2007年1月はこの7公演

 


渡辺源四郎商店「素振り」

王子小劇場 1/4〜1/7
1/6(土)マチネ観劇。座席 自由(4列目中央:招待)

作・演出 畑澤聖悟

[物語](当日パンフより)
 人生はいつも素振り!? 永遠に続く自己鍛錬のその先にはたして何が見るのか…。野球、剣道…オムニバス・ドラマの枠を越えて、畑澤世界独特のユーモアと人情が爆裂する。(ここまで)
●第一話(話の登場順で)
 バットの素振りをする茂(藤本英円)と、すぐ隣で応援(というかいろいろな無駄話)をする裕子(工藤静香)。裕子は、素振りを見ながら、合宿カレーの作り方とかを茂に聞かせる。二人のなにげない会話から、高校時代に野球部で活躍した男子と、マネージャーをやっていた女子の現在(10年後)の姿が、徐々に浮かび上がってくる・・・。
●第ニ話
 ある一家の早朝の会話。この一家は素振りを日課とするのか、竹刀の素振りをしながら会話を交わす。いつも姉の物を欲しがっていた妹(藤本一喜)と、妹を疎ましく思う姉(工藤由佳子)。同居している弟(高坂明生)と、妹の夫の洋(萱森由介)。平静を保ちながら素振りをしているが、いつしか激しく口論になっていく姉妹(それでも顔の表情は変えず、素振りをし続ける)。そのうち、夫はバドミントンのラケットやゴルフのクラブで、弟は卓球のラケットで素振りを始めたりする。振る物が違うことにより感情の相違を表現。そして、家族の会話はどこまでも噛み合っていない・・・。
●第三話
 女二人(菊池恵子、三上春佳)の会話(と言うか漫才的なカケアイ)。二人が次々といろんな役を演じていく。ある時は自分の部屋にひきこもってしまった子供と、子供を部屋から出そうと苦心する家族達の姿を、二人が入れ替わり立ち代り演じていく。子供VS母親、父親、姉、祖父、祖母、ご先祖様、犬・・・と様々な役を瞬時に切り替えて演じていく・・・。特に何も振っていないので、“ネタ振り”と心の中では思っているのだが、そこまで崩さないよなぁ〜とも思っている。この三話目がむちゃくちゃ面白かったけど、畑澤さんの意図が読めなかったのも確か。

 と、“素振り”に込められた感情を3つの話で綴るオムニバス作品。ストレートから変化球まで演出も様々。その3つの話は一話を通して完結させるのではなく、話の途中途中でランダムに出てくる感じの構成になっている。でも、ちゃんと流れがあり退屈はしない。って言うか面白い。もちろん違和感もない。
 ラストは(ネタバレごめんなさい)10年間の感情を爆発させた裕子が茂の元を去る。一人残った茂は、裕子が話してくれた話を一人で反復しながら素振りを続ける・・・というもので着地も見事。

 渡辺源四郎商店(通称なべげん)を観るのは今回が初めてである。ただし、トリュビュートの他の作品や弘前劇場での畑澤作品は何本か観ている。それらと比べると今回の作品は、今までとまったく趣きの異なった、どちらかと言えば、実験的要素の強い作品だったと思う。

 で、最後まで観て印象に残ったのは、やはり“バットの素振り”。「ぶぅんっ、ぶぅんっ」って風を切る低重音に感情が隠っている。凄い。 その全力の素振りを続ける藤本英円も又凄い。手を抜いたら感情なんか伝わらないからね。ただ、個人的にはその素振りが怖くてちょっと集中できなかったってのもある・・・。手が滑って飛んできやしないかとか、飛んで来たら頭は困るので腕の1本は折れる覚悟でガードだなとか・・・観劇中に余計なことを考えてしまったのも確か。そんな状態なもんだから、自然と素振りの姿を凝視してしまう。本来なら相手(裕子)の方を見て、素振りは音で感じていればいいんだと思う。でも、できなかったのである・・・。そんなこともあり、満足出来るものではなかった。 ただ、畑澤聖悟の新しい試みとしては面白い作品だったと思う。第三話なんか、そのままお笑いのステージに上げてもいいくらい。

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インナーチャイルド
「アメノクニ/フルコトフミ〜八雲立つユーレンシア〜」

時事通信ホール 1/8〜1/14
1/13(土)ソワレ観劇。座席 F-10(招待)

作・演出 小手伸也

 ある大王の死後、二人の息子が王位を争い、アシバール(葦原中国)とユージア(大和国)とに分裂してしまった。長らく戦争中の両国であったが、隣国のロノクニ(露西亜)が互いの共通の脅威となってきたため、友好関係を結ぼうとする。しかし、それは表向きで、アシバールのタカマ(三枝翠)は、アシバールがこの世界を支配することを正当化するために、『神話』を書くようヤスマール(進藤健太郎)に命じていた。ヤスマールは、歴史編纂室に籠もり、妻子が待つ家にも帰らず『神話』をでっち上げようとする。世の中をまとめるには『神話』が必要だとは理解するものの、何故自分がと自問自答を繰り返しノイローゼぎみである。ついには、子の父親は自分ではなく、前の夫・フヒト(小手伸也)なのではと疑う始末。そんな中、フヒトは異民族の語り部であるアレー(菊岡理紗)を連れて歴史編纂室にやってくる・・・。
 一方、戦いの場だったユーレンに、王国『ユーレンシア(神州国)』を建国しようとする動きも活発化していた。ユージアのナムジン(古澤龍児)を誘い込み、実権のない象徴とし祀り上げ、建国は順調に進んでいた。しかし、その背後には、全てを支配しようとする幻の国『アメノクニ』の影が潜んでいた。

 過去・現在・未来の「日本」、あるいは古代の「大和朝廷」のメタファー(暗喩)として描かれる『ユーレンシア』。軍国主義に走った「日本」、あるいは「アメリカ」を想像させる『アメノクニ』。いろいろなものが混在する架空の世界。その過去とも未来とも言えない世界で、王の勅命により、国の『神話』=歴史を捏造こととなったヤスマールの視点から、国が欲する「歴史」とは何かを問いただす。『神話』は決して「神」の手で書かれた物ではない、全ての「神話」は歴史を正当化させる為に「人」の手によって創られたものである。日本の正史とされる『古事記』『日本書紀』も、書かれたのは八世紀であり、決して大地の誕生と同時ではない・・・。そんな視点からフルコトフミ=『古事記』を読み解いた物語。

 まるでパラレルワールド的な世界なのだが、自分達が歩んできた歴史がこの物語の中の大きな要素となっているのは確か。ヤスマールは、太安万侶(おおのやすまろ)であり、アレーは、稗田阿礼(ひえだのあれ)であろう。古事記の編纂者と伝えられる二人に違い無い。しかし、その人物設定を明確には置き換えてはいない。『アメノクニ』=アメリカと想像できても『アメノクニ』が犯した過ちは、軍国主義の日本が辿った過ちだったりもする。その複雑さに、正直混乱してしまった。

 なので文章もまとまらない。ただ作品中にも語られる「人と人を裁くのは法だが、国と国は勝った方が裁く。」というのが、強い警告として響いてきた。そして勝ったものが作る『神話』のあり方もしかり。その『神話』を現代に置き換えてみれば『神話』=マスメディアという図式が見えてくる。そのマスメディアで歴史が語られたのが湾岸戦争であり、イラク戦争ではないだろうか。映像という記録のため、そこにウソはないだろうと人々は信じ込む。でも、それら全て勝者(アメリカ)の作る“歴史”=『神話』なのである。

 戦争とは関係がないが、最近某テレビ番組で「納豆にダイエット効果がある」と放送した途端、店頭から納豆が消えた事があった。その後データは捏造されたものだと暴露されるのであるが、マスメディアに踊らされる人々の姿をまざまざと見せられた。そんな事をも示唆した作品だったのでないだろうか。

 話は飛んでしまうが、今回もオープニング(キャストロール)は素晴らしい!の一言。映像と役者の動き(普通の動きからストップモーションに移行するところとか)、そして音楽と照明が見事にシンクロする。完璧である。で、毎度このシーンで、出演者の多さに驚くんだけど・・・。

 今回は、九月に上演予定の『アメノクニ/ヤマトブミ』との連作らしい。ヤマトブミという事は、『日本書紀』を読み解くのだろう。今回の作品から引き継いだ物語なのか、または新たな物語なのか・・・いずれにせよ、今から楽しみである。


“インナーチャイルド”自分が観た公演ベスト
1.青ゐ鳥(アヲヰトリ)MAN-WO-MAN
2.遙<ニライ>
3.アメノクニ/フルコトフミ〜八雲立つユーレンシア〜
4.PANGEA(再演)
5.数神-to the Land of Fractal
6.ホツマツタヱ
7.数神-from the Sea of Mathematics

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サイマル演劇団「朱鷺の島の犯罪」

サブテレニアン 1/13〜1/21
1/19(金)観劇。座席 自由(3列目中央:招待)

原作 ウーゴ・ベッティ「牝山羊が島の犯罪」
構成・演出 赤井康弘

 “朱鷺の島”と呼ばれる片田舎の閉ざされた一軒家。そこの主人は戦地に行ったまま音信不通であった。今は妻のムラサキ(吉田朋枝)とその子・セミドー(松村映理子)そして、主人の妹のカナエ(佐武令子)の三人が失意を抱きながら暮らしていた。その家へ片足が不自由な男・ヒロヒト(関秀明)がやってくる。その男は戦地で捕虜になった主人の最後を娶った時に「家族を頼む」と言われてやってきたと告げる。そして、いつしか家に住み着き、数ヶ月が過ぎ去ろうとしていた。ある日、涸れ井戸に酒を取りに下りたヒロヒトを見て、ムラサキは縄を引き上げてしまう。一度は彼を助けようと縄を手にしたムラサキだったが・・・。

 まずは、ウーゴ・ベッティの豆知識。1892年イタリア生まれ。大学の法科を卒業すると地方判事となり各地を回る。1930年ローマに転任した期に職を辞し、劇作に専念する。1917年には志願して第一次大戦に参加し、ドイツ国内の捕虜収容所に移送された経験もある。『牝山羊が島の犯罪』は、1948年の作品。この戯曲の舞台をイタリアから日本に置き換えたのが、今回の作品である。

 で、本編の感想だが、どう言ったらいいか判らない不思議な芝居だった。新劇っぽくもあり、アングラっぽくもある。登場人物全てが異常な空気を抱いているのである。それは不自然とも思える力強いセリフまわしと、固い演技(演出上の演技であり、下手とかではないので誤解なきよう)にあるのだが、その違和感が、芝居の緊張感と異常性を際立たしていたのである。

 ただ、物語的には男がもたらしたものを描きたかったのか、男に左右されてしまう女の姿を描きたかったのか、それらの関係から戦後間もない日本の姿を描きたかったのか、イマイチ伝わったこなかった。すでに三人の生活は崩壊しているように見えたので、異質なもの(男)が侵入することによって、平穏な生活に波風が立つ、というものでもなかった。崩壊に拍車はかかったけど・・・。

 本心を言えば、自分としては、もうちょっと違う方向で観たかった。勝手に想像しちゃうとすれば、主人から聞かされた妻の姿に興味を持ってしまったヒロヒトが主人を殺し、あたかも頼まれたが如く島にやって来る。そして、まんまと妻を手に入れたヒロヒトは、欲望の矛先を妹や子供に向けていく。それに感づいたムラサキは、偶然井戸に入ったヒロヒトを監禁する。しかし、時はすでに遅く、手をつけた妹は流産し、子供は妊娠してしまう。男の欲望と女の嫉妬、それに感染してしまう周囲の人々・・・みたいな、本能剥き出しで愛欲をぶつけあうような作品が観たかった。あっ、原作を知らないので勝手に書いてますので、間違った解釈はお許しください。でも、イタリアが舞台だったら若い二枚目の男を巡る三人の女の物語で、全然自分の思い描いた作品とは違っていそう・・・。どちらかと言えば女の方が積極的みたいな。でも、それを男尊女卑が強い戦後の日本に置き換えた事によって、狂気を孕んだ空気が生まれていたとは思う。ただ、もっともっと悲劇を極め、観客の感情を揺さぶるまで突き抜けて欲しかったと思うのは正直なところ。男の行為を“犯罪”と呼ぶのか、ムラサキの監禁を“犯罪”と呼ぶのか、男に翻弄されてしまう三人の女の行為を“犯罪”と呼ぶのか、そんなものを浮き彫りにさせていくのも面白かったと思うのだが、どうだろう。


“サイマル演劇団”自分が観た公演ベスト
1.朱鷺の島の犯罪
2.7−2−0−K?
3.A Melancholy Tip 〜憂鬱な先端〜

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三条会「ひかりごけ」

ザ・スズナリ 1/18〜1/21
1/20(土)マチネ観劇。座席 E-3

原作 武田泰淳
演出 関美能留

 舞台は学校の教室。チャイムが鳴る。教室の中に4人のスキンヘッドの男子生徒が流れ込んで来る。その後に女教師(舟川晶子)と転校生らしき女生徒(大川潤子)が入ってくる。女生徒は挨拶代わりなのか、マクドナルドのハンバーガーが入った袋を配る。転入してきた女生徒に憧れを隠さない4人の男子生徒は、ハンバーガーにむしゃぶりつき、教師に配られたテキストを読み始める。そこには生きる為に仲間の死肉を食べた男の記録が記されていた・・・。
 そんな感じで、学校の教室における「朗読劇」として本編が始まる。原作は読んだことがない。でもこんな設定は一行も書いてないだろう事は想像できる。って言うか確実。物語は・・・4人の男が食料もない状況で難破してしまう。そして力尽きた五助(岡野暢)が死ぬ。船長(榊原毅)は、五助を食べることを提案する。しかし、八蔵(中村岳人)は食べることができずに死んでいく。西川(橋口久男)は、食べたことを悔やみ海に身を投げる。一人だけ生き残り、救助された船長の裁判が始まる・・・というもの。

 この物語を、二人の役者が一役をやったり、歌ってみたり、表情を変え踊ってみたり、役と「現実」が交錯したり・・・と文章では書けないような演出で描かれていく。その表現方法は、滑稽で素晴らしい。物語をストレートに表現する(自然体で表現する)事だけが、演劇ではない。当たり前だけど、どう表現するも自由であるって事を思い知らされる。そして伝えるものは“言葉”だけではなく、“身体”もしかり。いや、極端に言ってしまえば、言葉なんていらない、身体表現だけで感情は伝わる。そんなものをまざまざと見せつけられた。
 とは言っても、原作も素晴らしい。「人の肉を喰らった者は、首の後ろに光の輪が見える。それは“ひかりごけ”の光に似ている。」というセリフがあるのだが、なんかとても悲しく心に響いてしまった。その光りが見えるような(実際は見えない)ライティングと役者の演技に引き込まれてしまったのもあるけど。

 この作品は2001年の富山の利賀で上演されたのを皮切りに、千葉、中国、韓国、台湾、長野と毎年のように再演を繰り返し、今回で通算9回目の公演らしい。まさに代表作。でも観るのは初めてなんだけど(汗)。観るきっかけとなったのは、某劇団の主宰に「今一番面白い芝居はここ!!」と太鼓判を押されたからなのだが、薦められたのが判った。薦めた方も薦められた方も“演出の極み”みたいなものを目指しているように感じた。って書いちゃうと誰から薦められたか判っちゃうか。

 身体表現という視点から観れば、観客がどうイメージしてもいいと思うので記すが、私は、船長と手を繋いだ大川演じる女生徒は悪魔に見えたのである。性欲や食欲など本能的な欲望を表現することによって船長を惑わしていく。そして人間にあるまじき行為をさせてしまう・・・。ただ、ラストの一瞬で見事なまでにひっくり返す。そこには“生きる”という生に対する欲望を見事に引き出した天使の姿が輝いて見えたのである。舞台をはける時にはまるで後光が射し昇天したようにも思えた。私の誤認だろうか?でも、そう感じたのだからいいや。

 そして、大川潤子という女優の感想になるのだが、マジに凄過ぎる。全てにおいて圧倒的な存在感を示しているのである。他の役者に存在感がない訳では無い。しっかりあるのである。その上を行く存在感なのである。こんな女優がいたのか、と今さらながら絶句した次第である。 

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贅「煙の先」

ギャラリー ル・デコ 1/16〜1/21
1/20(土)ソワレ観劇。座席自由(4列目上手)

作 前川知大(イキウメ)
演出 不在

 地方都市にある生花店。そこで衝動的に万引きをした奥寺(内田慈)は、店長の古橋(板垣雄亮)に見つかってしまう。奥寺が万引きした花は、遺伝子操作で作られた希少花の鉢植えだった。従業員控え室で、古橋は奥寺を問い詰める。店員の天野(瀧川英次)は、何度か店を訪れている彼女のことを覚えていた。天野は、「花好きに悪い人はいない」と情状酌量を求める。しかし、そういう考え方が大嫌いな古橋は、奥寺の部屋の中を確認した上で、警察に届けるかどうかを判断すると告げる。最近、転売目的と思われる高級花の盗難が少なからずあり、彼女の万引きが金儲けの目的でないかを確認したかったのだ。古橋は訪れた奥寺の家で、偶然部屋にやってきた金田(岩井秀人)という男に出会う。金田から聞くところによると、奥寺は無類の花好きで、大学院で植物生殖遺伝学を勉強している苦学生らしい。古橋は結局奥寺を見逃すことにするが、女性らしくない殺風景な部屋を見て、内心では疑いを深めるのであった・・・。奥寺への疑いを口にする古橋に、天野は反発する。そんな中、奥寺は天野に盗難の事実を告白する。事実を知った天野は、金田に利用されている奥寺を救おうと金田の元を訪れるのであった・・・。

 劇場に入ると舞台中央に楽屋状態のテーブルと椅子が置かれ、そこで役者は開演までの時間を台本を読んだり、客に声を掛けたりして過ごしている。プレビュー公演と同じテイストか、と思いきや前説(内田慈)の間に、楽屋はかたされ普通の芝居が始まる。いや、普通のってのは語弊があるか。前川知大による書下ろし台本は30ページくらいのもの(素直に上演したら45分程度らしい)と聞いているので、登場人物のキャラ的なものは、役者たちがかなり脚色して膨らまし作り上げたものだと想像できる。と言うか、贅のコンセプトは“俳優は、舞台上で得た自由な想像力と、感じてしまった違和感をその場でアドリブ的に表現する。”なので、表現できるかどうかは役者の力量によるわけである。言い替えれば、相当の実力を持った役者しか通用しない過酷な芝居構成になっている。まぁ、このユニットには、それだけの実力のあるメンバー(役者兼演出家ばかり)が揃っているので、問題はなかったけど。

 また“台本とアドリブの境界線が不明なほどスマート”というコンセプトでもあるので、どこまでが予定調和なネタで、どこからがアドリブなのかわからない危うい演技が、客の心をくすぐるのも確か。マジ面白い。脚本を壊さない程度にいじり、膨らませる力量はさすがと言いたい。ただ、足らない部分を“笑い”で補完してしまった感じが残るので、この調子で何作も続けるのだろうか、って「?」な気持ちにはなってしまった。表現が難しいが、作品も役者の面白さも充分に堪能できた。しかし、脚本の面白さ(笑うんじゃなくて)を堪能できたかと言うと若干そうでもなかったのである。贅沢な不満かもしれないが、まだまだ広げられる脚本をこの公演の為に中編に止めてしまったのではないか、そんな不満を感じてしまったのである。

 まぁ、そんな愚痴が出るのは、脚本が素晴らしかった所為に他ならない。ただ、繰り返すようだが、脚本の奥底に眠っている“精神的な危うさ”みないなものは、表現しきれていなかったように感じてしまった。特に奥寺の心情は、まだまだ未知の部分があり、勿体無い。植物の話にだけは興味を持ち、天野が助ける話しをした時の「面倒臭い」(と記憶しているが違ったらごめんなさい)と言葉を吐き捨てる時の心の闇には、鳥肌がたってしまった。しかし残念ながら、それを描ききれてはいない。男に軟禁されている状態は、もしかしたら女が男に寄生して養分を吸っていて(寄生植物みたいなイメージ)、男はそれに気が付いていない(主従関係が見た目とは逆なのではないか)と勝手に想像する。そしてあれがラストではなく、悲劇の始まり。次に奥寺が寄生先に狙っているのは天野ではなく、植物の知識を持つ古橋。そして、それを恋愛と勘違いした天野は、嫉妬心で狂気に走る・・・とかとかもっと人物を描く事によって広く深くできたのではないだろうか。前川氏も贅の一員であるから、今回の公演も納得の一品なのであろう。でも、できることなら、改定版としてイキウメで再演して欲しい作品である。奥寺はもちろん岩本幸子で。

 余談だが、セリフの中にある「火のないところに煙はたたない」ってのがタイトルの由縁かなっと感じた。でもタイトルは「煙の先」なのだから、やはりもっともっと深く掘り下げて「先」の恐怖を感じさせるべき作品だったのではないだろうか・・・。 


“贅”自分が観た公演ベスト
1.煙の先
【プレビュー公演】
GOD SAVE THE QUEEN

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ひょっとこ乱舞「銀髪」

吉祥寺シアター 1/24〜1/28
1/27(土)マチネ観劇。座席 F-15

作・演出 広田淳一

 時代は小泉首相が直腸癌で死亡した年から15年経った“小泉15年”。「パニック・ビジネス」というキーワードの元、“混乱”を商品として切り売りするベンチャー企業『くるぶしコンドル』は、急成長を遂げていた。噛み砕いて言うと、パニックを起こしたい人間、パニックを望む人間、さらにパニックに陥っている人を覗きたい人間・・・それら際限のない人間の欲望を仲介し、体験させるサービスが「パニック・ビジネス」である。
 ある日、『くるぶしコンドル』の元帥である船場種吉(チョウソンハ)らが乗るパニックワゴンに遭遇した維康柳吉(板倉チヒロ)は、彼等のビジネスに興味を持つ。そして、妻の蝶子(高橋恵)と娘のネピア(笠井里美)を引き連れ『くるぶしコンドル』の扉をたたく・・・。その後7年で『くるぶしコンドル』は、その存在が社会問題になるまでに急成長した。しかし、被害にあった者も少なくはない。被害者達は、菅沼鋭太(コスゲヒロシ)の元、被害者の会『対パ連』を結成した。
 初めは小さな欲望の仲介であったが、徐々に欲望はエスカレートし、総決算的なパニック『ノストラドン』という世紀末的なイベントを開催せざるを得ない状況にまで追い込まれて行く・・・。 決行の日は小泉19年2月18日0:00・・・それは大規模な乱交パーティであるが、彼等にとっては“戦争”同様であった。『対パ連』もノストラドンを阻止すべき行動を開始した。そんな状況に困惑してしまった種吉は、心の闇に支配されていく・・・。弱腰になった種吉の様子を見た維康柳吉は、種吉を無視し予定通りに『ノストラドン』を決行させようとする・・・。

 “銀髪”がトレードマークの船場種吉の半生を描いた作品である。その為に上演時間が長い(約2時間半)。こういう作品は正直言って苦手な部類で、導入部分は面白く観れるのだが、中盤あたり(今回の作品なら『くるぶしコンドル』が成功したあたり)が退屈になってしまう。案の定、前半のラスト近くは睡魔との格闘であった・・・休憩が入ったおかげで生き返ったけど・・・。いつもなら、休憩が入ってしまうのは、集中が途切れてしまうので不満を感じるところだが、今回は助かったりして(恥ずかしながら)。崩壊へと向かって行く後半は、退屈せずに楽しめた。
 そんな感じで物語的には「短くしてくれー」と若干悲鳴を上げてしまったが、その“上演時間が長過ぎ”という不満を除いては、大旨面白く観れた。ただ、それは物語が面白かったと言うよりは、主演のチョウソンハの功績が大きい。正直、目が離せなかったくらいにいいのである。本当に素晴らしい!!以前、他の作品(M&Oplaysプロデュース 岩松了3本連続公演『アイスクリームマン』)に客演しているのは観た事があるが、その作品では、評判に反してまったく良さは感じなかった。でも、今回初めてひょっとこ乱舞での姿を観て、認識を改めた。縦横無尽に飛び回るチョウソンハの身体能力の素晴らしさ、加えて響き渡る声の素晴らさに、ゾクゾクした。惚れたね。あっ、でも、そっち方面の趣味はないので誤解なきように・・・。

 そもそも、ひょっとこ乱舞は、その存在を知りながら、ずーと観ないで過ごしてきた劇団である。無料モニターにも応募したが、劇団からは梨の礫だったので、これは“縁”がないのだな…と。そんな感じで、なんとなく機会を逃していた。でも、今回は、知り合いが客演すると言うのを聞きつけ、これはいいチャンスと劇場に足を運んだ次第である。観劇の結果は上記通りに、まずまず満足であった。ダンスの評判がいいので、もっとイメージ色の強い公演を想像していたが、全然違ったのは嬉しい裏切りであった(ちゃんと物語があった)。それにしても、吉祥寺シアターの空間を、30人の役者たちが走りまわって埋め尽くす躍動感は、ダンスとは異なるが、特筆したいくらいに素晴らしかった。

 ちょっと方向がずれてしまったので、 作品の感想に戻るが、全体を通して「生=性=誕生」とか「死=戦争」とか様々なメッセージが織り込まれていた。しかし、見方によっては船場種吉を新興宗教の教祖として描いているとも言えるのではないか。そう見てしまうと、新興宗教が世界を動かす危険性を今さら提示されてもって気にもなってしまうが、作品自体は2004年5月に上演された作品の再演なのでしょうがないかもしれない。

 で、いろいろな要素を織り込みつつも主題は“殺し”に対するトラウマから生まれた“命”かなっと思う。船場種吉は、子供を堕ろす=殺人と心にトラウマを持っている。それが全ての原動力(破壊も含め)になっていたと思う。それは反メッセージとして届いてきた。ただ、若い。なんと言うか、自分の想像でしかないが、子供を育てる辛さとか楽しさとかの経験がない(少ない)のではないか、と感じた。作・演の人となりをまったく知らない(年齢も知らない)ので勝手に書かせてもらうが、子供を殺してしまった辛さは伝わってきたが、“子供を育てる”事への感情が描かれていない。(以下ネタバレあり)維康柳吉の子であるネピアが、実は種吉の子供であったという示唆がある。それが真実なら、子供の役割が重要性を持ってくると思うのだが、作品はあくまで種吉中心の物語になっていて、独りよがりの“苦悩”に終わっている。種吉の孤独感は絵になるが、対極の主人公として子供(及び家族)の存在があるわけで、それをもう少し細かく描いていれば、さらに“苦悩”する種吉の姿がはっきりしてきたのではないか。そうすることによって、ラストの親子が交錯するシーンで“子供が滅亡を阻止するかもしれない”という前向きなメッセージ(それが意図かどうかは知らないが…)を受け取れたかもしれない。しかし、自分には“そんな展開もありかな”程度にしか届いてこなかった。前述とダブってしまうが、子供をもう少し対極な立場(極端に言ってしまえば悪魔と天使みたいな)で描いていたなら違った気持ちになれたかもしれない。なんか中途半端な感動に終わってしまったのが残念でならない。 

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ピンズ・ログ「原形質・印象」

下北沢OFF・OFFシアター 1/24〜1/28
1/27(土)ソワレ観劇。座席自由(4列目下手)

作・演出 平林亜季子

 波の音が聞こえる海岸沿いの森。そこには“猫(森川佳紀)”が住み着いていた。イルカになりたい“ウミネコ(佐藤陽子)”は、長老が反対していると、悩みを猫に語っていた。そこに、“ナメクジ”のチャコラ(熊埜御堂彩)がやってくる。彼女は不妊症かも知れないと悩んでいた。そして、海岸に漂着した(死んでいる)“人間”の金子(桜井稔)も加わって会話が続いていく・・・。チャコラは、彼等の行動や言動を見聞きし、自分の道を見つけていく・・・そんな物語。

 簡単に言ってしまえば、生と死と誕生の物語である。その物語に、両性具有であるが不妊症の“ナメクジ”を語り部として配置しているあたりは、うまいと思ったし、面白い。ただ、その日マチネで観た芝居(ひょっとこ乱舞『銀髪』)が、趣きはまるっきり違うものの、同じようなテーマ(生と死と誕生)を扱っていたのは痛手であった。「あっ、まただ」みたいな気持ちになってしまい、大きなマイナスに作用してしまった。非常に残念。と言うか、ごめんなさい、って気持ち・・・。先にこの作品を観ていれば違ったかもしれないのが、これも運命だと思って諦めるしかない。と言うか後の祭りだけどね。
 それとは別に、今回は違った意味でも、ちょっと期待はずれであった。知人から「ドロドロだけど嫌な感じが残らない」と勧められての観劇だったので、正直それを期待していた。でも、まるで違っていた。1995年の作品の改定版だが、「ドロドロ」だったのは、最近の2作品らしい。どんな心境の変化か知る芳も無いが、そんなドロドロな作品を期待していた私には「アレレレレ」な気持ちが溢れんばかりであった。ラストも綺麗に終わってしまったし。笑える悲劇が好きな私としては、綺麗すぎる結末も物足りなく感じてしまったのが、正直なところ。

 期待した感情で勝手に“こんな結末が観たかった〜”を記すと、カモメはイルカになりたくて海で溺れ、人間は子供の誕生を受け入れると共に、自分の“死”を受け入れたが、「生理が来た」と無情のメールが来る(ハートマークとか付きで…)とか、希望より現実の厳しさをまざまざと見せつけて欲しかった。そして、目の前で起った残酷な死を見つめ、自分の思い通りにはならない業と言うか宿命というか、そんな現実をどう考え、ナメクジは新しい命の“誕生”を受け入れるのかを見せて欲しかった。流れのままに身を任せるという感じで終わるのもファンタジーっぽくていいが、やはり、納得して決断して(痛みを感じて)自分の道を進んで欲しかったと思う。

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