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8月27日(木) 『あたまの漂流』
『あたまの漂流』中野美代子(岩波書店/03.6) 
 最近、どうされているのかと思っていたが、著者の変わらぬ御健在ぶりを本書で窺えて何より。中野先生には、大学の教養の中国文学の講義を受けたことがある。というよりも、当時できたばかりの推理研の顧問をお願いしていた。もっとも、顧問というのも、ほとんど名義上の話だけだったが、一度、メンバーと居酒屋で歓談させていただいたのは、良き思い出となっている。当時は、まだ助教授であられたか。万巻の書を渉猟して、驚異という果実を持ち帰る書き手として、仏文の澁澤、独文の種村に並べて、中文の中野、と勝手に呼んでいたりしたものだ。中国文学の試験で夢野久作の話を書いて、パスさせてもらったこともある。(可だったが)略歴によれば、96年に大学を退官されているらしい。
 本書は、朝日新聞社のPR誌『一冊の本』に連載された肩の凝らない長編エッセイだが、その書物の渉猟の広さ深さ、博覧強記ぶりには改めて驚嘆させられる。久生十蘭の短編「藤九郎の島」から筆を起こし、『ロビンソン・クルーソー』とその基になった史実、大航海時代の記録によくみられる孤島への置き去り(マルーン)のモチーフ、18世紀パリに連れて行かれた中国人、12世紀アラビアの孤島哲学小説、シュヴァルの理想宮等のアウトサイダーアート、清朝の壮麗な西洋建築、間宮海峡を発見したラ・ペールの航海、20世紀末に発見されたという中世の中国旅行記の偽書騒動・・話題は汲めどつきぬ泉のように沸き出す。地理的にも、伊豆諸島、南米の群島、南太平洋の島々、南シナ海、タタールの砂漠、アフガニスタン、チベット、タクラマカンの砂漠・・書物と実際の旅の経験が織り交ぜられながら異境の地への憧れを誘う。時空を越えた著者の「漂流」につき合うことの心地よさ。
 一見すると、途方もない好奇心の赴くままに綴られたような本書だが、一貫して流れているモチーフがあるのは見逃せない。航海、民族誌(エスノロジー)、植民化といった西洋と東洋の干渉・衝突のユニークなケーススタディにもなっているのだ。とりわけ著者が関心を抱くのは、西洋が東洋に寄せるまなざし−エキゾティズムであり、豊富な引例をもって吟味され、時に解体されるエキゾティズムの諸相は、著者の独擅場ともいえるものだろう。これまで、時局的な発言を避けてきたという著者が、連載中に起きた同時多発テロ事件やイラク戦争に触発され、歴史的な観点から、この現代の西洋・東洋の相克について発言しているのも、漂流という自由なスタイルなればこそか。「次なる漂流の旅のしたくをしよう」と書かれている著者の漂流が末永く続かれんことを。



8月26日(火) リスト更新
・同期の送別会。転勤が決まったT氏がなにげなく、「先週、籍入れたんだ」と。一同ひっくりかえる。まさしく、巨星墜つ。
・中公新書ラクレから出た 長薗安浩『きょうも命日』.。「『ダ・ヴィンチ』創刊編集長が各界著名人の死を見つめ、綴った珠玉のエッセイ」とのことだが、7月28日の項は、山田風太郎で5頁ほど割かれている。「読書案内50冊」には、『人間臨終図鑑』が掲載。「365日著名人命日カレンダー」付き。
・エッセイ等リスト、シンタビュー等リスト更新。アーネストさんが国会図書館、中央図書館、八重洲ブックセンターと足で稼いだ情報です。ありがとうこざいます〜。最初期の貴重なインタビュー2本の発掘に、「銭ほうずきの唄」(『角田喜久雄氏華甲記念文集』所収)と−「銭酸漿の唄」(「小説歴史街道」94.6)、「善玉・悪玉」という同題のエッセイがいずれも別物であると確認。『角田喜久雄氏華甲記念文集』の編集委員に山風が加わっている等等貴重な情報を寄せていただきました。「今後も引き続き、調査を続行するので、第3弾をお楽しみに」とのこと。ありがたや〜。



8月25日(月) 『あすなひろし作品選集2』
・年に数回のおつとめで、研修講師として4時間喋る。年々息切れがひどくなるのをまたも実感す。教壇に立ってみる機会を得て初めてわかるのだが、寝てる人はすごく目立つんだよなあ。罪深き学生時代を反省したり。
・これまた旧聞に属するが、5月に出た、あすなひろし追悼公式サイト編『あすなひろし作品選集2』の話。この選集には、少女漫画編(1)として、初期(64〜65)の少女漫画3編が収められている。
 「白い霧の物語」は、鬼女伝説に材をとった悲恋歴史ロマン。当時としては抜きんでていたと思われる構図の独創、丁寧かつ流麗なタッチには眼を瞠らされる。「ビビディバビデ・ブー」ニューヨークを舞台にした軽妙なノリのロマンチック・コメディー。ウェルメイドプレイの趣。「雪の花びら」は、イギリスが舞台の純愛物。若き日の恋の燃焼と別離の予感。短い作品ながら、語られなかった歳月の重さが、美しい結末をより印象深いものにしている。みなもと太郎の作品解説では、同作での「絵の使い廻し」の技法に突っ込んだ分析をしている。使い廻すのに、これだけの手間をかけるとは。作品の創造に魂を傾ける作者の熱情が伝わってくるようだ。
 あすなひろし追悼公式サイトからのメールによれば「作品選集3」もまもなく発送されてくるそうで、こちらも楽しみ。8月31日(日)に開催されるCOMITIA65の「みにゃもと&あすなサイト」でも販売される模様。ご関心のある向きは、同サイトを参照してください。



8月24日(日) 『日米架空戦記集成』
・伯父の告別式。ついこの前に行った里塚の火葬場に再び。友引明けのせいか、バスラッシュで、入場するのに相当待たされる。葬儀屋が「普通の人は1時間半くらいなんですが、故人は体重があるので焼き上がるので2時間くらいかかります」と。焼き上がるのにとは、いわなかったか。遺骨を箸でつまむ。骨になってしまえば、人は皆同じ。どんよりとした曇り空。葬送の夏が逝く。
・長山靖生編『日米架空戦記集成』(中公文庫)既に旧聞だが、本屋でみかけたときは、同時発売の海野十三『赤道南下』とともに、びっくりさせられた。まずは、探偵作家パートのみ読む。海野十三「防空小説 空行かば」米軍の東京来襲に、還ってきた空のヒーローが挑む。昭和8年の作だが、楽天的かつユーモラス。横溝正史「現代小説 慰問文」ストーリーテリングは抜群だが、銃後の民を鼓舞する戦争協力小説で、読後感はやや複雑。大阪圭吉「空中の散歩舎」防諜探偵物。繰り返されるデパートの気球逃走事件の謎とは。人を惹きつける発端、意外な解決と圭吉タッチの片鱗が垣間見れる佳作でびっくり。オチも決まってます。三橋一夫「帰郷」戦士の帰郷を描いた掌編だが、こりゃ驚いた。アンソロジーのラストに入っているという相乗効果もあり。しかし、戦時中だというのに、この作家はなにを考えていたんだろう。



8月21日(木)
・昨日、父の四十九日が無事終わったと思ったら、先週病院に運びこのれた伯父(父の兄)の訃報。驚くしかない。
・エッセイ等リスト、インタヴュー等リスト更新。



8月17日(日)
・道立図書館に行ったら、やはりあの人が。安達さん。珍しくアポロキャップはかぶっていなかった。札幌駅まで一緒に帰る。少年物掲示板スレの話など。
・アーネストさんからメールで戴いた情報などで、エッセイ等リスト、インタヴュー等リスト更新。



8月12日(火) 少年物リスト改訂
・掲示板での「情報提供」から始まって、「少年物リスト補足」まで、少年物リストについて交わされたウルトラディープかつ細心の注意を払ってなされたやりとりが、ここに結実。おげまる(現・安達)さん編作家別リストのうち、横溝正史島田一男の項が全面改訂されました。安達さん、お疲れさまでした。情報を寄せていただいた佐山さん、小林文庫オーナーさん、いわいさん、やよいさん、しんごさんありがとうございました。改めて読み返して、特に、佐山さんと安達さんのやりとりには、何度も眩暈がしてきました。
 「黄金の花びら」という大人物、子供物含めたすべての金田一耕助物のなかで唯一単行本化されたことのない作品があることなど、あなたは知っていたか。書誌というのは、血と汗と涙の結晶(血はないか)と、つくづく思わされます。


8月11日(月) 『白樺たちの大正』 
・やよいさんと、こしぬまさんに教えてもらった山風記事、毎日新聞8月6日(夕)掲載で「特集ワイド 2003年夏 あの人に会いたい」というもの。生前にインタヴューした記者が、八王子の「風の墓」、兵庫県関宮の記念館、相模原在住の腹旧制豊岡中学の同級生、多摩丘陵の風太郎邸の未亡人啓子さんを探訪するというもの。学生時代の手紙の一部が引用されるなど、なかなか充実した記事でした。
・関川夏央『白樺たちの大正』(03.6/講談社)は、武者小路実篤の「新しき村」運動の実相を中心に、白樺派の土壌を探るという一種の文芸批評。70年代には、「白樺派」という言葉を口にする人がまれになり、80年以降には、まず聞いたことがない(あとがき)という、現代では埋もれてしまった一派に大正期の日本の精神運動の中核の一つとして光が当てられる。シベリアの石光真清にまで筆を伸ばすなどスケールが大きい。「新しき村」の消長や、これにかかわった人々の運命の変遷など、興味深く得るものが多い。が、ところどころ近代史の教科書でも読まされているような退屈さも感じる。手堅いがスリルがない。瞠目させる創見があるわけでもない。それが作風だといってしまえば、それまでだが、「文学は文学である以上に歴史資料である」という本書全体スタンスにある種のつまらなさを感じる。近年、大正期の小説を新しく読み直す動きがずっと続いているはずで、そうした動向や成果が十分に本書とシンクロしていないようにも感じられる。



8月9日(土) 続々・山風エッセイ等リスト更新
・その後、皆さんからまた、掲示板で教えていただいて、続々更新。ありがたいことです。
・今日買った本
 『江戸川乱歩全集4 孤島の鬼』『江戸川乱歩全集10 大暗室』(光文社文庫)
 前回の全集はへたったので、これは買い続けよう。
 W・R・バーネット『リトル・シーザー』(小学館)、ローレンス・トリート『被害者のV』(ポケミス)なぜだ、なぜ今トリートの長編が。関川夏央『白樺たちの大正』(文芸春秋)「夢見る部屋」シリーズの資料用。京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』(講談社ノベルス)。



8月2日(土) 続・山風エッセイ等リスト更新
・引き続き、掲示板にて、MORIOさんから、80編近くの巨弾投入があった。今更ながら、世の中には凄い人がいるものだ。日下三蔵さん、いわいさんからも情報が寄せられた。でもって、エッセイ等リストインタヴュー等リスト更新。●が増えていくのが、なんとも嬉しい。
・日下さんによれば、山風のミステリ系統のエッセイ集を1冊作ることになっているそう。これは、ほんと楽しみだ。


7月31日(木) 山風エッセイ等リスト更新
エッセイ等リスト掲示板にてMORIOさんから30編近くもの単行本未収録を教えていただいた。どひゃあ。でもって更新。


7月29日(火) 山田風太郎インタヴュー等リスト
山田風太郎インタヴュー・対談等リストを追加。これもたたき台です。


7月28日(月) 山田風太郎エッセイ等リスト
・私事に御心配戴いた方々、ありがとうございました。
・本日は、山風の三回忌。数日前に気づいて、懸案・つくりかけの「山田風太郎エッセイ等リスト(お試し版)」をやっとこアップ。これまで、色々教えていただいた方々に、深く感謝。まだまだ不十分極まりない上、誤りも多いかと思いますが、小説リストともども成長させていきたいと思います。今後とも、よろしく御教示のほどを願いします。インタヴュー、対談等も近日追加予定です。
・小説リストも修正。


7月15日
・あれこれ遅滞して、ご迷惑をおかけしております。7月3日、父が死去してしまいました。実家から出勤したりしているので、復帰にもう少しかかりそうです。



5月25日 夢見る部屋10 本郷菊富士ホテルの方へ
・3日前の深夜、父親が入院している病院から呼出の電話あり。容態が急激に悪化した原因を聞いて唖然。明らかな医療ミスではないか。
 書きかをけをアップするものの、ますます遅滞していくかもしれませぬ。風太郎のエッセイリストについても、今暫く時間をくださるよう。(7/1記)
・(承前)
 「東台館」の「夢見る部屋」で夢見ていた作家は、その後どうなったのか。
 宇野浩二の短編「四人ぐらし」(大正12年/宇野浩二全集4に収録))では、「東台館」という貸間専門に建てられた半洋風の建物に二ヶ月ほど住んだことが触れられている。
 「扉の鍵を中から掛けさへすれば、外から絶対に闖入される恐れがなかつたのと、その上にそれは私が全く誰にも話さずに全く秘密に借り入れたのとで、私はその部屋の中でならば贋札をこしらへることも出来るくらいだつた」
 やはり短編「人に問はれる」(大正14/全集4に収録)では、やはり東台館という貸間専門のビルディングの一室を借りた経緯に簡単に触れられている。
 この小説では加山五策という友人がこの東台館5階の一室を借りて住んでおり、過去に何度訪問したことが、この建物を思い出すきっかけになったとしている。あの天窓についての言及はないが、壁に貼り付けた山や女の写真や、写真の引伸し器械についての記述は、「夢見る部屋」と同様だ。
 家の者にも内緒にして手回りの道具類を集めるのにも苦労した末、「やつと二ケ月ばかりして大分居心地がよくなつた頃になつて、私はそこから立退を命じられたのであつた。というのは、その春そのビルディングの傍らの公演に博覧会が出来て、それの見物に来る諸国からの団体観覧客のために、それの四階と五階とが、博覧会の事務所に売収されたのであつた」 
 やはり、博覧会のために、私は部屋を出なければならなかった。
 そこで、「××町の不二館」を思いついて、今度は家族に内緒で借りることはやめ、公然と仕事をするためという口実で、そこの部屋を借りることにする。私は、夢の続きがみたいのだ。
 この不二館のモデルになったのが、本郷菊坂にあった本郷菊富士ホテルである。
 菊富士ホテルは、大正3年創業。約30年の歴史のうちに、正宗白鳥、大杉栄、竹久夢二、谷崎潤一郎、石川淳、尾崎士郎、直木三十五、三木清、広津和郎、宮本百合子、坂口安吾など名だたる文人らが住人となっていた所だ。ホテルと名はつくが、その実態は、高級下宿といったところだったらしい。
 やはり、『〈個室〉と〈まなざし〉』によれば、このホテルに関するまとまった資料は、近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(昭和49講談社)と羽根田武夫『鬼の宿帖』(昭和52文化出版局)の2冊しかないようだが、運良くこの2冊とも古本屋で見つけたので、同ホテルに関してはこの2冊を出典として、以後書いてみる。(『〈個室〉と〈まなざし〉』において、引用又は言及されている部分が多くなってしまうが、諒とされたし)
 宇野浩二が本郷菊富士ホテルに入居したのは、大正12年2月。同ホテルの住人高田保の紹介だった。宇野は、旧館の一階にある1つだけ空いていた「3番」の部屋−八畳の日本間に入居する。宇野は、4、5日も部屋に居続けたと思えば、夕方には自宅に帰ったりなど気ままな出入りをしていたらしい。三番の部屋に入ると、まず、女中に布団を敷かせ、その中に入って原稿を書いたり、本を読んだりしていた、という。
 全集の月報に岡本一平が描いた「菊富士ホテルの宇野浩二」の絵(大正13.8「新潮」)が載っているか、敷かれた布団の上でチョビひげ、丸眼鏡の頬のこけた男が膝を抱えている。後ろには、三味線もみえる。大正14年1月、まだ「二銭銅貨」ほか数編しか発表していない江戸川乱歩が上京時、門前払いも覚悟で、心酔する作家・宇野浩二を訪問したのも、このホテルである。菊富士ホテルのこの作家の存在は、広く知れ渡っていたらしい。
 さて、「人に問はれる」の中の「博覧会のせいで「東台館」を追い出された」−という点については、否定的な見解もある。(続く)



5月24日 夢見る部屋9〜路上のヴィジオネール
・17万アクセス感謝(6/28記)。日付はとうに1月遅れになり、数回で終わるはずだったシリーズも、興味の対象が広がっていき、終わらない。何をやっているんだかという気もするが、まだ何回か続きそうです。
・(承前)
 「夢見る部屋」が、「されば、私はここで、何をたくらまうとするのであるか。私は、唯、この空に向かつた望遠鏡めいた四角な煙突形の天窓をとほして、私と私の部屋の有様を空に向かつて映し出さうするのであるか。/私は知らない」と、結語されるとき、読者には、なんとも名状し難い感興が−壮麗なイメージを伴って−沸き起こってくるのだが、その理由の一つは、個人的なささやかな夢を描きながら、作者の無意識が、時代の深層に、あるいは時代を越えた普遍的な何ものに触れ得ているという実感だろう。作者にも、理由は「知らない」が、この小説がなにものかに肉薄しているという確信があったはずである。
 一つには、この小説は、視線の変容をめぐる同時代的なモノグラフになっている。先に書いたことに引き寄せていえば、探偵と泥棒の視線の共有というのも、その一つ。探偵と泥棒の視線というのは、言い換えれば、「見られずに、見る」という特権的な視線への欲求だ。家族の視線すら厭わしい作家が憧れるのは、この「見られずに、見る」こと−さらに、隠れ蓑願望と言い換えても窃視への欲望と言い換えてもいい−だ。
 同様の志向は、怠惰な学生が押入れの隙間から道行く人を観察する「屋根裏の法学士」やアカスチオンなる不思議な音響器械を用いて町内の住民の個人的な事情に精通している癖に、自らは人に囲まれるとてんかんになってしまうという、ちょっとダールやエリンの短編を思わせるような隣人物「人  」にも窺われる。
 だが、ここには一個の逆説が存在する。こうした志向をもちながら、この作家は自らの秘密の生活を夜空に向かって映し出すのである。小説というメディアを通じて人々の眼に曝していくのである。結末に至って「見られずに見る」という志向そのものが組み替えられる。「見られずに見る」という個人的志向が、メタレベルの「見られること」にくるまれていく。「見られずに見る」ことが、再び見られることの意味を問うていくのである。その逆転が、「見ること」の本質に迫っているはずである。
 本質に触れるという点は、夢の終焉に関して見せた作者の嗅覚の鋭さにも、顕れている。夢を二度も、終わらせるのは博覧会である。そこには、個人的夢想と対置されるところの群衆の視線に対する作家のおののきがあったはずである。
 第二帝政期のパリを描いたエミール・ゾラに「ボンヌール・デ・ダム百貨店」(1883)という小説があるらしい。(らしい、というのは、つい最近、この小説についての論考、小野潮「肥大化する都市の怪物」だけなので)。この小説でゾラは、時代の最先端を行く百貨店を主題にしながら、一種の恐怖を呼び起こすような怪物として百貨店をとらえているとして、そこに小野は、幻視家ゾラの面目をみている。 デパートが、いわば常設の博覧会としてして発達したことを思えば、宇野浩二の視線にゾラの視線と同質のものを認めることも可能だろう。
 「夢見る部屋」が傑出した存在なのは、夢見ることの逸楽を描くと同時に、夢見ることの困難性を描いた小説であるからにほかならない。そして、個人的な夢見を阻むものとして、「博覧会」という群衆による群衆のためのイベントを引きずり出しているのは、ヴィジオネール(幻視家)(堀切直人)といわれる宇野浩二の真骨頂であるに違いない。その視線は、モダン文化の花開いた大正という時代の行く末を見通しているかのようでもある。
 ところで、図入りは、どうなったのか。
 そこへ行き着く前に、あのローテク光学装置、作家が精養軒の脇から不忍池を見通した視線の先にあった本郷の高台の方へ散歩することにしてみたい。



5月23日 夢見る部屋8〜夢の略奪者
・(承前)
 「私」に大きな湖水の幻視をもたらしたのは、博覧会の建設中の建物の屋根だったが、はじまりも尻尾もないような話の展開に、一見無関係なこの博覧会について、奇妙なことに、作中で何度か言及がなされる。
 以前からアパートメントハウス東台館の一室を借り受けることを申し込んでいた私が、ようやく部屋の空き通知を貰い、東台館の事務所に赴く最中、例の精養軒の横の桜の場所で湖水の景色が見える。だが、無論、幻視は一分間の半分と続かず、博覧会の建物の蒲鉾型の屋根であることが暴露される。私は、「ちよつとの間怒つたやうに」その場に立ちすくむ。そして、東台館に向かう途上で、屋根だけは随分以前から出来上がっているように見えながら、外側はまだ足場だけで、壁になる部分には簾が下がっている、いまだ普請中の建物の生の姿を初めて見る。このローテクの光学装置と入れ替わるように私は、東台館の一室に夢中になり、「夜になつたにもにも拘わらず、がたんがたんと音さして、工事を急いでいる博覧会の建て物にも、忙しさうに歩いている往来の人人にも、殆ど無関心の状態」となる。
 再び博覧会が出てくるのは、小説の最後の方である。
 「やがて、私の部屋から、半町と隔たぬところに大博覧会も開かれるのである。いつからともなく、私が毎日自分の家を出て、精養軒の横手の坂道の上に眺められたところの、私に大きな湖水と見える、博覧会の建て物の蒲鉾型の屋根は、それがベニガラ色に塗り直されたり、その上に飾りのつもりであらうが、幾つも幾つも凸凹の塔のやうなものが出来たり、して、最早どんなに骨折つても、それは湖水と見えなくなつた」
 続いて、東台館の部屋は近いうちに3倍とか5倍になって、それを不服として引っ越した者の後には、博覧会関係者から高い料金をとって一つの部屋に3人も5人も宿泊させるという噂にも言及される。それでも、私は、博覧会見物に上京するかもしれない、ゆめ子のことを夢想したりするのだが…。
 小説中に言及される博覧会は、『〈個室〉とまなざし』によると、約1,100万人が入場したという1922(大正11年)年の平和記念東京博覧会らしい。1914(大正3)年に約750万人が入場して空前といわれた東京大正博覧会の記録を遥かに超え、 1970年の大阪万博まで入場者記録が破られなかったという大博覧会である。この博覧会では、14棟の文化住宅が展示され、文化村と名付けられたとか、ラジオが初登場したとかいういう点でも興味深い。
 商品のスペクタクル、アミューズメントの殿堂、眼の劇場としての博覧会が、「近代」の生成にもたらした影響はいまさらいうまでもないが、この1914・1922の東京博覧会は、1851ロンドン万博、1867パリ万博などと並べてみたい誘惑にかられる。おそらくは、その時代にロンドンやパリで起きていたことと同じことがモダン都市に変貌しつつある東京で起きていたと考えても、そう間違いではないように思われる。
 さて−。夢を失っている私が自ら産み出した光学装置は、博覧会の建物の完成に近づくに連れ、その機能を喪失する。ようやく得た「夢見る部屋」は、いずれ博覧会関係者のために、捨てざるを得ないことが強く予感される。
 私の個人的な夢は二度も破産させられのである。「博覧会」の開催によって。
 私の夢を蹂躙していく「博覧会」とは何か。それは、おそらく群衆の視線である。 



5月22日 夢見る部屋7〜探偵と泥棒
 「夢見る部屋」の視線/まなざしの関係でもう一点注目しておきたいのは、博覧会の会場の屋根が湖水に見えるエピソードの後で、最近できた「隠れて遭ひたい女」に触れるくだりである。
 一体に、この主人公、女性関係はなかなかのものがあって、ヒステリーの元妻、に現在の妻、信濃の湖の町に住む思い人芸者のゆめ子(現妻は、ゆめ子の元同僚芸者)、最近出来た愛人の煙草屋の娘、と賑々しい。この辺の図式は、執筆当時の宇野浩二の現実をほぼ反映したものである。作中好きなものを聞かれて「山と女と本」と答えるのは、主人公はまさに作者そのもの。しかして、その実態は、文学修業のために元妻を二度も芸者に売り飛ばしたという逸話をもつ「文学の鬼」でもある。最近出た川西政明『文士と姦通』(集英社新書)では、この元妻の死の真相が83年ぶりに明らかにされたりしているので、興味があるむきは、どうぞ−とまた脱線した。
 主人公は当然隠れて遭う男女のための宿屋とか料亭が至る所にあることを知っている。しかし、主人公は、そういったところの女中の視線が気になるのである。
 「目をそらすようにしていながら、後ろからは探偵のやうにじろじろ注目して、蔭ではいろいろな取り沙汰を」する視線が耐えられない。
 ここで「探偵」が出てきた。厭わしい「探偵」のまなざし。漱石譲りの「探偵嫌い」の言明といってもいいかもしれない。
 ところが、もう少し頁が進んで、「ゆめ子」にそっくりの女を街でみかけ、主人公は後をつけるというくだり。
 「私は、探偵と泥坊との二つを一人で兼ねたやうな気持ちで」彼方を窺う。
 探偵の視線が嫌いだったはずの私が、たちまち探偵と泥棒の双方の視線を兼ね備えた分裂的な人物に移行してしまうのである。すぐれてこの時代の風潮ひいては都市におけるまなざしの原風景を物語るものとして興味深い。
 松山巌『乱歩と東京』では、この時期、ハリウッドから久しぶりに帰った上山草人が「東京人の眼が大変に恐くなっている」といったというエピソードが紹介されている。大正時代は第一次大戦後の好況を背景に、東京に大量に人口が流れ込み、大都市が誕生した時代であった。いうなれば、誰もが「探偵」と「泥棒」の視線を持たざるをえない時代になったともいえる。
 「探偵」と「泥棒」が一つの人格に宿るという作中の戯画は、あの「泥棒が羨ましい」主人公が探偵役になる「二銭銅貨」や、探偵役でも犯人役でもいずれにも互換可能であるような郷田や明智という登場人物をもつ「屋根裏の散歩者」に、地続きともいえそうだ。



5月21日 夢見る部屋6〜ローテク光学装置
・(承前)
 図入りの意味の前に、もう少し散歩を続けてみたい。
 「夢見る部屋」が、「おそらく文学史において、「個室」というものを初めてモチーフとした小説」(『〈個室〉と〈まなさし〉』)である一方、視線/まなざしを主題にした小説であることは、一読、明らかである。『〈個室〉と〈まなさし〉』においては、他者の視線を極度におそれる主人公、剥き出しの壁を写真で埋め尽くす性癖、写真の引伸ばし機械という光学装置などが注目されるが、ここでは、作中に登場する別の視線/まなざしに注目したい。
 一つは、主人公が自ら「開発」する「光学装置」である。
 せっかく得た自宅の一室にいたたまれなくなった私は、毎日あてどなく散歩に出かける。ある日暮れ時、上野の精養軒のすぐ横手の桜の列が切れている辺りから、本郷の高台を眺めると、不忍池が鉛色に水面だけを光らした大きな湖のように見える。私は、眼を見張って一分間もの間立ち尽くす。しかし、それは眼の錯覚に過ぎなかった。不忍池のほとりに急ビッチで建設が進められる「博覧会」の建物の銀鼠色の屋根だったのであり、不忍池はその建物に隠されていた。いったん、屋根の形だとわかると、もうどのようにしても、元の湖には見えない。しかし、翌日から、私は、同じ時間帯になると、愛するものにでも会いにいくように、同じ場所に出かける。桜並木が近づいてくると胸の動悸が打ち始めるほどである。そうして、最初のときと同じように、大きな湖水の幻影を楽しむのである。たった10秒か20秒で幻影は失せ、博覧会のなんとか館の屋根という本来が姿が現れるのであるが…。
 私は、友人や知人も、同じ場所に連れていき、「そら、池が今日は実に大きく見えるでせう、」と指さして見せると、どの人でも「なる程、なる程」と必ず感嘆する。(この辺、自分のこととしてもありそうで、実におかしいが、同一性(あるいは不同一性)確認のために他人に問いを発せづるを得ない体質というか感覚は、「屋根裏の法学士」「人癲癇」などにも共通するもので、この作家の特徴の一つかも知れない−というのはさておき)
 主人公、大きな湖水の幻影のもっと先には、愛する人ゆめ子の住む信濃の国の山中の湖水がある。この極めてローテクな「光学装置」が、後のアパートメントハウスに移動してからの天窓や写真引延し機械といった光学装置と呼応する印象的なエピソードになっている。
 また、幻影を構成する要素が、「博覧会」の屋根であることにも注目しておきたい。博覧会は、この小説に微妙な影を落とすことになる。



5月20日 夢見る部屋5〜図入りの意味
 これで4つの図入り小説をみてきた。だから、どうしたという声が聞こえぬでもない。
 「美しき町」「夢見る部屋」「私とその家」「時の鐘は西北より」。4つの小説を並べて一見して明らかなのは、これらは町や家、部屋という建築にまつわる小説であるということだ。
 百個の理想に家が並ぶ町を希求する「美しき町」、人体建築という破格な建築への意志をもつ「鐘は西北より」。「部屋」を作家の夢を育む容器としてみる「夢見る部屋」、「家」を都会のロマンが棲む器としてみる「私とその部屋」。いずれも、その作品の中核に、質こそ違えど「夢想」を抱えていることも共通している。
 夢想としての建築、あるいは建築としての夢想をテーマとするこれらの作品に図が入っているのはなぜか。
 実は、その「理由」については、武田信明『個室とまなざし』が触れている。

 「いずれもが、ある特殊な空間を図化しているのであるが、それぞれの表題が示すとおり「町−家(建築)−部屋」と、その総体は見事な入れ子を形成するのである。それは先に論じた都市空間を細分化していく「大正」の内向するまなざしと、その軸線を等しくしている」
 さらに、「欲望が、空間の形態を伴い、その内部に投射されること」が大正から昭和初頭の文学の顕著な特質のひとつであるとして、文化住宅を扱った谷崎潤一郎『痴人の愛』('24)、「赤い屋根」('25)や宮澤賢治の「イーハートーヴ」、武者小路実篤「新しき村」('18)、さらには国枝史郎「神秘昆虫館」('27)、白井喬二『怪建築十二段返し』('21)などに言及がなされる。
 そして、「作中に「空間」を描き出そうとするする欲望は、言説による描写にとどまらず、原稿用紙の片隅に「図」を書き込むという事態にまで至るのである」として、探偵小説における図面についても言及していく。
 こうした大正文学にみられる空間偏愛あるいは建築への意志について自分が興味深く思うのは、探偵小説との関連においてである。それは、江戸川乱歩「二銭銅貨」1923(大正12)が登場し、日本製の探偵小説が勃興する寸前の文学風景でもあるからである。こうした大正時代の文学の特質が探偵小説を開花させる養分に富んだ土壌になったことは想像に難くない。日本型「密室」ミステリ誕生の前史を提供してくれるにも違いない。
 ここで思い出されるのが、探偵小説をめぐる佐藤春夫の言明である。

 「現在日本にいい探偵小説が現れないのは、建物の様式にも依るので−建物の様式とはとりも直さず、生活の全部を象徴しているものだ。日本人は犯罪的にも深みのない生活者といえそうだ」(探偵小説小論(大正13.8「新青年」)

 建築と探偵小説の関連への直感的言及は、さすがというしかない。日本探偵小説の勃興と近代建築への意志という時代の風潮は、たぶん軌を一にしているのであるに違いない。
 話が大きくなった。
 空間を描き出そうとする欲望が言説を突破して小説中に図として現れる−。そうかもしれない。けれども、少なくとも「夢見る部屋」に図が登場するのには、もっと直截な理由が存在するように自分には思われるのである。(続く)



5月19日 夢見る部屋4〜浅間谷の人体建築
 国枝史郎「時の鐘は西北より」(国枝史郎伝奇全集4/未知谷収録)を一読したが、よくわからない小説だ。よくわからないのも無理はなく、同書の改題によると、初出は、「文芸春秋」昭和2.6〜8だが、未完で終わっているらしい。単行本収録の際、「起こし」と「結び」が付け加えられたそうだが、これによって、余計混乱している感がないでもない。
 無理に粗筋を書いてみると、発端は、なんと、ロシア大帝国の首都の宮殿の一室。エカテリナ二世が登場する。日本の漂流民でロシアに帰化したニキイチンが秘密文書をもって行方をくらまし、オリガという者が追っ手として放たれていることが宰相との会話でわかる。舞台は一転、江戸へ。
  大名屋敷を歩く平賀源内と蜀山人の会話に唐突に「人体建築」なる言葉が登場する。「人間の胎内の臓腑にかたどり造った」建物がどこかに存在するらしい。
 二人の会話を漏れ聞いた浪人泉東十郎は、ふとしたことから、恋敵と斬り合いの勝負となるが、そこへ現れた盲人塙保己一、「今に起こるでこざいましょう、恐ろしいことがこの日本へ!」と予言する。西北の方から鐘がなるのが晩鐘であれば、日本は滅びるというのだ。
 その場に残された東十郎の耳に「われらの母よ/ボルガの河よ」という若い娘の歌声が聞こえてくる。(この辺の展開、船酔いでもしているような感じである。)屋敷に踏みいった東十郎は、捕らえられてしまう。
 さらに舞台は一転、杉田玄白邸。蘭書「ターヘル・アナトア」(人体内景図)が話題になっている。何者かが輸入したという報が既に伝わっている。「それも図入りと申しますことで」と玄白は、図入りに喜んでいる。まるで、ストラングル・成田である。その場に集まった客は、蘭書の入手を熱望するが、うまい方策は思い浮かばない。さらに、舞台は反転−と書いていたらきりがない。
 東十郎を惹きつけた歌い手は、実は、帰化人ニキイチンの娘ニナ、追っ手を恐れるニキイチン一行は、人体建築に逃げることになる。
 人体建築とは何か。
 浅間山の谷間に建つ人体建築は、頭脳に見立てた建物を建て、その南手に五臓六腑に見立てた11の部屋をもち建物の屋根は棟木などを塩梅して肋骨に見せている。さらに白壁を周囲にめぐらし、手と足を模している。図が挿入されるは、この「人体建築の図」としてだ。この形態明瞭・意味不明の建築をしたのは、溝呂木信兵衛という元ロシア帰化人の名工。発狂の結果ともいわれている。が、人体建築を中心に数十軒の家が作りつけられ、数百人の人間がそこで生活しているのだから、一種の桃源郷をつくる目的だったらしい。
 ところで、この人体建築の真ん中には、「心臓の部屋」というのがあり、溝呂木の後妻が棲んでいる。溝呂木の娘がいうには、継母は「血吸鬼」で、この部屋に入った者は、皆抜け殻になってしまうという。牡と牝の一組むの生物が棲むともいわれる。快楽と拷問の部屋でもあるらしい。
 ニナを追って人体建築を目指す東十郎、それを阻もうとするオリガ桜子一行、東十郎を助けるこれもロシア帰化人の左平、永遠の自殺志願者京二郎など奇怪な登場人物が絡んで物語は進行するが、なんだか唐突に、溝呂木は娘と江戸に去ることになってしまう。二人で「人体内景図」を楽しそうに覗き込むところで、物語は終わり。
 ああ、心臓の部屋ではどんな想像を絶したことが起こるのか、恐るべき人体建築がに込められた意図とは、それに日本を破局に向かわせる西北の鐘は一体どうなってしまったのだ、国枝史郎。
 この作家、これまで敬して遠ざけていたが、この異常感覚には呆れる。筋も強烈だが、作中の会話は時代背景など無視した(当時の)戯曲風な現代会話。場面はどんどん飛び、置き忘れられたらしい伏線多数。今更ながら、国枝史郎恐るべし(今さら史郎)
 代表作『神州纐纈城』(大衆文学館(講談社))の「人と作品」に、「銀三十枚」(「新青年」大正15.3〜5)という小説の一節が引用されているが、作者自身と同じというバセド−氏病の男の言明に圧倒される。
「空想には不自由しなかつた。それが病気になつて以来、その量が一層増したらしい。空で行はれているエーテルの建築!それを破壊する電子の群!そんなものが私には「見える」のであつた」
 建築への意志を強烈に感じさせる人体建築も、やはり電子の群に破壊されてしまったのだろうか。
(続く)


5月18日 夢見る部屋3〜私とその家
(承前)
・文庫で出たばかりの宇野浩二『独断的作家論』(講談社文芸文庫)に収録された「稲垣足穂と江戸川乱歩」を読み始めたら、その文章の途中で眼がテンになった。引用してみる。

 「私が、はじめて稲垣足穂の名を知ったのは、大正十年の秋の初め頃、その時分、世田谷の砲兵聯隊の近くにあった、佐藤春夫をたずねた時である」

 大正・図入り小説三人男、佐藤春夫・宇野浩二・稲垣足穂が一挙に串刺しになっているではないか。
 佐藤春夫と宇野浩二は、ほぼ同時期の作家デビューなので、頻繁に顔を合わせていても不思議ではなさそうだが、実は、宇野が佐藤の家を訪問したことは二回しかない。(宇野浩二が死去したときの佐藤春夫の追悼文)その他の実生活上での交渉は、戦後、同じ文学賞の選考委員になったときタクシーに乗り合わせたような話が書いてあるだけである。数少ない座談の機会に、稲垣足穂の作品を紹介したというのが何とも面白く感じられる。
 この時、佐藤春夫は、机の上にあった300枚くらいの原稿用紙を宇野に渡して、「これはちょっと面白いよ」といったのが、足穂の出世作となった『一千一秒物語』である。宇野は、早速、初めの4、5枚を読み、「新鮮な、特異な物語」に感心することになる。
 (原稿を渡す前に、佐藤と宇野の間で交わされた会話が同じ文章に書き留められているが、その会話は随分意味深長に思われる。この会話は、この駄文の展開に伴って、再登場するはずだ)
  さて、稲垣足穂の図入り小説「私とその家」の話だ。
 『稲垣足穂全集1』に、改題名「夢がしゃがんでいる」として、収録されている。ところが、残念なことに全集版には、図が入っていない。同短編が収録されている『タルホ神戸年代記』も当たってみたが、こちらも図がない。仕方がないので、読み始める。6頁ほどの掌編。
 「若し4だとすれば、斜線はそのままにして、たての線とよこの線を伸ばす。Aならば、凭れ合っているどちらか一方の線を延長します。そんな形になっている辻が、私の通学の道すじにあって、まんなかの三角形の区画内に、三角形の玩具のような洋館が立っていました」
 その建物は、住宅とも事務所とも測候所とも見当がつかない。閉ざされた戸口や窓からは住人がいるのかどうかも窺えない。私は誰かが住んでいるのだと思い、自分一人の折りはその幻想は「そこからトアホテルの赤い円錐を描いた塔の見える坂道」まで続き、「自らでっちあげた探偵気分に酔っている」
 あるとき同級の友人に、その件を持ち出すと「あの家にはきっとこの都会の夢が棲んでいるだぜ」と笑う。私は、それ以来、「巴里製の香水壜のような洒落た夢心地をそそり立てる緑色」に棲む、じいさんのような、ピンク色のワンピースを着た少女のような、マントを引きずった紳士のような「夢」の形を夢想する。家を初めて見てから三年目、家の前に人だかりをしているのを私は見るが、「日頃から注意していた」下級生の後をつけていたため、何が起こっているか知ることができなかった。友人Oは桑港に去り、私が中学を卒業するときも、緑色の家は変わらず建っている。更に3年経過して故郷に帰った私は、グリーンハウスがなくなり、後は芝生になっているのを見る。「夢がしゃがんでいる・・」と私は呟き、港の街の方へゆるい坂を下ってゆく。
 少年の日の幻想と愛借。夢を育む容器としての「家」がタルホ言語で語られている。
 大正12年(1923)「私とその家」と題して、「新潮」に発表。大正14に『鼻眼鏡』に収録。昭和3年「夢がしゃがんでいる」と改題改訂、さらに昭和8年「緑色の記憶」として改題改作されており、かなり作家として愛着のある短編なのではないか。 『個室とまなざし』には、この短編に挿入された図面が掲載されているが、短編の冒頭の説明にあるように、道路の交叉と三角の家の位置を簡単に示した略図である。
 文中、気になった「トアホテルの赤い円錐を描いた塔」について。トーアホテルは、明治41年、北野町(現 神戸クラブ地)に新築開業。全室バス付の当時最新設備を誇っていたという。この赤い円錐を描いた塔のことは覚えておきたい。



5月17日(土) 夢見る部屋2〜『〈個室〉と〈まなざし〉』
・小説中に挿入される図面。ミステリならいざ知らず、大変奇妙なことのように思えるのだが、実は、大正から昭和にかけて、「図」が作品の一部として発表された幾つかの例が存在する。そんなこと何でお前が知っているんだといわれそうだが、実は、近代文学研究者のある本からの引用である。
 ある本とは、武田信明『〈個室〉と〈まなざし〉』('95/講談社選書メチエ)。副題が「菊富士ホテルから見る「大正空間」。どういう本かというと、カバーの紹介文を引き写すのがてっとりばやい。
 「遠景に仰ぎ見る垂直の高塔、水平に大陸へ伸びていく鉄道線。すぐれて視覚的な風景の出現は、「国民国家」日本の成立と軌を一にしていた。変容し拡大する「大正」の空間意識を本郷・菊富士ホテルを起点に描き、内向するまなざしの欲望を明るみに出す、気鋭の画期的論考」
 本郷菊富士ホテルとは、大正時代に開設された高級下宿で、多数の文人、思想家などが集った場。本書は、菊富士ホテルという空間が存在したことを社会史的・文学史的「事件」として捉え、その場を起点に大正期の空間意識の変容を探る、という狙いをもっているもの。刊行時話題になった本かもしれないが、最近になって、この本を一読、大変面白かった。
 特にミステリファンには、「第4章 寝そべる男たち」が興味深いかもしれない。ここでは、日本のアパートハウスの起源が語られ、図のある小説が語られ、「盗まれた手紙」の再解釈が、「寝そべる男たち」として宇野浩二と「陰獣」の大江春泥の連関が、語られる。
 この本で、「同時代と呼んで差しつかえないほど近接した時期」」に書かれている図のある小説として、次の4編が挙げられている。
・佐藤春夫「美しき町」(1919/大正8)
・宇野浩二「夢見る部屋」(1922/大正11)
・稲垣足穂「私とその家」(1923/大正12)
・国枝史郎「暁の鐘は西北より」(1927/昭和2)
 同書に導かれるように下の2編も読んでみることにする。 



5月16日(金) 「夢見る部屋」
・部屋の間取り図というと、宇野浩二の「夢見る部屋」という短編を思い出す。噛めば噛むほど味の出るスルメのような小説なのだが、この小説の冒頭と、それから少し進んだところに、二様の部屋の間取り図が入っているのだ。(この小説は、日本幻想文学集成27「宇野浩二」(国書刊行会)で手軽に読める)
 間取り図は、主人公の小説家が住んでいる家の自室。自らの部屋の描写をした後で、「かういふ説明では徒に読者の欠伸を買うに過ぎないであらうことを私は心配しないではない訳ではないけれど」「私はぜひとも諸君にこの部屋の様子を知つておいてもらひたいために、以上の説明だけでは如何にもたよりない気がするので、次ぎにその略図をかくことにする」として、東京の下宿屋の代表的な体裁をもっているという、四畳半の簡単な見取り図が入る。「私」は、人に本を読んでいるところや原稿を書いているところを人に見られるのを極度に恐れる性質があり、隣室の八畳間との仕切りの襖の一枚しか開けさせず、窓にも本棚をぎっしりと並べる改装を施し、その様子が再び図面として挿入される。
 下宿屋を転々とする貧窮生活の果てに、所帯をもち、借家とはいえ、自分の家手に入れた私だったが、家族や客が出入りする隣室の八畳間がなんとも負担になってきて、下宿屋に帰りたいような心持ちになってくる。自分の部屋をもったら、周囲に迷惑をかけずに、さぞや弾きまくろうと思った三味線(作家は変わったことに三味線が趣味なのだ)も手に取る気がしない。かつて、自分一人が占有する部屋で、一二冊の小説本と、二三冊の新刊雑誌を枕元に並べ、金つばか栗饅頭を側に備えて、楽々と寝床に身を横たえ読書と空想に耽りたいと、ささやかな贅沢を切望していた作家は、今なんともいえない味気なさを味わっている。私は何を失ったのか思いめぐらす作家は、「この世に於いて何よりも最も大事なもの」「夢」を失っていたことに思い当たる。
 私は、家族には黙って、不忍池の近くの「東台館」という粗末な西洋造りの下宿屋に部屋を借りる。四階の端の部屋で、変哲のない四畳半だったが(水道と瓦斯が押入れの中にあるというのが現代から見るとへんてこだが、当時は珍しくなかったのだろうか)天井の真ん中に、天窓が付いているのが私を喜ばせる。この屋根の天井の深さだけ四角な漏斗を逆さまに置いた形の天にについては(図略す)とある。
 この秘密の部屋に、私は、自分の大事な本や、好きな山の写真、思いを秘めた女の写真、三味線等をもちこみ、写真を幻灯器械で拡大して映し出したり、天窓から夜空の星を眺めたりして、満ち足りる。部屋を借りた理由の一つには、隠れて遭いたい女ができたこともあったが、私はこの女にも隠れ部屋のことはを明かすのが惜しくなって、今だ教えていない。
 最後に作者は自問する。私は、この小説何をたくらもうとしているのか、と。私は、「空に向かつた望遠鏡めいた四角な煙突形の天窓をとほして、私と私の部屋の有様を空に向かつて映し出さうするのであるか。」
 「私は知らない」で小説は結ばれている。
 独特の息の長い文章で連想の赴くままに綴られたような小説だが、夢見る人の像がなんの嫌みもなく伝わり、深い味わいに満ちている。
 作者自身、この小説の意図がわからないというのは本当のような気もするが、そこでまたよくわからないのが、図面の挿入に込められた意味である。(この項続く)



5月15日(木) 本格ミステリの秘宝
・アーネストさんの掲示板情報では、『間取りの手帖』既に4刷10万部にいっているそうな。凄い。
・リンク集、「宮澤の探偵小説頁」のURL変更。
・HMM6月号(もうとっくに、7月号になってしまっているが)は、年に1度のお楽しみ。森英俊氏監修、古き良き時代の埋もれた名作が並ぶ。書店では、いもよりずっと出足が良かったような気がする。題して、「本格ミステリの秘宝」。
マイケル・イネス「トムとディックとハリー」
 アプルビー物。3兄弟にまつわる掌編推理。
シリル・ヘアー「ブレンキンソップ、最大の失敗」
 ペディグルー物。謹言実直な裁判官が生涯で唯一冒犯した過失とは。
Q・パトリック「はるか彼方へ」
 『金庫と老婆』に収録されなかったという、夫と妻に捧げる犯罪。千慮の一失物。一度行っただけのメキシコに移住したいがゆえに、足手まといになる妻を殺害するという、南国幻想どもいうべき動機が特異。
ピーター・ゴドフリー「そして、ときは変わった」
 若い男の記憶が失われた52分間にいったい何が起こったのか。ルルーは、連想テストや男の抱えていた物から、失われた時間の回復に挑む。着想は抜群だが、意外な真相に結びつく条件がフェアに提示されていれば、さらに効果が挙がっていたはず。
L・T・ミード&ロバート・ユースタス「消えた男」
 実験用に郊外の邸宅を購うメキシコ人の女。家を斡旋した弁護士に警告を発するその娘。大金鉱を見つけた探検家がロンドンに帰ってくるや、事態は不穏な空気に包まれはじめ…。スリラー風の出だしが一転、警官に完璧に包囲された邸宅からの人間消失物に。うほほ。このトリック、この結末。このコンビの作は、20世紀初頭のうさんくささ爆発で実によろしい。
メルヴィン・デイヴィスン・ポースト「缶の中の証人」
 土地の相続をめぐってる遺言状の真贋が争われる法廷物。圧倒的不利にもかかわらず、悠然と構える弁護士の秘策とは。一見単純な土地争いに、アメリカの対外政策やそれに絡めて正義とは何かというテーマを持ち込み、裁判のやりとりをよりスリリングなものにしているのは、作家の格というものだろう。


5月14日(水) 『間取りの手帖』
・『間取りの手帖』佐藤和歌子(リトル・モア/03.4)
 最近、良く書き込んでくださるアーネストさんから、かなり以前になるが掲示板で教えてもらった本。同い年の従姉妹さんが書いたそうで、朝日新聞日曜日の読書欄で取り上げられたとのこと。(4月27日「視線」欄)。建築本のコーナーで2刷りを見つけたんだけど、先日、同じ本屋に行ったら、「話題の本」のコーナーに並んでいて、3刷りになっていた。売れているんですね。著者欄をみると年齢がわかるが、お若いんですねー。
 もう既に手に取った人も多いかもしれないけれど、これがやたら楽しい本。基本コンセプトは、新書判1頁に1〜2枚の部屋の間取り図が載せてあり、これに軽妙な1行コメントがつけられている。010、016、022、037、056、062とか笑っちゃう間取りの数々。その他、部屋にまつわるコラムが6つと談話が4つ。密室図面を観ると、血が騒ぐ人には(俺か)血が騒ぎっぱなしの本かも知れない。作者は間取り収集家、madorist。これらは全部実在の部屋らしい。
 さらに、一読したときには気づいていなかった仕掛けを高橋@梅丘に教えられてびっくり。カバーを外して広げると、そこには、本に登場する百個の部屋が一面に広がっているではないか。これは、もしかして「美しき町」?同短編の老建築家の詩魂の衣鉢を継ぐ(??)作者に才能に幸あれかし。



5月13日(火) 佐藤春夫集3
・メモ続き。
「黄昏の殺人」 映画の為のストオリイと銘打たれた因果する愛憎と三角関係の物語。
「奇談」 台湾で聞いた植民者にまつわる奇談。
「化物屋敷」 居所がなくなった作家のために、門弟が探してきた部屋で起こる怪異。
「山妖海異」 故郷・熊野の怪異な民話について。
「のんしゃらん記録」 なんとSF。地上から地下数十層に達する塔の中の階層社会。植物化される人間。新しい恐怖と文明批評。建物内部の描写とか火星と通信するラジオは、なんとなくホジスン「ナイトランド」を思わせる。
「小草の夢」 戦後の混乱期のさなかで見つけた狂的な詩人。
「マンディ・パナス」 シンガポールで立った作家の浮き名。陶然とするような熱帯の色彩と匂い。
「女人焚死」 長野山中で発見された農婦の焚死体。詩は遍在する。作家の空想力が現実に拮抗していく見事さ。「curiocity hunting」を「猟奇的」と造語したのは自分だが、いつの間にか意味が変わって定着したのが腹立たしいと書いているのがおかしい。
「或るフェミニストの話」 リアルな指詰め話も出てくる極道物。一家の小父御となっている男が代貸しの女と出奔して。
「女誠扇綺談」 台湾の禿島港に立つ豪華な廃屋。興味本位で家の中に入っていった作家と友人が女の声を聞き退散するが、隣りの老婆に家にまつわる伝説を教えられて。謎解きが紡ぎだしていく悲恋。構造的には「「オカアサン」」と同じ。それは、ミステリは、皆同じ構造ということと同義か。艶やか、匂いやかな異国譚でもある。
「美しき町」 大資産家が幼なじみの画家に打ち明けるユートピア計画。善美を尽くした百戸の家に百組の善良な家族が住む美しい町。資産家の熱に感染した画家は、美しき町の土地探しに奔走。採用されたことのない美しい家の構想をもつ老建築家と3人で、美しい町づくり計画を着々と進めていくが。これも、「アルンハイムの地所」「ランダー氏の別荘」の庭ものの変奏といえそうだが、その空想性
徹底、ミニチュアリズムは、はっとするほど新鮮だ。この「ドリイミイ」には、同時代の多く人が刺激されたものと思う。世の金銭至上主義の「グロテスケン」を嗤いつつ、ユーとビアづくりも「グロテスケン」の一種ではないかと疑うところに作家のバランス感覚がにじむ。美しい町となるはずの「中州」の見取り図入り。
「探偵小説小論」「探偵小説と芸術味」 再読、三読されるべき探偵小説論。この時代にここまで見切ってしまう眼力は、凄い。「猟奇耽異」の有名な一節もそうだが、「探偵小説」は「小説芸術中の庶物崇拝(フェテシズム)には違いない」とか。ミステリ好きは、フェティシストであったのである。
 幻想譚から本格、ノンフィクションノベル、SFから極道小説まで、バラエティに富みすぎた短編集だが、やはり大正から昭和にかけての、「指紋」「「オカアサン」「のんしゃらん記録」「女誠島綺譚」「美しき町」等、舶来の煌めきに富んだ諸作に惹かれる。「指紋」にドクインシー「阿片常用者の告白」「ウィリアムウィルソン」、「女誠扇綺談」に「アッシャー家の崩壊」、「美しき町」にウィリアム・モリス「ユートピアだより」が出てくる辺りも要チェックかも。



5月12日(月) 佐藤春夫集2
以下ミニコメというかメモ。
「西班牙犬の家」「表象の芸術工学」の中で、「「西班牙犬の家」を読んで感想を書けといわれても、みなさんなにをどう書いていいやらわかりません。反応のしようがない(笑)」と書かれているけれど、確かに犬の散歩で脇道に入っていった作者が林の中で西班牙(スペイン)犬のいる奇妙な洋館を見た。というだけの話で、ストーリーには反応のしようがない。「夢心地になることの好きな人々の為めの短編」という副題で、気分のいい春の日の幻想と受け取っておけばいいのか、と読者を安心させはするのだが。「室内」の描写が重要な気がする。
「指紋」 ロンドンで阿片中毒になった友人にまつわる現実・幻想ないまぜになった迫力に富むドラッグ小説。作中登場する映画俳優の名がウィリアム・ウィルソンで、ドッペルゲンガー譚のモチーフあり。映画初期の幻想譚としても面白い。
「月かげ」 「指紋」の主人公が観た幻想のエスキス。
「陳述」 医局で孤立している若い医師が婦長を殺害するまでの心理を克明に追っていくノンフィクション・ノベル風の犯罪譚。おそらく現代もあまり変わらないあろう医局の内部事情に通じているのは、医者である弟に取材したものらしい。
「「オカアサン」」 買ったオウムが話す片言から、前に飼われていた家庭のことを想像していく作家。謎解きが生み出す、詩とペーソス。傑作。
「アダム・ルックスが遺書」 フランス革命奇譚。断頭台の淑女を顕彰して、死刑に処せられる男の真実。
「家常茶飯」 元祖・日常の謎。「童話の本」は何処へ消えた。探偵役のキャラクターも面白い。
「痛ましい発見」 女房の不貞にかかわる三本の毛の謎。禿げは身を助く。「時計のいたずら」 消えた時計。これも日常の謎。謎解きが生みだす悪意。
 もう一回続く。


5月11日(日) 佐藤春夫集
・『怪奇探偵小説名作選4 佐藤春夫集』 日下三蔵編(ちくま文庫/02.5) 
 佐藤春夫というと、文豪には違いないのだろうけれど、例えば、同期の芥川・谷崎といったところと比べて、現代では、読まれていない作家ではなかろうか。現代では、というより、むしろ戦後一貫してあまり広く読まれていた作家とはいえないのかもしれない。書誌をみてみると、昭和に出た文庫本は、新潮文庫から1冊(「田園の憂鬱」)、角川文庫から出た1冊(「小説・智恵子抄」)の計2冊しかない。新潮日本文学アルバム全56巻中に一巻が割かれず、続刊15巻の中にようやく追加されている。かくいう自分にとっても、「門弟三千人」「谷崎夫人譲渡事件」といったゴシップの類、「さんま苦いかしょっぱいか」の詩、あるいは草創期における探偵小説への貢献といったところが、おぼろに浮かぶ作家のイメージだった。読まれざる文豪のイメージに一撃があったように感じたのは、高山宏「表象の芸術工学」の中で、英国のピクチャーレスクガーデンやその文学化であるポーの庭もの「アルンハイムの地所」「ランダー氏の別荘」に触れた後、日本の庭ものとして、乱歩「パノラマ島奇譚」、谷崎「金色の死」、それに輪をかけて凄いとして、佐藤春夫「西班牙犬の家」を挙げている一節だ った。同書では、「ヨーロッパの情報を次の年には自分の作品に取り入れる勘のいい作家たちが明治30〜40年代から昭和初年まで登場する」として、「谷崎のやった方法を必ず3〜4年後には自分のものとする男が佐藤春夫という人でした」と書いている。
 先端モダニストたちが世界にアンテナを張り巡らし、最新のモードを自家薬蝋中のものとすべく、しのぎを削った時代としての大正−その代表格としての佐藤春夫という同書が提示するイメージは、非常に新鮮だった。
 尾崎翠は、「捧ぐる言葉」という中で、「あなたの螺旋形の頭と多角形な心臓を眺めていましたらこんな詩のようなものが出来てしまいました」と佐藤春夫の作品世界に恋文に近いほどのオマージュを送っている。おそらくは、その作品は明治以来の小説風土を一変させる新鮮な輝きをもっていたものであったに違いない。
 本書は、今後おそらく色んな角度から再検討されていくであろう佐藤春夫の驚くほど多彩な世界を垣間見ることのできる恰好の短編集。ということで続きます。




5月10日(土) 『尾崎翠集成(上)』 
・『尾崎翠集成(上)』 中野翠編(02.10/ちくま文庫) 
 学生時代、尾崎翠『第七官界彷徨』を初めて読んだとき、これは、戦前の『処女少女マンガ家の念力』(大原まり子)と思ったものだ。むろん、まったく話は逆で、昭和6年に書かれた『第七官界〜』の方が遥かに先輩に当たるのだけれど、おかしな登場人物たち、癬の恋愛といった奇想と、独特の哀感が少女の感受性を通して描かれれているところがとても似ていると思った。そして、いつの時代ともいえないような、いつの時代でもあるような時代と離れたところにある閉じた感じ、作品全体を流れるユーモアと静けさに、戦前に、こんな作品があったのかという新鮮な驚きを感じたものだ。
 本書は、『第七官界彷徨』の翌年、36歳のときに筆を折り、鳥取に帰郷、それ以来、中央の文壇とは音信が絶えた伝説の女流作家の選集。『第七官界〜』ほかで構成されている。
 再読した「第七官界彷徨」は、やはり特別の世界だった。上京してきた少女・小野町子は、長兄・一助、次兄・次助、親戚の佐田三五郎の共同生活する家で、炊事係として暮らすことになる。長兄は分裂心理学なるものを奉じる心理医者、次助は植物学を学ぶ学生で「癬」の恋愛感情について研究中、植物の恋愛を活性化させるために、家で日夜こやしを煮ている。三五郎は、音楽学校の浪人生で、部屋にある廃物同様のピアノに絶望している。私・町子は、「第七官」に響くような独特の詩を書こうとしているが、それがどのようなものかはわからない。たまにノオトに書きつけるのは、普通の恋愛の詩となってしまう。奇天烈な登場人物、臭気と音程の外れたピアノの音に囲まれて、町子の日常は進行していくのだが、時として、家族でコミックオペラの合唱になったりする一方、彼女は、名づけようのない哀愁に包まれたり、そこはかとない恋情にとらわれたりする。当人たちにとっては深刻な話も、蜜柑や栗、キャラメルやチョコレート玉、塩せんべいといったおやつ片手に、進んでいくのも、おかしい。
 作者自身が作品の意図等を明かした「「第七官界彷徨」の構図その他」を読むと、一見とらえどころのないような作が、鉄道地図のような場面場面の配列地図と部屋の図面まで用意した周到な計算の下に書かれたことに驚かされる。同時期の「女流詩人・作家座談会」では、プロレタリア文学、シュールリアリズム、表現派、未来派、構成派、新感覚派と次々と登場する文学思潮の波に洗われていた時代でもあったことも伝わってくる。「第七官界彷徨」も、こうした新しい文学思潮に影響されたものであったことは確かなのだろうが、一種の少女感覚に裏打ちされたその新しさは時代を超えた普遍性をもつものであったことは、明らかだ。「歩行」「こおろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」は、「第七官界〜」の小野町子を主人公したもので、分裂心理研究者幸田幸八や、おたまじゃくしの詩を書いている土田九作ら奇天烈な登場人物が出てくる独自の哀愁世界。「香りから呼ぶ幻覚」('27)は、香り幻想を題材にした奇譚で、同時代の探偵作家が描いた怪奇幻想小説と共通する感覚を有する話。
 忘れられた作家尾崎翠が脚光を浴びたのは、平野謙や花田清輝に推されて「黒いユーモア」('69)というアンソロジーに「第七官界〜」が収録されて以来という。本書には、晩年の私信も収録されている。とうに筆を折り、生涯独身のまま老人ホームで暮らしていた不遇の作家が「黒いユーモア」収録の件で、「ケッサクだそうだが一向に金にはならない」と甥に書き送っているのが痛々しいけれど、北杜夫や獅子文六を好んで読んでいたことが窺われる。ユーモアの語源は、フモール(人間の体液)から来ているというが、してみれば、体液だったものを煮て植物の恋愛感情が活性化されるという「フモール」譚を書いた作家の再評価の場としては、やはり「黒いユーモア」という選集が相応しかったとはいえまいか。



5月9日(金) 「雪女」・「乳房」
・迂闊にも、ジュリアン・シモンズ『ブラッディ・マーダー』(新潮社)が出ているのを見逃していた。グレイトな評論なのだが、消費税込み5040円とは、価格もグレイト。6月6日記。もはや日記の日付にはなんの意味もないなあ。
・匿名希望氏からメールを頂いた。一部引用させていただきます。
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 えーと、問題の本に従いまして、初出情報を確認してみました(爆)。
 どれが初情報なのか、山風ドシロウトの私には分からなかったのですが、見たことがないと思われる作品について、国会図書館でチェックしたものです。当然ながら、執筆・構想したものではなく、雑誌に掲載された旨のものだけです。抜粋で漏れていたら、申し訳ありません。
 「雪女」 ユーモア 昭和23年4月
 「乳房」 読物世界 昭和23年8月
 以上、2編、雑誌にて掲載を確認しました。間違いありませんです。
 後者はともかく、前者は何で今まで公にならなかったんだろう、と思われる情報ですけど、ね。翌年6月の「萬人坑」と同じ雑誌だし。
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 国会図書館まで、足を運んで調べて頂いた情報をお寄せいただき、ありがとうこざいます、匿名氏。
「雪女」は、同年の短編集『眼中の悪魔』が初出だと思われていたものの初出誌判明。「乳房」は、新しく出てきたもの。グレイト。リスト更新しておきます。



5月8日(木) 密室本/松本恵子
・やっと、「密室本」の読者プレゼント、「メフィスト」の座談会1回から20回分をまとめた「密室本」が届いた。講談社ノベルスと同じ造り(カバーはなし)で、320p弱。結構な厚さである。〆切ぎりぎりで申し込んでから2月、やはり随分時間がかかるもんである。送り状に「今回の企画は、・・当初予測した以上の成功を収めています」とある。そうでしたか。(6/2記)
・「新青年趣味」に末永昭二編「犯罪公論」(昭和6年刊)の細目(1)が載っている。目次のみならず、内容に関する短いコメントが載っていて、雑誌のもつ「悪書」の雰囲気が伝わってくる。創刊号には、前から気になっている夫婦、松本泰「支那人の指」とその妻、松本恵子「妖姫ビビアンの日記」(中野圭介名義)が作品を寄せている。手広くやっていたのですなあ、と思っていたら、偶々読んでいた最近の文庫本に、「松本恵子」の名を発見。ちくま文庫「尾崎翠集成(上)」に収録された、「座談「炉辺雑話」より」という発言抜粋の冒頭に、発言の元になった「女人芸術」(1930年2月号)の座談会におけるメンバーとしてその名が見える。谷崎精二、三上於兎吉のほか、当時の気鋭の女流作家が参加している座談会らしい。残念ながら、発言は、尾崎翠の部分しか再録されていないが、思っていたより、有名な女流だったらしい。松本泰夫婦については、昭和初年代を舞台にした若竹七海『海神の晩餐』でも、あちこちに言及があって面白い。この話は、いずれ。



5月7日(水) 『新青年趣味]』
・前日分、「藤原編集室」で言及していただきありがとうございました。
・(過去に戻って)末永さんに『新青年趣味] 特集医学と探偵/横溝正史』(「新青年」研究会」)を送っていただく。ありがとうございました。
・内容は、雄に単行本1冊分の読み応え。
 01年専修大で開催された「医学と探偵」シンポジウムの報告と、同シンポジウムでの発表の内容を骨子とした論考、阿部崇「短編「闘争」について」、谷口基「戦後医文学者の「気品の水脈」」。前者は、ロンブロゾ学説、優生学的イデオロギーを小酒井不木の代表作に探り、その「不健全さ」の質を作品の歪みとして読み解いて途絶えた可能性について言及する。後者は、風太郎の小説における医学的要素を2つに分類した上で、作品を通底する医学的思考と忍法帖・荊木歓喜物等の関連を論じつつ、人間や神の「法」に批判され乗り越えられていくべき「知性」として、医学的要素を分析する。論考に重要な役割を果たしている、単行本未収録エッセイ「小説に書けない奇談−法医学と探偵小説」(りべらる昭24.10)にも、要注目。
・横溝正史特集では、村上裕徳「横溝正史小伝1」が、横溝の自伝的エッセイを参照にしながら、複雑な環境に生まれ育った作家の、いわば影の顔をあぶり出していき、とにかく、ぐいぐい引き込まれた。20年ほど前の旧稿の大幅な訂正・増補・改訂版ということだが、今後も楽しみ。500枚かかりそうだというから、それでは、何年後に完結するかわからないが・・。浜田知明「鬼火、通読のためのテキスト」は、戦前の代表作で発禁・削除が行われた「鬼火」が収録された16の刊本を並べたものだが、削除部分をめぐって大幅な相違があることを教えてくれる。小松史生子「女子大生と横溝正史」は、女子大講師が「お嬢さん大学」で、半年試みた横溝研究ゼミの概要。学生から提示される視点が新鮮、と書いていっては、キリがないので、後は駆け足。
 阿部崇「伝記・大倉[てる]子」は、の遺族への取材を交え、女流作家の生涯を編年体で追った力作論考。9号の「女傑・大倉[てる]子伝説」でも感じたが、この作家の存在は本当に面白い。東京の名家に生まれ、二葉亭四迷、夏目漱石に師事。(「虞美人草」のヒロインのモデルは自分であると言っていたそうな)、妹の和子の部屋は、新しき女たちの会「青鞜」の事務所になるなど、「青鞜」とも深いかかわり。外交官夫人となるものの、後に、離縁。吉野作造との不倫説もある。40半ばにして、森下雨村と知り合い、50歳目前、「踊る影絵」で華々しく探偵小説界にデビュー。心霊術にも凝り、夫の残した遺産は男につぎ込む。戦後、探偵作家クラブに加入、土曜会に皆勤。漱石門下で乱歩コミュニティにいた唯一の人ではないだろうか。小説雑誌で、捕物帖まで旺盛に執筆し、1960年74歳で死去。丹念な資料渉猟と取材で、波乱に富んだ女流推理作家の生涯が浮き彫りにされている。浜田雄介「渡辺啓助ノート6」もいいですなあ。採り上げられた戦争直後の短編、1編も読んだことがないにもかかわらず、着眼と分析の鋭さに唸らされる。その他、新青年編集部にいた元編集者の貴重な インタヴュ−、山風展や少年探偵団展のレポート、「マイクロフォン」インデックスや「犯罪公論」細目など資料類も充実の限り。
 興味のある方は、『新青年』研究会HPをのぞいてみてください。

 

 5月6日(火) 「鞆繪と麟之介の物語」再見
・先食い続行。30日記。やよいさんのおかげで、実際にカストリ誌く「くいーん」に掲載されていることが判明した風太郎作品「鞆繪と麟之介の物語」だが、その掲載のいきさつは、『戦中派闇市日記』から時系列で要約すると、以下の如し。
○昭和22.9.19 行人社「くいーん」編集部の編集者が風太郎宅に来訪。25枚の推理小説の依頼あり。
○昭和22.9.21 雑誌「くいーん」を送って貰った風太郎は、「何が上品なエロ雑誌なものか!」「エロでないくせにエロの匂いをさせて読者を吊ろうとするすこぶるあとあじの悪い雑誌である」、「原稿うっかり承諾したことを後悔す」
○昭和22.9.27 くいーん編集部の人間に会うが、「くいーん」が駄誌なのに参って、採用不採用どちらでもよしとして、「旧作」を送ることとする。(「旧作」とは、「鞆繪と麟之介の物語」「雪女」の2編であることが、翌年5月4日付けの日記でわかる)
○昭和22.10.9 くいーん編集部より、原稿11月号、12月号に分載すという連絡あり。 
○昭和23.1.25 くいーん新年号が送られてくる。「鞆繪と麟之介」(前半)掲載。
○昭和23.5.4  国際文化社という出版社に呼出しを受ける。出版社の言い分は、「雪女」を「くいーん社」から買い受け、最近号の巻頭読物として印刷にかかるところだったのに、春陽堂「ユーモア」の4月号に同作を載せるとは原稿二重取りではないかというもの。これを聞いて、風太郎は大憤慨。「鞆繪と麟之介」はまだ前半部分が掲載されただけで、「爾来本の発行せられざるままにて止みぬ」。雪女は掲載の見込みもないので、編集部の人間に勝手に処分してよいか尋ね、編集部の了解も貰っている。第一「鞆繪と麟之介」の稿料すら貰っていない。風太郎は、自己の署名捺印ある「雪女」の稿料受領証なるものを見せられ憤激、くいーん社あて陳弁せよと書を走らす。
○昭和23.6.24 国際新聞社というところで計画された第2短編集の収録予定として「鞆繪と麟之介」の題名が出てくる。
 見落としあるかもしれないが、以上が「鞆繪と麟之介」の「くいーん」掲載の経緯。5月4日の項は、戦後のカストリ出版のいい加減さを象徴するようなエピソードではある。
 やよいさんからコピーを頂いた「くいーん」(Vol.1 No.5 昭和22.12)が、風太郎の書いている「新年号」で(掲載誌の目次には、DES・1947とあり、巻末に新春特大号が予告されているから「新年号」にはならないと思うが)結局、その後雑誌の発行は中断し、日記に後半部分の掲載について言及はないものの、『カストリ雑誌研究』にあるように『くいーん』(第4号?)の(1948年5/15刊)に掲載された、ということになるのだろうか。
 試し斬りで「鞆繪と麟之介」の関連項目を追っかけてみたが、実に日記というのは偉大なり。『闇市日記』では、初期作品の多くについて、成立の背景、執筆期間、原稿料まで明らかになっている。まさに新事実の宝庫。最大・最高の記録者である作者の参加を得ることで、今後、作品の読みや書誌上の探求は、より豊かに精妙なものになっていくものと思われる。



5月5日(月・祝) 『戦中派闇市日記』発刊!
・5/29日、記。話題の先食いになるが、出たっ、山田風太郎』『戦中派闇市日記』。『戦中派焼け跡日記』に続く第2弾で、昭和22.23の日記。2年で単行本1冊になるくらいの分量があるのが、まずうれしい。帯で近刊予告されている『戦中派動乱日記』も昭和24・25年で一冊になるらしい。戦後の日記は、備忘録的な一行日記に近くなっているかと思っていたが、そうでもないようだ。このシリーズ、好調に続いて、是非すべての日記が単行本になりますように。二百年後に滝沢馬琴の日記と並び称されるくらいの日記になるかもしれぬ。
・内容の方も、ぱらぱら観ている段階だが、風太郎の小説好きには、何ともたまらないものがある。この年代、旺盛な執筆活動が開始された時代で、日記には、執筆中や構想中の「鬼子母神殺人事件」!「みささぎ盗賊」「ウサスラーマの錠」「永劫回帰」「うんこ殺人」「眼中の悪魔」「手相」「恍惚殺人」!「乳房」!等等の初期作の題名がむら雲の如く。書誌的にも貴重な上、まだ発掘を待っている作もあるようだ。加えて、土曜会での交遊など、戦後探偵小説界を窺うの第一級の資料になっているし、戦後の混乱期の市民の記録にもなっている。まさに、快哉を挙げたい1冊。
・まだ、謎になっていた「鞆繪と麟之介の物語」(=「呪恋の女」)、掲載のいきさつも、この日記で明らかになっているが、それは別途。



5月4日(日) 『魔界転生』
・昨年から新日本プロレスでは、星野勘太郎率いる覆面集団「魔界軍団」というギミックを使っているのだが、この度、魔界軍に参加したケン・シャムロックの煽り映像に「USA魔界転生」と出たのは笑ってしまった。元格闘家がプロレスラーに魔界転生するという意味なのね。
・この日は、ステラプレイスのシネコンに4月に封切られていた『魔界転生』を観に行く。ちょうど前日に、TVで深作版『魔界転生』をやっていたので再見したが、ダメダメ感は封切り時の印象と変わらず。時代もストーリーも変えてしまったのはまだしも、初見時に印象的だったのが、お通の娘だったかが、死地に赴く十兵衛をひきとめながら「男の人は何故戦うの」と問いかけるセリフ。これほど、山風の世界から遠いものはない。忍法帖の世界は、女も戦うのである。ストーリーを改変して反権力のドラマにしているのも、いかにも図式的で、これにはちっとも乗れなかった。出典がすぐ出てこないが、何かのインタヴューで、試写会の後、山風が深作監督になにもいうべき言葉がなくて困った、というようなことを言っていたと思うが、それもむべなるかな。最近出た「時代劇マガジン」なんかによれば、時代劇の名作として評価されているようで、これは意外だった。
・夕方からの上映で、客入りは、7割くらい。深作版に比べて、平山版は原作に近づけており、話のテンポも良い。所詮、原作と映画は別物と割り切ってみれば、深作版にあったウェットな部分を吹っ切っているし、結構楽しめる映画だと思う。魔界衆の人選には、ちょっとした仕掛けがあったりする。意外だったのは、佐藤浩市の十兵衛がハマリ役だったことで、瓢然たるヒーロー、十兵衛を演じられる役者など思いつかなかったのだが、紀伊大納言の前でどっかり座り込むところなど、実によろしい。これはナイスキャスティングだった。
 パンフと「魔界転生Tシャツ」を記念に買ってくる。「魔界転生」湯呑みも買って帰るべきだったか。



5月3日(土) 『地球礁』
・ハリントン・へクスト『テンプラー家の惨劇』(国書刊行会)、折原一『模倣密室』(光文社)購入。(27日記)・日記もリアルタイムから離れていく一方だが、この日、3日は3連休の初日。帰省中の岩井大兄と、あっちゃん、お久しぶりのW嬢と小樽に遊びにいったのだ。大兄とW嬢が顔を合わせるのは20年ぶりとか。お互い、感想は「変わらないね」だったが・・。老舗の蕎麦屋「藪半」で、日本酒。店構えがとてもクラシック。その後、若鶏で有名という店「なると」へ。こちらは、ファミレスが登場する以前の家族レストランという感じで、入り口で食券の購入が必要。待ち時間に20分以上かかるほどの賑わい。鶏はうまかった。小樽の人は美味しい鶏を知っているのだ。9時過ぎJRで帰還。清遊というには、飲み過ぎた。
・『地球礁』 R・A・ラファティ(河出書房新社/02.10('68))
 なんだか知らないが、去年突然ハードカバーで出たラファティの初期長編作。これまで邦訳のある長編は1作も読んでいないのだが、さすがに奇想充溢、へんてこなことでは並ぶものがないようなSFだった。アイルランド民話にラファティという神が出てくる話があったと思うけれど、解説では、このアメリカのホラ吹き爺さんの小説をアイルランド文学やカトリシズム文学の系譜の中に位置づける読みを提示していて面白い。
 地球に来ている2組のブーカ人の家族が2台のステーションワゴンたどり着いたのは、アメリカの小都市ロスト・ヘヴン。大人が4人と子供たちが7人の家族は、高い知性と特殊能力をもつが、住民からは忌み嫌われる。大人達は、地球アレルギーという病に冒され、やがては果てる運命にある。このロストヘブンでブーカ人の家族たちに転機が訪れる。3日の間に、大人たちの一人は死に、一人は狂い、一人は殺人容疑で逮捕される。一方、子供達は、大人たちを皆殺しにし、なんでも好きなことができるように世界を掃除することを決意。世界の人口を抹殺する手始めにに、廃炭坑にある地元の悪ガキたちの5つの王国を征服するため、筏「イル・ド・フランス号」で、露天炭坑の周囲を網の目ように走走る運河に乗り出す。悪ガキや小悪党どもと小競り合いを続けているうちに、逮捕された父親の殺しにまつわる真相が明らかになっていって・・。
 粗筋を思い出すうちに、果たしてこんな話だったっけ、と不安になってくる。炉辺の民話のような子供たちの話、死者たちとの自由な会話、ブーカ人たちの言語を操る芸術(バガーハッハ詩、イーラッハ話)といった独特の語りのスタイルこそが眼目なのだろうけど、異星人たちの居住する場所が悪党と検事に牛耳られているアメリカのスモールタウンというのが、なんともミスマッチでへんてこさに拍車がかかっている。恐るべき子供たちの成長の物語でもあり、航海への期待は膨らむのだが、物語は中折れして、奇妙にリアルなスモールタウンを出ることはない。成長しない子供たちの成長の物語。旅ならぬ旅の物語。ブーカ人は、「死は終わりでなく、新しい、おもしろい何かへの入り口なのだ」と信じている。結末は大いなる航海の予兆に満ちていて、なんだかとても爽快な気持ちになった。



5月2日(金) ワイルドで行こう
・これも、かなり前に読んだ本ですが。
・『探偵術教えます』 パートヴァル・ワイルド(02.11('47))
 『検屍裁判』で知られる作家の最晩年の作品集。『悪党どものお楽しみ』も、キャラクターが立って、一編一編工夫が凝らされた充実した連作集だったが、本書は、喜劇的展開に比重が置かれた絶妙な連作集。ワイルドの作品に敬意を表するクイーンが本連作集の産婆役となったらしいが、名伯楽の惚れ込んだだけのことはある。主人公ピート・モーランは、田舎町に暮らす資産家のお抱え運転手。私立探偵にあこがれ、通信教育で探偵養成講座を受講。毎回その生半可な知識を振りかざして周囲の事件に首を突っ込み、教師役の「主任警部」をやきもきさせるが、いつも見事に事件を落着させる。使用人の名探偵というとウッドハウスのマリナー氏を連想させるが、ピートの方は、のんしゃらんで美女に眼がないという設定でいかにもアメリカ的。文章は誤字だらけの無教養の愚者が権威(主任警部)を出し抜くという民話的ともいえるシチュエーションが判りやすく、事件のドタバタぶりも、主任警部の逆上ぶりも、回を追うごとにエスカレートしていくさまは、シチュエーションコメディの鑑といえるもの。事件の叙述に独特の間がある書簡文形式も効果を挙げている、ひたすら楽しい連作集。☆☆☆★


5月1日(木) 『東京サッカーパンチ』
・『東京サッカーパンチ』 アイザック・アダムスン(扶桑社ミステリー文庫/03.4(00))
 書き出し1行目「おれは筋金入りの芸者マニアなんだ」
 この冒頭の一発で、本書の目論見は明らかだろう。「色眼鏡のラプソディ」「ちはやふる奧の細道」「日本殺人事件」の系譜−「外国人に曲解されたニッポン」の手法をアメリカ人が逆輸入したような確信犯的「国辱」ハードボイルド。身体障害者国際武術選手権の取材で来日中の雑誌記者ビリー・チャカは、渋谷の飲み屋「紫の地引き網」で日本酒を呑んでいたところ、男たちに追われる美しい芸者に遭遇する。立て続けに起こった旧知の映画監督佐藤の焼死と、謎の芸者の失踪事件はやがて絡み合い、ビリーは、常軌を逸した事件に巻き込まれていく・・。
 都筑道夫がかつて紹介していた昭和30年代の東京を舞台にした洋物ハードボイルド連作がとても面白そうだったのを覚えているが、80年代のサイバーなチバシティ以降に描かれるニッポンは、やはり違う。ケータイとファーストフード、ノー天気な若者と酔いどれの中年、ワーカホリックとヤクザと暴走族と右翼とアイドルがひしめく国。そこへ、芸者や武道や宗教団体が絡んで、ありえない国ニッポンが現出する。まさか!という展開をみせるストーリーは、かなり、すっとこどっこいだし、探偵のワイズクラックの年輪もやや不足気味だが、映画マニアでかなりの日本通という20代の作者が描いた、良く知っているようでかなり違っているニッポンの異化効果には、かなり酩酊させられること必定。二作目のタイトルは、なんと「Hokkaido Popsick」だという。こちらの翻訳も、楽しみに待つことにしよう。☆☆☆