モスコウとつながる日本共産党の歴史

 

第八章、コミンテルン第六回大会より四・一六事件まで

 

風間丈吉 監修‐佐野学・鍋山貞親

 〔目次〕

     宮地コメント

   1、一九二八年、コミンテルン第六回大会と日本共産党

   2、市川、高橋等の帰国とその活動

   3、昭和四年始頃の党財政

   4、一九二九年、四月十六日事件

   5、佐野学捕わる、党壊滅す

   6、二七年テーゼによる改組の意義

   7、執筆者風間丈吉略歴

 

 〔関連ファイル〕       健一MENUに戻る

     『逆説の戦前日本共産党史−コミンテルン日本支部史』ファイル多数

     wikipedia『コミンテルン』 『27年テーゼ』 『片山潜』

     『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題

     石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

     wikipedia『佐野学』 『鍋山貞親』 『転向』

 

     『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

     『反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相』

     渡部徹『一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討』

     田中真人『一九三〇年代日本共産党史論−序章とあとがき』

           『日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動』

     伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

     加藤哲郎『歴史における善意と粛清』『闇の男−野坂参三の百年』の読み方

           『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』 加藤HP

 

 宮地コメント

 

 これは、風間丈吉執筆『モスコウとつながる日本共産党の歴史・上巻』(天満社、1951年、絶版)第8章全文(P.222〜254)の転載である。その内容は、公認日本共産党史隠蔽・抹殺してきたデータをリアルに描いている。監修‐佐野学・鍋山貞親なので、3人の共著レベルとも考えられる。

 

 コミンテルンは、レーニンによる創設以来、ソ連共産党が実質的に支配していた。日本共産党とは、国際単一共産党の一支部であり、鉄の規律・民主主義的中央集権制の上下関係において、スターリン・ソ連共産党にたいする無条件服従が実態だった。27年テーゼと日本支部との関係、コミンテルン=ソ連共産党による日本支部にたいする人事命令の証言もある。

 

 〔小目次〕

   1、1928年当時のスターリンによる粛清・雰囲気、日本支部との関係・人事命令へも隷従

   2、片山潜の言動と彼への評価、スターリンによる日本人粛清データ有無

   3、帰国した日本共産党幹部の活動と4・16事件による壊滅経過−当局の手口

   4、1923年、28年、31年の日本支部党財政=ほとんどコミンテルンに依存・財政的隷従

   5、27年テーゼとその誤りの総括有無とそのレベル

 

 1、1928年当時のスターリンによる粛清・雰囲気、日本支部との関係・人事命令へも隷従

 

 著書は、1928年(昭和4年)、コミンテルン第6回大会前後におけるソ連共産党内部でのスターリンによる粛清実態と雰囲気を生々しく描いている。この前後、スターリンは、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ等を粛清し、後に、ブハーリンも銃殺した。それらによって、スターリンが意図的に個人独裁を確立していく。

 

 第6回大会に参加した日本支部幹部たちは、単一国際共産党の鉄の規律の下で、無条件で諸決定・指令に服従した。日本共産党が、ソ連共産党と対立し、かつ、中国共産党とも決裂し、自主独立路線に転換・自立できたのは、毛沢東の文化大革命時期の1967〜68年だった。1922年党創立以来、約46年間は、外国共産党への隷従政党だった。その間の日本共産党史は、基本路線、政策、人事、党財政のすべてにおいて、コミンテルン=ソ連共産党への全面的な隷従関係と位置づけられる。

 

 隷従事例の一つとして、日本支部の人事に関する決定権も、ソ連共産党が握っていた事実がある。このファイルには引用しなかったが、「第6章、福本主義と二七年テーゼ」に、次のコミンテルン人事命令がある。コミンテルンによって、福本・徳田らが批判された。「コミンテルンは、失意の人、福本・徳田・佐野文夫三名には、『当分の間、党の主要な地位に就かせないこと』と命じた。そして、彼らは、コミンテルン代表者達の宿泊するホテル・ルックスから普通のホテルに移され、身辺には、クウトベ学生の監視をつけられ乍ら味気ない日を送っていた」(P.188)

 

 この問題は、『日本共産党の七十年、党史年表』も、公式に明記、確認している。「コミンテルン、福本和夫、徳田球一、佐野文夫の中央委員罷免。山本懸蔵、国領五一郎らの新中央委員選任を、渡辺政之輔ら日本共産党代表団に指示(P.72)

 

 これら人事面での命令関係は、隷従の46年間続いた。1950年スターリンによる「宮本らは分派」裁定がある。宮本ら国際派5分派中央委員7人全員は、スターリン裁定に屈服し、五全協武装闘争共産党・志田重男にたいし、自己批判書を提出し、主流派に復帰した。それによって、日本支部は、統一回復をしたというのが、党史の真実である。7人が自己批判復帰したとしても、「中央委員の地位に就かせないこと」とのスターリン・コミンテルン人事命令があったと推定される。

 

 自己批判復帰の直後、宮本顕治は、不思議なことに、五全協武装闘争共産党の党中央宣伝部を担当した。六全協前にもかかわらず、東京1区の共産党候補者になり、党中央活動をした。五全協では中央委員から排斥されていたのに、1955年の六全協で、いきなり、党中央幹部会責任者になった。ここには、1928年と同じく、フルシチョフ・毛沢東らが、武装闘争で崩壊した日本共産党再建のために、宮本顕治抜擢という人事命令を出したと考えられる。それらの証拠資料は、別ファイルで検証した。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』自己保身目的による党史偽造

    『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、五全協武装闘争共産党で中央レベル活動

 

 2、片山潜の言動と彼への評価、スターリンによる日本人粛清データ有無

 

 公認の日本共産党史は、片山潜を英雄として褒めるだけで、その屈折した人間性を隠蔽・抹殺している。この著書は、その否定的側面を鋭く描いた。その観察は、真実に近いと思われる。

 

 著書は、スターリンによるソ連共産党幹部の粛清とその雰囲気を書いている。しかし、モスクワにいた日本共産党員の粛清に触れていない。著書出版の1951年時点では、隠蔽され、不明だったのか。

 

 加藤哲郎が、粛清データを初めて発掘・公表した。それによれば、次である。

 国外追放・逮捕や収容所送りを含む日本人粛清犠牲者リストを、ここに掲げよう。――勝野金政、根本辰、須藤マサオ、前島武夫、ヤマザキキヨシ、国崎定洞、伊藤政之助、山本懸蔵、佐野碩、土方与志、土方梅子、杉本良吉、岡田嘉子、寺島儀蔵、野坂竜、箱守平造、福永與平、吉岡仁作、又吉淳、島袋正栄、山城次郎、宮城與三郎、永井二一、小浜濱蔵、健持貞一、照屋忠盛、関マツ、モリタマサミ、サシン・トラオ、古川博史、土橋サダオ、成沢又一。

 

 さらに、旧ソ連で、無実の罪で粛清された可能性の高い日本人として、大庭柯公、チルコ・ビリチ、服部某、堀内鉄二、泉政美、山本一正、永浜丸也、永浜さよ、(詳しくは、加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』など参照)。

 

    加藤哲郎加藤HP 『「日本共産党の70年」と日本人のスターリン粛清』

           『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』

 

 3、帰国した日本共産党幹部の活動と4・16事件による壊滅経過−当局の手口

 

 日本共産党の公式党史は、この活動と、4・16事件による日本支部壊滅経過を、ほとんど書いていない。この著書は、活動状況と、当局の執拗な手口を詳しく分析している。これは、貴重な歴史証言である。

 

 4、1923年、28年、31年の日本支部党財政=ほとんどコミンテルンに依存・財政的隷従

 

 発掘・公表された日本支部党財政データは、下記の3つだけである。そこから見れば、1922年日本支部創立から、袴田里見逮捕による党中央崩壊の1935年までの14年間における日本支部党財政は、ほとんどをコミンテルンに依存し、路線・方針の隷従だけでなく、党財政面でも隷従していた。

 

 〔1923年の党財政〕−加藤哲郎発掘・公表のデータ

 

 加藤哲郎は、1923年別の党財政データを発掘・公表した。

 『解放』の再建には5万円の資金が必要だが、我々は掛け値なしで2万円の資金で始めなければならない。我々による『解放』の経営は、共産主義闘争の最善の武器を提供するであろう。

 経営権は、完全に我々のコントロール下にある先の2人のいずれかに移されて、この雑誌の全般的経営計画を完成した。

 

 4人の編集者が任命されるが、そのうち2人は我々の仲間であり、1人は編集長たる力を持っている。財政面の管理は、我々の同志によって行われる。経営の全部門に同志がいるようになろう。著名な社会主義シンパである有能な出版者が、経営のトップにすわるだろう。したがって我々は、この雑誌を合法的なかたちで共産党の完全な支配下におくことができると保証する。

 前述のように、我々はその出発に2万円を必要とする。1万円11月末までに、残りの1万円12月末までに入金されたい。もしも1月までに刊行するためには、1923122までにその資金を調達しなければならない。

 

 同志よ、どうか我々の要請を軽視しないでほしい。この計画をすべて調査し、機会があり次第我々に回答してほしい。

 我々は、我々と共に同志ヴォイチンスキーがこの計画に協力しており、こうした条件についてよく知っていることを、付け加えておく。もしもコミンテルンが認めるならば、彼はこの問題で我々を可能な限り援助してくれると示唆している。

 

 もう一度お願いする。この天の賜りものを入手する絶好の機会を見逃すことなく、しっかり検討してほしい。我々は我々の資金要求の正当性が明らかになると確信している。

 同志よ、どうか急いで検討してほしい。同志ヴォイチンスキーがあなたがたの調査を助け、資金と指令は彼を通じて送られるであろう。

 できるだけ早くお答え頂くよう望んで、共産主義者の挨拶をもって、

  日本共産党執行委員会

                B・モトヤマ(総務幹事) [自著]

                P・ノダ(国際幹事)   [自著]

                J・ヤマダ        [自著]

                A・イシダ        [自著]

                G・アライ        [自著]

 

    加藤哲郎『第一次共産党のモスクワ報告書』→資料23

 

 〔1928年の党財政〕−風間丈吉データ=市川正一陳述内容

 

 風間は、1928年(昭和4年)の一年間だけの党財政データが、初めて公表した。それによると、当時の日本支部財政は、ほとんどコミンテルンに依存し、人事命令だけでなく、財政面でも隷従していた。戦前の1922年から党中央崩壊の1935年までの14年間を通じて、全期間の党財政は以下の通りだったと推測される。公式党史は、この党財政問題について、沈黙・隠蔽してきた。

 

 本文データを集計する。ただし、現在の時価換算は難しいので、その数値合計だけ載せる。これは、市川正一陳述内容である。日本円6回・7500円、米貨1回・512弗あった。

 

 風間が言うように、主たる費用は、コミンテルンからの交付金賄われた。責任者たる市川が明確に述べているように、費用の大部分(殆んど全部と云ってよい程)モスコウから来ていた。

 

 〔1931年の党財政〕−加藤哲郎発掘・公表のデータ

 

 加藤哲郎は、1931年のコミンテルン宛報告書でも、党財政データを発掘・公表した。それによれば、党及び同盟の一ヶ月経費合計二、六一〇円中、一ヶ月要求額二、〇〇〇円である。それは、一ヶ月経費の76.6%を、コミンテルンの補助でまかなうというレベルの党財政面でのコミンテルン隷従政党だった事実を証明するデータとなった。

 

 <2>日本共産党の財政予算表

 一ヶ月の経費                    二、三一〇円

  中央委員         5名  一〇〇円づつ    五〇〇円

  労働組合フラクション   6名   六〇円づつ    三六〇円

  技術部員         8名   五〇円づつ    四〇〇円

  大衆団体フラクション  10名   四〇円づつ    四〇〇円

  旅行費          3名  一五〇円づつ    四五〇円

  印刷所費        3ヶ所   五〇円づつ    一五〇円

  資料費                         五〇円

日本共産青年同盟の一ヶ月の経費              三〇〇円

 

 党及び同盟の一ヶ月経費         合計     二、六一〇円

  「無産者新聞」「無産青年」は補助なくして出版可能なり。

  党は、二、六〇〇円中六一〇円を自給することが出来るが、

  一ヶ月 二、〇〇〇円の補助を要求す

                 一ヶ月要求額    二、〇〇〇円

                               以上。

 

説明: 1931b <3> プロフィンテルン第五回大会代表同志吉川[=大井昌]、宮田[=児玉静子]十月に帰り、同志武田[=風間丈吉]十一月に帰り、代表金子[=紺野与次郎]十二月に帰り、同志武田は一九三一年一月末に同志松村[M=飯塚盈延]に会ふ。かくて同志松村、武田によって、一月末中央委員会が構成された。現在の中央委員会の構成次の如くである。武田(徳川)書記長(並に組合部)、松村(組織部)、鳥羽(アジプロ部、保釈出獄中の同志、三・一五事件の被告[=岩田義道])、金子(共産青年同盟係)

 その外、C...Pに二名の中央委員を派遣することに決定された。即ち田中(現在C...Pにあり[=山本懸蔵])、及び小坂Kosaka[=野坂参三]

 以上の如く、一九二九年四月十六日に於ける党の大打撃以来、大衆的逮捕を受けて中央委員会の破壊されること二度、(一九三〇年二月及び一九三〇年七月)に及び、現在の中央委員会は今年一九三一年一月末に組織せられたる事情にあり、一九三〇年以前に於ける党の全国的活動及び組織状態を精確に報告することは、本報告者に取って全く不可能である。

 

 

    加藤哲郎『第一次共産党のモスクワ報告書』→<2>日本共産党の財政予算表

 

 5、27年テーゼとその誤りの総括有無とそのレベル

 

 著書は、消極面乃至は否定的な面を、率直で具体的に書いている。その内容は、事実であろう。しかし、27年テーゼの基本路線上の誤りと、日本国内の運動にたいする否定的影響に触れていない。著書出版の1951年時点の総括としては、きわめて不十分である。

 

 私の27年テーゼにたいする批判は、次である。

 これは反ファシズムでの統一行動、統一戦線の分裂、破壊方針と実践だった。コミンテルンでの経過と日本での実践を見る。

 第一、1927年、27年テーゼの中に、統一戦線戦術で、社会民主主義政党・運動を排除、攻撃するというセクト主義があった。日本支部はそれを教条的に実践した。

 

 第二、1928年、コミンテルン第六回大会は、社会民主主義主要打撃論を決定した。その内容は、社会民主主義政党および労働組合の改良主義的指導部は労働者階級内部での帝国主義の主柱であり、革命の最大の障害である。したがって革命の主敵であるとした。よって、日本支部による統一戦線運動の実態は、()軍部ファシストなどファシズムとの闘争ではなく、()社会民主主義政党、団体との闘争に収斂されていった。具体的には、左翼合法無産政党排撃、全ての社民組織の打倒・解体に邁進した。

 

 第三、1929年、コミンテルン第10回執行委員会は、社会ファシズム論を採択した。

 

 第四、1932年、32年テーゼは、社会ファシズム論を、対日本支部方針として定式化した。

 

 それらは、社会民主主義主要打撃論を土台として、その誤りをさらに拡大した。その内容は、強力な社会民主主義政党のある諸国におけるファシズムの特殊な形態は社会ファシズムであるとし、そこでの統一戦線戦術とは、大衆をめぐっての改良主義的、社会民主主義的諸組織との非妥協的な闘争であるとした。

 

 そして日本支部の実践は、「プロレタリアートの党は共産党唯一つ」であるとして、()既存の合法無産政党批判・攻撃だけでなく、()京都・労農大衆党など各地で共産党以外の無産合法政党が結成されることも批判・妨害し、左翼勢力の育成と統一を全力あげて破壊した。

 

 さらにコミンテルン日本支部は、これを機械的に大衆運動、戦争反対運動に持ち込んだ。その結果、政党次元の問題だけでなく、全協(日本労働組合全国協議会)、全農全会(全国農民組合全国会議)、共産主義青年同盟、日本反帝同盟(反帝国主義民族独立支持同盟日本支部、17の団体参加)、ナップなどすべての前衛党影響下の左翼大衆団体が、それぞれの階層、分野で対応する左翼社会民主主義的団体を、「主要敵」としてその排撃・解体のために全力あげて行動した。1932年、総同盟、全労、海員組合など9団体、28万人が、反ファシズムをスローガンとして結成した日本労働組合会議をも「主要敵」として攻撃した。

 

 もっとも、社会民主主義政党や団体も、左右対立の中で、日共系の団体に様々な攻撃をしてきた。これは1917年ロシア革命以来、全世界的に激しくなった社会主義運動の左右二潮流への分裂と対立による。具体的には、労働争議とともに、小作争議が頻発し、盛り上がった農民運動の中で、従来の日本農民組合を改組して、1928年、58000人規模で全国農民組合が結成された。その後、組合の政党支持問題をめぐって、左右対立が激化し、右派指導部が日共系左派幹部4名を除名し、12府県連合会の解散を命令する問題が起きた。

 

 それへの対応を契機に、左派は、1931年、「労農政党支持強制反対全農全国会議」、略称、「全農全会」を結成し、右派を「主要敵」の「社会ファシズム」として攻撃した。軍部ファシストに対する「反ファシズム」の統一行動がもっとも必要とされた、満州事変勃発の1931年に、左右分裂、相互攻撃は、こうして泥沼化していった。右派の側にも、その誤りや責任があるのは当然である。しかしコミンテルン日本支部系左派がかかげた上記基本方針の根本的誤りがそれで免責されるわけではない。

 

 日本支部の実践、その実態は、()軍部ファシストとの闘争よりも、()上記のような社会ファシズムとの闘争が最優先された。これは、反ファシズム、反戦平和の統一行動をわざわざ破壊し、前衛党の政治的孤立をもたらし、戦争突入を許す重要な要因となった。

 

 第五、1935年7月、コミンテルン第七回大会は、社会ファシズム論を見直し、反ファッショ人民戦線に転換した。これではじめて反ファシズムが第一義的課題となった。

 

 しかし、日本支部は、すでに1935年3月、袴田中央委員の検挙で壊滅していた。ただ、1934年以降、上記政策転換過程の途中で、日本の軍部ファシストが「主要敵」であると、コミンテルンがようやく設定した。しかし1933年12月宮本検挙、1934年1月スパイ査問事件での小畑死亡発覚で党中央は壊滅寸前の状態にあり、未検挙の中央委員は袴田、秋笹だけだった。よってその設定・転換指令が二人に伝達されたかどうかも不明である。

 

    立花隆『日本共産党の研究』関係『年表』一部、党中央崩壊直前の2年間

 

 日本支部の存在・活動期間は、1922年党創立から1935年党中央壊滅に至る13年間だけだった。したがって、軍部ファシストを「主要敵」とする反ファシズムを第一義的課題としてたたかったことは一度もない、というのが戦前日本共産党史の真相である。もちろん戦争反対スローガンは掲げていた。しかし、それも次に述べる特殊な対戦争方針の一つであり、あくまで第一義的課題は、社会民主主義政党と社会民主主義的労働組合、団体を「主要敵」とする社会ファシズムとの闘争と天皇制の転覆という革命課題を即時実践することだった。

 

 宮本顕治は、『日本共産党の七十年』(1994年)において、コミンテルンと日本支部の誤りを認め、明記した。ただし、誤りの内容や影響に関する総括は欠落させているテーマもある。

 

    『日本共産党の七十年』−コミンテルンと日本支部の誤り記述部分抜粋

 

    『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

    『反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相』

    渡部徹『一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討』

    田中真人『一九三〇年代日本共産党史論−序章とあとがき』

          『日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動』

    伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

    加藤哲郎『歴史における善意と粛清』『闇の男−野坂参三の百年』の読み方

 

 

 1、一九二八年、コミンテルン第六回大会と日本共産党

 

 〔小目次〕

   1、佐野学のコミンテルン第6回大会出席の経緯

   2、スターリン政権の強化、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフの粛清

   3、トロツキー、片山潜の言動とその評価

   4、コミンテルン第6回大会と日本共産党

   5、第6回大会後と帰国後の活動評価

 

 1、佐野学のコミンテルン第6回大会出席の経緯

 

 日本内地で検挙の嵐が吹きまくっている時、この様子を隣国中国で見守っていた佐野学は、一日も早く日本へ帰るべく、天津まで出かけた。ところが四月末ヤンソンからの電報で上海へ引返すことになった。上海に着いて、渡辺からの指令を見ると、予期に反して帰国するのではなく、直ちにモスコウへ行き、コミンテルン第六回大会に代表として出席せよ、尚、代表として市川正一、山本懸蔵の両名も行く筈とのことであった。これによって、佐野は五月末、上海を出発したということについては、すでに述べた通りである。

 

 佐野は中共の連絡によって、支那の汽船会社が傭船している英国籍貨物船に乗った。出帆十時間位前に、支那官憲の捜検があるので、それが済んでから船の事務長に五十円包んで渡した。東支那海を北上し、朝鮮海峡を通過する時には、遥に思いを祖国に馳せるのであった。

 

 ウラジオの石ころ道は依然として変りはなかった。だが店先の品物は前回の(一九二三〜四年)滞在の時よりは僅かに豊かで、復興の気配が感じられた。この度のシベリアの汽車旅行は、三等車−といっても、国際列車の三等寝台にはベッドがある−であった。堅いベッドから眺める初夏のシベリアは広々としており、遠くの山の頂きには、まだ残雪があった。白樺の林を明るく照らす夕陽影にも祖国に在る仲間のことが想ひ出されるのであった。

 

 2、スターリン政権の強化、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフの粛清

 

 モスコウには、六月の中旬頃に到着した。流石に、ここは首都だけあって、ウラジオの比ではなかった。復興振りは目につく程であった。しかし、それよりも更に変ったのは、スターリン政権の強化であった。前回には尚、勢威衰えを見せなかったトロツキーの姿はかくされ、コミンテルン議長として国際革命運動の主柱と思われ、レーニンの右腕とされていたジノヴィエフもその職を追われていた。そしてスターリンブハーリンが双頭の鷲の如く君臨していた。ところが、その一方であるブハーリンにも、すでに一抹の暗いかげがさしているのを見逃せなかった。

 

 モスコウ在学中の日本人学生たちにも異動が起った。三・一五事件起るの報に接するや、先ず、相馬一郎、千石竜一、岸本茂雄等が相ついで帰国した。一九二六年組の中でも、沼田市郎、山神種一、高由一馬、田中松次郎、山本作馬、伊藤学道等、二五年組では袴田里見、世古重郎、虎田万吉、中川為助等も、六月頃には帰国の途に就いてしまった。レーニン学校の高橋貞樹、佐野博は、第六回大会に参加すべく待機していた。佐野学は、右両人及び片山潜に会って、日本内地の情勢を話してやる一方、コミンテルン及びプロフィンテルンに行って、要路の人々にそれぞれ日本の事情を詳細に報告した。

 

 コミンテルン大会は、毎年一回世界大会を開くことになっていたが、第五回大会(一九二四年六〜七月)が終ってから、既に二年になっていた上に、綱領審議という重大問題を抱えでいたので、これに対する準備と期待は大きかった。この間、前述の如く、ソ連共産党内部の闘争が激化していたので、それの外国共産党に及ぼす影響についても慎重に考慮されねばならなかった。ソ連共産党において、革命の元勲であるトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ等を粛清したということは、スターリンの権力が磐石の如く固められつつあることを意味すると同時に、それは他国の共産党に対しても息苦しい程の威圧を加えるものであった。

 

 国際情勢は、革命の波を遙か彼方に追いやってしまった。資本主義諸国の復興と繁栄は、当該国共産党の力を弱めた。ただ、危機的様相を孕んでいたのは、ドイツであり、国家社会主義ドイツ労働党のヒットラー一派の進出がますます注目されるのみであった。支那革命も蒋介石の北伐が、一九二七年四月の上海クーデターによって中止されて以来、苦難の道を辿りつつあった。中国共産党も、国共合作から国共対立抗争へ、非合法へと追いやられつつあった。

 

 この、ソ連におけるスターリン政権の強化と、他国における共産主義勢力の衰退とは、コミンテルン内におけるソ連共産党の完全な指導権を更に一層強めることになった。

 

 3、トロツキー、片山潜の言動とその評価

 

 日本共産党は、前年七月歴史的な方針書を興えられ、十二月頃からその実行にとりかかり、日本国民に多大の衛動を興えたかに見えたが、僅か四ケ月足らずの間に大検挙に遭い、壊滅に近い苦境に陥ったのである。佐野はこうした苦境に立たされた党の代表者ではあるが、前年のテーゼの忠実な実行者たる誇りを持って報告することが出来た。その二七年テーゼが、()日本の国情に反し()国民感情に相応しくないために受けた大打撃についてはまだ何も考えてはいなかった。否、テーゼの内容もさることながら、()コミンテルンの方針、即ちソ連政府の外交政策の在外執行機関である各国支部の立場という惨めな非自立性については、何も気付くところはなかったのである。片山潜にあっては、尚更のことである。

 

 かつて、トロツキーが、ソ連共産党中央委員であった一九二六年末のことである。鍋山は、モスコウ入りした直後、コミンテルン拡大会議に出席した。休憩時間に、彼が控室に入って行くと、煙草の煙がもうもうと立ち上る中で、トロツキーがつかつかと寄って来て、彼と固い握手な交わした。精悍な風貌のトロツキーは、彼にとっても非常に魅力的であった。特に、言葉こそ分らなかったが、演壇に立ち上って、スターリン何ものぞ、という意気込みで堂々論じたてたトロツキーは、彼こそ革命家であるとの感を深めせしめられたあとだったので、この握手は青年(当時数え年二十六)鍋山にとっては特に喜ばしいものであった。

 

 「君は支那人か? 何? 日本人だ、そうか、一生懸命でやって呉れ給え」というようなことを言われて、思わずも胸を躍らした。フト気がつくと片山が手招きしている。何ごとかと思って.側へ寄って行った。片山は、声をひそめて言った。「君、トロツキーは今排斥されているんだから、気を付け給えよ。モスコウというところは、冷いところだよ。いけない、となったら徹底的にやって容赦しないんだからね」

 

 片山は無駄に門松をくぐってはいなかった。彼はどこに権力があるかを見透していたし、それに反抗する者の末路が如何に悲惨なものであるかをもすでに目撃して来たのである。コミンテルン内部における勢力の消長に対しては極めて敏感に神経を働かせ、勢のさかんな方に棹さして行く老片山のこの忠言は、一面哀れを催させるものがあった。彼、片山は日本に帰らんとしていろいろの手を打ってみた。若しも、一切の運動をやらぬと誓約するならば帰国させてもよい、という話にまでこぎつけた友人も祖国に居た。(近藤栄蔵は、すでに共産党を去っていたが、片山のためにこのような運動をした)。だが、そういう條件で帰ろうとすれば、モスコウは彼が日本海を渡る前に、ゲーベーウーの監獄に抛り込むだろうことは火を見るよりも燎らかである。

 

 片山はそれを知っているから、憤然として祖国に在る友人の申出でを拒否した。それは、内心にあるものとは、凡そ裏腹ではあったが、現実を生きるためには他に仕様のないことでもあった。このような片山に、日本共産党の独自性に関する思考を求めることは不可能であった。彼はコミンテルンの向うところに屈従することによって、老革命家としての名声と生活を保持しなければならなかったのである。日本からモスコウへ来た党の代表者たちは、()人間片山には先輩としての尊敬を抱くことはあっても、()政治家、共産党の政策家、理論家としての片山には殆んど全ての人が失望したのである。

 

 4、コミンテルン第6回大会と日本共産党

 

 七月、それも大会間近になって、漸く山本市川がモスコウに到着した。彼らは。パッサージ・ホテルにはいったので、佐野学もそこへ移って大会に対する準備に専念した。日本人の間で、大会付属委員会への役割が次のように分担された。

 

 佐野学 国際情勢(一般政治報告)及びコミンテルン綱領委員会。山本、市川 戦争問題委員会。高橋 植民地委員会。片山 綱領及びソ連共産党問題委員会。

 

 高橋は、初め、決議権を持って大会に出る筈であったが、レーニン学校の各国留学生は、全てソ連共産党員として登録替えされていたので、派遣国共産党代表たる資格としては、まずいというので、全てコミンテルンの使用人とし、発言権のみ興えられた代議員ということになり、大会の資格審査委員会でも、そのように決定された。

 

 コミンテルン第六回大会議題とその主要報告者は次の通りである。

 ()、コミンテルン執行委員会報告 ブハーリン。副報告国際共産青年同盟 シュルラー。コミンテルン統制委員会報告 シュトチカ。

 (二)、帝国主義戦争の危機に対する闘争 主報告者トム・ベル。副報告者 シェルラー外三名。

 (三)、コミンテルン綱領 ブハーリン

 ()、植民地に於ける革命運動 クーシネン及びエルコリ(本名トリアッチ)

 (五)、ソ連の情勢について 経済 ヴァルガ。ソ連共産党の情勢 マヌイルスキー

 (六)、執行委員会の選挙。

 

 この大会は七月十七日から九月二日までモスコウのドーム・ソユーゾフ(労働組合会館、帝制時代の華族会館)で開かれた。佐野、市川、片山、山本、高橋等はそれぞれの分担問題で発言した。

 

 九月一日、コミンテルン綱領は、万揚一致で可決された。この綱領草案は、スターリンブハーリンとの共同署名で発表されたが、大会の綱領委員会では若干の修正が加えられた。後で明らかにされたのであるが、修正はブハーリンの右翼的偏向の表われていた箇所であったという。ブハーリンはこの大会を最後として、事実上コミンテルンの仕事から手を引いた。

 

 九月二日の選挙(事実上は指名に等しい)で、日本からは佐野学が執行委員に、渡辺政之輔が同候補にあげられ、片山は個人として(つまり党代表としてでなく)、クララ・ツェトキンと並んで執行委員にあげられた。

 

 この大会の折、右にあげた代表者の外に二人の日本人が傍聴した。それは、間庭末吉難波英夫である。間庭は一九二六年三月頃、佐野の許可を得て、ウラジオに逃亡して以来、そこの海員クラブの仕事をしていた。三・一五事件が起って、帰国しなければならないのであったが、帰国の前に一度モスコウへ来いという片山の手紙によって、二週間の休暇をとってやって来たのである。難波は、三・一五事件後、身辺が危険だというので党機関の承認も得ずに、モスコウへやって来た。そのことが規律違反として問題となり、罰せられるところだったが、山本がいろいろとりなしてやったので、責任追求をしないことになった。彼は、高橋、市川等よりもおくれてモスコウを出発した。モスコウの習慣として、非合法共産党員が続いて帰国する場合には、重要な人から先に帰国させるためである。

 

 尚、この大会中に、日本代表団は、日本問題を協議し、方針書草案を作った。この草案に従って、市川は、佐野、高橋、片山同席の上で、パッサージ・ホテルにクウトベの学生を集めて、その内容を説明した。眼鏡をかけた細長い、青白い顔、もの静かではあるが、底に強いものを感じさせるその話し振りは、雄弁というべきものではなかった。人を煽動する力強さはないが、冷い意志をもってぐんぐん人に迫るものがないでもなかった。それは彼が一生独身で通した事情と何らかのつながりがあるのかも知れない。それとも祖国の同志もの身の上に思いを馳せて、身心共に硬ばらせていたせいかも知れない。

 

 市川の述べた方針は、彼らが帰国した後、佐野、ワシリエフ(コミンテルン組織部次長)、ヘッケルト(ドイツ人、プロフィンテルン執行委員兼任)の三人委員会で審議し、十月二日のコミンテルン常任委員会(プレシヂウム)で承認可決された。これは、十月テーゼと言われているが、一九二九年三月に、佐野が上海へ着いた時には、まだ日本文が極東ビューローにそのまま残っていた。そこで佐野は直ちに『無産者新聞』へ宛てて送ったが、果して発表されたかどうかは不明である。(一説には、ソ連大使館で焼き捨てたとある。)

 

 十月テーゼがこうした経路を辿っているうちに、市川は、高橋、間庭と一緒にモスコウを出発した(九月十三日)。高橋は、レーニン学校の学生だったので、米貨百廿五弗と国内切符を輿えられた。ウラジオには同月二十六、五日頃着いたので、十月初めに市川と高橋は同時に出発する予定の所、高橋は急性肺炎で入院してしまった。そこで市川は、高橋を残して一人先発した。間庭は十月中旬、密輸船に乗って、雄基に上陸、釜山を経て門司へ渡り、そこから別府、内海遊覧汽船で大阪へ廻った。時恰も、今の天皇の即位大典で取締も厳しかったので、彼は舞鶴、敦賀、富山、直江津、長野を廻って東京上野へ着いたのは十月二十九日であった。

 

 高橋の病気は気遣われた程でもなく、十二月末には退院出来たので、陸路、ソ連国境を越え、ポグラニーチナヤ、ハルピン,奉天経由で天津に出た。そこで天津の或商会の勤人としての偽名刺を作り、朝鮮経由下関に上陸した。沼津で下車。修善寺温泉に宿をとり、二年振りになつかしい祖国の山や海に抱かれて、ゆっくり眠った。官憲の張りめぐらした網に心のヒモはゆるめなかったが、目にしみるような故国の紅葉は、静かに彼を休ませてくれたのである。

 

 市川、高橋等の後を追うようにして、十月上旬には、クウトベに入学のため、二五年春にモスコウ入りをした服部麦生、向仲寅之助が出発し、十二月上旬には、レーニン学校の佐野博とクウトベ二六年組の岡村慶一郎がモスコウを出発した。

 

 佐野学は、暫くコミンテルン執行委員としてモスコウに残り、山本懸蔵プロフィンテルンへの日本代表として残留することになった。(佐野の仕事は後述することにする)。山本はプロフィンテルン執行委員、東洋部員として、働くことになり、その通訳にはクウトベ入学に二五年秋モスコウ入りした組の風間丈吉が当てられた。

 

 5、第6回大会後と帰国後の活動評価

 

 コミンテルン第六回大会は、綱領採用のほか、戦争の危機に対する闘争、植民地共産党の任務等、重要な問題を決定した。その他、ソ連共産党の内部問題をも審議し、トロツキー、ジノヴィエフ等に対する処分を承認するなど大きな意義を持っていた。それのみでなく、日本にとっても別の意味で歴史的意義を持っている。というのは、この時を最後として、()旧くからの、党創立以来の指導者がモスコウへ派遣されることがなくなったということである。更にまた、()組織的計画的に幹部養成のために日本内地からクウトベへ送られていた学生も、この大会後、及び翌々一九三〇年までに殆んど全部帰国してしまったのである。

 

 これら学生の帰国後の活動としては、言うに足るべきものはないと言ってよい。僅かに、春日庄次郎が関西地方委員長として活躍したるが如き、或は相馬一郎が中央委員候補として雑誌『マルクス主義』に幾つかの論文を揚げたるが如き(戦後には春日庄次郎、服部麦生、袴田里見等がいる)をあげるを得るにすぎず、他の人々は内地帰還後、一ケ月乃至三ケ月位捕えられているので、時間的に活動なし得ない状態であった。とは言えども、是ら学生がモスコウ的気分、スターリン崇拝的心情を広く党員間に泌み込ませたことは疑ひなく、その後における日本共産党の性格に少なからざる影響を輿えたのである。特に大衆運動指導に長い経験を持った人々が投獄された後に、その傾向が強かった。昭和六、七年に委員長となった風間丈吉も亦この学校の卒業生である(註)。

 

 (注)、クウトベの件について日本政府によるソ連政府への抗議内容と、ソ連側の解答要旨は、省略

 

 

 2、市川、高橋等の帰国とその活動

 

 〔小目次〕

   1、市川、高橋等の帰国と組織活動

   2、政治的な路線と活動内容

 

 1、市川、高橋等の帰国と組織活動

 

 さきに内地へ向った市川正一は、十月下旬東京に到着した。彼は三田村四郎及び井之口政雄と会見して、党の現状報告を受けるや、直ちに再建計画を樹て、先ず機関紙の再刊を企て、その原稿を用意した。だが、正にそれを印刷に付せんとした直前に、その係であった井之口検挙されてしまったので不能になった。

 

 そこへ間庭が帰って来た。そこで『無産者新聞』編輯主任である砂間一良と共に、中央事務局をつくらせ、間庭に組織部、砂間に政治部を担任させた。十二月十一、二日頃、東京へ着いた高橋は、高円寺に居た林房雄宅を訪れた。折悪しく林は留守であったが、その母と顔見知りだったので、林が帰るまで泊めて呉れと言って承諾を求めたところ、快く引受けられた。高橋は何よりも先ず、モスコウで打合せておいた通り、東京朝日新聞に「電気技手雇ハレタシ遠山方小島」という広告を出した、この広告は、二十日付新聞に掲載された。

 

 そこで翌二十一日年後八時、上野図書館前通りで、間庭と会うことが出来た。間庭は高橋に対し、翌日午後三時上野山下の洋食店で食事をするようにと言ったので、その日時に指定の場所へ行くと、そこへ市川がやって来た。市川は高橋のために、小石川原町にいた友人高山辰三を紹介したので、高橋はそこに住むことになった。これ以後、高橋は、雑誌『マルクス主義』『無産者新聞』『赤旗』、パンフレット等に縦横無尽に健筆をふるった。市川とは十日目、或は二週間目位に会って協議した。他方、翌一九二九年一月末頃、すでに東京へ帰って来ていた佐野博とも定期的に連絡とって、共産青年同盟の仕事にも参加した。

 

 市川は、間庭、砂間、高橋等の協力を得て、一九二八年十二月下旬には、『赤旗』を第二十四号から再刊することが出来た。明けて、一九二九年二月には、長らく上海に止まっていた鍋山貞親が帰ってきたので、これと協力することになった。三月下旬市川、鍋山は多摩河原土手で、高橋を加えた三者会談をなし、党再建に関する重要事項を決定した。この時代における指導者は、市川鍋山であり、市川は中央事務局を指導統制すると同時に、党財政の実権を握り、鍋山は党全般の統制と労働組合部指導の任に当った。

 

 間庭は、砂間から菊地克己を紹介され、菊地を東京地方仮オルガナイザーにした。当時残っていた党員は約三十名にすぎなかった。更に間庭は、労農党解散後作られた新党準備会の書記杉本文雄を通じて、同準備会の仕事をやっていた福富正雄、秋笹政之輔、小林直衛等をして党の主義主張を宣伝させた。

 

 一九二九年一月に入るや、杉本を東北、北海道方面に、安藤敏夫を関西及び九州方面へオルガナイザーとして派遣した。二月には、杉本を千葉、茨城方面及び大阪以西九州に、三月には大阪へ派遣した。四月には、西村祭喜を関西地方へ派遣するなど積極的に活動した。このために、同年三月頃、間庭の手許に報告された党員数だけでも百余名となり、四月十六日に行われた第二回全国的一斉検挙当時には、党員は二百名を突破するに至った。けれども、党員数増加に比して、工場細胞の確立という点では甚だ少なかったことは指摘されねばならない。

 

 2、政治的な路線と活動内容

 

 政治的方面では、「労働者の党は唯一共産党あるのみ」ということが、この時代から特に強調されたことをあげねばならない。労農党が出来た頃には、これを大きくすることと並行して共産党の拡大が計られたのであるが、そういう方針が行きづまって来た。それは次の事情による。即ち、一九二八年四月十日に、労農党が解散と命じられ、その後新党準備会となり、それが同年十二月廿二、三、四日の三日間に亘って、東京本所公会堂で結党大会を開催したところ、二十四日にその結党式が解散させられてしまった。それより後、「政治的自由獲得労農同盟準備委員会」(同月二十八日宣言)として合法的活動の母体を確保せんと努力していた。

 

 この中には、旧労農党支持者が多かったが、中には、翌年八月八日に表面化したように、共産党とは別に合法政党(新労農党)を作ろうという意欲を持つ大山郁夫、上村進、細迫兼光の如き人々もいた。それ故に、この運動を通じて、共産党そのものを確立しようという党中央部の方針と喰いちがったので、「プロレタリアの党は共産党あるのみ」という宣伝を強烈に行う必要があったわけである。この時以後、今日(一九五十一年)に至るまでもこのスローガンは、共産党によって繰り返し叫ばれている

 

 ところが、一度労農同盟という組織が出来ると、そこに混乱が起り、政治的自由を獲得する時までは、この労農同盟が共産党の任務を代行するものであるかの如き誤解も生れ、共産党の拡大にブレーキをかけるようになった。そこで鍋山の提言により、市川も賛成し、以上の如きこととなからしめるよう、共産党のみがプロレタリアの党だということを明確にする論文を『マルクス主義』四月号に発表した。

 

 中央秘密機関紙『赤旗』には、市川、鍋山、三田村、高橋、佐野博等が執筆し、毎月四百乃至八百部出していた。『赤旗パンフレット』は、一九二八年十二月から一九二九年三月までに、第六輯まで発行(百部乃至七百部)、その他幾多の秘密宜伝ビラを発行した。このほか『無産者新開』は、砂間及び難波英夫が編輯に当り、雑誌『マルクス主義』は元同志社大学教授小林輝次を責任者として一九二八年十二月に十二月一月合併号を出すに至った。

 

 労働組合方面の指導については、前述のように鍋山がその責任者となり、三田村を通じて指導していた。解散された評議会の代りに、労働組合全国協議会(全協)が出来ていた。しかし、その活動は半非合法的であり、評議会時代の華々しさは見るべくもなかった。

 

 

 3、昭和四年始頃の党財政

 

 渡辺政之輔が、台湾で不慮の死を遂げた後、市川が党財政方面を担当したのであるが、当時の状態の一端を示すと、次の如くであった。

 

 ()、党費は一人三十銭、一九二九年一月は云うに足りなかったが、三月分は、五・六円に達した。『赤旗』『赤旗パンフレット』等(何れも五銭)の売上による収入は総計十円。寄付金は、一月には十数円であったが、二月には五百円近くを集め得た。以上は誠に微々たるもので、党活動費を賄うには全然足りない

 

 ()、主たる費用は、コミンテルンからの交付金賄われたのである。例えば、市川はロシアからの帰途、上海に寄り、ヤンソンから五百円を活動資金として受取って居る。それ以後は東京で支那人李某と連絡して金を受取っていた。一九二八年十一月五日には日本円五百円、米貨五百十二弗、一九二九年一月五日には邦貨二千円、二月五日には邦貨一千円、三月五日には邦貨二千円受取っている。

 

 ()、支出の面を見ると、地下活動者には月五十円支給となっている。宣伝費十二月〜一九二九年三月まで二百五十円。組織費一月〜三月四、五百円。中央関係交通費二百円。人件費市川三百円(十一月〜一九二九年四月)。砂間百五十円(一〜三月)。間庭二百円(十二月〜三月)。中央印刷局二百円(十二月〜三月)。菊地百五十円(一〜三月)。その他五十円。労働組合機関紙補助金百円。『マルクス主義』再刊費五十円、『無産者新聞』三〜四百円。共産青年同盟費として責任者佐野博へ三百円。特別費として三田村五百円、鍋山一千円、市川二百円。

 

 以上は、財政責任者たる市川の陳述によるものであるが、間庭末吉の予算によると、一九二九年三月分計八百円、四月分経常費一千四百五十円、創設費予備費計二千四百円。総計三千八百五十円。

 

 ()責任者たる市川が明確に述べているように、費用の大部分(殆んど全部と云ってよい程)モスコウから来ていることは注目に値する。右の支出面には出ていないが、高橋貞樹も一九二九年四月に市川から一千五百円預けられて居る。更に鍋山が二月帰国の折に、上海から持って来た金も右の計算には含まれていない。党組織の拡大も、この財政的裏付けなしには不可能に近かったであろう。共産党組織が大きくなりつつあると同時に、官憲側の内偵も進んでおり、機会を待って、一網打尽にせんと用意おさおさ怠りなかった。

 

 

 4、一九二九年、四月十六日事件

 

 〔小目次〕

   1、一九二九年、四月十六日事件

   2、党員名簿と党員証の暗号

   3、逮捕された鍋山の述懐

   4、警視庁の狙い−大物佐野学の逮捕

 

 1、一九二九年、四月十六日事件

 

 四・一六事件とは、一九二九年四月十六日全国一斉に行われた共産党員及びシンパサイザー大検挙を言うのであるが、実際はこれを中心として、その前後に検挙された人々も、四・一六事件関係者とされている。党組織の確立とその活動が目立ってくる程進めば、それは当然官憲の目にもつくわけである。全国的に一斉に検挙する前からボツボツ捕まっており、それを資料として官憲は逐次網をひろげて行ったのである。

 

 昭和四年(一九二九年)三月十八日、四谷署の非常警戒中、挙動不審の男を取り押え、厳重取調べをしたところ、それが元関東金属労働組合の菊地克巳であり、共産党東京地方仮オルガナイザーであることが判った。そこで直ちに、その居宅を捜査したところ、党細胞の活動状況を知るに足る証拠文書が発見された。それによって、更に糸を手繰って行って、杉本文雄検挙され、彼によって東京地方並に全国各地の組織がますます明瞭になった。次いで、同月二十一日、中央事務局の砂間一良逮捕され、同二十八日に間庭末吉逮捕されるに至った。間庭にその住居を白状させ、そこを捜査した結果、日本共産党の刻印、党員名簿、暗号符、党の予算書、党会計報告、機関紙の全図的配布図、機関紙など多数の重要書類を押収することができた。

 

 これで全国的な組織系統が略々判明したので、他の容疑者をも厳密に取調べた上、ハッキリした組織系統を掴み得て、四月十六日払暁を期し、一道三府二十四県に亙る一斉検挙を実行するに至った。そして当日払暁から、約七百名が捕えられた。それと同時に、容疑者たちの関係していた労働組合、農民組合等の事務所まで家宅捜査をうけた。

 

 2、党員名簿と党員証の暗号

 

 これらの家宅捜査で発見されたものの中で、最も重要だったのは、何と言っても間庭の所で発見された党員名簿その他であった。間庭は、中央事務局組織部を担任して間もなく、党員証を渡すことにした。一九二九年一月からのことである。党員証は、五厘、一銭、一銭五厘の郵便切手に、それと同じ大きさの紙をはりつけ、算術用数字で、A601、B602、C603という風に書きいれてあった。Aというのは一九二九年一月以後、Bは一九二八年三・一五事件以後、Cはそれより前からの党員を示すものである。

 

 三・一五事件で捕まった人数を、大体六〇〇名と押えたので、番号は六〇一番から始まるのである.例えばA六七一は竹内文次、一九二九年一月入党、二八才、自動車運転手という具合である。この方式による党員名簿が、間庭の手で作られていた。勿論、姓名は、間庭だけの心覚えの暗号で書かれていたが、これは「厳重なる取調べの結果」暗号でなくなってしまった。

 

 三月二十七日、間庭が検挙された時に、東京の党員は六十八名。名簿に掲げてあるもの六十二名で、あとの六名は、鍋山、三田村、市川、間庭、興田徳太郎、酒井定吉である。京浜地方には、一三名(姓名、細胞名も詳細に判った)。その他各地党員数は、二月末までの報告によると、秋田八名、青森十三名、函館三名、小樽六名、札幌三名、仙台四名、新潟十五名、長野五名、名古屋二名、大阪五七名、京都三名、神戸十六名で、人名などもすべて明らかであった。このほかに台湾人十一名が入党しているととも明らかになった。

 

 元来、非合法共産党にあって党員名簿を作ることは巌禁されていたものであり、間庭が名簿を作ったと開いて、鍋山は直ちにそれを破棄するよう厳命した。しかし、間庭は手製の暗号に自信があったと見え、遂に、そのことなくして捕まってしまった。間庭は、暗号というものは必らず解けるものだということを知らなかったか、或はどんなにむつかしい暗号でも、鍵さえあれば直ちに解けるものであり、且つ官憲は彼が持っているその鍵を取り出すためにあらゆる方法を講するものだということを知らなかったか、その何れかである。彼はこの失敗の責を問われ、公判廷で除名された。

 

 四月十六日の一斉検挙に際し直接有力な資料となったのは、恐らく間庭の持っていた党員名簿であったろうが、しかし、恐らくそれのみではなかったであろう。それは張りめぐらされた諜報網から得られた情報の有力な裏付にすぎなかったと見ることもできる。

 

 3、逮捕された鍋山の述懐

 

 その後、十日を経た四月二十七日、警視庁の田部警部一行は、渋谷町の著述業時国理一逮捕し、それによって市川の住所をつきとめ、翌二十八日午前六時、馬込町谷中なる島田弥平の母の家にかくれていた市川検挙した。翌二十九日には、三田村の知り合いだという赤坂の待合山竹に、漸く逃れ逃れて辿りついた鍋山は、三田村と共に捕縛された。せまい部屋に十数名の警官が飛びこみ、彼らをとりまいた。こうなっては手も足も出ない。躯が十重二十重に縛られ、二人共自動車に投げ込まれた。

 

 「春たけなわの夜は、町の灯りもうるおいをおびる。疾走する車の窓からそれを無心に見送る。もう再び自由に見ることのできぬ人の世である。着いたのは、赤坂警察署。ここはちょっと休むだけである。縛をとかれて、たばこをすすめられた。そのときほど、煙りの味のうまかったことはない」。「たえず追いつめられた生活は、これで終わった。完全に終わった。再び陽の目を見ることはあるまいにしても、言いしれぬ安らかさである。二十九才のわが人生はここに終止符をうたれたのである」と鍋山は、この時のことを述懐している。

 

 無論これは一面にすぎない。他面には尚激しい闘争心が湧いていた。「死に至るまで休息に安住しようとする心と、最後の一息に至るまで執着しようと戦いにふるい立つ心とが、なわのようにからみ合う」とも彼は言っている。人間の心の中に巣喰う矛盾した両者を鋭敏に、しかも、客観的に眺める鍋山の面目がここに躍如としている。

 

 4、警視庁の狙い−大物佐野学の逮捕

 

 市川がつかまって、最も厳しく調べられたものの一つは、モスコウ=上海との連絡であった。当局は終に、東京帝国大学附属病院歯科医近藤忠雄宛に連絡されることを突きとめ、同時に国際連絡に用いられる暗号の鍵をも明らかにすることに成功した。五月十三日、近藤宛に来た手紙が警視庁の手に入った。「勇躍した警視庁は直ちに彼ら同志間に用いらるる数字の偽暗号電報を打ち、六月四、五、六の三日間を約して、上海南京路某所に会見すべしとして、警視庁浦川労働係長は、腕利き巡査部長二名と共に、五月廿八日東京発、三十一日上海に着いた」。彼らのねらいは、ただ一人残った大物佐野学を捕えることであった。

 

 

 5、佐野学捕わる、党壊滅す

 

 〔小目次〕

   1、佐野学の帰国承認→香港

   2、香港における佐野学の行動

   3、佐野学の逮捕

 

 1、佐野学の帰国承認→香港

 

 佐野学は、第六回コミンテルン大会終了後、モスコウに残って、コミンテルン東洋部の仕事やら、ヨウロッパ部員としての仕事、プレシヂウム(常任執行委員会)の仕事などに没頭していた。或はまたドイツ委員会に入って、クーシネン議長の下にドイツ問題を審議し、そこでドイツ共産党に輿える指令の作製にも参加した。それのみでなく、一九二八年十一月には、この決議を説明すべく、密にベルリンに潜行し、各地域の共産党の会合に出席した。

 

 ベルリンから帰るとモスコウには、九月三十日付上海から渡辺の手紙が届いていた。それには、「佐野、市川の帰るのを待って上海で会議をしたいと思って電報を打ったけれど、返事がないから先きに帰る。クウトベの学生は殆んど捕まった。現在党員は約四十名位しか居ない等々」のことが書かれてあった。

 

 佐野は直ちに、自分が帰るまで上海に止まるよう渡辺、鍋山宛に電報を打った。十二月にはいると、十月中旬に出した鍋山の手紙が届いた。それには、国領夫妻、鍋山歌子、丹野せつなどの検挙が知らされてあり、佐野の返事がないから、自分も帰国するとあった。

 

 その後、浅草瓦町における三田村のピストル事件、基隆における渡辺の死などを新聞紙上で知った佐野は帰心矢の如くになり、コミンテルンに帰国させるよう要望したが、コミンテルンでは、今帰国するのは危険だからと言ってなかなか承諾しなかった。そこで佐野は、日本共産党大会を準備しなければならないという口実を設けて、漸く帰国の承認を得た。

 

 佐野は、一九二二年頃アメリカからモスコウ入りした野中誠之のパスポートが片山潜の手許にあったので、それの写真を自分の写真と張り替え、ベルリン経由で帰国することにした。一九二八年十二月三十日、彼はひそかにモスコウを出発した。その出発に当り、彼は山本懸蔵に秘蔵の銀時計を輿えた。これは、彼が東京帝大卒業の折に貰った恩賜の時計であった。(と山本は深刻な顔で言ったが、恩賜云々は少々疑わしい)。この大事な時計をモスコウに残していったことは、とりも直さず、彼も生還を期していなかったことを物語っているものであろう。零下廿五度の凍てつくモスコウの町を、燃え上る闘志を内に包んで彼は静かに立ち去った。

 

 ベルリンに着くと、かねて指定されていた通り、ドイツ共産党機関から米貸六百弗が渡された。一九二九年一月二十日、ロッテルダム出港のドイツ船「レバークーゼン」号で、ヨウロッパに別れを告げた。英仏海峡では思いを、ロンドンの同志に馳せ、ジブラルタルをすぐる時にはスペインで戦った赤色インターナショナル義勇軍の行動を思い起した。地中海、紅海を経て洋々たる印度洋に入り、コロンボに着いた。ここで印度の共産主義者と二日間に亘って会議を行い、国際救援会からコロンボのストライキ犠牲者に渡すようにと言って預けられて来た米貨一万弗を印度人ダージンに渡した。彼が用事を終わって、港に来ると「レバークーゼン」号は荷役か何かの都合でまだ碇泊中だったので、再びそれに乗って三月一日頃香港に入った。

 

 2、香港における佐野学の行動

 

 香港で再び上陸して広東に行き、中共要人殷某と会見、彼と連れ立って香港に引き返した。ここでフイリッピン共産党代表等と会見した。かくして三月十二日頃、米国腑船に乗り込み、十四日午後三時上海に到着した。上海には慣れていたので、直ちに仏租界のホテル・ブラザーに入った。ここからモスコウで聞かされて来た電話番号によって連絡したところ、静安寺路三百番地の朱骨董店へ手紙を持って来いとのことだった。早速右の骨薫店へ行き、中共本部宛の手紙を渡した。

 

 すると三月十八、九日頃使者がやって来て、会見の日時場所を知らせて来た。指定された日に仏租界の一同志の宅へ行ったところ、そこで周恩来に会うことが出来た。周恩来のあっせんで、英租界威海衛路四三三番地に一戸を借りうけ、東京帝大文科を卒業した人で湖南省共産党委員である毛夫妻と同居することになった。

 

 周恩来と会った二三日後に、コミンテルン代表ゾルゲに会った。なじみ深かったヤンソンは、前年十一月十二日以前に上海を出発してモスコウへ帰ってしまった。共産党員に対する日本官憲の取調べが進行するに従って、ヤンソンと日本共産党との関係がハッキリして来たので、日本側では何とかしてヤンソンを捕えたい意向の様であった。これを察知したモスコウでは、ロゾフスキーの名で電報を打って彼を上海から引きあげさせたのである。

 

 佐野はここで日本内地との連絡通信に大きな努力をした。三月未に第一信を送った(註)。それには、大会準備のことや、誰か一人上海へよこせと書いた。四月七〜八日頃にはその返事が来た。それは、上海へ大会のために十二人もの人間を送ることは絶対に不可能だから、四、五人でやるか、または内地で開く以外にない。その何れにするかは相談して決めたい。また中央部員の半数を上海に居住させる必要はない、なるべく早く上海へ一人やるからその人から聞いてくれ、という内容であった。

 

  (註)、通信暗号には、孫逸仙著『三民主義』の英訳本の十一頁から九九頁までを使用した。(一九二七年十一月〜三・一五まで)。これは三・一五事件の時、市川宅で押収されたので、それ以後は『日本歴史大綱』英文訳本を使用した。

 

 佐野は、内地から人の来るのを待っていたが、なかなか誰も来ないので、四月下旬に第二信を出した。(一)四、五人での大会では駄目だから内地で開くことにし、自分も帰国する。(二)コミンテルンの意見もあるから、誰か一人上海によこせ。(三)党員(非党員ならば五年以上労働運動の経験ある労働者)を五十名クウトベへ送るようにせよ。その他の内容であった。この手紙が届いた頃には、市川等はすでに捕えられていたと見え、その返事は要領を得ないものであった。

 

 そこで佐野は第三信を送った。(一)コミンテルンから、七月二十四日、パリで開かれる反帝同盟第二回大会に日本共産党から二名、共産青年同盟から一名、それに出来れば、大山郁夫河上肇の中、一名を送るように言って来たこと、(二)常任委員の半数を上海に置くことはコミンテルンの指令でもあることだから、単に必要なしというだけでなく、もつと具体的に、よこせない理由を言ってよこせ。(三)如何なる危険があっても党大会を開き、三・一五事件以来の経験を検討して、新方針を立てることが必要であるから、その準備をせよ云々であった。日本からの返事は来なかった。否、来る筈はなかった。佐野が、日本から人の来るのを待っている気持はこの手紙でもハッキリと感じられる。

 

 彼は、返事が来ないので、五月末には帰ろうと思って、ゾルゲに話したが、ソルゲは、「今、君が帰国することは危険であり、君が捕まれば、日本との連絡が切れるから、もう少し待っていて呉れ」と言った。こうしたわけで彼の帰国は日一日とおくれていた。六月一三日、ゾルゲから使が来て曰く、日本から手紙が来て、六月十一日から十三日(警視庁発表の新聞記事では、六月四、五、六日とある。)までの間、南京路永安公司前の街頭で会いたいと言っている、と。

 

 そこで、佐野は、すでに指定の時間がすぎていたので翌十四日に行ってみたが、それらしい人は来ていなかった。一方、ゾルゲは自らその指定された時間に行って見たが、それらしい人は来ていなかったので、念のため佐野に知らせたというのである。この勘はゾルゲの方が当っていた。

 

 3、佐野学の逮捕

 

 浦川一行は、「外人がやって来た」ので、手を出さなかったのである。それとも知らぬ佐野は、日本から来ている人の名前と宿所を電報で問合せた。これは云うまでもなく、警視庁へ問合せたようなものであった。六月十六日の昼頃、連絡者がその返事を持って来た。それによると、支那街小東門の中央旅舎に、瀬川という名前で泊っているとのことだった。そこで佐野は、同日午後三時頃、そこへ行ったところ、公安局長袁良以下支那官憲が七、八名待ち受けて居て、突然ピストルをつきつけられ、そのまま捕まってしまった。

 

 逮捕はされたが、国民政府は日本側官憲に身柄を渡さず、交換條件として難しい問題を日本側に提出して来た。国民政府は転んでもただ起きないという抜け目のない外交交渉をやつたわけであるが、このため二ケ月程の間、佐野は支那警察署に居たのであった。佐野逮捕さるの報は、翌日の中国新聞に一斉に発表された。佐野は、当時の中共委員長向忠発を始め、李立三、周恩来、蔡和森などとも交渉しており、『紅旗』の編集会議にも出席したばかりでなく、『紅旗』のためにしばしば原稿も書いていたので、彼の逮捕は中共及びコミンテルン代表にも大きな衝撃を興えた。それでいろいろな手を用いて、彼を救い出そうと計画されたが何れも不成功に終った。約二ケ月の後、身柄は警視庁の手に渡された。

 

 佐野は警視庁員にとりかこまれて、連絡船に乗った。船が内地へ近付くと同時に大勢の新聞記者が詰めかけて、彼の心境を問うた。佐野は多く語ることを許されもせず、また語ることを自分も欲しなかったので、筆硯を借りてその心境を伝えた。

 

 曰く、「士可殺不可辱 昭和四年 佐野学」と。国際的共産主義運動の指導者として活躍し、日本共産党の創立当初からの有力者であり、市川、鍋山、三田村等が検挙された後では、唯一人の古い指導者であっ佐野も遂に検挙されてしまった。

 

 かくして、二七年テーゼを作り、かつ、それを忠実に果敢に実行した指導者たちは、根こそぎ検挙され、五色大会以後の共産党は事実上壊滅するに至った。言うまでもなく、その組織上の根というか、或は葉というか、それらの人々の跡を追う者は、既に用意されていた。併し乍ら、これ以後の党は、その性格もますます異なり、人的にも全く新しい人々によって運営されるに至った。それにもかかわらず、二七年テーゼの興えた影響は大きかった。そこで、われわれは極めて大雑把に、二七年テーゼによる改組の意義を箇条書にあげて、次の時代の性格を知るよすが、ともしておこう。

 

 

 6、二七年テーゼによる改組の意義

 

 二七年テーゼの実行については既述した。そこで行われた改組の意義を積極面と消極面に分けて考察すれば、おおよそ次の如くである。

 積極的肯定的面。

 

 第一に、共産党が公然と大衆の面前に出現したこと。

 第二に、このように出現し得たのは、成立以来七年にして、渡辺、鍋山等労働者出身の指導者が中央部員として重きをなし、佐野、市川等とよきコムビをなしたからであること。

 

 第三に、大衆にコミンテルンの意見をありのまま明らかに示したこと。

 第四に、国内の労働者前衛分子を広汎に吸収し得たこと。

 

 消極面乃至は否定的な面。

 

 三・一五事件以後、次ぎ次ぎと検挙されたが、そこでは形式的再建だけが考えられた。そして、コミンテルンの権威の増大と、日本の党の権威の低下とが生じた。その原因の主なるものは次の二つであろう。

 

 第一、綱領、特に「君主制廃止」問題に関する永続的動揺。若しも、このスローガンが大衆的に討議されたなら、二七年テーゼ作成に参加した人々が、コミンテルン指導者の意見を軽率に受け容れ、自国の特殊條件を看過したとの誤謬が、この改組の時の否定的一面として大衆的に立証されたであろう。このスローガンは、一九二二年のブハーリン綱領草案の中にあり、それが表面に掲げられない事情については既に詳かにしたところである。それは単なる偏見として片付けるわけには行かない。二七年テーゼ以後でも、このスローガンに関する動揺は続いた。何ものにも恐れない筈の共産党員が、この問題に当面するとアイマイにして来たという事実が雄弁にこれ証明している。

 

 第二は、コミンテルンの指導に対する幻惑的依頼の傾向である。二七年テーゼ以前のテーゼにも、同一内容のものを多く含んでいながら、同一効果をあげ得なかったのは、それが日本の国内的要因結合していなかったからである。二七年テーゼによる改組の意義を強調するの余り、その神秘力を文献テーゼの中に見出そうとすることは愚かなことである。これは二七年テーゼの実行に当った指導者たち自身が内在的力を正しく意識せず、他に率先して外的要因の意義のみを強調し、それを党の伝統として残そうと努力したこことが、大いに興っていると言ってよかろう。更に、インテリゲンチャが、コミンテルンの権威を振り廻したので、一層そうした空気を濃くした。

 

 こうしたことから、検挙=再建=検挙の繰り返しとなった時に、先ず何をおいてもコミンテルン支部としての形態を再建すれば、それが直ちに我が国労働者運動の前衛党になるという形式主義を助長したのである。「プロレタリアの党は唯一つ共産党のみ、その共産党とはコミンテルン支部のみ」−これが党の実質的内容如何に関せず、また現実の役割如何に拘わらず、悪魔の命題として押し立てられるに至った。

 

 そこからして、政治的には、コミンテルンの機関及び指導者の意見を、神聖不可侵の教義として受け容れる卑屈、非自主的傾向を強めることになった。こうした傾向は、労働連運動に長い体験を積んだ指導者が居なくなるに連れて、愈々強められることになった。それらは、次の巻における事実の中でハッキリ示されることになろう。 −(上巻終)

 

 

 7、執筆者風間丈吉略歴

 

 一九〇二年新潟県に生る。十四才より機械工場に働き、一九二五年入露、モスコウ東洋共産大学を卒業し、プロフィンテルン執行ビューローに勤め、国際労働会議、太平洋労働組合会議等に出席す。

 一九三〇年帰国、日本共産党を再建し、中央委員長となる。一九三二年熱海事件の時逮捕され、一九四二年満期出獄、この間一九三三年共産党より脱党す。

 出獄後再び機械工として働き、終戦後、労農前衛党の書記長となり、その解散後、世界民主研究所理事となり、現在に至る。

 

 上巻発行、昭和26年(1951年)、天満社

 

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 〔関連ファイル〕

     『逆説の戦前日本共産党史−コミンテルン日本支部史』ファイル多数

     wikipedia『コミンテルン』 『27年テーゼ』 『片山潜』

     『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人と転向・非転向問題

     石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

     wikipedia『佐野学』 『鍋山貞親』 『転向』

 

     『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の丸山批判

     『反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相』

     渡部徹『一九三〇年代日本共産党論−壊滅原因の検討』

     田中真人『一九三〇年代日本共産党史論−序章とあとがき』

           『日本反帝同盟の研究−共産主義運動と平和運動』

     伊藤晃  『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

     加藤哲郎『歴史における善意と粛清』『闇の男−野坂参三の百年』の読み方

           『旧ソ連日本人粛清犠牲者一覧』 加藤HP