他人に読めない珍名は、DQN(ドキュン)ネームとよばれてきました。DQNとは、不良や暴走族など、あまり知的でない者をさす言葉です。これに対し、それを肯定し、賞賛するという発想から、キラキラネームというよび方も生まれ、今ではこちらが広まっています。
ただどちらもはじめから「けなす」「ほめる」ということを前提にした言葉ですので、そうした先入観をさけるため、本サイトでは「珍しい奇抜な名前」の頭文字をとって、珍奇名前という言葉も使用しています。珍奇名前といっても、範囲は明確に決められず、また誤解されていることも多いので、これは話の整理をすることで自然にわかってきます。
1 珍しい名前は非常識、という誤解
A 愛藍 めであ 紗亜凛 しゃありん 未桃 みんと
礼 ぺこ 大熊猫 ぱんだ 今鹿 なうしか
B 奈織 なおり 莉杏 りあん 美笛 みてき
煌晟 こうせい 萌莉 もえり 雄惺 ゆうせい
上のAグループは過去にTVなどでキラキラネームとして報道された名前です。
Bグループはかつて命名相談で出された候補の名前で、やはり珍しいものですが、誰にも読みやすく、男女もわかり、難点がまったくなく、センスの良さを感じさせます。
このように珍しい名前といっても内容はさまざまで、珍しい名前だからいけない、とは言えないのです。
2 キラキラネームは新しい流れ、という誤解
丸楠(まるくす) 森英児(もりえーる) 柏採(ぺーとる)
弥玲(みれー) 武良温(ぶらうん) 真柄(まーがれっと)
雄雌郎(ゆうしろう) 力王至(かおる) 三角(かずみ)
亜幌(あぽろ) 貝倫(ばいろん) 六十里二(むっそりーに)
美可悦(みかえる) 撒母耳(さむえる) 利茶道(りちゃーど)
毛生(けお) 正面(しめおん) 提多(てとす)
紅玉(るび) 亜歴山(あれきさんどる)
丈夫(ますらお) 真猿(まさる) 全子(またこ)
保羅(ぽーろ) 元素(はじめ) 西海枝(さいかち)
これらは最近のキラキラネームのようにも見えますが、じつは80年以上前につけられた名です。「名乗辞典・荒木良造」「名前の読み方辞典」(いずれも東京堂出版)などにのせられています。名前の良し悪しは別として、こういう名前を作るのに才能や個性はいらず、昔もたくさんあったのです。
かぎられた人とだけ接していた人の多かった時代は、仲間にだけ読み方をおしえておけばいいので、どんな名前でも支障はなかったのです。つまり珍奇名前は、古い名づけのひとつなのです。平成のときにこうした名づけが再びよみがえって、付和雷同的に広まったのです。
ちなみに昭和20年ごろから、昭和60年ごろまでの約40年間は、珍奇名前をつける人がほとんどいなかった時代です。戦中、戦後の動乱を経験した人たちはみな生き方がちがい、ことさら個性を強調する発想はありませんでした。また多くの人が都市に集中したため、読めない名前は社会生活で不便が多く、わかりやすさ、使いやすさを考える都市型の名づけが広がりました。
3 親の知能が低い、という誤解
「キラキラネームは、親がアホだとわかって便利だ」などと言う人もいます。しかし珍奇名前をつけたがる親たちが、知能が低いという事実はありません。あえて足りないものをあげるとしたら、想像力、視野でしょう。
名前は広い社会の中で、いろいろな場面で使われます。厳粛な場で呼ばれることもありますし、名簿で男女がグループ分けされることもあります。意識不明の状態で病院へ搬送でもされたら、読めない名前のために手間取ることが多くなるでしょう。そういうことをいろいろ想像しながらやるのが名づけです。
しかしじっさいは「人に読めるかどうかは気にならない」「男女をまちがえる名がなぜいけないのかわからない」と言われる人も少なくありません。これは知能が低いのではなく、広い社会、さまざまの場面が想像できないということなのです。ただ結果として、あまりに悪ふざけのように見える名前をつけてしまいますと、暴走族の落書きみたいなイメージにつながって、いかにも親の知能が低いように思われやすい、というのは事実でしょう。
4 キラキラネームは個性的、という誤解
珍奇名前を肯定する人たちがもっともよく口にする言葉が「個性」です。個性に良いイメージをもっているからでしょう。ただし珍奇名前と個性は何のつながりもありません。
歴史に名を残した人物などは、個性的な生きざまの裏に、人間としての片寄り、環境への不適応、生活の破たん、周囲からの蔑視など、孤立、孤独がつきまとっている人も多く、個性というのは私たちが軽々しく口にするようなきれいごとではありません。
ただし目の前で他人とのちがいだけを示すなら、衣服、装身具、ブランド品、珍しいペットなど、てっとり早いものはいくらでもあります。もちろんモノを買うことと個性は関係ありませんが、ちょっと人目をひくことはできます。子供に珍奇名前をつけるのもその類のことです。
ただ問題は、衣服や持ち物ならイヤになったら変えられますが、名前は一度つけたら容易に変えられず、自分とは別の人間である無抵抗な子供に一生背負わせるものだ、ということです。
5 名前のふりがなは自由、という誤解
世間では「名前の読み方に関する法律はない」「だからどう読ませてもいいんだ」などという話も流れています。しかしこれはたとえば「歯を磨けという法律は無い」と言うような、有害無益な話です。法律で決めていようがいまいが、「1+1=3」と書いたり、「犬」の字をポチと読んだらまちがいです。
漢字を正しく読むというあたりまえのことは、名づけをする親の良識にまかされていることで、法律に書いていないから良識を捨てていいということではありません。
読み方を審査する役所では、まちがった読み方の名前に対して出生届の書き直しを指示することもありますが、最近はかなりひどい名前を出しても、読み方の審査をせずに受理する役所も多くなっています。そんなわけで「どう読ませても自由なんだ」と鬼の首を取ったように言われることもありますが、役所はそんなことに関わるのも面倒なので、おかしさをこらえて受理しているだけです。どうせ困るのは役所ではなく、つけられる本人ですので…。
法律で縛られないと正しく読める名前がつけられないとしたら、親として情けない姿ではあるのです。
6 名前は本人のもの、という誤解
「名前は本人のもちものだ」という誤解はよくあります。そこから「どうあつかっても自由じゃないか」「本人がこっちの名前に変えた、と思ったら、それが本人の名前のはずじゃないか」といった主張も出てきます。
たしかに名前というのは親が作りますが、戸籍に登録されたら、国が管理する社会の共有物になり、個人の私物ではなくなります。ですから「私の名前を無断で呼ぶな、書くな」とは言えませんし、カッテに変えることもできません。
わかりやすく言えば、みなでポスターを作って公共施設に貼るようなものです。「私が作るのだからどう作ってもいいんだ。人に読めるかどうかなんて余計なお世話だ」と言ったのでは、ポスターの役目を果たさなくなったり、他人に不快感を与えるもの、非常識で社会の迷惑になるものも出てきてしまいます。
私たちは絶海の孤島に住んでいるのではなく、社会の中で多くの人の世話になりながら生きています。名前はその社会で広く、永く使われるものですから、名づけのさいは社会人としての視野、他人に迷惑にならないような気遣いが必要なのです。