騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥
宮本顕治のソ中両党命令隷従と敵前逃亡犯罪言動
謎とき・大須事件と裁判の表裏 第5部・完結編
(宮地作成)
〔目次〕
1、1955年六全協の表裏=ソ中両党命令への隷従と大須事件公判との関係
2、1964年の3問題と大須事件公判支援体制の破壊・2人除名
4、1966年以降の大須事件公判への直接干渉と党史からの抹殺
5、〔資料1〕永田末男『第一審最終意見陳述』『上告趣意書』における宮本顕治批判
6、〔資料2〕宮本顕治の五全協・武装闘争共産党への復帰証拠 (別ファイル)
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(謎とき・大須事件と裁判の表裏)
第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備 第1部2・資料編
第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備 第2部2・資料編
第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否 第3部2・資料編
第4部 騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価 第4部2・資料編
第5部 騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥 第5部2・資料編
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る
元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む
(武装闘争路線)
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ
小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』宮本顕治の党史偽造歪曲
伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
(メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」
丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介
(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」
はじめに―ファイル『第5部』の目的と性格
ファイル『第5部』のテーマは、副題のように、宮本顕治のソ中両党命令への隷従事実と敵前逃亡犯罪事実を立証することである。さらに、それによって、彼の六全協以降における言動が騒擾罪成立原因(2)となったことを論証する。主要原因は『第4部』で分析した。その上で、私は、彼の言動をその副次的要因と位置づける。
『第5部』は、別の目的も含む。私は、大須事件被告団長・共産党名古屋市委員長永田末男除名と、大須事件被告・共産党愛日地区委員長酒井博除名を、宮本顕治による政治的殺人事件と規定する。それは、彼が行った数百件以上の政治的殺人犯罪行為の一部をなす。ただ、彼の党内犯罪を立証するには、半非合法時期党史の闇に隠されたデータをあらゆる側面から発掘し、逆説の日本共産党史として、インターネットの光によって、その闇を暴かなければならない。
このファイルは次の性格を帯びる。大げさに聞こえると思うが、私は、このファイルを、大須事件被告2人の政治的殺害をし、騒擾罪成立原因(2)を発生させた政治的殺人犯・宮本顕治を裁く民間刑事裁判のインターネット法廷と想定する。その殺人経過と国際的背景を具体的に立証し、彼の犯行動機・人間性を推定する役割の私は、民間刑事裁判における検察側である。共産党のあらゆる文書、2人の除名理由書は、法廷に提出された宮本弁護団側の準備書面となる。そして、この『第5部』を読む一人一人は、インターネット民間刑事裁判法廷における裁判官、または、陪審員となる。その裁判官・陪審員の方々は、双方の主張に基づいて、「被告人宮本顕治は有罪か無罪か」について、どのような心証形成をするのであろうか。よって、『第5部』は、『第4部』の法廷内闘争を分析したスタイルを引き継いだ民間法廷場面の分析になると言える。
ちなみに、殺人事件の刑事裁判を主題とする映画や推理小説は多い。最近でも裁判映画があるが、昔では、アンドレ・カイヤット監督『裁きは終わりぬ』、ジョージ・スティーヴンス監督『陽のあたる場所』、シドニー・ルメット監督『12人の怒れる男』などの裁判シーンに惹き込まれた。日本でも佐々部監督『半落ち』は2004年度の日本アカデミー賞の主要部門多くを受賞した。いずれも作品の最大の山場はラストシーンに来る。殺人容疑の被告は「guilty or not guilty」という陪審評決、または、裁判長判決である。この『第5部』は、「謎とき・大須事件と裁判の表裏」完結編で、映画でいえばラストシーン部分になる。
政治的殺人犯罪の被告を、なぜ宮本顕治一人に限定したのかという疑問も当然に湧く。不破哲三・上田耕一郎を含め共産党常任幹部会全員も共同正犯と言える。しかし、1955年六全協から、1978年大須事件の騒擾罪有罪という最高裁決定までの23年間、宮本顕治の党内権力占有度、個人崇拝度は極限にまで高まっており、個人独裁体制と規定し得るレベルになっていたからである。その証拠ならいくらでも挙げることができる。彼の指令・許可なしには、常任幹部会員といえども行動ができなかった。
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本顕治の党内権力占有度、個人崇拝度
『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本秘書団を中核とする私的分派
私は、愛知県党における民青・共産党専従15年間において、都道府県版のミニ宮本顕治=准中央委員・愛知県副委員長・中北地区委員長箕浦一三の党内権力占有度、個人独裁体制レベルを実体験した。Democratic Centralism組織原則の効用は、いろいろある。それは、路線・方針を上意下達するシステムとともに、批判・異論党員すべてを党内外排除するシステムを確立する。しかし、それのみではない。それは、党内民主主義を上から破壊していくことを通じ、「宮本顕治型クローン人間」を47都道府県委員会と三百数十地区委員会において上意下達式に拡大再生させる。1967年、私は、「愛知県党版クローン人間」の批判活動を地区党挙げて一カ月間展開した。しかし、仲間の裏切り・密告により、逆に「首謀者」と断定され、21日間の監禁査問を受けた。
2年後の1969年、箕浦准中央委員の極端な赤旗拡大運動の誤りと党破壊結果を総括する愛知県指導改善運動が、党中央の援助もあって始まった。指導改善民主化運動は全県党的に盛り上がった。2年前の批判活動は正当だったと、査問を受けた私たち数十人全員が名誉回復をされた。一方、その過程において、私は、他2人の専従とともに、正規の地区党会議や拡大県委員会総会、県党会議で、箕浦批判・愛知県常任委員会批判だけでなく、赤旗の一面的拡大指導における党中央の誤りついての批判発言を10回以上し、党中央側も誤りを認めるよう追求した。その党中央批判は、「宮本顕治型クローン人間」による中北地区党の細胞破壊・幹部破壊・党財政破綻という惨憺たる結果にたいし、地区常任委員・ブロック責任者だった私自身の自己批判表明とともに、全県党・全地区党の潜在的要求を代弁したものだった。
『日本共産党との裁判』第1部〜第3部、21日間の監禁査問〜愛知県指導改善運動
宮本顕治は、党中央批判・異論専従への報復者=政治的殺人者として有名である。彼は、口実を見つけて、次々と党中央批判発言者3人の専従解任をした。1977年、それに不服で名古屋地裁に専従解任不当の民事裁判を提訴した私にたいして、宮本顕治・不破哲三・上田耕一郎らは、憲法の裁判請求権を行使した正当行為を直接の理由として私を除名した。私は、彼ら3人の行為を反憲法犯罪・政治的殺人犯罪だと規定している。私にたいする犯行と、大須事件被告2人にたいする犯行は、除名理由となる舞台こそ異なるが、宮本顕治が行った党内犯罪という性質で共通点を持つ。
『日本共産党との裁判』第6部〜第8部、除名から民事裁判判決
このような性格を持つファイルなので、インターネット法廷に提出する宮本顕治の殺人犯罪と犯行動機を立証する検察側証拠資料が膨大になった。字数が約60000字で、印刷すると37頁になる。ちなみに、永田末男が裁判所に出した『第一審最終陳述』『控訴趣意書』『上告趣意書』3通は、合計で178頁だった。これほど長大で理論的にも優れた書面を提出した被告人は、被告150人中で永田末男だけである。大須事件弁護団が提出した文書は、準備書面まで含めれば数千頁になる。弁護団『控訴趣意書』だけでも502頁、『上告趣意書』は1583頁にのぼった。
名古屋地裁の『第一審判決文』は458頁、最高裁『却下・騒擾罪有罪決定』は、口頭弁論を開かないままで、39頁だった。名古屋高等検察庁の『大須騒擾等被告事件答弁書』は689頁もある。法務研修所の『部外秘・検察研究特別資料―大須騒擾事件について』は281頁である。ただし、公判提出文書における一頁当りの字数は少ない。
1、1955年六全協の表裏=ソ中両党命令への隷従と大須事件公判との関係
〔小目次〕
3、国際的秘密命令を党内、および、大須騒擾事件公判闘争内に貫徹
1、六全協の計画・準備をどこで誰がしたのか
大須事件『第5部・完結編』ファイルを、なぜ六全協問題から始めるのか。大須事件は1952年7月7日だった。六全協は、1955年7月27日で、まさに大須事件の3年後だった。宮本顕治ら国際派全員は、スターリンの「宮本らは分派」裁定に屈服し、五全協・武装闘争実践共産党主流派に自己批判書を提出し、復帰した。宮本顕治は、スターリン命令に従い、1951年10月初旬、その分派組織=全国統一会議を解散し、武装闘争実行の五全協共産党の一員となった。大須事件は、統一回復共産党が遂行した1952年度の4大武装闘争事件の一つである。その六全協は、大須事件をどう評価し、位置づけたのか、それとも、大須事件を含む3大騒擾事件や白鳥警部射殺事件の具体的総括を何もしなかったのか。むしろ、六全協にたいするソ中両党の秘密命令に隷従した宮本顕治によって、大須事件公判闘争が阻害されたのではないかという疑惑とその真相解明のテーマが浮上する。
六全協の計画・準備実態に関して、宮本顕治自身が『日本共産党の七十年上』(P.242)で公表した。もっとも、その意図は、「徳田・野坂分派活動」を証明することにあった。
不破哲三もそれを追認し、加筆した論文を公表した。『日本共産党にたいする干渉と内通の記録、ソ連共産党秘密文書から・下』(新日本出版社、1993年)の六全協準備に関する個所(P.361〜364)を抜粋する。
「モスクワでの六全協の準備 六全協の決議案の作成は、モスクワでおこなわれました。五三年末、徳田死後の体制や方針の相談のために、紺野与次郎、河田賢治、宮本太郎らが日本から中国に渡り、北京機関の指導部にくわわりました。五四年春、ソ連共産党の指導部からよばれて、野坂、西沢(隆)、紺野、河田、宮本(太)らがモスクワにむかいました。問題は、六全協での方針転換の準備でした。五一年以来、モスクワにとどめられていた袴田も、部分的にこれにくわわりました。
ソ連側の中心は、スースロフとポノマリョフで、のちに六〇年代の対日干渉にしばしば名前がでてくるコヴィジェンコなども、顔をだしています。六全協決議案はソ連側主導でつくられました。この決議案に、『五一年綱領は正しかった』という文句をいれることを頑強に主張したのも、スースロフなどソ連側でした」。中国共産党側は、王稼祥が参加した。
2、ソ中両党秘密命令の3つの内容と国際的背景
〔小目次〕
3、六全協の国際的秘密命令が出るまでの前後関係、背景を再確認
1950年代当時、国際共産主義運動におけるソ中両党の権威と命令は絶対的だった。ソ連共産党は、東欧などのソ連衛星国を隷従下に置いただけではない。ソ中両党は資本主義国における共産党も完全に隷従させていた。その指令内容は、(1)公式の革命路線決定への指令・干渉、(2)非公式の秘密指令、(3)隷従下共産党指導部の人事指名・介入などである。(4)その指令遂行強制力のバックには、資本主義国共産党全体への総額千数百億円に及ぶ資金援助があった。イタリア共産党・フランス共産党や日本共産党にたいする資金援助額の公表データは信憑性が高い。イタリア共産党・フランス共産党は、その資金援助額と受け取りを公式に認めている。しかし、日本共産党だけは、黙殺するか、または、野坂・袴田ら反党分子の個人的受領とごまかしている。
〔第一命令〕、六全協決議文内容
六全協決議文はソ連共産党が主導・作成し、その内容を日本共産党に強要した。その後の日本共産党中央の実態・言動結果から推定される命令内容は次である。スターリンはモスクワ会議一年前の1953年3月5日に死んだ。しかし、(1)、スースロフは、スターリンとソ連共産党を擁護するため、スターリン執筆が証明されている51年綱領は「正しかった」という文言を決議文に入れるよう命令した。さらに、次の命令を下した。(2)、武装闘争問題に関しては、「極左冒険主義」との抽象的なイデオロギー総括だけに留めよ。(3)、宮本顕治ら国際派全員が、1951年4月、「宮本らは分派」としたスターリン裁定に屈服し、主流派に自己批判・復帰したことによって、分裂していた日本共産党は五全協で統一回復をした。しかし、その真実を隠し、六全協で統一回復をしたとせよ。(4)、五全協=武装闘争実践共産党以前の50年分裂問題については、武装闘争実践とソ中両党の関与に触れないという限界内で、分裂経過のみの総括をすることを許す。(5)、もちろん、モスクワにおける六全協準備会議事実を公表することを禁止する。
〔第二命令〕、六全協における総括・公表内容の規制・禁止命令
六全協において、ソ中両党にとって不利となるテーマを討論・公表することを禁止する。それは、武装闘争の実態、武装闘争データ、および、それに関するソ中両党の関与などについての総括・公表の全面禁止命令だった。不破哲三は、『同書』(P.361〜364)で、次の事実を証言した。「また、ソ連共産党指導部は、統一を回復した日本共産党が、五〇年問題の全面的な総括をおこなうことに、つよく反対しました。この問題では、フルシチョフや劉少奇が直接のりだして、ソ連と中国の党の意向を日本共産党の代表団に伝えました。これも、五〇年問題の総括が、スターリンやソ連共産党の干渉にたいする批判をふくむものとなること、また彼らが支持した徳田派の誤りがうきぼりにされ、今後の対日本共産党工作の障害になることなどを、恐れてのことだったにちがいありません。」
ただし、不破哲三は、故意に、武装闘争という言葉を使っていない。彼は、50年問題を、武装闘争実践という意味で使っている。また、六全協で初めて統一回復をしたとするソ中両党命令による宮本顕治の党史偽造・歪曲の詭弁をそのまま使っている。
〔第三命令〕、六全協指導部の人事指名
ソ中両党は、六全協指導部3人を指名し、その肩書きも強制した。(1)ソ連NKVDスパイ野坂参三を「第一書記」という肩書にせよ。(2)宮本顕治を常任幹部会責任者に復帰させよ。(3)党中央軍事委員長志田重男は、武装闘争指令の個人責任がある。しかし、党再建の一定期間において、地方の党会議めぐりや武装闘争軍事委員たちの人脈再配置などで、まだ利用価値がある。よって、彼の個人責任を隠蔽・擁護しつつ使え。『日本共産党の七十年上』は次のように書いている。「ソ連共産党の意向で野坂が第一書記となった。党の指導中枢をあらためて第一書記とよんだのも、まだソ連の影響を脱していないことの名残であった」(P.244)。当時、フルシチョフの肩書は第一書記だった。ソ連共産党は、東欧のソ連衛星国のレーニン型前衛党トップにもほとんど第一書記と命名させた。野坂参三の肩書「第一書記」は、名残どころか、ソ連共産党の命令そのものによる。
不破哲三は、〔第一、第二命令〕を具体的に証言したが、〔第三命令〕の存在を隠蔽した。よって、その証拠はない。ただ、ソ連共産党が東欧諸国前衛党のほとんどにたいして、前衛党トップの人事指名・介入をしていた事実は、東欧革命後に発掘されたデータで完全に暴露・証明された。ソ中両党が当時の隷従下日本共産党の六全協人事にたいして指名・介入したことは、「第一書記」肩書から見ても確実だと、私は推測している。ソ中両党が、「宮本らは分派」と裁定された宮本顕治を、なぜ指導部、しかも常任幹部会責任者に復帰させたのかという疑問・理由は、別ファイルで分析した。
『「武装闘争責任論」の盲点』「史上最大のウソ作戦」戦後処理パートの助監督宮本顕治
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ
3、六全協の国際的秘密命令が出るまでの前後関係、背景を再確認
やや長くなるが、六全協の国際的秘密命令が出るまでの前後関係、背景を再確認する。それを見ておかないと、3つの秘密命令がなぜ出て、宮本顕治らがそれに無条件で隷従したのかを理解することができない。しかも、宮本顕治がこの秘密命令を大須事件公判闘争内にも貫徹させたことと、大須事件にのみ騒擾罪が成立したことには、直接間接の因果関係が存在すると私は判断するからである。
1950年1月、コミンフォルム批判は、野坂参三の占領下でも平和革命ができるという空想的な理論を放棄し、5カ月後の6月25日開始予定・決定の朝鮮戦争のために、日本国内での武装闘争を展開せよとの秘密指令だった。スターリン・毛沢東・金日成らは、その時点に、朝鮮戦争開始をほぼ合意し、決断していた。その事実は、ソ連崩壊後に発掘された膨大なスターリン・データ、朝鮮戦争後の中国共産党側データで証明された。ソ連NKVDスパイだった野坂参三への名指し批判は不思議ともいえる。しかし、その理論は、彼がソ連共産党の了解を得たという情報もある。彼は、中国から帰国する途中で、モスクワに行った事実を党中央にも秘密にしていた。朝鮮戦争数年前の国際情勢だったので、ソ連共産党もとりあえず、野坂理論を認めた。彼のソ連立ち寄りは、ソ連「野坂ファイル」で暴露され、彼の除名理由にも明記された。今日、コミンフォルム批判は、スターリン執筆であることが証明されている。
このコミンフォルム批判の真意と性格を把握しておかないと、以後の日本共産党史を理解することができない。また、それは、『第2部』でも書いたが、大須事件など3大騒擾事件がなぜ発生したのかという歴史的国際的背景の理解にもかかわるテーマである。朝鮮戦争との関係で大須事件をとらえ、朝鮮戦争戦後(=休戦)処理との関わりで、大須騒擾事件公判にたいする宮本顕治の対応をとらえる必要がある。
スターリン・毛沢東・劉少奇らは、日本共産党にたいし、朝鮮侵略戦争に参戦し、日本における後方基地武力かく乱戦争行動に決起するよう命令し、路線転換を強要した。ところが、思いもかけぬことに、コミンフォルム批判の評価をめぐって、日本共産党が主流派(=所感派)と国際派に分裂してしまった。それは、彼らの大誤算だった。スターリン・毛沢東は、慌てて、四全協で50年分裂をした日本共産党にたいし、統一せよとの声明や勧告を出したが効き目がなかった。
分裂の比率データの推定は、主流派・国際派という両関係者多数の証言から見ると、主流派側党員90%・専従70%で、国際派側党員10%・専従30%・中央委員7人である。スターリンは、朝鮮戦争が始まっても分裂争いを止めず、四全協で後方基地武力かく乱戦争行動の方針を決めただけで、何一つ武装闘争の実践をしない日本共産党にしびれを切らした。というのも、1951年朝鮮戦争開始1年後になって、38度線付近で戦線が膠着してしまったからである。それを打開する戦争作戦の一つとして、彼らは、何がなんでも、日本において、後方基地武力かく乱戦争行動を激発させる必要に迫られた。
宮本顕治は、スターリンのコミンフォルム批判を真っ先に無条件で支持し、直ちに武装闘争を開始せよと主張した。国際派という名前は、スターリンの国際的命令に即座に従えと力説する国際盲従派という意味である。スターリンにとって、彼は、日本共産党内におけるもっとも愛すべきスターリン忠誠者だった。しかし、徳田球一と比べると、宮本顕治の党内人気はまるで出なかった。圧倒的多数の党員が、剥き出しのスターリン信奉者で、大衆団体活動や労働運動体験がまったくなく、硬直したスターリン理論のみをひけらかす宮本顕治を嫌った。そして、徳田球一の人柄・演説スタイルを支持した。宮本顕治のスターリン盲従ぶりは、別ファイルで書いた。
『シベリア抑留めぐる日本共産党問題』宮本顕治のシベリア抑留記批判発言問題
ちなみに、名古屋大学法学部稲子恒夫名誉教授による一つの証言とエピソードがある。1952年7月大須事件当時における愛知県の主流派と国際派の存否比率である。これは、私が稲子教授に直接質問した答えである。彼は、下記の愛知県国民救援会にたいする共産党の乗っ取り・分裂工作にたいし、国民救援会役員として反対し、共産党指令に従わなかった。稲子教授の証言は以下である。愛知県に、国際派党員はほとんどいなかった。国際派の細胞も皆無だった。名古屋大学や、そこでの法学部は、共産党細胞が愛知県党内で最大だったが、教職員細胞や学生細胞はすべて主流派であり、大須事件に参加した。法学部学生も多数デモに参加していたが、逮捕されたのは、医学部と経済学部が多く、法学部メンバーは全員が逃げ延びた。現在、名古屋市で活躍している著名な弁護士たちも、事件当時、名大生隊列でスクラムを組んで、デモ行進をしていたが、その全員が検挙を免れた。
スターリンは、1951年4月、自分への忠誠を誓うとしても、10%少数派に落ち込んで、党内人気が出そうもない宮本顕治にたいし、やむなく「宮本らは分派」との裁定を下した。スターリンは、自らが先制攻撃を始めた朝鮮戦争の戦線膠着中という想定外の非常事態に際し、隷従下日本共産党における宮本顕治の利用価値を見限った。国際派側立場を弁明するために、モスクワに派遣されていた袴田里見は、スターリンに一喝され、自己批判書を書き、瞬時に主流派に転向した。国際派中央委員7人全員がスターリン裁定に屈服し、主流派・党中央軍事委員長志田重男に「自己批判書」を提出し、主流派に復帰した。かくして、スターリン命令という外圧により、日本共産党は分裂をやめ、1951年10月16日、五全協で統一回復をした、というのが党史の真実である。
1951年2月23日四全協共産党は、劉少奇の植民地型武装闘争方針を決めたが、分裂継続もあって、その実践は皆無に近い。宮本顕治も自己批判・復帰し、統一回復をした1951年10月16日五全協共産党は、1952年度の武装闘争を全国的に遂行した。ただし、感情的な統一は別で、スターリン裁定に屈服し、復帰した国際派党員たち10%は、統一回復細胞内で主流派党員たち90%から、何度も、スターリンが裁定した分派活動に関して査問をされ、自己批判を強いられた。
しかし、宮本顕治ら国際派全員のスターリンへの屈服によって、統一回復をした五全協・武装闘争共産党は、1952年1月から7月にかけての、白鳥警部射殺事件や火炎ビン武装闘争などによって、国民から見放され、1955年1月には、ほぼ壊滅状態に陥っていた。
ソ中朝3党の思惑・当初の作戦計画から見れば、1953年7月27日休戦協定で戦争開始前と同じ38度線に戻ったとしても、朝鮮侵略戦争の結果は完敗といえるものだった。ソ中両党は、朝鮮戦争という熱い戦争から冷戦に再転換した段階において、アメリカ帝国主義とのたたかいを最重点と位置づけた。アメリカの不沈空母日本の脅威が増大した。日本国内において、アメリカ帝国主義とたたかわせる勢力は、ソ中両党隷従の日本共産党しかなかった。そこで、ソ中両党は、自ら六全協を準備し、3つの国際的命令を出し、日本共産党の再建に直接乗り出した。これが、六全協の真相である。
3、国際的秘密命令を党内、および、大須騒擾事件公判闘争内に貫徹
六全協指導部トップ3人は、国際的秘密命令を忠実に守った。なかでも、宮本顕治は、武装闘争の具体的総括・公表を禁止する命令を守るだけでなく、総括・公表を要求する党内意見を抑圧する言動を展開した。六全協後、各都道府県委員会で党会議が開かれた。彼と志田重男は2人で組んで、全国を廻った。
下記や『第5部・資料編』でも書くが、六全協時点、党中央幹部たち全員が「自己批判書」を提出した。宮本顕治は、13ページに及ぶ長大な「経過の概要」を出した。その自筆ペン書き全文コピーを、元国際派中央委員亀山幸三が「六全協の秘密」文書(『日本共産党史・私の証言』日本出版センター編、1970年、絶版、P.47〜59)に掲載した。
宮本顕治は次のような事実を記した。「二六。六全協を迎える。直後、九州、北海道、中国、関東等に他の同志と出席して、この問題の一部を担当する」(P.59)。問題はそれら会議における彼の言動である。
小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)は、次のように指摘した。宮本顕治は、総括・公表を要求する党中央批判党員たちにたいして、「うしろ向きの態度」とか「自由主義的いきすぎだ」とか「打撃主義的あやまり」「清算主義の傾向」とかの官僚主義的常套語で、水をかけ、武装闘争総括をおしつぶす先頭に立った(P.194)。小山の六全協分析については、下記にも載せる。
増山太助『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社、2000年)は、「見捨てられた独遊隊」として、次の証言をしている。五五年の「六全協」後、「激動期の闘争」をすべて「極左冒険主義」という言葉でくくり、当時の「主流派」の指導を「一切清算」する動きが露骨に表面化した。私はこの傾向に反対し、とくに、事実に基づく「血のメーデー」の解明を求めた。しかし、志田をはじめ「軍事」の関係者はアリバイを主張して口をとざし、「命を賭けた」「独遊隊」の人たちは党から見捨てられて惨憺たる状態におかれた。宇佐美は五二年に逮捕され、裁判にかけられたが、完全黙秘を貫いた。しかし、六三年にかつての仲間に裏切られ「反党行為」という理由で除名された。彼は私宛の手紙のなかで、「僕は逃れようにも逃れようもなく極左冒険主義者の標的にさらされるという逆の現象をもって斬り捨てられた」と述べ、「宮本顕治に屈服して救済された元の極左冒険主義者」を悲痛な思いで糾弾していた(P.226)。
石堂清倫『わが異端の昭和史・下』(平凡社、2001年)も、「第3章、片手間の政治」(P.83〜125)において、この期間の状況を具体的に証言している。
宮本顕治らは、(1)党内会議において、国際的秘密命令を守っただけでなく、(2)大須事件公判を含む3大騒擾事件公判闘争内にもその命令を貫徹した。公判において、共産党の武装闘争方針の具体的データ、その実行を全面否認せよとの指令を出した。3大騒擾事件公判における他2事件公判と大須事件公判との特殊性を無視し、火炎ビン武装デモの計画・準備実態をも、検察側に掴まれ、起訴されている事実を含めて、国際的命令を厳守せよと指令した。その具体的内容は、次に分析する。
2、1964年の3問題と大須事件公判支援体制の破壊・2人除名
〔小目次〕
1、4月17日、4・17スト中止指令の誤りと中国共産党の圧力疑惑
2、5月15日、部分核停条約賛否問題と中国共産党への隷従継続
1、4月17日、4・17スト中止指令の誤りと中国共産党の圧力疑惑
1964年、大須事件第一審公判は、12年目に入っていた。この時点、1964年の4・17公労協スト中止指令をめぐる問題が発生した。党内外で共産党中央批判が噴出した。党中央の4・8声明にたいして、愛知県国民救援会グループ細胞の永田・酒井・片山・(藤本)らは、細胞会議決定として、野坂参三議長宛に「4・8声明は反労働者的であり、撤回せよ」との抗議電報を打った。国民救援会の中心指導者だった藤本功は、戦争中中国におり、敗戦時点に大連で石堂清倫らとともに、日本人帰国で活動した共産党員である。ただ、彼は、50年分裂中に党籍が不明になっていた。片山博は、元名電報細胞長で大須事件被告人である。
一方、名古屋中央郵便局細胞は、党中央に抗議文書を提出した。細胞会議12人の全員一致で、党中央の4・8声明は誤りと断定した。全党的にも、明白な党中央批判意見や抗議電報を提出したのは、判明する範囲で、名古屋中郵細胞と愛知県国民救援会細胞の2つだけである。
Google検索『共産党と4・17スト中止指令』
党中央の指令を受け、法対部副部長木村三郎が、愛知県国民救援会グループ細胞を説得するため名古屋に飛んで来た。彼は、「抗議電報を取り下げれば、処分しない」と、日本酒一升瓶を持ち込んで、国民救援会細胞を説得した。元被告酒井博は、その情景を次のように証言した。それによれば、木村三郎は「これには国際的背景がある」と漏らした。彼らは「となると、スト中止は中国共産党の指令なのかと」詰問した。さらに、藤本功は「中国共産党は池田内閣の対中国姿勢を高く評価している。4・17ストを決行し、そのことで池田内閣が危なくなれば、日中国交回復機運が遠のく。それで、中国共産党は、中国に長期療養滞在中の宮本顕治に圧力をかけ、スト中止指令を出させたのではないのか」と追及した。木村三郎の返事はあいまいで、彼らは抗議電報取り下げを拒否した。
一方、愛知県常任委員会は、名古屋中郵細胞3人を、4・8声明、4・17スト中止問題をめぐり反党活動をしたとして除名した。そして、党中央は、「赤旗」で、安井・北川・岡本ら3人を、「正しい4・8声明に反対した反党分子」というレッテルを貼り、全党的に3人批判の大キャンペーンを行った。
1964年とは、国際共産主義運動の激変・中ソ対立が発生し、そこにおいて日本共産党がどちらの立場を選ぶのかという選択が迫られた時期である。日本共産党の対応は、3段階に分かれる。とくに〔第2期〕に、大須事件公判と直接間接に関係する問題が発生した。この時期における国際関係との関連から、(1)4・17スト中止指令問題、(2)部分核停条約賛否問題を位置づける必要がある。
〔第1期〕、中ソ対立の当初、日本共産党は中立の立場をとった。それまでの期間、宮本顕治は、ソ中両党の秘密命令を騒擾事件公判闘争に貫徹させていた。
〔第2期〕、中ソ対立・論争が激化する中で、日本共産党とソ連共産党との論争が始まり、日ソ両党関係が決裂した。宮本顕治は、中国共産党との関係を強化し、それへの隷従姿勢を続けた。彼は「自主独立」を初めて唱えた。しかし、それは、国際共産主義運動におけるソ連共産党への隷従をやめただけという部分的な自主独立だった。1964年の3問題は、この中国共産党への隷従継続時期に起った。
〔第3期〕、中国共産党が、文化大革命において、日本共産党批判を強め、日本共産党を4つの敵と規定する中で、日本共産党は中国共産党と決裂した。宮本顕治は再度「自主独立路線」を強調し、大宣伝した。自主独立とは、この経過にあるように、戦前戦後の日本共産党史において、それまでのソ中両党への一貫した隷従関係をやめたという意味である。もちろん、それ自体は、日本共産党が自主的に国際国内路線を決定できるという面でいいことである。ただし、宮本顕治は、ソ中両党それぞれに隷従することをやめたとしても、「武装闘争の総括・公表を禁止する」という指令を、彼自身の命令として堅持し、大須事件公判闘争内にも貫徹した。
4・17スト中止指令問題における中国共産党の圧力疑惑の根拠は3つある。
第一根拠、4・8声明への抗議電報から4・17スト中止前までの時期に、党中央法対部副部長木村三郎が「これには国際的背景がある」と漏らした発言の真意推定である。〔第2期〕における国際的背景とは、中国共産党の圧力・干渉しかありえない。
第二根拠、愛知県国民救援会事務局長藤本功の追及発言内容の正否である。彼は、戦前からの日本共産党員であり、中国に長くいた。彼は、『中国問題の周辺』(名古屋有声社、1993年)という中国問題と日中問題をテーマとした8編の冊子を出版している。それを読むと、彼の中国・中国共産党認識はきわめて鋭く、豊富な体験に裏付けられている。そこから考えると、彼が「中国共産党は池田内閣の対中国姿勢を高く評価している。4・17ストを決行し、そのことで池田内閣が危なくなれば、日中国交回復機運が遠のく。それで、中国共産党は、中国に長期療養滞在中の宮本顕治に圧力をかけ、スト中止指令を出させたのではないのか」とした推定は的を射ている、と思われる。
第三根拠、宮本顕治が、その時点、中国で長期療養滞在していた事実である。日本共産党は、『宮本顕治の半世紀譜』(新日本出版社、1988年)を出版した。これは、戦前篇と戦後篇からなり、686頁にわたる長大、かつ、詳細な年月日毎の宮本顕治行動・発言・講演・執筆データ集である。書くことがない日付は、弔電・打ち合せ・原稿執筆などの記録で埋めている。ちなみに、このような異様な個人言動データ集を発行したのは、資本主義国の国際共産主義運動全体を見ても、宮本顕治以外一人もいないであろう。これは、1988年における彼の個人独裁度を証明する貴重な文献といえる。
1964年・56歳のデータとして、中国における長期滞在を載せている(P.180、181)。期間は2月15日から5月18日の3カ月間にわたる。中国共産党中央委員会の招きで、家族・医師とともに、中国の広州、海南島で療養生活をした。広州到着時には、ケ小平中国共産党総書記夫妻が出迎えた。帰国時は、康生中国共産党政治局員候補らが見送った。その3カ月間、宮本顕治は、まさに国賓待遇を受けた。中ソ対立が激化する中で、中国共産党は必死になって、宮本顕治と日本共産党を抱き込み、隷従を続けさせる努力をした。その間、中国共産党が宮本顕治にたいし、4・17スト中止指令問題でなんらかの圧力をかけ、スト中止の説得をしたことが十分推定され得る。ただし、その証拠文書はない。
宮本顕治は、4・17スト中止時点とその大混乱だけでは帰国しなかった。帰国したのは、5月15日志賀義雄衆議院議員が部分核停条約に賛成投票をした行為にたいする事後処理が理由である。なぜ、その前の4・17スト中止指令による大混乱時期に帰国しなかったのか。それは、宮本顕治自身が、中国からその指令を出したか、それとも、中止指令を許可していたことの傍証になる。
宮本帰国後の7月13日、9中総は「4・17問題での誤り」を認め、自己批判を発表した。宮本顕治は、その誤りの個人責任を党中央幹部3人にとらせ、3人の「自己批判書」を公表させた。そして、彼らを降格措置にした。彼は、「中国にいたので、その誤りについて知らず、知らされなかった。よって、自分の個人責任はない」と強弁した。総評や公労協から「宮本顕治が知らないはずがない」との批判・非難が噴出した。しかし、彼は「知らぬ、存ぜぬ」という詭弁を貫いた。
一方、名古屋中郵細胞除名者3人の名誉回復をしなかった。前衛党側によるスト破り犯罪という日本の労働運動史上最大の誤りを認めた以上、なぜ、その誤りを事前に党内意見書において批判・指摘した3人の除名取消をしないのか。指摘した内容が真実だったとしても、また、党中央4・8声明が誤りだったと認めたとしても、一旦、党中央批判を公表した党員を許さないというのが、宮本顕治式の規律違反処理スタイルである。批判内容の真否を問わないで、かつ、党内意見書を無審査のまま握りつぶした行為を棚上げにしつつ、宮本顕治は党外公表の側面のみを切り離す。彼は、真否内容を隠蔽したままで、規律違反、規律違反、規律違反……という大々的キャンペーンを党内外に展開するという典型的なスターリン型扇動・宣伝・組織者に進化した。
その態度は、1989年東欧革命時点に、宮本顕治がチャウシェスク讃美を何度も公表した事実とその責任を問われて、彼が「チャウシェスクの犯罪、ルーマニア秘密政治警察セクリターテの犯罪をまったく知らなかった」と強弁し抜いた責任回避姿勢と同じである。赤旗ルーマニア特派員巌名康得が、宮本顕治のウソに我慢できず、「サンデー毎日」誌上で、宮本顕治にすべて報告してあり、彼の強弁は真っ赤なウソであることを完璧に論証した。宮本顕治は「党内問題を党外にもちだした」として、彼を追放し、報復をした。これも、巌名赤旗記者の告発内容が真実だったのに、彼が党内で出した意見書を握りつぶしておいて、その真実を公表した行為を規律違反として、彼を処分をした。
藤本功60頁 宮本顕治686頁
4・17スト中止の誤りについては、3つのエピソードがある。
(1)、名古屋中郵細胞除名者の一人北川宏は、私に9中総後の出来事を直接証言した。共産党愛知県常任委員会は、細胞長安井栄次にひそかに面会を求めてきた。県常任委員・労対部長中家啓は、3人の除名取消・名誉回復も言わないままで、「党に復帰する意思があれば、安井同志を県労対部長にしてもいい」と持ち掛けた。それは、9中総後も共産党の誤りの暴露・宣伝という反党活動を続けさせると共産党にとってまずいので、県労対部長の地位と引き換えに、共産党批判をやめさせようという裏取引の提案だった。というのも、中央郵便局労組と中郵細胞の権威は高く、北川宏が専従の組合執行委員をしていた全逓東海地本関係だけでなく、愛知県の労働運動に及ぼす影響力が大きかったからである。安井栄次は、共産党との秘密取引を拒絶した。
宮本顕治が3人の除名取消・名誉回復を指令しなかった事実、姑息な裏取引提案をした事実は何を意味するのか。9中総の自己批判とは、党外からのスト破り政党=共産党批判激発を抑えきれないので、対外的な反省姿勢を見せただけで、党内に向けては、党中央の誤りを認めたくないという宮本式二枚舌を証明した決定である。
(2)、私たち夫婦の問題である。2人とも、4・17ストは謀略・挑発だから中止させよという党中央決定に、何の疑いも持たず行動した。妻は、通信産業職場の総細胞長だった。通信産業は革命の拠点職場とされており、局内の全細胞長・LC緊急会議に地区委員長が出席し、スト中止を指令した。謀略説もほとんど討論にならず、局社前で公然党員らが共産党ビラをまく翌朝の体制を決めた。全国の公労協細胞と同じく、総細胞からも、細胞長・LCを含め未結集・離党者が続出し、大衆サークルも崩壊した。その後における現場の状況や、スト破り政党の細胞が職場でどうなったのかは、全国的にもまったく公表されていない。
宮地幸子『政治の季節の ある青春群像』4・17ゼネストと職場
(3)、私は名古屋中北地区常任委員・西区中村区ブロック責任者(=現在は名西地区委員長)として、国鉄名古屋駅の車掌区細胞、機関区細胞、動力車細胞LC全員を緊急招集し、スト中止を指令した。彼らは、名古屋駅のどこにも謀略・挑発の動きなどないと断言した。スト権投票で自分たち共産党員が組合執行部としてどれだけ動いたのか、地区は分かっているのかと反論した。深夜までの会議でも、彼らは誰一人としてスト中止に納得しなかった。私は、やむなく、共産党専従が常用する最後の奥の手を出した。私は「これは党中央の決定だ。それに無条件で従え」と異論を抑え込んだ。
その後、国鉄3細胞は労働者の中で、スト破り政党として見放され、敵視された。国鉄の各細胞は半崩壊状態に陥り、党員の半数近くが離党し、または未結集になった。私は未結集になった細胞LCや地区委員にたいし、何度も再結集の説得に歩いた。しかし、その都度、彼らから「中央とあんたの誤った指導は許せない」と罵倒された。この誤りは夫婦にとって痛恨の共通体験である。同じ名古屋市にいながら、国民救援会細胞や名古屋中郵細胞のような判断がなぜできなかったのか。私も、全損保の労働運動や組合役員を3年間やり、スト権投票オルグで損保各職場を駆け回った経験があったのだが、なぜ党中央指令の誤りを見抜けなかったのか。
国民救援会事務局細胞永田末男・酒井博らによる「4・8声明反対」の野坂参三宛抗議電報行為は、宮本顕治による2人除名の真因の一つとなった。ただ、彼は、この時点で、名古屋中郵細胞3人除名と比べて、国民救援会細胞2人にはなんの規律違反処分もしなかった。
2、5月15日、部分核停条約賛否問題と中国共産党への隷従継続
5月15日、志賀義雄は、衆院で部分核停条約に賛成投票をした。
永田末男・酒井博を除名した表向きの理由は、翌年の1965年4月8日、名古屋市公会堂における「日本のこえ」集会とその後の懇談会に参加したことである。それは、部分核停条約に賛成したことなどを理由として除名されていた志賀、鈴木、神山、中野らによる集会で、愛知県の党員600人が集った。また、酒井博が機関紙「日本のこえ」を配布したことを規律違反とする除名だった。集会と懇談会に参加したこと、機関紙配布行為だけで除名にするのは口実であって、真の除名理由を隠した別件逮捕というべき処分だった。というのも、永田・酒井は、「日本のこえ」に加入していないからである。永田末男は、志賀から組織加入を誘われたが、明確に断っている。この別件逮捕手口は、批判・異論党員を党内外排除する宮本顕治の常套手段である。彼が「日本のこえ」関連で除名した党員は、党中央公表で63人にのぼる。
当時、私は、共産党専従として、部分核停条約反対は正しい路線と信じて疑わなかった。よって、部分核停条約賛成の路線に立つ「日本のこえ」運動は反党活動だと思い込んでいた。ところが、1991年ソ連崩壊後の秘密資料発掘・公表と中国共産党側データ発掘は、部分核停条約の提起・賛否問題について、まったく異なった視点を提供した。それは、中ソ対立の真因は、中国の核開発をめぐって、それを推進しようとする中国共産党と、核開発を阻止しようとしたソ連共産党、アメリカ・イギリスの思惑との激突であるとの見解である。
ソ連崩壊後の新見解は、フルシチョフによるスターリン批判の評価をめぐって、ソ連共産党と毛沢東・劉少奇との意見相違が中ソ対立の真因だとすることを否定する。意見は異なるが、そこには同意点も多かったとする。ソ連共産党は、当初、中国共産党による核開発の技術支援をした。しかし、1959年頃、フルシチョフは、中国への核技術の供与、技術者派遣の中止を決定した。1960年頃になると、ソ連の核技術者全員を引揚げ始めた。
ソ連の態度に怒って、毛沢東は中国独自で核開発に取り組むことを決意した。彼は、(1)5年以内に自力更正で原爆を製造すると同時に、核爆発実験を行う、(2)8年以内に原爆を一定量備蓄する、という新情勢下の任務を提起した。
それにたいし、ソ連共産党は中国の核開発をやめさせようとしたが失敗した。その時点、核開発を強力に推進していたのは、中国とフランスだった。核保有国はアメリカ・イギリス・ソ連だった。3カ国は、核独占と核拡散防止という自己都合のために、部分核停条約によって、中国・フランスの核実験を阻止しようとした。それが、部分核停条約の真の狙いだった。
この新情報分析は、インターネットでもいくつか報告されている。下斗米伸夫『アジア冷戦史』(中公新書、2004年)は、「第4章、ソ連とアジア、偽りの同盟、1954年〜64年」において、核問題をめぐる中ソ同盟危機、中ソ論争―武装対峙状況を詳細に分析した。彼は、発掘されたソ中新資料を駆使し、中国の核開発をめぐるフルシチョフと毛沢東の対立を浮き彫りにした(P.107〜115)。
その一節のみを引用する。「中ソ対立は深刻化し、六三年にはこうしてスースロフとケ小平がモスクワで激突した。この背景には、核技術開発問題があった。六四年にはスースロフ書記も、中国の要求に応じて核技術を提供すれば、米国が西ドイツや日本に核を提供することになる、と拒否の理由を説明している。しかし、中国は二六の省と九〇〇の企業・研究所を動員し、予定の八年ではなく、わずか五年で、一九六四年一〇月一六日の核実験に成功した。ちなみにこの前日、モスクワではフルシチョフが第一書記から解任された。中国側は核実験成功がフルシチョフ解任の祝砲だと喜んだ」(P.115)。
三船恵美『中ソ対立期における中国の核開発』米中関係1961年〜66年
沈志華『中ソ対立史における毛沢東、フルシチョフ』中国の核開発問題
そこから、1964年における日本共産党史の大逆説・疑惑が生れる。「日本のこえ」問題とは、部分核停条約賛否問題そのものだった。そして、宮本顕治が部分核停条約賛成の幹部多数を切り捨て、党全体として部分核停条約反対を多数決で決定させ、後に63人を除名したことは正しかったのかというテーマである。そして、宮本顕治が、大須事件被告団長永田末男と酒井博を「日本のこえ」集会・懇談会参加を名目として除名した行為は、正当性を持つのかという問題である。
その賛否をめぐって、ソ連共産党と中国共産党という対立する2つの国際的立場と、唯一の被爆国民の立場、宮本顕治と志賀・鈴木・神山・中野という日本共産党中央委員会内の対立する意見という4つの立場・意見の相違が発生した。もちろん、全面的核実験停止条約と全面核軍縮・核廃絶条約ができれば、それにこしたことはない。部分核停条約とは、「大気圏内外および水中における核実験禁止に関するモスクワ条約」であり、地下核実験を除外した不充分なレベルにある。それら4つの40年前における歴史的立場を検証する。
〔ソ連共産党の立場〕、部分核停条約をアメリカ・イギリスとともに提案・調印
ソ連共産党の狙いは、中ソ対立が激化していく中で、中国共産党の核開発を阻止することにあった。3カ国は、大気圏内・水中における核実験を何度も行い、あとは、地下核実験さえできれば、核開発を一段と進めうるレベルに到達していた。部分核停条約を各国で批准させることができれば、中国とフランスの核開発を中断させうるという利己的な核独占の思惑を剥き出しにした条約だった。ソ連共産党は、日本共産党内に潜在・残存するソ連共産党隷従派に猛烈な部分核停条約賛成工作を仕掛けた。日本共産党はもともとソ中両党隷従を基本体質としていたので、ソ連共産党との関係決裂後もソ連共産党路線支持派は残っていた。
〔中国共産党の立場〕、部分核停条約に絶対反対、成立阻止作戦を国際的に展開
1959年、60年に、ソ連共産党が中国共産党への核開発支援をやめ、核開発技術者引揚げを実行するに及んで、毛沢東は独自での核開発を決定・指令した。1963年8月5日、3カ国が部分的核実験停止条約をモスクワで調印した。中国革命成立後、毛沢東・劉少奇は、スターリンとの密約を決めていた。それは、国際共産主義運動を地理的に2分割し、ソ連共産党は東欧・資本主義ヨーロッパ共産党を担当し、中国共産党が日本共産党を含むアジア共産党を担当するという秘密協定である。そこで、中国共産党は、とくに日本共産党・宮本顕治に強烈な部分核停条約反対の工作を行った。また、中国共産党全面支持のインドネシア共産党にも同じ工作を行った。この党員は300万人以上を数え、アジアだけでなく、資本主義国でも最大の党勢力を誇っていた。インドネシア共産党は、毛沢東「鉄砲から権力が生れる」との1965年9・30武装蜂起事件で、アイディット議長を含め共産党員50万人が虐殺され、完全に壊滅してしまう2年前だった。
〔被爆国日本国民の立場と評価〕、大気圏内外・水中の核実験禁止は一歩前進と受け止め賛成
地下を含む全面的核実験停止、全面的核廃絶は、当然の基本要求である。しかし、当時の国際的力関係から見れば、部分核停条約は一歩前進と評価できる。最終目標が通らないから、部分的要求・条約に反対せよという共産党はおかしい。また、3カ国の核独占という思惑があるとしても、部分核停条約には賛成してもいいのではないのか。
共産党が「ソ連の核実験はきれいな実験である。アメリカ帝国主義にたいする防衛的な行為であり、支持する」という主張はまったくの誤りであり、日本国民の心情に背く犯罪的言動である。また、後に、1964年10月16日の中国核実験成功にたいしても、同じ支持言動をしたが、共産党は、一体被爆国民の味方といえるのか。
〔日本共産党、宮本顕治の立場〕、中国共産党隷従継続で部分核停条約に反対決議
宮本顕治は、ソ中両党いずれかへの隷従や国際的圧力がなければ、被爆国日本国民の立場から部分核停条約に賛成できたはずだった。しかし、当時、日本共産党は、〔第1期〕ソ中両党への隷従→〔第2期〕ソ連共産党との関係決裂、中国共産党への隷従継続→〔第3期〕ソ中両党への隷従をやめ、自主独立という3段階において、まだ〔第2期〕にあった。
1963年10月15日、7中総は「部分核停条約を支持しない」と多数決で決定した。それに反対は神山・中野で、保留が志賀・鈴木だった(『七十年・年表』P.177)。幹部会員鈴木市蔵は、1964年5月20日幹部会で、および、翌日の5月21日8中総において、「核停条約と4・17スト問題にたいする私の意見」を、7中総に続いて発言した。しかし、5月18日、中国での3カ月間療養から急遽帰国した宮本顕治は、志賀・鈴木の除名を決定した。反対・保留の4人がソ連共産党・ソ連大使館と連絡を取っていたことは事実であろう。資金援助を受けたことも事実と思われる。
しかし、一方、宮本顕治は中国共産党隷従を続け、中国共産党と連絡をとっていた。彼が、中国長期滞在期間中、中国共産党から国賓待遇を受けつつ、中国共産党の接待・連絡・部分核停条約反対の環境に浸っていたことも事実である。それは、4人とソ連共産党との連絡を上回るレベルにあった。中国共産党中央委員会による宮本招待は、「部分核停条約を支持しない」との7中総決定への3カ月間に及ぶ接待・お礼という政治的な資金供応・贈賄の側面を含む。というのも、温暖な療養地という選択肢なら日本にもある。なぜ、日本の鹿児島や伊豆半島ではいけないのかという疑惑も存在するからである。
さらに、宮本一行は、宮本家族、医師・看護婦、党中央幹部・秘書団数人という8人の大所帯である。私は朝鮮戦争参戦問題でもその戦費の支出入総額を推計した。そこから、宮本らの滞在費も推計してみる。国賓待遇なので一行一人当りに掛かる接待費用は、時価に換算すれば最低でも3万円を下らない。8人×3万円×93日間≒2232万円になる。この全額を中国共産党が部分核停条約反対決定のお礼贈賄費として負担した。
日本共産党は、従来、被爆国の政党として、当然ながら「いかなる国の核実験にも反対」との路線をとっていた。しかし、ソ連の核実験が起きるやいなや、反国民的路線に大転換した。その理屈は、アメリカ帝国主義の核実験・核開発と社会主義国家の核実験を峻別し、アメリカの核開発は非難・糾弾するが、社会主義の核実験は防衛的で、きれいな核実験だとする詭弁だった。そして、上田耕一郎は、その先頭に立って、大キャンペーンを展開し始めた。
前衛62年10月号抜粋『ソ同盟核実験を断固支持する上田耕一郎同志』
その大転換以降、(1)ソ連の核実験支持の言動、(2)部分核停条約反対の言動、(3)中国の核実験を支持した言動、(4)原水爆禁止世界大会における「いかなる国の核実験にも反対」スローガンを否定した主張と原水禁運動分裂の基本原因となる共産党の路線、(5)1984年の原水協・平和委員会にたいする大粛清事件など、核問題に関し、日本共産党は、被爆国民の反核感情を逆なでする反国民的誤りを次から次へと犯した。もちろん、そこには社会党・総評が共産党と対抗して、大衆運動・大衆団体における主導権を得ようという党利党略の側面も存在する。しかし、運動分裂の主要原因は、日本共産党・宮本顕治側にあることは、歴史的真実といえよう。
『不破哲三の宮本顕治批判』1984年の平和委員会・原水協にたいする大粛清事件
宮本顕治は、大須事件被告団長ら2人を、部分核停条約賛否問題=「日本のこえ」問題の名目によって除名した。彼は、その行為により、大須事件公判闘争の体制を内部から破壊した張本人となった。「日本のこえ」組織への加入を断った党員を、集会と懇談会に参加したという理由だけでなぜ除名処分をしなければならないのか。しかも、愛知県党内において、宮本顕治が、この問題で処分したのは、この2人だけである。彼は、他の集会参加党員600人、懇談会参加党員50人の誰も除名していない。となると、除名の真因は、大須事件公判闘争方針をめぐる意見の対立しかありえない。
永田末男・酒井博除名に関するエピソードがある。酒井博は、「日本のこえ」集会後の懇談会をめぐる事実を、私に直接話した。それは次である。懇談会には、「日本のこえ」4人も出席し、名古屋市中村区の旅館「魚芳」で開かれた。そこは中村民商大島会長の紹介だった。彼は、旧大門遊郭地域の大顔役の一人だった。私は、名西ブロック責任者として、地方選挙で大島会長・候補者とともに、連日のように、民商役員や区内の有力者を廻った体験があり、その旅館も知っている。
共産党県常任委員会は、名古屋市公会堂600人集会周辺における大量の張り込み隊配置とともに、懇談会の旅館周辺でも張り込んで、査問のために、参加党員の人数と顔をチェックしていた。懇談会側も、それに気付いて、共産党にたいする見張りを立てていた。ただ、私は共産党中北地区常任委員であり、中村区担当中であるにもかかわらず、この集会や懇談会のことをまるで知らなかった。むしろ、それは、県常任委員会レベルの秘密行為で、地区レベルには意図的に隠され、知らされていなかったといえよう。
すると、見張っていた中村区笹島自労細胞の党員が、旅館近くの電柱の陰に隠れつつ、共産党側の張り込み隊を指揮している県常任委員田中邦雄を発見した。彼は、県農民部長とともに、反党分子対策委員会責任者をしていた。彼は、愛知県渥美半島の有名な反党分子である杉浦明平・清田和夫の尾行・張り込みを日常的に指揮し、2人の反党活動実態を常時、党中央に報告していた。笹島自労党員たち数人が、彼を捕え詰問した。彼が言を左右にして言いつくろうので、自労党員たちは「それなら尾行・張り込み犯罪の件で、すぐ近くの中村警察署まで行って話を聞こう」と詰め寄った。すると、田中邦雄は、真っ青になり、がらりと態度を変え、警察に連れて行くのだけはやめてくれと土下座して懇願した。自労党員たちは、彼に一筆書かせてから、立ち去らせた。
集会・懇談会参加という規律違反名目だけで、永田・酒井2人を除名するのなら、この自労党員たちも除名すべきであろう。それをしないで、2人の除名だけにしたのは、除名理由はあくまで別件逮捕名目であり、真の理由は大須事件公判闘争方針における意見の対立だったことを証明している。宮本顕治の得意技は、批判・異論者を排除する真意を隠蔽し、別の規律違反をでっち上げて除名する手口である。
反党分子、または、除名・査問対象者にたいする尾行・張り込み行為は日本共産党の常套手段である。私自身が、日本共産党との民事裁判提訴直後から、1カ月間を超える尾行・張り込みを受けた。
『日本共産党との裁判―宮本・不破の反憲法犯罪』1カ月間にわたる尾行・張り込み
宮地幸子『政治の季節』尾行―公安と共産党トヨタ自動車支部とによる2種類の尾行
県常任委員田中邦雄は、次の国民救援会の乗っ取り・分裂工作でも、反党分子対策責任者として、その策動の先頭にたった。
3、11月21日、愛知県国民救援会の乗っ取り・分裂工作
それらの経過から、宮本顕治・野坂参三は、(1)共産党愛知県常任委員会と(2)大須事件被告・弁護団の共産党グループにたいして、永田末男ら2人の主張を拒絶し、彼らを裁判闘争の救援活動や被告団活動から排斥するよう指令した。以下の内容は、いくつかの文書、永田・酒井除名決議文書、酒井博元被告の証言、他関係者数人の証言に基づいている。正確で詳細な記録は、『あいち救援通信』(第60・61・62合併号、1965年2月15日、60頁)である。それは、国民救援会愛知県本部が発行し、〔資料9編〕と大混乱の11月21日愛知県国民救援会本部第8回総会の前後経過を、共産党側文書を含めて載せている。
宮本顕治は、愛知県国民救援会から、その中心となっている永田事務局次長・酒井常任書記と離党者藤本功事務局長ら3人を排除しようと策謀した。とくに、まず藤本功を事務局長から排斥・解任しようと謀った。その背景には、国民救援会の活動方針をめぐる意見の対立があった。
愛知県国民救援会本部は、大須事件裁判闘争の支援活動をする中心組織で、松川守る会・白鳥守る会運動を含め、全国的にも強力な運動をしていた拠点救援会だった。愛知県の松川守る会は、全県的にも広範な市民を結集し、『あいち松川通信』を40号(1964年11月20日)まで発行していた。1963年9月12日、松川事件無罪が確定した。無罪判決後の国民救援会運動の路線をめぐって、愛知県国民救援会と共産党中央=国民救援会本部共産党グループとの意見が対立した。愛知県松対協会長は名古屋大学信夫清三郎教授だった。それを発展的に解消させ、運動を広げる新たな組織を創ろうとの意見が盛り上がった。そこから、弾圧事件救援活動だけでなく、冤罪・公害・労働者首切り問題にも取り組む「愛知人権連合」結成に進んだ。その会長に新村猛名古屋大学教授がなった。そのテーマに賛同し、愛知県の社会党、愛労評、多数の労働組合も幅広く参加した。
共産党中央と国民救援会本部共産党グループは、国民救援会を、(1)権力による弾圧事件支援の救援を重点とすべきで、(2)愛知県本部が主張する冤罪・公害・労働者首切り問題にも拡大する路線は、ブルジョア・ヒューマニズムだと批判し、対立した。(3)その根底には、松川運動から、どのような教訓を引き出し、救援運動を発展させるべきかという意見の相違があった。愛知県国民救援会の活動家たちは、松川運動体験から、救援活動をさらに広範な市民運動にするには、人権擁護課題を全面的に掲げた組織にすべきだと考えた。それが松川運動の教訓だと総括した。
それにたいして、党中央と国民救援会本部の共産党グループは、国民救援会が取り組むテーマを、あくまで弾圧事件救援という階級闘争課題に限定すべきだと主張した。国民救援会常任書記酒井博の証言によれば、共産党は、「救援運動は、松川運動の広津和郎を乗り越えなければならない」と口頭で力説した。広津和夫らの執筆活動・言動や松対協の活動レベルをブルジョア・ヒューマニズムと決め付け、無原則的な幅広統一運動と否定した。それは、宮本顕治が、彼特有のセクト主義思考を剥き出しにした反動的な路線転換だった。
国民救援会は、たしかに共産党員が中心になっていた。戦前の救援組織は「赤色救援会」で、検挙された共産党員・家族を支援する階級闘争組織だった。それは、民青団と同じく、スターリンのベルト理論に基づく共産党指令に忠実な大衆団体だった。宮本顕治の路線は、松川運動から、共産党にとってのマイナス教訓を読み取ったレベルだった。それは、松川運動を無原則的な幅広の統一と否定し、国民救援会を共産党ベルトとしての大衆団体「赤色救援会」(戦前のモップル)に逆転換させようとする方針だった。
それ以前の時期から、すでに宮本顕治は、松対協の活動実態にたいし、批判・不満を抱いていた。彼は、宮本百合子の『松川事件めぐる談話』問題で松対協などへの批判論文を発表していた。松対協対策問題と国民救援会問題にたいする彼の対応動機や背景は3つある。
〔第一動機と背景〕、松対協や松川守る会の活動家たちは、宮本百合子発言が松川事件公判に大きなマイナス影響を与えたとする批判を高めていたからである。宮本論文は、それにたいする百合子全面擁護論だった。それは、同時に、党中央・宮本顕治による松対協批判とその活動家批判を内包していた。百合子を批判するような大衆団体・運動を許さないとする対応である。その詳細は下記の志保田行による別ファイルに載せた。
〔第二動機と背景〕、その根源には、他の動機もあった。彼は、松川運動で幅広くなった救援運動において共産党の主導権が奪われて行く状況にたいし、危機意識を抱いた。その思考は、松川運動後の組織や国民救援会を、共産党中央委員会の指令が貫徹される大衆団体に変質させようとしたスターリン型理論に基づいている。それは、1963年の松川事件無罪確定後になって、松川運動の教訓をどう汲み取り、継承するのかという時期に、宮本顕治と愛知県国民救援会との意見対立となって表面化した。
〔第三動機と背景〕、愛知県問題だけでなく、松対協活動家と党中央・宮本顕治との意見対立も、松川運動中における共産党関係や、松川事件無罪判決後の運動方針をめぐって強まっていた。松川運動に加わった人ならほとんどが、松川守る会・松対協の中心活動家である共産党員・小沢三千雄を知っている。彼は、無罪判決後、『万骨のつめあと―秋田から松川事件まで』と『勝利のための統一の心―松川運動から学ぶ』という2冊を自費出版した。彼は、その著書において、松川運動に現れた共産党の統一戦線理論の裏側にあるセクト主義行動の現実を批判した。私はこの2冊を借り受けて読んだが、共産党批判はごく一部であり、松川運動の体験と教訓を真摯に記述している。宮本顕治は、批判公表党員小沢三千雄を即座に除名した。別ファイルで、志保田行がその一端を記している。
志保田行『不実の文学−宮本顕治氏の文学について』大須事件関連を含む
『プロレタリア・ヒューマニズムとは何か』松川運動と宮本顕治の所説
それらの現象にたいして、松川運動を先進的に取り組み、かつ、大須事件公判の中心支援組織だった愛知県国民救援会本部は、大須事件公判の支援運動を広げるためにも、松川守る会を一段と幅広い人権擁護テーマを取り上げる組織に発展させる必要があるとの認識で一致した。大須事件第一審公判は12年目に入っていた。
国民救援会をめぐる問題は、複雑で、テーマも錯綜し、分かりにくい面が多い。そこで、(1)宮本顕治・日本国民救援会本部・その共産党グループと、(2)愛知県国民救援会本部との対立点を簡潔に確認しておく。それは3つある。ただし、当時、国民救援会という組織は、日本本部と愛知県本部と名乗るように、運動の性質から、民青などと違って、中央集権的システムでなく、日本本部と各都道府県組織は自立的で、対等平等な関係になっていた。日本本部とその共産党グループは完全に宮本顕治指令のDemocratic Centralism下部組織になっていたので、以下は宮本顕治の方針として書く。
対立点1、無罪確定後、松川守る会・松対協という組織をどうするのか
(1)、宮本顕治は、松川運動にたいするそれまでの不満もあって、共産党批判者や百合子批判者を内包するような松川守る会・松対協という組織を危険視した。そして、無罪確定後にそれらの組織自体を全国的に解散させようとした。今後は、国民救援会だけでよいという方針を出していた。それにもかかわらず、愛知県本部が「愛知人権連合」に発展させた行為を、共産党・宮本顕治方針への叛逆ときめつけ、「人権課題に取り組むのはブルジョア・ヒューマニズムだ」とした。そして、共産党中央・愛知県常任委員会と日本本部挙げて、猛烈な「愛知人権連合」批判キャンペーンを開始した。
(2)、それにたいし、愛知県本部は、松川守る会・松対協の拠点組織としての運動体験をしてきただけに、その組織を、冤罪・公害・労働者首切り問題にも取り組む「愛知人権連合」に発展させるべきだと考えた。その路線で、共産党を除く、全役員・会員・団体が一致した。そして、会長に新村猛名古屋大学教授を選び、発足した。
対立点2、国民救援会が取り組む今後の課題をどう決定するのか
(1)、宮本顕治は、松川守る会・松対協運動が幅広い国民運動になり、国民救援会も同じ傾向に陥るにつれ、救援運動分野において、共産党の指導権が薄れることに危機意識を抱いた。そこから、松川運動の後半から、その傾向を無原則的な幅広のみの統一行動とする批判を、運動内部の共産党員を通じて開始させた。同時に、国民救援会を、戦前の「赤色救援会」(モップル)のように、権力による弾圧事件救援を重点とした共産党主導の階級闘争組織に引き戻すことを指令した。
彼は、共産党こそが科学的社会主義の真理を認識・体現しうる唯一者であると自己規定する前衛党理念の持ち主である。それは、他政党・他団体は、真理を認識・体現できないと断定する、うぬぼれた差別思想である。彼の思想・行動を歴史的に見ると、彼は、その観念から、あらゆる大衆団体・運動において、その共産党=宮本顕治の指導権を樹立できるのかどうかを方針決定の基準としている。それができないケースでは、1)、その大衆団体乗っ取りクーデターをするか、または、2)、第2組合式の分裂組織を共産党自らが創設する。その具体的現れの証拠は無数にある。
(2)、それにたいし、愛知県本部、および、国民救援会の共産党事務局細胞は、国民救援会と松川守る会・松対協が連携してきたように、国民救援会と「愛知人権連合」とが提携して、弾圧事件救援への取り組みはいうまでもなく、もっと幅広く、冤罪・公害・労働者首切りなどの人権問題にも取り組むべきだとの方針で一致した。共産党は、それをブルジョア・ヒューマニズム路線だと断定し、強烈な批判活動を強めた。新村会長は、『世界』論文で、共産党の批判にたいし、厳しい反論を発表した。
対立点3、愛知県国民救援会本部事務局員らは、宮本忠誠派か、党中央批判派か
(1)、宮本顕治は、日本国民救援会本部だけでなく、各都道府県国民救援会を、民青と同じレベルの事実上の共産党下部組織にすべきと考えた。しかも、松川運動にたいする不満・批判から、松川事件無罪確定後、自立的で上下関係のない当時の組織システムを、民青と同じDemocratic Centralism型の中央集権的大衆団体に変質させる方針を決定し、全党に指令を出した。
ところが、事務局長藤本功は、50年分裂時期に党籍が不明となり、復党していなかった。共産党は、コミンフォルム批判時の党員236000人が、六全協時点に35000人に激減し、ほぼ壊滅した。20万人・85%が党を離れた原因は、離党・除名・党籍不明などである。藤本功は、その20万人の一人にすぎない。共産党は、彼を「脱走者」とした。事務局次長永田末男や常任書記酒井博らは、党中央が出した4・17スト中止指令と部分核停条約反対決定にたいし、党内で批判意見を提出していた。事務局細胞は、被告団専従片山博も含め3人がいた。それだけでなく、最大の問題は、大須事件公判方針をめぐる意見の対立だった。宮本顕治・愛知県常任委員会は、そこでの藤本功の影響力が大きいと判定し、まず、彼を事務局長から解任・排斥する方針を決定した。
(2)、永田・酒井・片山ら共産党員3人は、宮本顕治・県常任委員会の方針に納得しなかった。意見の対立は、さまざまなテーマに広がった。ここでは主要な5つの対立点を確認する。1)、大須事件公判方針。2)、4・17スト中止指令。3)、部分核停条約反対決定。4)、「愛知人権連合」の可否。6)、松川運動後における国民救援会の課題などである。宮本顕治は、それらの対立が解決できないと見るや、愛知県国民救援会本部への全面的クーデター方針を決定し、県常任委員会にたいし、藤本を含む4人の全員排除を指令した。
この時点、永田・酒井は、まだ共産党除名になっていなかった。藤本事務局長は、日本敗戦時、大連にいて、石堂清倫とともに、日本人帰国運動を支援した戦前からの日本共産党員だった。共産党愛知県常任委員会は、党中央指令を受けて、近くの旅館を借り、そこを秘密指令本部とし、箕浦一三県副委員長・准中央委員が陣取り、国民救援会会費の長期滞納者も総動員した。酒井博の証言によれば、党中央から袴田里見も駆け付けて、同じ旅館に陣取って、党中央指令を出していた。
県常任委員・反党分子対策委員会責任者の田中邦雄は、総会に出席できない会員の委任状まで集め、箕浦准中央委員と連絡を取りつつ、総会で藤本の排除を迫った。排斥名目は、誤ったブルジョア・ヒューマニズム路線だから事務局長をやめさせよという理屈である。その本音は、愛知県国民救援会から共産党批判・異論を持つ事務局メンバーを排斥することだった。ただ、愛労評も、異様な事態を心配して、動員をかけていた。
しかし、愛知県国民救援会会長の真下信一名古屋大学文学部教授や、総会議長をした稲子恒夫名古屋大学法学部教授からも、共産党側による排除策謀を批判・反対されて失敗した。
稲子恒夫名誉教授は、私に直接、当日の総会状況を話した。それは次である。真下会長は、共産党の横暴・無法な役員排斥言動にたいし、強烈な怒りを表し、共産党の発言者に掴みかからんばかりに詰め寄った。真下教授は、それ以前の理事会でも同じ排斥主張と理不尽な行動をした共産党にたいし、「共産党の態度は許せない。役員排斥言動に反対する私の気持ちは変わらない」とする公開質問状まで提出し、抗議した。その雰囲気において、共産党のあまりにも無法な藤本排除要求と大衆団体乗っ取り策謀に参加会員たちが怒って、逆に共産党田中邦雄ら数人が総会で除名されてしまった。
すると、宮本・野坂・袴田は、共産党県常任委員会に指令し、次の手口として、共産党員・支持者を集団脱退させ、第2国民救援会という分裂組織をでっち上げた。真下教授は、共産党の国民救援会分裂工作への反対を表明した。稲子教授は、共産党の脱退命令に同調せず、国民救援会に残った。共産党は、「真下信一は偏向している」と、党内外で真下批判キャンペーンも展開した。国民救援会本部も、「愛知県国民救援会は、たたかう敵を間違えている」と、党中央の批判キャンペーンに同調する宣伝を行った。これにたいして、新村猛名古屋大学教授は、「愛知人権連合」会長の立場から、岩波書店『世界』において、『人権と平和』論文を載せ、そこで共産党のブルジョア・ヒューマニズム否定論と大衆団体乗っ取り策謀を痛烈に批判した。
愛知県国民救援会への分裂策動問題でのエピソードは多数ある。ここには、酒井博が証言した2つだけを載せる。
第一、弁護士安藤巌は、愛知県第6区衆議院議員になる前、「愛知県人権連合」方針に賛成していた。1963年6月23日、日本国民救援会第18回総会が開かれた。愛知県からは、(1)「愛知県人権連合」方針賛成派と、(2)党中央路線の愛知県批判派が参加した。総会では、党中央代表・日本国民救援会役員・共産党愛知県常任委員松井孝らが、「愛知県人権連合」方針を全面否定する発言を行った。安藤巌は、総会で、藤本・永田らの意見に同調する発言をした。総会後、共産党は彼を査問し、彼に「同調したのは誤りだった」と自己批判をさせた。彼は反対派に“転向”させられた。
第二、愛知県委員長・中央委員神谷光次は、総会代議員選出の愛知県国民救援会理事会に出席した。代議員リストに、元名古屋中央郵便局細胞長・被除名者安井栄次や岡本耕一が載っていた。それにたいして、神谷共産党中央委員は次のように発言した。「安井らは、共産党の4・8声明に反対した。そのような反党活動をしている者を選ぶべきでない」。これは、大衆団体における共産党側の正式発言である。その根底には何があるのか。それは、共産党中央委員会が、国民救援会を、民青と同一視し、共産党の指導を受けるべき下部組織と捉えていることを示す、驚くべき証拠である。もちろん、その理不尽な要求は否決され、中郵細胞・被除名者岡本耕一も代議員となり、総会に参加した。当然、彼の発言は宮本顕治の指令に基づく行為である。
神谷光次は、私が1960年安保闘争時期に入党した時点前から、県委員長だった。私は、彼の県党会議や活動者会議での報告を数十回聞いている。彼が、箕浦一三准中央委員・県副委員長の一面的な党勢拡大追求や党破壊結果にたいし、見て見ぬ振りをしていたことに批判を持っても、彼の温厚な人柄を尊敬していた。しかし、党中央指令に基づいて、上記のような言動をしたことに彼の専従人格の裏側を発見した。ただし、4・8声明で、国鉄名古屋駅3細胞にたいし、「これは党中央の決定だ。それに無条件で従え」と共産党専従の常用手口を行使した私は、彼と同類であり、彼を批判する資格がない。
ただ、このような大衆団体乗っ取り策謀、共産党批判者排斥作戦、または、それに失敗したら第2組合的な分裂組織をでっち上げる手口は、宮本顕治が、1960年代に、学生運動、文学運動で大展開した路線の一環である。スターリン崇拝者宮本顕治は、スターリンのベルト理論を信奉して、あらゆる大衆団体を共産党の路線・方針を大衆に伝導するベルトに変質させるために全力を挙げた偉大な共産主義的人間である。愛知県国民救援会問題も、彼の一貫した、宮本顕治に忠誠を誓う共産党系大衆団体づくり策謀の中で位置づける必要がある。彼の大衆団体戦略は、1972年民青問題から80年代の4連続粛清事件まで続いた。
『新日和見主義「分派」事件』民青幹部を宮本忠誠派に総入れ替えする宮本式クーデター
『不破哲三の宮本顕治批判』共産党の逆旋回と大衆団体支配の宮本式連続クーデター
共産党愛知県委員会総会は、国民救援会事務局細胞の永田末男と酒井博を除名した。酒井博は、事件当時、愛知県春日井市を含む愛知第2選挙区の愛日地区委員長だった。2人の除名理由は、表裏で3つあり複雑に絡まっている。
(1)、表向き理由は、1965年4月8日、名古屋市公会堂における集会とその後の旅館「魚芳」における懇談会に参加したという行為だけである。それは、除名されていた志賀、鈴木、神山、中野らによる集会で、愛知県の党員600人が集った。また、酒井博が「日本のこえ」を配布したことを規律違反とする除名だった。集会と懇談会に参加したこと、機関紙配布行為だけで除名にするのは口実であって、真の除名理由を隠した別件逮捕というべき処分だった。というのも、永田・酒井は、「日本のこえ」組織に加入していないからである。永田末男は、志賀から組織加入を誘われたが、明確に断っている。よって、6月8日の「2人除名決定」文書は、「日本のこえ」加入を書くことができなかった。組織加入をしていない党員を除名するという異様な規律違反処分は、全党的にもこの2人だけであろう。ここにはその文面を載せないが、私は酒井博から、「2人除名決定」文書を借り受けて、全文を確認している。
この別件逮捕手口は、批判・異論党員を党内外排除する宮本顕治の常套手段である。彼が「日本のこえ」関連で除名した党員は、党中央公表で63人にのぼる。いずれもその全員が、永田・酒井2人以外は、組織加入党員に限られる。そして、上記で分析したように、「日本のこえ」問題とは、部分核停条約賛否問題のことである。それは、宮本顕治が、中国共産党隷従の反国民的立場に基づいて、部分核停条約賛成党員を大量除名した一大粛清の党内犯罪事件だった。
(2)、真の理由は、大須事件裁判闘争方針をめぐる意見の対立だった。その内容は、刑事裁判である以上、共産党による火炎ビン武装デモの計画・準備事実を認めた上で、警察・検察の騒擾罪でっち上げ謀略とたたかうべきとする法廷闘争の基本路線をめぐる対立だった。1955年六全協で、共産党宮本・志田は、極左冒険主義の誤りというだけで、大須事件その他具体的な武装闘争事件にたいして、なんの自己批判も総括もしなかった。名古屋に派遣されて、火炎ビン武装デモ決行を党中央軍事委員会として命令した党中央軍事委員岩林虎之助は、事件後瞬時に東京に逃げ帰った。
1958年第7回大会において、岩林虎之助は、何一つ自己批判せず、中央委員の機関推薦リストに載った。永田末男は、岩林虎之助を強烈に批判し、中央委員リストから外させた。第7回大会でも、宮本・野坂らは、武装闘争の誤りは2行の記述だけで隠蔽した。事件後それまでの6年間、メーデー事件と同じく、共産党は、少数の共産党員弁護士まかせで、組織的支援をまるでしなかった。第7回大会は支援決議をしたが、それは形式に終った。宮本・野坂が、火炎ビン武装闘争実行者を「武装闘争で崩壊した共産党を再建する上の邪魔者」と見なし、見殺しにするという敵前逃亡犯罪指導者たちに変質したことが明白になってきた。1965年までの13年間の大須事件被告人=事件首魁としての公判闘争は、すでに約600回を数えていた。第一審公判に600回も出廷し続けるなかで、永田・酒井は、宮本・野坂らの「人間性の欠如」「知的・道徳的退廃」を痛感した。
(3)、隠蔽された他の理由は、国民救援会事務局細胞が、4・8声明のスト中止指令にたいし反対するという抗議電報を野坂参三議長宛に提出した行為である。
宮本顕治は、かくして、愛知県国民救援会事務局から、藤本功事務局長を解任させようとして失敗した。逆に田中邦雄ら共産党県常任委員ら数人が共産党のあまりにも理不尽な手口に怒った会員たちによって国民救援会から除名されてしまった。彼は、次の手法として、共産党員を集団脱退させ、第2国民救援会をでっち上げ、大須事件公判闘争の支援組織を破壊した。さらに、大須事件被告団長ら2人を党内犯罪的な理由によって除名し、公判闘争の被告団内部体制を破壊した。彼の行為が、騒擾罪成立の原因(2)をなしていることは否定できない。大須騒擾事件第一審公判をたたかっている最中に、宮本顕治は、なぜこのように無法な手口で、批判・異論者を解任・除名する必要があったのか。
3、1967年からの党史偽造歪曲犯罪による敵前逃亡犯罪
〔小目次〕
宮本顕治は、1965年6月8日、大須事件被告団長永田末男と酒井博を除名した。1966年4月10日、彼の被告団長を解任させた。大須事件被告人永田末男は、(1)1969年3月14日、第一審最終意見陳述を行った。彼は、そこで、宮本顕治と野坂参三の敵前逃亡犯罪言動を暴露し、告発した。さらに、(2)1970年11月、大須騒擾事件控訴趣意書において、2人の言動を具体的データで詳細に告発した。
永田末男は、『控訴趣意書』において、宮本顕治が行った3回の言動、その年月日データを挙げた。3回の全文は『第5部2・資料編』に載せたので、ここには、最初2つの言動事実のみを載せる。
第一、一九六七(昭和四十二)年七月「朝日ジャーナル」誌記者とのインタビューの中で宮本書記長は次のように語った。「極左冒険主義の路線は、以上の党の分裂状態からみれば、党中央委員会の正式な決定でなかったことも明白です。当時、分裂状態にあった日本の党の方で指導的な援助をもとめたということはあるにしても、ソ連共産党と中国共産党が、当時の党の分裂問題にかんして、四全協決議を一方的に支持して、それに批判的な側を非難したり、あるいは極左冒険主義の路線の設定にあたって、これに積極的に介入したということも、今日では明白です。」(「赤旗」一九六七・七・二八第二面掲載)と。
第二、一九六八年六月二十九日には、参議院選挙を前にしたNHK東京12チャンネルの選挙番組「各党にきく」に出席し、臆面もなく次のように述べたのである。「いわゆる『火炎ビン事件』というのは、これははよくいろいろなときにもち出されるのですが、あのとき、共産党は実際はマッカーサーの弾圧のなかで指導部が分裂していて、統一した中央委員会でああいう方針をきめたわけではないのです。ですから、党の決定にはないわけです。一部が当時そういう、いわば極左冒険主義をやったので、それは正しくなかったといって党はこれを批判しています。したがって党が正規にああいう方針をとったことはなかったのです」(「赤旗」一九六八・七・一付三面掲載)。
宮本言動は3つの犯罪性を持つ。それは、日本共産党全体にたいする犯罪とともに、大須事件公判において、法廷内外体制の欠陥を生み出し、騒擾罪成立原因の一つとなった。
〔小目次〕
〔第1の犯罪性〕、党史の偽造歪曲と、その歴史的証拠
〔第2の犯罪性〕、敵前逃亡犯罪
〔第3の犯罪性〕、大須事件公判の党内討論・全県党的取り組みもタブー化
〔第1の犯罪性〕、党史の偽造歪曲と、その歴史的証拠
宮本顕治が「極左冒険主義をやったのは、分裂していた党の一部である。統一した中央委員会がやったわけでない」とする主張は真実なのか、それとも党史の偽造歪曲なのか。彼が言う「極左冒険主義」とは、武装闘争の具体的実践のことである。その歴史的証拠を検討する。以下の立証は、細かなデータを挙げるので、読むのに苦労すると思われる。しかし、宮本顕治の詭弁・ウソを論証するためにやむをえない。
第一、武装闘争の具体的実践期間を特定する証拠―五全協以前にはないというデータ
六全協トップは、ソ連NKVDスパイ野坂参三第一書記、志田重男党中央軍事委員長、宮本顕治常任幹部会責任者の3人だった。六全協は、ソ中両党がモスクワで準備をした。ソ連共産党フルシチョフ、スースロフと中国共産党毛沢東、劉少奇らは、六全協において「武装闘争の総括を禁止する。具体的データの公表も禁止する」との国際的命令を出した。この命令の存在を、不破哲三が1993年に自白・証言をした。当時ソ中両党への隷従指導部だった3人はその命令に盲従した。そして、1)上っ面の極左冒険主義という抽象的なイデオロギー総括だけにとどめ、2)武装闘争の具体的内容・指令系統・実践データを、隠蔽した。そして、今日に至るまで、完全な沈黙と隠蔽を続けている。よって、共産党側が公表した武装闘争データという証拠は皆無である。
となると、この証拠は、警察庁が公表したデータしかない。問題はその信憑性である。警察庁警備局は『戦後主要左翼事件・回想』(1968年、283頁、絶版)を出版した。警察官らの事件回想内容は、メーデー事件・大須事件だけ見ても誇張や偽証に満ちている。しかし、そこでの詳細な全国の都道府県別・年月日別の武装闘争事件データは、私が調べた限りでは真実に近い。よって、以下の諸(表)は、それを、私の独自判断で、分類・抽出した。大須事件『第2部』に載せた(表)を再度確認する。
(表1) 後方基地武力かく乱・戦争行動の項目別・時期別表
事件項目 (注) |
四全協〜 五全協前 |
五全協〜 休戦協定日 |
休戦協定 〜53年末 |
総件数 |
1、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪) 2、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21) 3、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行) 4、米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃 5、デモ、駅周辺(メーデー、吹田、大須と新宿事件を含む) 6、暴行、傷害 7、学生事件(ポポロ事件、東大事件、早大事件を含む) 8、在日朝鮮人事件、祖防隊・民戦と民団との紛争 9、山村・農村事件 10、その他(上記に該当しないもの、内容不明なもの) |
2 1 1 |
95 2 48 11 20 8 15 19 9 23 |
1 5 2 3 |
96 2 48 11 29 13 11 23 10 27 |
総件数 |
4 |
250 |
11 |
265 |
(表2) 武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表
武器使用項目 (注) |
四全協〜 五全協前 |
五全協〜 休戦協定日 |
休戦協定 〜53年末 |
総件数 |
1、拳銃使用・射殺(白鳥警部1952.1.21) 2、警官拳銃強奪 3、火炎ビン投てき(全体の本数不明、不法所持1件を含む) 4、ラムネ弾、カーバイト弾、催涙ビン、硫酸ビン投てき 5、爆破事件(ダイナマイト詐取1・計画2・未遂5件を含む) 6、放火事件(未遂1件、容疑1件を含む) |
|
1 6 35 6 16 7 |
|
1 6 35 6 16 7 |
総件数 |
0 |
71 |
0 |
71 |
1953年3月5日、スターリンが死去した。日本共産党の武装闘争路線と実践は、スターリン死亡4カ月後の1953年7月27日、朝鮮戦争休戦協定調印時点で、ぴたりとやんだ。このデータは、武装闘争が、ソ中両党に隷従していた日本共産党による朝鮮侵略戦争参戦の後方基地武力かく乱戦争行動だったことを完璧に証明している。宮本顕治も復帰した統一回復の五全協共産党は、党史上初めて侵略戦争参戦政党となった。(表2)データは、(表1)から武器使用指令(Z活動)だけをピックアップしたものである。
これらのデータは、四全協共産党が、劉少奇テーゼの植民地型武装闘争方針を決めただけで、その実行をしていないという事実を証明した。五全協共産党こそが武装闘争を全国的に遂行した真実も証明した。となると、宮本顕治ら国際派全員が自己批判・復帰した五全協共産党中央委員会は、統一を回復した正規の中央委員会でなかったのか。彼の自己批判・復帰の事実に関する3つの証拠がある。
第二、宮本顕治が五全協・武装闘争共産党に自己批判書を提出し、復帰した3つの証拠
〔証拠1〕、宮本顕治が六全協に提出した『経過の概要』自筆文書における明記
国際派中央委員だった亀山幸三は、『日本共産党史―私の証言』(日本出版センター編、1970年、絶版)を、10人の証言者とともに出版した。彼の題名は『六全協の秘密』である。その中の〔資料2〕として、宮本顕治が六全協に提出した『経過の概要』全文(P.47〜59)を載せた。これは、宮本顕治の自筆文書のままを印刷した貴重な証拠である。この経緯は、『第5部2・資料編』に書いた。その中で、宮本顕治は次のようにのべた。
二二、八・一四放送後、別項の声明(資料集3参照)を発し、中央委員の指導体制を解体す。この間、期限つきで自己批判書の提出を――これに応ず。また、経過措置として、臨中側との交渉、地方組織の統合その他に、他の同志とともにあたる。
(宮地注)、五全協直前の動向
(1)、声明とは、統一会議解散の宮本・蔵原2人の連名文書。その内容抜粋は、別ファイルに載せた。
(2)、ただ、自己批判書の提出を――これに応ずという赤太字個所は縦一本線で消している。
(3)、地方組織の統合とは、徳田・野坂ら主流派の都道府県組織に、宮本分派=統一会議地方組織が自己批判・復帰し、日本共産党としての統一回復をしたことである。宮本式用語法で、あたかも対等平等な統合をしたかのような日本語を使っている。ただし、スターリンが「宮本らは分派」との裁定を下していたので、宮本分派を含む国際派10%党員は、全員が「分派活動の自己批判書」を出さなければ、90%を占める主流派に復帰できなかった。偉大なスターリン裁定なので、分派と名指しされた宮本顕治はもちろん、「自己批判書」を出さないで、復帰できた国際派党員は一人もいない。
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服』〔資料4〕「宮本分派の解散宣言」
小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』宮本顕治の党史偽造歪曲
〔証拠2〕、志田派中心幹部吉田四郎の宮本顕治「自己批判書」の存在と内容に関する証言
この証言は、『50年分裂から六全協まで、吉田四郎氏に聞く』インタビュー(『運動史研究8』運動史研究会編、三一書房、1981年)にある。聞き手は4人で、丸山茂樹、勝部元、原全五、伊藤晃、小森春雄だった。彼は、主流派中心幹部だけでなく、北海道・東北各県担当の党中央軍事委員だった。この全文は別ファイルに載せた。
吉田四郎『50年分裂から六全協まで』宮本顕治の「自己批判書」
勝部 ちょっと戻るけど、どうしても判らないのは、一番最初に志賀氏が復帰したでしょう。コミンフォルム文書が五一年八月かに出て、半分ぐらい復帰するでしょう。しかし、最後は宮顕も復帰している筈なんだ。復帰には必ず自己批判書を書いている。その宮顕の自己批判書っていうのが判らないんだ。見た事ある?
吉田 これは、北海道に後藤鉄治というのがおったんですわ。やっぱり京都出身で、北海道へオルグに来とったんです。それがずっと中央のテク関係におったんです。だから、志田重男としょっちゅう接触があったんですね。彼が帰ってきて言ってたのは、「宮顕の自己批判というのは八字や。それだけや」という事を志田重男が言うとったと話していました。「新綱領を承認する」この八字やて。(笑)
〔証拠3〕、国際派中央委員亀山幸三による宮本顕治の「自己批判書」の存在証言
これも別ファイルに載せた。その一部を転載する。
『宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服』〔資料3〕亀山幸三「五全協にいたる経過」
ところで宮本自身はどうであったか。彼自身は、当時の文献をいっさい隠しているので、十分明らかでない。彼が自己批判をして復帰したことは明白な事実だが、その内容はいまもって明らかにされていない。
のちに彼自身が書いた『経過の概要』には、はっきりと「自己批判の提出を……(求められ)……これに応ず」(括弧内は筆者)となっている。また、私がずっとあとに宮本から直接聞いたところでは「三度書き直しを命ぜられた」という。その通りであったと思う。いずれにしても簡単な、前記の「党の団結のために」なる文書ぐらいの線で復帰出来たのではなかったことは明らかである。宮本が三回も書き直して、非常にボーズ・ザンゲに近い自己批判を提出し、それがみとめられた段階でようやく復帰したことは間違いない(なお、このさい、宮本と蔵原、中野重治が同一歩調であったと思う)。そして宮本自己批判は杉本文雄の手を経て志田重男の懐に入ったことは明白である。
第三、宮本顕治が五全協・武装闘争共産党の党中央レベルで活動した証拠
これも、宮本顕治が、自筆の六全協宛提出文書『経過の概要』に明記した。全体は『第5部2・資料編』にある。
二三、五一年秋、地下活動に入ることを求められ、これに応じ、宣伝教育関係の部門に入れられることになったが、仕事を始めるに至らず。一、二週間して不適任者として解除される。
二四、以後、選挙応援その他で、ときおり連絡はあったが、特定の組織的任務につくことなく、宮本百合子全集の刊行にあたる。この間、文芸評論を多数書く。
二五、一九五四年末、中央指導部より衆議院選挙への立候補を求められ、これに応ず。選挙後、中央指導部の一員とされる。五全協指導部より六全協準備への協力を求められ、これに応ず。
(宮地注)、五全協復帰から六全協までの期間における五全協指導部依頼の活動の事実
(1)、地下活動に入ることを求められ、これに応じ、宣伝教育関係の部門に入れられることになった。
(2)、以後、選挙応援その他で、ときおり連絡はあった。
(3)、一九五四年末、中央指導部より衆議院選挙への立候補を求められ、これに応ず。
(4)、選挙後、中央指導部の一員とされる。
右側写真は『経過の概要』冒頭で、宮本顕治の自筆文書である。コミンフォルム論評で始まる。
左側写真の2行目に「この間、期限つきで自己批判書の提出を――これに応ず」がある。そ
の後に、五全協指導部依頼の活動事実が、4項目にわたって書かれている。(P.47〜59)
たしかに、徳田・野坂・志田らは、宮本顕治を五全協の中央委員に選出していない。それは、「宮本らは分派」としたスターリン裁定・人事指令に根拠があったと推測される。しかし、4つの活動項目は、第一に、彼が五全協という武装闘争実行共産党に自己批判・復帰していたことを完全に証明する証拠である。第二として、五全協指導部の依頼を受けて、統一回復五全協の共産党員として、党中央レベルで行動したことを明白に自認している。ただし、4項目は、党中央レベルの活動であるが、武装闘争指導に直接関与したケースはない。よって、上記(表1、2)の武装闘争実行に関して、直接的な個人責任はないと言える。だからといって、彼が「武装闘争は分裂した一方がやったことで、現在の党(=宮本顕治)にその責任がない」とした言動は真っ赤なウソであり、党史の偽造歪曲である。
宮本言動の1967年7月といえば、3大騒擾事件公判開始15年後であり、いずれも公判闘争中だった。大須事件第一審は、1967年7月14日、第755回公判を開き、証拠調を終結したところだった(『大須事件50周年記念文集』P.145)。武装闘争事件で逮捕・起訴され、その刑事裁判が終っていたとしても、有罪となった共産党員たちも多数いた。逮捕を免れた党員でも、武装闘争参加で心身ともに傷ついた。その後、六全協前の総点検運動という全党的な相互批判・査問活動も受け、全体の結果として、党員23万人中、20万人が離党し、または、除名で排斥された。それは、宮本顕治も自己批判・復帰して、統一が回復した正規の五全協中央委員会がしたことだった。
宮本顕治は、スターリン裁定裏側の秘密人事指令=「分派の宮本らは選ぶな」という国際的指令で中央委員に選ばれなかった。隷従下共産党にたいし、スターリンやソ中両党がそのような人事指令・干渉をしたのは、当時の国際的慣行だった。そのことを口実にして、「そもそも私(宮本)は、第6回大会選出の正規の中央委員であり、かつ、政治局員だった。自分が自己批判・復帰したのに、自分を中央委員にさせなかった五全協中央委員会は、正規の中央委員会ではなかった」というのは、宮本顕治が得意とする詭弁である。
宮本顕治は、それら最長26年間に及ぶ騒擾事件裁判中の党員、武装闘争に参加したが六全協共産党に残った党員3万人、離党・被除名の党員20万人にたいし、党史の恐るべき偽造歪曲を行って、「現在の党(=宮本顕治)にその責任がない」と見殺しにし、切り捨てた。武装闘争事件で起訴された党員はどれだけいるのか。3大騒擾事件被告人たちは、国家権力の騒擾罪でっち上げと向き合って、国家=検察庁・警察庁という敵とたたかっている最中だった。その時点における宮本の言動は、まさに敵前逃亡犯罪以外のなにものでもない。彼が、スターリンの「宮本らは分派」裁定に屈服して、五全協・武装闘争共産党に自己批判・復帰していなかったのなら、彼の言動は正当化される。しかし、真実は違っていたという証拠が出揃った。彼の真っ赤なウソ=党史の偽造歪曲犯罪が証明された。
「敵前逃亡」という言葉は、大須事件元被告酒井博が、提起した。彼は、それを、騒擾罪でっち上げ策謀中の検察庁・警察庁という敵とたたかっている騒擾事件公判15年目に発せられた宮本言動の性質を規定するものとして何度も使っている。私も、酒井博が実感した性格規定に同意して、使っている。
「敵前逃亡」が対象とするメンバーは、(1)武装闘争を指令した党中央軍事委員会、(2)大須事件では、火炎ビン武装デモを命令した党中央軍事委員岩林虎之助、(3)六全協トップになったソ連共産党NKVDスパイ野坂参三・第一書記、武装闘争時代の党中央軍事委員長志田重男、スースロフ・毛沢東の人事指令で指導部に復帰できた宮本顕治常任幹部会責任者ら3人と、(4)地方派遣の党中央軍事委員たちである。そのなかでも、宮本顕治が武装闘争事件15年後に行った言動は、そのマイナス影響力から見て、もっとも悪質な犯罪性を帯びる。
「敵前逃亡」の内容は、次である。宮本顕治らも自己批判・復帰し、統一回復をした正規の五全協共産党中央指導部が、武装闘争方針を出し、各地で火炎ビンなど武器使用活動(=Z活動)を指令してきた。彼らは、1955年六全協後、極左冒険主義の誤りというイデオロギー規定をしただけで、自分たちの結果責任・指導責任に頬かむりして、ほぼ全員が六全協役員、1958年第7回大会中央委員に復帰した。問題は、武装闘争の具体的総括公表について、ソ中両党の公表禁止命令に屈服したままで、火炎ビン武装闘争の被指令者・実行者たちに具体的な支援・救援活動をすることを事実上放棄し、見殺しにしたという犯罪行為のことである。それは、国家権力犯罪・刑事裁判への対応姿勢において、共産党中央トップたちが自己保身と知的・道徳的退廃にとりつかれ、下部の武装闘争実行党員たちを切り捨てて、逃亡した犯罪のことである。
(表3) 党員数、国政選挙議席・得票数の増減
年 |
事項 |
党員数 |
届出党員数 |
総選挙 |
参院選 |
|
勅令→団規令 |
議席 |
得票数(万) |
議席 |
|||
1945 1946 1947 1948 1949 |
12.1 第4回大会 2.24 第5回大会 12.21第6回大会 |
(発表) 1181 (発表) 6847 (推定) 70000 (徳田論文) 200000 |
625 16281 |
5 4 35 |
(2名連記) 213 100 298 |
4 |
1950 1951 1952 1953 1954 |
1.6 コミンフォルム批判 2.22 四全協 10.16五全協 12 全国軍事会議 7.27 朝鮮戦争休戦協定 12 全国組織防衛会議 |
(発表) 236000 (?) 83578 (推定) 75000 (推定) 73000 (推定) 62000 |
106693 59033 51113 48574 |
全員落選 1 |
90 66 |
3 全員落選 |
1955 1956 1957 1958 |
7.27 六全協 7.21 第7回大会 |
(推定) 35000 (推定) 36000 (推定) 38500 (発表) 3万数千 |
|
2 1 |
73 101 |
2 |
(表3)のデータは、『回想』巻末の「日本共産党年表」(P.276〜283)にある数字である。それを私が(表)に編集した。(発表)数字は、日本共産党の正式発表である。(推定)数字は、警察庁警備局側のものである。第7回大会発表が「党員数3万数千」なので、それ以前の(推定)数字も近似値といえる。「党員数236000人」は、1950年4月29日、第19回中央委員会総会の発表数字である。
2つの(発表)数字を比較する。236000人−3万数千≒−200000人である。党員残存度は、3万数千÷236000人×100=15%となった。この−20万党員、−85%のほとんどは、その後も、日本共産党に戻らなかった。総選挙は、35議席から、全員落選0を経て、1議席になり、得票数は、1/3に激減した。大衆団体も、数字的データはないが、崩壊・解散、および会員数が激減した。党員数と同じように、共産党系大衆団体数・会員数も85%が崩壊・激減したと推定される。
ただし、この宮本言動の無責任さは、すでに六全協における彼の言動に潜んでいた。宮本顕治・野坂参三は、武装闘争参加・起訴者・離党者・被除名者などの人数を調べようともしなかった。これも、敵前逃亡犯罪行為に該当する。それを告発した有名な詩が六全協後に発表された。
以下は、小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版、P.194)「第4章責任追求と責任回避」からの抜粋である。
(1)、野坂参三は、9月21日「アカハタ」で、誤りを認めた。しかし、彼は「誤りを犯した人にたいしてただちに不信を抱いてはならない」「たんに身をひくことが責任をとる正しい方法ではない」として、責任をとろうとしなかった。
(2)、宮本、春日(庄)らも、自分らのおかしたあやまちについて、なに一つ自己批判を表明しなかった。彼らは、責任の所在をあいまいにし、ごまかしてしまうという第二の重大なあやまちをおかした。宮本顕治は、総括・公表を要求する党中央批判党員たちにたいして、「うしろ向きの態度」とか「自由主義的いきすぎだ」とか「打撃主義的あやまり」「清算主義の傾向」とかの官僚主義的常套語で、水をかけ、武装闘争総括をおしつぶす先頭に立った。
(3)、上層幹部たちのこのような責任回避のありかたにかかわらず、前記のように全党をつうじて、分裂以後の党と党員のありかたにたいするきびしい自己批判とはげしい責任追及のあらしが、まきおこってきた。党はこの九月から一〇月にかけて、中国・北陸・東海・関西・九州・関東・四国・北海道などの各地方活動家会議をひらき、新中央から志田・宮本・紺野・蔵原などが出席した。つづいて一二月にかけて、各地方党会議をひらいて地方指導部をえらんだが、これらのどの会議でも、主流派と地下指導部にたいする非難のこえがわきかえり、収拾つかないありさまだった。
(4)、党の最高指導者たちが、みずから「指導的地位を去ることが責任をとる正しいやりかたではない」などといって全党の責任問題を混乱させているとき、一学生新聞の無名の一記者は、死者のためにつぎのようにうたっていた。
日本共産党よ /死者の数を調査せよ /そして共同墓地に手あつく葬れ /
政治のことは、しばらくオアズケでもよい /死者の数を調査せよ /共同墓地に手あつく葬れ
中央委員よ /地区常任よ /自らクワをもって土を起せ /穴を掘れ /墓標を立てよ
もしそれができないならば /非共産党よ /私たちよ /死者のために /
私たちのために /沈黙していていいのであろうか /彼らがオロカであることを /
私たちのオロカさのしるしとしていいのであろうか
(「風声波声」、『東大学生新聞』、一九五六年一〇月八日・第二七四号)
だが党には、ひとりの中央委員もクワをとって土をおこそうとはせず、ひとりの地区委員も穴をほって墓標をたてようとはしなかった。全党あげての論争と追及、党外からのいくたの批判と要求―これらすべては、しだいに、みのりのないのれん談義におわっていった。党外や下部からの責任追及が、上部機関の責任のとりかたに集中化されるのと比例して、奇妙にも「アカハタ」紙上の自由な発言はおさえられ制限されていきだした。国外権威からの原案指示と上層幹部だけのはなしあいで運営された六全協は、必然に新中央による責任問題のホオかむりとタナあげという事態にうけつがれ、さらに党内民主主義の回復途上における中絶という奇怪な事態へと発展したのである。(P.186〜193)
野坂・宮本体制は、一度も、死者の数を調査せよ!との要求に応えていないので、私が諸データを集計する。白鳥・メーデー・吹田・大須の4事件で、判明分だけである。不明分は空白にした。数字の出典は、被告・弁護団側資料と『回想』である。
(表4) 野坂・宮本六全協、第7回大会が調査を拒絶した死者の数
白鳥事件 |
メーデー事件 |
吹田事件 |
大須事件 |
判明分計 |
|
1、逮捕 |
55 |
1211 |
250 |
890 |
2406 |
2、起訴 |
3 |
253 |
111 |
150 |
517 |
3、有罪 |
3 |
6 |
15 |
116 |
140 |
4、下獄 |
1 |
0 |
|
5 |
6 |
5、死亡+自殺 |
0+3 |
2+0 |
|
2+1 |
4+4 |
6、重軽傷 |
0 |
1500 |
11〜多数 |
35〜多数 |
1546〜 |
7、除名 |
|
|
|
3 |
3 |
8、見殺しによる離党 |
36 |
|
|
|
36 |
9、逃亡・中国共産党庇護 |
10 |
0 |
0 |
0 |
10 |
これらは、武装闘争265件中の4件判明分である。(表1)に載せた265件全体の1)から8)の「死者の数」総計はどれだけになるのか。一方、武装闘争発令の中央委員たちは、誰一人として、武装闘争事件による逮捕・起訴もされていない。もちろん、調査・発表の禁止命令を出したのは、フルシチョフ・スースロフ、毛沢東・劉少奇だった。そして、スパイ野坂とソ中両党指名で指導部に復帰できたばかりの宮本は、ソ中両党が任命した従属下日本共産党トップペアとして、その命令に無条件服従をした。彼らは、1958年の第7回大会においても、「極左冒険主義の誤り」を2行書いただけで、死者の数を調査することを拒絶した。そして、以後も一度も調査をしないで、党史の闇に隠蔽し続けている。
〔第3の犯罪性〕、大須事件公判の党内討論・全県党的取り組みもタブー化
被告人永田末男は、1969年3月14日、『第一審最終意見陳述』において、次のように陳述した。「かくして極左冒険主義とその産みの児ともいうべき騒擾事件等の問題は、日共党内においては、いわばタブー視され、今日に至るまで明確な理論的検討も総括もなされず、まして真の責任所在も明らかにされないままに放置され、もっぱら多くの被告たちの生身によって贖われるにまかされているといってもよい。事件は、公式には、いわば日共とは無関係のものとされた」と、宮本顕治の敵前逃亡犯罪言動内容を挙げて告発した。
共産党愛知県党内におけるタブー化の実態はどうだったのか。タブー化とは、大須事件公判に関して、党内で何もしない、させない、または、公判闘争に向けた全県党的取り組み・大量動員を、県・地区機関として一切しないという意味である。一方、宮本顕治と愛知県常任委員会は、その裏側において3つの方針で臨んだ。以下は、私の愛知県における民青・共産党専従の15年間にわたる実体験からの認識である。ただし、これを証明する証拠文書はない。
第一方針、大須事件公判闘争は、被告・弁護団とその家族、および、その関係者が所属する共産党細胞に丸投げする。それ以外の党組織にたいし、公判支援活動や支援集会に動員を掛けない。というのは、(1)そもそも、大須事件と現在の愛知県党とには関係などなく、現在の県党として、その事件・裁判に責任を負うこともないからである。(2)よって、地区機関や県党内の他細胞には、党勢拡大と選挙闘争勝利を最重点課題とし、赤旗HN拡大月間運動や選挙票よみ活動だけに連日取り組ませる。(3)ましてや、永田末男・酒井博らが法廷内外において、活発な反党活動を展開しているからには、大須事件と直接の関係を持たない党機関・細胞をすべて、彼ら反党分子から絶縁する措置を講じる必要が生じたからである。(4)2人の除名だけでなく、名電報細胞軍事担当LC山田順造も、社会主義革新運動に加わり、61年綱領に反対したので除名した。(5)大須事件被告・弁護団が、3人の反党分子を抱え、彼らがその反党活動を展開している以上、上記の党中央方針が党防衛上のもっとも正しい路線である。
第二方針、武装闘争の総括禁止・具体的データ公表禁止方針は、ソ中両党と決裂してその国際的命令が失効した後も、大須事件公判内において継続・貫徹する。公判において、火炎ビン武装デモの計画・準備事実などを絶対認めてはならない。あくまで、警察・検察の騒擾罪でっち上げ事実を暴露・追求するだけの公判闘争方針でたたかい続ける。統一を回復していた五全協共産党の正規の中央委員会が遂行した武装闘争で85%が崩壊したというのが党史の真実である。その日本共産党を再建するには、「後向きの討論」をやめ、党勢拡大と選挙という2分野における大躍進を勝ち取ることこそ「前向きの前衛党思想」から出たものなのである。その方針にたいし「後向きの」批判・異論を主張する反党分子ら3人を被告・弁護団内で孤立させ、その影響力を粉砕する。
第三方針、大須事件公判における裏側の共産党体制を構築する。「現在の共産党は大須事件などの火炎ビン武装闘争に関係がなく、責任を負う必要もない」という言動はあくまで表向きの国民欺瞞・一般党員騙しの手口にすぎない。裏側体制とは、公判に向けた党中央指令の貫徹ルート、反党分子動向の党中央報告ルートであり、そのシステムを忠実に実行する。それは次である。(1)宮本顕治⇔(2)党中央法対部⇔(3)愛知県委員長・中央委員神谷光次、県常任委員・大須事件公判担当・反党分子対策委員会責任者田中邦雄⇔(4)党中央派遣の主任弁護士伊藤泰方・永田末男解任後の新被告団長芝野一三⇔(5)被告・弁護団内共産党グループという5段階の方針貫徹・上級への報告という双方向ルートである。これこそ、民主集中制というもっとも優れた組織原則を、大須事件公判闘争に創造的に適用したシステムである。
〔宮本顕治による第3の犯罪〕認識に至った根拠を、私の愛知県党体験に基づいてのべる。もっとも、その内容は、大須事件公判に関して、何もしなかった、上級機関から何の組織動員も掛からなかったという体験である。ただし、私は民青・共産党専従として、大須事件支援活動や支援集会動員を掛ける側にいた。本来は、私自身が、大須事件公判を愛知県党の問題として位置づけ、自ら独自にでも取り組むべき立場にいた。それにもかかわらず、それをしなかった責任は私個人にある。大須事件ファイルの5部全体は、私が専従として何もしなかった、これまで何も知らなかった、また、知ろうとしなかった行為にたいする私の自責の念に基づく記録である。したがって、『第5部』における宮本顕治批判・愛知県常任委員会批判内容は、同時に、私自身の自己批判として、および、大須事件被告・弁護団にたいする私の謝罪として書いている。私個人も騒擾罪成立の原因(2)の責任の一端を負っているという立場にいる。
〔根拠1〕、名古屋市民青地区委員長時期の体験
私は、1962年3月から1年半、名古屋市の民青地区委員長・専従だった。大須事件第一審公判は10年目に入っていた。民青地区委員長は、当然のように、民青愛知県委員になり、共産党地区委員にされた。共産党の指導を受ける規約を持つ民青地区委員長の任務は、上級機関2つの方針を具体化し、実行することである。当時は、民青の躍進期であり、地区の全班・同盟員は生き生きと活動していた。様々な大集会にも大量動員を掛けた。しかし、その間、民青・共産党という2つの上級機関とも、大須事件の支援活動を呼び掛けたり、支援集会に組織動員の指令を出したことは一度もなかった。
〔根拠2〕、名古屋中北地区常任委員・ブロック責任者(=現在の地区委員長)時期の体験
1964年から1970年まで6年間、名古屋中北地区常任委員だった。地区は、名古屋市の10行政区を範囲とし、愛知県党の半分以上の党勢力を持ち、52人の専従を抱えていた。5つのブロックは、現在、地区委員会に分割されている。私は、ブロック担当変更で、5つのブロック責任者をすべてやり、地区は大須事件公判を支援する中心機関のはずだった。大須事件に関して、私は何も知らず、知らされず、支援活動や集会動員を掛けたことは一度もなかった。
たしかに、県党会議や地区党会議に、新被告団長芝野一三が来て、支援要請の話を聞いたことは事実である。しかし、愛知県委員会も中北地区委員長・県副委員長・准中央委員箕浦一三は、県党全体や地区党全体にたいし、大須事件支援の方針を強調したり、動員を掛けた事実は一切なかった。大動員をし、動員数点検をしたのは、宮本・不破が来名する度毎の6000人演説会や毎年の10000人「赤旗まつり」だけだった。それなら、私は共産党専従として何をやっていたのか。それは、年中無休の赤旗HN拡大数点検・成績追求活動であり、選挙票よみ数点検活動だった。上級機関から、または、准中央委員の地区委員長からの大須事件支援活動方針が出なければ、それに取り組む余裕がまったくなかった。52人すべての地区専従が、上級機関指令の範囲内のみで動く「受身な平目スタイルの党機関専従」になっていたと言える。
もし、宮本・不破の6000人演説会や毎年の10000人「赤旗まつり」動員を、大須事件支援集会に10数回していたら、マスコミに大きな影響を与え、ひいては、大須事件担当裁判長の心証に法廷外闘争としてなんらかの変化をもたらしたのではなかろうか。これらの事実から、宮本顕治、県常任委員会と箕浦一三地区委員長らは、上記3方針に基づいて、地区機関や他細胞すべてを意図的に大須事件公判に取り組ませないようにしたというのが、私の体験とそれに基づく判断である。
〔根拠3〕、愛知県選対部員・県勤務員時期の体験
1971年から1977年まで、任務変更で、愛知県選対部員・県勤務員をした。総選挙・参院選・統一地方選・中間地方選などに全力を挙げて取り組んだ。県選対部に移った当初、選対部長は田中邦雄で、他に元名古屋市軍事委員長千田貞彦がいた。彼らは2人とも、『第2部』で書いた金山橋事件の元被告で有罪だった。ただ、武装闘争事件の総括・公表タブー化の暗黙指令下で、2人とも金山橋事件について一言もしゃべらなかった。この大須事件ファイルを書くに当って、多くの関係者に取材をし、証言を求めた。事件の概要を知ったのは、千田貞彦からいろいろ聞いて、始めて1952年度の一事件として位置づけることができた。
選対部長田中邦雄は、農民部長でもあり、かつ、反党分子対策責任者も兼ねていた。彼は、愛知県委員会事務所・あかつき会館2階内で、いつも大声を挙げ、「(渥美半島の)明平、清田」「(名古屋中央郵便局の)安井、北川」と名を呼び捨て、反党分子レッテルを貼って、彼らが行っている最近の反党活動内容を罵倒していた。姓名のうち、清田は姓を言うのに、杉浦明平だけは明平という名だけだった。また、私の机の向こう側で、定期的に党中央宛の「最近の反党分子言動報告書」を書いていた。ただし、彼ら4人は、タブー化された武装闘争事件とは無関係だった。
一方、彼は、「永田末男、酒井博」の名前を挙げたことが一度もなかった。大須事件と裁判経過について、彼が事務所内で発言したことを、私は聞いたことがない。除名された2人は、まさにタブー化された武装闘争事件で、宮本顕治に反逆して、大須事件を含む武装闘争の実態総括と公表を要求していた、もっとも悪質な反党分子だったからであろう。大須事件と裁判に関し、私がこのファイルを書くまで、まったくの無知だった責任は、もちろん共産党専従の私自身にある。しかし、宮本顕治のタブー化路線によって、専従といえども、その事実を知らない、知らされないという中間機関専従環境の影響も大きい。
私は、次の事実について確信を持って証言できる。15年間の専従期間中、(1)共産党県・地区委員会が、機関方針として、大須事件支援集会・支援デモや現地調査活動への動員指令を出したことは一度もなかった。(2)動員を掛ける立場にあった私もそれらをしたことが全くなかった。(3)大量動員方針を出し、参加人数まで事前点検したのは、宮本・不破6000人演説会や10000人赤旗まつりだけだった。(4)結局、私自身も、大須事件関係の集会・デモや現地調査に参加たことが一度もなかった。これが愛知県党内における大須事件公判の討論・動員タブー化の真実である。今となって、それを恥じても遅いのだが。
このテーマに関しては、私が言うまでもなく、被告人永田末男が一言で断定している。
彼は、『第一審最終意見陳述』において、宮本・野坂らの言動を、「人間性の欠如」とした。さらに「知的・道徳的退廃である」と規定した。
また、永田末男『控訴趣意書』では、「よせばよいのに、性こりもなく『けれども、火炎ビンなど…云々』と、彼独特の『党分裂無責任論』という官僚顔負けの迷論を繰りかえすのである」、「火炎ビン=ノイローゼにとり憑かれた彼は、ひょっとして自分が一種の精神分裂症ではないかと自問するだけの知性も良心もないらしい。なぜなら、正気の人間には、とても、ああいう無恥で無責任な『責任論』は思い付きうるものではないからだ」(P.75、76)とした。彼は、大須事件公判闘争を体験する中で、宮本顕治という前衛党最高権力者の無恥で無責任な体質を実感した。
ただ、宮本顕治の人間性を考察する上で、彼がなぜ、どのような動機からこの言動を行ったのかを考える必要もある。あらゆる刑事裁判において、犯罪の動機を立証することは必要不可欠である。それと同じく、宮本言動の3つの犯罪性において、いかなる国際・国内的動機、および、それに直面したケースでの個人的犯行動機が潜在したのかを探求する必要がある。それをしなければ、たんなる表面的な言動批判に終ってしまうからである。
彼の無責任で、武装闘争実行者を切り捨てる冷酷で自己保身的な前衛党指導者体質は、すでに12年前の六全協とその直後の言動で証明されてはいる。しかし、1967年前後における国際的国内的政治情勢が、日本共産党最高権力者宮本顕治に、1952年度・15年前に激発した武装闘争共産党問題に関し、あらためて明確な見解の再表明を迫る要因を発生させたことは事実である。
〔第一要因〕、中国共産党の文化大革命と日本共産党にたいする批判・圧力
1966年、文化大革命の中で、中国共産党は日本共産党批判と圧力を強めた。8月23日、廖承志中日友好協会会長が教育事情視察訪中団に「日本人民にとって武装蜂起の戦術が唯一の正しい戦術である」とのべた。1967年7月7日、「人民日報」は、日本共産党批判をしつつ、日本における人民戦争を奨励した。中国共産党はあらゆる場所・新聞で、新左翼が行っている暴力行動を鼓舞・激励した。
〔第二要因〕、中国共産党の日本共産党批判・圧力に隷従するグループの発生
党内に、文化大革命と中国共産党の言動を無条件で支持しする幹部、グループが発生した。それは、宮本・野坂らの一貫した中国共産党隷従体質が続いていた中から必然的に生れたものと言える。彼らは、中国共産党の圧力に隷従し、党内で武装蜂起・人民戦争を唱え始めた。宮本顕治は、1966年9月5日、共産党山口県委員会幹部5人を除名し、9月10日原田長司の除名、10月13日西沢隆二を除名した。
〔第三要因〕、新左翼各派の暴力活動の活発化
1967年10月8日、11月21日と連続で、新左翼による羽田空港暴力事件が発生した。それ以前から、新左翼勢力の各派は、武装闘争を全面支持し、実行に移していた。それらの武装闘争実践は、70年安保闘争まで続いた。もっとも、新左翼が「反帝・反スタ(=反日本共産党)」を掲げたという事実は、歴史的に明らかなように、その発生の根源が日本共産党とその武装闘争路線にある。彼らは、武装闘争共産党が産み出した鬼っ子である。なぜなら、新左翼が大量に生れて、過激な暴力活動をしたことは、六全協共産党がソ中両党命令に隷従し、武装闘争の総括・データ公表をまったくしなかったという反国民的行為にその一因があるからである。彼ら新左翼幹部のほぼ全員が除名・離党の元日本共産党員だった。言い換えれば、六全協共産党が武装闘争総括・公表をしなかったことが、武装闘争五全協分派としての新左翼を産み出した要因の一つをなしている。宮本顕治は、その歴史的根源の六全協の誤りを恣意的に抹殺し、彼らを「トロツキスト」と名付けて歴史から切り離し、全面的に敵対し、排斥した。もちろん、新左翼崩壊の主因は、五全協・武装闘争共産党が崩壊した原因と同じで、彼らの武装闘争路線という活動内容にある。
〔第四要因〕、保守勢力挙げての「共産党は武装闘争政党だ」との大宣伝強化
これら3つの要因を受けて、自民党ら保守勢力は大いに喜んだ。六全協以降も、また、ソ中両党と決裂後も、宮本顕治は武装闘争の総括・データ公表を故意に拒否し、その党内討論もタブー化してきた。保守勢力は、共産党の欠陥を利用し、武装闘争データを具体的に暴露した。ほとんどの共産党員たちは、武装闘争実態に関して、何も知らず、宮本顕治らによって知らされていなかった。武装闘争の具体的事例についての宮本顕治の党内向け路線は、「党中央は常に正しいと依らしむべし、武装闘争実態を知らしむべからず」だった。
〔第五要因〕、宮本顕治の五全協武装闘争共産党における中央活動の関与レベル疑惑浮上
その過程で、宮本顕治の武装闘争関与という個人疑惑がいくつか急浮上した。(1)、彼が、スターリン裁定に屈服し、五全協前に、宮本分派を解散し、志田重男に自己批判書を提出し、五全協武装闘争共産党に復党していた事実が暴露された。(2)、その統一回復五全協において、スターリンの秘密人事指令により、中央委員に選ばれなかったにしても、復党直後の一九五一年秋、党中央宣伝部員になった事実も暴露された。その時期の宣伝活動とは、『球根栽培法』パンフの製作・印刷・秘密配布などという党中央レベルの武装闘争活動そのものだった。
(3)、これまた、ソ中両党による秘密人事指令のお陰か、武装闘争共産党の中央指導部員に復帰した。これは、現在の常任幹部会員レベルである。(4)、五全協共産党公認として、彼は東京第一区立候補者になった。これは、中心選挙区であり、武装闘争共産党への参加・関与レベルを完全証明した。
これら宮本顕治の武装闘争共産党への関与疑惑急浮上にたいし、彼は、その弁明をする必要に追い詰められた。そこで彼が選んだのは、党史と自己の真実を明らかにする道でなく、自己保身目的に基づく党史偽造歪曲犯罪だった。そして、それは、自動的に敵前逃亡犯罪という第二の犯罪性を持ち、大須事件に騒擾罪を成立させる上での副次的原因となった。自己保身の目的なら、二重犯罪になろうとも手段を選ばないというのが、最高権力者宮本顕治の人間性だというのが永田末男・酒井博らの認識となった。
宮本顕治は、(1)武装闘争実態の無総括・(2)データ無公表・(3)党内討論タブー化という誤った路線のつけを、15年後に精算しなければならないという国際国内的要因、および、個人的疑惑という5つの要因に直面した。1967年における彼の選択肢は、宮本言動という一つしかなかったのだろうか。
ちなみに、ソ連反体制派歴史家ロイ・メドヴェージェフは、ロシア革命史検討やレーニン批判を行うに当って、「選択肢的方法」を採用している。それは、1917年から22年の諸問題にたいする対応において、いくつかの実行可能な選択肢が歴史的に存在していたこと、そして、レーニンとボリシェヴィキが選択した路線・政策は正しかったのかという歴史分析方法を採っている。私も、それに学んで、レーニン批判ファイルを書く方法としている。
宮本顕治には、15年前の武装闘争問題に関する対応・言動として、2つの選択肢が存在した。
〔第1選択肢〕、ソ中両党と全面的に決裂したので、もはや彼らの総括・公表禁止命令に従う必要はなくなった。よって、武装闘争実態データを全面公表する。党内におけるタブー化をやめ、全党的に総括運動を開始する。公判が続いている3大騒擾事件は、宮本顕治も自己批判・復帰していた統一回復の五全協中央委員会の正式決定で遂行した武装闘争事件であったと認める。今日の共産党はそれに直接の関係と責任があると宣言する。その公表・総括運動という大転換を通じて、武装闘争共産党のイメージを払拭し、4つの要因とたたかう。
〔第2選択肢〕、上記のような宮本言動で応える。(1)党史の偽造歪曲をし、(2)騒擾罪でっち上げの国家権力犯罪とたたかっている最中の3大騒擾事件裁判の被告人たちを見捨て、切り捨てる。(3)武装闘争問題の党内討論のタブー化を強め、裁判支援の全党動員を禁止する。裁判闘争は被告・弁護団と関係党組織に丸投げする。ただし、(4)党中央は裏ルートで公判における武装闘争実態公表の厳禁指令を貫徹し続ける。
宮本顕治が選んだのは、〔第2選択肢〕だった。その選択基準は何だったのか。党のためだけなのか、それとも、彼個人の自己保身によるものか。前衛党最高権力者の人間性を告発した永田末男の指摘は、当っているのか。
ただし、別の側面も見る必要があろう。宮本言動は、党勢拡大や選挙躍進において大きな効用をもたらしたという事実である。宮本顕治は、自分も直接の関係と責任がある五全協共産党とその武装闘争実態にたいし、15年後の最高権力者として「現在の党だけでなく、私(宮本)も、それになんの関係も責任もない」と断言した。その党史偽造歪曲のウソによって、共産党と彼自身に拭い難くまとわりついていた負の遺産と絶縁し、切り捨てることができた。彼は、半非合法という暗闇時代の党史にまつわるウソによって、過去の武装闘争政党=朝鮮侵略戦争参戦政党時期と断絶できた。おりしも、1960年・70年安保闘争の国民的盛り上がりを受けつつ、また、高度成長時代のひずみが大量生産した政治への不満を吸収しつつ、その宮本式詭弁は、共産党を党勢拡大や選挙勝利課題において大躍進させるきっかけを創った。負の重しを武装闘争の海底墓場に密葬したり、不法投棄処分をしたことによって、彼は、身軽になった共産党を、1960年・70年代政治世界の海面上に急浮上させることができた。
このテーマを長々と検討したのは、この選択が、下記にも、宮本顕治の大須事件公判にたいする直接干渉、および、大須事件の党史からの抹殺として、次々と現実化していくからである。
4、1966年以降の大須事件公判への直接干渉と党史からの抹殺
〔小目次〕
2、1969年3月14日、永田末男の第一審最終意見陳述内容への干渉
3、1973年11月1日、第二審・春日正一幹部会員への被告人質問に干渉
1、1966年4月10日、永田末男の被告団長解任問題
宮本・野坂は、被告・弁護団の共産党グループにたいし、被告団第17回総会で、被除名者・反党分子永田末男の被告団長を解任させ、事件当時の軍事委員長芝野一三に変えるよう命令した。共産党グループ会議は激論になった。永田・酒井は当然納得しなかった。総会で決戦投票をすれば、被告団150人が永田に抱く信頼度から見て、党中央ルート秘密命令は、否決される可能性も高かった。しかし、それをすれば、被告団が分裂する危険もあった。永田末男は、名古屋市委員長として大須火炎ビン武装デモを指令した最高責任者だった。彼にとって、被告団を分裂させるような選択肢を取ることはできなかった。総会は、永田末男が引き下がる形で、事件当時の軍事委員長芝野一三を新団長に選んだ。
2、1969年3月14日、永田末男の第一審最終意見陳述内容への干渉
共産党被除名者永田末男は、大須事件第一審最終意見陳述をした。そこで下記別ファイルの(1)目次一〜七において、警察・検察の権力犯罪を告発し、騒乱罪全員無罪を主張するとともに、(2)目次八で、痛烈な共産党中央委員会批判、野坂・宮本批判を行った。(3)、目次九では、裁判所がどうしても、事件を有罪としたいのであれば、被告人中、唯一の共産党指導部の一員である自分だけを有罪にして、他の被告人全員を無罪にするよう主張した。
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』痛烈な野坂・宮本批判
以下は、元被告酒井博の証言である。陳述前に、伊藤泰方主任弁護人・事実上の弁護団長は、被除名者永田末男に「共産党批判を陳述することはやむをえない。だが、宮本書記長批判だけはやってくれるな」と頼んだ。永田末男はそれを拒否し、法廷において、公然と宮本顕治批判を陳述した。伊藤主任弁護人の言動は、もちろん党中央指令によるものである。別件逮捕理由で除名をしておいて、除名指令者宮本顕治が、自分の批判をさせないように、共産党員の主任弁護人に命令して、被告人の口封じをさせるという心情・人格をどう考えればいいのか。
伊藤弁護人は、永田陳述が終わるや否や、立ち上がって、「只今の永田被告の陳述は、被告団を代表するものでもなければ、弁護団も関知しない」と、陳述八・九内容を全面否定する発言を行った。
私は、伊藤弁護士をよく知っている。彼は、党中央の裁判闘争方針の枠内で、警察・検察の騒乱罪でっち上げ策謀にたいして戦闘的にたたかった。私は、その側面で彼を高く評価している。しかし、永田・酒井の裁判闘争方針の大転換要求に恐れおののき、それを拒絶し、さらには、排斥しようとする党中央の策略に、共産党員伊藤主任弁護人は抵抗しなかった。彼は、岩間正男参議院議員の秘書だった。宮本顕治は、大須事件裁判闘争方針で意見が対立する被除名者永田・酒井を抱える被告・弁護団を、党中央指令の枠内に押し込めるという任務を負わせ、第一審最終段階から、岩間秘書の任務を解いて、伊藤弁護士を名古屋に派遣した。
党中央派遣弁護士で共産党員を続けようとするのなら、宮本顕治の陰謀に加担・服従するしかなかった、ともいえる。私は、共産党愛知県専従13年間の体験から、彼の屈折した心情を理解できる。しかし、やはりその言動は、火炎ビン武装デモ実行者を見殺しにする敵前逃亡犯罪指導者にたいする怒りを共有できないレベルの誤りである。大須事件弁護団のほとんどは、被告団を分裂させないように配慮し、統一公判を保った永田・酒井被告人にたいして、公平・誠実な態度をとっていたからである。
3、1973年11月1日、第二審・春日正一幹部会員への被告人質問公判に干渉
これも、元被告酒井博の証言である。名古屋高裁第二審の終盤、被告人質問の公判が始まった。永田・酒井は、被告・弁護団にたいして、大須事件にたいする共産党中央委員会の立場を具体的に聞くために、大須事件当時の幹部だった党中央役員を、被告人質問の証人として出廷させるよう要求した。宮本・野坂を呼ぶよう要求したが、党中央は拒否した。何度も要求した結果、共産党は、春日正一幹部会員を出すことを認めた。
当日、春日幹部会員の証人質問にあたって、共産党愛知県委員会は、永田・酒井の質問に圧力をかける目的で、いつになく大動員をかけた。永田・酒井は、午後から春日に質問することになった。ところが、その前に、大須事件弁護団の中心弁護士の一人が、彼らを呼んだ。その弁護士は、2人にたいし「春日幹部会員にたいする2人の被告人質問を取り止めてほしい」と、両手をついて懇願した。
酒井博は「それはおかしい。当時の共産党の動向についてぜひ証言してほしい。被告人質問はその唯一の機会だ」と拒否した。弁護士は「あなたたちの共産党批判はわかる。しかし、私の顔を立てて、なんとか止めてほしい」と頼んだ。永田末男は、その弁護士との長期にわたる、誠実な信頼関係もあったので、「今回は止めましょう」と言って、春日に質問することを中止した。春日は、その結論を聞いて、法廷でもリラックスし、裁判長の質問に答えていた。法廷終了後、春日幹部会員は、2人に近寄り、「党の団結と統一のために」と両手を差し出した。永田被告人は「春日さん、僕らと手を握ってはいかん。反党分子ですよ」「とにかく宮本顕治を法廷に出廷させよ」と要求した。春日は、それに答えず「今日はとにかくありがとう」と言った。
大須事件の弁護団は、騒乱罪でっち上げの権力犯罪とたたかう上で、献身的に活動した。その中心メンバーは、全員が共産党員だった。被告団も、火炎ビン武装デモを遂行した中心メンバーの全員が共産党員だった。裁判闘争方針をめぐって、一部被告人と共産党中央委員会との意見対立が発生しなければ、被告人と弁護士との対立も起きなかった。現実に永田・酒井問題が表面化したとき、共産党員弁護士たちは、2人の主張と、宮本顕治指令とのはざ間に置かれ、いずれを支持するのかというジレンマに立たされた。伊藤弁護士は、もともと、宮本顕治の密命を帯びて、第一審最終盤に名古屋に派遣されたので、完全に党中央方針擁護の立場を貫き、矛盾を持たなかったのかもしれない。他の現場名古屋市で活動していた弁護士たちは、両者にたいして、どういう心情を抱いたのか。彼らは、心の奥底で、永田・酒井の主張を支持していなかったのだろうか。しかし、表面だって、2人を支持する共産党員弁護士は最後まで一人も現れなかった。
「敵前逃亡」という用語は、大須事件被告酒井博地区委員長が、パンフや永田略歴書などで繰り返し使っている。これら永田・酒井排斥手口、法廷での干渉をいくつも体験すれば、それを行なった指導者たちの言動を規定する日本語は、敵前逃亡犯罪とならざるをえない。
4、1993年・94年、党史から大須事件記録を抹殺
第一、1993年2月、『愛知・日本共産党物語』からの大須事件記述抹殺
党中央は、各都道府県委員会にたいし、それぞれの『日本共産党物語』を出版せよとの方針を出した。党中央に忠実な愛知県常任委員会は、1993年2月、『愛知・日本共産党物語』(愛知民報社、271頁)を発行した。その内容は戦前の共産党創設から、1966年部分核停条約問題までにわたる。大須事件と2人除名の記述が2箇所だけある。
(1)、「渡航制限をこえてソ連・中国を訪問した帆足、宮腰両代議士の歓迎報告大会は、県民の大きな共感をよび、大須事件当夜の七月七日、一万人が大須球場を埋めたのである」(P.204)。
(2)、「志賀らソ連追随の反党組織『日本のこえ』は、愛知でもその策動をひろげた。六五年四月八日、名古屋市公会堂で志賀、鈴木、神山茂夫、中野重治の四人による『日本共産党大演説会』をかたった集会がひらかれた。その演説会開催の中心になったのは、以前から日本共産党を脱走し長期にわたり反共分裂策動をしていた藤本功、かつて党名古屋市委員長をつとめ、大須事件被告団長であった永田末男や酒井博らであった。彼らは演説会のステッカー、ビラを街頭や労組、民主団体、大衆集会で配布したが、二千人余の席がある会場にわずか百五十余人であった。党は、永田、酒井をだんことして除名した」(P.261)。
大須事件関係個所はこれだけである。大須事件の内容を完璧に抹殺している。そして、2人の除名だけを記述した。集会参加者はマスコミ報道でも600人だった。「百五十余人」とは共産党式ウソである。これは、まさに、271頁もある愛知県党史から大須事件を抹殺させた『物語』となった。これらの記述には、当然、党中央による事前検閲と削除・挿入指導があった。というのも、党中央・都道府県委員会出版物は言うまでもなく、新日本出版社から出す書籍が、党中央の学術文化委員会による100%の事前検閲と削除・挿入指導を通らなければ、出版できないことになっている。その事実は、著者数人の秘密証言とともに、共産党大月書店支部所属党員を含めた公然たる事実認識だからである。
第二、1994年5月、『日本共産党の七十年・党史年表』からの大須事件記述抹殺
『日本共産党の七十年・党史年表』は、驚くことに、大須事件そのものを年表記録から抹殺してしまった。私は、大須事件を調べる中で、年表を見て、その抹殺事実を発見した。これはいかにも奇妙、不可思議である。共産党は、『日本共産党の六十年』『六十五年』『七十年』『八十年』を出版している。『八十年』は年表そのもの全体を削除してしまったので、比較できない。そこで他3つを比べる。もともと、党史本文は、4冊とも、3大騒擾事件について、メーデー事件の記述しかなく、大須事件の記述を一度もしていない。
(表5) 1952年度「日本」欄の月日データ比較
党史 |
『六十年』 1982年 |
『六十五年』 1988年 |
『七十年』 1994年 |
『八十年』 2003年 |
月日データ件数 |
28件 |
32件 |
40件 |
『年表』全面削除のため一切なし |
1・21白鳥事件 |
× |
○ |
○ |
|
5・1メーデー事件 |
○ |
○ |
○ |
|
6・24吹田事件 |
○ |
○ |
○ |
|
7・7大須事件 |
○ |
○ |
× |
|
大須事件前後データ |
6・24吹田事件 7・7大須事件 7・21破壊活動防止法公布 |
6・24吹田事件 7・7大須事件 7・21破壊活動防止法公布 |
6・24吹田事件 7・9全国地域婦人団体連絡協議会結成 7・21破壊活動防止法公布 |
大須事件元被告酒井博は、さすがに私よりも早く、この抹殺事実を発見していたことが分かった。2人で、『年表』から大須事件月日データを抹殺した理由を推測し合った。『年表』作成の権限・責任者は、よく知られているように、2人である。それは、宮本顕治と元宮本参議院議員秘書・常任幹部会員・社会科学研究所長宇野三郎である。2人の専権事項として、『党史』『年表』記述項目の取捨選択権限を私的に独占していた。宇野三郎は、宮本秘書団私的分派の中心メンバーだった。『党史』作成における、2人の分派的独裁・専権レベルは、党本部勤務員・赤旗記者・国会議員秘書のほとんどが知っている。
となると、2人が、『年表』から大須事件月日データそのものを抹殺してしまうという真意は何だったのか。「7・7大須事件」を削除して、その代わりに「7・9全国地域婦人団体連絡協議会結成」を挿入する意図をどう解釈すればいいのか。宮本顕治を信仰する党員は、うっかりミスで印刷漏れになったと宮本弁護をするかもしれない。酒井博と私は「たまたま漏れた」という善意の見解を当然ながら否定した。しかし、『年表』から大須事件月日データを抹殺しなければならないという動機が、どうにも判読できかねる。宮本顕治は、それほど大須事件を毛嫌いしているのだろうか。
宮本顕治が、大須事件月日データを『年表』から削除・抹殺してしまった意図は、いくつか憶測できないこともない。(1)、3大騒擾事件中で大須事件だけが騒擾罪有罪になった。これは、宮本顕治も自己批判・復帰した五全協共産党が遂行した火炎ビン武装デモ計画・準備の決定的な裁判証拠として歴史に残ってしまった。(2)、宮本顕治の騒擾事件公判方針に批判・叛逆したのは、3大騒擾事件公判の被告中で大須事件被告の2人だけだった。永田末男は公判において、2度も宮本顕治批判を公然と行った。その批判内容も公判文書に残ってしまった。(3)、彼ら反党分子は、宮本顕治を大須事件公判に出廷させ、2人による被告人質問をさせるよう要求した。宮本顕治は、彼らの強烈な主張を拒否すれば、法廷内外において何をしでかすかわからないとの恐怖に囚われ、それに屈した。そして、やむなく、自分の代わりに、春日正一幹部会員を出廷させるという屈辱を味わった。
このように、法廷での公然たる名指し批判を受けたり、屈辱を味わさせられたケースで、宮本顕治というスターリン型共産主義的人間がどれほどの報復心を抱くのか。彼が日本共産党最高権力者として遂行した批判・異論専従への大量の報復パターンから、それをシミュレーションすることも可能である。『年表』からの大須事件月日データ抹殺行為も、その一環と位置づけられる。
一方、たかが、『年表』397頁中の1件、1952年度月日データ40件中の1件が削除されたぐらいで目くじらを立てるのは大人気ない、それは大須事件元被告や被除名者のひがみ根性のなせるわざだ、と考える共産党員がいるかもしれない。されど、大須事件は3大騒擾事件の一つという重大事件である。よほどの悪意がなければこのような削除・差替えは起り得ない。このファイルを読む方が正解を出していただければ幸いである。
これで、「謎とき・大須事件と裁判の表裏」5部シリーズは完結する。『第5部』のラストシーンにおいて、これを読んだインターネット法廷の裁判長、あるいは、陪審員の方は、宮本顕治の犯罪容疑事実にたいして、どのような心証を形成したのだろうか。そして、いかなる裁判長判決、または、陪審評決を下すのであろうか。大須事件関連犯罪に関する彼の起訴事実は2件ある。
〔第1容疑〕、大須事件被告団長・名古屋市委員長永田末男除名、大須事件被告・愛日地区委員長酒井博除名という政治的殺人犯罪行為にたいして、被告宮本顕治は「guilty or not guilty」のいずれなのか。
〔第2容疑〕、大須事件公判闘争において、法廷内外支援体制を破壊し、その欠陥を産み出した敵前逃亡犯罪行為・党史偽造歪曲犯罪行為、および、そのマイナス影響によって騒擾罪成立の副次的要因を創り出した行為にたいして、被告宮本顕治は「guilty or not guilty」のいずれか。
もっとも、裁判長や陪審員には、第3の選択肢を選ぶ道もある。それは、これらの起訴事実2件は、インターネット民間刑事裁判といえども、その司法審査になじまない。よって、「有罪か無罪か」という2つの選択肢以前に、門前払い却下の法的決定を下すことである。
その場合、決定内容は次になるであろう。そもそも、宮本顕治元書記長⇒委員長⇒議長は、被告席に立たされるような党内犯罪的言動を何一つしていない。たとえ、多少の誤りがあったとしても、それらはすべて彼が「党と革命のため」、および、「党の統一と団結を瞳のように守り抜くため」に、無私の立場から善意に溢れてしたことである。党内刑事罰を告発されるような指導者でない。むしろ、党勢拡大・選挙躍進・党財政確立などの分野において、日本共産党史上もっとも偉大な功績を挙げた革命家として、彼に絶大なる栄誉と40万党員からの尊敬を与えるべきである。
一方、被除名者永田末男・酒井博や被除名者宮地健一がするような宮本顕治批判・告発内容は、一面的で偏り過ぎている。それは極端な宮本顕治「悪者」論に陥っており、日本共産党史を科学的・客観的に検証したレベルにあるとは言えない。その宮本「悪者」論はあまりにも説得力に欠けているので、門前払い却下をする。
第3の選択肢を知っているのは、私が、共産党による門前払い却下主張を直接体験しているからである。1977年、私は、野坂参三共産党議長を被告とし、「日本共産党との民事裁判」を提訴した。請求の趣旨として、私の専従解任は、私が共産党中央委員会批判と愛知県常任委員会批判を正規の党内会議で10回以上発言・追及した行為にたいする報復であり、それは、憲法上の市民的権利を侵害する法的不法行為であるので、取消を求めるとした。
宮地健一・40歳除名時の専従生活費は次の額だった。支払は市販の「給与明細伝票」によるもので、「収入欄」は、(1)一律基本給、(2)年齢給、(3)党専従歴給である。「源泉徴収欄」は、(4)所得税2820円、(5)県市民税1650円、(6)健康保険料3822円、(7)厚生年金保険料4459円、だった。手取額は、毎月99749円で、(8)党費納入額は、所得税込で出すので、1%で、1025円である。友人たちの年収と比較すると、私の専従年収は約4分の1だった。しかも、それは、年中、不規則な遅配続きだった。夫婦共働きの収入で、4人家族の生計を立てている以上、これは当然の市民的権利となり、専従不当解任は市民的権利の侵害となる。よって、この提訴には、司法審査権が存在する。
ところが、名古屋大学法学部長谷川正安憲法学教授は、共産党側から「長谷川意見書」を提出した。彼は著名な憲法学者、かつ、事実上の公然たる学者党員として、共産党中央委員会・県常任委員会と合わせて、次の主張をした。(1)専従手当は専従が党活動をする費用であり、市民的権利に該当しない。(2)専従解任は政党内の任務変更にすぎず、それへの司法審査権は存在しない。(3)政党は、単なる私的結社の一つではなく、憲法上特別の地位を保証されるべき結社なので、政党の内部問題への司法の介入は一切許されない。(4)、よって、具体的審理に入ることなく、即座に門前払い却下をせよ。共産党県常任委員2人と共産党側弁護士2人は、この主張を裁判長の前で、4人揃って大声を挙げ、弁護士なしで本人訴訟をしている私一人をにらみつけつつ、何度も何度も力説した。
私は、長谷川「意見書」などに全面反対する準備書面を何通も提出した。名古屋地裁民事裁判長は、学者党員長谷川教授の異様な党派的憲法解釈を反憲法理論として完全否定し、退けた。そして、司法審査権の存在を至極当然な憲法・裁判請求権の常識として、門前払い却下をすることなく、具体的な仮処分申請の審尋9回や本訴訟の審理に入った。
『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』
『長谷川「意見書」』全文 『長谷川「意見書」批判』中野徹三、高橋彦博
歴史記述・分析において、「if」と言うことは邪道だとされる。しかし、「もしも」、宮本顕治が1967年度の〔4つの要因〕に直面し、かつ、ソ中両党との決裂によって、その国際的命令が失効した時点で、上記の〔第一選択肢〕を選んでいたら、大須事件支援運動や判決は、どうなっていただろうかと空想する。
私は、名古屋生れ・名古屋育ちの人間として、かつ、名古屋市・愛知県内で、民青・共産党専従活動に大須事件公判中の15年間を取り組んできた者として、大須騒擾事件被告の150人全員を無罪にし得たのではないかと、私の自己批判を込めて考えざるをえない。
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(関連ファイル)
(謎とき・大須事件と裁判の表裏)
第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備 第1部2・資料編
第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備 第2部2・資料編
第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否 第3部2・資料編
第4部 騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価 第4部2・資料編
第5部 騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥 第5部2・資料編
被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判
元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る
元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む
(武装闘争路線)
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ
小山弘健『コミンフォルム判決による大分派闘争の終結』宮本顕治の党史偽造歪曲
伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル
大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y
(メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)
『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動
増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」
増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」
丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』
脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』
中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介
(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」