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いわゆる「ら抜き」について

はじめに

私が「見れる」などの言い方をしていいとなぜ考えるのか, その理由を説明いたします. もちろん, 若い人たちの言葉に迎合する気はありません. また, 言葉の変化を何でもかんでも無批判に容認するわけでもありません. しかし「見れる」などのもちいられるのは日本語の好ましい変化だと思います. なお, 「ら抜き」については専門家がすでに論じてるはずですから, そういう文献も見てほしいと思います. 私は国語学 (日本語学) や言語学に関しては素人です.

「ら抜き」とは

見るのが可能であることを「見られる」でなく「見れる」と言い, 同じように「食べれる」, 「着れる」などと言うのを一般に「ら抜き」と呼んでます. 見かけだけから判断すると「ら」が抜けたかのように見えます. しかし, 「られ」とラ行音が二つ続くのが発音しにくくいなどの理由で無精して「れ」と発音してるわけではありません. その証拠に, 可能を「見れる」と表現する人たちも, 受け身は「見られる」と言い表し「見れる」とは言いません. そして, 「ら抜き」という呼び方は正しくないと思います.

「見れる」の成り立ち

「見られる」の「ら」が抜けたのでないなら, 「見れる」はどこから来たのでしょう. 類推で生まれたものだというのが, 専門家の間ではほぼ定説になってると思います. 五段活用の動詞例えば「書く」を見ると, 可能は「書ける」で受け身は「書かれる」です. そこから無意識に類推して, 一段活用の動詞も同じように活用した結果が「見れる」です. 五段活用と平行して一段活用も変化させる方が文法が整然として美しくなります. それぞれの終止形語尾はつぎの表のように規則的になります.
能動可能受動
五段活用ueruareru
一段活用rurerurareru
可能形を「見られる」でなくて「見れる」にすると, さらに, 可能と受け身とを形の上で区別できるという効用もあります.

まとめ

つまり「見る」に対する「見れる」は「見られる」の「ら」が抜けたのではなく, 「書く」などとの類推によって生まれて, いまは新しく生まれた「見れる」と従来の「見られる」と並存してます. 「見れる」と「見られる」との競争がどう決着するか, どう決着させるか, これからの課題です. 私は規則的な「見れる」が優位になると予想してます. さらに, 可能形は「見れる」になっていくのが, 日本語の好ましい変化と思います. 以上が, いわゆる「ら抜き」を容認する理由です.

ただし, 「見れる」などをぞんざいな言葉とか誤った省略とか感じる人たちがいる現実にもよく留意して, 場面によっては可能の意味にも「見られる」をもちいる配慮がいまは必要と思います.


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