水のほとり>あれこれ

あれこれ

こわかったこと

1942(昭和17)年, 7歳. 通学路の途中に大きくて凶暴な犬が二匹, 放し飼いになっていた. いつもはげしく吠えながら追いかけてきた. 一度お尻にかみつかれた.

1944(昭和19)年, 9歳. 二階の教室の窓の外へ, 両足首をつかんで逆さづりにされた. 股関節亜脱臼はこのとき. 落とされはしなかったけれども, いまだに, 落とされてまっさかさまに落ちていく夢, これで死ぬのだなあと思いながら落ちて行く夢を見る. 悪夢はいやだ. 悪夢はもう見たくない.

1945(昭和20)年, 10歳. [憲法のページ参照] おまえのうちは アメリカのスパイだろう, 無線機でアメリカと通信してるだろう, といって, 警察がいきなり踏み込んできて家捜し(やさがし)した. 父の愛用のタイプライターを押収していった. (朝日新聞1997(平成9)年4月23日に載っています.「私の憲法体験」と翌々日の訂正と.)

1945(昭和20)年, 10歳. 夜, 敵機が上空を旋回してた. 基地も工場もない田舎で, 空襲警報はたびたび発令したけれど空襲はなくて, 敵の爆撃機は通過するだけだった. しかしこの晩は上空を何度もまわっていた. 裏山の雑木林のあちこちに軍がドラム缶をたくさん積んでいたが, 敵に気づかれたんじゃなかろうかと気が気でなかった. もし爆撃されたらあたり一面火の海だ. 結局B29は何も落とさずに飛び去っていった.

1945(昭和20)年, 10歳. 左胸に刃物を突きつけられた. 切っ先がシャツをつらぬき, 血がにじんで・・・ (学校でのできごとではありません. 学校とはかかわりありません.)


左股関節亜脱臼

1944年, 国民学校の 三年生になるといじめが激しくなり, 上級生たちとくに高等科の人たちから 休み時間ごとに暴行を受けることが絶えませんでした. 殴られたり突き倒されたり何か投げつけられたりして 翌日一日くらい寝込むことが多くなりました. ついには高等科の生徒数人に 二階の教室の窓の外に逆さづりに されました. このときに 左股関節亜脱臼していたことが わかったのは42年も後の1986年のことです. 逆さ吊りにされた当日は痛い足を引きずって帰りました. その後, 逆さ吊りにされて落とされてる夢を 幾度となく見ましたけれども, 足に痛みはしだいに軽くなりました. しかし, 歩き方が何となく変だったと母は言ってます.

ところが, 何ヶ月か後, 左股関節が激しく痛み, 歩けなくなりました. 左脚が少し長くなってると感じました. おぶってもらって近所のお医者さんまで行きました. 無医村のような所でしたけれど, 東京から疎開してきて村で開業してるお医者さんがいました. レントゲンを撮った方がいいとも考えたようですけど, X線撮影の設備のある長野市の病院まで出かけて行くのは 当時は困難でした. 駅まで一里, 汽車で五つ先の駅が長野. 医師の診断は, 股関節カリエスとのことでした. 骨が結核菌に蝕まれているというのです. カルシウムなど栄養をとって安静にしていれば治るということでした. それからしばらく, ほとんど寝たきりの暮らしになりました. 枕で背中を支えて寝床で食事し, トイレは這って行きました. やがて痛みは少しずつ軽くなり, つかまり立ちが出来るようになり, 杖をついて歩けるようになり, そして左右の釣り合いがとれないとはいえ とにかくふつうに歩いたり走ったり出来るようになりました. 疲れたときや湿気の多い日などに股関節が痛むことはあっても, 歩くのに不自由を感じなくなり, ほぼ治ったのだと思ってました.

亜脱臼というのは聞き慣れない言葉でしょう, 医学用語ですから説明が要りますね. 関節が完全に外れてしまう「完全脱臼」に対して, 亜脱臼は「不完全脱臼」ともいいます. 正しい位置から狂ってはいるけれども大腿骨の上の端が 骨盤の穴にはまって部分的に接触を保っている状態です. 骨盤と大腿骨との角度は, 人類だけがほかの哺乳類とちがう微妙なものだそうです. 直立二足歩行するようになって以来何百万年のことです. その微妙な角度が狂って骨盤が傾き, 背骨がゆがんでしまいました.

42年後の1986年8月になってまったく思いがけないことから 股関節亜脱臼と診断され, その場ですぐに治療を受けました. 礒谷式力学療法です. 入院とか手術とかいうことはなく, 股関節の治療はすぐに終わりました. 9歳のときに外れたのを長らくそのままにしておいて, 51歳になってのことです. その間に体は成長し, すでに成長を終えて固まってるわけです. 骨盤が傾いたまま長く暮らしていたのが原因で, 股関節ははずれやすくなり, 脊椎が曲がっていました. 慢性的に続いてきた頭痛のおもな原因が頸椎のゆがみであることもわかりました. ゆがんで成長してきた脊椎や筋肉を正常な状態に戻すためのリハビリを続け, 翌年になってほぼ完治しました. 何十年も続いてきた頭痛が少なくなり, 食欲不振も解消するなど, いろいろな効果が少しずつ現れてきました.

左股関節に無理をかけないように日ごろから注意して 暮らしてたつもりなのですが, 亜脱臼の再発してるのが 1992年7月にわかり, また治療を受けました. その後は順調な経過でしたが, 2000年5月に家の中ですべって転んで以来 頭痛が続くなど亜脱臼治療以前と同じような症状が続いてきました. しばらくは耐えていましたけれども2000年9月になって 思い切って診療を受けました. やはり転んだときに左股関節を狂わせてしまっていました. しかも前に亜脱臼したときとはまたちがう角度にずれているようです. しばらく通院して治療してもらいました. 関節の角度に関しては完治しましたけれど痛みは残ってます. 湿度の高い日などとくに痛みます. 逆さ吊りにされてから半世紀を過ぎてますが, いまだに痛みます.


悲しかったこと

1944(昭和19)年, 9歳. 教室で弁当ひっくり返された. 食べ物の足りなかったあの時期に, 昼飯抜きで勉強し, 上り坂を家までとぼとぼ歩いた帰り道2.6kmは, みじめだった.

1947(昭和22)年, 12歳. このころから家事負担が多くなった. 水汲み, 飯炊き, 掃除, 洗濯(末の妹のおしめまで), 買い物, ・・・ つらい仕事だったけれど, 母にはよろこんでもらえなかった.


むかしのこと

私はいわゆる混血, 「あいのこ」です. 今ふうには「ミックス」とか「ハーフ」とかいうんでしょうか. 半分じゃなくて1/4だからハーフじゃなくてクオーターと いう理屈になるんだろうけれど…「雑種」とまで言われました. 母方の祖父と祖母とが「国際結婚」したのです. アメリカとの戦争が始まるとガイジンとかアメリカ人とかアイノコとか いじめられました. やがて「永島の家はスパイをやってる」とうわさが流れ, 上級生からはげしくいじめられるようになりました. 先生たちは見て見ぬふりしてました. ついに私は学校へ行かないと決心しました. そのごまもなく日本は戦争に負けましたが, 学校にまた通うという気にはなりませんでした. つぎの世代の人たちがこんな目にあわずに生きていけるようにねがってます.

和田登 著 「舞台再訪 映画 想い出のアン」 (郷土出版社, 1986) の107ページに 「おそらく日本中どの大学を歩いても, 小学校も中学校も卒業していない大学教授はいないのではなかろうか.」 と書いてあります. この書物は同じ和田登さんの「想い出のアン ―― 青い目の星座」 (岩崎書店, 1984年, 原題「青い目の星座」で1978年に信濃毎日新聞に 連載され1980年に岩崎書店から同じ題で出版されたものの改題再版) が 「想い出のアン」として映画化されたあと, 和田さんが映画の舞台になったところを再訪して書かれたものです. 和田さんについてはこちらこちらも見て下さい.


としよりのぐち

かってに泣いたり怒ったりしてます. 聞いてやってくれますか?

e-mail