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ラブゴーゴー /
私の愛情の対象 /
ビッグ・リボウスキ /
宋家の三姉妹
ルル・オン・ザ・ブリッジ /
アンナ・マデリーナ /
ぼくのバラ色の人生
ニルヴァーナ /
キュリー夫妻/その愛と情熱 /
地球は女で回ってる
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ラブゴーゴー
パン屋で平凡な毎日を送る、パン職人のアシェン。
ある日彼の店に、小学校の頃に好きだった美少女・リーファがやって来る。
久しぶりに彼女に会って、昔の恋心が再燃したアシェンは、
テレビの“のど自慢”に出て、彼女への気持ちを歌で伝えることを決意する。
*−*−*
肥満ぎみだが夢見る乙女のリリーは、ボーイフレンドのほしい年頃。
ある日偶然ポケットベルを拾い、その持ち主と電話でコンタクトを取ったリリーは、
電話の向こうのその男性に恋心を抱く。
しかし、彼が一度会いたいと言い出し、リリーはあわててダイエットを開始するが・・・・。
*−*−*
兵役を終えたばかりのアスンは、痴漢撃退グッズを売り歩くセールスマン。
しかし、内気な性格ゆえ売上はさんざん。
女性が大勢いる場所でひと商売しようと美容室に乗り込むが、
商売のことを切り出せないまま、美人の店長・リーファにシャンプー台に座らされてしまう。
面白い作品でした。
この映画に出てくる“カッコ悪い人たち”が底抜けに明るく、前向きな姿勢なのは好感が持てました。
3話のオムニバスですが、3話目が1話目にシンクロしていくのもいい感じ。
ストーリーはそれぞれにみんな単純なのですが、主人公の心情でもって語られる部分が多いので、
それを感じさせない不思議な作品でした。
奇妙な誘拐劇を描いた前作『熱帯魚』の方がストーリーのレベルで言えば上だったように思いますが、
『熱帯魚』ではついていけなかった台湾ギャグが、今回の作品では理解出来ました。
しかし私は観終わった時に、何かすっきりしないものが残りました。
カッコ悪い人たちの行動は、確かに見ていてとても可笑しいのですが、
果たしてそれを笑っていいのだろうかという気分になってくるのです。
“身から出たさび”とは言え、太った女の子が必死にダイエットをしている姿に、
私は心から笑うことは出来ませんでした。
オチで少しは救われましたが、所詮女は見た目が大事なんだと言われているような気持ちになってしまいました。
3話目にしても同じです。
美容室の店長がもし美人じゃなかったら、アスンは果たしてどういう行動をとったのか。
誰もがドキリとするような美人が相手では、アスンの行動も説得力にに欠けてしまったような気がします。
なんだかんだと言っても、やっぱり美人は得なんだなぁと教えられた作品でした。
私も今度生まれ変わるとしたら、容姿だけで世の中渡っていけるような女性に生まれてみたいものです(笑)。
レベル3
前作『熱帯魚』に出ていた、首にギプスをした鬼女性教師が
1話目でアシェンのお見合い相手として登場するという、サービスカットがあります。
私の愛情の対象
小学校の教師をしているゲイのジョージ(ポール・ラッド)は、
同居している恋人のロバート(ティム・デイリー)にふられ、部屋を出る決意をする。
あるパーティで知り合った精神カウンセラーの女性ニーナ(ジェニファー・アニストン)は、
行くあてのないジョージをルームメイトとして迎え入れた。
そのことに対し、ニーナから同棲を断られていた恋人ヴィンス(ジョン・パンコウ)は、
同居の相手がゲイだと分かっていても心中は穏やかではなかった。
しかしニーナは、自分の考えを押しつけるヴィンスより、
彼女の自由を尊重してくれるジョージに次第に惹かれ、
ニーナとジョージは日を重ねるごとに深い友情 と愛で結ばれていった。
そんなある日、ニーナはヴィンスの子供を妊娠していることに気づく。
ヴィンスと居ても安らぎを感じられないニーナは、彼との結婚を望んでおらず、
ジョージに自分と一緒に子供を育てて欲しいと頼んだ。
最近“ゲイ”を扱った作品をやたら観ているような気がします。
つい先日観た『イン&アウト』をはじめ、ふと思いついたものを挙げてみただけでも、
『ぼくのバラ色の人生』『BE MY BOY』『ブエノスアイレス』など“ゲイ”を主役にした作品から、
『ベストフレンズ・ウェディング』や『恋愛小説家』など“ゲイ”が脇に出てくる作品まで多数です。
“ゲイ”ではないのですが、『チェイシング・エイミー』は“レズ”の女性を好きになった男性のお話で、
この『私の愛情の対象』のストーリーは、『チェイシング・エイミー』に近いものがあると思います。
この作品では“ゲイ”という存在は、登場してくる全ての人物から全く否定されていません。
つまり、“ゲイ”という存在を全面的に認めることにより、
偏見から来る“ゲイゆえの悲しさ”を一切排除した作品だと言えます。
それによって、ジョージが“ゲイ”であることをジョージ本人とニーナだけの問題として描き、
見せ場を“愛と友情”の間で揺れる心情のみに絞ったことは、
リアリティにはやや欠けるものの、とても分かりやすく、結果なかなか面白く観ることが出来ました。
一方的な考えを押しつける男性とは同棲も結婚を望まず、
自分を理解し尊重してくれる男性との暮らしを望むニーナは、現代女性の象徴とも言えましょう。
分かってはいるものの、ついジョージに甘えて過剰な愛情を求めてしまい、
それに応えてくれない彼に苛立ってしまうニーナは、ある意味では勝手な女性だと思いましたが、
彼女の性格から言えば、その言動も理解出来ないことはありませんし、
私も彼女の立場なら、きっと彼女と同じ気持ちになってしまうだろうと感じました。
好きな人に気持ち気持ちが伝わらない切なさが感じられる、ラブ・コメディの秀作だと思います。
レベル4
ビッグ・リボウスキ
90年代初頭のロサンジェルス。
不精者のデュード(ジェフ・ブリッジス)は定職にも着かず、気ままにその日暮らしを続けていた。
ある日彼がスーパーから帰宅すると、家に侵入していた二人組みの男に、
「テメエの女房が借りた金を返せ」と詰め寄られる。
借金など身に覚えがなく結婚すらしていないデュードには、何のことか全く分からない。
ところが、男たちは散々暴れまわった上、絨毯に小便までしたあとで、
人違いに気づいてさっさと引き上げていってしまった。
デュードという名を名乗っている彼には、実はジェフ・リボウスキという本名があった。
彼らが探していたのは、ジェフ・リボウスキという同姓同名の億万長者だったのだ。
翌日、デュードがボウリング仲間であるウォルター(ジョン・グッドマン)とドニー(スティーブ・ブシェーミ)にその話をすると、
ウォルターがその億万長者に絨毯を弁償をしてもらうことをけしかけた。
早速デュードは、もう一人の億万長者のリボウスキ(ディヴィット・ハドルストン)を探し出し、
その大邸宅へと向かうのだが、やがてそれが彼を予想外の誘拐劇へと巻き込んで行く。
『ファーゴ』で監督&脚本を手がけたコーエン兄弟の最新作。
とにかく、出てくる人物がみんなどこか変だという可笑しさはいつも通り。
それに加え、デュードを演じるジェフ・ブリッジスの変貌にはびっくりです。
あの太り方は役づくりのためなのでしょうか。
私は何度もこの作品の予告編を観ましたが、何度観ても“ジェフ・ブリッジス”の文字を見るまで、
あの太った汚らしいオッサンが、彼だということを忘れてしまっていたのです。
コーエン兄弟の作品は、毎回変なキャラクターと小ネタでは笑わせてもらっていますが、
作品全体としてみると私にはそれほど満足出来たものはなく、この作品も同じでした。
ただ、変な人がたくさん出てきて、ドタバタやってるだけって感じ。
それなりに笑えるのですが、ストーリーが行き着いてしまうと
なぜか「何だったんだろう」という印象しか残らないのです。
レベル3
宋家の三姉妹
20世紀初頭の中国。
キリスト教を信仰し西洋文化を重んじる裕福な家庭に生まれた三人の姉妹がいた。
中国の古い因習にとらわれない父親・チャーリー宋(チャン・ウェン)に育てられた宋家の三姉妹は、
アメリカ留学から帰国したあと、それぞれに異なるパートナーを選んだ。
長女・靄齢(ミシェール・ヨー)は大財閥の御曹司・孔祥熙と結婚し中国経済を左右する大財閥を築く。
次女・慶齢(マギー・チャン)は革命家・孫文と愛し合い一族の反対を押し切って結婚。
孫文とともに情熱をすべてを革命に捧げ、中華人民共和国成立とともに国家副主席となる。
そして三女・美齢(ヴィヴィアン・ウー)は野心あふれる若き軍司令官・蒋介石と結婚する。
しかし共産主義を唱える孫文と国民党政府最高指導者となった蒋介石は対立するようになり、
時代の奔流は強い絆で結ばれた三姉妹を、国をも引き裂いていった。
キャッチフレーズは、
“中国に伝説となった三人の姉妹がいた。ひとりは金を愛し、ひとりは権力を愛し、ひとりは国を愛した”
というものです。
このキャッチフレーズから言うと、金を愛したのが長女、権力を愛したのが三女、
そして国を愛したのが次女となるわけで、次女の生き方に共感させようとしている印象があります。
確かに、この作品は最終的に中国にとどまることとなった次女をメインに描いているのですが、
長女と三女も決して悪人ではありません。
思想が違う男性を愛したばかりに、姉妹の固い絆を引き裂かれてしまったというお話は、
実話だからこそ実にドラマチックです。
学生時代に社会科が全くダメで、こういう作品を毛嫌いしていた私だったのですが、
最近は歴史ものや社会情勢を背景にしたものを少しずつ観るようになりました。
その中には、歴史や社会情勢を知らなくても楽しめるものもたくさんあり、
逆に映画がそれを教えてくれることもありました。
しかし、この作品は難しかったです。
少なくとも、孫文と蒋介石の関係を知っていなければ、理解出来ない部分があると思います。
上映は2時間25分でしたが、かなりカットされているシーンがあると聞きました。
確かにあれだけの壮大な物語を描くには、この時間では説明不足だったような気がします。
この作品で取り入れられていた“語り”で物語を進めていく手法は、私が最も苦手としているものであるし、
映像のバックに常時流れている喜多郎の音楽は、少々うるさすぎた気がします。
ラストシーンのフラッシュバックも、意味不明だし、しつこすぎ。
エンドロールで流してくれるのは構わないんですけどね。
でも、とりあえず、ちょっとはお勉強になったので
レベル3
ルル・オン・ザ・ブリッジ
ある晩、ジャズ・ミュージシャン、イジー(ハーヴェイ・カイテル)は、ナイトクラブでの演奏中に、
突然押しかけてきた男の発砲した流れ弾を受けてしまう。
イジーは奇跡的に一命を取りとめるが、片肺を失い、サックスを吹くことが出来ない体になる。
音楽を失って落胆していた彼は、ある日道端で頭を撃ち抜かれている男の死体に出くわした。
驚いた彼は、無意識にその男のブリーフケースを持ち出し、その場から逃げ去って行った。
家に帰ってブリーフケースを開けた彼は、その中に暗闇で蒼く輝くひとつの不思議な石があるのを見つける。
そして、その石に導かれるように、彼は女優志望の美しい女性セリア(ミラ・ソルヴィーノ)と出会い、
あっという間に激しい恋に落ちる。
音楽を失って生きる希望すら無くしていたイジーは、彼女との出会いで再び生気を取り戻すのだった。
そんな夢のように幸せな日々を過ごす2人の元に、
セリアが映画『パンドラの箱』の主役ルルに抜擢されたというニュースが届いた。
撮影のために彼女はアイルランドに行かなければならない。
イジーは数日後に必ず彼女を追いかけてアイルランドに行くと約束し、彼女にあの不思議な石を手渡した。
しかし彼女が去ってすぐ、イジーの元に石を探している人物が訪れ、イジーを誘拐して監禁してしまう。
石の在り処を白状しない限り、外には出さないというのだ。
ヴァン・ホーン博士(ウィレム・デフォー)の厳しい尋問を受けながらも、セリアを守りたい一心で、
イジーはかたくなに「知らない」と嘘をつきとおすのだったが・・・。
確かキャッチフレーズは“この映画のラストシーンを、あなたはどう受け止めますか?”でした。
この作品、ごく普通の恋愛ものと思いきや、“不思議な石”などが出てくるし、
あまりにも簡単にイジーとセリアは恋に落ちてしまうし、
訳の分からないヴァン・ホーン博士なる人物は登場してくるし、納得いかないことだらけ。
一体何なんだろうと思って観ていたのですが・・・。
なるほどね、ラストシーンが全てを解決してくれます。
途中、あまり面白いとは思えませんでしたが、ラストがそれを“面白い”に変えてくれる作品でした。
あまり多くは語れませんが、ひとりの男の人生が凝縮されたドラマだったのだと思います。
ラストシーンを観てから、それまでのシーンを振り返ると、
イジーの心の奥底に潜んでいた色々な想いがじわりと伝わってくるのです。
レベル4
アンナ・マデリーナ
チャン・ガーフ(金城武)はピアノの調律師をする内気な青年。
そんな彼の部屋に、ふとしたことで知り合った自称“小説家”のヤオ・モッハン(アーロン・クォック)が転がり込んで来る。
住む家を持たずギャンブルで生計を立てているモッハンを、最初は迷惑がっていたガーフだったが、
自分とは対照的な自由で奔放な彼に魅力を感じ、二人は同居生活を始めるのだった。
ある日、彼らの部屋の上にモク・マンイー(ケリー・チャン)という女性が引っ越してくる。
朝からビアノの練習曲“アンナ・マデリーナ”をたどたどしく弾く彼女に対し、
モッヤンは「創作の邪魔になる」と怒鳴り込み、マンイーとモッヤンは犬猿の仲となって行った。
ガーフはそんなふたりの間に入っては、なだめるという役割をしていたが、
そんな喧嘩を繰り返しながら、モッヤンはいつしかマンイーに接近して行く。
ガーフもまた、マンイーを一目見たときから心惹かれていたが、内気なあまりそれを口に出すことは出来ず、
そんなふたりをそばで見ているだけだった。
やがてマンイーを真剣に愛し始めたモッヤンは、放浪生活をやめて彼女との安定した生活を過ごす決心をし、
ガーフの部屋を出て行った。
ひとり残されたガーフは、モッヤンが残して行った原稿用紙に、口には出せなかったマンイーへの想いを綴っていく。
ルームメイトのふたりの男性が、同じ女性を好きになってしまう物語。
3人の主役の他、アニタ・ユンやレスリー・チャンなど、出演陣は豪華です。
内気な男性が好きな人に告白出来ないうちに、積極的な友人に彼女を取られてしまうというお話。
ありがち、といえばありがちなのですが、恋する気持ちとか切なさが伝わってきて最初は何かいい感じでした。
この映画のメインテーマは好きな人に好きと言えない金城武演じるガーフの心情でしょう。
でも私はあくまでアーロン・クォック演じるモッハン派。
私自身ある程度強引さを持った男の人が好きだから、
ガーフのようにはっきりしない男性を見ていると、ちょっと苛立ってしまうのです。
「好きだったら、好きって言えばいいじゃない。グズグズしてるからモッハンにさっさと取られちゃうのよ」って。
だから逆に、半ば強引にどんどんマンイーに近づいていくモッハンに惹かれてしまうんです。
モッハンが初めてマンイーの部屋に入って、ふざけながらキスするシーンはすごく良かったと思います。
だけど、これはあくまでガーフの恋の行方のお話なんですね。
途中まではすごく良かったのに、ガーフの空想(小説)の世界に入っていってからは、
どうしてもついて行けなくなってしまいました。
レスリー・チャン演じる編集長が映画の中でうんざりしていましたが、私もうんざりしていました。
分かってるのに、まだやるかなぁって。
空想の世界に入るまではとても良くて、3人の恋の行方がとても気になっていたのですが、
何だか適当に誤魔化された気持ちさえしてしまいます。
結果、私にとってはあまり面白い作品だとは思えませんでした。
もろ私好みの俳優(顔がね)、アーロン・クォックの存在を知っただけが収穫でした。
レベル2
それにしても金城くん、白のスーツ(アルマーニ?)が全然似合ってませんでした。
普段の彼なら似合いそうなものなのに。
洋服って、肩を落として自信なさげに着るだけで、あんなに印象が違うものなのですね。
ぼくのバラ色の人生
閑静な住宅地に、一組の家族が引っ越してきた。
広告会社に務めるピエール(ジャン=フィリップ・エコフェ)と妻アンナ(ミシェール・ラロック)、
そして彼らの4人の子供たちだ。
早速、新居の庭でパーティを開き、家族を隣人たちに紹介するピエール。
しかし、末っ子の7歳の少年リュドヴィック(ジョルジュ・デュ・フレネ)は、
姉のスカートをはいた上に化粧をして現れ、集まった人たちをびっくりさせる。
リュドヴィックは女の子になることを夢見て、いつかきっとなれると信じているのだった。
クラスメイトの男の子達がサッカーに夢中になっている中、リュドヴィックは着せ替え人形と遊んでいた。
リュドヴィックをクラスメイトたちは笑ったが、彼にはなぜ自分が笑われているのかが分からない。
そんな彼の行動は周囲の人々からは、とまどいと好奇の目で見られ、やがて拒否されていく。
彼の両親は、それも成長の一過程だと考え、この風変わりな息子を理解しようと努力し、
守り抜こうとしていくが…。
1998年ゴールデングローブ賞・外国語作品賞他、多数の映画賞を受賞した作品です。
面白いのは1997年シアトル・ゲイ&レズビアン映画祭・最優秀作品賞という賞の受賞。
私はこんな映画賞があること自体知りませんでした。
(・・・・というより、知っている人は少ないのでは?)
物語は、自分はいつか女の子になれると信じている男の子と、
その男の子の周りの人々の微妙な胸の内を描いたものです。
世の中には色んな個性を持った人がいるので、
私はリュドヴィックのような気持ちを持った人が居ても全く不思議は無いと思うし、
そういう人を否定するつもりはありません。
むしろ、嫌みがなく純粋な気持ちで女の子になることを願うリュドヴィックには、
観ていて自然に肩入れしていました。
しかし、そんな彼を異常視してしまう周りの人たちの気持ちも分からないでもないし、
そんな想いを持った子供に戸惑う親の気持ちもよく分かります。
最初は優しくリュドヴィックを諭していた母親が、周囲の目に耐えられなくなり、
だんだん精神的に不安定になり、ついにはリュドヴィックを敵視してしまうようになる過程は、
リュドヴィックと母親の気持ちを両方とも理解出来るため、観ていてつらくなりました。
リュドヴィック本人とその家族、そして周囲の人々という3方向からの気持ちを、
偏らずに上手くぶつけ合った、良い作品だったと思います。
レベル4
ニルヴァーナ
2050年のクリスマス3日前。
オコサマ・スター社のゲーム・プログラマー、ジミー(クリスファー・ランバード)は、
クリスマスに合わせて発売が予定されているゲームソフト“ニルヴァーナ”を今だ完成させられずにいた。
煮詰まったジミーは、1年前に失踪した恋人リザ(エマニュエル・セイナー)のビデオレターを繰り返し見ては、
その幻影に囚われていたのだった。
デバック作業の途中、ジミーはゲームのキャラクター、ソロ(ディエゴ・アバタントゥオーノ)が
未知のコンピュータウイルスに感染し、自我に目覚めたことに気付く。
何度となく同じ場面を繰り返し、殺されたと思ったらまた生き返るという自分の運命に気付いたソロは、
「同じことを繰り返すのはたくさんだ、俺を解放してくれ」と、モニターの中からジミーに訴えかける。
このままソフトが何百万枚にもコピーされて発売されてしまえば、
ソロは数え切れないほどの生と死を強いられることとなる。
ソロの気持ちを悟ったジミーは、彼の願いを聞き入れることを決意するが、
“ニルヴァーナ”を抹消するには、会社のホストコンピュータに侵入しなければならない。
しかしそこは“デビル”と呼ばれる強力なハッキング撃退プログラムにしっかりガードされ、
それを打ち破れる人物は“エンジェル”と呼ばれる、ごくわずかな者だけだった。
“エンジェル”が、普通の人間は近寄らない危険地区であるマラケシュに居ると知ったジミーは、単身でそこへ向かう。
そこは、失踪したリザが向かった場所でもあったのだ。
ジミーは“エンジェル”を探しながら、リザの辿った足跡を追って行く。
しかし、クリスマスにゲームの発売を強行したいオコサマ・スター社は、ジミーを監視し、その行く手を阻んでいく。
ゲームのキャラが意志を持ってしまい、キャラを作り上げたプログラマーが
そのキャラを消去しようと奔走する、というプロットがとても面白いと思いました。
自分が作り上げたキャラなら、自分の子供のような感情を抱いてもおかしくないと思いますし、
そのキャラから消去を懇願されれば、何とかしてやろうという気持ちが起きるのは当然でしょう。
しかし、この作品の一番の問題点は、主人公のプログラマーの、そのキャラに対する愛情が伝わってこないところです。
それよりも並行して語られる、1年前に突然失踪した恋人への想いが強すぎて、
彼が何のために危険を冒してまでネットに進入しようとしているのかが分からなくなってしまうのです。
危険地区・マラケシュに足を踏み入れるという初めの行動は、全て恋人リザのためでしょう。
でも、それが“ソロのため”に変わる瞬間が、曖昧になってしまっているのです。
リザの存在は、クライマックスのハッキングシーンに実に効果的に使われているのですが、
結局はそれも彼女への愛情のみが前面に出た形となっています。
ゲームキャラをリザの身代わりとして作った魅力的な女性にして、
そのキャラにもっと感情移入させてリザへの気持ちと張り合わせればもっと面白かったのに・・・・と思いました。
レベル3
この映画にもまたまた怪しげな日本人が登場。
主人公の勤めるゲームソフト会社が日系企業(?)“オコサマ・スター社”(←そのまま発音)というのも笑えます。
キュリー夫妻/その愛と情熱
1884年冬、パリ物理化学学校、ピエール・キュリー(シャルル・ベルリング)の研究室に、
ポーランド出身のマリー・スクロドフスカ(イザベル・ユペール)が助手として加わる事になった。
マリーの奔放な態度にピエールは手を妬くが、やがて彼女の科学的素質を見抜く。
次第にマリーに女性としての魅力にも惹かれ始めたピエールは彼女に求婚し、
二人は結婚して夫婦で研究に没頭し始めた。
一方、名誉を欲する野心家の校長のシュッツ(フィリップ・ノワレ)は、
ピエールとマリーに革命的な研究レポートを提出させ、科学アカデミーで承認させようと画策する。
特別に観たかった訳ではありませんが、中途半端に時間が空いてしまったので、
たまにはお勉強になるようなものを観るのもいいかなという気持ちで、何となく観てしまいました。
世界的な偉人の伝記映画というだけあり、当然のごとく文部省お墨付き作品です。
子供の頃読んだ本のタイトルは確か『キュリー夫人』でしたが、この映画のタイトルは『キュリー夫妻』。
夫人だけにスポットを当てるのではなく、
ラジウムの発見という偉業は夫婦のたゆまない協力によって達成させられた、というように描かれています。
私にはこの映画のどこまでが事実かは分かりませんし、かなりの脚色を施されているとは思いますが、
1本の映画という目で見れば“伝記”という小難しいテーマをコミカルに描いていて、退屈はしませんでした。
フィリップ・ノワレ扮する学長が自分の名声のために夫妻に実験を続けさせたり、
かつての同僚が数々の特許を取って大金持ちになって行く一方で、
夫妻は名声のためでもなく、お金のためでもなく、はたまた人類の明日のためでもなく、
とにかく自分たちの目的を達成するためだけに実験を続けていく
真摯な姿を中心に描いているところが特に良かったと思います。
ただ、肝心の“ラジウム発見”のシーンがよく分からなかったのが残念。
何かやってるうちにふとひらめいて、あっという間に発見しちゃってました。
そこまで頑張って観てたのですが、ちょっと拍子抜けしてしまいました。
レベル3
この作品を観たら、天才の偉業は本人の努力なしには成り立たないのだ、と実感させられずにはいられません。
さすが、文部省推薦。
地球は女で回ってる
ベストセラー作家ハリー・ブロック(ウディ・アレン)のところに、
三番目の妻ジェーンの妹ルーシー(ジュディ・デイヴィス)が怒鳴り込んできた。
彼は自分とルーシーとの不倫をそのまま小説に書いて出版していたのだった。
結婚しても次ぎから次ぎへと浮気を繰り返し、今やその離婚歴は3回を数えていたが、
彼は知り合った女性たちとの関係を、小説上で暴露し続けている。
そして、近ごろでは現実と虚構の区別がつかなくなる現象に見舞われ、
極度のスランプ状態に陥って、筆が進まなくなっていた。
そんな中、母校から表彰されることになったハリーは、息子ヒリーに自分の晴れ姿を見せたい一心で
彼を引き取って育てている二番目の妻ジョーン(カースティ・アレイ)にヒリーの同伴を頼み込むが、
彼女は断固として許可しなかった。
そこで数少ない親友のリチャード(ボブ・バラバン)や別れた恋人のフェイ(エリザベス・シュー)に
同行を頼むが、彼らにも断られるばかり。
その上、フェイからは明日結婚式を挙げることを告げられる。
しかも、相手はハリーが彼女に紹介した冒険家のラリー(ビリー・クリスタル)だった。
フェイを手放した後悔とラリーに対する嫉妬をつのらせたハリーは、
その夜、自宅に呼んだ娼婦のクッキー(ヘイゼル・グッドマン)に表彰式の同伴を頼む。
ウディ・アレンの映画は初めて観ました。
ハリウッドの主役級の俳優たちがたくさん出てるんですね。
この作品でも、エリザベス・シュー、ビリー・クリスタルからデミ・ムーア、ロビン・ウイリアムズまで。
ロビン・ウイリアムズなんて、ハリーが描く小説の中の人物の役だったのですが、
常にピンぼけしているという設定。
それを観てティム・バートンの『マーズ・アタック!』を思い出しましたが、
俳優たちがそんな役柄を楽しんでやっているということは、
今更ながらウディ・アレンという人は、ティム・バートンと同じような
カリスマ性を持った人だということを知り、感心しました。
この作品でウディが演じているハリーという作家は、私に言わせればただの変態ヤローですが、
ウディ自身もかなりの変わり者らしく、あんな風貌でも女性に関してはお盛んで、
少し前に養女と結婚するなどというスキャンダラスな話題を振りまいていたので、
このハリーという作家は、ウディ本人とかなり近い存在なのかもしれません。
まさに“ウディ・アレン・ワールド”って感じで、観ている側がついていくのが大変なくらい彼のやりたい放題、
私にはよく分からない映画でした。
ひとつだけ、この映画を観てふと思ったのは、高く評価されて大ヒットした『恋愛小説家』を
皮肉った作品なのではないかということ。
『恋愛小説家』では、ジャック・ニコルソン演じた主人公メルビンは
私生活と全く逆の甘い小説を書いてヒットを飛ばしていましたからね。
ウディの描くブラック・コメディは、好きな人と嫌いな人がはっきり分かれると思いますが、
正直言って私は全然面白いと思えず、退屈でした。
単に好みの問題ですが、これがウディ・アレンの作風なら、
私は彼の他の作品はもう観なくていいかな、と思いました。
レベル2
映画館を出て地下鉄に乗りこんだ時には、もうラストシーンを忘れていました。