罪成立可否をする上での事実認定、または「事実誤認の有無」問題である。第一は法律問題であり、これをここで分析するのは難しい。第二の事実認定が適用可否の根拠となるので、大須事件ファイルでは、「事実誤認の有無」問題に限定する。ただ、事実問題といっても、争点は多数ある。『上告趣意書・総論』は、1583頁あり、数十点の争点に言及している。便宜上、このファイルでは6つに絞る。
この『第4部』では、メーデー事件・吹田事件・大須事件という3大騒擾事件の違いを比較しつつ、大須事件だけになぜ騒擾罪が成立したのかを検討する。ここでは、事件・裁判に関するエピソードも合わせて書くことにする。
(表2) 事実誤認有無問題での6大争点
7大争点 |
検察側の力点 |
共産党側の力点 |
1、早期保釈問題 |
◎ 抗告3回 |
◎ 要求3回 |
2、共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備事実 |
◎ 最大の力点 |
× 全面否認か沈黙 |
3、当夜における共産党の指揮・連絡体制 |
○ |
× 全面否認か沈黙 |
4、警察・検察による騒擾罪でっち上げの計画と準備事実 |
× 偽証、隠蔽 |
○ 偽証、隠蔽のため立証不充分 |
5、警察放送車内の火炎ビン発火をめぐる諸事実 |
◎ 名電報グループに焦点 |
◎ スパイ鵜飼照光の立証 |
6、清水栄警視の拳銃5発連射状況 |
× 清水警視を逃亡させる |
◎ 最大の力点 |
1、体制
『第2部』『第2部・資料編』で分析したように、名古屋市警・名古屋地検は、事件前から意図的に、異様なまでの一体化を完成させていた。それは、警察の「独立捜査権」と検察の「一般指揮権」という権限分離を違法に踏み外した「検・警の和」だった。しかも、名古屋地検―名古屋高検―最高検・検事総長という「第3の騒擾罪でっち上げ目的」の縦ルートも、事件前に確立させていた。
メーデー事件・吹田事件の『検察研究特別資料』において、東京地検・大阪地検側は、東京警視庁・大阪府警の不手際・ミスにたいして、何度も厳しい批判を書き連ねている。批判内容の実態は、事件前の「検・警の和」ができていなかったことを証明している。その点に関して、第3の騒擾事件としての大須事件は、他2事件と決定的に異なっている。
検察庁・警察庁官僚は、5月1日メーデー事件、6月25日吹田事件の教訓・問題点を徹底的に研究し、3度目の不手際・ミスを繰り返さないように、7月7日前までに、違法を承知で、瞬時に体制転換=警察・検察の完全密着システム確立を謀っていた。
大須事件の『検察研究特別資料』において、名古屋地検は名古屋市警にたいする批判・不満を一言も書いていない。
2、力点
〔争点1、2、5〕の立証を最大力点に据えた。とくに、共産党の火炎ビン武装デモの計画と準備実態を立証するために、400人を逮捕し、150人を起訴し、克明な検事調書を作成した。狙いをつけた被告人からは、保釈を阻止した長期の未決勾留状態に閉じ込めて、何通もの検事調書を取った。名古屋地検は、名古屋高検・最高検の指示を受けつつ、共産党側の計画・準備、当夜の指揮・連絡体制さえ証明できれば、それが第3の騒擾罪でっち上げ作戦の半分以上を成功させる保証になると位置づけた。
大須事件が、メーデー事件・吹田事件と根本的に異なる点は、共産党による事前の計画と準備が、警察・検察にどこまで掴まれたのかという問題である。他2事件は、いずれも共産党と朝鮮人祖国防衛委員会・祖防隊が、決まった月日に向けて、一カ月間以上の計画と準備をしてきた。
しかし、メーデー事件において、共産党による人民広場突入の一般的軍事方針はかなり前から判明していたにしても、東京都軍事委員会・都ビューローの具体的計画・準備実態、その人事体制について、警察・検察は掌握することができなかった。
そのエピソードの一つに、党中央役員岩田英一問題がある。彼は唯一の共産党中央機関の被告人だった。しかし、彼は、東京都軍事委員でもなく、オート三輪の荷台に乗って、赤旗を振り、「人民広場に突入せよ!」と扇動する役割を与えられただけだった。党中央軍事委員長志田重男、人民広場突入を計画・準備し、指令した東京都軍事委員沼田秀郷・浜武司は地下に潜行し、逮捕を免れた。彼ら3人は、計画・準備について何も知らせていない岩田英一を人前に晒し、「警察・検察にたいする党中央側の人身御供」として捧げたのである。警察・検察は、党中央役員を検挙できたので小躍りしたが、それは共産党が提供したおとりにすぎなかった。
宮本顕治は、彼を、後に別件で除名した。彼が戦後寄付した共産党代々木本部ビル土地は、都内一等地として時価十数億円もする。徳田球一は人民艦隊で中国に密出国するとき、党中央が岩田英一になんらかの補償をするよう言い残した。しかし、宮本顕治は、メーデー事件裁判20年の元被告に反党分子のレッテルを貼って、彼に何の補償もせず、共産党から追放した。
吹田事件においても、警察・検察は、公判開始までに、共産党による火炎ビン武装デモの計画・準備実態、その人事体制について掴むことができなかった。彼らは、騒擾罪首魁として2人を逮捕・起訴したが、検事調書では、計画・準備の自供を得られなかった。公判途中で、首魁の一人とされた三帰省吾が検察側に転向し、法廷で共産党による火炎ビン武装デモの計画・準備の存在を陳述した。しかし、大阪地裁裁判長は、三帰省吾の公判証言が検事調書内容と異なり、任意性・信憑性に欠けるとして、法廷陳述の証拠採用を却下した。
メーデー事件公判・吹田事件公判において、検察側は、共産党による事前の軍事方針計画・準備に関して、共産党ビラ以外に、ほとんど人的証拠を提出できず、ただただ人民広場現場、吹田操車場・吹田駅構内・大阪駅構内において、共産党が騒擾状況を発生させたという立証作戦に限定されざるをえなかった。しかし、それらの現状は、いずれも流れ解散状況にあったデモ隊にたいする警官隊の違法な先制攻撃・拳銃乱射を浮き彫りにしただけだった。
大須事件にたいし、検察庁・警察庁はそれだけに、メーデー事件・吹田事件という騒擾罪でっち上げ第1、第2作戦の失敗(無罪判決はまだ後)に懲りて、死に物狂いになって、共産党名古屋市軍事委員会による火炎ビン武装デモの計画・準備、当夜の指揮・連絡体制の証拠固め=警察尋問調書・検事調書の作成に熱中したのである。
大須事件『検察研究特別資料』(部外秘)が明記しているように、名古屋地検は、公判が開始されれば、共産党員被告人たち全員が、自分の起訴事実を否認するであろうことを事前に予測していた。被告人が法廷で全面否認した場合でも、彼の検事調書内容が明白な証拠にできうることも読み込んだ公判維持作戦だった。もう一つの作戦も記している。それは、裁判所にたいする証拠申請において、被告人の検事調書だけにして、警察署における尋問調書を一切出さないことにした。その理由は、被告・弁護団は、必ずや取調べにおいて拷問・脅迫があったことを主張し、調書内容にある自白の任意性・信憑性がないという法廷闘争を執拗に展開するであろうから、それを事前に避ける法廷戦術に出たことである。警察尋問調書でなく、検事調書なら、被告人供述に任意性があったと答弁できるからである。第一審法廷は、まさに検察側作戦の予想通りの展開になった。その法廷内問答も、被告人と検事らの個人名まで挙げて詳細に書いている。
〔争点4、5、6〕における警察・検察側の弱点・問題点に関して、警察・検察は、徹底した偽証・証拠隠蔽作戦を行った。マスコミに火炎ビン発火の合成写真を載せさせるなど、証拠のねつ造までも行った。これらの内容は下記で分析する。これら警察・検察の行為は、まさに、法廷における国家権力犯罪と言える。
1、体制
1、被告団
共産党名電報細胞長片山博被告を被告団常任に置いたのは、事件1年後の1953年6月だった。それまでは専従者もいないという体制だった。事件1年8カ月後になって、名古屋地検の被告人保釈の絶対阻止方針と3回もたたかって、ようやく被告全員の保釈を勝ち取った。共産党名古屋市ビューロー・キャップ永田末男が被告団長になった。しかし、宮本顕治は、1965年6月、大須事件裁判闘争方針をめぐる意見の対立を真の理由として、永田末男と共産党愛日地区委員長酒井博を除名した。さらに、1966年4月、被除名者・永田末男の被告団長を解任し、名古屋市軍事委員長芝野一三に変更した。これらの動向は、『第一審の騒擾罪有罪判決』が出た1969年11月の4年前だった。
それ以前の1961年、宮本顕治は、名電報細胞軍事担当山田順造を除名していた。これは、61年綱領をめぐる意見の対立によるものである。これらは、大須事件公判と支援体制に直接のマイナス影響を与えた。この詳細については、『第5部、騒擾罪成立の原因(2)、1964年の諸問題と宮本顕治の敵前逃亡犯罪』で検討する。
メーデー事件公判・吹田事件公判で、共産党中央と宮本顕治の裁判闘争方針を公然と批判した被告人は出なかった。3大騒擾事件裁判において、その批判を直接の真因として、宮本顕治が除名したのは、大須事件の2人だけである。(1)、メーデー事件における党中央役員岩田英一除名は別件を理由とした。(2)、吹田事件の三帰省吾除名は、彼が検察側に転向したことが理由である。(3)、大須事件の共産党愛日地区軍事委員・鵜飼照光は、警察スパイだったことが除名理由だった。
大須事件裁判において、永田末男・酒井博は、公判、および、被告・弁護団会議において、宮本顕治批判・野坂参三批判を行った。永田末男は、第7回大会で大須・岩井通り火炎ビン武装デモの党中央指令者・岩林虎之助を強烈に批判し、彼の個人責任を暴露・追求した。しかし、2人とも、公判、および、『控訴趣意書』『上告趣意書』の「個人別各論」において、警察・検察の騒擾罪でっち上げ策謀にたいし厳しい批判を展開している。永田末男の両『趣意書・各論』は、全被告人「個人別各論」の中でも、一番長く、理論内容も高い。彼ら2人は、警察・検察の騒擾罪でっち上げの国家権力犯罪にたいし、被告団の先頭に立ってたたかうとともに、その一方で、宮本顕治の除名報復と敵前逃亡犯罪という党内犯罪ともたたかうという二重の複雑な闘争を強いられた。
大須事件被告団は、共産党員被告団長と地区委員長の2人が宮本顕治批判・野坂参三批判を公然と展開しつつ、公判闘争を行ったという面で、メーデー事件被告団・吹田事件被告団と根本的に異なる。
2、弁護団
第一審公判が始まった1952年9月16日時点の大須事件弁護団は5人だった。5人だけで被告150人の弁護をし、検察・裁判所との公判闘争をやらざるをえなかった。事件1年4カ月後の1953年11月、弁護団・国民救援会を含む大須事件対策委員会が発足した。第二審の常任弁護団は21人、最高裁への『上告趣意書』作成に当った常任弁護団は33人になった(『大須事件50周年記念文集』P.126〜156、以下『文集』とする)。
ちなみに、メーデー事件の第一審第一回統一公判は、分離公判問題の闘争を経て、1953年2月4日に始まったが、その弁護団は37人に達した(『メーデー事件裁判闘争史』P.774)。
第一審当初の弁護団5人は、名古屋市における天野末治弁護士を弁護団長とし、党中央軍事委員岩林虎之助にアジトを提供していた桜井紀弁護士らであり、全員が自由法曹団所属の共産党員だった。岩林虎之助は、中日本ビューロー員として、中部全県において武装闘争を激発させる任務を帯びて、愛知県を拠点として活動していた。彼は、永田末男、芝野一三を「東京と大阪でやったのに、なぜ名古屋でやらんのか」と叱責し、大須・岩井通りにおける火炎ビン武装デモ遂行を党中央軍事委員会決定として命令・強要した。彼は、事件後、瞬時に東京に逃げ帰って逮捕を免れた。彼の名古屋市滞在と武装闘争激発任務を知っているのは、永田末男・芝野一三と桜井紀弁護士だけだったが、3人とも党中央軍事委員を防衛して、岩林虎之助を逮捕から守った。
これにまつわるエピソードが2つある。
第一、1955年7月の六全協は、共産党の武装闘争にかんして「極左冒険主義」というイデオロギー的誤りだけを認めた。しかし、(1)軍事委員長志田重男、(2)ソ中両党秘密指名で指導部に復帰できたばかりの宮本顕治常任幹部会責任者、(3)ソ連NKVDスパイ野坂参三第一書記ら六全協指導部3人は、ソ中両党による「武装闘争実態の具体的総括を禁止する、その公表も禁止する」という国際的秘密命令に隷従した。1958年の第7回大会は、表面で「極左冒険主義」の誤りを2行だけ書いて、六全協を追認した。しかし、武装闘争の実態について一言も触れないままで、裏面において党中央委員の選出にあたり、「極左冒険主義の誤り指導に関与した者を選ばない」という役員選考の秘密基準を決めた。
ところが、志田重男直系の党中央軍事委員岩林虎之助は、第7回大会の党中央委員機関推薦リストに載って登場した。永田末男は愛知県選出の党大会代議員として参加していた。彼は大須事件26年裁判における保釈中の被告人だった。片や火炎ビン武装デモをやれと叱責し、強要した岩林虎之助は東京に逃げ帰り、大須事件武装闘争命令に関してなんの自己批判も発言しないままで、のうのうと党中央役員に推薦されて平然としていた。永田末男は、岩林虎之助の大須事件における言動を暴露・批判した。岩林虎之助は党中央役員の機関推薦を取り消された。宮本顕治は、党中央批判者の言動を執念深く記憶し、なんらかの機会をとらえて、批判・異論者にたいする報復・排斥をする体質を持つ共産主義的人間として有名である。この永田末男行動も、1965年の永田除名の遠因をなしている。
第二、宮本顕治は、自ら発令した1961年元名電報細胞山田順造除名、1965年永田末男被告団長除名・愛日地区委員長酒井博除名によって、被告・弁護団内の混乱・動揺を発生させた。それを放置すれば、大須事件公判において、党中央指令を貫徹させられないと怯えた。永田末男が、公判において、いつなんどき共産党中央の武装闘争方針と岩林虎之助の具体的指令を全面暴露するかもしれないと恐れた。彼が考えた一手は、党中央から宮本顕治に絶対忠誠を誓う弁護士を大須事件弁護団に派遣することだった。彼は、その白羽の矢を、岩間正男参議院議員秘書をしていた伊藤泰方に当てた。伊藤泰方弁護士は、即座に名古屋市に行き、第一審公判の終盤から、天野弁護団長に代わって、実質的に宮本顕治直系の大須事件弁護団長になった。
もちろん、伊藤弁護士は、警察・検察の騒擾罪でっち上げ犯罪にたいして献身的にたたかった。その指導力も発揮し、難しい被告・弁護団が分裂しないよう努力した。その面での、彼の功績は高く評価できる。しかし、他の一面で、宮本顕治指令の裁判闘争方針の枠に拘束され、永田末男・酒井博の言動を制約した。このテーマの詳細は、下記、または、『第5部』でのべる。
3、共産党中央、愛知県常任委員会、被告・弁護団内の共産党グループ
大須・岩井通りにおける火炎ビン武装デモの計画・準備をし、実行したのは、武装闘争共産党そのものだった。ところが、騒擾罪裁判が始まっても、五全協共産党中央は、なんの支援体制もとらなかった。六全協共産党中央も、ソ中両党の国際的秘密指令に隷従したので、その支援をしなかった。1958年第7回大会は、初めて支援決議をした。しかし、具体的支援運動・体制強化をやらなかった。公判闘争の運動や弁護体制は、(1)事件の被告・弁護団内の共産党グループと、(2)都道府県委員会の事件担当常任委員に丸投げされた。この実態は、3大騒擾事件公判のすべてにおいて共通している。六全協を契機として、3大騒擾事件被告団からは、党中央にたいし、「武装闘争の実態を公表せよ」という批判・要求が強烈に出された。しかし、宮本顕治・野坂参三はその要求を拒絶した。
しかし一方、その裏側で、宮本顕治らは、「武装闘争の実態について具体的総括を禁止する、その公表も禁止する」という国際的秘密命令を、騒擾事件裁判においても厳守するよう、都道府県委員会に指令した。そのため、被告・弁護団は、公判において、武装闘争の計画・準備に関し、全面否認、もしくは、沈黙・反論せずという態度をとらざるをえなかった。
ところが、こともあろうに、1967年7月から、宮本顕治は、武装闘争参加党員数万人と武装闘争による刑事裁判被告人数千人を切り捨て、見殺しにする敵前逃亡犯罪の言動を始めた。「党は当時分裂していて、当時の方針は党の方針とはいえないから、現在の党には責任もないし、関係もない」と発言したのである。その論旨を毎年のように発言し続けた。この言動には三重の誤りがある。
第一、上記の党員たちを切り捨て、見殺しにする敵前逃亡犯罪である。この発言に怒って、多くの党員が離党した。
第二、この発言内容は、党史に関する宮本顕治の真っ赤なウソ、偽造・歪曲犯罪である。
第三、宮本発言は、全党内に、武装闘争問題の総括・発言を禁止し、関係者全員に沈黙を強要した。愛知県党内においては、大須事件について語ることそのものをタブー化した。党県・地区機関が、大須事件裁判や支援諸集会に動員をかけることもさせなかった。
永田末男被告人が、公判において強烈に宮本顕治批判を展開したのは当然だった。とくに、第三の党内犯罪について、私(宮地)は、1962年・25歳から1977年・40歳にかけての15年間、名古屋市民青地区委員長→共産党名古屋市中北地区常任委員・5つのブロック責任者(=現在での5つの地区委員長)→共産党愛知県委員会選対部員をしてきたという体験から、具体的に証言できる。これらの解明も『第5部』で行う。
2、力点
〔争点1〕の全員保釈を強力に主張・要求した。名古屋地裁竹田裁判長は、3回とも認めた。名古屋地検はその都度、保釈決定取消の抗告をした。名古屋高裁は、抗告を2回認めて、被告人の長期未決勾留継続を決定した。
〔争点2、3〕という火炎ビン武装デモの計画・準備、当夜の指導・連絡体制については、全面否認、または、無反論・沈黙をした。メーデー事件・吹田事件においても、当然、共産党側の一カ月間以上にわたる計画・準備と体制が存在した。しかし、警察・検察は、その具体的実態や人的証拠を、起訴前に掴むことができなかった。せいぜい、法廷に提出できた物的証拠は、多数の共産党ビラとか文書類だけだった。この面で、大須事件公判は、先行した他騒擾2事件公判とまったく異なっていた。この決定的相違にたいして、全面否認、または、反論せず・沈黙するという力点=公判戦略が、はたして正しかったのかという問題点が浮上する。
〔争点4、5、6〕を、大須・岩井通り事件現場における警察・検察側の弱点として徹底的に追求した。メーデー事件公判・吹田事件公判においては、現場の騒擾状況存否の事実認定のみが、ほとんど唯一の争点となった。それにたいして、大須騒擾事件公判は、2大争点群を抱えた。
ちなみに、1952年1月21日の白鳥警部射殺事件は、騒擾事件ではないが、その争点群について、メーデー事件・吹田事件と逆である。現時点までにおける証拠・証言公表状況から見て、村上国治を委員長とした共産党札幌市軍事委員会が、五全協共産党の1952年度武装闘争指令に基づいて、白鳥警部をピストルで射殺したことは事実である。ところが、共産党中央軍事委員会は、射殺実行者グループ8人全員を「人民艦隊」で中国共産党側に逃亡させた。中国共産党は全員を庇護し抜いた。よって、警察・検察は、その現場証人を一人も逮捕できなかった。
警察・検察は、逮捕した村上国治ら7人から、白鳥警部射殺の計画・準備=共同謀議の立証をすることしかできなかった。村上国治軍事委員長以外の6人は、計画・準備内容を全面的に認める自供をした。しかし、使用ピストル・使用自転車・実行犯という物的・人的証拠を共産党側が完璧に隠蔽し抜いた。警察・検察は、6人の共同謀議自供証言だけで、物的証拠が何一つなくては、公判維持が難しいとあせった。そこで、幌見峠での弾丸2発をでっち上げたというのが、事件の真相である。
白鳥事件に関する宮本顕治と袴田里見の党内犯罪エピソードがある。共産党北海道委員会軍事委員川口孝夫は、六全協後、党中央非合法部門に移って、地下に潜伏しつつ、武装闘争共産党が蓄積していた各種武器の廃棄・隠蔽という秘密任務を担当していた。六全協4カ月後の1955年11月、党中央の梶田茂穂ら2人が、白鳥事件の検事調書全部を持ち込んで、北海道にいた彼にその信憑性の検証任務を与えた。彼が、その検証報告を提出すると、党中央は、彼を「白鳥事件の真相を知りすぎた元軍事委員」と危険視した。梶田茂穂らは、川口夫妻を「中国での任務がある」とだまして、1956年3月、人民艦隊に乗せ、中国北京への「流刑」措置にした。
中国では、北京機関の徳田球一死亡・伊藤律監禁・野坂参三帰国の後だった。北京機関とは、中国共産党に建物・資金・要員を100%依存していた中国共産党への隷従機関だった。居残っていた北京機関指導者袴田里見が、中国共産党に夫妻を日本へ永久に帰さないよう依頼し、さらに奥地の四川省=「蜀」に流刑した。夫妻が帰国できたのは、17年後の1973年12月だった。この17年間におよぶ流刑は、六全協後の党内実権を握った宮本顕治に最初から一貫した犯罪責任があると、川口孝夫は主張している。宮本顕治は、彼ら夫妻を合わせて、白鳥事件関係の共産党員10人を中国共産党側に逃亡させ続けた共産党トップである。
共産党が白鳥警部を射殺していないのなら、宮本顕治は、このような逃亡継続・流刑措置をする必要もない。これらの事実は、共産党が警官射殺を実行したことと、宮本顕治がその真相を知り抜いていたことの逆証明となる。
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介
(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」
私(宮地)が、白鳥警部射殺事件を重視するのは、これを3大騒擾事件と合わせて、1952年度の五全協共産党による4大武装闘争事件と位置づけるからである。そして、宮本顕治は、白鳥事件の真相=共産党札幌市軍事委員会による白鳥警部射殺事実を知りつつ、かつ、共産党員10人を中国共産党側に逃亡・流刑させつつ、「共産党は白鳥警部を射殺していない。まったくの無実である」と真っ赤なウソの大宣伝した。そして、警察・検察による幌見峠での弾丸2発でっち上げの謀略だけを最大争点として、事件の性格を一面的にすりかえた。
彼の指令にもとづいて、全国の共産党細胞と国民救援会は、「白鳥守る会」を作って、裁判支援運動をした。私もその方針を信じて活動した一人だった。もちろん、その運動と組織は、警察・検察の弾丸でっち上げ謀略にたいするたたかいという面では正しかった。しかし、事件の真相を知っていた宮本顕治に騙されたという側面を無視していいのか。
共産党側による武装闘争の計画・準備事実にたいし、また、警官射殺・火炎ビン武装デモ実行事実にたいし、法廷内外の場で、反論せず、沈黙し、警察・検察側の謀略側面の暴露だけを大宣伝してたたかうという力点の置き方は正しいのか。大須事件に関する検察側と共産党側双方の攻防内容は次で分析する。これら力点が騒擾罪判決にどう表れたのかという効果は最後に評価をする。
3、事実認定問題をめぐる6大争点と双方の攻防
事実問題については、『第1〜3部』とその各『資料編』で詳しく書いた。よって、以下は、その重複部分を避けるとともに、法廷における検察側と被告・弁護団=共産党側の攻防のみを中心にする。第一審常任弁護団5人と第一審終盤から加わった伊藤弁護士ら6人は全員が共産党員だった。被告150人中、「首魁」として起訴された被告も、朝鮮人祖国防衛委員を含めて、全員が日本共産党員である。もちろん、被告には共産党員でない人も一部いるが、公判闘争の攻防は、完全に共産党中央・愛知県常任委員会と被告・弁護団の共産党グループ指導部が事前決定した方針に基づいて行なわれた。
私(宮地)は、この事実認識と名古屋市民青専従・愛知県共産党専従15年間の実体験から、かつ、愛知県委員会事務所「あかつき会館」3階会議室における被告・弁護団グループ会議開催を何度も目撃している体験によって、「被告・弁護団の公判方針=共産党の方針」という判断をしている。よって、以下の文中でも、随時、被告・弁護団と書かず、「共産党は」とする。ただ、1965年、共産党が永田末男・酒井博を除名し、永田末男の被告団長解任をした後では、被告・弁護団内に複雑な状況が発生したことも事実である。
〔小目次〕
〔争点1〕、早期保釈問題
〔争点2〕、共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備事実
〔争点3〕、当夜における共産党の指揮・連絡体制
〔争点4〕、警察・検察による騒擾罪でっち上げの計画と準備事実
〔争点5〕、警察放送車内の火炎ビン発火をめぐる諸事実
〔争点6〕、清水栄警視の拳銃5発連射状況と逃亡・証人隠し
〔争点1〕、早期保釈問題
早期保釈問題は、公判冒頭における最大争点になった。警察・検察は、被告150人を長期未決勾留状態に据え置いたままで、騒擾罪立証のために、膨大な警察尋問調書と検事調書を積み上げようと企んだ。被告・弁護団は、独房勾留の人権侵害追求とともに、全員保釈による意志統一のために、裁判所に保釈申請をした。
名古屋地裁竹田裁判長は、保釈されていなかった被告9人保釈申請の3回とも許可決定をした。名古屋地検は、その都度、決定取消の検事抗告を出した。名古屋高裁は、最初2回の保釈決定を取消した。抗告理由は、「首魁9人の影響力が強く、彼らを保釈すれば、証拠湮滅を謀る危険性が高い」というものである。
『検察研究特別資料』は、281頁あり、その副題は「対権力闘争事犯公判手続上の諸問題」となっている。名古屋地検は、そこにおいて、75頁・27%も費やして、検察側「抗告文書」全文・解説と高裁の「取消決定」全文を載せている。この保釈闘争は、長期未決勾留期間中に、騒擾罪の事実認定証拠を歪曲し、でっち上げようとした検察側との最初のたたかいだった。
1954年3月12日、その後起訴された永田被告を加えて、最後の10人が3度目の保釈決定で釈放された。これは、事件発生から1年8カ月後だった(『文集』P.143)。
『第一審判決』は、実刑5人について、未決勾留日数を刑期に算入するとした。それによれば、芝野一三500日、渡辺鉱二450日、金泰杏350日、永田末男100日、閔南採80日である。日数の違いは検挙日からの期間を示す。有罪・執行猶予判決の被告人も長期勾留されたケースが多い。
メーデー事件公判において、被告全員の保釈を勝ち取ったのは、1953年4月20日だった(『メーデー事件裁判闘争史』P.775)。事件発生から11カ月後である。大須事件公判において、検察側がこのように露骨な保釈絶対阻止作戦に出たことからも、先行2事件の教訓・問題点を瞬時に学習し、なんとしてでも、第3の騒擾事件公判を失敗させてはならないとした検察庁・警察庁の意気込みと必死さがうかがえる。
大須事件被告2人の勾留執行一時停止問題のエピソードがある。
第一、『検察研究特別資料』は次の事実を記した。「被告人中、騒擾首魁兵藤鉱二と、騒擾指揮岩田弘とは、共に名古屋大学経済学部旧制三年在学中であった。ところが、その頃たまたま卒業試験期となり、二人共卒業資格を得るためには、なお数科目ずつの受験を必要としたため、三月初旬より中旬に亘って施行せられる試験期間のみ、勾留執行停止を求めていた。検察官はこれに対して反対の意見を述べたが、裁判所は大学側に照会して、受験科目、卒業見込等について調査を進め、更に経済学部長の説明をも聴いた上、二人共三月五日から十七日までの十三日間、勾留の執行を停止した。ところが兵藤は、日共・市ビューローの軍事委員であり、岩田は名古屋大学細胞経済学部班キャップであって、こうした地位から考えると、果して確実に帰って来るかどうか疑いがない訳でなかったが、彼らは一応十七日にその試験を終えて、再び勾留に服した」(P.62)。これも、公判闘争の一つとして勝ち取ったものである。
第二、水田洋名古屋大学名誉教授は、その後日談を話した。以下は、私(宮地)が水田教授に「彼らは無事に卒業できたのですか」と直接聞いた内容である。水田洋は、大須事件3年前の1949年、30歳で名大経済学部に助教授として来たばかりだった。2人の勾留執行停止時期は、1953年だった。経済学部では、卒論が必須科目で、その審査に合格しないと卒業できない。2人とも卒論を提出したが、どの教授も大須事件首魁と騒擾指揮者の卒論合否審査に尻込みをした。当時の経済学部は、近代経済学者が圧倒的で、マルクス主義経済学者は、社会思想史担当で34歳の水田助教授ぐらいしかいなかった。彼は、ゼミ生でもない2人の卒論審査を引き受けた。彼は合格決定を出した。経済学部教授会は、水田助教授の報告を聞いて、2人の卒業を許可した。
〔争点2〕、共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備事実
検察側は、『第1部』で書いたように、共産党による計画・準備事実の立証を最重点とした。白鳥事件と同じく、事前の計画・準備=共同謀議事実の立証によって、大須騒擾事件においても、騒擾罪を成立させる裁判長心証の半分以上を勝ち取れると考えた。その公判作戦は、先行中のメーデー騒擾事件公判・吹田騒擾事件公判において、共産党の事前計画・準備事実をまるで立証できていず、現場状況の事実認定のみで公判維持をせざるをえないことへの不安とあせりの反動によるものといえる。そのために、長期未決勾留中に自供させた大量の検事調書の内、検察側にとって都合のいい調書のみ数百通を証拠請求した。都合の悪い検事調書は証拠請求せず、隠蔽する作戦をとった。
共産党側は、検察側が冒頭陳述した計画・準備事実の起訴状内容にたいし、被告・弁護団に全面否認、沈黙・反論せずという公判方針を採るよう指令した。被告150人全員にも個々人起訴事実の認否において、全面否認をするよう指示した。検察側にとって、共産党の公判対応は、想定内のことで、その場合、検事調書内容が具体的証拠として裁判長ら裁判官3人心証の事実認定材料にできることを読み込んでいた。
弁護団『控訴趣意書』(1970年11月11日)は、「原判決が認定した『被告人等の計画・準備』に関する事実は、原判決の認定をそのまま是認するとしても〜」としただけで、それは当夜のデモ隊事態と異なるという主張をした(P.213〜214)。計画・準備事実に対する具体的反論を一切していない。
元被告団長・被除名者永田末男『控訴趣意書』は、被告有志5人『控訴趣意書』(1970年11月)118頁の冒頭にあり、97頁・82%を占める。彼は、騒擾罪適用の誤り、事実誤認について、検察側と『第一審判決』を徹底的に批判している。彼は、そこで「判決はもっぱら被告人らの自供調書だけによって、われわれの『計画・指令・準備』を認定し、それによって当夜の『騒擾事件』が起ったとしている。しかるに名古屋市警察本部の事前の周到な弾圧計画については〜」として、警察・検察の計画・準備内容を追求している。共産党側の計画・準備事実の起訴事実、第一審判決の計画・準備認定事実にたいして、具体的な反論を何一つしていない。
弁護団『上告趣意書』(1975年・あ第787号)は、「第2章第1節、デモの形成と出発」(P.44〜86)を書いているが、共産党の火炎ビン武装デモ計画・準備について、一言も触れないという公判作戦をとった。ただ、「第二に火焔瓶を用意すること自体は、なんら刑罰法規にふれるものではなく〜」と書いた以外、計画・準備に関する検察側起訴事実、第一審判決認定事実、第二審判決認定事実にたいする反論をせず、沈黙した。
『第一審判決』『控訴審判決』『最高裁決定』とも、共産党側が計画・準備事実にたいし反論せず、沈黙するという公判方針をとったので、検察側起訴状内容通りの事実認定を下した。
〔争点3〕、当夜における共産党の指揮・連絡体制
検察側は、『第3部』に書いたように、共産党の指揮・連絡体制を、多数の検事調書を証拠として、冒頭陳述をした。ただ、軍事委員長芝野一三が大須球場内の現地指導部にいたとした。
『第一審判決』は、検事調書を証拠採用し、検察側主張通りの事実認定を下した。デモ隊進路計画の変更を認めた。ピケ隊による警官隊配置情報とそれによる地下指導部の変更指令の存在、大須球場内現地指導部への指令連絡事実を認定した。
共産党側はそのいくつかに反論した。しかし、『控訴趣意書』と『上告趣意書』を見る限り、その2つにおいていくつかの方針転換がある。それは、第一審と控訴審との間で、または、最高裁上告にあたって、共産党側がこの争点に関して公判方針を転換したことになる。その理由は何か。共産党の方針転換には謎が多い。以下は細部のテーマのように見えるが、裁判長心証に与えた影響は大きいと考えるので、詳しく検討する。裁判長ら3人の裁判官が、いずれの主張を事件の真実と判定したのかにかかわる事実問題だからである。
(1)、デモ隊の方針・進路変更問題
『控訴趣意書』は、デモ隊が中署とアメリカ村にたいする火炎ビン武装デモをするという当初方針そのものの存在を全面否認した。進路変更指令についても、被告人の検事調書内容の信憑性を否定し、証拠がないと否認した。最初から上前津交叉点に向けての平和デモ方針だったと主張した。しかし、その主張では、「最低でも2000人のデモ隊」の中に、火炎ビン携帯が48本・33人あったことの説明がつかない。そこで、火炎ビン携帯・使用問題は沈黙した。
『上告趣意書』は、デモ隊が中署とアメリカ村に行くという当初方針だったことを認め、第一審方針を転換した。また、「火焔瓶を用意すること自体は、なんら刑罰法規にふれるものではなく〜」と火焔瓶用意を認める方針に転換した。もちろん、その転換は、火炎ビン武装デモ隊だったことを認めていない。しかし、この部分的な転換範囲だけでは、火炎ビン携帯・使用事実にたいする裁判長心証形成への説得力を持たない。
(2)、火炎ビン携帯問題
永田末男『第一審・最終意見陳述要旨』(1969年3月14日)は、「予想される官憲の弾圧には、貧弱な火炎ビンをもって身を守るという程度のことにすぎなかった」(P.10)と、デモ隊の火炎ビン携帯事実を明白に認める陳述をした。
永田末男『被告人の上告趣意』(1976年10月29日)は、「火焔瓶についても、私は全部球場に捨てるよう芝野被告に指示した。この点について、芝野被告の記憶がアヤフヤであるからといって、私が指示しなかったと、いうことにはならない」(P.43)とし、当初火炎ビン準備と携帯指令があったことを証言した。
芝野一三『上告趣意』(昭和50年・あ・第787号)は、「私に関連するのはその一部のものでその人達に当夜私のなしたことは『デモ行進は、上前津を経て金山へ向い、そこで流れ解散をする』。そのことを永田氏から指示を受け伝えただけのことである」(P.1)とした。それは、永田末男の「火炎ビンを全部球場に捨てる」指令の存在を「記憶がアヤフヤ」という言い方によって否認したことである。永田証言を認めれば、芝野一三も火炎ビンの準備と球場持ち込み事実を認めることになる。芝野一三被告団長は、共産党の方針に服従して、永田証言を否定した。裁判長ら3人は、どちらの証言を真実と認定するのだろうか。
(3)、第2地下指導部の存在と「八木旅館」問題
検察側も3つの裁判所判決とも、第2地下指導部の存在と「八木旅館」について、一言も触れていない。永田ら5人の地下指導部と大須球場内現地指導部との間の情報収集・指令ルートだけにした。そして、芝野一三は現地指導部にいたとした。
弁護団『控訴趣意書』は、芝野一三が球場にいたという証拠がないとだけ反論した。大須事件パンフのすべてが、「芝野一三は球場に行っていない。アリバイがある。居ない者を有罪にした」と宣伝した。『真実・写真』(1980年)も、「芝野一三被告団長は、大須球場にも現場にもいっていない。アリバイがある」(P.42)と主張した。ところが、どの場所にいたのか、どういうアリバイなのかについて、沈黙した。これでは意味不明で、裁判長心証形成になんの効果も挙げ得ない。
弁護団『上告趣意書』は、この「芝野一三アリバイ」問題について、一言も触れず、沈黙した。
永田末男『被告人の上告趣意』は、「判決では被告人芝野は球場の現地指導部へ行き、色々協議をとげたことになっているが、これは事実に反し、絶対にありえないことを断言する。彼は当時の日共名古屋市指導部のいわゆるビューロー員の一人であり、他の指導部員同様非公然活動に携っていたものであって、直接大須球場内へ出向いて指示を与えるようなことはタブーだつたからである。われわれ同様、迂遠でもレポーターを使ってしか下部への連絡はできないからである」(P.43)と、第2地下指導部の存在とそこからの芝野一三による大須球場への連絡事実を明言した。
芝野一三『上告趣意』は、「上前津を経て金山へ向うコースであるなら警官の妨害は避けられ無事金山で解散できるものと思いこんでいたからこそ、前記伝達を終え、私は集会場から離れた八木旅館で、冗談を交えた雑談をする心の余裕と時間があった。」
「八木旅館で福田氏を介して指示を伝達し、無事任務を終え雑談を交し安堵していた私が、判決によるとその頃私のもう一人が集会場で『警官隊に対して火焔瓶をもって抵抗する』ことを協議決定していたと云うのだからこんなひどい話はない」(P.2)と、第2地下指導部の存在とともに、それが「八木旅館」にあったことを証言した。
この「八木旅館」=第2地下指導部の存在問題については、1975年『上告趣意書』提出にいたるまで、被告・弁護団は完全に沈黙してきた。被告・弁護団は、「芝野一三は現地に行っていない。アリバイがある」と主張しただけだった。警察・検察も「八木旅館」に触れていない。警察・検察がそれを知らなかったはずがない。事件から23年も経ってから、芝野一三軍事委員長が初めて自己の『上告趣意』で証言した。なぜ23年間も黙っていたのか。「八木旅館」問題は、双方にとってそれほど重大な秘密事項=タブーだったのか。これも大須事件の謎の一つである。
千田貞彦元名古屋市軍事委員長は、この謎を解くカギの一つを証言した。彼は、大須事件1カ月前の6月9日、金山橋事件の主犯として逮捕されるまで、軍事委員長だった。以下は、私(宮地)が彼から直接聞いた内容である。「八木旅館」とは、大須球場の近くにあり、大須古物商高島三吉が関係する旅館だった。彼は、古物商と同時に、名古屋地方を掌握する香具師の大物だった。それは、名古屋市における縁日他の全露店を管理する裏側の仕事である。彼は、若いとき、左翼運動にかかわっており、その頃の名古屋市古参党員指導者たちと知りあっていた。
当夜の大須事件地下指導部場所は、大須球場から離れていた。よって、地下指導部は、(1)球場内の動向・雰囲気を刻々と掴む目的とともに、(2)その指令、または方針変更を球場内に伝達するためにも、球場近くのアジト=旅館に設置する第2地下指導部場所を必要とした。それを「八木旅館」に決定した。その発想は、警察・検察が、中署は球場から遠すぎるので、球場内を直接観察できる民家2階を借りて、警官隊4人を配備したのと同じである。かくして、共産党側と警察・検察側とも、球場に近い第2アジトを設営した。
共産党側は、公判において、永田末男ら地下指導部の存在と場所に関する検察側の起訴事実内容にたいし一言も反論せず、沈黙=是認した。一方、芝野一三が「球場に行っていない。アリバイがある」と反論したが、「八木旅館」問題は沈黙した。共産党側の全公判資料・全パンフにおいて、何も触れず、それを明言したのは、23年後の芝野一三自身による『上告趣意』一つしかない。
検察側も、第2地下指導部場所=「八木旅館」の存在を知っていたのに、その旅館に触れず、芝野一三を球場内にいたと事実のねつ造をした。というのも、第1と第2地下指導部の連絡員は、明和高校細胞ピケ班の被告人岩原靖幸・18歳だけであり、彼は「八木旅館」に球場内情報連絡と地下指導部指令伝達などで往復している。「八木旅館」と球場内指導部との情報収集・指令伝達ルートは、愛知県軍事委員福田であり、岩原靖幸は球場に行っていない。ところが、彼の検事調書内容は、3通とも現地指導部の芝野一三に伝達したと変造されている(『控訴趣意書』P.215)。これは、検察側がねつ造したのか、彼を脅迫して、「八木旅館」名を抹殺したとも考えられる。
検察側と共産党側の両者ともが、「八木旅館」名を抹殺した理由は一つしかない。それは、「八木旅館」名をさらけ出すことによって、名古屋地方を掌握する香具師大物高島三吉を大須事件に巻き込み、彼に迷惑をかける、あるいは、彼による報復を恐れるという動機が潜在したのではないのか。ただ、これは、あくまで謎解きの推論である。
〔争点4〕、警察・検察による騒擾罪でっち上げの計画と準備事実
共産党側は、騒擾事件でっち上げを論証するために、さまざまなデータを挙げた。
永田末男『上告趣意書』は、警察・検察の会議事実を具体的に証明した(P.80〜85)。
弁護団『上告趣意書』も、公判での警察・検察側証人にたいする被告・弁護団側質問データを含め、詳細に追求した(P.87〜137)。
検察側は、偽証、記憶にないという証言、のらりくらりの質問かわし手段によって、騒擾罪でっち上げの計画・準備事実を隠蔽した。その国家権力犯罪の事実隠蔽工作の壁は厚かった。私(宮地)も、『第2部』のように、前後経過に基づく推定論拠を示すことにとどまらざるをえなかった。
『第一審判決』は、これに関して、武装警官隊4大隊、警察放送車隊14人、私服警官隊3班75人の事前配備のみを認定したのに留まった。共産党側が追求・暴露した警察・検察の事前諸会議事実を全面的に黙殺した(P.112〜115)。
〔争点5〕、警察放送車内の火炎ビン発火をめぐる諸事実
私(宮地)の事実認定は、『第3部』で詳細にのべたので、ここでは繰り返さない。
検察側は、〔争点1、2〕とこの〔争点5〕の立証を最大重点とした。そのために、共産党名電報細胞グループを、警察放送車にたいする火焔瓶投擲の中心実行犯に仕立て上げようと、団体別被告グループ最多の12人を起訴した。そして、全員から多数の検事調書をとり、投擲事実の立証を狙った。しかし、名電報細胞長片山博の調書内容は、放送車内火焔瓶発火直後も、そこに接近せず、清水栄警視の拳銃連射と北側車道からの警官隊いっせい襲撃に驚いて、南方に逃げつつ、南側車道デモ隊列の中から、北側車道に向けて、火焔瓶2本を投擲した行為しか認めていなかった。名電報他被告の誰も、放送車に向けた火焔瓶投擲を自供しなかった。
名古屋高検『答弁書』(1971年7月21日)において、検察側は、控訴審になって、検事調書だけでデモ隊の放送車火焔瓶攻撃を立証できないと焦った。そこで、検事調書のみによる公判維持作戦という自己規制を破って、拷問・脅迫状況で作成された警察尋問調書内容を多数援用し、立証しようと企んだ。しかし、そのレベルは、他人行動の目撃証言だけで、放送車への火焔瓶投擲行為の自認調書を提出することに失敗した(P.309〜389)。
名古屋地検・名古屋市警は、検察庁・警察庁首脳から、「何がなんでも第3の騒擾事件で騒擾罪を成立させよ」との絶対命令を受けていた。その命令は、騒擾罪でっち上げ目的のためには、(1)大須・岩井通り現場における警察・検察の違法な事前計画・準備のみでなく、(2)騒擾事件公判においても違法な手口使用を含めて手段を選ぶなという趣旨だった。
刑事事件裁判のプロフェッショナルである検事たちは、第一審公判において、創意をこらし、さまざまな手口を編み出し、実行した。それが、警官による偽証、投擲者ねつ造、警察・検察にとって不利な物証隠し、合成写真のねつ造、不利な人的証拠隠しなどである。
被告・弁護団『真実・写真』は、検察・警察によるそれら違法な手口を暴露している。しかし、国家権力犯罪の壁は厚く、その違法なからくりを立証し、裁判長心証を形成するまでには至らなかった。その一部を抜粋する。詳しくは、『第4部・資料編』に載せる。
第一、警官による偽証 野田巡査と清水栄警視
野田巡査は、放送車が警官隊襲撃合図の停車をしたとき、車内に残って、投入され発火した火焔瓶を消火してから、下車したと証言した。投入された火焔瓶本数の真実は、『第3部』に載せた火焔瓶写真のように、検察側が事件21年後に初めて提出した2本だけだった。
彼は、公判証言ではないが、『警察庁・回想』(1968年1月)で次のように証言した。「(見出し)全身火だるまになって デモ隊は、岩井通り四丁目付近に至るや、軌道を越えて、広報車めがけて殺到し、石や火炎びんを投げ込んできた。ガラスの割れる音、車のボデーに石や火炎びんが激突する音、車内でアッという間もなく五、六発の火炎びんが火を吹きだし、班員の幾人かが火傷した。暴徒は、広報車を目がけて、次々と火炎びんを投げつけてくる。広報マンである私は、一人、広報車の中で投げ込まれる火炎びんの排除に当たっていたが、運悪く一発が鉄帽に命中した。みるみる服は燃え、帯革は焦げ、全身火だるまになった。」(P.200)
彼が下車したときの放送車と彼自身の写真は、『第3部』に載せたが、この証言とはまるで異なる。
清水栄警視の証言もほぼ同じである。
『第一審判決』は、被告・弁護団側の数十人の証言を無視した。そして警官2人の証言のみに依拠し、「放送車の後部及び右側窓付近に各三個、屋根に一個の火焔瓶が命中して発火し、車内には十個の火焔瓶が投込まれて発火炎上した」(P.124)とし、合計で17個の火焔瓶が放送車に命中発火したとの事実認定を下した。
『控訴審判決』『最高裁決定』とも、放送車内火焔瓶2本のみという真実を黙殺し、『第一審判決』通りの事実認定を下した。
第二、投擲者ねつ造 全甲徳少年・18歳、23歳で自殺
『真実・写真』は、「事件のつくりかえ」として、「火炎ビン投人者づくり」の経過を書いている。その抜粋を載せる。
「放送車に対する攻撃者を、どうしてもつくり出す必要にせまられた警察、検察は、朝鮮人少年で十八才の全甲徳に目をつけた。警官におどされ、検事におどされ、放送車めがけて投げたといえと執拗にせまられ、同時に、これを認めたらお前が保釈されるように裁判官に話してやる、と言った。そのあとどうなったか、全甲徳は釈放もされず、保釈もされなかった。
検事のいうとおりにしていれば、保釈されると信じ込まされていた全甲徳は、完全にだまされ、保釈はおろか起訴され、被告とされ拘留をつづけられた。失望と悲憤の内に全甲徳は自らの命をたった。二十三才であった。しかし、自白調書は証拠としてのこり、『火焔瓶二発を放送車めがけて投げ、発火炎上させた』として、デモ隊全体の意志とされた。」(P.53)
検察側と『第一審判決』とも、結果として、放送車への火焔瓶投入者を特定しなかった。警察・検察も、本当の投入者=警察スパイ鵜飼照光を特定するわけにはいかず、彼が投入を自供しているのにもかかわらず、不起訴にした。
全甲徳を投入者にでっち上げる手口は、松川事件における赤間被告にたいするやり方と同じである。
松川事件元被告佐藤一『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』赤間被告と事件ねつ造手口
第三、警察・検察にとって不利な物証隠し(1) 放送車の廃棄
放送車内に投入された火焔瓶2本の21年間にわたる物的証拠隠しは、『第3部・資料編』で書いた。
検察側は、それだけでなく、警察放送車そのものも廃棄処分にして、物証隠しを強行した。これを残しておけば、野田巡査・清水栄警視らの証言が真っ赤なウソであり、放送車の存在自体が検察側による騒擾事件でっち上げを完全証明することになる。検察庁・警察庁はそれを恐れたからである。検察側に有利であれば、証拠申請をするはずである。ましてや、わずか事件9カ月後に「廃棄処分」するなどは考えられない。
『真実・写真』は、次のように書いている。「この放送車は、権力側が、『デモ隊が最初に攻撃を加え、火炎ビン10個以上投入、発火炎上させ、騒乱罪のきっかけとなった』などと決めつけている重要な証拠物件である。法廷に証拠申請もせぬまま事件翌年三月ごろ、(検察官釈明)「廃棄処分」され証拠は消された。ちなみにこの放送車は事件当夜、野田巡査らによって火はすぐ消され、その後も動き廻り、中村署に帰り、又現場にもってきて検証写真が撮影されている。これが残されておればもっと多くの真実を語ったであろうし、逆に権力犯罪を語ったであろう。それだけに警察、検察は、残しておくわけにはいかなかったのだ」(P.49)
第四、不利な物証隠し(2) 写真完全隠匿と合成写真のねつ造
『真実・写真』は、次の事実も暴露した。「警察、検察は現場写真のすべてを失敗したといって、自らが撮影した写真は一枚も法廷に出してこなかった。そして、証拠として提出してきたのは『新聞社から提供してもらった』と称する現場写真である。今まで紹介してきた写真のすべては、そういうことで法廷に出された写真である。彼らは本当に失敗したのだろうか? 時間がたち、歴史がすぎ、被告・弁護団の調査がすすむ中で、そのウソはばれてくる」(P.47)。そして、警察・検察のウソを証明する写真2枚を載せた。
メーデー事件『検察研究特別資料』は、警察鑑識班の写真の出来映えがよく、警官隊との乱闘を行った暴徒多数を、それによって検挙できたと鑑識班を称賛した。もっとも、それら写真数百枚が、公判において、武装警官隊の違法な先制攻撃を証明する物的証拠ともなったので、写真は検察・警察にとってもろ刃の刃になる性質を持つ。
大須事件の警察鑑識班も、写真数百枚を何人かで撮った。そもそも、武装警官隊980人以外に、私服刑事を3班75人も配備していたからには、メーデー事件の教訓からも、写真班は10人以上いたと考えられる。その全員の写真が失敗したなどということはありえない。徹夜体制で現像してみたら、それらの写真すべてが、警察放送車にたいするデモ隊の火焔瓶攻撃シーンなどなかったことを完全証明していた。ましてや、デモ隊が放送車の5m以内に、市電軌道を越えて接近したシーンも一枚もなかった。
検察・警察は、放送車周辺の騒擾状況を証明する証拠写真が一枚もないことで愕然とした。真っ青になった名古屋地検・名古屋市警幹部は、検察庁・警察庁首脳と相談し、智慧をしぼって、3つの陰謀工作を決断し、瞬時に実行した。
(1)、警察が撮った写真数百枚が、鑑識班10人以上の全員ともすべて失敗したと公判で強弁せよ。法廷には警察側写真を一枚も出すな。弁護団が提出を要求しようと、裁判長が提出命令を出そうとも、耳を貸すな。
(2)、毎日新聞・中日新聞から、現場記者が撮った写真を提供させよ。ただし、その記者名を隠匿し、公判証人にも出させるな。弁護団から追求されて、ボロがでたらまずい。
(3)、騒擾状況が発生したことをでっち上げるには、鑑識班が合成写真を徹夜で作成せよ。それは、デモ隊が火焔瓶を大量投擲したとする合成写真、いま一枚は乗用車炎上のウラ焼き合成写真である。それを毎日新聞社・中日新聞社にリークし、翌朝7月8日紙面に掲載させよ。
下の写真は、検察・警察の国家権力犯罪に加担した毎日新聞が載せた合成でっち上げ写真である。翌朝紙面なので、毎日が合成したとは、一寸考えられない。名古屋市警が合成したでっち上げ写真一枚のリークと圧力を受けて、毎日首脳部が秘密裏に挿入したと推定する。写真が小さくてやや見にくい。しかし、『真実・写真』(P.46)の大判で鮮明な写真では、(2)のデモ隊員と(1)のデモ隊員が同一人物たちであることがよく分かる。以下の文は、元被告酒井博の証言である。
元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』合成写真によるでっち上げ
現場証拠写真(1)をよく見ていただきたい。(1)左側道路上の群衆の膝のあたりに鬼火のように炎が浮かんでいる。これは当局側が火炎瓶の炎上状況をできるだけハデに見せるためにデッチ上げた合成写真だ。毎日新聞7月8日朝刊には、当局が証拠として提出した現場写真(2)と(3)を合成した写真が掲載されている。写真(2)の右側放送車をカット、デモ隊部分だけを使用し、道路にやはり右側放送車をカットした炎を焼き込んだ写真は、あたかも「火炎瓶暴力デモ」のイメージを強調している。
+ →
(2)火炎ビン炎なし+(3)デモ隊が棄てた火炎ビン炎→(1)デモ隊が投げたかのような合成
毎日の写真説明は「投げつけた火炎ビンを尻目にむしろ旗とプラカードを持って逃げるデモ隊」
〔争点6〕、清水栄警視の拳銃5発連射状況と逃亡・証人隠し
拳銃連射状況は、『第3部』と『第3部・資料編』で詳しく分析した。ここでは、清水栄警視をめぐる攻防の結果として、彼が弁護団の厳しい追求に堪えられなくなり、検察・警察側が彼を逃亡させ、証人隠しをしたことだけを検討する。
宮崎四郎名古屋市警本部長は、清水栄警視を「あの人は非常にしっかりしている」という人物評価をし、警視20人の中から、彼を警察放送車の警告隊長に大抜擢した。彼は、騒擾罪でっち上げの事前計画・準備に基づき、武装警官隊980人が北側車道からいっせい襲撃をする第2合図である拳銃5発連射任務を、期待通り見事に遂行した。警察スパイ鵜飼照光による放送車内への火焔瓶2本投入・発火という第1合図と、第2合図との時間差は数秒から十数秒である。これらの経過は、でっち上げ作戦が想定した通りの出来映えだった。
清水栄警視は、事件直後から、検察・警察内で、暴徒にたいする果敢なる行動が称賛された。名古屋市警内の地位において、20人の警視から、わずか6人だけの警視正への論功行賞的な昇進は確実視された。名古屋市公務員の一般職と当時の自治体警察官とは地位が異なるとはいえ、それは中間管理職から上級管理職への昇進となる。
弁護団は、騒擾事件起訴がでっち上げであることを暴露・立証する上で、清水栄警視の公判証人尋問を最大の力点と位置づけた。そこから、第一審で、6回の証人尋問をし、発射状況を徹底的に追求した。なぜなら、(1)、彼は警告隊隊長・早川大隊副官であり、拳銃5発連射という第2合図を遂行した最前線指揮官だったからである。(2)、しかも、騒擾挑発物=放送車周辺における火焔瓶の大量投擲攻撃など発生しなかったという想定外状況なのにもかかわらず、事前計画・命令に忠実に拳銃5発を水平発射した。その行為により、後向きに逃げていた朝鮮人少年を射殺した名古屋市警本部少年課長の地位にある殺人犯だったからである。
メーデー事件で、武装警官隊は、21人が計70発を発射した。メーデー事件『検察研究特別資料』(P.154)は、その警官名・発射数と使用状況の克明な表を載せた。それによれば、9発1人、6発3人、5発2人である。5発以上の「射耗数」警官を計6人とした。警官が射殺したデモ隊員は1人だった。拳銃弾による負傷者は計22人である(P.176)。
メーデー騒擾事件公判において、東京地検側は、警官隊の拳銃発射人数や「射耗数」は不明として、弁護団側が何度要求しても、そのデータの提出を拒絶し、隠蔽した。ところが、この(部外秘)『検察資料』一冊が、2500円で古本即売会目録に出ているとの情報が弁護団に入った。弁護団側は、入手した極秘データに基づいて、拳銃発射警官全員の証人尋問請求をした。検察側は、弁護団側にそのデータが漏洩したと悟って、やむなく、拳銃発射警官データの証拠開示をした(『メーデー事件裁判闘争史』P.229)。このデータと警官16人にたいする証人尋問の徹底追求こそが、控訴審において、武装警官隊の違法な先制攻撃実態を立証し、メーデー事件騒擾罪の全員無罪判決を勝ち取った原因の一つとなった。拳銃発射警官16人の公判調書がその違法性を完璧に証明したことによって、東京高検・最高検は、最高裁への上告を断念せざるをえなかった。
名古屋市警本部防犯少年課長清水栄=朝鮮人少年殺人犯は、証人尋問6回にわたる弁護団側の追求の中で、厳しい尋問に堪えかねて、次々とボロ・亀裂を出し始めた。宮崎本部長が彼を大抜擢し、期待した理由は2つある。第1理由、最前線指揮官として、拳銃連射という第2合図任務を忠実に果たすであろう。第2理由、彼は騒擾事件公判で弁護団側からもっとも厳しく追求されるだろうが、彼は検察・警察による公判対策としての事前の口裏合わせ=偽証内容の意志統一・命令を守り、公判において堂々たる偽証をおこなうはずである。ところが、彼の公判証言内容は、検察・警察の期待を次々と裏切った。
〔ボロ・亀裂1〕、安井検事正出席の認否問題
清水栄警視は、こともあろうに、大須事件11日前の名古屋市警臨時部課長会議に、安井検事正が出席していた事実を証言してしまった。それは、「不出席で、事後報告」という偽証口裏合わせを真っ向から否定した証言だった。
永田末男は、『控訴趣意書』(P.81)で次のように暴露している。「名古屋市警宮崎四郎本部長は、会議方針を安井検事正に事後報告したと書いた。しかし、翌六月二十七日付の毎日新聞夕刊には、安井検事正が出席していたと報道されている。そして、此の会議に出席した当時の市警防犯少年課長警視清水栄証人は、昭和三十一年九月七日原審法廷で、同会議に安井検事正が出席した事実を認めている。この場合、決定的に重要なことは、他の警官、検察官証人の否定した安井検事正の会議出席の事実を清水栄が証言しているということである。これは日本の検察官の見地からすれば、この場合『してはならない』種類の証言なのだ」。
〔ボロ・亀裂2〕、拳銃発射警告の有無と発射行為との時間差問題
偽証口裏合わせは、大声で何度も撃つぞと警告をした、やや間を置いてから発射したと証言せよ、とする内容だった。
『上告趣意書』(P.336)は、彼が公判で弁護団に追求されて、偽証約束を破って、真実を証言してしまったことを暴露した。
「原判決はさらに、清水栄は『発射前撃つぞと警告し、発射の効果をも確認しつつ必要な範囲で拳銃を発射した』と判示する。しかし、事前警告はそもそも証拠上認められるか。清水一審一三四回公調証言は次のとおりである。
(弁護士) あなたが撃つぞといわれた。それとあなたが拳銃を発射される、その間の時間的な間隔は…
(清水) 撃つぞといって撃っておるんですから、時間的間隔があるというようなものではないわけです。
(弁護士) あなたが撃つぞといわれて、パッと間髪を入れず発射されておるということですか。
(清水) 大体そうです。」
〔ボロ・亀裂3〕、拳銃発射第1理由としての群衆による包囲・攻撃の存否
偽証口裏合わせは、放送車内発火とほぼ同時点に、放送車攻撃中のデモ隊員多数から、彼も包囲され、かつ、攻撃をされたので、やむなく発射した、よってそれは正当防衛であり、発射に違法性はないと断言せよ、という内容だった。彼は、最初の頃の証人尋問では、偽証口裏合わせどおりに証言した(『上告趣意書』一審一〇八回公調123項、一三四回公調2項)。しかし、これも、6回の公判証言の過程で、偽証約束を破って、真実を証言してしまった。
「(清水) 勿論私が拳銃を撃ったときには、デモ隊との距離がありまして、群衆に取り巻かれたという状態で発射したわけではありません。
(弁護士) そのとき、その群衆はあなたを目がけて喚声を挙げて、あなたの方を押しかけてくるという、そういう態勢にあったわけでもないんですか。
(清水) そのときは、私に向かって攻撃を加えるというのではなく、むしろ私の方から、接近していったわけでありますから。(同27・28項)
清水栄は従前の『暴徒から包囲された』旨の供述を一擲した。彼は、法廷証言において、当初の偽証内容である暴徒に包囲されたので拳銃を5発連射したことを、自ら否定した。」
〔ボロ・亀裂4〕、拳銃発射第2理由としての彼の孤立状況問題
偽証口裏合わせは、拳銃発射のもう一つの理由として、彼が他警官隊と離れて、デモ隊の中で孤立してしまったので発射したと言え、とする内容だった。当初、彼は、そのように偽証していた。『上告趣意書』は、当初証言を載せた。「(清水) そのときは、私個人だけでありまして、部隊との連繋が切れて居るので、拳銃を使用するほかそういう気勢を防止し得ないという考を起こしました(一審一〇八回123項)。(清水) そうした凶悪な犯罪を防止するに当たりまして、その当時としては私は単独で追行しておったのでありまして、拳銃を使用するほかに、その事態が極めて緊迫した情勢にありましたので、それで発射したわけであります(一審一三四回公調2項)。」
ところが、『控訴審判決』は、彼の第2偽証内容だった「自分一人が孤立した状態にあって攻撃を受けたので、暴徒へ向けて拳銃五発を発射した」ことに言及せず、その孤立状況の存在を否定した(『上告趣意書』P.338〜341)。
名古屋市警宮崎本部長の人選第2基準=「清水栄警視なら、公判で被告・弁護団から鋭い追求を受けても、平然と、立派な偽証を続けられるであろう」という目論見が外れた。検察庁・警察庁は、これ以上、彼を控訴審公判の証言台にさらしたらまずいと悟って、清水栄警視を失踪させ、死亡扱いにし、お墓まででっち上げた。よって、被告・弁護団が、第二審公判1967年5月11日第60回準備手続きにおいて、彼に再度の証人尋問を申請したが、警察・検察は、行方不明として、最大の証拠を隠蔽した(『上告趣意書』P.240)。
なぜ、清水栄警視は公判証言において、次々と偽証口裏合わせ内容を裏切る〔ボロ・亀裂〕を露呈したのか。その理由として3つが推定できる。ただし、どれが該当するのかは分からない。被告・弁護団は、この種類の推定を一切していない。
第一、宮崎四郎本部長の人物評価が誤っていた。清水栄には、証人尋問6回でこのレベルの偽証に堪えられる資質がなかった。
第二、防犯少年課長でありながら、朝鮮人少年を背後から射殺した殺人行為への自責の念、良心の呵責に苛まれるようになった。
第三、〔ボロ・亀裂〕証言をする度毎に、検察・警察首脳から厳しく批判され、情緒不安定・うつ病症状に陥った。
一方、検察・警察にとって、清水栄とは何者なのか。トップにとって、中間管理職である彼の利用価値は何なのか。第一審公判証言における彼の〔ボロ・亀裂〕露呈は、当初の利用価値どころか、彼の生存それ自体を極めて危険なマイナス価値に転換させた。万が一、彼を控訴審証人として再度出席させ、弁護団側からさらに突っ込んだ尋問をされようものなら、激しい精神的動揺に陥る危険性が高い。控訴審法廷において、彼が、(1)騒擾罪でっち上げの事前計画・準備の会議内容、(2)公判対策としての偽証口裏合わせ会議内容などを証言するような事態でも発生しようものならどうなるのか。その場合、たった一人の課長証言によって、検察庁・警察庁の権威は吹っ飛び、騒擾事件公判どころではなくなる。名古屋地検・名古屋市警首脳は、そのマイナス想定による恐怖で打ち震えた。彼を、控訴審公判の証人尋問に晒さなくするにはどんな手口があるのか。
その類似ケースにおいて、歴史は、利用価値を喪失し、危険物に転化した下級・中間機関人間にたいして、「邪魔者は殺せ」という暗黙の鉄則で、機関トップが肉体的・政治的抹殺を謀ってきたことを無数のデータで証明している。検察庁・警察庁は、その法則通り、清水栄という人間を逃亡させた。しかし、それでも共産党側の清水捜索の手が緩まなかった。国会でも、1975年、共産党青柳盛雄議員が「清水失踪」問題を取り上げた。そこで、検察庁・警察庁は、最後の手段として、その人間を、生きながらの戸籍上の死者とし、人骨のない墓までも創った。被告・弁護団側による清水捜索経過は、『第4部・資料編』に載せる。
日本の刑事裁判史上において、これほど露骨で、なりふり構わぬ、検察・警察側が仕組んだ証拠隠し、証人隠しは、例を見ないであろう。もちろん、3大騒擾事件公判において、メーデー事件・吹田事件でも、検察・警察側は証拠隠しをいろいろした。しかし、大須事件におけるように、これほど悪質な証拠隠蔽・抹殺行為をしたケースはない。この行為は何を意味するのか。それは、検察庁・警察庁首脳が、大須騒擾事件裁判は、このままでは騒擾罪不成立になると判断し、第3の騒擾事件もそうなったら、検察・警察の面子が丸潰れになるという不安に執りつかれたからである。その自己保身目的のためには、いかなる違法な公判手段を使ってでも、被告150人を有罪にさせななければならないと国家権力犯罪完遂の決意をしたからである。
検察・警察による騒擾罪でっち上げの事前計画・準備それ自体も権力犯罪だった。その上に、大須騒擾事件公判における証拠・証人隠しをと合わせると、検察庁・警察庁がしたことは、二重の、前代未聞の国家権力犯罪の性質を持つ。
それにもかかわらず、裁判所は、第一審・控訴審・最高裁とも、第3の騒擾事件のみに有罪判決を下した。なぜなのか。メーデー事件・吹田事件で無罪判決を出した裁判官たちと、大須事件担当の有罪判決裁判官たちで、思想的立場が異なっていたとでもいうのか。あるいは、共産党側の公判対応や、共産党による大須事件公判内外支援体制にも重大な欠陥があったのか。
4、騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価
〔小目次〕
刑事裁判において判決が出るには、様々な要因が働く。大須事件裁判における騒擾罪成立の原因を5つの面から検討する。言うまでもなく、刑事裁判では、裁判官3人が、国家権力である検察側の起訴・公判方針と、被告・弁護団側の弁護方針を聞き、訴訟指揮を行いつつ、彼らの心証形成をし、その度合いによって有罪無罪の判決をする。以下は、裁判官の心証形成に及ぼした要因とその影響度という面に限定して、諸原因を検討する。
法廷内要因は3つある。(1)騒擾罪起訴をした名古屋地検の方針と心証形成に及ぼした影響度、(2)被告150人と常設弁護団5人の方針、ただし、事実上共産党側の公判方針と、それが心証形成に及ぼした影響度、(3)法廷内における双方の攻防にたいする名古屋地裁裁判官3人の訴訟指揮と心証形成度である。
法廷外の要因は2つである。(4)被告・弁護団側=共産党側の支援運動方針と支援体制のレベルと心証形成に及ぼした影響度、(5)マスコミの動向である。ただ、(5)については、検察・警察側によるマスコミ利用として、(1)に含める。
これらの要因が絡み合って、第3の騒擾事件にのみ騒擾罪が成立した。1952年7月7日大須・岩井通りにおける騒擾状況の存否に関して、私(宮地)は『第3部』で詳細に分析した。私の事実認定は、騒擾状況など発生していないとするものである。その面では、被告・弁護団の主張と完全に一致している。それにもかかわらず、裁判官は3審とも騒擾罪成立の判決を下した。なぜなのか。その原因はどこにあるのか。
ただ、5つの中から主要原因を特定するのは難しい。5つの原因のいずれも問題点を孕んでいる。このファイルでは、それらを検討するが、いずれかに特定することを、あえて避ける。なお、法廷外要因(4)は、きわめて複雑で、重要なテーマを多数含んでいる。よって、それは『第5部』「騒擾罪成立の原因(2)、法廷内外体制の欠陥」に廻す。その副題は、「1964年の諸問題と宮本顕治の敵前逃亡犯罪」である。
ちなみに、私(宮地)の裁判体験と裁判分析は2つある。それらの個人的な体験が大須事件ファイルの背景になっている。
第一、私が、1977年11月に提訴した日本共産党との民事裁判である。弁護士なしの本人訴訟で、共産党専従解任不当の仮処分申請訴訟と本訴訟の2段階の裁判を、1979年3月まで、1年4カ月間行った。被告は野坂参三で、原告は宮地健一だった。
請求の趣旨は、共産党愛知県専従解任は、私が機関紙赤旗の一面的拡大方針と実態の極度な誤りに関して、共産党中央委員会批判・愛知県常任委員会批判を正規の党内会議で発言した行為にたいする報復であり、憲法の裁判請求権に基づいて、解任不当判決を求める内容だった。本訴訟の公判は、名古屋地裁の大きな法廷で1回だけだったが、仮処分の審尋は、裁判長室で9回・9時間あった。民事裁判ではあるが、そこから裁判長がどのように心証を形成していくのかという過程を実体験した。
『日本共産党との裁判』第6、7、8部の裁判体験
第二、スパイ査問事件公判に関する裁判分析とその党中央宛「意見書」である。私は、1976年の報復的な専従解任を不当として、党中央に長大な意見書3通、質問書・調査要求書など25通を出し続けた。さらに、1977年第14回大会に警告処分不当・専従解任不当の「上訴書」を提出した。党中央は、私の1年8カ月間にわたる党内闘争にたいし、一度も調査しようとしなかった。さらには、党大会決定が出るまで、自宅待機措置にし、党籍も点在党員組織隔離措置にした。第14回大会において、上田耕一郎党大会議長は、戎谷統制委員長の却下報告を受けて、採決も取ろうとせず、「異議ありませんか」として、30秒間で却下した。この犯罪的な手口にたいし、私は怒り心頭に発し、日本共産党との民事裁判提訴を決意した。
2つの党内犯罪措置の期間中に、立花隆『日本共産党の研究』が出版された。宮本顕治は、『犬が吠えても歴史は進む』という立花批判のキャンペーンを大展開した。私は、共産党側の反論内容とやり方に強い疑問を抱いた。2つの措置で時間がたっぷりあったので、スパイ査問事件に関して出版された書籍・雑誌・週刊誌、戦前の日本共産党史文献を徹底して集め検討した。とくに、「治安維持法+党中央委員小畑査問・致死事件」裁判の分析・研究を綿密に行った。私の結論は、宮本顕治の反論内容は完全に誤りであるとともに、党内外に重大なマイナス影響をあたえるとする内容だった。時間があるので、長大な「意見書」を書き、党中央に提出した。もちろん、これにたいしても、党中央は握り潰した。
『スパイ査問問題意見書』 『第1部2』暴行行為の存在、程度、性質の真相
2、裁判長の訴訟指揮と裁判官3人の心証形成
裁判官が事実認定をする基準は、建前として、訴訟指揮を通じ、「真実か、それともウソか」を見分けることである。メーデー事件控訴審裁判官と吹田事件3審裁判官は、いずれも、検察側の「デモ隊が騒擾状況を発生させた」という主張を、多数の証言・証拠写真に基づいて、ウソであり、真実は武装警官隊による違法な先制攻撃だったという事実認定をした。
大須事件の場合はどうか。また、裁判官の思想的立場が訴訟指揮や判決に表れるのか。
第一、名古屋地裁裁判所長村田正雄が名古屋市警機関紙「警苑」に書いた「巻頭言」がある。この抜粋は、『第2部・資料編』に載せた。その論旨は大須事件にたいする予断と偏見に満ちたもので、起訴前に書かれた。裁判官個々の自立性があるとはいえ、所長の思想的立場が、大須事件担当裁判官の選定や訴訟指揮になんらかの影響を及ぼしたことが推定される。
第二、第一審裁判長竹田哲哉の保釈決定と訴訟指揮に関する評価がある。
彼は、1952年9月16日の第1回公判から裁判長だったが、1955年7月に病死した。その間、彼は、被告・弁護団の保釈申請を3回とも認め、保釈決定を出した。検察側は、それにたいして、3回とも抗告をし、最初の2回は名古屋高裁が保釈決定を取り消した。全員が保釈されたのは、事件の1年8カ月後だった。
彼の訴訟指揮に関して、『検察研究特別資料』(1954年3月作成)は、裁判長が被告・弁護団の法廷発言を制限・制約せず、言いたいだけ言わせて、放任していると、不満たらたらで、何度も批判を書き連ねている。いかに放任したのかを、被告人と検察側との感情的な論争レベルの公判速記録をそのまま多数引用した。名古屋地検内部では、検察側による裁判長忌避申し立てをすべきという議論があったとも書いている。
ちなみに、『検察資料』が載せた被告人発言内容と回数の多い人数を見てみる。金泰杏19回、岩田弘14回、片山博13回、酒井博9回、兵藤鉱二9回、芝野一三3回などである。検察側は、竹田裁判長の訴訟指揮がよほど腹に据えかねたのであろう。
第三、裁判長井上正弘が、その後、第一審公判を担当した。彼は、1966年12月、検察側申請の被告人ら供述調書のほとんど全部512通の証拠採用を決定した。弁護団はそれに異議申立をしたが、彼が却下したので、被告・弁護団は裁判官忌避の申立を出した(『文集』P.145)。
1969年11月11日公判で、彼は騒擾罪成立判決を下した。騒擾有罪99人、内実刑5人とした。事件の17年4カ月後だった。
元被告酒井博に、私(宮地)は、2人の裁判長の比較を直接聞いた。彼は、竹田裁判長は民主的な訴訟指揮をしたが、井上裁判長の訴訟指揮はかなり反動的で抑圧的だった、との印象を語った。
3、検察側方針・力点が有罪の心証形成に有利に働いた要因
共産党による火炎ビン武装デモの計画・準備実態を克明に立証した検察側作戦が、裁判官の心証形成に大きな影響を及ぼした。検察庁・警察庁は、メーデー事件公判・吹田事件公判において、共産党による計画・準備実態を立証することができなかった。それだけに、彼らは、第3の騒擾事件公判において、「玉置メモ」という事前の物的証拠入手から手繰り寄せて、その証拠固めを最大の力点に据えた。
私(宮地)の名古屋市における民青・共産党専従15年間の体験から見ても、(1)『第1部』『第1部・資料編』で分析したように、計画・準備事実に関する限り、検察側起訴事実、裁判所の事実認定内容は、真実に近い。火炎ビン武装デモの方針、諸会議決定、火炎ビン製造は、ほぼ真実だったと考える。それらに関する記述に、誇張・ねつ造はない。(2)一方、大須・岩井通り現場の状況に関しては、検察側・裁判所側とも誇張・歪曲・ねつ造だらけの記述をしている。この2つの際立った格差が、有罪判決の特徴の一つをなしている。なぜそのような格差が生じたのか。それでも有罪になりうるのか。
裁判官が有罪の心証形成をする要因として、事前の計画・準備事実、いわゆる共同謀議事実が真実であるかどうかの判断が、大きな影響を及ぼす。
松川事件では、列車転覆行為の現場立証がまるでない。しかし、赤間少年の共同謀議自供、列車転覆謝礼費自供を事実上唯一の証拠として、国労役員・東芝労組役員にたいし、第一審・控訴審とも死刑判決を下した。裁判長は、ウソの赤間自白内容を真実だとの心証形成をした。検察側は「諏訪メモ」を長期にわたって秘匿していた。ところが、「諏訪メモ」の存在が発覚するに及んで、国労役員と東芝労組役員らによる列車転覆の共同謀議が存在したということ自体が空中分解してしまった。最高裁の差し戻し決定で、死刑が無罪となった。裁判官たちは、ウソの共同謀議を真実であるとの心証形成をしただけで、列車転覆行為の具体的立証がないのにもかかわらず、死刑を宣告した。「諏訪メモ」という真実を引き出させなかったら、松川事件裁判は一体どうなっていたのか。
白鳥事件でも、同じである。裁判官たちは、共産党札幌市軍事委員長村上国治ら7人が、白鳥警部射殺の計画・準備をしたという共同謀議事実のみに基づいて、村上国治ら3人を有罪とした。松川事件が100%でっち上げの謀略事件だったのにたいし、白鳥事件は、共産党軍事委員会が1952年当時の武装闘争方針に基づいて、警官射殺を実行したという真実がある。ただ、日本共産党は、射殺実行者ら合わせて10人を中国共産党側に人民艦隊で逃亡させた。使用ピストル・使用自転車という物的証拠も完璧に隠蔽した。幌見峠における検察・警察の弾丸でっち上げ謀略は一方の真実であるが、裁判官の心証形成は検察側のウソ・謀略によって影響されなかった。
大須事件は、武装闘争共産党が出した全国的な「日本における朝鮮侵略戦争参戦指令」に従い、党中央軍事委員岩林虎之助の火炎ビン武装デモ命令を具体化し、実行した事件である。その性格は、「朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動」だった。中署・アメリカ村への火炎ビン攻撃を行うとする名古屋市軍事委員会方針、隊長会議、細胞レベル会議内容、火炎ビン製造方針と製造は真実であった。しかし、実際のデモ隊は、当初計画を変更し、大須電停を左折・北進せず、上前津交叉点に向けた無届・平和デモを5分間・250m行っていた。ただ、デモ隊員1500人中に、当初指令の火炎ビン携帯者が33人、2.2%いた。
このケースで、裁判官の心証形成はどうなるのか。当然、裁判官は、いわゆる共同謀議の存在を真実と認定した。その共同謀議と内容それ自体は、騒擾罪に該当するという心証形成をした。あとは、大須・岩井通りの現場状況の事実認定が残る。
検察側は、上記〔争点〕で分析したように、(1)偽証口裏合わせをし、法廷でも警官・検察官たちに様々な偽証をさせた。(2)警察放送車や警察側写真という検察側に不利となる物的証拠を隠蔽・廃棄した。(3)毎日新聞・中日新聞にでっち上げ合成写真をリークし、翌朝の新聞に掲載させた。(4)不利となる内容の被告人検事調書多数も恣意的に証拠申請せず、隠蔽した。それだけでなく、(5)騒擾罪無罪の決定的な証言をなしうるはずの清水栄名古屋市警少年課長=朝鮮人少年殺人犯という人的証拠を逃亡させ、戸籍上の死者にしてしまった。検察側のこれら国家権力犯罪行為は、大須・岩井通りの現場状況が騒擾罪に該当しないことを証明しているはずである。
裁判官は、その検察側犯罪にたいして、どのような心証形成をしたのだろうか。第一審・控訴審・最高裁の有罪判決を読むかぎり、裁判官はそれらに関する事実認定を恣意的に避けている。なぜなのか。検察庁・警察庁と裁判所という司法内部の同じ穴のむじなとして馴れ合っているのか。しかし、メーデー事件控訴審と吹田事件3審の裁判官たちは、騒擾罪無罪判決を下した。大須事件関係裁判官たちだけが予断と偏見を持っていたのか。あるいは、それだけ、火炎ビン武装デモの計画・準備という共同謀議の存在有無が、決定的な心証形成要因となって、3つの騒擾事件裁判における無罪・有罪判決を分けたのか。
4、共産党側方針・力点が無罪の心証形成に不利に働いた要因
被告・弁護団=共産党側は、公判において、1)、火炎ビン武装デモの計画・準備に関する検察側起訴事実内容にたいし、全面否認をするか、沈黙・反論せずという方針をとった。2)、被告150人も、共産党側の公判方針に従い、個々人の起訴事実内容にたいし全面否認をした。3)、中署・アメリカ村へのデモ行進という当初計画が存在したこと自体も否認した。無届だが、最初から上前津交叉点→金山橋への平和デモという方針だったと主張した。そこから、4)、デモ隊の進路変更指令が存在したことも証拠がないと否認した。5)、大須球場内現地指導部の存在も否認した。6)、芝野一三軍事委員長は現場に行っていないと主張し、彼には「アリバイがある」と場所を隠したままで否認した。7)、火炎ビン携帯者・使用者の存在にも沈黙し、反論しなかった。なぜ火炎ビンが存在したのかについて何の説明もしなかった。
裁判官は、これら共産党側の公判対応をどう受け止めたのか。当然、裁判官3人全員が「被告・弁護団=共産党側は真っ赤なウソをついている」という心証形成をした。「共産党側はなぜそんな見え透いたウソを主張するのか」と考えたはずである。そして、「これらの争点に関する検察側の起訴事実は真実である」との心証形成度を高めた。
一方、共産党側は、警察放送車内の火炎ビン2本発火は、警察スパイ鵜飼照光がやったことと主張した。しかし、8)、彼が共産党員であり、愛日地区軍事委員・テク担当だった事実に一言も触れなかった。9)、名電報細胞の「玉置メモ」の存在と、メモ内容の信憑性についても、完全に沈黙し、ほとんど反論もしなかった。10)、火炎ビンを使用した日本人のほぼ全員が共産党員であることにも触れなかった。
最大の力点として、武装警官隊980人による先制攻撃の違法性の立証に全力をあげた。とくに、清水栄警視の拳銃発射行為の状況を証人尋問6回で追求した。警察放送車内の火炎ビン発火とその周辺状況において、デモ隊が市電軌道を越え、放送車に接近していないことを多数の証人証言によって論証した。この面に関して、私(宮地)は被告・弁護団の追求方針と内容レベルに完全に賛同している。しかし、検察側による証拠隠蔽・偽証などの国家権力犯罪の壁は厚く、暴露が不充分に終わった事実も多い。
裁判官は、この争点に関して、検察側と共産党側のどちらの主張を真実とする心証形成をしたのか。大須・岩井通りの状況についての主張は、真っ向から対立していた。私(宮地)の事実認定は、『第3部』で書いた。裁判長たちも、ある程度は、警官隊による違法な先制攻撃が真相ではないかと、3人で議論したとも思われる。というのも、メーデー事件・吹田事件の裁判官たちはそういう事実認定をしたからである。
しかし、裁判官の心証形成として、(1)火炎ビン武装デモの計画・準備、デモ隊方針において、「検察側は真実を立証している。しかるに、共産党側は明かに真っ赤なウソをついている」という真実・ウソの判定があった。それにもかかわらず、(2)大須・岩井通り現場状況に関してだけが、「共産党側の主張の方が真実に近い。検察側は真っ赤なウソをついて、騒擾罪をでっち上げようとしている」という逆転発想ができるのか。
むしろ、通常の裁判官心理としては「共産党側は(1)で真っ赤なウソをついている以上、(2)でもウソをついているのではないのか」という疑惑を抱く。その心証形成度が有罪判決になった。
被告・弁護団=共産党側は、それならどうすべきだったのか。
騒擾事件裁判は、一般的な刑事裁判とは異なる。それは、まさに時代錯誤的な刑法106条を適用しようとした階級裁判である。被告150人は、日中貿易促進・朝鮮戦争反対の正しいスローガンでデモ行進をしただけなのに、このような弾圧は許せないという怒りに満ちていた。その階級裁判において、共産党側に不利な起訴事実にたいし、真実を隠し、真実を全面否認して、ウソをつくのも正当な公判闘争であるとする見解も存在した。その心情は理解できる。
しかし、刑事裁判であるからには、騒擾罪106条の法的解釈・適用是非の前に、事実関係に関して「ウソか真実なのか」の事実認定が決定的となる。裁判官は人間であり、ウソかどうかを見分ける立場の国家公務員である。
メーデー事件・吹田事件の裁判官たちは、検察側が共産党による事前の計画・準備実態を立証できず、現場状況の真実がほとんど唯一の争点だったので、「検察側の起訴事実をウソ」とする事実認定をした。
永田末男は、東大法学部出身である。そして、名古屋市委員長になるまで、共産党岐阜県委員長だった。彼の公判文書は3通ある。彼は、『第一審被告人最終意見要旨』36頁、『永田末男・控訴趣意書』97頁、『永田末男・上告趣意書』45頁を提出した。そこでは、いずれも、共産党名古屋市ビューロー・キャップとして、検察・警察の騒擾罪でっち上げを事実に基づいて批判し、判決の事実誤認を暴露している。そして、騒擾罪・刑法を含め法律論を詳しく展開した。他被告人は数頁ずつの文書だけだが、永田末男の3通・178頁はもっとも重厚で、法律理論面でも専門的といえる。その一方、いずれにおいても、騒擾事件公判をたたかっている最中の被告人らを見捨て、切り捨て、自己保身を謀る宮本顕治・野坂参三の敵前逃亡犯罪言動を強烈に批判した。
私(宮地)が推察するに、彼は法学部出身者として、刑法106条といえども刑事裁判であるからには、事実関係に関し、(1)(2)とも全面的に真実をのべて争うしかないとする見解を抱き、被告・弁護団内や共産党グループ内で、何度も主張したのではないか。(1)で真っ赤なウソをついておいて、それが正義の階級闘争だとし、片や(2)で真実をのべて国家権力と争うという公判闘争のやり方は、刑事裁判のたたかい方として根本的な誤りであるとしたのではないか。
変な言い方だが、メーデー事件・吹田事件のように、共産党による事前の計画・準備が検察側に掴まれていず、検察側がほとんど立証できなかったという類似状況が、大須事件でも存在していれば、どういう対応があったのか。そのケースにおいては、先行2公判と同じく、被告・弁護団側が「そんなことは知らぬ、存ぜぬ」と全面否認をし、計画・準備実態に関して真っ赤なウソをつくやり方もできたかもしれない。しかし、大須事件はその点で、決定的に異なっていた。
元被告酒井博に、私がその論議の有無について直接質問した。彼の返事は次である。大須事件3年後の1955年、六全協が「極左冒険主義の誤り」を認めた。それが公表されたことから、2人は共産党側の公判方針を、火炎ビン武装デモの計画・準備についても、すべて真実をのべて争うべきと、被告・弁護団内で主張した。しかし、ほとんどが沈黙し、まともな討論にならなかった、弁護団や共産党側の誰もその方針転換に賛成しなかった。
ただ、当時の2人とも、宮本顕治・野坂参三がソ中両党による国際的秘密指令を騒擾事件裁判でも守れという厳命を出し、3つの騒擾事件裁判を抱える東京都・大阪府・愛知県の都道府県常任委員会を全面拘束していたことを知るよしもなかった。
共産党員弁護士たちは、刑事裁判における裁判官の心証形成システムを熟知しているプロフェッショナルである。大須事件担当の弁護士は、ほぼ全員が自由法曹団所属の共産党員だった。彼らは、共産党地区委員会所属でなく、共産党愛知県委員会直属の弁護士細胞に所属していた。彼らは、(1)の真実に関して、真っ赤なウソをつき続けるという公判闘争方針のままで、騒擾罪無罪を勝ち取りうると判断したのだろうか。それとも、共産党員として、宮本顕治・野坂参三の(1)の真実ではウソをつき、(2)の真実を追求することのみで公判闘争をたたかえという指令にたいし、それが刑事裁判における根本的な誤りと気付きながらも、それでは無罪を勝ち取り得ないと想定しつつも、弁護士としての法律家的良心を放棄し、共産党員としてDemocratic Centralism(民主主義的中央集権制)への絶対服従をしたのだろうか。「党の上に個人の法律家的良心を置いてはならない」。
共産党員弁護士の一側面にたいして、私(宮地)がこのような辛口の評価をするのは、根拠がある。私自身の「共産党との民事裁判」という1977年の個人的体験において、共産党側弁護士3人の法律家的良心の二面性に直面したからである。私の共産党専従解任は、第一、共産党・弁護士、および、名古屋大学法学部長谷川正安教授が共産党側「意見書」で主張したように、共産党内における任務変更という政党内部問題の側面を持つ。しかし、第二、当時40歳で10万円弱手取り生活費を支給され、その内訳として、基本給・年齢給・党専従歴給の支払があり、所得税・厚生年金保険料・健康保険料が源泉徴収されていた。これは、私の友人たちと比較すると、年収で4分の1だった。ともかく、これで共働き家族4人の生計を立てている以上、これは市民的権利の側面である。政党とは、憲法上で私的結社の一つにすぎない。専従解任は、その解任に《正当事由》が存在しないときには、私的結社内部における市民的権利侵害の法律上事件の側面を持ち、合法・違法の法的問題となる。
私の民事訴訟にたいし、共産党側弁護士3人と長谷川正安憲法学教授は、市民的権利の存在を全面否定し、門前払い却下を主張した。政党は憲法上特別の地位にあるから、裁判所に司法審査権などない。よって、直ちに門前払い却下をせよという驚くべき反憲法的な主張もした。提訴と同時に、私を除名し、共産党員でなくなったから、「当事者の適性・利益がなくなった」という民事訴訟法上の姑息な仕打ちもした。弁護士3人・県常任委員2人の5人は、本人訴訟で1人だけの私と裁判長にたいして、「共産党一専従が共産党中央委員会を裁判で訴えたという国際共産主義運動史上で前代未聞の裁判だから却下せよ」と大声で何回も喚いた。
『長谷川「意見書」』 『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』
名古屋地裁の民事裁判長は、共産党側と著名な憲法学者の主張を全面的に退け、門前払いをすることなく、具体的な仮処分の審尋に入った。彼らは、宮本顕治命令に服従し、法律家的良心・憲法学者の学問的良心を放棄した。そして、前代未聞の反党・反革命分子宮地健一を叩き潰す目的のために、「党の上に個人の法律家的良心・憲法学者の良心を置いてはならない」とするDemocratic Centralismに従った。これは、弁護士・学者と共産党員としての二面性の矛盾が発生し、党中央から二者択一の選択を強いられたケースだった。その決定的瞬間に直面し、彼らは、弁護士・学者の良心を放棄し、共産党員という党派性を優先させた。3人の弁護士とも、大須事件の弁護団に加わっていた。
永田末男・酒井博が主張したように、上記(1)のウソ主張を取り止め、(1)(2)とも共産党側が真実をのべるという公判方針に大転換していたら、それは裁判官の(1)(2)総体に関する心証形成にどういう変化を与えたのだろうか。それでも、裁判官は、(1)を真実とする事実認定だけで有罪の判決を下したのであろうか。
宮本顕治は、その異論主張・批判にたいして、2人の除名、永田末男の被告団長解任という報復で応えた。
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(関連ファイル)
(謎とき・大須事件と裁判の表裏)
第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備 第1部2・資料編
第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備 第2部2・資料編
第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否 第3部2・資料編
第4部 騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価 第4部2・資料編
第5部 騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥 第5部2・資料編
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る
元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む
(武装闘争路線)
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ
伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
(メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」
丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介
(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」