書名:1492年のマリア
著者:西垣 通
発行所:講談社
発行年月日:2002/7/5
ページ:321頁
定価:2000円+税
コロンブスがスペイン王にインド航海の援助を要請していたとき、ある若者の航海士、その恋人マリアの物語として世紀の大発見アメリカ大陸の発見に関わる物語を描いている。キリスト教国のスペイン、1492年ユダヤ人を国外退去を強引に推し進めた。コロンブスのアメリカ大陸発見の影に隠れた暗部を描いた作品です。
日々のきづいたことを気ままに書き綴ってみよう
書名:1492年のマリア
著者:西垣 通
発行所:講談社
発行年月日:2002/7/5
ページ:321頁
定価:2000円+税
コロンブスがスペイン王にインド航海の援助を要請していたとき、ある若者の航海士、その恋人マリアの物語として世紀の大発見アメリカ大陸の発見に関わる物語を描いている。キリスト教国のスペイン、1492年ユダヤ人を国外退去を強引に推し進めた。コロンブスのアメリカ大陸発見の影に隠れた暗部を描いた作品です。
書名:人生教習所
著者:垣根 涼介
発行所:中央公論社
発行年月日:2011/9/30
ページ:458頁
定価:1700円+税
世界遺産小笠原諸島を舞台に、「人間再生セミナー 小笠原塾」が開催される。そんな新聞広告を見て応募してきた人生のおちこぼれ人間達が、過ごす2週間を描いた清々しい物語。
何をやってもダメな女性フリーター、引きこもりの東大生、やくざ稼業がいやになって南米に逃亡していた元やくざ、定年退職者の4人を中心に描いている。このセミナーは中間に試験があってそれに合格すると次のセミナーに参加出来る。不合格になると本土に戻される。最終合格者には就職を斡旋してくれる。垣根諒介の作品にはなぜか優しさがある。また強烈な彼の哲学がある。でも表現は何気ない。
「人生の確率」の講義では
(本書より)
「私が思うに、人生の事柄の大多数は確率論で説明ができます。最初に申し上げておきますが、これは良い悪い、という倫理観とはまったく別世界にある事象です。特に、ある事柄に関しての成功する可能性は、ほぼ百パーセント確率論で説明ができます。少なくとも私はそう思っています」
「人生の着地点」の講義では。
(本書より)
「この講義での『認知』とは、簡単に言うとですね」そう言って『心持ち』という言葉を、とんとんとペンの先で示す。「たとえばみなさんが、受験した学校の合格発表を見に行ったとします。行きはもうドキドキですよね。その学校へと至る道には桜並木があり、満開になっていたとします。でも、緊張と不安で心穏やかでないみなさんは、周囲の景色なんかほとんど目に入っていない」 なんだか異常なほどに滑らかな口調だと由香は思う。講談師のようだ。 「さて、みなさんは板に貼り出された合格通知を見ました。合格した人は、その帰り道に桜並木を見ます。満期の桜が、まるで自分を祝福しているように感じます。一方、不合格だった人も、帰り道で桜並木を見ます。満開の桜からほろほろとこぼれ落ちてくる花びら・・・まるで景色全体泣いてるように見えます。同じものを見ているのに、その見る人の心持ちによっては、全然違って見える。これが、すなわちここでいう認知の違いです。
「もうみなさんにはお分かりですよね。今、あなたに見えている世界は、あなた自身なのです。あなたの映し鏡です。ある意味、それは釈尊の仏教本来の教えでもあり、そこからやがて派生してきた禅の精神でもある----。自意識とは、認知とはそういうものです。
というような内容から始まる。今一度自分に問いかけすることから進む。そして小笠原諸島の歴史に移っていく、日本の属領でもなく、アメリカの属領でもないという曖昧な状態から1968年日本に返還された。そのとき子供達は英語で教育を受けていた。正規の日本語は知らない。物は豊富で、生活も豊か、これは米軍のお陰、返還されたとき本土から元住民が戻ってくるとともに、アメリカ人になって移住する人も沢山いた。特にグアムのハイスクールを卒業した人達はアメリカへ。親兄弟がバラバラの国籍になってしまった。生活も貧しくなってきた。今まで知らなかった小笠原の現状を詳しく説明している
。日本とアメリカを小笠原を通して鋭く見つめている。暗くなるような話題も多いが、何処か元気づけてくれるストーリー展開です。
書名:歴史のある文明歴史のない文明
著者:岡田 英弘他
発行所:筑摩書房
発行年月日:1992/1/25
ページ:312頁
定価:2816円+税
日本文化会議が1990年秋に開催したセミナー、「文化としての歴史―歴史のある文明・歴史のない文明」の基調報告(岡田・山内・川田・樺山)と討論を収録した本です。
歴史とは何か?考えてみるとなかなか難しい問題です。時間と空間を把握しながら頭の中で考えたこと。したがって歴史を書く人の主観が入る。真実の歴史とか事実だと幻覚を抱いてはいけない。国の歴史は政治的であるし、イデオロギー的でもある。歴史と歴史がぶつかった時には妥協点は見つからない。日本の歴史と韓国の歴史に共通認識ということはあり得ない。不毛の議論がいつまでも続くだけ。
歴史のある文明と歴史のない文明というテーマを岡田氏が基調講演で述べて、対談した内容が纏めてあります。ここでも判りますが岡田氏には反対、反論する人が多いし、辛口です。でも本論のところでまともに議論できる人はいないように思った。重箱の隅つつきを終始しているように感じた。岡田史学の考えかたが遺憾なく表現されている名著だと思います。 私たちはどこから来たのか?今どこにいるのか?そして…。
本書より
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歴史という文化は、地中海世界と中国世界だけに、それぞれ独立に発生したものである。本来、歴史のある文明は、地中海文明と中国文明だけである。それ以外の文明に歴史がある場合は、歴史のある文明から分かれて独立した文明の場合か、すでに歴史のある文明に対抗する歴史のない文明が、歴史のある文明から歴史文化を借用した場合だけである。
たとえば日本文明には、668年の建国の当初から立派な歴史があるが、これは歴史のある中国文明から分かれて独立したものだからである。またチベット文明は、歴史のないインド文明から分かれたにもかかわらず、建国の王ソンツェンガンポの治世の635年からあとの毎年の事件を記録した『編年紀』が残っており、立派に歴史がある。これはチベットが、唐帝国の対抗文明であり、唐帝国が歴史のある中国文明だったからである。
イスラム文明には、最初から歴史という文化要素があるけれども、これは本当はおかしい。アッラーが唯一の全知全能の神で、宇宙の間のあらゆる出来事はアッラーのはかり知れない意志だけによって決定されるとすれば、一つ一つの事件はすべて単独の偶発であり、事件と事件の間の関連を論理によってたどろうなどというのは、アッラーを恐れざる不敬の企てだ、ということになって、歴史の叙述そのものが成り立たなくなってしまう。
(中略)
しかし、もっと大きな理由は、イスラム文明が、歴史のある地中海文明の対抗文明として、ローマ帝国のすぐ隣りに発生したことである。地中海文明の宗教の一つであるユダヤ教は、ムハンマドの生まれた6世紀の時代のアラビア半島にも広がっていた。ムハンマド自身もその影響を受けて、最初はユダヤ教の聖地であるイェルサレムの神殿址に向かって毎日の礼拝を行っていた。
中国の皇帝の歴史は、いかにも完備したもののように見えるが、実は核心に触れる部分がすっぱり欠落している。正史の窮極の資料である「実録」は、中央政府の公的な最高機関から皇帝に提出されて決裁を受けた文書に基づいて編纂されるものである。しかし皇帝の生活には私的な面もあり、実質的な決定手続ではそちらの方が重要であることが多い。例えば軍事は国家の最高機密であって、表の政府機関を通さずに決定される部分があるが、こういうことは記録に残らず、従って正史には記載されない。
中華人民共和国において中央軍事委員会が最高の権力機構であるのを見ても明らかな通り、皇帝の権力の真の基礎は常に軍隊であったが、完了が編纂する正史はそのことを無視し、あたかも官僚機構だけが皇帝制度を支えてきたかの如き叙述をする。これは実際の権力者である軍人が文字に縁がなく、自分の立場を表明する機会がないのと、正史は文人官僚が理想とする、世界のあるべき姿を叙述するものだからである。
歴史は基本的に、あるべき姿の叙述である。何が真実で、何が虚偽かの判断の基準は、どんな文明でも、そう信じたいという好み、趣味である。そのため複数の文明圏に跨った事件の叙述、解釈は、一致するほうが珍しくて食い違うほうが普通である。異民族の歴史についての中国人の記録が信頼出来ないのも、中国人の好みが独特のものであるためである。
中国文明における歴史とは、そのようなものである。もう一つの歴史のある文明である地中海文明での歴史とは、根本的に違う性格のものである。黄帝以来の正統の皇帝の歴史と、ローマ帝国を基準にして古代、中世、近代を区分する歴史とは、二つの異質の世界観に基づいた文化であって、本来異質の文化に属する記録を単純に混合しても、統一した世界史には成り得ない。東西文化の比較は、先ずこの根本的な違いの認識から始めなければなるまい。
書名:仇花(あだばな)
著者:諸田 玲子
発行所:光文社
発行年月日:2003/10/25
ページ:392頁
定価:1700円+税
この作品は、徳川家康の最後の側室「お六」生涯を描いた作品。史実は寛永2(1626)年、日光御宮に参詣して、神前で頓死したともいわれ、「家康御他界後も俗塵を離れず」にいたとも言われるが、詳細は、諸説があって不明。江戸と駿府を舞台にお六と家康、その他の側室達との出来事。お六を家康に紹介した側室の「お勝」の生き様の違いが面白い。
「お六」を上昇志向の強い野心家で出世主義、実家と兄を出世させようと。しかし、その野心ゆえに様々なものを失っていく女性として描く。欲がなければ人間、死んだも同然ではないか。恋も財も地位も、すべてを欲しがった女。江戸時代の初期と幕末の二つの出来事を書き分け(登場人物名も同じ)ながら物語は進行する。(でも何故幕末が出てくるのか?出世も野心家でもないお六、庶民の一人として家族と暮らす。平々凡々の中に本当に幸せがあるということを暗に言っているように思う)
本書より
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「お勝にはお六の飢えた心が理解できた。あの、失意と怨みと野望がうずまく長屋、生き延びよう這い上がろうと目をぎらつかせる残党(北条家の残党)の群れの中で生まれ育ったのだ。母の優しい胸もなければ、満ち足りた食糧、十分に寒さをしのぐ着物もない。お六が富や力を自らの手でもぎとろうとするのは生い立ちのせいだろう。その姿が痛々しく思えたからこそ、家康の歓心をお六に向け、お六が這い上がる後押しをしてやったのである。」
書名:原発ゼロ
著者:小出 裕章
発行所:幻冬舎
発行年月日:2014/2/20
ページ:270頁
定価:900円+税
原発事故から3年、「この事故は無かったことにしよう」という空気を危惧したとして本書を書いたとのこと。国を挙げて取り組むべきはオリンピックよりも被害者救済と放射能汚染対策。40年以上一貫して原子力反対を訴え続けてきた著者が今、もっとも伝えたいこと。原発を廃絶させるまで、私は闘いたいと本書に書いている。今までのことともに今後について書いている。
2012年9月まで毎日のように種蒔きジャーナルでコメンテーターとして電話で出演、その後小出裕章ジャーナルで1週間に一回、福島第一原発事故、放射能汚染、などについて他の評論家などとは全く違った学問の裏打ちのある納得いく解説で原子力発電の原理(熱発生装置2/3は熱で排出、水暖め装置)、地下水汚染(地下ダムが必要と)、タンカーを持ってきて汚染水を柏崎刈羽原子力発電所に輸送して汚染処理を行え。など今になっても全くコントロールの出来ていない状態を予想して提案していたが、誰も動かなかった(一部国会議員は動こうとしたが)。
福島の風評被害ということが強調されているが、「1kg当たり100ベクレル以下だから大丈夫」という欺瞞、事故前は0.01ベクレル以下だったということを忘れている。100ベクレルは以前に比べて1000倍の値です。日本全国汚染されてしまった。福島だけでなく、周辺の県、東京都内も放射線管理区域に指定しないといけないところが残っている。「除染で元の場所に戻れる」という幻想を与えていてはいけない。戻れないことをハッキリと言うべき。
除染で出てきた核廃棄物、原発の廃棄物の処分は発生したところで処理するのが一番良い。具体的には福島第二発電所内に永久貯蔵施設を作って、今後監視しながら見守り続けることしか手がない。
廃炉にしても何年かかるか判らない。使用済み核燃料の取り出し(これもかなり難しいが)、メルトダウンした核燃料の取り出し(これは出来ない)と石棺で閉じ込める方法しかないのではないか。凍土壁による地下水の遮断は電気が切れたら地下水が漏れるという危ない方法、これで何万年も続けることが出来るとは思えない。
この事故は人類が経験したことがない大事故、未だに20万人を超える人が元の家に帰れない。戦争で領地を奪われたときと同じでは。メディアが伝えない事故3年を振り返るのに良い本だと思う。科学者の前に人格者であれ、出世と金ばかり、競争に勝てばかりの人とは全く違った著者の落ち着いて冷静な言葉は一つ一つに重みがある。世間に諂わないで本当のことを自分の知る範囲のことを真剣に語っている。
この大事故あったにも関わらず、責任を感じることもない、果たすこともない。どんどんと脳天気になってきて、事故処理より経済だ、お金儲けだ。お金第一主義が蔓延ってきた。政府が責任を持って汚染水問題、除染、復興を行うとウソをついて東京オリンピックの誘致に成功した。でも政府が責任とは詰まるところ国民の税金を使うということ。東電の責任は問わないこと。と宣言してしまった。これについてマスコミは殆ど黙り。七つの社会的罪と照らし合わせて今を鳥瞰すると見えてくるものが多いと思う。太平洋戦争後と同じ、国民は被害者、責任を取る人もいなかった。戦争を反対した人もいなかった。(いやな世の中だな、戦争なんてやりたくないのにと言う気持ちだけはみんな持っていた。でも戦争をやってしまった)原発なんていやだな?安全?なんて思っていた人はいただろう。
しかし政府、電力業界、原子力マフィアはどんどん推進してきた。それに思ってだった反対する人はごく一部だった。そして福島第一の事故。ここで反原発の声を上げた人もいた(空気につられて)が、マスコミが原発がないと電力が足りない。経済が回っていかないと言われただけで、一時の空気は変わってきている。面だって福島第一のこと。放射能のことを言うことが出来なくなってきた。これは大衆心理学の題材としてとても面白いと思う。第三者の立場にたって世論を眺めてみるのも面白いかもしれない。
本書より
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原爆の投下の知らせを受けたアインシュタインは「もし生まれ変わることが出来るなら、自分は科学者にはならない」と言って嘆いたと言います。
七つの社会的罪(マハトマ・ガンジーの遺訓
・理念なき政治
・労働なき富
・良心なき快楽
・人格なき知識
・道徳なき商業
・人間性なき科学
・献身なき崇拝
「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」
レイモンド・チャンドラー「プレイバックより」
「一人殺せば悪党だが、百万人殺せば英雄だ」殺人狂時代チャップリン
書名:コズミック・マインド
著者:西垣 通
発行所:岩波書店
発行年月日:2009/2/10
ページ:222頁
定価:2200円+税
西垣通といえばIT社会論、ネットワーク関連する著作などで知られる学者。その著者の小説それも岩波書店からの発行。
団塊世代のSE朽木庸三はシステム会社から銀行に派遣されているSE。若い頃から銀行のオンラインシステムに携わり、数々のこんなシステムの構築に手腕を発揮していた。晩年銀行が合併するということになり両行のシステムを統合という巨大なプロジェクトとのリーダーとして期待されていた。ところが何故かリストラに遭ってしまう。何故?と考えながら新しい職場で過ごす。
そんなとき、設計仕様書にも残っていないプログラムがあって、その解読は後任者達では手に負えないソースコードが出てきた。これは隠し口座の処理プログラム。銀行内部でも殆ど知られていない隠し口座からランダムに手数料を徴集する処理(勿論法的にも問題がある)。この処理を考えたときに朽木庸三は設計仕様書を作成して提出したが、結果的には採用されず、ボツになったことがあった。
ソースコード入手して苦戦しながら解読した朽木は誰がこのプログラムを書いたか?その謎解きに挑む。小説としてはあまり良い出来ではないが、楽しめる作品だ。2007年問題(その頃団塊世代が定年になって過去の巨大システムに精通した人たちが退職する)を扱った作品です。
書名:壬申の乱を読み解く
著者:早川 万年
発行所:吉川弘文館
発行年月日:2009/12/1
ページ:194頁
定価:1700円+税
乙巳の変(大化の改新)で中大兄皇子が蘇我入鹿を討ったのが645年、百済が滅亡したのが660年、白村江の戦いが663年、天智天皇即位(中大兄皇子)668年、同じ年に高句麗が滅亡した。という東アジア情勢の緊迫した時代(朝鮮半島からの完全撤退、新羅の台頭、日本絶滅の危機)。672年壬申の乱が起こる。古代日本を大きく揺るがした皇位継承争いが壬申の乱と呼ばれている。その後50年たって書かれた「日本書紀」の壬申記が伝える壬申の乱とは?
その謎に迫る本です。歴代の壬申の乱の研究などを紹介しながら、判りやすく説明しています。特に大海人皇子、大友皇子の後継者争い。天智天皇(当時は大王と呼ばれている)が崩御に先立って、皇位継承の意志がないと吉野に引きこもった大海人皇子が、何故吉野を抜け出して、美濃、尾張(畿内からは東国端)から兵を集めて大友皇子と戦いに至った。そして美濃、尾張は当時大和朝廷にとってどんな位置を占めていたのか?吉野から2日で桑名に着いたときには2万人の兵士が集まったと。
日本書紀は勝者の書いた歴史書、そこには勝者に有利な内容、正統性を主張する偏った思想に彩られている。その中から公正な事実を探る。これが歴史を理解する醍醐味、そう言った意味でこの本はなかなか面白い。日本書紀に書かれたこと、書かれなかったことそんな事実を推理していく楽しさがある。
書名:家康はなぜ江戸を選んだか
著者:岡野 友彦
発行所:教育出版
発行年月日:1999/9/2
ページ:185頁
定価:1500円+税
現代東京に首都機能が集中してしまった。少しの事では遷都、移転もままならない。その原点は「家康はなぜ江戸を選んだか」ということ。この疑問を解明する。そんな本です。秀吉に無理矢理江戸の地に追いやられた。中世の江戸は寒漁村と言われていた。芦の繁る何にもないところ、そこを家康が苦労して開発した江戸というのは従来からの説。でもそれに疑問を投げかける。11章に渡って詳細に分析している。
その中には江戸の昔は太田道灌の城、それ以前のことは誰も触れなかった。でも著者は東山道、東海道と言われた律令時代の武蔵国、上野国、下野国、上総国、下総国、常陸国、に注目して古代の府中をどう人が行き来していたか?物流はどうだったか?などを検討して、武蔵国の府中の出港として品川港が機能していたと言う。伊勢の国から太平洋沿岸を船でやって来た人々は品川に、そして日比谷の港、浅草港、その後古利根川、常陸川を上って上野国、下野国、常陸国と交易を行っていた。
頼朝が首都としては狭い地形の悪い鎌倉に何故幕府を開かざるを得なかったか?著者は北関東と南関東は昔から敵対していて、古利根川が境界線になっていた。頼朝が石橋山の戦いで敗れて、上総に逃れ、上総氏に助けられたにも関わらず、後には殺してしまう。あまり信用していなかった証拠だという。
鎌倉、室町時代、そして後北条の時代になってはじめて北関東、南関東を支配する勢力北条氏の登場によってようやく江戸は関東の中心としても可笑しくない状態になった。それまでは南関東と北関東の境界線の位置にあった。その頃家康が江戸に幕府を開いた。したがって何にもなかった訳ではなく南関東の拠点として古くから機能していた。という。
ところで江戸という地名の由来は?著者は「日比谷の入り江」の江と、港を示す戸(津)、を挙げる。最初、江戸といわれた場所は狭い狭い地域を指していた。
徳川氏は何故松平氏から改姓したのか?藤原氏と言っていたのにいつからか源氏になっている。江戸時代を通じて「伊勢屋」が多くあるのか?伊勢商人が大挙して江戸に来たのは何故、熊野の鈴木氏が江戸に多いのは何故?など中世東国の水運はどうしていたか?水運による流通を調べることで掲題の謎解きに迫る。なかなか面白い本です。一気に読んでしまった。
書名:養安先生、呼ばれ
著者:西木 正明
発行所:恒文社21
発行年月日:2003/10/15
ページ:486頁
定価:2200円+税
久保田藩(秋田)の経営する銀山で幕末、日本の銀の6割を産出した院内銀山、その銀山で医師であり銀山の経営者の一端を担い、宿屋を営んでいた門屋養安が主人公。この人は35年に渡り、銀山の経営、技術、物資の流通、病気と治療、祭礼、行事、芸能、飢饉、幕末の大政奉還、官軍との戦いなどを克明な日記として残していた。この「門屋養安日記」から題材をとって読み物風に綴ったのが本書です。
文人にして趣味人、その上酒好きの風流人の養安、人に頼まれていやと言えない人の良い性格。養安がのびのびとこの物語の中を闊歩している。楽しい本です。
長崎の出島経由で伝搬した種痘より30年も早く、ロシア経由で函館、久保田藩で養安なども参加して普及に力を入れていた。江戸時代酒田港を通じて諸外国の新しい物品、技術、情報が秋田の地にも伝わっていた。太平洋側よりも進んでいた。また銀山の景気が良かったので裕福な生活をしていたことが伝わってくる。
書名:歴史とは何か 岡田英弘著作集Ⅰ
著者:岡田 英弘
発行所:藤原書店
発行年月日:2013/6/30
ページ:430頁
定価:3800円+税
「歴史とは何か」と改めて問われると意外と難しい。岡田史学と呼ばれ学会からは完全に無視されてきた著者が生涯の著作を全集8冊に纏めて刊行された本の第一回配本された本です。著者はモンゴル語をはじめ朝鮮語、チベット語など14カ国語に通じている。シナの研究に漢字圏以外の資料にあたっているので、今まで公になっていなかったことが一杯盛り込まれている。
世界の文明には歴史を持った文明、歴史を持たなかった文明がある。メソポタミアからギリシャ・ローマ・ヨーロッパに発生した文明は歴史を持っている。またシナの文明も歴史を持っている。世界ではこの2つの文明だけが歴史を持っている。その文明に隣接している地域が対抗上歴史を持たざるを得なくなって持っている。
インド文明、アステカ文明などは歴史をもっていない。またアメリカ、ロシアも歴史を持っていない。世界で歴史を持っている文明は珍しいものだという認識をしないといけない。また文明は進化するということを言い出したのはダーウィンの進化論時代からで、そもそも世の中どんどん進むということはなく、退化する。現状維持することも充分考えられる。
著者は「歴史は文学である」。したがって「歴史家はみな文学者でなければならない。歴史を書くと言うことは創作活動なのである」また「歴史は過去に起こった事柄の記録ではない。歴史というのは世界を説明する仕方なのである」歴史には「いま」と「むかし」しかない。という。
シナの歴史は司馬遷の「史記」によってひな形が出来た。これは現王朝が一番理想的な王朝で、その王朝の正当性を記述するという政治的な意図を持った歴史の記述の仕方。これが朝鮮、日本にも伝搬されている。また世界史という観点は全然入っていない。シナが世界と考えている。天から指名されたから皇帝となる資格がある。徳を失った皇帝は滅ぼして、徳があれば皇帝についても良い。という思想。
また世界最初の歴史「ヒストリアイ」ヘロドトスはペルシャ軍に攻められて、それを撃退したギリシャ軍の戦争が書かれている。ヒストリーの語源ともなった歴史。(ヒストリアイは研究調査ということを指す)これには黒海周辺のギリシャとアジアの海峡はさんだ世界の話。ギリシャから見たアジアというのはこの海峡より西側のこと。ギリシャからみたアジアは蔑視する対象として書かれている。白人優先の後の植民地主義に繋がる思想が含まれている。
世界にはこの2系統の歴史しかないと言える。著者は世界史というのは
「1206年の春、モンゴル部族のテムジンという首領が最高指導者選挙で『チンギス・ハーン』と名乗った。これがモンゴル帝国の建国であり、また、世界史誕生の瞬間でもあった」。とモンゴルがシナをはじめユーラシア大陸を勢力下にしたとき初めてアジア、ヨーロッパが繋がった。そのとき初めて世界史が始まったと言っている。それまではシナ、朝鮮、チベット、アフガニンスタン、ロシア、東ローマ帝国などはそれぞれが別々に活動していた。自分の地域だけしか考えられなかった。
今までの世界史の見方とは全然違って新鮮だ。現在中国と呼ばれている地域もじっくり見ていくと漢人が支配していたのはほんの少しの期間で、その後はモンゴル族(元)、満州族(清)など異民族に支配されている中4000年の歴史というのも眉唾もの。最後は中国共産党の支配する国90年ほどの歴史。断絶した歴史があっただけ。特に日清戦争以降シナも日本に留学生を沢山送って、日本と同じように西欧化を行おうとした。民族、自由、国家、国民などの漢字は日本語(明治時代西欧の言葉を日本人が漢字を作った)元々漢語にはなかった言葉が中国にも普及している。
ヨーロッパ系統の歴史とシナ系統の歴史、そして各国々にある歴史を統合するということは非常に難しいこと。今、西洋史と言われているのはヨーロッパ系統から見た歴史であり、シナ系統の歴史とはいろいろな場面で矛盾だらけである。また日本の歴史、韓国の歴史、中国の歴史など真の歴史というものは存在しない。今、歴史認識を同じになどと騒がれているが、歴史は物語、政治的意図をもったものと考えればいつまで立っても統一した見解など出てくるわけがない。
歴史は実証科学のように、証拠を出して証明することは非常に難しいもの、歴史的資料などには必ず人の主観が入っているもの。無辜の第三者が公正な視点で資料を作っているわけではないので、推理小説と同じように、ある意味曖昧な資料を基に誰でも納得できそうなストーリー(因果律)を作っていく作業。そこには良い、悪い、価値判断を含めてはいけない。現在の価値判断で過去の歴史を判断してはいけない。(これは当たり前のことですが、これが出来ない人が多すぎる。歴史には良いも悪いもない。
日本から見た世界史を提案している。これから刊行される本が楽しみです。この本を読むと歴史観が全く違ってくる。是非手にとって見たい本です。でも横浜市の図書館には1冊しかない(それも中央図書館に)。百田尚樹の「海賊と呼ばれた男」の80冊とはえらい違い。
国民国家というのはフランス革命後に出てきた概念、ナポレオンが国民(君主がお金を払って軍隊を作ったのとは違って)を徴集するだけで大勢の人を集めて戦に勝っていくことを見て、国家、国民というのは良いものだと各国が考えた。戦争のために国家が出来た。そして国境も。
日本史は面白かったが、世界史は嫌いという人も多かったのではないかと思うけれどこの本を読むと世界史というのも面白いと思う。岡田史学から見た歴史から世界を眺め直すと歴史を持った文明の強みが見えてくる。この余裕が歴史持たないアメリカ、ロシアにないところ。アメリカスタンダードというのは普遍的なものではなく特異なものだということが判ってくる。民主主義、共産主義も。自分の視点を大きく広くしてくれる。イデオロギー、思い込みに偏らずに素直に読むとよく見えてくると思います。歴史はともすると、思い込みが大きいので、まず冷静に素直にが必要では。良否の判断はしない。道徳は考えない。学会の学者、専門家と呼ばれる方々にじっくり読んで欲しい本だと思います。
東京新聞:『岡田英弘著作集I 歴史とは何か』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/jicho/list/CK2013122402000207.html
【書評】『岡田英弘著作集1 歴史とは何か』岡田英弘著
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130825/bks13082508380005-n1.htm