書名:人物破壊 誰が小沢一郎を殺すのか?
著者:カレル・ヴァン・ウォルフレン
訳者:井上 実
発行所:角川書店
発行年月日:2012/3/25
ページ:234頁
定価:629円+税
ウォルフレン氏は「省庁の高級官僚と、ビジネス界やメディア界の幹部からなる日本の政治エリートは、アメリカ政府が日本の超法規的で非公式な権力システムの存続を支援してくれる見返りに、日本を引き続きアメリカに隷属させようとしている。」と指摘している。この本は小沢一郎を例に「ひとりの人間の世評を貶めようとするキャンペーンが、これほど長期にわたって延々と繰り広げられてきた例はほかにない」とその背後にある日本の構造を詳細に分析している。
検察は完全無欠でないといけない。逮捕して起訴すれば有罪でなければいけない。有罪率99%以上、起訴する以上は犯罪のストーリー、証拠、論拠を必死になってかき集めてくる。最近ようやく検察の実態が明らかになってきています。一時、証券会社の損失補填問題がスキャンダルで大騒ぎされたことがあったが、実は金融当局が大口顧客への損失補填は陰で認めていた。しかし株価暴落で損失補填をすると証券会社が倒産することになったので、損失補填が悪いことのように騒いで、証券会社の社長が記者会見で批判を浴びてひたすら謝っている姿を映し出していた。これも金融当局と証券会社の臭い芝居だった。日本でマスコミが騒ぐスキャンダルは法律的に論理的にあったものではなく。気分で決まってしまっている。
小沢一郎の裁判に置いて無罪判決が出ても新聞各社は、無罪であっても国会で説明責任があるとか、新たな裁判制度まで利用して、攻撃をやめようとはしなかった。そんな内幕を鋭くついている。かつての田中角栄、江副浩正などのスキャンダルについても同じ事がいえる。この原形は明治時代の山県有朋が官僚の局長などの人事を選挙で選ばれた国会に権限を持たせなかったこと。総理大臣に官僚の人事事件はない。検察も。平沼騏一郎もそれをいっそう顕著にする役割をになった。と。戦後民主化されたという幻想だけで、明治の亡霊がまだまだ生きているそんな感じがした。解説を榊原英資が書いているが、本書を全然読んでいない、読んでいたとしてもピントが合っていない感じのことを書いている。
地球温暖化の犯人CO2、ゴミ問題(ダイオキシン)、病的なまでのタバコ問題などなどのスキャンダルは裏に画策者なき陰謀が渦巻いていることを理解して見ないと誤った情報に右往左往させられる。
本書より
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人物破壊とは
「人物破壊(character assassination)」という表現をたびたび使ってきたが、これは具体的にはなにを意味しているのだろうか? 実は、ヨーロッパ諸国やアメリカではよく使われる表現である。読者はすでにおわかりだろうが、標的とする人物を実際に殺さないまでも、その世間での評判や人物像を破壊しようとする行為を指す。
これは相手がライバルだから、自分にとって厄介な人物だから、あるいは単に敵だからという理由で、狙いを定めた人物の世評を貶める、不快で野蛮なやり方である。人殺しは凶悪犯罪であるが、人物像の破壊もまた、標的とされる人物が命を落とすことはなくとも、その人間を世間から永久に抹殺するという点では人殺しと変わらない、いわば殺人の代用方式である。
日本の法律
日本の法律には、検察がみずから達成しようとする目標に合わせてできるだけ自由に解釈できるような、意図的に曖昧な表現が使われている。この事実がとりわけ重みを増すのは、政治資金規正法に違反したとして、政治家が検察によって捜査された場合だ。法律の条文が意図的に曖昧に記されているからこそ、野心的な政治家のふるまいをそれに結びつけ、なんらかの違反行為があったと検察は主張することができるからだ。
画策者なき陰謀
この画策者なき陰謀は、どんなときに生み出されるのか?人間の管理下にあるべき行動や人間関係などが、そのような管理下をかいくぐる際、それは発生する。そしてそれは管理下を離れ、「独り歩きをはじめる」。たとえばアメリカの軍需産業に軍隊、また政府が加わって形成される軍産複合体は、画策者なき陰謀が巨大化した一例である。この軍産複合体が独り歩きをし、自己増殖しているために、アメリカの権力者たちは、自衛を目的としない戦争まで推進しなければならないのである。そして、避けようと思えばたやすく回避できるはずの、政治的な紛争をあおり立てているのである。アメリカ大統領、あるいはペンタゴン(国防総省)の最高司令官の力をもってしても、もはや軍産複合体を抑えることはできない。
そして体制の現状維持を危うくする存在であると睨んだ人物に対して、その政治生命を抹殺しようと、日本の検察と大新聞が徒党を組んで展開するキャンペーンもまた、画策者なき陰謀にほかならない。検察や編集者たちがそれにかかわるのは、日本の秩序を維持することこそがみずからの使命だと固く信じているからである。そして政治秩序の維持とは旧来の方式を守ることにほかならない。そんな彼らにとって、従来のやり方、慣習を変えようとすることはなんであれ許しがたい行為なのである。