BCJフォーラム(12) ['01/04/18〜]
237 | 《ヘンデル協会のメサイア》 矢口様こんばんは。亀山@愛知です。 愛知県名古屋市でヘンデル協会というところでメサイアを歌っています。今年の演奏会で鈴木美登里さんと米良美一さんと共演できるというニュースが舞い込んできました。 このヘンデル協会というところ、もう30年以上もメサイア一筋でやってきている団体ですが、指揮者の本名先生(今年で4年目の共演になります)の要求される活き活きとして美しい音楽を実現するのになかなか苦労しております。それでも、このように素晴らしい指揮者、共演者の方々と同じ舞台に立つのに恥ずかしくない合唱になる様に皆で頑張っております。 ヘンデル協会 メサイア演奏会 第37回 2001年 12月 2日(日) 午後5時開演 愛知県芸術劇場コンサートホール 指揮 本名徹次 ソプラノ 鈴木美登里 カウンター・テナー 米良美一(友情出演) テノール 畑 儀文 バス 春日保人 チェンバロ 湯口依子 オルガン 川越聡子 管弦楽 名古屋フィルハーモニー管弦楽団 合唱 ヘンデル協会(合唱指揮:滝沢博) 入場料 S席4,000円 A席3,000円 B席2,000円 自由席2,000円 松坂屋・名古屋三越・ヤマハ(株)名古屋店・愛知県芸術センター各プレイガイドにて10月1日より発売 問い合わせは、とりあえず私のアドレス(ktoshi@kd5.so-net.ne.jp)まで。 *鈴木美登里先生には特別に練習にも来ていただいく予定です。 個人的には大変忙しく(中略)しばらくBCJの演奏に触れていないのが大変残念です。10月27日の埼玉のロ短調ミサには半年後の自分達の演奏会の参考にもしたいので無理をしてでも伺う予定にしています。年末のメサイア公演も楽しみなところです。 (亀山俊樹様) (01/08/15) |
亀山さん、こんにちは。ビッグ・ニュースのご報告、ありがとうございます。「フォーラム」へのご登場は一昨年1月のBCJのメサイア岐阜公演の時以来になりますでしょうか。 指揮者の本名徹次さんはピリオド奏法の演奏にも興味をお持ちで、昨年の暮れには、コンサートミストレス:若松夏美、チェロ・トップ:鈴木秀美という豪華な布陣のオケでベートーヴェンの第九他を東京で演奏されましたね。今回は秀美夫人の美登里さんとの共演に加え、米良さんも友情出演とは何とぜいたくなことでしょう。きっと素晴らしいステージになることと思います! 練習や本番のレポート、ご感想などもお寄せいただけると幸いです。 来年6月には「ロ短調ミサ」も演奏されるとのこと。こちらも楽しみですね! (矢口) (01/08/16) |
236 | 《7月7日の演奏会を聴きました。》 7月7日の演奏会を聴きました。 前回の大編成による歓喜の爆発と比較して、ずっと小編成で地味な感のするプログラムでしたが、今回の演奏は非常に内面的で密度の濃いものであり、特に最後の104番には本当に感動いたしました。 冒頭の見事なパストラーレと3曲目のオーボエの精妙な二重奏(三宮・尾崎さんの名演!)を経て、5曲目のバスのアリアにはショックを受けました。マタイ冒頭のあの痛切なリズムの高揚から、中間部の死の眠りでのオーケストラの何という驚くべき精妙な響きだったことでしょうか。それはまさに、この世を超越した彼岸での浄化された響きとしか言いようのない神々しい響きでした。そして鈴木さんの長い沈黙のパウゼ(会場全体が息を呑むような異様な緊張!)の後のダカーポでの不思議な開放感は、自ずとあの崇高なマタイのアウスリーべの無限の慈愛を連想させられました。そして最後のコラールの力強い高揚での、毅然とした意思の明確さ!(他の誰がこんな明確な意思を持ってコラールを歌ったでしょうか)終演後の盛大な拍手は、鈴木さんの強いメッセージに対する聴衆の熱い共感の表れだったと思います。 今回のプログラムの巻頭言で、鈴木さんは自らのカンタータのテキストの翻訳経験を語られ、驚くべき発言をされました。「何百という言語に翻訳されている聖書も、常に翻訳を通すことによって、聖書をどのように理解し信じるか、が試されていく」のだから、「(ドイツ語から日本語に)翻訳することは、デメリットではなく私達外国人の特権かもしれません」。この言葉は我々が常に直視すべき重い真実ではないでしょうか。これは日頃、翻訳を通したカンタータ理解に焦燥感を感じている私達への力強い励ましのメッセージであり、また安易に流れがちな私達の日常生活に対する厳しい警告だとも思います。その意味でも、今後とも我々は、鈴木さん始めBCJ全員の今日・この場に全てを賭けたメッセージを、一瞬も気を緩めることなく真摯に受け取る覚悟が必要だと思った次第です。 (玉村 稔様) (01/07/09) |
玉村様、今回も感動と共感にあふれたご感想、ありがとうございました!
ご紹介が遅くなってしまったことをお許しください。 104番は本当に見事な演奏でしたね。BCJのみなさんと聴衆がともに理想の天の牧場にたどり着いた思いでした。私もバスのアリアでは「マタイ」の、同じくバスによる“清め”のアリアを思い浮かべていました。カンタータ・コンサートの醍醐味はこのようにたくさんの発見、出会いがあることですね。104番もまた一つ大切なカンタータになりました。その一つ一つのカンタータとの出会いを作ってくださるのがBCJのみなさんの作品の核心に迫ろうとする気迫とそこから生まれる確かなメッセージに他ならないと思います。これからもたくさんのカンタータとの出会いを楽しみに聴き続けましょう! (矢口) (01/07/15) |
234 | 《主は我が牧者 〜BCJ Bach Cantatas vol.29〜》 鈴木雅明さん率いるBach Collegium Japanの第147回チャペルコンサート/第49回定期演奏会のライプツィヒ時代1724年のカンタータ3−復活節後,昇天祭のカンタータ−を聴きに,神戸松蔭女子大学チャペルに行きました(6月30日(土) 15.00-17.00頃)。 今回は早めの14時過ぎに到着しましたが(JRが時刻通りに運行してくれたので),早くも食堂がある建物のところまで並んでおり,開場の時間には門の上にある「橋」のところまで並んでいました。 プログラムは下記の通りで,チラシとプログラム冊子では表記と曲順が異なり,曲順は教会暦を逆に進みました。 プレリュード,ラルゴとフーガ ハ長調BWV545 (パイプオルガン独奏:今井奈緒子) 《信じて洗礼を受ける者》BWV37 《誠に,誠に,あなたがたに告げる》BWV86 休憩 《あなたはどこへ》BWV166 《イスラエルの牧者よ,お聞きください》BWV104 訳詞は今回も雅明さんが担当され,聖書を始め様々な文献を参考にされて翻訳なさっていることがよくわかります。「巻頭言」でも翻訳のことに触れられて,「ドイツ人には古めかしく現代とかけ離れて響くであろうテクストも,翻訳作業を通してみますと非常に新鮮で,しかもその理解と解釈について吟味できるからです」「翻訳作業は,決してデメリットではなく,むしろ大きなメリットと言えるかもしれません」というのは,私個人も楽曲などの翻訳に携わることがある中から感じ取っていることです。今回,各曲に小見出しが付いてよりメッセージがつかみやすくなりました(逆にそれにとらわれ過ぎるとテキストそのものから各自が読み取れないかもしれないこともあり得ますが)。 今回も終演後にレコーディングがあるようで,マイクが林立する中での演奏会でした。オーケストラの配置が少し違っていて,チェロが前に出てきてオーボエが後ろに下がっていました。コンティヌオにチェンバロはなく,合唱は4.3.4.4でした。 まず最初に,オルガン独奏によるプレリュード,ラルゴとフーガ ハ長調。イ短調のラルゴは後の追加かもしれず,一旦外したり再び入れたりという問題の曲でしたが,聞いている分にはただその良い響きが心地良いだけでした。また,このオルガンは,次のカンタータを聴く良い備えになっていることをいつも思います。ちなみに,上のオルガン席で聞かれた方によると,今井さんは直前までずっと曲をさらっておられたとのでした。 カンタータの1曲目《信じて洗礼を受ける者》は,ゆったりと始まる1.[合唱]から(これはガーディナーの快活なのよりはコープマンに近い感じ)。テノールの2.アリアのヴァイオリン・ソロはコンティヌオ譜の数字を元に復元したものでした(コープマンのものが似ている。ガーディナーのものはテノールの旋律をなぞるものでかなり違う)。ただ,秀美さんの音程にあれっ?と思う部分がありました。 3.コラールはP.ニコライの『いと美しきかな,暁の明星は』に基づき,野々下さんのソプラノ・ソロとブレイズさんのアルト・ソロで,ゆっくり目にとても美しく歌われました。雅明さんのオルガンの右手の音の多さと,コンティヌオの歯切れよさ。バスの4.レチタティーヴォはコンティヌオがスフォルツァンド気味で始まり「死すべきものよ」の歌詞にはっとさせられます。バスのS.マクラウドさんは強く歌うタイプではないようですが,しみじみと迫ってきます。 続いて《誠に,誠に,あなたがたに告げる》。 バスの1.[アリオーソ]は快活に,しかし「あなたがたが私の名によって願うならば,父なる神は,必ず聞き届けられる」というイエスの言葉が迫ってきました。アルトの2.アリアはスリリング!ブレイズさんの(あえて?)やや押さえ気味の歌,若松さんのヴァイオリン・ソロは全体に快活かつスタッカート気味で分散和音は拍の頭を溜め気味に,淡々と進む(ように見える)コンティヌオという3つの違うリズムが絡み合い,お互いの様子を見ながら演奏する中に,困難の中でも祈りが聞かれる様が。ソプラノの3.コラール(G.グリュンヴァルトの『私のもとに来なさい,と神の子は言われる』)はソロではなく合唱で。コンティヌオはチェロは休みでファゴットのみだったのは,上の楽器がダモーレ2つだからでしょうか。ダモーレの細かな動きに天使を思いました。テノールの5.アリアでは弦がふくよか。ただ,テノールはhが現れるなど高く櫻田さんもちょっと苦しそうで,「神の助けは,確かだ」(gewis)という歌詞があるのですが,全体に音程もやや不安定な印象なのが残念でした。 休憩は20分。松蔭の食堂はいつも懇親会が催されるところとは別にもう一つ奥にあることを今頃になって発見しました。 後半はオーケストラの配置が少し変わって,オーボエの三宮さんがコンサート・ミストレスの席に移動し,若松さんはその隣へ,竹嶋さんが後ろへ移っていました。そして,《あなたはどこへ》。バスの印象的な1.[アリア]で始まり,イエスが歯切れよく「あなたはどこへ行くのか」と問いかけます。 Wohin?の繰り返しは,背景は違いますがリズム的には似ている部分もある《ヨハネ受難曲》を思い出します。テノールの2.アリアはしっとりと。問題のオブリガート・パートはヴァイオリンで(コープマンはオーボエでコンティヌオはファゴット)。座席がオーボエとヴァイオリンが隣り合って,良い感じで音が重なっていました。ただ,テノールは歌詞から読み取れるのとは違ってやや強すぎるような印象がありました。ソプラノの3.コラールは合唱で(B.リングヴァルト『主イエスよ,私は確かに知る』)。何と美しいこと! チャペルで聞いていると,このイエスへの祈りが天に届くような心地です。アルトの5.アリアではブレイズさんが力強くこの世の栄華の空しさを歌い上げます。最後の6.コラール(Ä.ユリアナ『誰が知り得ようか,我が最後のかくも近いことを』。『讃美歌』にも304番として収録)ではEndeとbehendeの韻が印象的に歌われ,Blutのフェルマータは珍しく伸ばされて「キリストの血」がしっかりと歌われました。 最後に,《イスラエルの牧者よ,お聞きください》。オーボエは元の位置に戻ってさらに2人入りました。コントラバスは第4弦をEからDに下げて,頻繁に出てくるDに対応されていました。冒頭の1.[合唱]はやや速めで快活に「聞け」と歌われます。合唱の力強さと,「聞け,聞け」のクレッシェンドが印象的。テノールの2.レチタティーヴォではコンティヌオが伸ばすのは守りの表現でしょうか。バスの4.レチタティーヴォでは途中の ja が予想に反して柔らかく,静かな確信の表現もあることを思いました。続くバスの5.アリアは実にまろやか。イエスに牧される羊の幸いと,「穏やかな眠りとしての死」の表現に,こちらも思わず眠りに誘われるくらいの気持ち良さでした。最後の6.コラール(C.ベッカー『主は私の真実の牧者』)ではkraftiglichでの力強い表現で,主が牧者であることがしっかりと伝えられました。 最後に,アンコールでBWV37の1曲目の合唱が再演されました。 今回改めて思ったのは合唱の良さで,合唱曲でもそうですが特にコラールでより一層思います。そして,コラールの時には合唱だけでなく全体がぎゅっとまとまる感じに,思わず一緒に歌いたくなります。それこそ会衆の歌であるコラールらしいのかもしれません。オーケストラの方の和やかな顔も印象的でした。 プログラムは今回またまた1000円に値上げされましたが,L.ドレイファス(後藤菜穂子訳)の『バッハのコンティヌオ・グループ−声楽作品における奏者と慣習について』と,E.チェイフ(藤原一弘訳)の『バッハの声楽作品における音楽のアレゴリー』に加えて,BCJが掲載されたニューヨーク・タイムズ特集記事であるバーナード・D・シャーマン(岡村雅子訳)『バッハの宗教曲との新鮮な出会い』が収められて,さらに読みごたえが増していました。 次回は少し間が空きますが,ライプツィヒ時代1724年のカンタータ4〜聖霊降臨節のカンタータ〜ということで,いつもながら楽しみです。 第149回チャペルコンサート(9月22日(土)16.00-) J.S.バッハ:《来たれ聖霊,主なる神よ》BWV651,652 J.S.バッハ:教会カンタータ全曲シリーズvol.30(BWV44,59,173,184) (竹内茂夫様) (01/07/06) |
竹内さん、いつも神戸公演のレビューありがとうございます。今夕、七夕の夜空に(星は瞬かなくとも)響きわたるBCJのカンタータをいっぱいに受けとめてこようと思います。コラールが素晴らしいというところがうれしいですね!
プログラムが1000円とは、やや驚きですが、きっと納得のいく中身であることを期待しています! (矢口) (01/07/07)
七夕の東京公演のあと、神戸の竹内さんから神戸公演についての追加情報をいただきました!
あわせて、竹内さんのレビューにあった内容についていくつか。 まず合唱の編成ですが、神戸では4-3-4-4であったそうですが、東京では4-4-4-4でした。うかがったところによると、音楽的な判断ではなく現実的な要請からのことであったそうです。なおレコーディングは4-4-4-4で行われたそうです。 次にBWV104でのコントラバスの調弦について。最低音をDにするチューニングとうかがっておりましたので注目していたところ、東京公演では何と、5弦のヴィオローネ(フレットあり。当然チューニング替えはなしでした)が用いられていました。そこで、これについても終演後コントラバス奏者の西澤さんにおうかがいしたところ、確かに神戸ではご指摘のようにチューニングを変えて演奏していたのですが、オペラシティの空間の大きさも考え、東京では5弦の楽器を使うことにしました、とのことでした。なるほど、確かに環境は大きく違いますからね。BCJの“響き”に対する細やかな配慮を感じました。 東京公演も非常に充実した演奏でご感想もいくつかいただいております。順次ご紹介させていただく中で私の印象なども書き添えさせていただこうと思っています! (矢口) (01/07/11) |
233 | 《この世の春と、玄冬と》 初めてお便りいたします。BCJのファンになって6年目、このHPもいつも拝見しております。 先般、調布で行われた超格安コンサート、翌日のトウキョウ・バロックと、連夜楽しませていただきました。久しぶりに生で聴く寺神戸さんのヴィオロンの音、生き生きと躍動しつづけるきらきらしたアンサンブルには、まさにこの世の春を謳歌するヴェルサイユ宮殿を感じました。対照的に鈴木秀美さんの無伴奏チェロ組曲・・・目を閉じてじっと聴いていると不思議な感覚が湧いてきました。私が死ぬとき、すべての痛み・苦しみから逃れて「死にたくない、まだ生きたい」という欲望もなくなり安らかに死を受け入れるとき、この音が聞こえてくるに違いないと思ったのです。野々下さんのアリアも、いつになく温かみと真心が伝わってきて涙が出そうになりました。あらためてBCJの底なしの魅力に感じ入ったものです。 (teddy-rose様) (01/06/09) |
teddy-rose様、はじめまして。お便りありがとうございます。去る6月6日、7日と連続して行われたBCJの名手たちによるコンサート、つい昨日のようですが、もうずいぶん時間が経ってしまいました。お便りはコンサート直後にいただいたもので大変タイムリーなものだったのですが、今月末までの仕事(本職のです・・・。何が本職なのかなんてつっこまないでくださいね!)がたくさんありご紹介が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。 調布では暖かくも質素なバッハ家の姿が目に浮かび、かたやマレの夕べではきらびやかな宮廷のにぎわいを彷彿とさせる音楽でしたね。どちらもまさに人間の姿であり、面白い対比であったと思います。秀美さんの無伴奏チェロの演奏から安らかな死への瞑想をされたとのこと、まさに同感です。実に深々とした響きでしたね。野々下さんによって紹介された「眠れ、疲れし眼よ」のアリアはまさにそんな死への思いを込めたテキストでした。その音楽のなんと穏やかなこと! かつて原曲のカンタータ82番をエグモント氏の名唱でうかがった時のことは今でも忘れられません。しかし、この日の音楽はなんとバッハの家庭で楽しまれていたもの。奥の深い生活ですね! そんな生活から次々に生み出されたカンタータの数々。人間の多様性を余すところなく表現した素晴らしい芸術です。そのカンタータをじっくり楽しめるコンサートが間近に迫りました! 6/30の神戸、7/7の東京公演に期待しましょう! カンタータデータは何とか30日の早朝までにはUPしたいと思っています。 teddy-rose様、是非またお便りお寄せください! (矢口) (01/06/28) |
232 | 《幸せなコンサート (6/7、トウキョウ・バロック)》 6月7日、浜離宮朝日ホールであった寺神戸亮さんのマレのコンサートに出かけました(本当はトウキョウ・バロック)。その日突然降った雨のせいなのか、演目だった「音階その他器楽曲集」が良く知られた曲ではなかったせいなのか、はてまた朝日新聞が嫌いな人が多かったせいなのか?会場は小さかったにもかかわらずとても空いていました。私は悲しかったです(;_;) 当日のプログラムは以下の通り。 マラン・マレ <ヴィオロン、ヴィオール、クラヴサンのための音階その他器楽曲集> ◆パリのサント=ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘 ◆マレ風ソナタ ◆サント=コロンブ氏へのトンボー (筆者注:これは曲集に含まれていません、豪華なおまけです) ◆音階(小オペラ形式による) アンコール ラモー作曲「コンセールによるクラブサン曲集」第5コンセールより「マレ」 実は私、寺神戸さんが演奏したこの「音階」のCDが大好きで、もうそれこそ耳にタコどころかトロ、ウニ、アワビ、今ならカツオが出来たではないかと思えるほど、何百回も聴いているのです(すいません、こないだ美味しい御寿司を食べたばかりなので・・・)。 演奏者、演目に多大な期待をし、この日のコンサートのためにTOCCAのスカートまで買ってしまった私にしてみればここまで空いているのは「意外」としか言い様が無く、しかもその日の演奏の出来を考えればこれほど勿体無いことはありません! そこで、矢口さんに「感想いかがですか?」とお誘いを受けたのをいい事に、この場を借りて「こーんなに良かったのに・・・、来なかったなんて勿体な〜い!」と、来なかった方々に自慢してやろう、というコンタンです。なんて私は腹黒いんでしょう!!! (楽太郎さんに負けてないかも・・・) とは言っても音楽家に対する思い入れは人それぞれです。もちろんその音楽家のどんな特性ゆえに好きになったのかも人それぞれです。 あくまで私の場合、アンドレアス・ショルが好きな理由はあの「美しい」という概念の具象化のような声ゆえです。映画「カストラート」みたいに倒れてしまいそうなほど、際限なく、ただひたすら、美しい・・・。 対して寺神戸亮さんは私にとってそういう音楽家ではありません。彼の演奏は美しいの一言で済まされるものではなく、かっこよかったり、激しかったり、厳しかったり、Cuteだったり、上品だったり、雄大だったりします。たった一人の人間から沢山の感情が感じられるのです。まるでパッサカリアみたいです。 さてさて前置き(長すぎるぞ!という文句が聞こえてきそう・・・)はこの位にして、CD何百回も聴いた私の「音階」における当日のお楽しみは・・・ 1.寺神戸亮さんの千変万化?するヴァイオリン 2.とにかく【刺激的】なアンサンブル 3.CDではフルートを含めた四重奏だったのが、三重奏(タイトル通り)になるとどうなるか? まず3番目から。CDではマレの「フルートを加えても良い」という指示に従い、フルートがヴァイオリンのメロディーをなぞったり、あるいはヴァイオリンと分担したりして効果的に使っていました。今回はフルートがありませんから当然の事ながら、そして寺神戸さんのファンには嬉しいことに!ヴァイオリンの負担が増えるわけです。と思っていたら、CDではヴァイオリンが弾いていたところがヴィオールで弾かれていたり、必ずしもヴァイオリンのみの負担が増えていたわけではありませんでした。しかし、ヴァイオリンの負担が大きかったのは事実で、あるフレーズの終わりから次のフレーズに移る時の切り替えの見事さなどは、さすが寺神戸さん!もうため息モノでした。 実際マレ自身がどんなふうに指示を出しているのか、ぜひ楽譜を見てみたいものです(本来私は楽譜を見て音楽は聞かないのですが、この曲の楽譜はぜひぜひ見たい!!!)。 2番目については、息の詰まるような緊張感ではなく、適度な緊張感があって良かったです。よく映画で主役よりも脇役に目が行ってしまう、ということがありますが、ヴィオールの上村かおりさん、彼女の演奏はカッコイイ!結構好きです。クラヴサンのヘンストラ氏は良く支えている、という印象です(同じく寺神戸さんのバッハの「ヴァイオリンとオブリガードチェンバロのためのソナタ」を聞いたときもそういう印象でした)。しかし、「刺激」は充分でした。 さて、1番重要な1番ですが・・・。ある音は倒れてしまいそうなほど美しかったし、技巧的なパッセージの完璧さにドキドキし、叙情的な部分にうっとりできるという(特に2番目のミ)、まさに期待通りの演奏で、もう言うことなしです!!! 演奏が終わった後、(^^)こんな顔で拍手できました。音楽を聴く上でこれほど幸せなことがあるでしょうか!!! 全体として言えることは、すごく楽しめた!ということです。演奏が終わったとき、もっと聴きたい!あと2,3回、どうせだったら演奏家が倒れるまで !!! きっと細かい装飾などは演奏ごとに変わっているであろうことを考えると同じ演奏者で何回聴いても飽きない曲だと思います。本当に本当にこの曲、このコンサートを楽しむことが出来ました。お客さんが少なかったことなんかにめげず同じ曲目で、またやってほしいです。 ところで、これは質問に分類されるのかもしれませんが、使用楽器についてです。今回配布されたプログラムには楽器については何も書かれていませんでした。ヴァイオリンとヴィオールは奏者自身の所有しているものである場合が殆んどですから良いのですが、今回使われたクラヴサンはどういうものだったのでしょうか? CDではブランシェモデルのクラヴサンが使われています。今回のクラヴサンはブランシェモデルのチェンバロによくある、雪の舞い落ちるようなシャンシャンとした音ではなく、何だかパキパキという感じだったのですが。もちろんモデルにしたクラヴサンがどうであろうと、作った人によって音が違って当然なのですし、同じ楽器でも場所や環境によっても違うから何とも言えないのですが・・・。少し気になりました。どなたかご存知の方いらっしゃいましたら教えていただきたいものです。 こんな幸せなコンサート、また期待します。 (石山節子様) (00/06/11) |
昨年の暮れにショルについてのご感想をこちらで紹介させていただいた石山さんより、先日の「マレ」のコンサートの“熱い”ご感想をいただきました!
当日会場でお会いしたときのお願いに応えてくださってありがとうございます。石山さんのお便り中にもありますが、「こんなにおいしいコンサートに来ないなんて・・・」とつぶやいてしまいたくなる一夜でした。 寺神戸さんを評しての「彼の演奏は美しいの一言で済まされるものではなく、かっこよかったり、激しかったり、厳しかったり、Cuteだったり、上品だったり、雄大だったりします。たった一人の人間から沢山の感情が感じられるのです。まるでパッサカリアみたいです。」の一文にはなるほど、と唸らされました。まったくその通りですね! その寺神戸さん、しばらくBCJの演奏には参加されないようですが、もうすぐ「ブランデンブルク」のCDも出ますし、その存在感の大きさはやはりBCJの宝の一つですね。今回のような寺神戸さんの魅力全開のプログラムでのコンサート、たくさん開いていただきたいものです。今度はビーバーの夕べなんていかがでしょう!! (矢口) (01/06/13) |
231 | 《素晴らしい演奏に感謝 (6/7「マラン・マレの肖像」)》 はじめまして。こちらのHPには初めて伺いました。 毎回素晴らしい演奏を聴かせてくださるBCJの皆様に是非お礼を申し上げたくてメール致します。 昨日は、寺神戸亮さんの「マラン・マレの肖像」を聴きに参りました。 心にダイレクトに響く素晴らしい演奏でした。 うまく表現できませんが、とてもとても幸せな気持ちで会場を後に致しました。 本当に音楽って素晴らしいですね。 そして私達の心を強く揺すぶり、又、暖めたり、幸せにしたり、涙させたりするBCJの演奏家の方々に心から「ありがとう」!と申し上げます。 これからも時間の許す限り足を運びます。 (中里由希子様) (01/06/08) |
中里さん、「VIVA! BCJ」にようこそ! 「マラン・マレの肖像」本当に素晴らしいコンサートでしたね。 今回、寺神戸さんの妙技はもちろんのことですが、私としてはヴィオラ・ダ・ガンバの表現力の幅広さに驚きました。凄みのある低音を鳴り響かせたかと思うと、もう指板のはじのはじを使っての高音域の伸びやかな響きに移るといった具合の音のかき分けに感銘を受けました。クラブサンも含め、楽器そのものも大変美しかったですね。私は今まであまりフランス系の曲になじみが無かったのですが、名手による素晴らしい演奏に触れ、これから聴き続けていきたいものだなと思いました。中里さん、またBCJの演奏に触れてのご感想などお寄せ下さい。お待ちしております! (矢口) (01/06/13) |
230 | 《カンタータを歌うときのBCJはやはりすばらしかった》 4月の不調(といっても水準は超えていたと思いますが)はいったい何だったのだろうか? カンタータを歌うときのBCJはやはりすばらしかった。今回の3曲が復活を祝う性格だったこともあってか、晴朗とした響きと快活なテンポがまさにぴったり。かといって、痛みや畏れを表現する劇的な部分の表現にも過不足はなく、とても充実していたように思う。 コンサートの出来を示すひとつの規準に、「体感時間」というものがあるのではないか、と以前から思っている。つまり、実際の時間経過と音楽を聴いている時間感覚との間には、演奏の水準と何らかの相関関係があるのではないだろうか。たとえば、つまらない演奏だと、短い曲でもとても長く感じて、何度も時計を見てしまう、というようなことだ。 今回の定期は、上の意味での体感時間は非常に短かったように思う。実は、「今日は早めに終わったなあ」と思って帰りに電車に乗ろうとしたら、イメージよりも30分遅かったのだ。改めて反芻してみると、確かにアンコールも含めて終演は9時過ぎになっていたはずだ。ところが、時計をもっていなかったためもあるけれども、絶対に9時前に終わったと思いこんでいたのである。すべての人に使える法則ではないとは思うけれども、体感時間の短いコンサートは充実していると、経験的には言えるように思うのだが、どうだろうか。 各論では、67番が特に良かったように思う。冒頭の合唱で「halt」が歌われるあたりからすでに、カンタータの主題であるキリスト復活の喜びが力強く伝わってきた。櫻田(先月に続いてソロが多くてご苦労さまでした)&ブレイスのアリアも美しく、抑えた表現の中からも喜びがあふれでてくるコラールも素敵だった。第6曲のコーイはわざと抑え気味に歌っていたのだろうが、3階席ではちょっと聴こえにくかったのは残念だったけれども。 134番は曲の構成が興味深く(カンタータの定型?から大きくはずれているのに、座りが良いように感じる辺り、「パロディ」の面白さを感じる)、66番は短くもきっぱりとしたコラールが印象的だった。 ちなみに、最初に「オルガン小曲集」からの曲を、コーラス付きで演奏したのは、あとのカンタータとの引用関係が分かる曲もあったので、非常に良い試みだったと思う。 (北村洋介様) (01/05/28) |
北村さん、カンタータコンサートのご感想、ありがとうございます。私も今回のコンサートの体感時間は非常に短かったです。思い出してみると、昨春の横浜でのBCJ「マタイ」も「マタイ」全曲を確かに聴いたはずなのに1時間ぐらいにしか感じられずまたたく間に終わってしまった印象でした。その演奏が私にとって昨年のBCJの中でも最も印象深いものであったわけですから、「体感時間」による感じ方は非常に的確なものなのかもしれませんね。ちなみに今回のカンタータコンサートの終演は、私が自分の時計を見た記憶によると午後9時10分過ぎでした。 67番、本当によかったですね。このカンタータが今回の3曲の中では唯一の1724年の新作(66と134は以前の世俗カンタータの転作)なのですが、「ヨハネ」を生み出したバッハの筆の充実が感じられました。 オルガンコラールの前にソプラノ4人によるコラール唱が演奏されたことは、私も非常によい試みだったと思います。昨年のサントリーホールでの鈴木雅明さんのオルガンコンサートやその後CDにもなった「ドイツ・オルガンミサ」の演奏での成果を踏まえてのものと思いますが、是非これからも機会あるごとに試みて頂きたい取り組みです。ちなみに今回演奏されたオルガンコラールとカンタータの引用関係は、1曲目の《キリストは死の縄目につながれたり》は有名な復活節カンタータBWV4のもと曲で、2曲目に演奏された《キリストは甦りたまえり》は最終節が旋律の形を変えてBWV66の最終コラールになっており、《栄光の日が現れた》の最初の節はBWV67のアルト・レチタティーヴォに挿入されるコラールとして使われているそうです。なかなか心憎い構成でした! (矢口) (01/06/02) |
229 | 《なんと見事な歓喜の爆発だったことでしょう!》 昨日の復活節カンタータには感動しました。なんと見事な歓喜の爆発だったことでしょう! キリストの復活を、長かった冬が終わって待ち望んだ春の到来に重ね合わせたドイツ人バッハの歓喜の激しさは、殆ど眩暈を感じるほど強烈なものでした。それにしても前回の厳粛な受難節となんという違いでしょうか。思えば前回の、あの厳粛な受難節の体験なくして今回の歓喜の爆発はあり得なかったのでしょう、見事な連続でありまたそれだけに驚くべきコントラストでした。 BCJのみなさんも今回は本当に嬉しそうで、演奏中もにこやかな笑みが渦巻いて抑えきれない喜びが充ち満ちており、会場の私達聴き手もうきうきとしてきました。それに今日のロビンと櫻田さんの見事だったこと! 前回ヨハネの福音書記の大役を見事に果たされた櫻田さんの成長振りは凄いですね。(新国のドン・ジョヴァンニが楽しみ!) それにしても、冒頭の66番の大合唱を聴きながら、こんな充実した響きがかってBCJにあっただろうかと思わずにはおれませんでした。BCJの音が変った? 合唱は以前と段違いに厚みが増し、オケも低音が一段と充実してダイナミックさが際立ってきたように思いますが、今日の祝典的な曲目のせいでしょうか、矢口さんはどう思われますか? 帰宅後、矢口さんのHPに掲載された鈴木さんの文章を読み直しました。 「復活はただ一度の出来事だが、バッハもそれに続く私達も毎年その喜びを心から歌いたい。この世に邪悪と憂いが充ち満ちているからです。バッハの中に千変万化の形で表される喜びは私達を年毎に新しくするために用意された最上の贈り物ではないか。」 キリスト教には縁遠い私ですが、この感動的な文章を再度読み直して、昨日の演奏こそはまさに鈴木さんの思いだったのだと思い当たりました。前途の見えない不安の新世紀に生きる我々を、限りなく力付ける昨日の熱演に感謝したいと思います。 (玉村 稔様) (01/05/28) |
玉村さん、喜びに満ちたご感想ありがとうございました。時ならぬ5月の復活節の興奮をありありと思い出します。BCJの合唱&オケの充実についてですが、私はプログラム冒頭のオルガンコラールに登場したソプラノ4人の歌声からすでに「今日のBCJは一段と凄そうだぞ!」と感じていました。伸びやかなコラール唱が豊かにホールの空間に響きわたっていたからです。その期待がその後のカンタータの演奏で十二分に満たされたことは言うまでもありません。終演後お話をさせていただいた櫻田さんも、玉村さんのご感想と同じように「前回の受難節コンサートがあったからこそ今回の喜びに満ちたカンタータは本当に楽しく歌えました。ロビンとのコンビも歌っていてとても楽しいです!」とおっしゃっていました。オケではファゴットの堂阪さんの妙技が非常に効果的だったと思います。もちろんアリアのオブリガードで楽しい装飾を聴かせてくれたコンミスの夏美さんやオーボエの三宮さんにも大拍手です。そして今回も「ブランデンブルクより難しい」66番でのトランペットの神業に加え、春の新作ホルンの深みのある音で
も我々を酔わせて下さった島田さんにもブラヴォーを捧げたいと思います! さあ、また約一月後には今度は「復活祭後、昇天祭のカンタータ」が聴けます。実に楽しみです。しかし、カンタータの次のCDはいつ出るのでしょうか・・・。待ち遠しいですね! (矢口) (01/06/02) |
228 | 《ゆったりまったり復活節の喜び 〜BCJ Bach Cantatas vol.28〜》 鈴木雅明さん率いるBach Collegium Japanの第145回チャペルコンサート/第48回定期演奏会のライプツィヒ時代1724年のカンタータ2−復活節のカンタータ−を聴きに,神戸松蔭女子大学チャペルに行きました(5月19日(土) 15.00-17.00頃)。前回は開場の時間が予定の14.30よりも早まったのですが,今回は予定よりも10分ほど遅れました。 プログラムは下記の通りで,チラシとプログラム冊子では表記が異なりました。
今回はオーケストラもありましたので,前回のアカペラ中心のステージに比べてにぎやかでした。また,演奏会後に録音もあるとのことで,マイクもたくさん立っていたために一層にぎやかな印象がありました。 お客さんの入りは前回よりは多いとはいえ,それでも満席ではないようでした。 「オルガン小曲集」では4人の女性合唱と今井奈緒子さんのオルガン。4曲がシンメトリカルに構成されているようで,オルガン曲の構成と音色の変化がありました。 《キリストは死の縄目につきたまえり》 静━┓ その中に,1曲目に置かれた受難の曲に,復活の喜びの前に受難を忘れてはいけないことを思い起こさせられました。 カンタータの1曲目《喜べ,心よ。退け,痛みよ》は,全体のゆったり感とコンティヌオにどっしり感。1.[合唱]はレガート気味で始まり,歌は合唱ではなくソロで導入され,後半のandanteの部分もソロの二重唱で導入。バスのソロは浦野さん。Aの部分に転調したときにオーボエがベルを上げ気味に吹くのがちょっとユーモラス。ヴァイオリンがとても高くまで駆け上がるのも決して易しくはなさそうです。バスの2.レチタティーヴォと3.アリアはコーイさん。アルトとテノールの4.レチタティーヴォではファゴットも参加。ロビンさんのカウンターテナーの力強いこと(その理由は懇親会の時にわかりましたが)。アルトとテノールの5.アリアは非常に快活。夏美さんのヴァイオリン・ソロは,ダ・カーポでは装飾も加えながら音がだんだん太く雄弁になっていきました。それにしても秀美さんが周りをよく見て演奏しておられること!6.コラールでは秀美さんが歌っていましたが,この曲も演奏も思わず歌いたくな るような幸福感は私も感じました。最後はまるでオルガンのような響きで終わりました。 20分というお茶を飲む時間が持てるゆったりした休憩の後は《おのがイエスの生きたもう,と知る心は》。この曲は雅明さんの「制作ノート」によると「第3版を演奏する以外の道は考えられない」とのことでした。1.レチタティーヴォの通奏低音はオルガンではなくてチェンバロ。後半のアルトは"Wie freuet sich"らしく速めのテンポ。テノールの2.アリアではコープマンのように余分な装飾ではなくて楽譜通り(ヴァイオリンとオーボエのピッチのズレが少し気になりましたが)。テノールとアリアの掛け合いが後半にある3.レチタティーヴォでは,櫻田さんも良かったですがそれにも増してブレイズさんの力強いこと。2重唱の4.アリアも速めに活き活きと進みました。最後の6.合唱でようやく合唱隊が登場しましたが,長く待っていただけに最後に向かって調子が出てきて,やや速めに進みながら喜びを歌いました。オーボエの前で聞いていたせいか,ヴァイオリンが抜けてオーボエの2重奏になる部分が印象的でした。 最後は《イエス・キリストを脳裡にとどめよ》。トラヴェルソのりり子さんの他に,不思議な形をした「コルノ・ダ・ティラルジ」を持参して島田さんが登場。ゆっくり始まった1.合唱は"halt"の繰り返しがクレッシェンドされて「とどめよ」に,キリストの復活を銘記せよということが強調された感じ。テノールの2.アリアは柔らかく少しゆっくり目に,主の復活を覚えながらもまだ喜びを爆発できない様が表されているよう。アルトの3.レチタティーヴォでは"Mein Jesu"がチェロの持続音とともに一層力強く歌われて,主が「私たち」に置かれた歌を続いて合唱が4.コラールとして応答しました。アルトの5.レチタティーヴォでも,ブレイズさんの力強さとともにチェロの持続音が印象的でした。4声が登場して変化に富む6.アリアでは,トラヴェルソとオーボエの心地よい和音に乗せてイエスが語る"Friede sei mit euch"が,ゆっくりながら決して遅すぎない中に,決して何もない平和な状態以上の活き活きとした平安を表現しているように思いました。ただ,交代で現れる速い部分のヴァイオリンの細かな動きは難しそうです。 大喝采の後,アンコールで《喜べ,心よ。退け,痛みよ》の最初の合唱が演奏されました。ピッチなどはもう既に合っていない部分もありましたが,皆さんが喜んで演奏しているように見えて,こちらも幸福な思いでした。 コンサートミストレスは,久しぶりの若松夏美さん。今日のゆったりほのぼのした感じは夏美さんのキャラクターから来るのかなと思いました。ヴァイオリンと合唱のアルトに新しい方がおられました。 懇親会は,今回はその後に録音を控えたBCJの皆さんのために食事会という形式になり,しかもいつもの食堂の中ではなくて天気も良かったので雅明さんの提案で(?)急遽野外になりました。ただ,懇親会の案内が看板だけだったためか参加者は少し少な目で,その分より親しく交流できたかもしれません。 いつものように初めての参加者が紹介された後に,今回はブレイズさんがカウンターテナーのことについて話して下さいました(通訳は秀美さん)。その要点として理解したのは,1)「カウンターテナー」という用語自体が誤解を招きやすい,2)その用語が指している音域も様々,3)国ごとに定義も違う,4)(これは雅明さんの補足でもありますが)バッハのアルトパートは輝かしく力強いものなのでカウンターテナーがよりふさわしい,といったもので,なるほどと思いました。 その他に,雅明さんと個人的に話す時もあり(私の記事もお読み下さっているようで恐縮しました),1)前回のシュッツのヘブライ語についてはやはりドイツ語が先だったであろうということ,2)ある人からメールで質問されたことですが,《マタイ受難曲》アーノンクール新盤のNBA49/BWV59では,バセットヒェンのアリア"Aus Liebe"の2行目Von einer Sünde weiß er nichtsのeinerがkeinerと歌われて歌詞もそのように書かれていることの背景について,そのような二重否定で書かれたものがあったと思われるということでした。けれども何に基づいて採用されているかはCDの解説にも記されてはいないようなので,不明です。3)《ヨハネ受難曲》のDVDが出るので,映像だとより分かりやすくて良いのでその後もバッハ関連のDVDを出すご計画があるかどうかをお尋ねしたところ,日本のようにカンタータが生活に根づいていないところでは映像で見れることが良いかどうかは一概に言えない,ということでした。 また,雅明さんの奥様とも初めてご挨拶をさせていただく機会がありました。 懇親会は次回は12月にクリスマスパーティ,2月に懇親会という予定のようです。 プログラムは今回からさらに800円に値上げされましたが,L.ドレイファス(後藤菜穂子訳)の『バッハのコンティヌオ・グループ−声楽作品における奏者と慣習について』という刺激的な論文と(実際にコンティヌオはチェンバロとオルガンの両方が用いられました),E.チェイフ(藤原一弘訳)の『バッハの声楽作品における音楽のアレゴリー』という数象徴を含めたアレゴリーの問題を扱った興味深い論文が収められて,読みごたえがさらに増しました。 次回はライプツィヒ時代1724年のカンタータ3〜復活祭後,昇天祭のカンタータ〜ということで,いつもながら楽しみです。
(竹内茂夫様) (01/05/26) |
竹内さん、こんにちは。復活節のカンタータ、神戸公演のレポート、ありがとうございます。一昨日、東京公演も終了しました。お便りを頂戴したのが東京公演当日だったもので、レポートの内容を私だけが拝見させていただいて東京での演奏を聴かせていただきました! 各曲の様子については竹内さんのレポート通りで復活の喜びに満ちあふれた充実の演奏でした。アンコールも神戸と同じくBWV66の第1曲の主部でした。東京でのトピックとしては、コンチェルティストが今回は前の方の指揮者横に出てきてソロやデュエットを歌ったことでしょうか。神戸では合唱団の前のスペースで歌っていらっしゃったとのことですが、やや空間の広いオペラシティの特色を考えての試みかと思います。結果としてコンチェルティストの歌声がよく通り、合唱と絡むところではその対比が一層はっきりしたと思います。ただ、コンティヌオ・グループとのコンタクトは、特にレチタティーヴォの時にやや難しそうだった所があったように思いました。 今回から800円にグレードアップしたプログラム冊子ですが、竹内さんもご報告下さった大変興味深い論文2本の連載に加え、もう一つ重大な変化があります。それは今年度からカンタータのテキストの日本語訳を、何と音楽監督の鈴木雅明さん御自らが担当されることになったことです! 昨年度テキスト翻訳の大任をつとめて下さった松浦先生が研究のため渡独されることになったことでの変更ですが、演奏と解釈との一体感が増す大変興味深い取り組みだと思います。今後の楽しみがまた一つ増えましたね。6月、9月のカンタータコンサートも神戸公演が先ですので、よろしかったらまたレポートをお願いいたします! (矢口) (01/05/28) |
227 | 《120000番のプレゼント》 去る3月10日(土)、BCJの21世紀最初のカンタータコンサートが神戸松蔭女子学院大学のチャペルで開かれようとしていた日の午前中、当HPに120000番目のお客様がおみえになりました。私(矢口)はその時神戸に向かう新幹線の中。出がけにHPをのぞいて、もうすぐだなと思っていたのですが、松蔭に着いてチャペルの前に並んでいたところ、「120000番出ましたね!」と声をかけていただいてキリ番突破を知りました。翌日家に帰り着いてさっそくメールを確かめてみると来ていました、キリ番ゲットのメール! 「山下ケイゴ」さんからのお便りでした。
暖かい応援のメッセージをいただき、とてもうれしく思いました。そこでさっそく折り返しメールを差し上げてご希望をうかがい、BCJ事務局並びに鈴木雅明さんにも色々と相談させていただいた結果、この度、あさって5/19のBCJカンタータ公演 in 神戸において120000番のプレゼントを贈呈させていただく運びになりました。鈴木雅明さんBCJ事務局のみなさん、ありがとうございます。 今回の神戸公演には私は残念ながらうかがうことができませんので、神戸では鈴木雅明さんからプレゼントの品物をお渡ししていただく予定です。今回は終演後レコーディング開始前の貴重なお時間に「BCJ神戸公演後援会」による懇親会が開かれるはずですので、その会場でということになるでしょうか。山下さん、お楽しみに! (業務連絡?!:神戸公演後援会のみなさま、今回山下さんが懇親会に参加される時の会費1000円は矢口の方で払わせてください。よろしくお願いいたします!)
ちなみに山下さんはお若い方ですが、BCJの大ファン! ご自分のHP(こちらです→「マイサイト」)もお持ちになっていらっしゃって、その中の「Music」コーナーでは好きな音楽ベスト10の中に何と5点もBCJのCDがランクインしています。お住まいは九州!・・・ということではじめは「BCJの演奏会には行きたいけれど遠いので・・・」ということだったのですが、鈴木雅明さんからのコンサートへのご招待のお申し出をいただき、今回初めて生BCJに触れていただけることに(しかも松蔭で!)なった次第です。九州からの常連のみなさん、お楽しみに?! プレゼントの中身についてや生BCJ体験のご感想などは後日山下さんご本人から当「フォーラム」にお寄せいただく予定です。ご自身のHPの「日記」にもお書きいただけるかもしれません。山下さん、めいっぱいお楽しみください! (矢口) (01/05/17) 大変残念ですが、山下さんは上記コンサートの当日、体調を崩されてしまい、神戸にはいらっしゃれなかったそうです。幸い、現在はご回復されたとのことでなによりです。是非また何かの機会にお出かけください。プレゼントについては何らかの形でお届けする予定です。楽しみにお待ちを! (矢口) '01/05/26) |
226 | 《聖書の言葉を歌い聴くこと》 鈴木雅明さん率いる Bach Collegium Japan の第144回チャペルコンサート/第47回定期演奏会の17世紀 ドイツ・プロテスタントの受難曲を聴きに,神戸松蔭女子大学チャペルに行きました(4月14日15.00-17.00頃)。 プログラムは下記の通りです。
今回はオケはなく前半のポジティフ・オルガンのみで,後半はアカペラのシンプルなステージでした。合唱の編成は基本的に4.4.4.4でした。 お客さんの入りは少なめと感じましたが,このようなあまり演奏される機会がないにも関わらずバッハの理解には非常に重要と思われるシュッツなどの曲を聴く機会を逃すのは,あまりにもったいないように感じました。 演奏会の前に雅明さんによるプレトークがあり,受難曲の歴史について概観されて,聴く前の良い準備になりました。 最初の(「プレルーディウム」)シャイトのオルガン曲詩篇《イエスが十字架につけられたとき》を大塚直哉さんが演奏されました。十字架上の7つのことばのパラフレーズである6つの変奏曲からなり,静と動および様々な音色の交錯するオルガンの音が,受難の物語を聴く備えとなったようです。 「スティルス・グラヴィス」(厳格で荘重な様式)と名付けられた前半は,デマンツィウスの2曲。まず《イエス・キリストの受難と死の預言》〜イザヤ書53章より〜は,文字通りキリストの受難が預言されている旧約聖書イザヤ書53章をテキストにした約11分の曲で,プログラムにもあるように受難の物語はその預言とは決して別々のものではないことから,今回一緒に演奏されたのはふさわしかったと思います。全体が3つの部分に分けられて,6声−4声−6声で対比させられながら,ひたすら聖書の言葉を語っていく中に反復された"durch seine Hand fortgehen"という歌詞が重要なメッセージだと感じました。 続く《ヨハネ受難曲》も3部から構成された約20分の曲で,上3部と下3部のかけあいでなっている受難曲でした。重要な部分は反復されたり長く延ばされたり装飾されたりして,"Kreuz"は不協和音だったりしたのが印象的でした。その中で,"Es ist vollbracht"がクレッシェンドで強められて演奏されたのが耳を引きましたが,バッハの《ヨハネ受難曲》のような静かなのを思い起こして,果たしてキリストはどちらだったのかと考えてしまいました。全体に場面ごとに間を取られて転換が明示されていたようでした。バッハとはまた違った受難曲を聴くことができました。 休憩が終わって戻ってみるとオルガンも片づけられて合唱のみ。「スティルス・オラトリウス」(語りの様式)と名付けられたシュッツの《マタイ受難曲》が静かに始まりました。福音史家の櫻田亮さんは常に音叉を耳に当てて音程を確かめている様子で大変そうでしたが,この長くて大変な福音史家を全体として見事に歌われていたと思います。全体に場面ごとに取られていた間と,"Kreuz"という語が含まれる部分の強調が印象的でした。途中数箇所音程を低く取ってしまったところがあったようですが(その理由はフォーラムでの矢口さんのコメントを読んで理解しました),後に合唱が続くときにも全体が破綻せずに進んだのはさすがでした。 浦野智行さんのイエスも迫ってきて("Sprach"などの/sh/系の音にやや弱さを感じる場面もありましたが),"verraten"の語の強さが印象的でした。ユダなどの役を歌われた上杉清仁さんは,常に相手の顔を見ながら表情豊かに歌われていました。 途中合唱が入らずに,福音史家だけあるいは福音史家と何人かの登場人物だけで構成される比較的長い部分があります (例えば,20."Er antwortet und sprach"から 60."Da verliesen ihn alle Junger und flohen"まで, 92."Sie hielten aber einen Rat"から 104."Sie sprachen"まで, 120."Und speieten ihn an")。その部分で場面に応じて緊迫感のあるやり取りも,言葉をしっかり追って聴いているとひしひしと緊迫感が伝わってきました。これらのいわばレチタティーヴォの部分では,譜割りを歌詞に応じて時に付点に変更しながら歌われていたのに,なるほどと思いました。 シュッツの《マタイ受難曲》でヘブライ語が出てくる箇所 125."Eli, Eli, Eli, lama asabtani" は,ドイツ語が基本になっているためにヘブライ語から見ると"asabtani"が妙な譜割りになっています。そのことについて雅明さんとも先月お話させていただいたのでどのようにされるかと思っていたのですが,今回この部分を浦野さんがうまくつなげてヘブライ語として不自然ではないような形になっていました。 続く130.の途中"Und siehe da"はGCDEの音列で歌われますが,バッハの《マタイ受難曲》のGCEGを連想せずにはいられません。その後はまったく違う進み方をしますが。 131."Wahrlich"の合唱が非常に明確に歌われていたのも印象的でした。 終曲"Ehre sei dir, Christe" は静かにゆっくりしみじみと場面がしっかり分けられながら歌われてとても心にしみ入ってきました。この翌日のイースターの日に,私が所属している教会の聖歌隊でこの終曲だけを演奏しました。例えばフレーミヒ/ドレスデン聖十字架合唱団の演奏のように,速めのテンポでどんどん進んでいく演奏には疑問を感じていて,そうではなくて歌詞ごとに場面を分けながら演奏したほうが良いと思っていたのですが,今回のBCJの演奏を聴くことで確信を持てて自分なりに演奏できました。 シュッツの《マタイ受難曲》については今回オイレンブルク版の楽譜を持参して聴いたのですが,その楽譜と演奏では特に福音史家の部分にかなり違いがあるようでした。これが楽譜そのものが違っているのかその他の原因かはわかりませんが,松蔭にあるという自筆譜のファクシミリはぜひ見ておかなければいけないようです。 今回,「巻頭言」にあるように,ゲオルギアーデスの著書名でもある音楽と言語の問題は,ヘブライ語や言語学を研究するかたわら音楽にも関心がある私にとっても大きな問題と考えています。そして,受難曲に関して雅明さんが書かれている 「ここでは[...]ただ聖書の本文が朗読されるに過ぎません。しかし,十字架の真理と摂理が淡々と語られる音楽と言葉の関係こそが,その後バッハに至る キリスト教音楽の根幹であったことを忘れるわけにはいきません。」 というのは非常に重要な示唆であり,昨今流行の「いやし」を目的として演奏されやすいゴスペルのブームを思うときに,本質的なこととして忘れてはならないことのように思います。 プログラムは今回から700円に値上げされましたが,内容やレイアウトはそれにふさわしくアップデートされていると思いました。 3月の定期の時に写真を撮って下さったものをいただきました(ありがとうございました)。 雅明さんがお箸を持って写っている貴重な写真です(!?)。 さて,今回はこのレビューを書くのが遅れたために,「フォーラム」で先に金原さんと矢口さんの記事を見る機会がありました。それについてのコメントを少しだけ記します。 確かにプログラムとしてはへヴィだったかもしれませんが,同じ受難曲とは言ってもデマンツィウスとシュッツではかなり色合いが違うように感じたので,個人的にはあまりへヴィとは感じずに聴けました。特にシュッツに関しては「終わって欲しくない」という思いは私もよくわかりました。 また,今回はことばが歌われるよりも語られることが多かったですが,誤解を恐れずに言えば「ヘヴィ」と感じる原因と考えられることとして,ドイツなどではことばに対してより理性的に取り組むのに対して,日本ではより情緒的に接するという違いがあるのではないかと思います。 例えば,オランダの演奏会で長いオラトリオであるヘンデルの「テオドーラ」を聴きに行った時に感じたこととして,ことばがレチタティーヴォで延々と語られる時でも聴衆はことばを理解しようとついていっていることがよく分かりましたが,日本では日本語がドイツ語や英語とはまったく違う言語であるということを差し引いたとしても,より情緒的な方向に流れる傾向があるために延々とことばが続いていくのをヘヴィと感じるのではないかと思いました。 次回はライプツィヒ時代1724年のカンタータ2〜復活節のカンタータ〜ということで,バッハを満喫できることを楽しみにしています。 J.S.バッハ:教会カンタータ全曲シリーズvol.28(BWV 66, 134, 67) (竹内茂夫様) (01/05/04) | ||
竹内さん、神戸でのBCJ受難節コンサートのご報告、ありがとうございました。“言葉”の専門家としてのご指摘など、なるほどと思う内容ばかりでとても参考になりました。と同時にもうずいぶん時間が経ってしまっているのですが、あのコンサートの独特な雰囲気を思い起こさせてくれました。また、先のご感想への私のコメントなどにも言及いただき、恐縮です。バッハの作品だけでもまだまだたくさんありますが、BCJには是非今後もこうした知られざる名曲に光をあて、その真価を私たちに伝えてくれる企画を続けていただきたいものです。そのことがバッハの音楽をより深く味わうことにもつながると思いますので。また、バッハ以前の受難曲については、このコンサートに先立って開催された
NECのレクチャーが非常に充実した内容でしたので、いずれその全貌を伝えてくれるレポートが発行されると思います。楽しみにお待ちください。当HPでもその時にはご案内いたします! 翌日のイースターにシュッツの終曲を演奏された竹内さんにとって、今回の使用楽譜はご興味のあることだと思いますので、データを記しておきたいと思います。今回BCJがお使いになったシュッツの《マタイ受難曲》の楽譜は Guenter Graulich 編の Sututtgarter Schuetz-Ausgabe 版で、1972/1998 by Carus-Verlag,Stuttgart と記されていました。「Carus 20.479」が出版番号だと思いますのでご参考までにどうぞ。なお、今回いただいたご報告は竹内さんご自身のHPにもUPされています。よろしければこちらも是非ご覧ください。 (矢口) (01/05/07) |
225 | 《神戸での受難曲コンサート》 今回の受難曲コンサート、神戸松蔭で聴きました。とても印象深かったので、久々にメールで感想を寄せることにしました。聴衆の数はそれほど多くなく、かなり自由が利きました。 聞いた話によると、東京では、会場を暗くしたまま入場するなどされていたそうですね。なるべく演奏前の拍手を排除して、キリストの受難について吟味したいという姿勢の表れかと思いました。 神戸ではさすがに照明を落して暗くなった舞台を入場とはいきませんでしたが、パイプオルガンの演奏は、前ぶれなく演奏されました。また合唱の方々も全部衣裳を黒色に統一しており、なにか特別な意味を感じました。 日本だと「仏滅=良くない日」と同じように「受難日」→「キリストが死んだ日=仏滅」となり、受難日を悪い日だとか悲しむべき日だと思われる人もいるかもしれません。しかしそういう意味で演奏前の拍手を排除したり衣裳の色をまっ黒に統一したというのではないと個人的に考えています。人間の罪を代わりに背負って十字架にかかったから人間は喜ぶべきだが、神の子を殺さなければならないほどだったという罪の重さを感じてそれでも悔い改めて感謝をささげるから、静かでしみじみと演奏したいという謙遜の態度なのでしょうか。私は、きっとこんな意味なんだろうと解釈しました。 コンサートのプログラムはとても趣向を凝らしてありました。パイプオルガンによる独奏の後、旧約聖書イザヤ書53章によるデマチウスの<キリストの受難と死の預言>。旧約聖書全体(創世記から)は、キリストの降誕・受難・復活を預言しています。特にイザヤ書53章は、もっとも分かりやすく、明確にイエス・キリストがどのような神格を持ち、人間となって、死んで、よみがえるのかということを語っています。受難曲を演奏する前に、イザヤ書53章を学ぶことはとても意義深いと思えます。きっと、聖書をよく知らない人は、イエス・キリストが出現する前である旧約聖書の時代で、これほどまで明確にキリストの受難が預言されていることに驚くことでしょう。 休憩の後、松蔭の2階正面バルコニーに上り、松蔭のパイプオルガンの脇で聴くことにしました。以前から、2階のバルコニーは椅子が無くて立っていなければならないが、一番良い席だと聞いていました。2階正面バルコニーではありますが距離が近いため響きがよく、音のバランスも最高だったと思います。バッハのマタイ収録の様子を捉えた「Making of Matthew Passion」のビデオのアングルはちょうどあそこなんですね。 さて、後半のシュッツ作曲のマタイが今回一番の目玉でした。シュッツのマタイでは、福音史家がバッハのマタイよりも責任重大で、曲全体を支配しています。アカペラで進行していく受難曲は、バッハのマタイにあるようなレチターティーボ、アリアやコラールを持たない、聖書朗読という感じでした。だから、福音書の流れを立ち切る事がないため、バッハのマタイよりもある意味で受難の物語を分かりやすく作られている気がしました。 音楽の作りが静かです。きれいな和音の中から、ちょっとした変化を与えたりすることで、感情の変化や緊張感を作り出すのは見事でした。現代では激しい音楽の中からさらに強い変化を与えることで感情を表そうとしがちですが、シュッツのマタイの表現はそれらとは次元が異なりきわめて静粛した中から少しだけ変化をつけるという感じでした。その方が、私にはテクストのメッセージが心に素直に響き渡った気がします。バッハのマタイは非常に劇的に心を動かされますが、シュッツのマタイは「しみじみと」情感を与えてくれる感じがし、それぞれに良さがあるなと感じます。 販売されたプログラムに、時代と共に世俗化された受難曲の変化について説明されていましたが、シュッツとバッハのマタイ受難曲から100年の世俗化を感じることができました。マタイの聖句の後半はほとんどが福音史家ひとりが歌っている。やはり大した変化も無くつまらない、とも思えてしまう。そんな中にアリアやコラールを挿入してみたくなる…という気持ちにもなりそうな気がする。もちろん、バッハのマタイのアリアやコラールも絶妙なバランス感覚で挿入されているのでしょうが、「世俗化」という歴史的流れを踏まえると、そのように見て取れなくもないという言った感じがしました。 今回の受難曲コンサートは、今まで聞いて親しんできたバッハのマタイを新しい視点から見たり聴いたりするきっかけを与えてくれた気がしました。この演奏が収録されない(?)のが残念です。 今後も、「ことば」と「音楽」を追求してくれる良い演奏を期待しています。
(金原秀行様) (01/04/16)
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金原さん、言葉に奉仕した今回の受難節コンサートについてのご感想、ありがとうございました。おっしゃる通り、バッハ以前の異なるタイプの受難音楽をまとめてうかがうことで、バッハの受難曲の位置と意義がよくわかるようになりました。しかし、それと同時に私はこの受難音楽の長い歴史の中にはまだまだ素晴らしい作品がたくさん我々との出会いを待っているのではないかな、と思ってしまいました。4/3のレクチャーの時にもその一端を披露してくださいましたが、「Q&A」にもあったバッハ自身も演奏したカイザーの受難曲やほかの作品などもうかがってみたくなる演奏会でした。金原さんは今回の演奏とプログラムの解説なども踏まえてバッハへ至る道を一種の世俗化とも感じられたとのことですが、私はその要素も持ちながら、様々なタイプの受難音楽をいかにバッハが総合していったのか、を強く感じました。通作受難曲であるデマンチウスの作品に聴かれた斬新とも感じる和声の豊かさ。そしてシュッツにおける語りの要素と多声部の音楽の色合いのコントラスト。確かにバッハの方がはるかに
デフォルメされたものになってはいると思うのですが、今回の2人の作曲家の双方のエッセンスをバッハの受難曲は確かに受け継いでいる、と感じた次第です。いかがでしょうか。この経験を経て来春にうかがうことができるバッハの「ヨハネ」「マタイ」が今から楽しみでなりません。 さて今回の受難節コンサートについては、他にも様々なご意見・ご感想をうかがいました。 「器楽のついていた前半はさすがだったが、アカペラのシュッツではソリストも音程が悪く、合唱もアカペラのトレーニングが足りないと感じました。」というご感想や「今回はイエスの死を2回も続けて聴くという、とてもヘヴィーな内容で、聴いている内に胸がつまってきました。“受難曲の諸相を感じとってもらいたい”という考えはわかるのですが、今回に限って言えば、聴くほうも歌うほうも大変だったと思わざるを得ません。できれば2回に分けて、ディマンツィウス、シュッツそれぞれに別の器楽曲を並べたコンサートにしていただければ、どちらにも負担は少なかったように思えます。」といったご意見など、様々です。しかし私は「色々あったけれど、最終的には“終わって欲しくない!”と心中で願いながら座席にへたり込んでいました。やはり、どこの誰とも違うBCJ独自の世界を作っていたと思います。」とのご感想にもっとも共感をおぼえました。 最後に、アカペラへのチャレンジだったシュッツの演奏について。福音史家の櫻田さんが曲中何度も耳に近づけて確認されていた「音叉」ですが、東京公演の終演後にうかがったお話では「ミーン・トーンのG」の音叉だそうです。何でもかつて雅明さんが特注で作らせたものとのこと。合唱が続いた時などに動いてしまった音程をエヴァンゲリストの朗唱の中で前後のつながりが不自然にならぬように調整していく役割は、単に語り、歌う時間・量が多いということ以上に厳しい挑戦だったのではないでしょうか。しかし、今回のこの取り組みが必ず次回以降のさらなる充実につながるものと楽しみにしております! アカペラの楽曲にもまた機会をみて取り組んで聴かせていただきたいものと思います。 さあ、次はまさに今の季節、復活節のカンタータコンサートです!
(矢口) (01/04/18)
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