鏡花、人形、『日本橋』



 泉鏡花は『草迷宮』や『高野聖』のような異界小説の他に、芸者の世界を舞台にした『婦系図』のような小説も書いていて、むしろ鏡花といえば一般に後者を思い浮かべるひとも多いかもしれません。はたしてこちらの傾向の小説は現在どれくらい読まれているのでしょうか。鏡花にいくら根強い人気があるといっても、いわゆる花柳界小説までが読まれているのかどうかよく分りません。まあどちらかというと異界小説の方が好まれているのではないかと思いますが、あまりそれらを区別する必要はないし、同じ泉鏡花が書いた作品なのだから、同じ読み方で読めばよいと思っています。

『日本橋』は大正3年、鏡花40歳の時の作品で、その花柳界を舞台にしています。義理や世間のしがらみの中で誠実に生きる清葉という芸者と、清葉にライバル意識を燃やす奔放な芸者お孝。そして旦那のいる清葉への思いを断ち切ってお孝の横恋慕に心を移す葛木晉三という医学士。その葛木という男が現れたためにお孝に捨てられる通称「赤熊」なる怪人物。これらの人物が織りなす四角関係のはてに、気のふれたお孝が赤熊の口に刀を突き差してこれを殺し、自らも毒を飲んで死ぬ……。完膚なきまでに単純化すればこのようになるかもしれない『日本橋』という小説には、しかしもうひとり重要な人物がいます。それは葛木の姉であり、失踪中の、つまり現在は不在の登場人物であるわけです。

 そう、たしかに不在なのですが、姉によく似た京人形というのが、姉の身代わりの役で出て来ます。人形とはそもそも誰かの身代わりをするものでしたね。そして『日本橋』とはいわば「人形」をめぐる小説であるのです。白状すれば、いかにこの小説に人形さながらの「身代わり」のテーマが氾濫しているか、この一文が言わんとするのはほぼそのことに尽きます。東京の日本橋がその領域内に人形町という土地を持つことを微かに意識しつつ、以下に、この身代わりのテーマの氾濫ぶりをいくつか紹介してみましょう。作品のストーリーもそれで自然に分っていただけるものと思います。


○葛木は早くに両親を失い、貧しい幼年時代を過ごします。姉はひとの妾になる決心をしたある晩、京人形を俎に載せて包丁で首を刎ねようとします。その人形は姉に活き写しだったわけです。妾になることが、死に値するというわけでしょう。姉と人形が同一視されるのですが、もちろんそれ以前に姉は母の身代わりでもあるわけです。姉のおかげで葛木は医学を学ぶことができます。

○妾となった後の姉は葛木に一切会おうとせず、葛木が医学士になってからは何処かへ失踪してしまいます。姉を求める葛木は姉そっくりの芸者清葉に恋をします。清葉は姉の身代わりです。清葉には決まった旦那がいて、いろいろな義理に縛られているために、葛木の思いを受入れることは出来ません。

○お孝はこれまで清葉が拒んだ男ならすべて、まさに清葉が拒んだ男であるという理由で自分のものにしてきました。赤熊という男もそうでした。そしてこんどは葛木が赤熊にとって代わるというわけです。通常のライバル意識ならば、むしろ清葉の旦那をこそお孝は征服すべきはずなのに、少し妙です。お孝は清葉に憧れているのでしょう。清葉になりたいのですね。

○清葉を諦めた葛木に対し、お孝は清葉の身代わりになろうと申し出ます。お孝が葛木を誘惑するときの口説き文句は「人形が寂しい事よ」というものでした。お孝は自分を人形になぞらえるのですが、どことなく淫らなものを感じさせます。お孝は自分が清葉の身代わりであり葛木の姉の身代わりであるだけでなく、人形そのものにさえなろうとしているかのようです。

○葛木は清葉からもお孝からも遠ざかるために、そして失踪した姉を探すために、僧形となって旅に出ます。彼はこの旅に携えて行く姉の京人形を、預けておいたお孝から返してもらいますが、お孝はその時「清葉さん、----然(さ)ようなら」と人形にささやきます。お孝は葛木という男のエロスを正確に理解しているようです。

○たまたま葛木が日本橋に舞戻ってきた日に、清葉が店を張る「瀧の家」という芸者置屋が火事になり、その騒ぎの中、赤熊はお孝を殺そうとします。しかしお孝の妹分の千世という抱妓(かかえ)が、お孝と同じ着物を着ていたために人違いで切りつけられてしまいます。千世はお孝の身代わりになります。

○葛木に去られたのち気がふれていたお孝は、赤熊を殺して自ら毒を仰いだあと、清葉に遺言を残します。その内容はよく分りませんが、ただ清葉がそれに対して「身に代えまして、清葉が、貴女に成りかわって」とこたえます。結末の部分にはこう書かれています。

葛木が生理学教室に帰ったのは言うまでもない。留学して當時獨逸にあり。瀧の家は、建つれば建てられた家を、故(わざ)と稲葉家のあとに引移った。一家の美人十三人。

 稲葉家というのはお孝の持ち物であった芸者置屋です。清葉の置屋が火事で焼失したため、お孝の置屋に移ってそこを瀧の家とした、つまり最後にいたって清葉がお孝のいた位置を占めることになるという結末であり、葛木のことを「身に代えて」引き受ける、ということであるのです。それがお孝の遺言なのに違いありません。身代わり願望の女であったお孝が死んで、身代わりの身代わりを奇しくも清葉が引き受けることになります。


 以上です。身代わりのテーマがいかに多く出てくるか、お分りいただけたと思います。『日本橋』の登場人物には、だから多かれ少なかれ人形臭さが付きまとうのですが、これは鏡花には人間が書けてないという、いかにもリアリズムの側から出そうな批判とは何の関係もありません。むしろこれは人間を書くふりをしながら、こっそり人形を書いて見せる、鏡花の黒いユーモアなのであり、過剰な人形のテーマが氾濫しているという事態がここにあるばかりなのです。

 鏡花はこの作品をみずから戯曲化していて、それには小説にない重要なシーンがあります。お孝が自分のために新調した長襦袢を千世に着せる、次のような場面です。

お孝 似合ったよ。(と云いさま倒すが如くお千世を膝へ横抱きに)お孝――
千世 …………
お孝 葛木さんとお呼びよ、……私をさ。(と笑う。)
千世 ほほ、葛木姐さん。
お孝 いやだ。おいらんのように聞こえるじゃないか――唯葛木さん……とさ。
千世 葛木さん――
お孝 あい、――じゃない……むむ、お孝、我ままをたんと言え。

 そう言ってお孝は千世を抱きしめます。どういうことかというと、お千世にお孝の役を演じさせて、お孝自身は葛木に変身しようというわけですね。他愛ないといえば他愛のないごっこ遊びですが、お孝の秘められた同性愛的傾向とともに同化願望があらわれています。生身の肉体を使ったユーモラスな人形遊びの中に、お孝のエロスがほのみえています。(『山海評判記』には、また別の趣の、肉体による人形遊びが出てきます。)

 「人形」には魔性があります。誰かの身代わりになることが出来るという人形の機能とはいったい何によるのか。恐らくそれは、人形が誰でもないことに由来するのでしょう。人形の魔力はその無名性によるのです。どんな名前も受け入れる底無しの無名性。だからそんな人形の中に虚無を一瞬かいま見て、たまらなく恐ろしくなり、それを魔性と呼ぶのです。

 お孝は「人形」の女です。彼女は自分が人形のように誰かに変身出来たらと思う。愛する誰かに変身すること、身代わりになること、同化すること、それが彼女のエロスです。だからお孝は必然的に人形の魔性にみずから敗れざるをえません。それが彼女の狂気となります。

 お孝にとって男たちは人形のエロスを達成するためのいわば触媒にすぎません。葛木にしてもひとつの触媒である点では同じです。清葉がその向こう側にいるからこその葛木という存在でもあるわけです。ただ他の男たちと違うとすれば、彼が人形愛の男であることでしょう。葛木のエロスとは、ひとりの生身の女をそのままに愛することができなくて、つねに誰かの身代わりの「人形」であるような女としてしか愛せないというものです。そのような葛木の人形愛的エロスがお孝の人形のエロスを激しく刺激したのです。

 お孝と葛木というペアはまさに理想的な結合であるかに見えます。しかし、お孝と切れてくれという赤熊の頼みを、葛木はなぜか訊き容れて旅立ってしまいます。べつにこのことは意外でもなんでもないわけで、彼の人形愛が姉の不在によって支えられている以上、そのエロスは浮遊し放浪することを余儀なくされます。いつまでもお孝のもとに留っていることは出来ないのです。お孝から姉の人形を受け取って姉探しの旅に出る葛木の姿はいかにも象徴的です。『日本橋』とはいわば姉と清葉とお孝が合体して作りなされる「人形」をめぐる小説であるわけで、男はついにその人形に操られる人形であるような存在でしかありません。

 さて、お孝なきあと、清葉はお孝の置屋を引き継ぐことにしました。世間の義理にがんじがらめになっていた清葉が、とにかくもお孝の身代わりの役を演じ始めるわけです。美人芸者が十三人という所帯を治めるようになる清葉にどのような変化があらわれるのでしょうか。お孝の身代わり、葛木の姉の身代わりを演じつつ清葉自身ともなりうるとすれば、それは人形の属性をもつ女であるはずですが、むろん作者は黙して語りません。しかし……、

 清葉の家の美人芸者の人数である13という数は、ひと組の雛人形の数と明らかに関係があります。とはいえ、雛人形の数にとくに規格があるわけではなく、内裏雛2、三人官女3、五人囃子5、随身(左右大臣)2、使丁3、という組み合わせは大震災後に百貨店が始めたもののようです。この組合わせだと合計15体。内裏雛を除けば13体となり、美女たちの数に一致します。しかし、ここは鏡花自身の別の作品にあたってみなければなりません。それによると、

「十軒店で近頃出来合の品物じゃあないんだそうで、由緒のあるのを、お夏さんのに金に飽かして買ったって申しますがね、内裏様が一対、官女が七人お囃子が五人です、それについた、箪笥、長持、挟箱。御所車一ツでも五十両したッていいますが皆金蒔絵で大したもんです。」 (「三枚続」・二十八)

 内裏様が2、官女7、お囃子5で、つごう14体が鏡花の雛人形です。つまり、ドイツに留学中の男雛1体(葛木)を除けば、残りが13体で、清葉を含む置屋の美人たちの数になります。

 花柳界小説のふりをした人形小説の末尾で、こっそりと雛人形を並べ、ひとりほくそ笑む鏡花……。

 雛祭の翌日の一石橋という重要なシーンを持つ『日本橋』には、「雛祭」という人形たちのお祭の夜の華やぎと妖しさがすみずみにまで染みわたっています。けれどもそこに、泉鏡花の不吉な悪意を汲み取ることもできるのではないでしょうか。

 『日本橋』は岩波文庫とちくま文庫で読むことができます。




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