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海の上のピアニスト /
200本のたばこ
聖なる嘘つき −その名はジェイコブ− /
シュウ・シュウの季節
I Love ペッカー /
ラスベガスをやっつけろ /
スパイシー・ラブスープ
ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア /
娼婦ベロニカ /
葡萄酒色の人生/ロートレック
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海の上のピアニスト
1900年。
豪華客船ヴァージニアン号の一等船客用のダンス・ホールのピアノの上で、
黒人機関士ダニー(ビル・ナン)は、レモン用の木箱に入れられ置き去りにされていた赤ん坊を見つける。
彼は、その子にダニー・ブードマン・T.D.レモン・ナインティーン・ハンドレッドと名付け、
自分の子供として船内で育てることにした。
そして27年の月日が経ち、ナインティーン・ハンドレッド(ティム・ロス)は、
いまだかってこの世に存在したことのないようなメロディを奏でるピアニストとして成長していた。
しかし、船の中で生まれ育った彼には国籍が無く、船から下りることは許されておらず、
自ら船を下りる勇気もなかった。
ある日、船の中でひとりの乗客の少女に恋をしたナインティーン・ハンドレッドは、
彼女に会いに行くために船を下りる決心をするが…。
『ニュー・シネマ・パラダイス』のトジュゼッペ・トルナトーレ監督作品。
『ニュー・シネマ・パラダイス』以来、地味に公開されてきた、この監督の作品は何本か観ましたが、
あまりピンと来るものがありませんでした。
そして今回も…。
“大西洋の上で生まれ、一度も船を下りたことがないピアニストの伝説”というキャッチフレーズで
およその結末が予想出来てしまったからか、あまりにも大きな感動を期待をしてしまったからか、
私には少々期待外れの作品でした。
自分のピアノの腕を信じて、船の中では傍若無人に振舞うナインティーン・ハンドレッドの
破天荒ぶりは痛快でしたが、それだけ。
恋した少女に対する想いも、一度も船を下りられなかったことも、
彼の気持ちを私は理解してあげることが出来ませんでした。
私は、自分の殻を破って主人公が人間的に成長していく物語が好きなのです。
決して悪い作品ではありませんが、観る人の性格によって好き嫌いが大きく分かれるのだと思います。
私だったら、きっと船を下りたいと思うだろうから、
彼が船を下りない理由を延々と語るシーンにも共感するものがなかったのです。
レベル3
200本のたばこ
1981年大晦日のニューヨーク。
年越しホーム・パーティを開いたモニカ(マーサ・プリンプトン)は、
友人のヒラリー(キャスリーン・ケルナー)と二人っきりで来客を待っているのに、
21時を過ぎても誰も来ないことに憮然としていた。
その頃、そのパーティに向かうはずのケヴィン(ポール・ラッド)は、
前日に彼女にフラれたことを女友達のルーシー(コートニー・ラヴ)相手にクダをまき、
郊外から出てきたヴァル(クリスティーナ・リッチ)とステフィ(ギャビー・ホフマン)は、
道に迷ってパンクバーへと入りこんでしまう。
モニカの元彼エリック(ブライアン・マッカーディ)とバーで飲んでいる
ブリジット(ニコール・パーカー)とケイトリン(アンジェラ・ファザーストン)は、
バーテンダー(ベン・アフレック)をモノにしようと目論み、
男性に慣れていないウブなシンディ(ケイト・ハドスン)は、
昨日会ったばかりのジャック(ジェイ・モア)とのデートでドジばかり。
大晦日の夜をそれぞれの思いで過ごしながら、彼らはカウントダウンに向けて
パーティ会場へと向かって行く。
いかにもアメリカというような、お気楽で能天気なラブコメディ。
大晦日だというのに決まった恋人もおらず、ツキにも見放されて街をさ迷う4組の男女たちが、
あるパーティ会場へと集結していく様子が面白おかしく描かれています。
こういう作品は深く考えずに楽しめ、どんなに不幸な登場人物も最後にはきっちり幸せになり、
楽しい気分のまま終わらせてくれるところが良いです。
私的には、何をやってもドジを踏むばかりのシンディのエピソードが気に入りました。
シンディ役のケイト・ハドスンの真に迫るドジ演技を観ていると、
本当に彼女がそういう人に見えてきてしまえるほど、とにかく上手かったと思います。
どこにでも転がっていそうな相手役のジャックのキャラも面白く、
「男の人って何でこんなのばっかりなんだろうな」と思いながら苦笑してしまいました。
タイトルが『200本のたばこ』であるだけに、
出てくる人たちみんながさんざんにたばこをふかしていますが、それが無意味なことではなく、
きちんと“たばこ”に意味を持たせてラストで落としているのが気持ち良かったと思います。
レベル3.5
ベン・アフレックの弟、ケイシー・アフレックもベンと共に出演。
観ている最中、ずっとケヴィン役のポール・ラッドがケイシーだと思い込んでいたのに、
パンク少年トム役だったと後で知ってびっくり。
だって、全然似ていないんだもん。
聖なる嘘つき −その名はジェイコブ−
1944年、ナチス占領下にあるポーランドのとある町で、ユダヤ人ジェイコブ(ロビン・ウィリアムズ)は、
夜間外出禁止令に反したとして司令部に出頭を命じられる。
無人の事務所で彼は偶然、この町から400キロ先にあるベザニカで
ドイツ軍がソ連軍と交戦したというニュースを流すラジオ放送を耳にした。
それはポーランドまでソ連軍が進攻してきたという、ジェイコブたちユダヤ人にとって明るいニュースである。
翌朝、彼は早速そのニュースを自殺願望のある床屋の友人コワルスキー(ボブ・バラバン)と、
かつて彼がマネージャーを務めていたボクサー、ミーシャ(リーブ・シュライバー)に教えた。
そしてそのニュースは、ジェイコブがラジオを持っているという噂とともに
たちまちユダヤ人仲間の間に広まっていった。
ジェイコブのニュースで生きる希望を見つけたユダヤ人たち。
ミーシャからニュースの続きを尋ねられたジェイコブは、
ドイツ軍がソ連に反撃するために東に向かっていると、思わず口から出まかせの戦況を伝えてしまう。
ナチスの占領下に置かれるユダヤ人が、嘘で希望を与えて行くという話では、
どうしても『ライフ・イズ・ビューティフル』の二番煎じ的なイメージを持ってしまいます。
このストーリーも決して悪くはないのですが、『ライフ…』の完成度が群を抜いていたため、
どうしても見劣りしてしまうのです。
原作は1969年に出版されたベストセラー小説で、74年にも映画化されているそうです。
今回の作品は『ライフ…』の後出しになってしまったため、
単にタイミングが悪かったことだけが評価を下げてしまった訳ではありません。
この作品に感じた不満は、ユダヤ人の悲しみが伝わってこないこと。
死と隣り合わせにいる人々の生活の中にも、悲痛なものは感じられず、
“嘘”にまで悲しみを湛えていた『ライフ…』に比べると、
ジェイコブの嘘には全くそれがないために深く共感することも出来なかったのです。
今回は“嘘つき”ながらも、それが他人に“癒し”を与える役柄のロビン・ウィリアムズ。
これにも「またか」といった印象を受けました。
いつもいつも同じような役柄ばかり演じる彼に、少々食傷ぎみでもあります。
似合わないかもしれませんが、たまには彼の徹底的な悪役も見てみたいところです。
レベル3
シュウ・シュウの季節
1970年代半ば、中国は文化大革命末期で、都会の少年少女に労働を学ばせようと
辺境の地へ送る下放政策が存在した。
美しい街成都に住む天真爛漫な少女シュウシュウ(ルールー)も地方に送られ、
変わり者と呼ばれるチベットの男ラオジン(ロプサン)から放牧を教わることになる。
革命の理想に燃えながら、両親のいる成都に帰れる日を待ち望むシュウシュウ。
しかし、いつまで経っても彼女を迎えに来る者はいなかった。
やがて彼女は、文化大革命がとうの昔に終焉を迎えていることを聞かされてショックを受け、
成都に帰るための許可証発行と引換えに男たちに身体を売り始める。
予想以上に重い作品で、観終わってから何とも言えないブルーな気持ちになってしまいました。
ラスト・エンペラーの主演女優ジョアン・チェンが監督した作品ということで、
女性監督ならではの細かな女性の気持ちの表現を期待していた私には
肝心のシュウシュウの気持ちがあまり伝わって来ず、少し肩透かしを食った感もあります。
予告編のテロップで坂本龍一の「涙が止まらなかった」というコメントが載っていましたが、
これは、シュウシュウを愛しながらも男としての機能を果たさないためどうすることも出来ない
ラオジンの気持ちになって観た人にはたまらない作品だと思います。
女性よりも男性の方が感情移入しやすいかもしれません。
しかし、あくまでシュウシュウを主役に立てながら、
その物語の導入部分を彼女に恋していた少年に語らせることにもあまり意味は感じられず、
救いが全く無く、ただの悲劇で終わってしまったラストシーンもあまり好きではありませんでした。
シュウシュウのベッドシーンも、ヌードの吹替えがまる分かりで冷めてしまいます。
ストーリーの素材は悪くないですし、シュウシュウ役のルールーの初々しい演技も
ラオジン役のロプサンの味のある演技も良かったのですが、満足感を得られない作品で残念でした。
レベル3
I Love ペッカー
ペッカー(エドワード・ファーロング)は、写真を撮るのが大好きな青年。
中古のカメラを肌身離さず携えて、ホームタウンのボルチモアを行き交う人たちや
街の何気ない風景を撮りまくっている。
でも、ペッカーが何よりも好んで被写体にするのは自分の愛すべき家族たちや、
恋人のシェリー(クリスティーナ・リッチ)、親友のマット(ブレンダン・セクストンIII)だった。
ある日、アルバイト先のサンドイッチ店で写真の個展を開いたペッカーの元に、
ニューヨークでギャラリーを経営しているローリー(リリ・テイラー)がやって来る。
彼女はピントはずれだったり露出過多のペッカーのモノクロ写真をベタぼめし、
その中の一枚を買った上、ニューヨークでの個展の話も持ち掛ける。
ペッカーの写真はニューヨークの批評家の間でも評判になり、
個展に出した写真は1枚1300ドルで売れて、彼は一躍有名人に。
しかし喜び勇んでボルチモアに帰ると、モデルになった人々に様々な災難が降りかかるようになり、
ペッカーも以前のように自由に写真を撮ることが出来なくなってしまう。
『ピンク・フラミンゴ』『シリアル・ママ』など毒を放った作品で、カルト映画の帝王とも呼ばれる
ジョン・ウォーターズの自伝的作品。
実は私はこの監督の作品は今までまともに観たことがありませんが、
“カルト映画の帝王”にしては、ずいぶんほのぼのとした作品でした。
万引きの天才である親友、砂糖中毒の妹、ホモのストリップバーで働くことを生きがいにしている姉…
というように、出てくるのはみんな個性的で変な人ばかり。
出てくる人物がみんな“変な人”という作品といえば、ザッと思い浮かんだものは
コーエン兄弟の『ビッグ・リボウスキ』やエミール・クストリッツァ監督の『黒猫・白猫』
森田芳光監督の『39/刑法第三十九条』など。
それが作品に著しく効果的に使われる場合もありますが、
ストーリーの弱さをキャラで補っているようにしか見えない作品は、あまり好きにはなれません。
この作品も、監督自身の自伝的映画ともなればストーリー的には限界があるのでしょうか。
とてもありがちで、全て先が読めてしまうような展開には特に面白みは感じず、
つまらなくはないけど、面白くもないという印象でした。
聞けばびっくりするような奇抜な体験談も、所詮フィクションの面白さには勝てません。
カルト監督の自伝も、映画にしてしまえばどうってことない話になってしまうのです。
レベル3
ラスベガスをやっつけろ
1971年。
ジャーナリストのラウル・デューク(ジョニー・デップ)とサモア人の弁護士ゴンゾー(ベニチオ・デル・トロ)は、
オートバイとバギーレースの祭典“ミント400”を取材するため、真っ赤なオープンカーに乗り、
ドラッグをやりながら時速150キロの猛スピードでラスベガスへと向かっていた。
ドラッグ中毒の彼らは、ラスベガスに着いても取材などそっちのけで、
宿泊していた一流ホテルをめちゃくちゃに荒らしまくる。
『未来世紀ブラジル』『12モンキーズ』のテリー・ギリアム監督作品。
2人のドラッグ中毒の男たちのラスベガスでの珍道中を描いた作品なのですが、
とにかく最初から最後までラリってるだけの映画で、ヤマもなければオチもありません。
ドラッグに浸った男たちの目に見える幻影の世界や、とことんイカれた男たちのザマを見せるのが
テリー・ギリアム独特の世界なのでしょうか、もう、2時間が長い長い。
映像も不快なものばかりで、観ていて嫌になってきました。
しかし、そんなラリラリの役を「俺がやらずに誰がやる」と言わんばかりに嬉々として演じている
ジョニー・デップの、カトちゃん系ハゲ頭にはかなり驚かされました。
ある時は『ドンファン』を演じることが出来るほどカッコいい彼も、
ハゲ頭にガニ股で歩けばただのオヤジなんですね。
彼のファンは今回の役柄の姿を見て、その落差に幻滅してしまうかもしれません。
脇役で、キャメロン・ディアス、クリスティーナ・リッチ、トビー・マグワイヤなどが出演している他、
『オースティン・パワーズ:デラックス』の“ミニ・ミー”がチラっと出演しています。
見所は、ジョニー・デップの頭と、前記のゲスト陣だけ。
かなり変わった映画を好む人は観てもいいと思いますが、普通の人にはとてもオススメできません。
レベル1
だって、つまんなかったんだもん。
私は、基本的に“不快な映像”と“起承転結のない映画”はダメなんです。
スパイシー・ラブスープ
同級生の女の子に恋する10代男子学生の淡い恋心、
離婚して娘とふたりで暮らす50代の女性の新しい夫探し、
結婚5年目を迎えた30代の倦怠期夫婦の生活の再生、
離婚しそうな40代夫婦の仲を必死に引き止めようとする息子の奮闘、
街角で偶然知り合ったカメラマンと若い女性の不安定な恋、
そして、20代のカップルの婚約から結婚までの道のりを描いた、6話のオムニバス。
北京の街を舞台に“男女の愛”という普遍的なテーマを描き、本国である中国で大ヒットしたという作品。
互いに相手を想う気持ちがありながら、些細なすれ違いで気持ちが交わらなかったり、
冷え切ったものが、ほんの少しの軌道修正で元に戻ったり、戻りそうでも簡単には戻らなかったり、
ひょんなところに出会いの偶然が転がっていたり、結婚生活を間近に控えて一抹の不安を覚えたりなど、
身近で分かりやすく、1話ごとのストーリーをとても短い時間中で充分に表現し、
主人公たちに共感させてしまう語り口が見事です。
なんでもない話の連打なのですが、そこに感情移入させてしまう魅力を持った作品なのです。
男と女はいくつになってもいつまで経っても、傍から見ているとこんな馬鹿みたいな
感情のぶつけ合いを繰り返しているんだと、しみじみと感じてしまいました。
私的には倦怠期夫婦のエピソードと、離婚間近の夫婦のエピソードにグッとくるものがあり、
かなり泣けてしまいました。
私が持っていた中国のイメージは、人民服に身を包んだ人が自転車に乗っていたり、
閉鎖的であったり、山水画のようにモノクロの世界に近いものでしたが、
この映画が見せてくれた中国は、今の日本とあまり変わらない華やいだものでした。
いつまでも中国に閉鎖的な暗いイメージを抱き続けていると、
まだ日本にサムライが居ると勘違いしているアメリカ人みたいになってしまうかもしれません。
レベル4
ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア
テニスボール大の腫瘍を脳に抱えたマーチン(ティル・シュヴァイガー)と
末期骨髄腫のルディ(ヤン・ヨーゼフ・リーファース)は、
それぞれ余命いくばくもないと宣告され「死人病棟」の同室に入院させられる。
突っ張ったマーチンと内向的なルディという正反対の性格のふたりだったが、
話をしているうちに、マーチンはルディが今までで一度も海を見たことがないと知り、
命があるうちに海を見に行こうと、病室を抜け出し、駐車場からベンツを盗んで飛び出した。
しかし、その車が大金を積んだギャングの車だったため、ふたりは追われるはめとなる。
『ロック、ストック&トゥー・スモーキングバレルズ』のテイストがある、ドイツ映画。
ギャングに追われながらもお気楽な男たちが主人公だった『ロック…』とは少し違い、
この作品は、同じくギャングに追われている男ふたりが、表面的にはお気楽であっても、
病気で余命いくばくもないという“悲しみ”を心の中に背負っているところが実に良かったです。
禁煙の電車の中でも入院した病室の中でもタバコをふかす道徳心なき男マーチンと、
気弱なモラリスト、ルディという正反対のコンビはありがちですが、
お互いがお互いを上手い具合に引き立て、ピッタリ合っていたと思います。
そのルディがマーチンと行動を共にするにつれ、いつの間にか彼のペースにすっかりハマってしまい、
ふたりの間に友情が芽生えるくだりも、とても自然でいい感じでした。
彼らの“死ぬ間際に海を見に行く”という目的がはっきりしているところが大いに気に入りましたし、
そうしているうちに、いつの間にか予期せぬ大金が転がり込んでしまうという流れも面白いです。
“男の友情”を描いた作品であれ、ハリウッド映画では“お約束”とされ主人公に絡む余計な女性が
その作品には一切出て来ないところが気持ち良く、親子の愛情を描いたシーンや、
彼らの人間的な優しさも存分に表現されていて、大満足の作品。
ラストシーンもとても良く、しばらくの間は余韻から抜けきることが出来ませんでした。
巨額の制作費をかけてセットを組んだりCGを使ったりしなくても、
面白い脚本と良い役者、良い監督が揃えばいくらでも面白い作品は作れるもの。
最近ダメダメなハリウッド映画には、こういう作品をぜひ見習って欲しいものです。
レベル5
娼婦ベロニカ
1583年のベネチア。
ベロニカ(キャサリーンーマコーマック)は青年貴族マルコ(ルーファス・シーウェル)を愛していたが、
身分違いを理由に結婚できなかった。
お金のない庶民階級の女が、富と権力者に接近し出世できる道は高級娼婦しかないと、
ベロニカの母パオラ(ジャクリーン・ビセット)は、彼女をその道に入るように勧める。
パオラもまた、かつての高級娼婦であり、その世界を身をもって体験してきたのだった。
ためらいながらも、高級娼婦の道を選んだベロニカは、その美しさと聡明さでもって、
いつしかその世界で最高の女性へと上りつめて行く。
そんな中、マルコは法王の姪だという女性と結婚をするが、それは愛のない結婚であった。
見違えるばかりあでやかな魅惑の女性へと変身していったベロニカに想いを馳せるマルコは、
再び彼女に接近するが、ベロニカは彼を愛する本心とは裏腹に、彼をあざ笑うかのように拒絶した。
“高級娼婦”とは、社交界に出入りし、王や最高位の男性のパートナーも務める娼婦のこと。
彼らと対等に渡りあっていけるだけの教養を身につけ、洗練された身のこなし、
礼儀正しい言葉づかいなどをしっかり仕込まれた最高のレディでなくてはならず、
そのため女人禁制の図書室での読書も許され、教育も受けられたそうです。
お金持ちが相手なので、その身体を使って一晩で大金を稼ぐことが出来る、
身分が高い男性との結婚が望めない、貧しい家庭に育った女性の職業なのでしょう。
女性が男性の所有物としてしか扱われていなかった時代に、自分で運命を切り開いて行った
ひとりの女性を描いた実話ベースの物語…というところに大変興味があったのですが、
残念ながら、私はこの主人公ベロニカに魅力を感じることが出来ませんでした。
それは、彼女がその手段として性を売り物にする“高級娼婦”という職業を選んだことに
共感出来なかったからではありません。
彼女が高級娼婦になったのは、身分の差にその恋を阻まれた、愛するマルコに近づくため。
なのに、彼に対するひたむきさが感じられないのです。
映画の中の彼女には凛とした強さ、自信、誇りなどを感じることが出来なかったのです。
同じような時代に生きながらも『恋におちたシェイクスピア』で
グゥイネス・パルトロウが演じたヴァイオラには、芝居と恋に賭けたひたむきさを感じましたし、
多少時代は後になりますが、、17世紀のローマで“美術史上初の女性画家”としてその名を残した
アルテミシア・ジェンティレスキも『アルテミシア』という作品の中で、
その芯の強さと聡明さが、とても魅力的な女性として描かれていました。
この作品のベロニカも、教養は必要とされていない女性でありながらも本を愛し、
詩を語る聡明な女性であったにも関わらず、それが上手く表現されておらず、
地位の高い男性たちにチヤホヤされていることに、のぼせ上がっている女性にしか見えませんでした。
こういう作品は女性の監督が撮ると、より女性の気持ちに踏みこんだ作品になるのかもしれません。
レベル3
…っていうか、肉体で男性を魅了出来る女性に対するヒガミが入ってるかも(笑)
葡萄酒色の人生/ロートレック
1864年、19世紀末の天才画家アンリ・マリ・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレックは、
南フランス、トゥールーズの名門ロートレック家に生を受けた。
彼は両親の愛情を一身に浴びて成長したが、15歳の時、屋敷の森で足を骨折し、
その後の成長が止まってしまう。
しかしその後も彼は陽気な性格のまま成長し、好きだった絵画の才能を伸ばすべく、
パリで絵の勉強を始めた。
ある日、彼はルノワール、ドガなど一流画家のモデル、シュザンヌ・ヴァラドンと出会い、
その気の強さと美しさに一目で恋に落ちる。
また、彼女も彼の優しさと才能に強く惹かれ、ふたりは愛し合うようになる。
しかし、互いに自由奔放な性格から常に口喧嘩が絶えないふたりの幸せの時は、長くは続かなかった。
ひとりの天才画家の人生を描いた作品ですが、退屈の極みでした。
128分という時間の中に、あれこれ詰め込み過ぎているのでしょうか。
まるで、大河ドラマの総集編でも見せられているかのように、
ひとつひとつの出来事が端折られ過ぎていて、気持ちが入る間もなく淡々と物語が進んで行くのです。
また、ロートレック自身にも人間的魅力を感じられないため、彼の苦しみや悲しみが全く伝わって来ず、
彼がどんなに不幸になっても同情することが出来ませんでした。
凡人ではない芸術家独特の感性なのか、彼の言動にも理解し難いものも多々あります。
この作品では‘ロートレック’という人物が、どんな人生を送って来たのかということが
こと細かく説明されていて、彼を知るためには良い作品だったのだと思いますが、
映画としての面白みには欠けていたように感じました。
観ている間にものすごく時間を感じ、久しぶりに早く映画が終わってくれることを心から願った作品です。
レベル1.5