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(2006/1/1 - 2006/6/30)

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1月1日。謹賀新年。

あけましておめでとうございます。
ことしもまたよい一年になりますように。


 


1月14日。風の中に春の匂いを探すの巻。

きのせいかしらん、年が明けてから、戸外に出るとなんとなく春の気配があるような気がする。いくらなんでも気が早すぎるのではあるけれど、晴れていたりすると、なんかこう、深呼吸をしたりする。

年末年始は、大晦日も元日もなしで原稿をしあげていた。で、提出先の仕事始めぐらいに出せば、年末に出すのと大差ない、という説にのっとって、年明けの5日の深夜にメールで送る。何年越しでずっと書きたかったテーマであるので、文章にできたのはよかった。ただ、40枚という上限がきびしかった。圧縮するのに時間がかかったというかんじ。ていうか、まだちょっとオーバーしているので、まだなおさなくてはいかん。でもまぁ、とにかくひとまず書きあがったのがなにより。

今回は、けっきょく、「バスター・キートン主演の『共産党宣言』」というイメージを思い描きながら書いた。書きあがったものがそうなっているかというと、めっそうもございませんわけだけれど、そういうイメージが決まったおかげで、それを念頭に置くことで、書くことができた。短さとか、スピード感とか、白黒サイレントの感じとか、マシニックな感じとか、無表情で笑わせるところとか、はらはらさせながら危なっかしくぶっ飛ばすところとか、そういうところ。キートンのDVDみたり、マルクス読んだり、また、キートンとマルクスの写真を合体させてプリントアウトしたのを机の前の壁に貼ってそれ見ながら書いた。書きあがったものがそうなっているとはとても言いませんが。

今回のは、1999年に出た校則問題論と、2001年に出たいじめ論とのさらに続編で、学校問題全般について扱っている。3本通して読んでいただくととてもうれしい。でもそのためには、5年以上前の本を含め、もっとひろく売れゆかないといかん。
ここのプロフィールのページで、宣伝をしてみた。
それで効果があるとも思えないのだけれど、まぁ、気はこころ。

2月末にかけて、もう一本、これは自分の研究室の紀要なので、好きなことを好きな長さだけ書ける。例年、それを書き終わると3月で、それで戸外に出ると春の気配がしているという季節なんである。それが、ひょっとすると条件反射の狂い咲きをしているのかもしれない。


 


1月30日。ミルクティー。

ここ何年かのこの時期のこの欄を読み返すと、年末年始からこの時期にかけて、なんだかちゃんとした本を読んでいたようで、それが、今年は、新書本と再読のマンガばかりでちゃんとした本を読んでないと気づく。
それもこれも年末年始に泣きながら原稿を書いていたせいだと思うのだけれど、しかしそればかりでもなくて年々気ぜわしいことになってきてるのかもしれない。
今の時期は、採点シーズンである。卒論も含め、おおものは読み終わった。学生さんたちの書いたものを朝から晩まで読むというのは、読書とはぜんぜん別種のたいへんさがある。で、塩豆(いかりまめと春日井のグリーン豆と炒り大豆とを一緒にしたやつ)をぼりぼりと食べながら、インスタントコーヒーをどんどん飲みながら読み進めている。
で、コーヒーばかりでは胃に悪いだろうか、と、二杯に一杯はミルクティーにきりかえたりしているところ。

学生さんたちの答案を読むというのはしんどくて、なにせ、社会学なもんだから、授業では、かなり学生さんたちの「良識」からすると受け入れ難いことを喋っているので、学生さんたちは答案という形で、拒絶のメッセージをとどけてくれるんである。現代の家族といえばDVと児童虐待が激増していて、虐待を受けると自分も虐待をする虐待の連鎖がおこって親と子が殺しあう家族の危機であって、いまの家族は人間の根本を忘れてしまっているのでもっと家族が愛情を持って信頼しあわなければいけないのだそうで、自分は両親に愛情をいっぱいもらって親に感謝しているので、現代の親たちが虐待をする心理は信じられないのであって、近代家族は愛情があるから進歩なのであって、いい時代に生まれてきたことを感謝しなくてはいけない、というような結論が導き出されるような、そういうかんじの答案を読んだりすると、やはり、自分の教え方がわるかったのかと落ち込む。
しかし、おもしろい答案を読むと、やはり、こっちも勇気づけられるわけで、とくに、社会人学生さんとかすでに家族をもっている学生さんとかが興味を持っていろいろ調べて面白い答案をくれたりするのは、うれしいものである。家族論にせよ学歴社会論にせよ、生涯教育論にせよ、やはりまだ学生の立場でいるときは実感されないものなのかもしれん。まぁ、愛情あふれる家族をつくっていきたいと願うことじたいは結構なことであるわけだから、それでかまわないんである。でも、たぶんいつか、おかしいな?と思うときがくる(あるいは、自分が幸福なつもりでいたら誰かからの異議申し立てを受けとめることになるときがくる)かもしれなくて、そのときに、「近代家族」という概念を聞きかじってさえいれば、咀嚼されないまでもどっかにそれは残っていてくれるんじゃないかしら、と期待するんである。
そのくらいのつもりでいれば、まぁ、健闘しているんじゃないかなと思えもする。たぶんね。

1月はお正月休みがあるので積読のビデオやDVDが消化できる。ひさびさに10本。
『男はつらいよ 寅次郎頑張れ!』
『ヒア&ゼア こことよそ』
『うまくいってる?』
『勝手に逃げろ/人生』
『突貫小僧』
『丹下左膳余話 百万両の壷』
『女の中にいる他人』
『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』
『マイノリティリポート』
『男はつらいよ 噂の寅次郎』
なにせ寅さんをBSでずっとやってるんで、見てしまう。やはりいいなあ。お正月なんかに見るとねえ。渡世というのはつれえもんやからねえ。
ゴダール3本、寅さん3本、小津、山中、成瀬、スピルバーグ、いい顔合わせじゃないか。


 


2月3日。本日のさそり座の運勢、及び、のりまき。

めざましテレビによれば、本日のさそり座の運勢は8位らしい。

8位 さそり座
デジタル製品購入はNG
下見にとどめるのが正解。
ラッキーポイント 炒り大豆


ふむふむ・・・といいつつ外回りの仕事に出かけることにする。
街を歩いていると、あちこちで店頭にのりまきを山積みにして売っている。
「恵方巻き」などは浅薄な海苔屋の広告でしかないのだけれど、のりまきはおいしそうだ。
でも浅薄な海苔屋の広告が不愉快なので通り過ぎる。
それで、のりまきを買わない理由を考えていて、のりまきがデジタル製品だということにしようと思いつく。
それで、歩きながら、のりまきについていろいろと考えるのだけれど、なかなかデジタル的なところがみつからない。
それで、はっと思いついたのだが、のりまきは切って食べるので、離散的といえなくもないのではないだろうか。のりまきはデジタルで、アナログはお茶漬け、ていうか、餅ではないだろうか。
いや、そもそもデジタルとは何か?アナログとは何か?
それ以前の問題として、「恵方巻き」はまるかぶりなので、のりまきを反デジタル化しようというコンセプトなのではないだろうか?
ということは、購入してもかまわないということになるのではないだろうか?
そういうわけで、帰りにスーパーでネギトロ巻きを購入。お惣菜のいわしのから揚げもおいしそうだったので買ったけれど、いわれてみればいわしも節分アイテムですね。炒り大豆は、先日以来の塩豆ブームなのでどっちみち購入。そういうわけで、結果的にものすごく節分っぽいかんじになった。
のりまきおいしかった。


 


2月22日。ヒア&ゼア、こっちとあっち。

ここに書くのにちょっとあいだがあいた。前回までのあらすじとしては、ネギトロ巻きをおいしく食べたとかそういうことなのだけれど、そのごどうなったのでしょう。

もちろんどうということもないんである。授業期間、試験期間が過ぎ、採点期間が過ぎ、卒論発表会が過ぎ、入試が一段落して、この時期は月末の〆切に向けて論文が書けないといってぶつくさいっている時期である。なかなか論文に乗っていけないと、日々がとりとめなく過ぎていくようなことにもなる。そうすると、こういうところに何か書こうということにも、なかなかならないようだ。

妙なことに、weblogの方には、毎日のようにこちゃこちゃと書いている。だから、ホームページ的なところに何も書いてないというわけではないらしい。ただ、あっちのほうは、日々の刺激に対して反応した、という感じで書いている。そして、そういう場所をweblogとして持って以降、こっちのほうは、そういうのとは別の文章が書ける場所というふうに思っている。でももちろん、別の文章、といっても、むつかしいことを考えて書く気などさらさらないので、どっちみちとりとめもなく書くのだけれど。

あっちとこっちの違いとして大きいのは、こっちが単体のサイトであるのに対して、あっちのほうは「はてなダイアリ」というweblogサービスのシステムの中にある、という事である。「はてなダイアリ」というシステムはとてもうまくできていて、なんらかのキーワードなり書籍なり音楽・映像ソフトなりニュースなりに言及すると、自動的にキーワードリンクで他の人たちのweblogとリンクされるしくみになっている。なので、自分が何か書くということは、つねに、他の人たちの間で書いている、ということになる。じっさいに、キーワードを辿ってアクセスしてくる人たちというのが、こっちと比べてだんぜんに多い(まぁ、比較の問題としてなんで、まぁ、じっさいにはいずれにせよ細々としているのだけれど、でも)。表通りに店を構えているようなもんなのである。
で、そういう違いがあるので、あっちのほうではいちおう匿名なかんじで書いている。こっちのサイトからリンクをはっているので、こっちからあっちに行った人は、私のweblogであるということは承知であるしかけなのだけれど、「はてなダイアリ「クリッピングとメモ」」にいきなり来た人は、何者が書いているのかわからないように、いちおう、している。あっちにはプロフィールも書いてないし、あっちからこっちへのリンクも張ってない。
もちろん、表通りで名前を出して宣伝をして、裏通りの自分のサイトにお客を呼ぶ、みたいなことは、すれば簡単にできるのだろうけれど、たぶん、そうすることのメリットよりデメリットの方が大きいんじゃないかと思うので。

そういうわけで、あっちでは、日々のニュースなんかに対しても、はんぶんくらいは匿名でぶつくさ書ける、ということもある。こっちでは、自分として書くので、まぁ、ぼやくにしても「自分の」ぼやきをぼやくことができるし、まぁほとんど自分しか読まないので自分の好きなように書けるってのはある。
さいきんこっちに書いてなかったのは、なんか、日々の刺激反応からひといき振り返るみたいな態勢になってないからなのやろうと思う。日々はあわただしく、とりとめもなく流れ・・・みたいなかんじで。

ナボコフの『ヨーロッパ文学講義』『ロシア文学講義』というのがあって、これは決定的な本なんである。プルーストとか、ゴーゴリとか、チェーホフとかの文章をとりあげて、その描写の仕組みを繊細に辿りなおしているナボコフの呼吸が素晴らしい。で、ナボコフの小説を読むと、プルーストやチェーホフを読んで書いたのだとわかるような文章で、くすぐったくほほえましい。文章を読む、書く、ということは、ほんとうは、楽しいことなのだ。


 


3月12日。風呂で読むフィツジェラルド。

ことしもなんとかこの時期に一本、研究室紀要にのっける論文を書き上げたのだけれど、このたびは本当にしんどかった。ほんとうにほんとうにしんどかった(というふうに村上春樹なら傍点付きで強調するところ)。年末年始にむりくり一本書いて力尽きていたというのもある(まったく生産性の低い話だが仕方ない)。しかし、書いていていちばんきつかったのは、この論文に関しては、どういうふうにまとまっていくか、映画も音楽もぜんぜん思い浮かばなかったということだ。

ともあれ、書き終わり、そうなるとなんだかねじがほどけたかんじでようやく春らしい気持ちになってくるという算段である。

目がさめるとまだもうすこし夜が明けていなくて、枕元に福武文庫の内田百間がころがっているので、少し読みながら布団から出る頃合いを見計らう。もう何度も読んでいるのだけれど、ひさしぶりに読み返すとやはりいい気持ちになる。

スコット・フィツジェラルドというと、『華麗なるギャツビー』とかいうのを昔、読みかけで放っておいたなりなのだけれど、先日ひょんなことから短篇集を買い、のんびりと長風呂をしながら読んでいる。それで、人間の後半生というのはいろいろなものを喪失してゆく長い過程であることだよ、ほんとだよまったくだ、とまぁ、すっかり書いてあるままの孤独な喪失感にひたっていたら、どこかで電話の音がして、風呂から上がってみたら学生から留守電が入っている。紀要の記事として、何人かの4回生に、卒業にあたって、みたいな短い文章をお願いしているのだけれど、その原稿をメールで送ってもらうという件で、すぐに連絡して無事入稿してもらえたのだけれど、すっかり現実に呼び戻された感じがした。思えば、卒業していく学生にとっては、今が人生の大きな区切りなんである。4年間を振り返って、みな、ぐっとくるいい感じの文章を書いてくれている。そういう時期に立ち会えるというのは、これは、ほんとにいい仕事を与えていただいているのだということになる。

そういうぐあいにして、ほかの執筆者からの原稿もうまくまとまり(これについては、今年はとても楽だった。テキストファイル入稿ないし、表組みの含まれるものはWORDファイル入稿、というふうにうまくやっていただいたので)、なんとか今年も卒業式にまにあいそうである。


 


3月23日。論文が刷り上ってきた / ほねやすめ。

先日書き上げた研究室紀要の論文、卒業式に間に合わせて刷り上ってきた。で、読み返してやはり釈然としていない。論旨がおかしい、みたいなことではなくて、論旨だけあって書き込みが足りないという感じ。まぁ、学生も読む研究室紀要なので、読み物という感じで納得しようとは思うけれど。
まぁ、もう少し時間をあけて読み返せば、もうすこし面白いかもしれない。また、書き込まなかったいくつかの部分はそれだけでそれぞれ論文になりうるものだと思うので、また態勢を立て直して補完編をあれこれ発展させていけば、これからの楽しみにもなるだろう。ってことにする。

とにかくくたびれていたので、週末を利用して実家に帰ってきた。ぶりを一本さばいてもらって、おいしい刺身やらぶり大根やら照り焼きやらをしっかり食べた。おろしたばかりの刺身というのはまだ身が硬くて旨味が出てないだろう、なるほどねえ、などとぜいたくなことをいいつつ、のんびりごろごろと、両親と一緒にああだこうだいいながら、野球だの相撲だのNHKのドラマだのを見ていたんで、じゃっかんほねやすめになったようである。
ごろごろするつもりで帰省したのであまり本は読まなかったけれど、先日『美しき諍い女』『セザンヌ』『ルーブル美術館訪問』を見たという流れで、メルロ=ポンティの文庫本を持ち帰っていて「セザンヌの疑い」という文章を読んだ。で、そこにはちゃんと、『美しき諍い女』の元になったバルザックの短篇が言及されていたので、いちおうつじつまはあいそうな気がする。
あとは、本棚から『孤独ね!チャーリー・ブラウン』とかそういう、谷川俊太郎訳の「ピーナッツ」を3冊ほど引っ張り出して再読したり、レヴィナスの文庫本とか英文の文献を少し読みかけてうとうとと気持ちよくうたたねしたり、そんな感じ。いや、じっさい、好きな本を読みながらうとうととうたた寝したり、目がさめてまた少し読み始めたり、というのは、ここちよい。窓の外は春らしい天気で、空の高いところでとんびがピーヒョロロと鳴きながらくるくる輪を描いていたりする。


 


4月3日。モクレンというのはいい名前だ、とか思いつつ散歩をする。

だいたいが花の名前を知らないし、ひまわりとチューリップが見分けられるくらいの知識しかないのだけれど、ここ数年でひとつ覚えたのが、この時期にあちこちの家の庭でモクレンというのが咲いているということなのである。それで、散歩をしながら、モクレンというのはいい名前だ、いかにもモクモクした感じがするので、などと感心している。

春らしい晴れた休日はつとめて外を歩くようにしていたけれど、また、今年は1,2,3月ともに、映画(ビデオやDVDだけど)を10本/月のペースで見ることができた。
2月に見たのが、『男はつらいよ 寅次郎春の夢』(山田洋次)、『ラヂオの時間』(三谷幸喜)、『浮雲』(成瀬巳喜男)、『非常線の女』(小津安二郎)、『ギター弾きの恋』(ウディ・アレン)、『リトルマン・テイト』(J.フォスター)、『黄金狂時代』『殺人狂時代』(チャップリン)、キートン短編集(「酋長」「警官騒動」「キートン半殺し」「鍛冶屋」)、『殺しの烙印』(鈴木清順)で、
3月に見たのが、『美しき諍い女』(リヴェット)、『ツィゴイネルワイゼン』(鈴木清順)、『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』『セザンヌ』『ルーブル美術館訪問』ほか短篇(ストローブ=ユイレ)、『Shall we ダンス?』(周防正行)、『A.I.』(スピルバーグ)、『河内山宗俊』『人情紙風船』(山中貞雄)、『blue』(安藤尋)だった。
れいによって寅さんからストローブ=ユイレまで、いいぐあいに混ざっている。感想はweblogのほうでちょこちょこ書いているのもある。春休みのうちに、BSで特集していた成瀬をまとめ見する、という予定はあっさりと流れ(でも『浮雲』はよかった)、このラインナップの中では『美しき諍い女』がずいぶん後を引いて、ストローブ=ユイレの絵画モノを見たり、メルロ=ポンティの絵画論やら丹生谷貴志やらレヴィナスやら、バルザックの短篇を見たり読んだり、あげく、なんのきなしに見た『blue』っていう少女趣味映画にまでセザンヌが登場したのにはおどろいた。

研究室紀要をアップして、自分の論文もアップした(「生涯教育ゲームと状況的学習論」『天理大学生涯教育研究』no.10.pp.40-52.天理大学人間学部人間関係学科生涯教育専攻研究室(2006/3/22))。いやしかし、釈然としないなあ。
それはそれとして、ことしは全部の記事をPDFにした。PDF嫌いなんだけどね。

とかなんとか言っているうちに新学期である。今年から、学内のたいへんそうという噂の委員に当たって、どうなるかなあと思っている。できるだけのほほんとした顔をしていたいものだ。季節の花をかぞえながら散歩する日々が送れたらどんなにかいいだろう!


 


4月20日。バビロン再訪。

新学期のさいしょの半月が過ぎて、ようやく一週間のペースが実感としてわかってきた。去年の春学期は、本務校で週7.5コマのうち4コマが木曜の1、2、4、5限に積み重なっている、というちょっと極端なパターンだったのだけれど、今年はまたコマ数が減って週6.5コマ、で、だいたい毎日1、2コマずつ割り振られている。今年は学内の委員会で会議の多そうなところに当たったので、授業のない日があってもどうせ終日ゆっくり家で本を読んでるなんて真似はできなそうだろう、ということで、ちょうどいい。
で、本務校のコマ数が減った分、ということではなくて偶然なのだけれど、非常勤がひとコマ増えて3コマ、月曜日が出講日で、3つの大学のそれぞれ2、3、5限をまわる、というのが、けっこうタフだという気はしてきた。家に帰ったら身体が綿のようになっている。

そういうわけで、この春学期は、出身大学で授業をやっている。まぁ、順繰りにまわってくるのが今年当たったみたいなことだと思うので、まぁ気楽にやってよ、はーいわかりました、みたいな感じでやっている。「現代教育社会論」というタイトルの授業なのだけれど、ちょうどこの前書いたものが、ずっと学校社会学とか逸脱とかについてやってたことを総括するような内容だったので、ちょうどいいタイミングで当ててもらったと思う。それで、自分が学生や院生のときに受けた授業、非常勤で来ておられた、亀山先生とか、架場先生とかの、演習室でのまったりした授業を思い出して、まあそんな感じでやればいいかなあなどと思ってもいるわけだが、それはそれとして、9年ぶりなので、感慨は、ある。研究会なんかでときどき行っていたし、百万遍界隈の古本屋や古レコ屋もけっこう行くのだけれど、授業ということで教室で学生さんや院生さんと時間を持つ、というのは、やはり感じが違うなあと思う。建物のようすもちょっとずつ変わり、知っている院生の後輩もほとんどいなくなって、また、おおはばな改組があったんで、自分が所属していたときの「コース」などという区切りが通じなくなって、受講学生さんたちが何を専門にしているのかがもひとつピンとこなかったり、また何より、こちらがしっかり9歳ぶん歳をとってくたびれてしまったということもあって、なんだかアウエー感まんてんではあるのだけれど、授業の前に助手室 − とはもう呼ばないのだろうけれど − で待たせていただいていたら、黒板になにやら座標軸が画いてあり、その座標平面上にありったけのキーワードや矢印やグラフが書き殴り気味にプロットしてあって、それから同じく書き殴りの字で「消さないでください!!」と書いてぐるぐると囲ってあって、そういうのが、なんだか無性に懐かしいんである。

授業前に、授業で使う紙を買いに百万遍のこれまた昔からあった文具屋に入ったら、有線で流れていたのがピチカート・ファイブの「ベイビィ・ポータブル・ロック」だった。時空が歪んでるのか? 目眩がしそうになった。


 


5月3日。連休にはいった。

どうにか新学期最初の1ヶ月が過ぎた。授業のほうは、なんとかペースに乗ってきたようだ。ゼミなど、学生さんに準備して発表してもらって自分はいちゃもんをつけるだけ、ていうパターンに早々になだれこんで、それでうまく回せる感じ。なにしろ、大学というところは学生さんが勉強するところであって、私が勉強したってしょうがないんで、学生さんがなるべく勉強するようにして、私はなるべく勉強しないで済むようにするんである。それがちょうどいいのだ、そうでしょう?間違ってないでしょう?でしょう?というと、うーん、まあそうですね、と納得してくれるので、よい学生さんたちにめぐまれたと思うのである。ていうかじっさい、そのほうが学生さんたちも楽しくやってくれるんである。勉強になるし。教師の役割というのは、学生さんが勉強できるフォーマットを設定することにあるんで、それさえうまくできていれば、学生さんたちは自主的に楽しくやってくれるんである。そういう意味合いにおいてですね、わたくしは敢えて、一歩引くかんじで。敢えてね。

そういうわけで、学期はじめの第1週ぐらいには、体重が落ちて、おお、すごいすごい、しめしめ、と思っていたのが、ペースがつかめるとだいたいもとに戻ってきたりした。春休み以来、体重がけっこうピンチなので、こればかりは、すこし落ちたままでいてほしいのだけれど。

4月末〆切の原稿があって、連休のさいしょのところはずいぶんげんなりしつつ、自宅にこもっていたのだけれど、後半の連休は、しっかりと過ごそう。身体を動かしつつ、しかも有意義に過ごしたいものである。


 


5月15日。美しき五月!

連休はまいにち散歩をして過ごした。ずっと晴天が続いたので、散歩日和だったし、なんとなく欲しい本がふわふわと念頭にあったので、あちこちの本屋とか古本屋とかに行って飽きなかった。
連休最終日は雨が降ったので、一日引きこもって、積んどく状態になっていたフリージャズのCDを消化したりしつつ、買った本を読んだりして過ごし、まぁ、収穫のあった連休だった。よきかなよきかな。

で、この連休の収穫、というのは、いくつかのキーワードで、ひとつが、『「へんな会社」のつくり方』(近藤淳也)という本。ひとつが、「構成的グループエンカウンター」。ひとつが「フィンランドメソッド」と「マインドマップ」。これらは、それぞれ別の文脈でさいきん耳に入ってきたもので、『へんな会社・・・』って本は、自分もブログとアンテナで利用している「はてな」って会社の社長さんの本で、まぁWebかいわいで進んでいる情報共有とかの話を会社の組織論として書いてあるんやけど、しばらく探していても無くてどうしようと思っていたのが、連休のあいだの仕事の日に京大生協書籍部で探したらあっさりあったので入手した。「フィンランドメソッド」というのは、国際学力調査で好成績だったフィンランドの教育がおもしろいのだと、非常勤先の受講生の大学院生の方に教えていただいて、興味を持って探したもの。なるほどたしかに、本屋に行くと平積みになっている。で、そこで取り入れられているのが、「マインドマップ」というので、これは、思考やアイディアを図に描いて展開するやりかたで、日本の文脈で行くとビジネス啓発書なんかで紹介されている。これも、本屋のビジネス書の棚を見てみると、あるある。で、もひとつの「構成的グループエンカウンター」ちうのは、もともとロジャースの「エンカウンターグループ」というのがあって、それのアレンジ − 参与者の自主性に任せる非構造的なものでなく、リーダーがイニシアティブを取って参加者にエクササイズのプログラムをさせるような構造化された(structured)エンカウンターグループ、というのをパールズあたりが提唱したらしい − であって、'structured'を「構成的」と訳したのは誤訳というか超訳というか、上手い訳で、いかにも積極的かつ新流派であるようにひびくのだけれど、ともあれ、日本で「構成的エンカウンターで学級がみるみる変わる」みたいなたぐいの本を学校現場向けに出したら、小中学校の現場でやたらうけてしまって、いっきょに流行った、というものらしい。これまた、書店の教職のコーナーに行ったら山ほど売れていた。
そういうわけで、この連休はようするに、本屋さんのビジネス書とか、教育教職コーナーとかの、ふだんほとんどあまり行かないようなところを新規開拓して、「宝の山じゃん」とよろこんでたというわけなんである。

「へんな会社」、「フィンランドメソッド」、「構成的グループエンカウンター」、という3つが、自分の中では、ちょうどかさなっていて、そのへんのことに自分は今興味があるのだと思う。

さらに、『へんな会社』と同時に買った、柴田元幸『翻訳教室』(新書館)をいま、楽しみに少しずつ読んでいて、それを、最新号の『論座』6月号で東大の広田先生が書いておられる文章と対比させながら、自分の関心の中に位置づけられるかなあと思っているところ。

連休がとにかくよい天気つづきだったので、そのぶん連休明けに崩れるのだと聞いていて覚悟をしていたのだけれど、いがいと晴天が続いて、とても気持ちのよい五月晴れの日々である。
朝、目がさめて、ぜんぶの窓を開けて部屋に風を入れるのがきもちいい。部屋が東向きなので、朝日がすがすがしいんである。

4月は、映画(っていうかビデオやDVDですが)を6本しか見れなかった。月10本、というノルマは、やはりたいへんなようである。それで、ノルマが途切れると、いっきょに長期離脱になるのは大リーグの松井とにたようなものであるといえなくもない。連休があったので挽回しようという気もあったのだけれど、もちろん、そういうことにはならなかったんで、5月はぜんぜんみれないかもしれない。

初鰹の季節、ということになっている。スーパーで、かつおのたたき、なるものを買ってきて、水菜とか新たまねぎのスライスとかの中華風のサラダに入れて、ビールを飲みながらわさわさと食べている。おいしい。


 


6月1日。アウトドア/インドア。

新しい月にはいり、今月は祝日もなくてたいへんかなあ、もうすぐ梅雨が来るのだろうし、とか思いはするものの、さしあたり初日は快晴であってはなはだきぶんがよろしい。

5月の後半は、毎年恒例の生涯教育専攻合宿研修があり、週末を自然の家で過ごす、というのに行ってきた。まいとし3回生のクラスが企画運営するのだけれど、なかなかがんばっていた。こういうのは毎年やるものなので、年々、前年よりはよくなっていくというふうになるといいのだけれど、なかなかそううまくはいかないこともあるわけで、そのてん、このところ、うまくいっているように思う。学生さんたちも楽しんでいたようだし、企画運営の3回生も、うまくやった感を感じているようである。個人的には、今年の3回生は、事前準備に当たって共同研究室の一角にそれ用のワークプレースを作り上げるところからやってたのが、興味深かった。
来年度は、自分の担任クラスが3回になって担当しなくてはいかなくなるのだけれど、よりいっそう充実させていって欲しいものである。

合宿でフラフラになりつつ、5月後半の2週は、リレー講義の担当回がちょうど当たっていたので、授業数が非常勤をあわせると週11コマというステキな事になっていた。フラフラ。

それで、合宿の次の週末は、研究会をやった。今回は読書会形式。テキストそのものを深く理解していくというより、テキストから出発してお互いの考えや立ち位置を再確認できそうですねみたいなことで、つごう5時間ぐらいディスカッション。これまたふらふらになりつつ、おもしろくて刺激にもなった。
この読書会でもうひとつ収穫だったのは、読書会のやり方についてで、事前の準備としてテキストを読んでくるというのと、できるひとは「A4用紙1枚程度、1時間以内で準備できる程度のレジュメ」を準備してくる、というふうにしたら、それがうまく機能したと思う。要約報告者をひとり決めるとか、分担するとかいうことにすると、レジュメそのものの完成度は上がるし、テキストの正確な読みということにはなりやすそうなのだけれど、当たった人がしんどく、また、すぐさま議論に入れないし、レジュメに沿った議論から離れることがやりにくくかえってディスカッションが縛られるということにもなる気がするんで、「1時間以内の準備」というと、まぁ、ちょろっと要点だけメモするってかんじで気軽に書ける(じっさい、じぶんもふくめだれも当日の朝のちょっとした時間に書いていたようだ)し、ディスカッションのきっかけ以上の縛りをレジュメが指示しない、ということにもなって、よかったと思う。また、そのわりに、たぶん、より丁寧に書くレジュメと、読みの深さにおいて本質的にはちがわなかったように思う。このへんは、さいきん読んでいる「マインドマップ本」のノリが影響しているかもしれないけれど、曲がりなりにも本をあるていどちゃんと読んでいれば、第一印象としていちばん強く掴んだものを一言で言うのと、より丁寧により長く言うのとで、本質のところはそうそうズレないのだというきがしてきたんである。また、とくに、ディスカッションをするということであれば、ひとりの要約者が丁寧につけた筋道にしたがって議論するより、複数の参加者の第一印象を付き合わせてその間でつくりあげていくほうが、みんなで考えることができるような気がする。

『図書新聞』に書評を書く機会をいただいて、それが出た。竹川郁雄先生の『いじめ現象の再検討』(法律文化社)について書かせていただいたのだけれど、はたしてうまくかけたかどうか。


 


6月15日。ごたぶんにもれず決定力について。

このところテレビではサッカーをやっていて、そうすると世間話の内容もプロ野球の再編問題やらスノーボードのエア競技やカーリングの話とかではなくサッカーの話になってくる。それで、オーストラリア戦で負けてクロアチア戦を控えているというこの時期、あいもかわらず日本代表の「決定力不足」が言われている。あれだけ多士済々の代表候補FW陣からベストメンバーを選出したはずであるのに。それにしても「決定力不足」という言葉が言われるようになったのはいつからだろう? 8年前、日本代表がフランスに行った時に、さかんに言われているのを耳にして自分はそのとき覚えたと思うのだけれど。

それにしても「決定力」とは、おかしな言葉ではある。決定的な場面でゴールを決める力、試合を決定付ける力、みたいなことだと思うのだけれど、「決定」はあくまで結果であって、「力」という概念をそこにくっつけるのは強引だと思う。たとえばマラソンで優勝したくて筋力や持久力をつけるための練習を一生懸命している選手に向かって、筋力や持久力のトレーニングはもういい、お前が身につけるべきなのは「優勝力」だ、と言っているようなものだと思う。そんなものは「力」として身につけるものでもないし、その「力」を持っていることによって結果が導き出される、という理屈のものでもない。と思う。

それでも − そうであるがゆえに − 世界レベルのゲームを見て、たとえば開幕戦のドイツのクローゼとかいう人の、目がさめるようなシュートを見ると、「決定力」という言葉にうむをいわさないような実感がわいてくるのも確かなんである。

決定力、というからには、ふたつの次元のことがらが問題になっているのだと思う。つまり、ゴール前で高原にパスが通った、ここでシュートが決まれば・・・という、「ありうべき/あったはずの」ことがらの次元と、現実に起こったことがらの次元、というふたつの次元である。
このへんのことについて、以前もここで何か書いていたような覚えがある。そのときは松井のホームランとかのことを思っていた(ここにこういう作文を書き始めたのはちょうど4年前、前回のワールドカップが終わったあとの8月だった)。松井がホームランを打ってジャイアンツが優勝したときのことだった。そのときは、プラトンのイデア論みたいなことを想起しながら考えていたのだけれど、プラトンだけではすわりがわるいなあ、とも思っていたのだった:

「したがって最も純粋な認識に到達しうるのは、次のような者ではないか。すなわちできるだけ思惟そのものだけを用いてそれぞれの対象に近づき、・・・目や耳やいわゆる肉体全体については、これらと共にあれば、魂は掻き乱され、真実と知恵とを得ることができないとして、それからできるだけ離れる者、シミアース、もし誰か真実在を捉えるものがあるとすれば、それはまさにこのような者ではないのか」
「本当におっしゃるとおりです、ソークラテース」とシミアースが答えました。
(『パイドーン』65−66)
・・・てなことを言いつつ、ソクラテスはさっさと魂を肉体から離脱させてしまったのだが、真に驚異的なのは、この肉体を通してこそこの世界の中に真実が顕現すること、たとえば、コインを投げて表と裏が出る回数を計っているうちに次第に数学的にあらかじめ算出された数値が姿を現してくること、また、あの小さなボールと細いバットを全速力で投げたり振り回したりしながら、ジャストミートしたり空振りしたりを半年間繰り返しているうちに、まさにあらかじめ予測された通りに巨人が日本一になったりすることである。この驚異に鈍感である者たちが、巨人の勝つプロ野球を「面白くない」と言い、これまで何年も巨人が優勝を逃すたびに喜んでいたのだから、この社会はずっと、ニヒリズムに支配されてきたのだ。このたびの日本一によって、久々に真実がこの世界に実現されたのだ。
・・・
歴史の中で構造が顕現するときに、私たちの魂と肉体がどうなっているのか、あれこれ思い煩うより、松井のホームランでも思い出しているほうが精神衛生上よろしいのだが、しかし、その松井は大リーグに流出かあ。・・・

みたいなことを書いていたのだけれど、これは「決定力」の話だなあと思う。それで、たぶん、そのときもうっすらと考えてはいたのだけれど、やはりアリストテレスを(あるいはドゥルーズによる整理を?)読んでみるとおもしろいのだろうなあという気がする。

「決定力」という言葉は、ふたつの次元のことがらが問題になっている。ありうべき/あったかもしれないことがらの次元と、じっさいに起こったことがらの次元。これを、「可能/現実」あるいは「潜勢/現勢」といったやりかたで整理して考えれるんじゃないかとおもう。可能的なものが現実化する、あるいは潜勢的なものが現勢化する、そのときに、あまたの「あったかもしれない/ありうべきことがら」を排除しながら唯一つの「じっさいに起こったことがら」をリアライズ/アクチュアライズするような「力」、というのを、クローゼって人のゴールシーンを何回も見ながら、思い浮かべるんである。(あるいは、上の引用部や、また去年も書いていたのだけれど、「打率」というのはどこにあるのだろう、という疑問に対して、それは現勢化されるべき潜勢態として現実的なものの中にあるのだ、ということになるのかもしれない。)
もちろん、そういう「力」は、選手個人に内在するようなたぐいのものではないと考えるのがまっとうなのだろうけれど、しかし、そのような「力」の作用が選手において発現しないようでは、スポーツというのはそもそも成立しないのかもしれないとも思うし、そうした「力」を自分の身体において発現させてしまう厚かましさっていうか傲慢さっていうか、、なんかそういうのが、FWの天性の才能ってものなのかなあとも想像する。

それにしてもあそこで柳沢にパスはなかったでしょう、と、みんなが思っているわけである。「決定力」について考え込みたくもなるというものだ。


 


6月30日。ことしもぶじに折り返し。

なんとか月末にたどりついた。7月にはいれば、もう授業期間も先が見える。もうひとがんばりである。

月末〆のものをどうにか提出した。そのうちのひとつは、正月に泣きながら書いていた原稿の、校正(の一歩手前?)である。
以前、ここにこんなことを書いていた:

今回は、けっきょく、「バスター・キートン主演の『共産党宣言』」というイメージを思い描きながら書いた。書きあがったものがそうなっているかというと、めっそうもございませんわけだけれど、そういうイメージが決まったおかげで、それを念頭に置くことで、書くことができた。短さとか、スピード感とか、白黒サイレントの感じとか、マシニックな感じとか、無表情で笑わせるところとか、はらはらさせながら危なっかしくぶっ飛ばすところとか、そういうところ。キートンのDVDみたり、マルクス読んだり、また、キートンとマルクスの写真を合体させてプリントアウトしたのを机の前の壁に貼ってそれ見ながら書いた。書きあがったものがそうなっているとはとても言いませんが。

どうやらこれが、出版に向けて動き出したらしい。整った形になっているかは自分ではわからない(ていうか、スラップスティックなのだから、と、自分を納得させようとしているわけで・・・)けれど、なにはともあれ、早く世に出て欲しいと思う。
今期、京大でやらせてもらっている授業で、学生さんに読んでもらったりした。言いたいことがけっこう伝わったような気がして、また、それなりに異論も出つついちおうこっちの言いたいこともわかってもらったようなので(異論が出ないぐらいなら出す意味ないわけだしね)、たぶん、世に出す価値がゼロではないんじゃないか、と、思い始めている。

さて、いまの下宿にかわったのが去年の秋なので、もう半年以上たつ。この部屋で、秋と、冬と、春を経験して、いま梅雨がどんな感じかを体験中である。前の下宿よりは風も通るし、悪くない。夏場は暑いぞというのがネックなのでそれを今から様子見しているのだけれど、いまのところは、前の下宿よりぜんぜん涼しい。まだほとんどクーラーとかつけないし。このちょうしでいってくれるといいのだけれど。

某日。暑かった日に、晩、帰りがけに、缶ビールを買いに下宿の近所の小さな酒屋に寄った。おもての自動販売機のほうがメインのような小さい店なのだけれど、引越し以来、そこの自販機や、ときどき店内で缶ビールをよく買うんである。店の中から見て顔を覚えられていたのかもしれない。これくださいー、と、カウンターの上に缶ビールを2本置くと、おじさんが「営業はたいへんやねえ!!」と声をかけてくれた。なにか外回りの営業の人に見えたらしい。それでも一瞬返事に困って「・・・ぇえ・・・っと・・・そういうあれでもないんですが・・・」というと、
「あ、そう!!」
「・・・いやしかし、暑いっすねえ」
「これよく冷えてるからね!! おいしいよ!!」
「ありがとうございますー」