1950年前後の北大の学生運動

−その位置と意義を再考する

 

イールズ闘争から白鳥事件へ−その遺したもの

中野徹三

 

 これは、中野徹三札幌学院大学名誉教授から、私に送られた『大原社会問題研究所雑誌bU51』(2013年1月号)掲載の中野論文の内、一部抜粋「3、イールズ闘争から白鳥事件へ」(P.18〜23)の全文である。なお、(省略)は、〔関連ファイル〕リンクのPDF3篇にある。

 

 ただし、今西一『北大・イールズ闘争から白鳥事件まで―中野徹三氏に聞く()』 () ()PDF3篇には、「白鳥事件」がまだ含まれていない。イールズ闘争までで終わっている。「白鳥事件」は、次号のPDF()になる。このHPに転載することについては、中野氏の了解をいただいてある。他に中野論文11編のリンクも載せた。

 

 〔目次〕

     はじめに

   1、北大のイールズ闘争の諸特徴(1)−その迎撃態勢とその思想 (省略→PDFリンク)

   2、北大のイールズ闘争の諸特徴(2)−その経過と問題点 (省略→PDFリンク)

   3、イールズ闘争から白鳥事件へ−その遺したもの (全文)

     (1)、イールズ闘争以後

     (2)、生党組織の「二重化」とその一つの「軍事化」

         −中核自衛隊の結成から白鳥事件まで

 

 〔関連ファイル〕       健一MENUに戻る

   (白鳥事件、1952年1月21日)

    宮地幸子『白鳥事件とわたし』

    高橋彦博『白鳥事件の弁護人岡林辰雄弁護士をめぐって』−大石進氏の『講演記録から』

    河野民雄『歴史の再審のために真実の解明を』−「白鳥事件」60周年を迎えて札幌集会

    今西一・河野民雄『白鳥事件と北大−高安知彦氏に聞く』小樽商科大学PDF

    今西一『北大・イールズ闘争から白鳥事件まで―中野徹三氏に聞く(1) (2) (3)

    渡部富哉『白鳥事件は冤罪でなかった(1)−新資料・新証言による真実』 (2) (3)

    wikipedia『白鳥事件』

    ブログ『白鳥事件−事件概要、「声明」、「天誅ビラ」』

    Maro『10月27日、白鳥事件を考える集い』

    高橋彦博『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」

    川口孝夫著(添付資料)『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋

 

   (中野徹三ファイル・リンク)

    『社会主義像の転回』憲法制定議会解散論理

    『「二〇世紀社会主義」の総括のために』

    『「共産主義黒書」を読む』

    『歴史観と歴史理論の再構築をめざして』「現実社会主義」の崩壊から何を学ぶか

    『マルクス、エンゲルスの未来社会論』コミンテルン創立期戦略展望と基礎理論上の諸問題

 

    『理論的破産はもう蔽いえない』日本共産党のジレンマと責任

    『いわゆる「自由主義史観」が提起するもの』コミンテルン「32年テーゼ」批判を含む

    『遠くから来て、さらに遠くへ』石堂清倫氏の追悼論文

 

    『国際刑事裁判所条約の早期批准を』拉致被害者の救済のために

    『共著「拉致・国家・人権」の自己紹介』藤井一行・萩原遼・他

    中野徹三・藤井一行編著『拉致・国家・人権、北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』

 

 はじめに

 

 与えられたテーマは,自分が学生であり,そしてその一員であった62年前の1950年前後の北大の学生運動についての歴史的回顧であるが,30枚前後という紙面の制約からして,それは当然運動史の体系的叙述にはならないし,また自分の個人的体験を綴る場でもありえない。

 

 それで私がここで考えたい点は,まず「北大のイールズ闘争」が全国のイールズ闘争すなわち当時の大学での反レッド・パージ闘争において持つ主要な諸特徴とその意義および問題点、そして、それが生み出された諸事情の明確化であるが,次にこの闘争の後に起こり、今年がその60周年にあたる「白鳥事件」との連続性ないし非連続性の問題,またこの事件が北大の学生運動に残した種々の「遺産」の問題である。

 

 これらは,史論としての問題の発掘と分析であり,科学的討論のためのひとつの試論の提出である。

 

 

 1、北大のイールズ闘争の諸特徴(1)−その迎撃態勢とその思想 (省略)

 2、北大のイールズ闘争の諸特徴(2)−その経過と問題点 (省略)

 

 これは、省略した。ただ、今西一による中野徹三へのインタビュー・ファイルPDF3編をリンクで載せる。

 

    今西一『北大・イールズ闘争から白鳥事件まで―中野徹三氏に聞く(1) (2) (3)

 

 

 3、イールズ闘争から白鳥事件へ−その遺したもの

 

 〔小目次〕

   (1)、イールズ闘争以後

   (2)、学生党組織の「二重化」とその一つの「軍事化」−中核自衛隊の結成から白鳥事件まで

 

 1)、イールズ闘争以後

 

 さて,以上のような次第で,北大春のイールズ闘争は全学連の反レッド・パージ十月闘争と接続せず,処分反対闘争も闘争らしい様相もなく消滅した。後者については,被処分者党員のほとんどの姿が秋には機関の指令により北大から消えていたことも,かなりの程度影響している,と考えられる。

 

 こうして北大の学生運動は「日常闘争」に移ったが,北大当局は夏休み中の726日に開かれ評議会で,東大での共産党細胞公認取り消し後全国唯一の大学公認団体だった北大細胞の公認取消し(47年に研究団体として公認)を決定した。伊藤学長は8月に事件の責任を取って辞任し,9月の学長選挙では島善鄰農学部長が後任学長に選ばれた。イールズ闘争以来の運動の主流を継ぐ主体は教養科自治会と理学部自治会であり,前者は一時反共方針を掲げる一宮執行部に替わったが,執行部は反レパ闘争に自信を失い10月始めに総辞職し,委員長選挙で5月の見沢執行部を基本的に継承する天海執行部が選ばれた。イールズ闘争中に解散した全学協議会(学生)に替わって,111日に全学学生自治会連合が誕生した。

 

 他方,北大の学生党組織は,もちろん当局の「禁止」措置など無視して学生会館の「社研」の部屋を拠点に活動を続けていたが,私が48年に北大に入学後間もなく入党して以来の体験では,イールズ闘争はじめ全学的闘争のために細胞員がその方針をめぐって意見を出し合って十分に討議し,その結果方針が決まって実行に移される,という事例はほとんど記憶にない。たいていの会議は,道委員やその意を体した細胞委員が状況や方針を説明し,細胞員は多少不満や異見をのべても結局はそれを受け容れ「実践」するだけが,自分の活動だった。

 

 しかも東京や関西の諸大学の党員諸君のように,党活動と学生運動双方の領域において二つの方針と組織が対立し抗争する場を自らの周辺に見ることも体験することもなかった私たちには,上から与えられる方針を対自化しその正当性について批判的に考察し行動する自由は,総じてほとんど無縁であった,といってよい。

 

 50年秋から51年春にかけて,私たち北大学生細胞の活動は,ある程度は細胞員たち自身が創り上げた方針にもとづく活動と,その外から細胞員に指令として与えられる方針に基づく活動との「二重化」,しかも後者の活動の比重のますますの増大が急激に進行した。それは512月の「四全協」での軍事方針の採択と明らかに連動する活動であった。

 

 後者の例のひとつは,513月細胞委員会の指令で実行された北大近くの交番へのビラ撒きと警官工作である。3人の細胞員が「平和運動を弾圧するな」という趣旨のビラ(作成者不明)を大学正門近くの交番に勤務中の警官2名に配って説得したが,うち2名が警官に怠業的行為を煽動したという理由で現行犯逮捕され,地方公務員法違反容疑全国第一号の起訴となった。

 

 この事件は,こういう事件で北大生が起訴された戦後最初のケースだったが,そのひとりが他ならぬ私であった。私たちふたりは,杉之原弁護士の弁護を受けて公判闘争を行い,一審では1年の懲役と3年の執行猶予という判決だったが,検事側が「被告たちは毫も改俊の情なく,執行猶予は量刑不当に軽い」という「理由」でこれまた類例のほとんどない「検事控訴」をしたため,二審では執行猶予を取られて半年の実刑判決となり,すぐ上告したが,卒業式の直後に棄却となって刑が確定し,私は文学部教授会が入学した大学院のその間を休学にしてくれて受刑したが,小島正治君(法)は潜って後に逮捕され,収監された。

 

 また同じ513月には,私たちが拘留されている間にアメリカの州兵派遣に反対する無届け市民集会が開かれ,やはり北大の細胞員が事実誤認の公務執行妨害容疑で逮捕されている。

 

 このように,この時期から学生党員の活動は学内での活動とならんで,学生細胞を指導する上部機関が企て指令する学外での活動が,次第に大きな比重を占めるようになってきた。

 

 もうひとつ,511013日,北大本部前からトラックで米軍基地建設のアルバイトに出かける北大生にこのアルバイトだけは止めてくれ,と説得中の学生たちに警官隊が襲いかかり,威力業務妨害の容疑で道学連委員長中林重祐,辛昌錫,全学自治会中央委員会委員長田辺良則の三君が逮捕されるという,いわゆる「軍事アルバイト事件」が起こったが,これが基本的に北大の学生細胞が企画し取り組んだ行動だったことは,参加した私自身がよく知っている。田辺君は不起訴になったが,後の二君は漸く5年後に無罪を勝ち取った。

 

 2)、学生党組織の「二重化」とその一つの「軍事化」−中核自衛隊の結成から白鳥事件まで

 

 51年の春,イールズ闘争を経験した私たちは新制北大の第一期生としてそれぞれの学部に進学し,旧制学生と並んで,しかしより若い感性と行動力をもってさまざまの分野で新しい学生生活を開拓した。私が進学した文学部にはまだ学生自治会がなかったので,私は友人たちと半年をかけて文学部の全学科を回って自治会の必要を訴え,秋に結成して初代委員長になった。法経学部でも自治会の結成準備が進み,やがて細胞員の大谷高一君が委員長になった。工学部と教育学部でもそれぞれ50年と53年に自治会が結成されほぼ全学部に学生自治会の旗が翻った。

 

 しかしその反面,51年の春から秋にかけて,学生細胞とその周辺にはなんとなく一種奇妙な雰囲気が漂い始めた。すなわち,私が働きかけて党に入れたメンバーの一部を含めて,明らかに党員かもっとも党に近いシンパになっていたはずの(私と同学年か,一年下の学年の)諸君の一部が,なぜか急によそよそしくなり,出るはずの会議や運動にもこないし,会っても前のように党や情勢や哲学の議論にも乗ってこない,だがなにかやっているらしい,そのうちに我々普通の党員の間では,どうやら裏の組織ができていて,それはどうも軍事方針に関係があるようだという暗黙の了解がいつとはなしに出来あがった。

 

 こうして,北大の学生党組織はこの時期,ある不可視・不可侵の透明な膜によって次第に二分されつつあった−活動の二重化は,今や組織自身の二重化へと進んだ。

 

 この過程は,先に述べた活動の二重化と並行して50年秋頃から既に始まっていたが,51年の10月にはその決定的な段階に入った。この月に,旭川近くの比布村の農民活動家出身で共産党留萌委員会委員長だった村上国治氏が札幌委員会の委員長に任命され,またイールズ闘争の時の道学対だった追平雍嘉氏も札幌委員会の常任になった。この10月はまた,日本共産党がスターリンの直接の指導下で(中国党も関与して)定式化され「日本の解放と民主的変革を,平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである。」と規定した「51年綱軌を採択し,その軍事路線を決定した五全協が開かれた月であった。

 

 この時の札幌委員会にはいわゆる「ビューロー」の他に「軍事委員会」が組織されており,村上氏が委員長を兼ね,その下に軍事専門の委員の花井氏(中国に亡命し,死亡した宍戸均氏)がおり,ほかに北大生が若干名その半専従のような形で勤務していたらしい。

 

 そして10月下旬か11月上旬に,村上国治氏(以下Kと略)は当時北大学生細胞のCapであった中島君(交番工作で私といっしょに捕まった彼)等と相談の上数名の細胞員を選んで札幌委員会の軍事委員会に所属する中核自衛隊への参加を求めた。

 

 こうして高安知彦(農),門脇戍(経),村手宏光(理)の三君がまず選ばれ,その後大林昇君(経)が加わり,さらに「確か道委員会の常任だった鶴田倫也氏(法)を(Kが)吉田四郎(道)委員長を口説いて引き抜いたらしく」(18),この5人が宍戸氏を隊長格とする札幌の中核自衛隊を形づくったのである。

 

 (18)今西一・河野民雄「白鳥事件と北大一高安知彦氏に聞く」小樽商大『商学討究』第63巻第1号,20127月、21

 

 その後521月に白鳥警部襲撃計画が具体化するなかで,ポンプ職人で円山居住細胞の佐藤博氏(射殺犯として追及され,中国に亡命,死亡)が加わったが,彼と元電通労働者でパージになり常任となった宍戸氏を除いて,中核自衛隊員がすべて北大の学生党員から構成されたのは,北海道党の軍事路線の際立った特徴といってよい(これ以外に中核自衛隊と呼ぶものは道内にはなかった)。

 

 さらに注目すべき点は,東大や早大などの学生党員の活動が「新綱領」の軍事方針のもとで(この点では国際派も主流派に屈服して)農山村工作や基地闘争などにかなり多様な形態で取り組まれたのに対して,北大の学生党員の軍事路線にもとづく活動はほとんどこの中核自衛隊の活動一本に集約されたものとなり,しかもそれが早期に白鳥事件というショッキングなかたちで出現して警察権力の強力な追及を招いたため,一挙に防衛的対応を余儀なくされ,また北海道という諸条件もあって山村工作などもほとんど試行されることもなく終った,という事実である(19)。

 

 (19)例えば早大の学生細胞の51年から53年にかけての記述を参照(『早稲田1950年史料と証言』別冊・資料篇,(8083頁)

 

 すでに最初に提示された紙面(30枚前後)はもとより,編集者氏のご好意で特に許された50枚という枚数も尽きたので,今年で60周年を迎える白鳥事件の真実とその責任についてここで語る余裕はなく,その立ち入った検討は別稿を期したい(20

 

 (20) イールズ闘争と白鳥事件についての私の見解の概要は,さしあたり小樽商大の今西一教授による私へのインタビュー記録「北大・イールズ闘争から白鳥事件まで」(『商学討究』第61巻第4号)ならびに「北大・1950年代の政治と学問」(『商学討究』第62巻第1号)を参照して頂きたい。なお,本年(2012年)1027日には,事件60周年を期して「白鳥事件を考える集い」が札幌で開かれたが,その詳細は『労働運動研究』復刊第33(201212)に,この会の呼びかけ人の1人河野民雄氏が報告を寄稿する予定である。

 

 ただひとつ,私自身の忘れることが出来ない体験を記させて頂くことにする。

 

 52年の121日夜,札幌市警警備課長白鳥一雄氏は,自転車で帰宅途中に後ろから付けてきた男にピストルで射殺された。そのショッキングなニュースが各紙の紙面を覆っていた。たしか23日に,私は呼び出されて,文学部の自治会の部屋に行った。そこには法経学部の自治会委員長をやっていた大谷高一君がいた。彼は裏の方面の組織にも関わっていたが,その彼が黙って私に紙切れを見せた。そこには「白鳥事件は党のやったことではないという日和見主義的な意見を克服して,党の意志の革命的統一を図る必要がある」ということが書かれていた。

 

 私は,とうとうここまでやったのか,と改めて暗然とした気持ちになり,いくつか質問しようとすると,彼は身振りでそれを拒み,部屋を出て行った。後で判ったことだが,この日の朝には「見よ天誅遂に下る!」のビラが札幌委員会の名であちこちで配られて,このテロ行為を全面的に擁護していたのだった。

 

 ところがその翌日か翌々日にもう一度呼び出されて大谷君にやはり黙って紙切れを見せられた。そこには「この事件は愛国者の行為であるが,共産党のやったことではないということに,合法的宣伝は統一する。」とあった。今回も私が質問しようとすると,彼は無言で拒否して立ち去った。

 

 これは事実を知らなかったらしい共産党道委員の村上由氏が23日と24日に行った混乱した記者会見の内容(1回目は党の関与を否定,2回目は党は個人テロはやらないが事件は愛国的行動とみなすという)に対応するものであるが,私はこの2回の紙切れと「天誅ビラ」で,この事件は札幌党の軍事組織が主体となって実行したものだ,ということをこの時確信した。

 

 なぜなら,この時点でこういう内容のメモを非公然のルートで党内に回覧する,という行為は,事件を企画し実行した者以外には絶対にできないことだから,である。このメモは勿論私だけでなく,おそらく札幌の主要な職場と地域の細胞の責任者の間に回覧されたことは確かであるから,当時の札幌の党員の多数は,党のルートや会議を通じて事件の真実を衝撃とともに知ったことになる。

 

 事実,私を含めて当時の札幌の党員のかなりの部分は,この事実を知りながら,「党を守る」ため,その後も長く胸の内に秘め沈黙し続けねばならなかったのであった。

 

 事件が北大生に及ぼしたものを要約しよう。先に見たように,事件に関わった中核自衛隊7名のうち5名は,北大生であり北大細胞員であった。逮捕され裁判にかけられた3名のうち2名(高安君と村手君),党の指令で中国に亡命した10名中5名も然りである(内2名は爆弾の製造などその周辺で活動していたが中核自衛隊員ではない)。亡命ないし追放された10名のうち,7名は帰国(うち4名は元北大生)したが3名は客死した。そしてその最後のひとり,元北大生鶴田倫也君は,事件の60周年の本年3月に,北京で病没した。

 

 政治テロとしてのこの事件が内包する問題は,もとより学生運動とのかかわりを遥かに超えた革命運動とその思想自身の根本にかかわる問題であり,そしてそれは戦後の学生運動を含むすべての社会運動の評価と叙述にも深く関係する未解決の問いでもある,と私は考える。

 

 白鳥事件に集中的に表現された軍事方針は,北大の学生党員の一部を,一時的であれ政治テロ行為の準備と補助の主力部隊に転化させた。

 

 それは,学生運動に許され期待された活動から質的に非連続な反人間的活動への転化を意味するものであり,当時の日本共産党とその根本的に誤った暴力革命路線による学生党員の「使い捨て」方針の実践であった。

 

 そしてこの党が,その後も「階級敵」の名で人間の生命と普遍的な権利の尊厳を安易に否定するこの暴力革命路線を採用した自らの責任を一貫して回避し,その徹底した思想的克服を未だに果たそうとしていないことは,以後の学生運動の一部に現れた暴力主義的傾向とそれによる運動の堕落の一母胎ともなったのである。事件後60周年の特集を組んだ北海道新聞の問い合わせにたいしても,同党広報部は,「党内が分裂していた当時の一方の側にかかわる問題であり,コメントする立場にない」と述べたという(同紙228日号)。

 

 ここでは驚くべきことに,かつては自党とともに冤罪としていた村上国治氏や亡命して死亡した隊員たちをも,また高安氏のように事実を認めて「ユダ」等と悪罵された多数の党員たちもこの際捨ててしまおうというわけであり,その責任は極めて重大である。

 

 ところで事件後の北大の学生運動は,一面ではこの事件の重荷を背負わせられながらも,こうした問題を逆用して学生と国民の正当な権利を悪辣な手段で抑圧する動きとの対決を続けていた。

 

 3月中旬,全学自治会中央委員会は「我々は抗議する」と題して,前年にCICが北大の学生活動家(一名は朝鮮人学生)に加えたスパイ行為の脅迫から,さらには北大の学生部の職員が文化団体の学生をそそのかして我々の動向を探ろうとしているなどの一連の事実を暴露する長文の声明を大学本部前の掲示板に貼り出した。前年12月に私は中央委員長に選出されていて,この声明は私が書いたものだったが,この掲示が出るとすぐに日本反共連盟の山本弘という男が学内に入って来て,声明文をしきりに撮影し始め,我々が追及すると挑発的な言葉を吐いて学外に逃げる,という言動を繰り返した。

 

 そのなかで318日に先に触れた鶴田倫也君が山本のカメラを奪うと,二名の警官がカメラ強奪の現行犯として逃げた彼を我々の中央委員室で逮捕しようとしたので,我々が取り囲んで連行を阻止した。その後大学当局と警察署の交渉は学長室で続けられ,我々は学長室前に押し掛けて即時釈放と逮捕連行の押し合いは数時間続いたが,最後は警官隊が突入して来て鶴田君と職員の活動家一人を力づくで連行していった。いわゆる「北大事件」である。

 

 これらの闘いを経ての617日の破防法粉砕全国ストでは、法経・文・教養の三学部自治会がストを決行し,理・農・工・教育等からの有志も多数参加して中央委員会主催の全学集会に結集し.さらに中央署への抗議の意志をも示す初の市中デモを行った。この1500名を越える全学部的規模の全学集会と初の市中デモは,北大の学生運動史上空前のものであり.8年後の安保の闘いを方向づけるものでもあった,といえる。この高揚と,次々に学友であり同志であったものたちが拘引される白鳥事件の暗雲による心痛の間を,この年私たちは歩み続けねばならなかったのである。

 

(なかの・てつぞう 札幌学院大学名誉教授)

 

以上  健一MENUに戻る

 〔関連ファイル〕

   (白鳥事件、1952年1月21日)

    宮地幸子白鳥事件とわたし』

    高橋彦博『白鳥事件の弁護人岡林辰雄弁護士をめぐって』−大石進氏の『講演記録から』

    河野民雄『歴史の再審のために真実の解明を』−「白鳥事件」60周年を迎えて札幌集会

    今西一・河野民雄『白鳥事件と北大−高安知彦氏に聞く』小樽商科大学PDF

    渡部富哉『白鳥事件は冤罪でなかった(1)−新資料・新証言による真実』 (2) (3)

    wikipedia『白鳥事件』

    ブログ『白鳥事件−事件概要、「声明」、「天誅ビラ」』

    Maro『10月27日、白鳥事件を考える集い』

    高橋彦博『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」

    川口孝夫著(添付資料)『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋

 

   (中野徹三ファイル・リンク)

    『社会主義像の転回』憲法制定議会解散論理

    『「二〇世紀社会主義」の総括のために』

    『「共産主義黒書」を読む』

    『歴史観と歴史理論の再構築をめざして』「現実社会主義」の崩壊から何を学ぶか

    『マルクス、エンゲルスの未来社会論』コミンテルン創立期戦略展望と基礎理論上の諸問題

 

    『理論的破産はもう蔽いえない』日本共産党のジレンマと責任

    『いわゆる「自由主義史観」が提起するもの』コミンテルン「32年テーゼ」批判を含む

    『遠くから来て、さらに遠くへ』石堂清倫氏の追悼論文

 

    『国際刑事裁判所条約の早期批准を』拉致被害者の救済のために

    『共著「拉致・国家・人権」の自己紹介』藤井一行・萩原遼・他

    中野徹三・藤井一行編著『拉致・国家・人権、北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』